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2020年4月22日 (水)

【イギリス-ロック名所めぐり】vol.44 ~ 10ccに会いに行く <後編>~ストロベリー・スタジオ物語

ストックポートの駅を出る。
お、早速プラークを発見。

270 ナニナニ…「チャンネル諸島からの避難民」か…知らんな。
調べてみよう。
1940年6月、7月、そして8月、ストックポートは1,200人のチャンネル諸島からの避難民を受け入れました。
1945年5月に島が解放されるまで当地の数々の家庭で子供たちの面倒をみました
 
チェンネル諸島は英国海峡(British Channel:ドーヴァー海峡の西)に浮かぶ島々で、限りなくフランスに近いがイギリスが管理をしているエリア。
しかし、イギリス(United Kingdom)には含まれず、「王室属領(Crown Depedencies)」
呼ばれるイギリス国王の領土。
自治権を持っているが、外交と防衛はイギリスが面倒を見ているのだそう。
前回触れたマン島もこういうこと。
そのチャネル諸島をドイツ軍が1940年5月に占領。
9万7千の住民のうち、3万1千人が避難した。
そのウチの1,200人がストックポートで保護されたというワケ。
しかし、5年ものあいだ、縁も所縁もないヨソの家の子供を引き取って面倒をみるなんて大変なことだよな~。
コレもチャーチルの「Never give in(負けるもんか)」の号令一家下、国家が一丸となっていたことの証左か?
やっぱりリーダーがしっかりしていて魅力的な人だと国はこうなるんだろうナァ。

275 とりあえず街中を歩き出す。
駅から少し離れて大通りに出るとさっそく立派な建物が!
コレは市庁舎。

280街並みはイギリスの地方でよく見かける雰囲気。

290「ギャリック・シアター」ってのはどこにでもあるな。
この「ギャリック」というのは18世紀のイギリスの俳優、「David Garrick(デヴィッド・ギャリック)」のこと…でしょうね。
この人は、シェイクスピアの悲劇を演じると右に出るモノはいないと言われ、後年はコヴェント・ガーデンに今でもある「シアター・ロイヤル・ドゥルーリー・レーン」の支配人を務めた。

300カンタベリー派のファンの皆さんには「シアター・ロイヤル・ドゥルーリー・レーン」の名前はロバート・ワイアットのライブ盤でおなじみだろう。

Rw 18世紀、ストックポートにはイギリス本土で最初の絹織物工場のひとつがあった。
19世紀になって主要産業が綿織物やその関連産業に移行し、ストックポートはイギリスの帽子産業の中心となった。
1884年頃には、年間600万個もの帽子を輸出していたという。
昔は帽子は洋服みたいなものだったからね。
時を経て身だしなみが変わり、帽子の需要も激減し、1997年を最後に工場は閉鎖された。
この「Hat Museum」、帰りに見ようと思っていたんだけど忘れちゃった!

310さて、マズウェル・ヒルの時もそうだったんだけど、ストックポートの街中にも地図がゼンゼン見当たらない。
目的地がある通りの名前はわかっているので地図さえあれば何とかなるのだが…。
と、ややイライラ、キョロキョロしながら歩いていると、図書館が目に入った。
そうだ!図書館に行けば何らかの手掛かりがつかめるかもしれない!

320「Stockport Central Library」に入ってみる。

330vクラシックな外観と異なり館内はかなりモダンなつくり。

340お!「はらぺこあおむし(The Very Hungry Caterpilar)」だ。
ウチの下の子が小さい時によく読んでいたので知ってる。

350本の整理をしていたおジイさんに「このあたりの地図はありませんか?」と尋ねると「どこへ行きたいのですか?目的地の住所はわっていますか?」とおっしゃる。
とても紳士的なレスポンス。
住所を伝えると「コチラにいらっしゃい」とパソコンのあるところまで私を呼んで住所をインプットして地図を見せてくれた。
「プリントして差し上げましょう」と言うので、遠慮して携帯で画面を撮影させてもらった。
親切だよ~。
本当にイヤな顔ひとつしないで自分の仕事を中断して対応してくれた。
おジイさんに丁寧にお礼を伝えて図書館を後にした。

360方向はさっき通りかかった市庁舎の方で合ってたんだ!
市庁舎の横の入り口にプラークを発見。

370

「ストックポート市庁舎 
1908年7月7日開業。新レン様式を取り入れたアルフレッド・ブラムウェル・トーマスの設計。TRH プリンス&プリンセス・オブ・ウェールズによって除幕された」
この「TRH」には苦労した。
「RH」は王室メンバーに対する敬称の「Royal Highness」の頭文字であることはすぐに思いつくが「T」がわからなかった。
「HRH」だったら「Her Royal Highness」とか「His Royal Highness」なんだけど。
インターネットで調べてもよくわからない。
そこでハッとして目を付けたのが「Prince and Princess」という複数のウェールズ公。
ひとりずつ省略せずに記せば「His Royal Highness」と「Her Royal Highness」になるハズ。
そうか…複数形になってるんだ!ということに気が付き、「TRH」は「Their Royal Highness」の頭文字ということで納得した。
イギリスに確認したところ…大正解!

380「レン」とは「Christopher Wren(クリストファー・レン)」という17世紀のイギリスの建築家。セントポール大聖堂を設計した人。
道理で荘厳なデザインなワケだ。

11_img_0198 セント・ポールはコレね。
メリー・ポピンズのヤツ。
コレの流れを汲んでいるというワケ。

122img_4947さて、図書館のおジイさんに検索してもらった地図を参照にWaterloo通り(ウォータールー)を進む。
しっかしキレイなところだな~。天気もいいし。

390そして、いよいよ見えて来たのが今回のマンチェスターへの旅の最初の目的地。
405写真の左側の建物が… 400「Strawberry Studio(ストロベリー・スタジオ)」だ!
<前編>でさんざっぱら騒いでいたヤツね。

420コレがあの「ストベリー・スタジオ」か~。
ココで10ccのアルバムが作られていたんだゼ!
夢に出て来たことはないけど、うれしいな~。
425お、プラークが取り付けられているぞ。

430ストロベリー・レコーディング・スタジオ
1967から1993年
10ccのホーム。ジョイ・ディヴィジョン、ポール・マッカートニー、マーティン・ハネット、ニール・セダカ、ザ・ストーン・ローゼズ、ザ・スミス、そしてザ・シド・ローレンス・オーケストラ他、たくさんのアーティストが忘難い音楽を作るためにこのスタジオを使用した

440 ココからストロベリー・スタジオと10ccの物語…。
ストロベリー・スタジオは最初からこの場所にあったワケではなく、1967年にストックポートの街の中心にあった「ニールド&ハーディ」というレコード店の上の「インナー・シティ・スタジオ」が母体となっている。
Billy J. Kramer with the Dakotas(ビリー・J・クレイマーとザ・ダコタズ)のマネージャーを務めたりしていたPeter Tattersall(ピーター・タッターソール)がそのスタジオと機材(2台のテープマシーンと数本のマイク)を買い入れることを決心。
約500ポンドを支払い、その後の数か月間、朝7時から午後2時まで地元のパン屋で働き、スタジオ建設のための資金を貯めた。
 
ちなみに…このビリー・J・クレイマーという人はリヴァプール出身の歌手で、その芸名はジョン・レノンからが与えられた。
「Do You Want to Know the Secret?」、「I Call You Name」、「Bad to me」等のビートルズ・ナンバー、あるいはレノン=マッカートニー・ナンバー他を歌って人気歌手となった。(もちろんアビィ・ロード・スタジオ録音)
イギリスから遠いところに住んでいる我々は、ビートルズというとやれ『Help!』だ、やれ『Let it Be』だと、ビートルズ本体のことしか頭にないし、それが当たり前のことだとは思うんだけど、その当時の周囲の状況を知れば知るほど、イギリスにおけるビートルズの影響というモノが巨大であったことに感心する。
「ダコタズ」だなんてね~。
ジョンが入り口で射殺されたセントラル・パーク・ウエストの自宅マンションの名前は「ダコタ・アパート」という。

Bjkロマン・ポランスキーが『ローズマリーの赤ちゃん』を撮影したのもダコタ・アパート。
「エイドリアン・マルカトー」とか「ローマン・キャスタベット」とかね…スキで良く観た。

Rmb1967年当時、ロンドン以外にはプロユースの本格的なスタジオが存在せず、そのインナー・シティ・スタジオはマインドベンダーズ(Waynne Fontana & The Mindbenders)やハーマンズ・ハーミッツ(Herman's Hermits)といった地元マンチェスターのアーティストのPR素材やデモ音源を作ることを生業としていた。
一方、サイド・ビジネスとしてスタジオの仕事にかかわることを希望していたMindbendersのメンバーだったエリック・スチュアートは、この頃からこのスタジオに関わるようになった。
タッターソールはエリックをビジネス・パートナーとすることにし、エリックは機材のレベルを上げるために800ポンド(当時の為替レートで80万円ぐらい)を投資した。
エリックが合流すると、好きなビートルズの「Strawberry Fields Forever」にちなんで「Strawberry Recording Studios」と名前を変えた。
宣伝惹句はキャッチーに「Strawberry Studios Forever」だったらしい。
その後、「この建物は隣の古いビルが火事になったら逃げられないのではないか?」…ということに気づき、ビビッて引っ越しをすることにした。
そして、Waterloo通りに良い物件を見つけ、自分たちで内装工事に当たった。
それがコレというワケ。

11_0r4a0006 ストロベリー・スタジオは地の利を生かして愛用者を増やしていった。
マンチェスターといのは音楽が盛んな街ですからね。
何せ遠くて使用料も高いロンドンのスタジオまで行く必要がないんだから、こっちの人にとってはありがたいにキマってる。
マンチェスターからロンドンまでは290km。
今の速い電車2時間半ぐらいかな?
昔はそうとう時間がかかっただろうからね。
後援者も増え、その中には2,000ポンド(200万円近く!)を出資した地元出身のシンガーソングライター、グレアム・グールドマンがいた。
そうした資金援助を背景に機材を増強したストロベリー・スタジオは、地元のアーティストのために本格的にレコーディング業を開始した。
 
ところで、10ccでボーカルズとベースを担当したグレアムは、1969年までニューヨークで「バブルガム・ミュージック」の旗手カセネッツ・カッツ(ジェフ・カッツ)と仕事をしていた。
しかし、ストロベリー・スタジオができたものだから、イギリスに帰って地元で音楽制作の仕事がしたいと申し出た。
その際、ストロベリーにいたエリックとその友人のロルとケヴィンをスタジオ・ミュージシャンとして起用することも願い出た。
グールドマンは<前編>で少し触れた通り「For Your Love」や「Bus Stop」、「No Milk Today」らのヒットでもうその名を馳せていたからね。
下は1968年の最初のソロ・アルバム…コレはストロベリー録音ではなくてロンドンのオリンピック・スタジオでの録音。
関係ないけどグレアムって、昔私がいた会社の社宅の隣の人に似ていてね。ラクダ系のお顔。
すごくお世話になって、その会社を辞めて20年経った今でも年賀状のやり取りをしている。

Gg一方、エリック、ロル、ケヴィンの3人は様々な仮名でレコードをリリースし、人気バンドになれる可能性を秘めていたため、ストロベリーは4トラックのテープマシンを購入。
1970年に3人は「Hotlegs(ホットレッグス)」というバンド名でシングル盤をリリースした。
それが「Neanderthal Man(ネアンデルタール・マン)」。
ロルによると、この曲はただただ新しい機材の調子を試すために演奏したモノで、ケヴィンが延々と叩くドラムスに合わせて歌をギターを思い付き程度に被せただけのシロモノだったらしい。
それが全英第2位の大ヒット!

Nmナント、日本国内盤も出ていたというのだから驚く。
昔のレコード会社はスゴかったね…と思っていたんだけど、そうではなくて何にも知らないでリリースしていたらしい。
だって当時の日本のレコード会社には、ロックのことがわかる人がほとんどいなかったっていうんだから。
契約している海外のレーベルから「コレを国内盤でリリースしなさい。そうしないと契約は打ち切りますよ!」と揺さぶられ、押し付けられたモノを右から左へと出していただけだったらしい。
コレは古くから業界に関わる方から直接お聞きした話だからホントの話だろう。
だから久間正英さんが生前におっしゃった「日本のレコード会社は自分の商品を知らずに商売をしていた。そのツケが今回ってきている」というご指摘は的を得ているようだ。
今の「音楽シーンをオモシロい」と思っている人は「オモシロい音楽シーン」を知らない人だと私は思う。
今の日本の音楽シーンは、ドメスティックで凝り固まり、どこを切っても同じようなモノばかりを取り揃えた結果、聴き手や消費者の「音楽を聴く力」を奪ってしまい、突破口が見出せないでいるような状態に見える。
芸術というモノは作る方のレベルの高さがもちろん大切だが、本当は鑑賞する方の知性の高さが芸術の質の高低を決定させていると思うのだ。
だから芸術を鑑賞する側は、与えられるモノ以外のモノにも興味を示し、「いいモノ」を「いいモノ」として受け取る能力を高めないと芸術は死んでしまう。
決して「売れるモノ」だけが「いいモノ」ではないのよ。

JnmHotlegsは自分たちのアルバムをリリースする傍ら、幅広いアーティストをプロデュースし、時にバックバンドを担当した。
マンチェスター、リーズ・ユナイテッド、エバートン、ベリーのフットボール・クラブのチームの応援歌なども制作。
興味深いのは、ニール・セダカ。
「Happy Birthday Sweet Sixteen」、「Breaking up is Hard to Do」、「Littel Devil」、「The Diary」…いいんだよね~。
今の若い人たちはニール・セダカなんて全く知らないだろうナァ。
「エ、その人、そんなに大きいんですか?」なんてのが関の山だろう(「背高」ね)。
「Sedaka」なんてどこの名前かと思ったら、祖父母がトルコからの移民なんだね。
ゼヒ、若い人に聴いてもらいたいナァ。
こういう類のモノのいいところは下の写真のような安く売ってるベスト盤を1枚買っちゃえばコトが済んじゃうこと。
曲のクォリティに関して言えば、今のそこら辺の曲のCDを100枚合わせてもこの廉価ベスト盤1枚に到底かなわないだろう。
そりゃそうだ、「ポップ・ミュージック」という世界がまだ未開拓の荒野で、ほぼナニもなかった時代の音楽だもんね。
そういえばウチに来る24、25歳の若いNATALのドラマーに聴かせたら一発で気に入ってすぐにCDを買いに行ってたよ。
今の若い子にしたら「変わり者」か?
この子、The Shaggsも教えてあげたんだけど、メッチャクチャ気に入って、ウチで聴いたファースト・アルバムだけじゃなく、自主的にセカンド・アルバムも買ってた。
やっぱり普通じゃないってことか。

11_2sedaka ナンだって取り立ててニール・セダカを出して来るのかと言うと、ストロベリー・スタジオでレコーディングしているからだけではなくて、バックを丸々10ccが演っているから。
当時、世間では存在を忘れ去られつつあったニール・セダカだったが、マネージャーがグレアムと同じ人で、Hotlegsの3人にグレアムを加え、「Doctor Father」名義でバックを務めさせた。
要するにココで10ccの4人が一緒になった。
そして、ストロベリーで1972年に『Solitaire』を、翌年『The Tra-La Days Are Over』と、2枚のアルバムを制作したワケ。
チョット聴いてみるとさすがセダカ…いい曲揃いです。
そして10ccの演奏のウマいこと、ウマいこと!
ホントに器用な人たちだ。

St

Tralaこうしてグレアムが加わり、他のアーティストの音楽制作に打ち込む一方、4人のミュージシャンが自分たちの音楽を作ることを決心。
UKレコードのジョナサン・キングのバックアップの元、1972年にシングル「Donna」を10ccの名でリリース。
それがUKチャートの2位まで上昇するヒットとなった。
そして<前編>で紹介したファースト・アルバムにつながる。
<前編>でバンド名の由来について書いたけど、気になって後で調べてみた。
成人男性の射精量は2~5ccとされているんだって。
だから「10cc」というバンド名を決めたのは、夢の中で「世界で最も偉大なバンドが10cc」とお告げを受けたジョナサン・キングだけど、その「10cc」という言葉自体の意味はそういうことになるのかもしれない…ということにして逃げ道を作っておこう。

Donna1972~1976年に10ccが大成功を収め、ストロベリー・スタジオはメジャーなスタジオとなった。
彼らの4枚のアルバムと8枚のトップ10ヒットシングル(うち2枚はナンバー1)がストックポートで録音されたとあればスタジオの知名度も上がるにキマってる。
スタジオは経済的に余裕ができ、機材も充実して行った。
また、ストロベリー・スタジオは「10ccの本拠地」であるだけでなく、同時に相変わらず外部からのアーティストも受け入れ続けた。
例えば…Bay City Rollersの1975年の「Give a Little Love」というヒット・シングルはストロベリーで録ったそうだ。
アルバムはどうなんだろう…。

Gll…と思って調べてみたら驚いた!
私の世代なら間違いなくおなじみであろうコレらのBay City Rollersのアルバム…

Bcr1_1

Bcr1_2コレってチッピング・ノートンで録ってるんだね~。
興味のある方はコチラ
 ↓  ↓  ↓
【イギリスーロック名所めぐり vol.16】 コッツウォルズにロックの名所なんかあんの?!

440 それからポール・マッカートニーは弟のMile McGearのアルバム制作でストロベリー・スタジオを使った。
Mike McGear(マイク・マックギア)の1974年のその名も『Mcgear』というアルバム。
この方、本名をPeter Michael McCartneyとおっしゃる。
コレ、ジャケットがいいな。
今回初めて聴いたけど…ナカナカいいね。
Roxy Musicの「Sea Breezes」なんかを取り上げている。
バックはWingsなのね。

Mcgear1975年になるとストロベリー・スタジオは隆盛を極め、1976年の『How Dare You!』のレコーディングの時には10cc自身がスタジオを押さえることが出来なくなってしまった。
そこで予てからのアイデアであった、サーリーのドーキングという所に2番目のスタジオ「Strawbweey South」をオープンすることにした。
大当たりですな。
ところが好事魔多し。
「South」での初めての録音の時にはロルとケヴィンはいなくなっていた。
理由は<前編>で触れた通り、自分たちの実験的なプロジェクト『Consequences』に取り組んでいた2人は、エリックとグレアムが次のアルバムのために用意していた「The Things We Do For Love」を耳にして、その旧態依然としたスタイルをがバカバカしく感じてしまったのだそうだ。
ところがこの曲がアメリカ大ヒット。

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Csq<前編>で紹介した10ccの5枚目のアルバム『Deceptive Bends』のジャケットにクレジットされている「(South)」はそのサーリーの2番目のスタジオのこと。

0r4a0185_2しかし、ストロベリー・スタジオの快進撃はまだ続く。
オリジナルのスタジオのビルの向かいに「Strawberry 2」を開業。
古めの機材を持ち込む代わりに料金を安く設定して営業を始めた。
本体にはBerkley James Harvestやロル&ケヴィンなどの常連も通い続け、70年代後半にはマーティン・ハネットがストロベリーと手を組み、Joy Division, Durutti Column, Pauline Murray, The Names, Minny Pops, Stockholm Monsters等の音源を制作し、この関係はマーティンが死ぬ1991年まで続いた。
他にもThe Buzzcocks, New Order, Crispy Ambulance, Blitz, The Wake, James, The Smiths, Simply Red and Saint Winifred’s School Choirなどもストロベリー・スタジオの常連となった。
ゴメンなさい…この辺りになるとサッパリわからないし興味もないのでコメントなし。
でもこのデザインは知ってる。
よく見かけるよね。

Jd しかし!
1986年になると、デジタル・レコーディングや打ち込みの普及、それにともなう宅録ムーブメントがストロベリー・スタジオを襲う。
高い評判を維持していたにも関わらず、ストロベリー・スタジオは店を続けて行くのが困難となり、2年ほど前に「ストロベリー2」を買収していたライバル会社の「Yellow2」というところに本体も売却することになった。
Yellow2の社長、ニック・ターンブルは「『Strawberry』の名前は世界でもトップ・クラスのモノである。我々のエンジニアとプロデューサーを配置し、『Strawberry2』と併せてイギリスのレコーディング・シーンを牽引していくであろう」と豪語した。
ところが皮肉なことに、従来式レコーディング・システムの本体とフル・デジタル・レコーディング装備の「2」という相反する体制は、使用するアーティストに色々な面で「どちらのスタジオを使うべきか?」という難題を投げかけることになってしまった。
アナログ⇒デジタルの過渡期に当たっちゃったんだね。
結局、1988年には体制を本体のスタジオだけに戻し、一時は勢いを取り戻したものの、デジタル化の暴風が吹きすさぶ日進月歩の録音機材の変化について行くことが経済的に出来なくなってしまった。
この頃になると、そうした最新鋭の機材を導入する余裕があるレコード会社が運営するレコーディング・スタジオが存在感が放ち、そうではない一般の小さなスタジオは存続が難しくなっていった。
そうして、1990年代に入るとストロベリー・スタジオのオーナーはレコーディング事業から撤退し、ビデオ事業に専念することを決心する。
結局はそれもうまくいかず、1993年にストロベリー・スタジオは廃業してしまった。
  
ストロベリー・スタジオの昔のパンフレット。
スタジオで常備している機材がズラズラっと載っている。
レコーディング・スタジオってのはいかに「機材が勝負」か、ということを思わせるナァ。

525v以上がストロベリー・スタジオの物語。
感動した?
しないか。
私みたいな古い人間にとっては、デジタル・テクノロジーってのは、こと「音楽」に関して言うと全てをブッ壊してしまった感があるナァ。
便利な部分があることは認めるが、今にして思うと創造性についても、ビジネスについてもいいことはほとんどなかったんじゃないの?
「I'm not in Love」の話なんか素晴らしいじゃない。
アナログの頃は、人力でできないことを何とか達成しようとする知恵と努力と風情があった。
ギター・アンプなんかヒドイもんだよ。
でもね…私の場合、LPからCDになって転勤族の時の引っ越しがラクになったということがあったんよ。
建物の脇には路地があって、その奥に建て増ししたような建屋の入り口がある。
人が頻繁に出入りしていた。

426写真をバンバン撮っていたら、オジさん(と言っても私より若いにキマってる)が近寄ってきた。
「ヤバい!怒られる!」とビビっていたら「何をしているんだい?」と尋ねてくる。
「イヤ、日本から来たんスけど、その…10ccの大ファンでして…もうスゴくうれしくて…」とかやっていたら、
「そう、10ccが好きなの?じゃこっちにおいでよ」と私を中に招き入れてくれた。ウオ~!
もちろん、ココがもうスタジオではなくなっていることは承知していたが、予想外の展開に大興奮!
レセプションに入って「写真を撮っても大丈夫ですか?」と確認すると「もちろん!好きなだけ撮っていきなよ!」と快諾してくれた。

427ココが元々レセプションだったのかしらん?
だとするとココにキャシー・レッドファーンがいたのかしら?
エエイ、違ってたって構わない!

450壁に掛けられたシングル「I'm Not in Love」のヒットを記念したパネル。
スタジオに関するコメントが掲載されている。
レコードの左から時計回りに…
 
「Hotlegsの『Neanderthal Man(ネアンデルタール・マン)』を作ったそもそもの理由はストックポートでスタジオが成り立つかを試すためだったんだ--- ロル・クレーム 1970年」
 
「ストックポートにスタジオがあるということは、我々だけでなく、我々と仲のいい他のミュージシャンを助けることになったんだ。みんなわざわざロンドンまで出かけて行ってロンドン価格のスタジオ代を支払うことにウンザリしていたからね---- 10cc 1978年」
 
「ストックポートの健全な部分…というよりむしろ質素な環境からストロベリー・スタジオ内部の素晴らしい設備を想像することはできない---- インターナショナル・ミュージシャン&レコーディング・ワールド 1976年」
 
「ピーター・タッターソールがワームウッド・スクラブスの北にスタジオを作ると言った時、周囲の人は彼は頭がおかしくなったと思った。ストックポートは北の果てだよ。『一体ダレがそんな所へレコーディングをしに行くんだ?』と彼に訊いた。彼の答えは『我々だよ』だった---- スタジオ・サウンド 1974年」
※ワームウッド・スクラブス(Wormwood Scrubs)はジム・マーシャルの生家があるホワイト・シティのチョット北。全然ロンドンのウチ。
コレを聞くとジム・マーシャルが1962年にアクスブリッジに楽器店を作ったのはかなりの冒険だったことがわかる。
 
「モータウンのスタッフはとてもうまくコトを切り回した。今ならポップソングの幅を広げようとしているストックポートだ---- メロディ・メイカー 1974年」

460v「Mercury」が寄贈した記念のシングル盤。

480ホンモノのシングル盤のA面は「I'm not in Love」でB面は『Original Soundtrack』に収録されていないゴドレー&クレーム・チームの「Good News」という曲だった。
煮え切らない感じの曲だが私はキライではない…でもアルバムに入れなくてヨカッタね。

コレ自体はエリックに贈られている。
プレートには「マーキュリーのシングル盤『I'M NOT IN LOVE』がイギリス国内で25万枚以上販売されたことを認め、10ccのエリック・スチュアートにコレを贈呈する 1975年」とある。

490その下の写真。
左は打ち合わせ中のエリックとタッターソール。
真ん中が創設者のそのピーター・タッターソール。
右は談笑する10ccの4人。ロルとケヴィンもチョット我慢して仲良くやっていればヨカッタのにね~。

11_st1 私がエントランスの写真を撮り終わったのを見計らって、そのオジさんが「じゃ、中を見せてあげるからついて来るといい」と更に中へと誘ってくれる。
こっちはもうそこがスタジオではないことはわかっているし、建物の中に入れたことだけで大満足だったので遠慮していると、「イヤ、大丈夫、大丈夫、おいでおいで!」と熱心に勧めてくれるので「じゃ」とお言葉に甘えることにした。
ドアを開けたところが下の写真。
事務所のフロアが少し低くなっていて、そこにいた人たちから私が丸見え。
そのオジさんが私のことを指しながら、事務所の人たち全員に向かって「この人、日本から来たそうだよ!」と大声で言うと、全員が私を見て「ハ~イ!」と言うワケ。
ダマっているのもナンなので「Sorry to interrupt you!  Hello, I'm from Tokyo and a big fanatic of 10cc.  That's why I'm here.  I 'm really excited!  Finally my dream came true!」とサッと挨拶した。
また「イエ~イ!」と皆さん拍手をしてくれてすぐに仕事に戻られた。
エライ恥ずかしかったわ!
今は、地元の出版社の事務所になっている。
そのオジさんが「かつてはココにスタジオになっていたんだよ」と教えてくれた。
かなり胸がイッパイになった。

510イヤ~、マンゾク、マンゾク。
ヒザの痛みなんかスッカリ忘れちゃった!
記念に自撮り。

520中学生の頃から大好きだった10ccのホームに行って、東京に帰って来て興奮冷めやらぬうちにストロベリー・スタジオのことを調べていたらこんなCDボックスセットを発見した。
『Before, During, After 10cc 』というコンピレーション・セット。

11_0r4a0007「10ccの前と最中とその後」のストロベリー・スタジオの仕事の記録。
1枚目が10ccのベスト・アルバムになっているんだけど、選曲は超ベタという感じ。
他にストロベリー・スタジオ第1号音源である例のHotlegsの「Neanderthal Man」だのニール・セダカの「Solitare」だの、ポールの「Pretty Little Head」が収録されている。
気になったのはPeter Cowapという人。
やたらとこの人の演奏曲が収録されている。
このボックス・セットで初めて名前を知ったんだけど、マンチェスター出身の歌手でグレアムと活動を共にしていたらしい。

11_0r4a0012 帰りにさっきに市庁舎にチョット寄り道してみた。

530やっぱりいいね~、こういう古い建物は。

540ココは棟続きの別館みたいになっているんだけど、十分にステキ。
エントランスの吹き抜けの天井がゴージャス。

550ん?
エントランスに置いてあった白い手袋。
その横には「JUNE」と題して(ココを訪れたのは6月)、美しいカリグラフィで人名と生年月日、没年が記してあるかと思うと、マリー・ジョーンズという人の心理学の優秀な成績を称える一文が載っていたりする。
ココでナニかセレモニーを開いた人たちの記録かな?

560…というのは、看板に「Bespoke Weddings tailored to you」とあるようにココで結婚式ができるようになっている。
「bespoke(ビスポーク)」というのは「オーダーメイド」という意味のイギリス英語。
「お望みの結婚式をあなたに仕立てて差し上げます」って。

11_img_0230 ホラ、こんなに立派で美しいホールがあるのだ!

570コレでストックポートを後にした。
行けるかどうかわからなかったストロベリー・スタジオに行けたことでスッカリ満足して他に何も見てこなかったよ!
あの帽子の博物館も行かなかったし、街中には「The Plaza」という古くて立派な劇場や100年続いている「Robinson's Brewery」というビール工場もあることを後から知った。
失敗した!
もう行かないだろうナァ。
やっぱり旅は下調べが一番重要ですな。
580vということで、ストックポートの駅へ戻って…

600今度はローカル電車で2駅先のマンチェスター・ピカデリーへ!
マンチェスターのレポートはShige Blogに掲載します。

11_img_0236<つづく> 

200_3

(2019年6月14日 イギリスにて撮影)