そして、ディリーはココで初めてエニグマ暗号を解読した。 ココでの解読作業が、後の「Double Cross」作戦で大いに活躍し、それがノルマンディ上陸作戦につながり、ヨーロッパ戦線の早期終結に結び付いた。 「Double Cross」作戦というのは、「Double Cross System」とも呼ばれる、ニセの情報を流して相手をダマす作戦。 ココでエニグマの解読に成功していたことはブレッチリ―・パーク内でも極秘にされていた。 それだけ秘密の保持に厳しかったので、時の首相サー・ウィンストン・チャーチルはブレッチリ―・パークの職員を「The geese that laid the golden eggs and never cackled(金の卵を産む決して泣かないガチョウたち)」と呼んだそう。 『イミテーション・ゲーム』にもチューリングが軍の上層部に直談判してチャーチルから研究予算を引き出すことに成功するシーンがあるが、実際にチャーチルは暗号解読の重要性をよく理解し、ブレッチリ―・パークの仕事にとても協力的だった。 Stableyardの近くのガレージに展示してある当時のMI6の社用車。 こうした車はブレッチリ―からほど近い、ニューポート・パグネルにある「ティックフォード(Tickford)」という有名な車体屋(Coachbuilder=コーチビルダー)に送られ、元の塗装を剥がし、戦時下特有のカムフラージュ塗装を施した。
「ストックポート市庁舎 1908年7月7日開業。新レン様式を取り入れたアルフレッド・ブラムウェル・トーマスの設計。TRH プリンス&プリンセス・オブ・ウェールズによって除幕された」 この「TRH」には苦労した。 「RH」は王室メンバーに対する敬称の「Royal Highness」の頭文字であることはすぐに思いつくが「T」がわからなかった。 「HRH」だったら「Her Royal Highness」とか「His Royal Highness」なんだけど。 インターネットで調べてもよくわからない。 そこでハッとして目を付けたのが「Prince and Princess」という複数のウェールズ公。 ひとりずつ省略せずに記せば「His Royal Highness」と「Her Royal Highness」になるハズ。 そうか…複数形になってるんだ!ということに気が付き、「TRH」は「Their Royal Highness」の頭文字ということで納得した。 イギリスに確認したところ…大正解!
ココからストロベリー・スタジオと10ccの物語…。 ストロベリー・スタジオは最初からこの場所にあったワケではなく、1967年にストックポートの街の中心にあった「ニールド&ハーディ」というレコード店の上の「インナー・シティ・スタジオ」が母体となっている。 Billy J. Kramer with the Dakotas(ビリー・J・クレイマーとザ・ダコタズ)のマネージャーを務めたりしていたPeter Tattersall(ピーター・タッターソール)がそのスタジオと機材(2台のテープマシーンと数本のマイク)を買い入れることを決心。 約500ポンドを支払い、その後の数か月間、朝7時から午後2時まで地元のパン屋で働き、スタジオ建設のための資金を貯めた。
ちなみに…このビリー・J・クレイマーという人はリヴァプール出身の歌手で、その芸名はジョン・レノンからが与えられた。 「Do You Want to Know the Secret?」、「I Call You Name」、「Bad to me」等のビートルズ・ナンバー、あるいはレノン=マッカートニー・ナンバー他を歌って人気歌手となった。(もちろんアビィ・ロード・スタジオ録音) イギリスから遠いところに住んでいる我々は、ビートルズというとやれ『Help!』だ、やれ『Let it Be』だと、ビートルズ本体のことしか頭にないし、それが当たり前のことだとは思うんだけど、その当時の周囲の状況を知れば知るほど、イギリスにおけるビートルズの影響というモノが巨大であったことに感心する。 「ダコタズ」だなんてね~。 ジョンが入り口で射殺されたセントラル・パーク・ウエストの自宅マンションの名前は「ダコタ・アパート」という。
1972~1976年に10ccが大成功を収め、ストロベリー・スタジオはメジャーなスタジオとなった。 彼らの4枚のアルバムと8枚のトップ10ヒットシングル(うち2枚はナンバー1)がストックポートで録音されたとあればスタジオの知名度も上がるにキマってる。 スタジオは経済的に余裕ができ、機材も充実して行った。 また、ストロベリー・スタジオは「10ccの本拠地」であるだけでなく、同時に相変わらず外部からのアーティストも受け入れ続けた。 例えば…Bay City Rollersの1975年の「Give a Little Love」というヒット・シングルはストロベリーで録ったそうだ。 アルバムはどうなんだろう…。
…と思って調べてみたら驚いた! 私の世代なら間違いなくおなじみであろうコレらのBay City Rollersのアルバム…
それからポール・マッカートニーは弟のMile McGearのアルバム制作でストロベリー・スタジオを使った。 Mike McGear(マイク・マックギア)の1974年のその名も『Mcgear』というアルバム。 この方、本名をPeter Michael McCartneyとおっしゃる。 コレ、ジャケットがいいな。 今回初めて聴いたけど…ナカナカいいね。 Roxy Musicの「Sea Breezes」なんかを取り上げている。 バックはWingsなのね。
1975年になるとストロベリー・スタジオは隆盛を極め、1976年の『How Dare You!』のレコーディングの時には10cc自身がスタジオを押さえることが出来なくなってしまった。 そこで予てからのアイデアであった、サーリーのドーキングという所に2番目のスタジオ「Strawbweey South」をオープンすることにした。 大当たりですな。 ところが好事魔多し。 「South」での初めての録音の時にはロルとケヴィンはいなくなっていた。 理由は<前編>で触れた通り、自分たちの実験的なプロジェクト『Consequences』に取り組んでいた2人は、エリックとグレアムが次のアルバムのために用意していた「The Things We Do For Love」を耳にして、その旧態依然としたスタイルをがバカバカしく感じてしまったのだそうだ。 ところがこの曲がアメリカ大ヒット。
しかし、ストロベリー・スタジオの快進撃はまだ続く。 オリジナルのスタジオのビルの向かいに「Strawberry 2」を開業。 古めの機材を持ち込む代わりに料金を安く設定して営業を始めた。 本体にはBerkley James Harvestやロル&ケヴィンなどの常連も通い続け、70年代後半にはマーティン・ハネットがストロベリーと手を組み、Joy Division, Durutti Column, Pauline Murray, The Names, Minny Pops, Stockholm Monsters等の音源を制作し、この関係はマーティンが死ぬ1991年まで続いた。 他にもThe Buzzcocks, New Order, Crispy Ambulance, Blitz, The Wake, James, The Smiths, Simply Red and Saint Winifred’s School Choirなどもストロベリー・スタジオの常連となった。 ゴメンなさい…この辺りになるとサッパリわからないし興味もないのでコメントなし。 でもこのデザインは知ってる。 よく見かけるよね。
私がエントランスの写真を撮り終わったのを見計らって、そのオジさんが「じゃ、中を見せてあげるからついて来るといい」と更に中へと誘ってくれる。 こっちはもうそこがスタジオではないことはわかっているし、建物の中に入れたことだけで大満足だったので遠慮していると、「イヤ、大丈夫、大丈夫、おいでおいで!」と熱心に勧めてくれるので「じゃ」とお言葉に甘えることにした。 ドアを開けたところが下の写真。 事務所のフロアが少し低くなっていて、そこにいた人たちから私が丸見え。 そのオジさんが私のことを指しながら、事務所の人たち全員に向かって「この人、日本から来たそうだよ!」と大声で言うと、全員が私を見て「ハ~イ!」と言うワケ。 ダマっているのもナンなので「Sorry to interrupt you! Hello, I'm from Tokyo and a big fanatic of 10cc. That's why I'm here. I 'm really excited! Finally my dream came true!」とサッと挨拶した。 また「イエ~イ!」と皆さん拍手をしてくれてすぐに仕事に戻られた。 エライ恥ずかしかったわ! 今は、地元の出版社の事務所になっている。 そのオジさんが「かつてはココにスタジオになっていたんだよ」と教えてくれた。 かなり胸がイッパイになった。
イヤ~、マンゾク、マンゾク。 ヒザの痛みなんかスッカリ忘れちゃった! 記念に自撮り。
中学生の頃から大好きだった10ccのホームに行って、東京に帰って来て興奮冷めやらぬうちにストロベリー・スタジオのことを調べていたらこんなCDボックスセットを発見した。 『Before, During, After 10cc 』というコンピレーション・セット。
「10ccの前と最中とその後」のストロベリー・スタジオの仕事の記録。 1枚目が10ccのベスト・アルバムになっているんだけど、選曲は超ベタという感じ。 他にストロベリー・スタジオ第1号音源である例のHotlegsの「Neanderthal Man」だのニール・セダカの「Solitare」だの、ポールの「Pretty Little Head」が収録されている。 気になったのはPeter Cowapという人。 やたらとこの人の演奏曲が収録されている。 このボックス・セットで初めて名前を知ったんだけど、マンチェスター出身の歌手でグレアムと活動を共にしていたらしい。
大ざっぱに言って人の音楽の聴き方には2つのタイプがあるのではなかろうか。 ひとつは好きなアーティストをトコトン掘り下げて徹底的に聴き続けるタイプ。 もうひとつは、何でもいいからとにかく色んな音楽を聴き漁っちゃうタイプ。 私は完全に後者なんだけど、好きでズ~ット聴いている中心的なアーティストがいないワケではない。 それはフランク・ザッパ。 長いブランクはあったにせよ、中学3年の時にジャケットがオモシロいという理由で『Fillmore East - June 1971』を買ってからだから…カレコレ43年ほどのキャリアになる。 2番目に好きなのは誰だ? コレがキメにくい。 好きなアーティストが「いつでも帰りたくなるホーム的な存在」と定義してビートルズを除けば、10ccということになりそうな気がする。 でも、それもファースト・アルバムから6枚目のライブ・アルバムまでなんだけどね。
今回の「名所めぐり」はその10ccにまつわるレポート。 日本に今、果たしてどれぐらいの10ccファンがいらっしゃるのかわからないが、どうせ自粛期間だし、コレをいい機会に公私混同的に色々と10ccについて調べて、いつも通りウンチクを固めて記事を書いてみることにした。 そしたら止まらなくなっちゃって…2本立ての長編になってしまった! お好きな方には少しはお楽しみ頂けましょうし、10ccをご存知ない方は旅行気分で目を通して頂き、イギリスが生んだ最高のポップ・ミュージック・チームにご興味を持っていただければ幸いである。 特に若い人になんかが10ccを聴いてくれたらうれしいナァ。 結果、老いも若きも誰も読まないような気もするけど、書いて書いて私の気が済んだからよしとするわい。 一応、おさらい的に少なくとも4人のMancunian(マンキュニアン=マンチェスター出身者)たちの紹介をしておけば…。 Eric Stewart (エリック・スチュアート:vo、g、key) Lol Creme (ロル・クレーム:vo、g、key) Graham Gouldman (グレアム・グールドマン:vo、b、g) Kevin Godley (ケヴィン・ゴドレー:vo、ds) …という4人のシンガー/マルチプレイヤー/ソングライターのチームが10ccね。
さて、私が10ccの名前を知ったのは、中学校2年の時に秋葉原の石丸電気のレコード館で「10cc」と書かれたレコード展示台(通称「エサ箱」)にはさまっていたプラスチックの仕切り板によってだった。 「10cc?変な名前だな~」 と、石丸電気に行くたびに気になっていた。 中学3年の時に、猛烈にロック好きのお兄さんがいるクラスメイトの増田くんにカセット・テープを渡して、そのお兄さんにカッコいいロックのレコードを録音してもらうようにお願いした。 増田くんのお兄さんは、録音してくれただけでカセット・テープの中に入っている音楽の情報をシェアしてくれなかった。 それでもゼンゼンありがたかった…当時はチャンとお金を出さないと音楽を聴くことができない時代だったからね。 その中にライブ盤が1枚混ざっていて、聴いてみると、オープニングのMCで「10cc!」と言ってるではないか! ほほう、コレが10ccか…どんなもんかいな…と大した期待もしないで聴き始めたところ、1曲目の「The Second Sitting for the Last Supper」で腰を抜かした。 「オイ、チョット待てよ!10ccってこんなカッコよかったのかよ!」 アルバムはリリースされたばかりの『Live and Let Live』。 マァ、ビックリしたわな。 あの衝撃はザッパの「Inca Roads」を聴いた時に匹敵してたな。 それでいっぺんに気に入ってしまって、石丸電気レコード館に通い、それまでリリースされていた10ccのレコードをすぐに買い揃えた。
コレが増田くんのお兄さんが録ってくれた、1977年にリリースされた10cc初のライブ・アルバム『Live and Let Live』。 ジャケットはツマらないけど、よく聴いたナァ。 録音はハマースミス・オデオンとマンチェスター・アポロ。
タイトルの「Live and Let live」はもちろん「ライブ(生)」に引っ掛けているワケだけど、意味としては文字通り「あなたはあなたで生きればいいし、人は人で放っておいてやれ」ということから「他人を大きな包容力で受け入れる」という意味のことわざになるらしい。 ま、簡単に言えば「人は人」ということですな。 『007』の第8作目、1973年の『死ぬのは奴らだ』の原題は『Live and Let Die』。 こちらは「こっちは生きて、向こうは死なせてやれ」という意味。 ポール・マッカートニーの主題歌を使ったタイトル・バックは最高にカッコいい。 曲の中でポールは「♪You used to say 'live and let live'」と歌ってるでしょ? アルバムのタイトルは、ビートルズ・ファンでポールとの親交が深いエリックのアイデアだったのかも知れない。 ちなみに『死ぬのは奴らだ』と『黄金銃を持つ男』でジェイムズ・ボンドを演じたロジャー・ムーアって、我々日本人では想像できないぐらいイギリスでは人気が高かった大スターだった。
このレコード、裏ジャケが日本語まじりの歌詞カードになっていてね~。 中学生の時、その装丁がすごくイヤだった。 ライナー・ノーツは故今野雄二さんがご寄稿されている。 スゴイよ…「1970年代のロックの主流を支配するのはRoxy MusicとSparks、そして10ccである」と豪語していらっしゃる。 氏にとっては、どんな時でもRoxy Musicなのは理解できるが、Sparksも推していたのは忘れていた。 実際『Kimono my House』から『Big Beat』あたりまでは私も大好きで今でも時々聴いている。 そして、10cc。 その今野さん曰く「ビーチ・ボーイズとビートルズの精神に70年代の魂を吹き込んだ極上のロックバンド」と10ccのことを表現している。 そして、メンバーのひとりであるロル・クレームは「10ccはポップソングにナニができるかを試す『 研究室』のようだった」と言っている。 このアルバムから「Donna」がヒット。 ビートルズの「Oh! Darling」のパロディと言われているけど、私にはそうは聞こえないんだよナァ。 かつてMarshallに勤めていたスティーヴと10ccについて話した時、「10ccはスタジオ・ミュージシャンの集まりだったんだよ」と言って「Donna」を歌っていた。 「Donna」に続いて「Johnny Don't Do It」もヒット。 「♪Johnny was an angel, an angel dressed in black」なんて歌詞は完全にシェリー・フェブレの「Johnny Angel」からじゃんね。 更にゴキゲンな「Ruber Bullets」もすごく流行ったらしい。実際にスティーヴも歌っていた。 ホント、このアルバムは「The Dean and I」をはじめとしていい曲揃いなのだ。 そして、バンド名の下には「Produced at Strawberry Studio, Manchester」とクレジットされている。
フィルム編集機の画面に写っているカウボーイは『サイコ』のノーマン・ベイツ役でおなじみのアンソニー・パーキンス。 映画は1957年の『胸に輝く星(The Tin Star)』。 観たことはありません。 監督がアンソニー・マンなのできっと悪いワケはないでしょう。 マンは私の大好きな『グレン・ミラー物語』を撮った人だから。 そう! 「マン」といえばイギリスの「マン島(Isle of Man)」ね。 ザッパに「Manx Needs Women」という曲もあるけど、驚いたことに厳密に言うとマン島というのはイギリスでもなかれば、イギリス連邦にも属していないんだってね~。
このアルバムは「I'm not in Love」が収録されていることで知られているが、私は違うんだな。 まず10ccを好きになったキッカケとなった「The Second Sitting for the Last Supper」がB面の1曲目に鎮座ましましている。 そして、1曲目の「Une Nuit a Paris(パリの一夜)」、ヒット曲「Life is a Minestrone(人生は野菜スープ)」、「Brand New Day」等々、どれもじ~つ~に~素晴らしい。 私が初めてロンドンに行った時、タワー・ブリッジにほど近い、インド人だらけのAldgate Eastのホテルの部屋に入って一番最初にしたことは、テレビのスイッチを入れることだった。 ホテルの入り口で乞食に言い寄られたりして心細かったからね。 すると、テレビからいきなり飛び出してきたのが「Life is a Minestrone」だった。 それまでの不安な気持ちが一気に吹っ飛んだ。
それにしたって10cc一番のヒット曲「I'm not in Love」についてもう少し触れておかねばなるまい。 レコード会社を移籍した最初のアルバムを成功させようと今までにない試みに挑んだ曲のひとつ。 メンバーはラブソングを作ろうと話し合い、エリックが100%詞を書いた。 最初はボサノヴァ調にしてみたが、曲が死んでいるようでまったくオモシロくなく、メンバー全員とても作業を続ける気にならなかった。 そこへ、ケヴィンが「楽器を使わないで津波のような分厚い声を入れたらどうだろう」というアイデアを提案した。 そのアイデアを基に「バッキングを考えられるだけ大きな合唱隊のようにしてみよう」ということになった。 当然、合唱隊などを雇う経済的な余裕はないので、テープループを使って取り組むことになった。 今となっては有名な話だけど、コレがやっぱりオモシロい。 まず、ケヴィンとロルとグレアムがスタジオに入って息が続かなくなるまでユニゾンで「アー」とやる。 当時のレコーディング機器は16チェンネルだったので、16のすべてのチェンネルのこの「アー」を録音する。 それをトラックダウンすれば3人のコーラス×16チャンネル分で48人が「アー」とコーラスしている音源ができる。 いいですか~、今、よくわかっていないヤツが説明していますからね~。お手柔らかにお願いしますよ~。 今度は同じく13の音程それぞれで「アー」と歌う。 ド、ド#、レ、レ#……とクロマチックにやっていって上のドまで録音する。 ココで48人のコーラスで13通りの音程を録るので、624人分の声を集めたことになる。 で、それぞれの音程の音源のテープを約7分のループにして、16のウチの13チャンネルにその音をそれぞれ割り当てる。 こうしておけば、ミキサーのフェーダーを上げ下げすることで和音を作ることができるようになるというワケ。 原理としてはメロトロンに近いということになるのかな? そして、残りの3つのチャンネルのうちのひとつにガイドリズムと仮歌を入れておいて、それを聞きながら「せーの」であらかじめフェーダーの目盛りにつけておいた印に合わせて4人がフェーダーを上げ下げしてバッキングの和声を作ったという。 そして、そのコーラスを残った2つのチャンネルにステレオで録音したら、今度は13のチャンネルのコーラスをすべて消去して、残り楽器を録音したのだそうです。 あのバスドラムの音はムーグなんだって。 「♪アッア~、ア、ア~ア」って左右に振るところなんかは、パンポットを回すのにハラホロヒレハラだったらしい。 この作業だけで3週間も費やしたのだそうだ。 大変だったろうけどオモシロかったろうナァ~。 アナログ録音ならではのストーリー。 結果、クリックひとつで何でもできるデジタルのモノより何倍もいいものができた。 やっぱり養殖モノより天然モノですな。 ま、そもそも曲がいいからね。 そしていよいよ完成か?次はどうする?…というところで、スタジオのレセプションのキャシー・レッドファーン(Cathy Redfern)嬢が、スタジオ内にいたエリックに電話がかかって来たことを知らせに来た。 「エリック、あなたに電話ヨ!」と言われてピンと来た。 「コレだ!」 そうして曲の中間部にあの女性のささやきがダビングさされた。 「Be quiet, be quiet. Big boys don't cry」っていうヤツね。 最初、キャシーは恥ずかしがって固辞したが、「チョコっと囁くだけだからお願い!」とロルやケヴィンにせがまれてイヤイヤやったという。 あの囁きがなかったらまた曲は締まらないモノになっていたよね。 すごくいいアクセントだと私は思う。
エエイ!やっぱり脱線だ! この10ccの手法を丸々マネッコしたのがビリー・ジョエル(イギリス人は「Joel」を「ジョール」と発音します。「エ」は聞こえてきません)の「Just the Way You Are」。 「I'm not in Love」の方がゼンゼン豪華。 イヤ、この曲はコーラスよりもアルト・サックスのソロでしょう。 吹き手はアルトの巨人、フィル・ウッズ。 何せフィルは長年のジャズ界での活動よりも、このソロ一発で世間にその名前が知られてしまったという気の毒なんだかラッキーなんだかわからない人。 私はフィルのプレイを「アルト・サックス界のリッチー・ブラックモア」だと勝手に思っているんだけど、晩年のフィルをニューヨークのブルーノートで観る機会があった。 ナント、パット・マルティーノとのダブルヘッドライナーだった。 でももうかなりのご年齢で、残念ながら往年の閃光ような鋭いフレーズを吹くことがほとんどなかった。
話を10ccに戻して… もうひとつ…アルバムの最後に入っている「The Film of my Love」。 コレはカンツォーネだね。 「The Magnificent Seven(荒野の七人)」、「Orient Express(オリエント急行)」、「Pathe(パテ:フランスの映画会社)」なんて名前が出て来る。 コレもゴドレー&クレームの曲をグラハムが歌っている。 バンド内オーディションで優勝したのだろう。 まぁロマンティックないい曲でしてね。 数年前、ある若い女性から結婚式の雰囲気にマッチするステキな曲を教えて欲しい、という相談を受けた。 その中に入れた1曲がこの「The Film of my Love」だったんだけど、彼女は本当にそれを自分の結婚式で使ってくれて、バッチリだったとすごく喜んでくれた…すぐに別居しちゃったみたいだけど。 しかし、こうして見ると、好きなのは圧倒的にゴドレー&クレーム組の曲だナァ。 『荒野の七人』も子供の頃は夢中になって観たけど『七人の侍』を観てしまってからはバカバカしくてとても観れなくなってしまった。 だから小学校の時からこの映画は観ていない。
このアルバムの内ジャケットには「Produced and Recorded by 10c.c. at Strawbweey Recording Studios…」とある。
ある時、スチュアート&グールドマンがゴドレー&クレームにこのアルバムのリード・チューン「The Things We Do for Love」を聴かせると、「そんな曲は絶対に演りたくない!」と言ってゴドレー&クレームはバンドを辞めちゃったんだね。 2人はギズモに夢中になっていて、そのギズモをフィーチュアした実験的なアルバム『Consequences』のA面を制作していた時期だったものだから、ありきたりのポップ・ソングを演るのがバカバカしく感じてしまったのだ。 ま、『Consequences』にも甘々のポップ・ソングがいくつも入っているけどね。 でもロル・クレームは、「あと半年ズレていれば…」とバンドを辞めたことを後悔してるようだった。 というのも、シングル「The Things We Do for Love」がアメリカで大ヒットしてしまったから。 一方、『Consequences』は散々だったろう。 コレは豪華なブックレットがついたLP3枚組の高価なボックスセットだった。 中学3年の時にリリースされて、すぐになけなしのお小遣いでコレを買った私はクラスメイトから「アタマがおかしい」といわれたよ。よく覚えている…加藤な。 ああ、アタマがおかしくてヨカッタよ。おかげで今も音楽変態道を歩み続けてるわ。 ちなみに今となっては、私はコレをLPとCD2種類の3セット持ってるわい。
ロルとケヴィンの2人が脱退した時、「10ccが5ccに!」なんて世間が騒いでいたのを覚えている。 コレは「10cc」というバンド名の由来が「成人男性4人の1回分の射精量の合計」とされていたところがあったのだろう。 アノね…よくそういう話を聞いたし、本国イギリスでもそういうことになっている部分があるみたいなんだけど、本人たちが違うって言ってるから。 上に出て来たシンガーソングライターにして「UK Records」オーナーのジョナサン・キングに「Donna」を聴かせると、「コレはイケる!」と判断して自分のレーベルで囲い込んだ。 その時はまだバンド名はなく、キングが「昨晩、『10cc』 the greatest group in the world」といのが夢に出て来た!」と言って、それがそのまま10ccがグループ名となった。 どんな夢だよ。 ちなみにGenesisの名付け親もキング。 それと、『Rocky Horror Show』のオリジナル・ロンドン・キャスト盤もキングがプロデュースした。
この『Deceptive Bends』には「Recorded at Strawberry Recording Studios (South)」と出ている。 「(South)」というクレジットが追加された。
ココで取り出したるは『Mary Poppins Returns』。 この中にディズニーではおなじみのアニメと実写のシーンがあって、それが陶器(porcelain)の国という設定なのね。 そこでメアリーが子供たちを馬車に乗せると、馭者が「Where would you like to go on this fine day?(こんな天気のいい日はどちらへいらっしゃいますか?)」と訊く。 するとメリー・ポピンズが「The Royal Daulton Musc Hall please(ロイヤル・ドルトン・ミュージック・ホールにお願いね)」と答える。 そんなホールが実在したのかどうかはわからないが、イギリス人ならピンと来るんだろうね。 そして、メリーを演じたエミリー・ブラントが「The Royal Daulton music Hall」という曲を歌う。 コレが実にいいんだ~。 いつかこの映画を飛行機の中で観て、あまりいい感想をココに書かなかった。 最初の『メリーポピンズ』に使われていた曲があまりにもヨカッタからね。 でもこの『Returns』にも3曲だけメッチャいい曲があって、その中のひとつがこの曲なのです。 マンチェスターへと向かう電車はグングンと進む。 しかし、キレイだナァ~。
コレがオジさんが教えてくれたブックレットなんだけど、かなり上質のマット紙で製本してあって、表紙にはエンボス加工が施してある。 十分にお金を取れるクォリティだ。 左はその「Marvellous Days Days Out」のしおり。 もうひとつはチェスターからマンチェスターをつなぐミッド・チェシャ―線とリーズからマンチェスターをつなぐカルダ―・ヴァレー線にまつわる女性を紹介した「Discover Amazing Women by Rail」という小冊子。 作家、女優、スポーツ選手、女性活動家、女性参政権者、政治家までの分野を網羅しているが、勉強不足ゆえ私が知っていたのは『ジェーン・エア(Jane Eyne)』と『嵐が丘(Wuthering Heights)』を著したシャーロットとエミリーのブロンテ姉妹だけだった。 「キャシーにヒースクリフ」だけじゃなくて、私、両方とも読んでるんですわ。意外でしょ?
「LAMDA」というのは「London Academy of Music & Dramatic Art」の頭文字。 LAMDAは1861年に創立されたイギリスで一番古い演劇学校だそう。 そのLAMDAが運営する劇場が2011年までココにあった「Michael MacOwan Theatre(マイケル・マコウワン劇場)」。 「Theater」じゃないよ「Teatre」だよ。ココはイギリスだから。 Michael MacOwanは1958~1966年までLAMDAの校長を務めた俳優。 写真ではわかりにくいけど、「こんなところに劇場があったの?」って感じ。 でも、さっき曲がって来た表のアールズ・コート・ロードは、かつては日本でいうところの「赤線地帯」だったらしい。
そして、The Tubesだもんね~。 更にピーター・ガブリエル。 Chrismaから最初のソロ・アルバムをリリースした翌年だったんだね。 この時のセットリストを見ると、「Moribund The Burgermeister」、「Here Comes The Flood」、「Waiting for the Big One」、「Solsbury Hill」等々そのファースト・アルバムの曲をバンバン演ったようだ。 私、あのアルバムが大好きだった。 2枚目が出てすぐに買って聴いたけど、まったくオモシロくなくて…以降ピーター・ガブリエルは一切聴いていない。 だから世間で「ゲイブリエル」と呼ばれていることもズット後になって知った。 私は「ガブリエル」でいい。 ファースト・アルバムの思い出を大切にしまっておきたいのだ。 それと、この時、ガブリエルはProcol Harumの「Whiter Shade Of Pale」やGenesisの「The Lamb Lies Down on Broadway」を演ってる。 やっぱり観たかったな~。
フランス語って難しいよナァ。 全く素養のないアタシなんぞ下の「Champs・Eleysees」が読めませんでしたよ。 「チャンプス・エリシーズ」ってなんだ?みたいな。 コレ、「シャンゼリゼ」と読む。 読まないなら最後の「s」を付けるな! 「Theatre Des Champs・Elysees」だから「シャンゼリゼ劇場」ですな。 下を見ると「BALLETS RUSSES」とある。<前編>に登場したセルゲイ・ディアギレフの「バレエ・リュス」だ。 コレは1913年の告知ポスターで、ストラヴィンスキーの『春の祭典』が初演され、上へ下への大騒ぎとなった年。 『春の祭典』はシャンゼリゼ劇場の杮落し公演だった。 ポスターのデザインはジャン・コクトー。 モデルはニジンスキー。 出し物はミハイル・フォーキンという有名なバレエ・ダンサーの振り付けによる『薔薇の精(Le Spectre de la Rose)』という作品。 フォーキンは他に『シェヘラザード』、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』等のバレエ・リュス作品の振り付けを出がけた。 「薔薇の精」の音楽は、ウェーバーの元曲をヘクトール・ベルリオーズが管弦曲にアレンジした。 ニジンスキーが「薔薇の精」を演じ、バレエ・リュスの人気演目となったそうだ。
まずはロバート・ジンマーマン。 ボブ・ディランね。 オーストリアのマーチン・シャープというポップ・アーティストが、1968年に『Oz』というアングラ誌のために制作したイメージ・ポスター。 同心円がディランの顔の周りをビッシリ囲っている。 コレは万華鏡のイメージで、当時のサイケデリック・アーチストが好んで使ったモチーフだった。 かけているサングラスの右レンズに入ってる文言は「Blowing in the Wind」。 幻覚剤で向こうの世界へ行っちゃってるイメージを視覚化しているのだそうです。
有名な『Isle of Wight Festival(ワイト島のフェスティバル)』のポスター。 なんかミュシャっぽくてよろしいな。 ちなみに外人に「ミュシャ」と言っても通じない。「ムーカ」だ。 「ゴッホ」は「ゴッ」ね。 ワイト島はMarshallを海外に輸出する時に使う港、サウザンプトンの南にある島。 ビートルズの「When I'm Sixty Four」で「そんなにお金がかからなかったら、毎年夏にワイト島にコテージを借りよう」って歌うヤツね。 「isle」と「island」の違いは、一般的に「island」は「島」を表すのに対し、「isle」は小さい島を指す。 で、このフェスは1968年が第1回目の開催。元々は『Great South Coast Bank Holiday Pop Festival』と呼ばれていた。 「Bank Holiday」というのは1871年に導入されたイギリス独特の国民の休日で、読んで字のごとく、銀行が営業を休んじゃう。 国民が働きすぎるので、銀行を休みにしちゃえば国民すべてが休まざるを得ない…ということで導入された国民の休日。 今年のバンク・ホリディは5月6日の「Early May Bank Holiday」、5月27日の「Spring Bank Holiday」、そして8月26日の「Summer Bank Holiday」。 全部月曜日なんだけど、あまりにも日本に関係ないせいか、いつがバンク・ホリディなのかがサッパリ覚えられん。 すると、Marshallにメールを打って返事が来ないとすぐに「なんだ、またバンク・ホリディか?」なんて勘ぐってしまうのだが、実は年に3日しかないの。 しかし『メリー・ポピンズ』じゃないけど、やっぱり銀行のステイタスが日本とはゼンゼン違うことを思い知るね。 だから、このワイト島のフェスも「バンクホリディを有効に使いましょう!」的な動きがあったのかも知れない。 あと「ボクシング・ディ」とかね。 で、このフェス、1968年から始まって3年ほど開催して終わっちゃった。 どんな人たちが出ていたのかは、羨ましすぎて悲しくなるので書かない。 そして、2002年に復活。 見た目はレトロ調だが、このポスターは2011年のモノ。 マルコ・ピローニ(Marco Pirroni)を従えた新しいバンド・メンバーで催行した1980年のAdam Antのコンサート告知ポスター。 「High Wycombe(ハイ・ウィカム)」というのはロンドンの北西、オックスフォードとのちょうど中間ぐらいにある郊外の都市。 「Town Hall(タウンホール)」というのは市庁舎。 イギリスの郊外にある町の市庁舎なんてところは間違いなく歴史があってステキな建物なんだけど、調べてみるとやっぱりここもスゴイ建物だった。 アダム・アントが出て来た頃って、私は大学生で、プロ・ミュージシャンになりたくて夢中になってバンドをやってた時分だった。 なんか「ジャングル・ビート」みたいな触れ込みで注目されていたように記憶しているが、私はどこがオモシロいのサッパリわからなかった。 今になって考えてみると、実はそうではなくて、彼らの音楽がわからないかったのではなくて、パンク/ニューウエイブに席巻されまくっていた当時のロックに与することができない「自分」がわかっていなかったのだと思う。 この辺りから急激にロックに対する情熱が失せ、そしてロックから離れて行った…自分にそんな変化をもたらしたミュージシャン、ということでアダム・アントって思い出深いんだよね。 みんな「なつかしの80年代」ってやってるけど、私は「80年代のロック」と今のロックは何も変わっていないと思っている。 しかしですね~、後でまた出て来るけど、このアダム・アントってのはイギリスではケタ違いに人気があったんですな~。
リチャード・バートンもヘンリー八世を演ってるんだよ。 『1000日のアン(Ann of the Thousand Days)』という映画。 「アン」とはもちろんヘンリー八世の2番目のお妃、アン・ブーリンのこと。 この役を演じたジュヌビエーヴ・ビジョルドがすごく可愛くて、気が強くて、いかにもアン・ブーリンっぽくてとてもヨカッタ(実際にアンに会ったことはありません。首を落とされた場所には行きました)。 バートンのヘンリー八世は大変クールでした。
下はコヴェント・ガーデンに今でもある「Theatre Royal Drury Lane(シアター・ロイヤル・ドルゥリー・レーン)」の座席の価格表掲示板。 コレはナゼか6年前にも展示してあって、今でもこうして残っている。 なので、以前書いた文章を転用させて頂く。 ---------------------------------------------------------------
スゴイ。 真ん中の「PRIVATE BOXES」というサインの下に「£1-17-0 to £7-0-0」とあるでしょ? コレ「1 ポンド17シリング0ペンス」から「7ポンド0シリング0ペンス」と読む。 同様にその下の「16'6」だとか「3'3」なども「16シリング6ペンス」、「3シリング3ペンス」を意味している。
2008年のアルバム『Viva la Vida』のイメージに合わせて作ったColdplayのクリス・マーティンの衣装。 デザインはポールとリンダ(またリンダ!)の間の次女、ステラ・マッカートニー(また「ステラ」!)とサラ・ジョウェットという人。
ウ~ム、コレがその『Viva la Vida』か…いいジャケットだな。 絵はドラクロワの「Liberty Leading the People(民衆を導く自由の女神)」。1830年。 衣装はこのフランス革命のフランス軍の軍服をモチーフにしているのだそうだ。 しかし、こういう絵に出て来るヒロインっぽい人たちってなんで乳だしてんだろうな? 「なりふり構わず!」ということなのだろうか? ジャケに惹かれて音を聴いてみる…なかなかいいモンだね、2回は聴かないけど。 コチラさんはものスゴイ人気なんでしょ? やっぱり日本のそういう人気のバンドさんとは全然趣きが違いますな~。大人だわ。 2番目に収録されている「Cemestries of London」という曲に「朝日のあたる家」のメロディの一部が出て来てドキっとしたわ。
1937年、映画『踊らん哉(Shall We Dance?)』のフレッド・アステアの衣装。 この映画の挿入歌「誰も奪えぬこの思い(They Can't Take That Away From Me)」はアカデミー主題歌賞を獲得し、後にジャズの大スタンダード曲になった。 アステアはサヴィル・ロウにあった「Anderson & Shepperd」という仕立て屋の熱心なファンでもちろんこの衣装も100%ビスポーク。 ダンスの時に自由に動ける服に仕上がるようにテイラーさんたちの仕事を注意深く監督したという。 そして服が出来上がると、その衣装の縫い目を確認するために、全身が映る鏡の前で実際に踊ってテストをするのが好きだったという。 こういう話は大好きだ。 また、色は黒に見えるが、実際は濃紺なのだそうだ。 それは、モノクロで撮影する時、黒よりも濃紺の方がキレイに撮れるから。
すると、ソイツは「だって、モンティ・パイソンは『オカマの恐竜』じゃん」と答えた。 理由はそれだけだった。 こっちはあまりにも内容のない理由にビックリしてしまって「あ、そう…。それだけ…?」以外に反応のしようがなかった。 そう、それだけみんな見てたのが「モンティ・パイソン」。 ナニ曜日だったかな?東京12チャンネルで夜10時から放映していた。 あんなにクダらないことをやっているのがイギリスの一流大学を出た人たちで、制作・放送しているのが国営テレビ局だって知ってビックリしたね。 まだ13、14歳の時だからね。 そでがサ、まさかエリック・アイドルの地元を訪ねることができるなんてあの時は夢にも思わなかったりなんかしちゃったりして!(もちろん広川太一郎風に) まったくAlways look on the bright side of lifeなのです。
『We Will Rock You』の5周年を記念して2000部限定で発行されたプログラム。 しかし、Queenはこないだの『ボヘラ』といい実にウマいことやったよな。 やはり残した作品のクォリティがベラボウに高かったことと、それを平気で商売に使ってしまう大胆さや厚かましさのバランスが取れていたんだろうな。 別に放っておけばいいんだけど、やっぱりリアル・タイムでQueenを経験している私の周囲の人たちは、「アレはおかしい」と言う人が多いね。 私はQueenファンであったことは一度もないのでどうでもいいのだが、反対に映画の面白さとしては全くピンと来なかった。 それより私はこのミュージカルの方がヨカッタな。 Queenの曲が使われているけどQueenとは関係ない筋立て。
『We Will Rock You』は2002年5月、トッテナムコートロードのドミニオン劇場で初演された。2005年8月には、それまでドミニオン劇場で上演されたミュージカルの中で最ロングランを誇った『Greese』を抜いて歴代1位になった…って、どれも短かかったんだな~。 この劇場のキャパは2,163席。 ウエスト・エンドでもかなり大きな劇場の1つなので、この記録は立派なモノらしい。 何年か前まではフレディのこの景色が当たり前だったんだけどね。 2014年5月に4600回に及ぶロングランで幕を閉じた。
入り口のドアの横には「Campaign for Real Ale(キャンペーン・フォー・リアル・エール)」のプラークが掲げられている。 「1960年12月、The Kinksの創始者であるレイとデイヴ・デイヴィスが初めて公衆の場で演奏をした場所。The Kinksは最も影響力の強いイギリスのロック・バンドのひとつで、バンドが解散するまで各々のメンバーはその後に世に現れた音楽ジャンルの父とみなされた」
いつか書いたようにイギリスのパブは大抵どこかの大手ビール会社が運営していて、自社の商品を卸すのが当たり前の図式になっている。 この「Campaign for Real Ale」というのは、そんな事情を憂いインディーズで経営している伝統的なパブを大手ビール会社への系列化から守る運動をしている団体。 いい人たちだ。 1971年から活動していて、その会員数は19万3千人にも上る。 私も入っちゃおうかな~。 様々なビールのフェスティバルなども企画しているっていうし。 で、気になるのはこのプラーク。 他にどんなパブに付いているのか調べてみたのだが、その範囲は音楽関係にとどまらず、歴史的な場所から、食べ物に関する場所…たとえば「スティルトン・チーズ発祥の地」なんてのもあった。 イギリスはかなりのチーズ文化国で、日本に来たイギリス人に言わせると、日本の食べ物は何でもおいしいけどチーズだけはダメだそうである。 私は特にチーズが好きなワケではないのでこんなことを言われてもゼンゼン平気。 このスティルトン・チーズというのは世界三大ブルー・チーズの一角なのだそうだ。 そして、有名なチーズ専門店がこのマズウェル・ヒルにもあることは前回書いた。
まずはソファに座ってひと休み。 結構歩いたからね、ノドが乾いた。 しかし、「Real ale云々」なんてことはナニも言ってなかったな。 ま、こっちはハンド・パンプで注がれるエールなら何でもいいんだけどね。このテーブル! 「K」だらK! 「God Save the Kinks」か…、
「God Save the Kinks」は伝記本のタイトルにもなっている。
私はこっちを読んでみた…『ひねくれ者たちの肖像(原題:The Kinks The sound and the Fury)』というもうひとつの伝記本。 ハードカバーで500ページを超す大著なんだけど、読み切るのにかなりの忍耐を要した。 何度途中で放り出そうと思ったことか…。 レイとデイヴの不仲話を中心に、メンバー間の不調やイジメが延々と書いてあるだけという印象。 何かこう、もう少しレイの天才的な作曲能力の秘密に迫るような内容が含まれていたらヨカッタんだけどな~。
チョットしたライブ写真まで色々。 コレも「Waterloo Sunset」。 やっぱりロック史に残る必殺の名曲だからね。 ホントにこの曲好き。 ローリング・ストーン誌が選ぶ「500 Greatest Songs of All Time」というリストの42位にランクインしている。 もっと上でもいいんじゃないのか?もっとも日本ならランク外だろう。 ちなみにこのリストの上位を見てみると… 10位がレイ・チャールズの「Waht's I say」。 9位がNirvanaの「Smells Like Teen Spirit」…知らんがな。 8位以上は「Hey Jude」、「Johnny B. Goode」、「Good Vibrations」、「Respected」、「What's Going On」と続く。 で、3位が「Imagine」。 2位が「(I Can't Get no)Satisfaction」。 そして栄えある第1位は「Like a Rolling Stone」だってサ。 英語圏と日本のロックの鑑賞の仕方の違いが如実に表れていると思う。 ところで、やっぱAreaの「Luglio, Agosto, Settembre (nero)」は入ってねーな。
キンクスの名曲で構成したショウ『Sunny Afternoon』の告知ポスター。 4年前、ロンドンに来た時に演っていたんだけど観にいかなかった! エラく後悔している。 代わりにこのショウの音源を聴いたんだけど、その臍を噛む思いはチョット晴れたね。 コレはまたもうチョット後で。 コレはファンが作ってくれたのかネェ? キンクスのゆかりのある建物の紙細工。 時計回りにいくと、左上は上の写真にあったデイヴィス兄弟の生家。 その隣はこのクリソールド・アームズ。 右の下はココのほぼ向かいにあった「The Alexandra」という、レイとデイヴが若い頃に入り浸っていたというお店らしい。パブか?今はもう無くなっていた。 最後は1981年のアルバム『Give the People What They Want』のジャケット撮影現場。
熱心なファンを装っていても、『Preservation』以前の旧作ばかりを聴いているウワベだけのファンなんですよ、私は。 Aristaに移籍したあたりから、パンク/ニューウェイブの煽りを受けて「何とかバンドのサウンドを変えないと!」とレイが焦っているような感じがして聴くのがツライ。 ムリして80年代の商業ロックの仲間入りなんかすることなかったのに! でもこのパブリシティ・フォトにある1982年の『State of Confusion』は好き。 ナント言っても「Come Dancing」とか「Don't Forget to Dance」といった名曲が入ってるからね。
でもジャケが! この時期の2枚は一体どうしちゃっただろうね。 色目は変えてあるけど、写真の撮影現場も上の紙細工のところで一緒だもんね。 一種の連作になってるのかな? 「民衆が望むモノを与えよ(Give the People What They Want)」…でも与えられないから「混乱状態(State of Confusion)」になってる?
同じ壁の奥。
コレは楽譜だね。
「DAVRAY MUSIC LIMITED」というのはレイがやっていた音楽出版社。 今もあるのかも知れません。 「DAVRAY」は「Davies」と「Ray」をくっつけたモノだろう。
住所を見ると「17, Savile Row」とある。 調べてみると、ビートルのアップル本社が入っていたビル、言い換えると「Roof Top Concert」と呼ばれている、1969年1月にビートルズが屋上で開いたビルから100mぐらい行ったところ。 この「Poole & Co.」というテイラーの隣。 クソ!コレを先に知っていたらドンズバで写真を撮ってきたのに!
こっちの壁には主にスクラップが飾ってある。スゴイね、コレ。 ブリティッシュ・インヴェイジョンがまだ盛んなりし頃のアメリカのコンサート告知ポスター。 Herman's HermitsにThe Dave Clark 5、The KinksとMoody Bluesはコレが初めてのアメリカ公演だった。 キンクスはこの前に、カーディフのステージ上でデイヴとドラマーのミック・エイヴォリーが殺人事件寸前のヒドイ乱闘騒ぎを起こし、物騒なバンドとしてアメリカへの入国が禁止されていた。 以上はすべてニューヨークの「The Academy of Music」という会場。 The Academy of Musicはユニオン・スクエアにほど近い場所にあるオペラ・ハウスで今は「Palladium」という名前になっている。 言っておきますけど、こういう劇場の名前なんかはみんな元はロンドンですからね。 「London Palladium」というのはウエストエンドでも最も有名な劇場。 そして、さすがビートルズ! コンサート会場はあのシェイ・スタジアムですよ。 その下に出ている「The First New York Folk Festival」もオモシロい。 出演はフィル・オクス、チャック・ベリー、ジョニー・キャッシュにバフィ・セイント・マリーだって。
この曲を作ったロイ・ウッドね。 Rennaissanceのシンガー、アニー・ハズラムの元ダンナ様。 夫婦デュエットの「I never Believed in Love」なんてあまりにも素晴らしい。ナニせ出だしのコードがディミニッシュだからね。 初期のELOのメンバーでもあったワケだけど、私はジェフ・リンよりロイ・ウッドの方が断然好き。 この1975年のソロ・アルバム『Mustard』なんてメッチャいいと思うし、当時の日本のポップ・ロック系のミュージシャンって結構コレを研究したと思うよ。
ジョン・レノンがエリザベス女王やロイヤル・ファミリーを前にしてピカデリーの「The Prince of Wales Theatre(ザ・プリンス・オフ・ウェールズ(=イギリス皇太子のこと)・シアター)」で言った有名なセリフ; 「Would those of you in the cheaper seats clap your hands? And the rest of you, if you'll just rattle your jewelry.(安い席の人は手を叩いてくれませんか?その他の方は宝石をジャラジャラいわせてください)」 コレをやったのも1963年の11月のこと。 わかるんだよね~、コレ。 格差社会のイギリスのこと、ロンドンの劇場はチケットの値段によって席の場所の良し悪しにすさまじい差が生じるんですわ。 チョット出し渋ると遠慮なく思いっきり後ろの方の席になっちゃう。 ヘタをすると入り口も違うんだから! ロンドンの劇場はブロードウェイと違ってバカでかいので、そうんるともう完全に見えないわね。 でも、どうせナニ言ってんだかほとんどわからねーし、「記念」として行く分には大いに価値があります。 立派な劇場の内部を体験するだけでも楽しいよ。
下がその「ザ・プリンス・オフ・ウェールズ・シアター」。 私はココで『Let It Be』というショウを観て感激したが、今は『The Book of Mormon』というブロードウェイ・ミュージカルがかかっていた。
フムフム…派手に脱線してるな。 そうだ、前回は「リック・ウェイクマンのアルバム」と「ヘンリー八世周辺」のことについて書いたのだった。 そこで今回からはヘンリー八世を中心に6人のお妃さまのことを、アルバム収録曲を聴きながら書いていくよ。 皆さん、レコード、CD、ストリーミングの準備はよろしいか? まずはアルバム『ヘンリー八世と六人の妻(The Six wives of Henry VIII)』の1曲目。
1. Catherine of Aragon ヘンリー八世の最初の奥さまが「キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)」。 私は『Yessongs』のリック・ウェイクマンのソロ・コーナーで初めて聴いたんだけど、シビれたナァ。 この曲をこのアルバムではなく、『Yessongs』で知ったという人も多いのではないかしら? お、そういえばウェイクマンを紹介する前にジョン・アンダーソンがハミングしているメロディはストラヴィンスキーの「春の祭典(The Rite of Spring)」だね。
コケラ落としはイギリスのコメディ映画「A Night Like This (1932年)」と「Bad Company」という1931年のアメリカ映画。 この辺りはさすがにわからないな。 そうか…「Bad Company」という名前はポール・ロジャースやらミック・ラルフスが考えたバンド名かと思っていたら同名の映画があったのか…。 偶然かな? イヤ、調べてみるとそれどころじゃない!「Bad Company」という映画はザっと見積もって古今で15本近くあるじゃんけ! 知らなかった。
ハマースミス・オデオンの建物を設計したのはロバート・クロミーという人。 この人は『Let It Be』のところで出て来たピカデリー・サーカスにほど近い「Prince Wales Theatre」を設計した人。
クラプトンの『E.C. Was Here』には1974年12月のハマースミス・オデオンでの演奏が収録されている。 ちなみに「I(アイ)」という調子は音楽にはない。
このアルバムのタイトル『E.C. Was Here』って意味知ってる? もちろん「E.C.がいたよ」という意味なんだけど、コレはパロディになってる。 何のパロディかというと、「Kilroy was here」という第二次世界大戦の頃にアメリカで流行した落書き。 色々な説や意味があるようなので、ここに詳しくは書かないが、映画『ショーシャンクの空に(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』にも出て来るでしょ? 長い間刑務所にいて、出所したのはいいけど、服役中に大きく変化してしまった社会について行けないブルックスというオジイちゃんが、首を吊るためのロープをかけた梁にナイフでこう刻んで死んでいく…「Brooks was here」って。 アレがコレなの。
私がナンでコレを知ったかと言うと、The Moveなの。 他のバンドにもたくさん「Kilroy was Here」という曲があるんだけど、私がThe Moveが好きでね。 Roy Woodが大好きなもんだから…。 それで「コレ、いい曲だナァ」と思って「Kilroy was Here」ってのはどういう意味か調べたのね。 Marshallにいた年配の友人が「The Moveはロックではなくてポップだ」って言っていたのを思い出す。
このアルバムはスゴイ。 The Tubesっていいよな~! 映画を観てQueenが好きになったような新しいファンの神経を逆撫でするようことを言うけど、フレディ・マーキュリーを見逃したのは特段悔しくはない。 が、1979年のThe Tubesの来日公演を見逃したのは私の音楽人生におけるかなり大きな汚点だよ。 グヤジイ~! 来日するのは知っていたし、前座が話題のYMOだってのも聞いていた。 きっと、お金がなくて行けなかったんだろうな? 1978年リリースのThe Tubesのライブ盤もハマースミス・オデオン録音。 で、このライブのミキサーを現場で担当したがLOUDNESSの『Thunder in the East』のプロデューサー、マックス・ノーマンなんだよ。
そしてコレが「Prince of Wales Theatre」。現在の建物は1937年に再建されたものだが、オープンは1884年という由緒ある劇場だ。 ロンドンやニューヨークで観劇する際のもうひとつの楽しみは、劇場そのものを味わう…ということ。日本の劇場はジャンジャン壊してしまうので歴史も風情もスっ飛んでしまうが、こちらは長い間に上演された数々の名作のポスターや写真が飾ってあったりして実に味わい深い。 NYCのリンカーンセンターにあるエイヴリー・フィッシャー・ホールに飾ってあるボールペン画によるカラヤンやベームらの名指揮者たちのポートレイトなんて実に面白かった。 それと、その名館に入ったという満足感ね。 ロイヤル・アルバートにもパレス・シアターにも入ったことがない若輩が言うのもなんですが…。(オペラ座とかスカラ座とかとは別の次元で話してます)
オワ~!ジミー・スチュアートが1975年にここの舞台に立っているのね!大感激!! コレは『Harvey』ですな。 1944年にブロードウェイで初演。 1950年にはこの人が主演して映画化もされた。 主人公にしか見えない大きなウサギの話し。ジェイムス・スチュアートはオスカーの主演男優賞にノミネートされた。 でも、映画自体はあんまりピンと来なかったナァ。 コチラはメル・トーメ。 「The Man with the "Velvet Fog Voice" from the U.S.A.」ってのがいい。 「ベルベット」はわかるけど「霧」は解せん。そうかな~、そんな霞がかってるかしら? 「Mel Torme」のドデカイ表記の下の「Mountain Greenery」というのはロジャース=ハート・コンビのペンによる1920年代のミュージカルの挿入歌で、イギリスではメルのレコーディングが大ヒットした。 だからガツンとフィーチュアされている。舟木一夫の「高校三年生」的な? メルは2週間もここで歌ったんだネェ。聴きたかったナァ、若き日のメルの声!
「She Loves You」でショウはスタートして「From Me to You」だの「Please Please Me」だの初期の定番が連なる。
曲間にはジョン役の人が「高い席のお客さんは宝石を鳴らしてください。安い席の方は拍手してください」だっけ?有名なMC。 怒られちゃったヤツ。 ジョンはこのセリフをこの劇場で言ったんだよね。また感激! そういうことをして、あたかも本物が演奏しているような演出をするんですよ。 入り口の看板に「Experience the Beatles Live in London」と謳ってあるのはダテじゃない。
第2部ではサージェント・ペパーズの衣装で登場。 ドラムの人が「With a Little Help」を歌ったんだけど、これが何ともよくてね~。泣けたな~。 最近ようやくビートルズの歌詞がダイレクトに頭に入って来るようになりましてね。 やっぱスゴイです、「ファブフォー」は。一番泣けるのは「She's Leaving Home」なんです。「With a Little」には会場も大合唱。隣の隣のおじさんも目頭を押さえてた。 『サージェント』からは他に「When I'm Sixty-four」も演った。 お客さんの平均年齢がどう見ても64歳以上なんですよ。 みなさんの膝の上にヴィラだのチャックだのデイヴが乗ってるかはわからないけど、これも完全に大合唱。 私も『ガープの世界』好きだったからね~、大感動。 ちょっとポール役の人が時々自分風にアレンジするところが気になるナァ~。
何しろお客さん全員が全曲を完璧に英語で歌えるところがスゴイ。案外感動モンですよ。海外へ来た感があふれてる! 「A Day in the Life」とか「Love is All You Need」とかも披露。 ポールは今でも自分のステージでビートルズのレパートリーを演奏しているけど、ジョンはもうできないからね。コピーだとはわかっていても、そういう意味ではすごく新鮮に感じる部分もあった。「Strawberry Fields」とか「Lucy in the Sky」とかヨカッタな。 「♪Lucy in the sky with diamonds」の前のキメのところなんかお客さん全員膝叩いて合わせちゃうんだから。
アコースティック・セットでは3人が同時に「Blackbird」を弾いたりして…。 「Here Comes the Sun」や「In my Life」と続く。 ん~、ここは確かにお日様がありがたいところだからね~。この名曲もここでは余計に心にしみますよ。 ジョージ関連では残念だったのは「While my Guitar gently Weeps」を勝手にアレンジして演ってたこと。ソロは完全コピーだったけどね。ジョージの人、スゲエギターうまかった。
最終のセットは映画『レット・イット・ビー』のイメージだよね。最後にビートルズが演奏したアップルの社屋があるセヴィル・ロウはここから歩いて5分ぐらいのところなんだから臨場感が違う。『Abbey Road』のジャケットがバックドロップに映し出されるところがあるんだけど、これにしてもアビィ・ロード・スタジオがある「St. John's Wood」まで地下鉄ですぐだもんね。 家でホンモノさんのCD聴いていてもいいんだけどね、でもせっかくロンドンにいるんだし…こうした何とも言えない本場感を味わうようなもんですよ。 アンコールの最後に「Let it Be」を演奏。 コレで終わりかと思うとみんなが「Hey Jude!」とリクエストするの。私なんかは 「Hey Bulldog」の方が好きだったりっするんだけど。 この「Hey Jude」は今年のイギリスの大イベントたちのおかげでビートルズのNo.1曲になった感じがするね。当然大合唱よ。 手をつないでいっしょに歌っている老夫婦の姿なんか感動的だった。 客出しのBGMが「I Wanna Hold Your Hand」でさ、みんな大声で歌いながら帰ってった。 ナンダカンダ言っても、ビートルズはやっぱりこの国の人たちの誇りであり、この国の人たちのモノなんだなって思った。
1973年に発表したリック・ウェイクマン初のソロ・アルバム『ヘンリー八世と六人の妻(The Six Wives of Henry VIII)』。 まずはジャケット。 この写真はBruce Raeという人が有名な「マダム・タッソーろう人形館」で撮ったもの。 だからリックの後に写っているのはヘンリー八世と3人の妻のろう人形。 リックはホンモノだ。 恐らくリックを何度も歩かせて自然な姿を撮ろうとしたんだろうね。 でも奥さんが3人しか映っていない。私だったら絶対にNG。もっと引きで撮ってリックと7つのろう人形が入るようにするな。 でもネ、この写真の中にはもっとヒドイことが起こっている。 気がついていた人はいるかな?。 CDじゃ小さくてチョットわかりづらいかも。 LPを持っている人は引っ張り出して来てよく見てみて。 向かって一番左の女性(最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴンだと思う)の上。 男の人が写っちゃってるでしょう? コレ、心霊写真ではなくて、後ろのカーテンをキチッと閉めなかったので隣の展示ルームの人形が見えちゃってるの。 スタッフもヒドイけど、このフォトグラファー、ファインダーを覗いていてわからなかったのかな~? それともよっぽど慌てていたのか? 出来上がってから気が付いたリックはこの写真に大層ガッカリしたそうだ。
この男性の人形…ナニかというと、元アメリカ合衆国大統領のリチャード・ミルハウス・ニクソン。 だからザッパに「Dickie's such an Asshole(リチャードはそんなクソ野郎)」なんて歌われちゃうんじゃん?…イヤ、この写真についてはニクソンに何の落ち度もない。 懐かしいね、この顔。 私なんかは「アメリカの大統領」といえばこの顔だ。
トライデント・スタジオのスゴさについてはコチラをご覧あれ⇒【イギリス-ロック名所めぐり vol.7】 ソーホー周辺 その2 アルバムに収録されているのは6曲。 すなわちヘンリー八世の6人のお妃の曲だけだが、実はヘンリー八世自身をテーマにした曲も用意していた。 レコーディングは奥さま方の曲から取り組んだが、作業が進むにつれレコードの収録可能時間の限界が見えて来て、最終的にヘンリー八世の曲をカットせざるを得なくなってしまった。 ダンナはツライね。 そのため、アルバムのタイトルは最初『Henry VIII and His Six Wives(ヘンリー八世と六人の妻)』とされたが、ヘンリー八世の曲が入らないので『The Six Wives of Henry VIII(ヘンリー八世の六人の妻)』と変更したんだって!
ちなみに『戦場にかける橋』でデヴィッド・ニーブン率いるイギリス軍がクワイ河にかけた橋のモデルはエジンバラの「Firth of Forth」という河にかかる「Forth Bridge」。 Genesisの名盤、『Selling England by a Pound』に収録されている「Firth of Fifth」はコレが元ネタ。 もひとつオマケに、この『Selling England by a Pound』はCLASSIC ROCk MAGAZINEが選ぶ、「プログレッシブ・ロック名盤」で第1位を獲得している。 ま、確かに名盤だけど、日本人にはわからないグッと来るものがイギリス人にはあるんだろうね。 『アラビアのロレンス』、また観たいナァ。 ロレンスって同性愛者だったでしょ? あの時代、イギリスでは同性愛は犯罪だった。だから自分が同性愛者ということを知ったロレンスはあんなに悩んだ。 以前はそんな背景もは知らずに観ていたナァ。
さて、ヘンリー八世にもどってもうひとつ…。 それは映画『ゴースト』のワン・シーン。 幽霊になったサムを演じるパトリック・スウェイジが、ウーピー・ゴールドバーグ扮するイタコのオダ・メイに霊媒を依頼する場面。 ややインチキだし、ゴタゴタに巻き込まれるのをイヤがるオダ・メイが寝られないように枕もとでサムが歌を歌い続ける。 その曲がハーマンズ・ハーミッツの「ヘンリー8世君」。原題は「I'm Henery the VIII, I am」 とても可愛い曲だよね。 この曲のオリジナルはハリー・チャンピオンという人の持ち歌で、ハーマンズのバージョンは歌詞がひとつしかない。 そして、ピーター・ヌーンが間奏でこう言う。 「Second verse, same as the first(2番を歌うよ~、1番と同じだよ)」 つまり、終わりがないということ。 サムは「霊媒の仕事を受けてくれないなら永久に枕元で歌い続けるぞ!」という意味を込めてこの曲を選んだんじゃないかね…なんて思うんですよ。 この映画では「Unchained Melody」が話題になったけど、私はこの「I'm Henery VIII, I am」の方が全然印象深かった。
そして、ミルトン・キーンズは、というと、コレが結構工場から遠い。 車で行けば15分ぐらいなんだけど、ミルトン・キーンズは駅の周辺以外に信号がまったくないのでかなり走れることになる。とても工場から歩ける距離ではない。 信号がなくて交差点がどうなっているのかというと、全部ラウンドアバウト。 恥ずかしながら今でもラウンドアバウトを通過する時、「♪I'll be the roundabout」と口ずさんでしまう私はやっぱりプログレ好き。
それでですね、そうして苦労して撮った写真が一体何に使われているんだろう…と常々思っていた。 誰しもそう思うでしょう。 上に挙げたパンフレットや駅の広告、それに下のようなお店の公式ウェブサイトにご使用頂いていたことはもちろんわかっていた。 コレは六本木のHard Rock Cafe Tokyo (ハードロックカフェ東京店)。
ナント、昔からHard Rock Cafeの世界の公式ウェブサイトにご採用頂いていたのだ! イヤ、ホントにこのことを知らなくて、実は今月知った次第。 世界の「Hard Rock Cafeの公式ウェブサイト」ということは、私の写真がずっと以前から世界の人の目に触れていたというワケ。 するってーと、冒頭のChris Duarte Groupより前に世界デビューを果たしていたことになる…ということが言いたかっただけです、ハイ。
さて、そのハイド・パークとバッキンガム宮殿のちょうど間に「ハイドパーク・コーナー」という地下鉄ピカデリー線の駅がある。 駅から地上に上がってピカデリー・ストリートをピカデリー・サーカスに向かってチョット行った日本大使館の手前ににコレがある…Hard Rock Cafe。 コレで今日の記事の前半と見事に連結する。
世界中に百を軽く超える拠点を擁するHard Rock Cafeだからして何が珍しくて今頃ココで取り上げるんだ?…とお思いになる方もいらっしゃるかもしれない。 取り上げる理由はココが第一号店だから。 1971年、Isaac TigrettとPeter Mortonというアメリカの若者が創業した。 第二号店はカナダのトロント。 第三号店はロサンゼルス。 そして、第四号店は、ジャジャ~ン、六本木なのだ! 2006年にLAの店がクローズしたので、Hard Rock Cafe Tokyoは現存するお店の中で第三番目の古参ということになる。 そして、Hard Rock Cafe名物の壁のメモラビリア…この展示は1979年にこの第一号店からスタートしたのだそうだ。 やっぱりね~、いいのがイッパイあるんだよ、一号店は。量もスゴイ。地下のトイレの廊下の壁にまで色々なアイテムが展示されている。 ロック・ファンがロンドンを訪れた際には一度は訪れておくことをおススメする。
ホント、ここはいつ来ても気分がいいわ。 考えてみると、日本は通りに名前をつける文化がないせいか、こうして地元の小さいエリアの地名を活用することをしないね。 「日本ナントカ」とか「東京ナントカ」ばっかりだ。 国が小さいので名前ぐらいスケールを大きくしようということか? イヤイヤ、イギリスの国土は日本の2/3だってば。 「イギリス連邦(Commonwealth of Nations、旧名 British Commonwealth of Nations)」を足せばトンデモナイことになるけど。 あの国旗にユニオン・ジャックが入っている国があるでしょ? オーストラリアとかニュージーランドとか…ああいう国は、イギリスが戦争になったら問答無用でイギリスのために戦争に参加しなきゃならんのよ。 しかし、政治、経済、文化、色んなことを知れば知るほど、良きにつけ悪しきにつけ世界ってのはいまだにイギリスで回っている感じがするナァ。
The Whoやテレンス・スタンプ(俳優。『コレクター』大好きだった!)、ジュリー・クリスティ(女優)、それにヤードバーズ時代のジミー・ペイジが常連客だった。 そして、ジミ・ヘンドリックスはこの店で売っていた「Sam Pig in Love」というレーベルのフリルの付いたシャツのファンだったそうだ。 その服を着て1967年にサヴィル・シアターに主演したこともあった。 サヴィル・シアターはビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが経営していたシャフツベリーにあった劇場…っていうか、名前は違うけど今もある。 そのうちMarshall Blogでご案内します。
キングリー・ストリートを進む。
また見つけた。
ココは1960年代、キース・アルバーンとヘイゼル・アルバーンという人が中心になって運営していた「Artists' Own Gallery」というギャラリーがあった。 アートの展示だけでなく、各種のイベント、さらにはライブなども催された。 カーナービー盛んなりし頃のひとつのランドマークだったようだ。 さぞかし、クリエイティブでエキサイティングな時代だったんだろうね~。