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2025年3月19日 (水)

バリバリ最強No.1が帰って来た!~祝FEEL SO BAD復活


アレから9年近くも経ったのか…道理で懐かしいワケだ。
2016年12月、FEEL SO BAD(以下「FSB」)が自らのレーベル「TURBO DREAMS」を発足し、その発表会を開催した。10v当然、発表会ではFSBがエキサイティングなライブ演奏を披露。30川島だりあ40v倉田冬樹50vChris60v翔己70そして山口"PON"昌人。80vNATALのツーバスのキットがPONさんにとてもお似合いだった。90当時ピアノをやっていたウチの上の子が『地獄先生ぬ~べ~』の大ファンで、彼に頼まれて番組テーマ曲の「バリバリ最強No.1」の譜面を書いてあげたことがあった。
それゆえ曲は知ってはいたものの、恥ずかしながらそれがFEEL SO BADというバンドのモノであることは知らなかった。
そして、PONさんがNATALドラムスを使ってくださるようになってから、彼が「ぬ~べ~」のドラマーだったということを知った次第なんですわ。
その後、このレーベル発足記念会を期にMarshall Blogの取材でFSBのライブにお邪魔するようになった。
手を変え、品を変えの充実したステージで毎回とても楽しかった。
ところが好事魔多し…この発表会からわずか3年で冬樹さんがご逝去され、活動停止を余儀なくされてしまった。
下は冬樹さんが作ってくれた私の名前が入った「FSB CREW」の認識票。
認識番号が「1962」になっているのは私の生年でありMarshall「Bluesbreaker」のモデル・ナンバー。
私の宝物のひとつなのだ。110それからというもの、PONさんと色んな現場で一緒になると時折「またFSBが復活するといいのにね」なんて話をしていたら…
100復活!
去る3月17日、FEEL SO BADがTBSの朝の番組『ラヴィット!』に出演したのだ!
130もちろん演奏したのは「バリバリ最強No.1」。140ナント29年ぶりにこの曲をテレビで生演奏したという。
だりあさんは「ホントに古い曲」とおっしゃっていたが、ゼンゼン古くならないね。
それだけ曲の完成度が高いのであろう。
150PONさんもバリバリに暴れまくった!160PONさんが使ったドラム・キットには「NATAL」のロゴ・サイン。
うれしいね~。170Chrisは後ろにMarshallを従えてバリバリ!
「JCM2000 DSL100」と「1960A」。180翔己くんも相変わらずのテクニックでバリバリ。190そして誰よりもバリバリだったのはだりあさん!
210こうしてこのメンバーでFSBが活動を再開することが決まったというではないの!
うれしいね~!
200PONさん、楽しみにしていますゼ!
バリバリやってください!220v(一部敬称略 写真提供:山口"PON"昌人)

2024年12月28日 (土)

目黒鹿鳴館物語<その5:最終回>


アイドルについて
S:ところで、アイドルの方はいつ頃からブッキングするようになったんですか?S41a0101_1
P
:14~15年前ぐらいですか。
S:ナニか特別なキッカケがあったんですか?
P:BABY METALですね。
それまではゼンゼン関係なかったんですが、彼女たちがデビューする時にプロデューサーの方から「イベントをやりたい」という連絡をもらったんです。
「BABY METALはXをモチーフにしているので、活動のスタートは鹿鳴館でなければダメだ」ということだったんです。
Xと同じ流れで鹿鳴館からスタートにして、武道館でやって、ドームでやって、それでウェンブリーをやったんですよ。
S:へぇ~、完コピしないと気が済まないというワケですね?
P:そうなんですよ。
で、連絡をもらった時には正直よくはわからなかったんですが、とにかく「主旨はわかりました」ということにしてイベントをやってもらった。
当日を迎えて、リハーサルを見て、並んでいるお客さんを見て、本番を見て…自分が考えていた「アイドル」というモノとはゼンゼン違うじゃないか!コリャ勉強不足だったな!と感じたんです。
そうしたら、アイドルの運営の人たちがBABY METALが鹿鳴館で演やったことを聞きつけて「鹿鳴館でアイドルが演ってもいいんだ?」ということになった。
S:「ナンダ~、ペペさんってアイドルに理解があるんだ~?ウ~ケ~るぅ~!」というワケですね?
P:そうそう!
それで問い合わせが増えて来て、その中で「BELLRING少女ハート」というアイドル・グループが自分たちのホームグラウンドを探しているんだけど紹介していいか?という話があったんです。
「それはもうゼヒ」ということで、出てもらったら「昭和のイメージでやっているので鹿鳴館の雰囲気は理想通りです!」とスッカリ気に入ってもらったんですね。
もう解散してしまったんですが、それからBELLRING少女ハートは結構大きなハコで演るようになって、今から10年位前ですけど「地下アイドルのひとつの到達点」と言われたんです。
だからBELLRING少女ハートは他のアイドル・グループの憧れの的で、対バン希望者もたくさんできて、結果「アイドルに鹿鳴館あり」みたいになっていったんです。
S:なるほど、そうやって始まったんですね。
 
シーンを作るのはライブハウスではない
P:コレは他の取材でも話したことがあるんですが、これまで鹿鳴館が「ジャパメタやるぞ」とか「ヴィジュアル系にするぞ」とか「アイドルで喰っていくぞ」みたいに舵取りをしたことって1回もないんですS41a0116_1よ。
S:時代がそうさせてきた?
P:そうなんですよ。だからカッコをつけて言うワケじゃありませんが、よく言う「ライブハウスが音楽シーンを作る」なんてのは絶対ウソですよ。
やっぱりシーンを作るのはライブハウスに出ているバンドのジャンルの勢いなんですよ。
S:ライブハウスは出てもらっているだけ?
P:そうなんです。でも、出てもらうからにはこっちも必ず出演者に向き合った仕事をします。
ヨソではアイドルを出すと恥ずかしいと思うようなところもあるようですが、ウチの場合は「鹿鳴館に出ている」ということがひとつのステイタスになっているようなんです。
だから「鹿鳴館がアイドルを取り扱うようになってくれて本当にヨカッタです」とよく言われますよ。
S:すると「鹿鳴館のアイドルの歴史」ということになると、BABY METALが一番最初だった…という風に考えていいんですね?
P:そうですね。ボクの気持ちが切り替わったのはBABY METALからです。
 
************<コラム21:鹿鳴館を記録する>************
コレは目黒鹿鳴館ではなくてチッタ川崎。
NATALドラムスが使われたのでMarshall Blogの取材にお邪魔した。
ステージに上がっているのは「RED-i」というアイドル・グループ。
『赤く塗りつぶせ』という、戦前・戦中だったら間違いなく大変なことになっていたであろうタイトルを冠した単独公演のようす。
以前、告知ポスターが目に入ってこのチームが目黒鹿鳴館に定期的に出演していることは知っていた。
426当日、会場内を歩いて回ったところ…おお!客席にペペさん発見!(こんなことなら写真を撮っておけばよかったな)
ちゃんと応援に駆けつけていらっしゃってスッカリ感心してしまった。
こういう気持ちが出演者に伝わるんだろうネ。480   
ロックの今後
S:しかし、はじめの方の話に戻るようですが、ペペさんってこのビルに37年いらっしゃるワケでしょS41a0144_1う?
今回そこから離れなければならないなんてどうしようもなく寂しいんじゃないですか?
P:まだ実感がないんですよ。次の計画もだいたいのところは決まっているんですけどね。
とにかく休みたくないとは思っているんです。
S:ペペさんはそうしてロックの現場の真っただ中に長い間いらっしゃるいわゆる「ロックのプロ」ですが、これからのロックってどうなって行くとお考えですか?
P:漠然とですけど、「個人個人の中にあるロック」で残っていけばそれでいいと思うんですよね。
その人が「ロック」だと思えば「ロック」なワケで…。
ま、日本のロックに関して言えば、少子化の問題もあってもうコレ以上繁栄はしないと思っています。
最近は現場に行かない連中がSNSで世の中の「ロック」という音楽に対してゴチャゴチャ文句をつけたりしているでしょ? S41a0114_1_2
もうロックの定義なんてナンセンスだと思うんです。
好きにやるのがロックであって、「あんなのロックじゃネェ」とか言っている連中がロックじゃないワケです。
そういう連中に限って「全ての音楽を聴いて来た」ぐらいのことを言いたがるんです。
でも多分そういう連中よりボクの方が断然音楽を聴いていますよ。
ボクはタワー・レコードより「No Music, No Life」ですから!
通勤の時に聴いて、鹿鳴館で聴いて、Pepe Trickで聴いて、家に帰って聴いて、寝る時にまた聴いていますから!
S:アッハハ!職場がロックだからどうしたって聴く時間が長くなりますよね。
P:ロックだけではありませんからね。あらゆる音楽を聴いています。
新しい発見があるんです。さっきのアイドルもそうです。S41a0147_1
で、気に入ればジャンルの分け隔てなくお金を出してCDを買います。
サンプル盤のような無料でもらったCDにはあんまり価値を感じないんですね。
もう一種の職業病みたいなものなのか、サンプル盤は「仕事」として聴かなきゃならない感じになってしまって純粋に楽しむことができない。
まだ知らない名盤とかがあってワクワクしますから!
S:うらやましいな…。
ところで、ロックの高齢化はどういう風にご覧になっていますか?
P:ウ~ン、やっている方が還暦を越えて絶滅危惧種みたいになって、お客さんもアラフィフになって来ましたよね。
でも若い人もタマにいるにはいるんですよ。
LAメタルが好きな若者が仙台にいて、「仙台にいてもどうにもならない」と思って東京に出てきたら、状況が仙台とまったく変わらなかった!…でも逆にそれで火がついてしまった。
結果として仙台にいるままだったら決してつくことのなかった火ですね。
ただ、そういう若い人たちは幻を見ているところもあって、ボクはドンズバでLAメタルを聴いていましたが、彼らが今想像しているのと当時の実際の状況は大きく違っていましたからね。
当時のロサンゼルスのことはわかりませんが、日本では彼らが想像しているより盛り上がっていなかったんだよ…みたいな。
S:一方ではデジタル技術が進歩して音楽制作の現場の様相が大きく変わってしまった。
P:今はAIを使うので曲を作るペースがものスゴク速いんですよね。
そんなんで「作曲」なんて言えるのかどうか…。
S:まったく。
目黒の鹿鳴館とはもうすぐさよならになってしまいますが、今後もペペさんの音楽に対する姿勢は変わることがなさそうですね?S41a0139_1
P:はい。
自分でも楽しみながら、新しい鹿鳴館から皆さんが楽しめる音楽を強力に送り出していきたいと思っています。
S:楽しみですね!今後ともMarshallとNATALをよろしくお願いします。
P:もちろんです!
S:本日はお忙しいところ誠にありがとうございました。
P:こちらこそ!
S:最後にひとつ…ペペさんが一番好きなバンドは誰ですか?
P:そりゃもうKISSです。
S:絶対にそうだと思いましたよ!S41a0005_1 ペペさんも昔のことをとてもよく覚えていらっしゃってね~。
当初「1時間もあれば大丈夫ですよね?」なんておっしゃっていたが、ナニをナニを!
フタを開けてみたら3時間近く語って頂くことになってしまった。
約40年分の話がまるで昨日のことを話しているかのように次から次へと飛び出してくるのだ。
今では話に出て来る皆さんのほとんど全員を存じ上げているので聞いていてとてもオモシロかったし、驚きの連続だった。
3時間がアッという間だった。
 
************<コラム22:鹿鳴館の思い出>************
最後に私自身の「鹿鳴館の思い出」を添えて『目黒鹿鳴館物語』の幕を降ろしたいと思う。
 
まずは…食べ物。
ライブハウスの近所においしいモノを食べさせる店があるかどうかはとても肝要なことでしてね。
目黒はJRの線路に向こうにあるこの「こんぴら茶屋」という讃岐うどんのお店がお気に入りで、鹿鳴館に行く前、かなりの確率でココで腹ごしらえすることが多かった。10カレーうどんがウリのようなのだが、私はカツオ昆布だしの普通のおツユのうどんが好きだった。
下はお店の名前を冠した「こんぴらうどん」。
ナンだか知らないけど、ココはトッピングのお餅がすごっくおいしいのよ。
「そういえば、昔のお餅ってこうだったよな~」みたいな。
ココのうどんももう「思い出」になっちゃうだろうナァ。202さて、うどんの次はお詫びと訂正。
イヤ~、マイったわ。
このシリーズの冒頭で「初めて目黒鹿鳴館にお邪魔したのは2010年の『メガトン・クラブ』だった」と断言してしまったが、それが誤りであったことが判明した。
しからば、私が生まれて初めて目黒鹿鳴館に足を踏み入れたのは誰が出演した時だったか…答えは田川ヒロアキだった。
ヒロアキくんは<その1>を読んでくれて、私が誤りに気付いてソロソロ確認の連絡がある頃だろう…と思っていたって!
もちろんこの公演のことは覚えていたが、一番最初の鹿鳴館だったとは気が付かなかった!
もうこの時には「JVM210H」を使ってくれていたんだナァ。
まだJVMが「新商品」だった頃。
それから15年の間ズッ~と使ってくれている。
ヒロアキくんのギターの音の良さの秘密がココある。
30_2「覚えていないんじゃ『思い出』じゃないじゃん?」と言われそうだけど、とりあえずソレはほうっておけ。
2009年11月21日、『メガトン・クラブ』に先立つこと約1年、ヒロアキくんが『FLY AWAY』というリーダー・アルバムをリリースした時の記念ライブがそれだった。2tagawaヒロアキくんが上京して、初めて大きな単独公演を開催した場所がこの目黒鹿鳴館だった。
みんな目黒鹿鳴館から始まってるんだネェ。
イベンターの人に見込まれ、Summer Sonic、Loud Park、そしてこの目黒鹿鳴館の3本立ての企画で、
以前からアルバムのリリースを計画していたので、この鹿鳴館の公演を発売記念ライブにしたのだそうだ。
メンバーは和佐田達彦、長谷川浩二、はんだすなお。2tagawa2 私もこの時に初めて鹿鳴館でシャッターを切ったことになるワケだが、撮ったウチの1枚が制作サイドの方に気に入られ、しばらくの間(今でも時々)ヒロアキくんのオフィシャル・ポートレイトとして使用された。
それが下の写真。目黒鹿鳴館で撮影したのだ。40v次がその勘違いしていた2010年12月21日の『メガトン・クラブ』。
スゲ~人だったナァ。
既にこの時はイスがあることを知っていたので「座って観られるのは助かるナァ」なんて思ったのも束の間。
それはトンデモナイ間違いで、長丁場の最初から最後まで始終立ちっぱなしでクタクタになってしまった。50この時、白田さんが出演されていた。55この後、白田さんにはアチコチでご一緒させて頂いたが、最近は全くご無沙汰で、数年前にメールのやり取りを少ししただけだった。
お身体の調子が思わしくないということは耳にしていたが、去年、いきなり訃報が飛び込んで来て本当にビックリした。60v2013年3月20日に開催された女性シンガーを主役に据えた『QUEENS OF NOISE IN TOKYO』というイベント。
出演したのはTAKAEITA。63EITAちゃんは最も付き合いの古いギタリストのひとり。
このイベントとは別に『EITA PARK』という自らの名前を冠したイベントを鹿鳴館で何度か開催している。50v_5この時、TAKAEちゃんは元気イッパイに声を張り上げていた。64vイベントではKRUBERABLINKAが後に続いた。66一風変わった歌詞と独特な曲づくり、そして卓越した演奏で私はこのバンドがとても好きだった。
ゼヒまた活動して欲しいバンドのひとつ。67vそしてイベントのトリを務めたのはRAJAS。
何度も書いて来た通り、私はジャパメタを全く通っていないのでこのバンドを存じ上げなかった。68反対にRAJASの福村さんのことはEITAちゃんが属していた「時空海賊SEVEN SEASのマネ―ジャー」として古くから存じ上げていた。
ところが、ドラマーだったということは噂程度にしか耳にしていなくて、失敬ながら福村さんがココでスティックを握っている姿を初めて目にしてすごく驚いた。
69v鹿鳴館はタマにしかお目にかかることができない東京近郊以外に在住しているミュージシャンに会うことが出来る場所でもあった。
下は2013年6月14日の『EITA PARK』に出演したEBONY EYES。
69_1この時、久しぶりに金谷幸久さんにお会いした。
金谷さんは関西を中心に活発な活動を展開し、今でも熱心にMarshallをお使い頂いて素晴らしいギター・サウンドを出してもらっている。
ありがたいことである。69_3_2013_6_14鹿鳴館のステージをMarshallで埋め尽くしたこともあった。702013年11月、今はもうないバンドのビデオの収録だった。
100アレ?今と床の色が違っていたんだネェ。
ね?こういうことは案外覚えていないものなのよ。
80コレ、始まりの時間が遅くて、ひと通り終わったのが真夜中だった。
夜に滅法弱い私はヘロヘロになって帰宅したことを覚えている。
でもやっぱり「Marshallの壁」ってのはいいもんだな。
鹿鳴館のステージにピッタリだ。902013年12月1日。
コレは2回目の『様式美大作戦』。120この時から『様式美大作戦』の東京公演は目黒鹿鳴館がホームとなった。Ysb ゲストとして足立"YOU"祐二さんが出演した。
私はYOUさんの訃報をいち早く三宅庸介さんから受け取ったのだが、その時は本当に信じられなかった。
130PONさんのメッセージにあったようにBLIND BIRDの初の単独公演も目黒鹿鳴館だった。135私はこのバンドが好きだった。
メンバーの個性が際立っていて、歌詞も曲もアレンジも他の凡百のバンドとは異なる私好みのサウンドだったのだ。
PONさんのドラムスは言うに及ばず、優也くんのギターもカッコ良かったし、何と言ってもベースが河野さんだったから。
そしてあの独特な直志さんの歌声が曲にベストマッチしていた。
だからライブがあると欠かさずMarshall Blogの取材にお邪魔した。
136v直志さんはステージで数曲ギターを弾くのでギター・アンプを自ら持参していたが、それはMarshallではなかった。でも私はそれを気にすることは全くなかった。
ある時、渋谷のライブハウスの楽屋で直志さんが真顔で私にこう尋ねて来たことがあった。
「あの~…ナンでそんなに我々に親切にしてくれるんですか?」
直志さんは後に私が取材の請求書でも送り付けて来るのではないか?と心配していたのであろうか?
模範的な回答としては、「PONさんがNATAL、優也くんがMarshallを愛用してくれているので、ブログでライブのレポートをするとブランドの宣伝になるんですよ」となるのだが、私はそうは答えなかった。
本心からとっさに「BLIND BIRDが好きだからですよ!」と返答した。
事実だから仕方がない。
そして…その後のことだったように記憶しているが、直志さんのギター・アンプがMarshallの「JCM800 2203」に替わった。
直志さんはそんな人だった。
PONさんから訃報を耳にした時、あまりに突然すぎて意味がわからなかった。
137こんなショウにもお邪魔したことがあった。
『ALICE in The DEAD WORLD FINAL HALLOWEEN Party』というイベント。
実はコレは鹿鳴館のスタッフのしきちゃんからのリクエストだった。
「Satan」という2人組のチームのギタリストが「Marshallを使っているので取材をして欲しい」という話だ。
1402014年の10月31日だからハロウィンの日だね。
鹿鳴館の入り口の階段の壁に左右の目にそれぞれ異なる色のコンタクトレンズを入れた男が写っているポスターが貼ってあって、予てからそれがチョット気になっていた。
それがSatanだった。
そんなこともあったのでしきちゃんのご要望に応えるべくお邪魔した。
すると…コレが大変に楽しかったのだ!
170お客さんがみんなこんな格好をして来てフロアで大騒ぎ!150終演後には仮装を施したお客さんたちの記念撮影をさせてもらったことも今となっては楽しい思い出だ。160鹿鳴館の令文さんも何度か取材させて頂いた。
コレは2014年11月2日の『BATTLE OF FORCE』というイベントのひと幕。180令文さんはMARINOで出演。
私にとっては2008年に中野サンプラザで観た『JAPAN HEAVY METAL FANTASY 関西なぐり込みギグ』以来2回目のMARINOだった。190中間さんのHURRY SCUARYやMEDUSA他が出演し、会場はパンパンでホール下手の壁際に設置した脚立の上に乗ったきり最後まで一度も下に降りることが出来ない有様だった。
その位置からは2階席の一番前が丸見えで、大谷一門会の門弟であるノンちゃんがうれしそうな表情で師匠の演奏を見守っている姿がよく見えた。
200v令文さんはこんなことをやっているけど、実は開演前はゼンゼン「グ~!」じゃなかったんですよ!
何が起こったのかは、令文さんと仲のヨカッタ方ならだいたいの察しがつくことだろう。
しかし演奏はスゴかった!
その開演前のイメージもあって、まさに「ギターの鬼神」と呼べるかのようなパフォーマンスだった。
195vああ、令文さんが出すMarshallの音が聴きたい!
ロック・ギター界は今こそ令文さんが必要なのだ!
私もリアルタイムでMARINOを知っているワケではないのでエラそうなことは言えないが、これからはこの令文さんのMarshallの音を聴いたことがない世代の連中ばかりになってしまうことがとても心配だ。210vペペさんが鹿鳴館をホームにしているバンドのひとつとして「高橋ヨシロウ」さんのお名前も挙げていらしゃった。
下はヨシロウさんのバンドで出演した時の令文さん。
2014年12月21日、ACTIONのデビュー30周年を記念する公演。220この時、私は写真の仕事を頼まれて、撮影スペースを確保するために前柵を設置してもらった。
ド派手な演出で、我ながらとてもいい感じに撮れてうれしかったね。
こうしてCO2もブッ放したんだよ。230それだけではなくてこんな赤い花ビラも舞わせたりして、それはそれはゴージャスなショウだった。240モチロン令文さんの「アクショ~ン!」もバッチリだった!260ちょうどこの頃、私が監修を務めた『アンプ大名鑑[Marshall編](スペースシャワーネットワーク刊)』という本が上梓されて、令文さんからご注文を頂戴し、この時に鹿鳴館でお渡しした。
下の写真はその時に鹿鳴館の楽屋の廊下で撮ったもの。
ちなみにこの本、定価は4,500円だったが、現在はインターネットで12,000~21,000円ぐらいの値段が付いていてちょっとビックリ。
私の苦労代が今頃上乗せになったんだな?
270vやっぱりペペさんも「本当にうまいギタリスト」として、令文さん、YOUさん、白田さんのお名前を挙げ、そのご逝去を本当に残念がっていらっしゃった。
250SHOW-YAが目黒鹿鳴館のステージに帰って来たのは2015年8月30日のこと。
この時も当然パンパンで、客席の後ろに立てた脚立の上でできる身動きと言えばカメラを持ち替えることだけだった。
ま、そういうことは今でもタマにあるもので、10年前のこの頃はそんな環境にも耐えることができた。
一方、とても耐えられなかったのは場内の気温。
も~、殺人的に暑くて、開演直後から着ていたシャツがすぐさまビチョビチョになってしまった。
終演後、楽屋で私の汗ダクの姿を見たSHOW-YAのメンバーからも「チョット大丈夫?」と心配されてしまったぐらいだった。
286この時の様子がDVDに収められ、私が撮影した写真をジャケットにご採用頂いた。
DVDを観ると、1曲目の「限界LOVERS」を歌い終えた恵子さんが「ものすごく暑い!」みたいなことをおっしゃっている。
そう、本当に暑かったのだ!
この後ぐらいにホール内のエアコンが入れ替わったのではあるまいか?
280この後も、Concerto Moon、BLINDMAN、様式美大作戦を中心に様々なライブにお邪魔してMarshall Blogの取材をさせて頂いた。
そして、コロナがやって来た。
Marshall Blogの記録を調べてみると、上に挙げたように2013年と2014年に最も足繁く通っていたようだが、コロナ騒ぎが始まった2020年はナント「0回」!
この年、目黒鹿鳴館に行くことは一度もなかった。
その沈黙を破ったのはやはりConcerto Moonだった。
翌2021年の7月17日、『Rain Fire』のレコ発公演だ。210717_rf2021年は他に11月21日のREACTIONの『FAREWELL』にお邪魔した。
Marshall Blogに掲載された2021年の鹿鳴館でのライブのレポートはこの2回だけ。2111212022年になって…やはりConcerto Moon。
1997年にリリースしたデビュー作『Fragment of the Moon』のリリース25周年を記念したアルバム再現ライブを5月7日に開催。
ね、コロナの期間中はこうしてステージの前を開けてくれていた。
コレが我々写真班にとってどれだけありがたいか…。
私も40度の熱が1週間続いて死ぬかと思ったコロナを憎んだが、この「前柵(英語では"Press Pit")」というコロナがもたらした恩恵に喜びを隠し得ないことが何度かあった…というのは正直なところ。
ところで、私はコーヒー牛乳を片手にペペさんが担当する照明が好きだった。
ピンスポットの当て方がキメ細やかで、とてもキレイな写真を撮ることができたからだ。
やっぱりぺぺさんは昔から様々なコンサートをご覧になっていて、ステージの上で起こっていることをいかに奇を衒うことなくお客に上手に見せるか…ということを体得されていたでしょうナァ。
220507その1週間後のBLINDMAN。
アルバム『Expansion』のレコ発公演の2回目。
コレも前の柵の中から撮影している。2205158月6日にはNAKED MACHINEが『Vanity of the World』のレコ発を開催。22080611月には再びBLINDMANが登場し…221103この年の最後にConcerto Moonがファンからのリクエスト曲を演奏する『Request of the Moon』を開催した。
2022年は5回。
結果、Marshall Blogとしてはコロナの全盛期だった2020年~2022年までの3年の間に目黒鹿鳴館で開催されたライブはこれらの合計7回しかレポートすることができなかった。
3年間でたったの7回だよ!
もちろん、コレはMarshall Blogの取材に限った話で、実際にはその他のショウが目黒鹿鳴館で数多く開催されていたのであろうが、ペペさんもさぞかし大変なことだったろう。221217こうして軌跡をたどってみると目黒鹿鳴館はMarshall Blogにとっても大事な大事なホームグラウンドであったことを実感するナァ。302この連載も今日で最後。
来年1月19日の最終日まで行く用事はもうなさそうだ。
310_2となると、鹿鳴館がホントに遠くへ行ってしまったようでとても寂しい。320Marshallを使った数えきれない名演・激演が繰り広げられたステージ。
37年の間Marshallが、そして10年の間NATALがお世話になりました!
 
最後に手前ミソながら…今回、Marshall Blogをやっていて本当にヨカッタと思った。
こうして目黒鹿鳴館の歴史と姿を半永久的に残すことができたし、ココで繰り広げられたライブの様子をいつでも、そしていつまでも見返すことができるのだから。
そんなことができるのは恐らく世界でもMarshall Blogがある日本だけではなかろうか?…知らんけど。
新しいモノだけが良いモノと妄信しがちな日本人とは大きく異なり、伝統こそを重んじるイギリス人のやり方なんかを見ていると、「残す」ということは「創る」のと同じぐらい大切だということを思い知る。
目黒鹿鳴館はファンの皆さんの心とMarshall Blogの中で生き続けるのだ。
そんなつもりで展開しているMarshall Blogに全面的な協力をしてくださった目黒鹿鳴館には心から感謝申し上げる次第である。Stage 末筆ながら、いつでもご親切にしてくださったペペさん、小関さん、しきちゃん、スタッフの皆さんに心から御礼を申し上げます。
そして新しい「鹿鳴館」に移ってもMarshall、NATAL、Marshall Blogをよろしくお願い申し上げます。
ペペさん、お忙しい所全面的なご協力をどうもありがとうございました!
330v<おしまい>

************<コラム22:鹿鳴館を記録する(番外編)>************
本記事を脱稿した後、ペペさんが昔の鹿鳴館の写真を発掘された。
目黒鹿鳴館を記録することがこの記事の大きな目的のひとつなので、それらの写真を拝借してココに掲載することとした。
1991年頃の様子だそうだ。
 
入り口から降りて来た階段の踊り場。
10_3ホール入り口のロビー。
自動販売機が置いてあったんだネェ。
昔の鹿鳴館はドリンクを取り扱っていなかったからね。
20「ALL NIGHT STUDIO」のサインを出しているところを見るとまだこの頃はスタジオが営業していたんですな?30_3コレは階席。
こんなに広かったのか!?40奥の楽屋。
まだ鏡が壁に取り付けられていなかった。50_2舞台へ上がる階段を上から見下ろしたところ。60v_2

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2024年12月27日 (金)

目黒鹿鳴館物語<その4>

 
鹿鳴館のアノ話
S:ところでこのホールだとか楽屋のフロアが地下にあると思っている人が多いですよね。
ココは地下ではない…廊下の窓を開けると地上ですもんね。
今は慣れましたけど、私も一番最初はココが地下だと思い込んでしまって、誰もいない時なんかはこの辺りが結構コワい感じがした。
お差し支えがなければそっち方面のお話を…噂では学生服を着た中学生の男の子が男子トイレに立っているとか…。S41a0141_1
P:そっちの話?ゼンゼン大丈夫ですよ!
その手の取材はこれまで何度も受けていますから。
S:あ、そうだったんですか?さすが!
P:ボクも3回ぐらい「不思議な体験」をしているんですよ。
実はボクも中学生を見ているんです。
S:ヒエ~!
P:2階で照明をやっていた時のことです。
2階席は関係者しか入れませんが、それを知らないでライブをやっている最中に勝手に上がって来ちゃう人がいるんですよ。
カメラマンとかだったら放っておきますが、そうではなくて一般のお客さんが上がって来た時にはピンスポの担当者の肩を叩いて「降りてもらえ」って合図をするワケ。
ある時、照明をやっていたボクの視界に見知らぬ中学生の男の子が入って来たんです。
ホントに白いシャツに白いズボン、メガネをかけたボウズ頭の子がしゃがんでいるんですよ。
最初はそういう衣装を着た出演者かと思ったんですが、そんなのいないし。
一般のお客さんが入ってきたのかとばかり思ってピンスポのヤツに合図をしたらソイツはキョトンとしているんです。
「しょうがね~な~、出て行ってもらえ」ってその子の方を指したらもう跡形もなく姿を消していたんです。その間、1秒ですよ!
S:やっぱり…。そりゃ間違いないな。
P:まぁ、期待を裏切るようで申し訳ないんですが、以前にもインターネットの取材の申し入れがあったんですが、鹿鳴館は女性のお客さんも多いし、アイドルも出ていますでしょ?
彼女たちをコワ怖がらせてはマズイということで取材を断ったんです。
でもオモシロ半分ではなくて真剣な取材だから…と何度も頼み込んでくるので事前に原稿をチェックさせてもらうことを条件にOKしたんです。
そして「霊能者」という方がやって来たんですが、来てすぐに「ココにはいない」って言うんです。
「以前はいたかもしれないけど、移動して行った」…って。
その場所のトップの人やスタッフが強力なパワーを持っていると霊が居づらくなって移動して行っちゃうんですって。S41a0113_1
S:「ペペさんパワー」ですね?
P:へへへ!
さっき3回経験したと言いましたが、他の2回も2階席だったんです。
でも全部コワくなかったんですよ。
よく聞く「ゾワゾワという感じ」が全くしなかった。
下からすごくキレイな手が上がって来て床をビチビチ叩くんですよ。
女の子が下から手を伸ばしたところで届く高さではないでしょ?

でも「ナンダ今のは?」という感じでゾッともナニもしませんでした。
S:私だったら飛び上がっちゃうナ。
P:でもね、スタジオをやっている時は終了時間を知らせるベルが勝手に鳴ったり、スタジオの中に誰かがいる気配がしたりで、予約が入っていない時の深夜ひとりの留守番はみんなイヤがっていましたよ。
さっき話したようにスタジオがあったところも地下ではないんですが、「地下だから」という思いこみでコワくなっちゃうということもあったようです。
S:私はココが地下ではないということが比較的すぐにわかりましたよ。
坂を下りて来る時に外の地形を見ていればわかる。
 
鹿鳴館の座敷わらし
S41a0101_1P:でもはじめの頃はコワく感じることもありましたよ。
一番コワかったのはトイレからホールに上がる階段。
S:トイレ自体ではなくて階段ですか?
P:そう。ナンカ人の気配を感じたんですよね。
それとステージに上がる階段。
ご存知の通り、鹿鳴館に出ていてメジャーに行ったバンドがいくつかありますよね?
メジャー・デビューして武道館で演りました、ドームで演奏りました、という大出世したバンド。
そういうバンドの人たちがみんなこういうんですよ…「他の会場でもそこそこ緊張するけど、鹿鳴館のステージに上がる階段が一番緊張します」って。
S:楽屋の向こうの細い階段?
P:はい。そういう風に言っていたバンドがひとつやふたつではなくて、何十組もいるんですよ。
理由はわからないんですけど、とにかく緊張するんですって。
でも別の言い方をすると「初心に帰ることができる」って言うんですよ。
あの階段が最初の頃の気持ちに戻してくれるというワケです。
S:まさか幽霊のせいとは思っていないから!
P:そう、ハハハ!
だから鹿鳴館にいるのは「霊」ではなくて「魔物」なんじゃないか…イヤ、魔物というか「座敷わらし」S41a0131_1みたいな?
それがいい意味の緊張をもたらして良い結果を生んでくれる。
S:座敷わらしを見ると幸運が訪れる…というヤツですね?
守護神がいるみたいな?
P:そうそうそうそう、そういう感じの方がつじつまが合う。
「悪霊」ではないと思えるのは、ウチでは事故が起きていないんですよ。
ま、イスがあったおかげで将棋倒しみたいな事故を防ぐことができた…ということもあるんですけどね。
「お祓いしてもらった方がいいよ」なんてことが全くなかったんです。
S:それはナニよりですよ!

************<コラム16:鹿鳴館を記録する>************
鹿鳴館のチョット手前のところ。
まっすぐ権之助坂を降りればすぐに右側に鹿鳴館。
右に曲がると道はグ~っと下がって行くかなり勾配のキツイ坂だ。
Img_2209この辺りは昔どうなっていたのか?…と思って去年神田の「古本祭り」で買った自慢の古地図のソフトを引っ張り出してきて江戸時代後期のようすを調べてみた。
それが下の地図。
江戸の昔、鹿鳴館があった場所は「中下目黒村入会(いりあい)」というところだったようだ。
この坂の右側の今コンビニがある辺りから目黒駅寄りは「肥前島原藩 松平主殿頭忠精(まつだいらとのものかみただきよ)」の領地と記されている。
鹿鳴館とはゼンゼン関係ないけど、島原は元は天領で松倉家が入封したが、あまりにもキツい治世をして農民をイジメたせいで1637年、天草四郎時貞の元で暴動が発生した。
コレが有名な「島原の乱」。
「島原の乱」ってキリスト教を弾圧することによって発生した暴動だと思われる向きがあるけど、そうではなくて松倉の圧政に対する農民の反抗だったのよ。
「乱など起こさせおってこのバカが!」ということで松倉家は改易(平民に格下げ、武士への量刑としては切腹の手前)させられ、後に徳川スタッフの松平家が入封した(直系、ご三家、ご三卿以外の德川関係者はみんな「松平さん」)
さらに『江戸三百藩(人文社刊)』という本で調べてみると、島原藩は中屋敷を持っておらず、上屋敷は有楽町、下屋敷は三田にあった。
だからこの目黒はただの島原藩が所有している土地だけだったのだろう。
一方、「入会地(いりあいち)」というのは、まぐさや萱などの飼料の原料を作るための近隣の住民(農民)の共有スペース。
要するにこのあたり一面はスカ~ンと野ッ原と田圃だったのであろう。
浅草の観音様の背後ですら「僻地」と呼ばれていた時代だから、言っちゃ悪いけど「目黒村」ともなるともう江戸の西の地の果てだったに違いない。
下の地図で目黒駅のすぐ下に見えているJALのロゴのような家紋は播磨三日月藩、森家の上屋敷。
ロゴはカッコいいけど石高は1万5千石だから大したことはない…そんな地の果てに上屋敷があるぐらいだからね。
Oldmapチョット坂を降りて左側に目をやる。
真ん中の黄色い非常階段が付いているビルが目黒鹿鳴館が入っている「ヤマザキビル」。Img_2207表から見るよりズッと大きいと思わない?Img_2765鹿鳴館の中に入って…ココは楽屋のスペース。
壁に窓が付いているでしょう?Img_2252それを開けるとすぐにコンクリート壁が現れる。Img_2298廊下の窓も同じ。
そう、インタビューに会ったようにココは地下ではなくて地上なの。
だって地下に窓がある建物なんてあるワケないでしょ?…と言っても楽屋には入らない一般の皆さんにはピンと来ないか?
言い換えると、皆さんがアタマを振って腕を振り上げてライブを楽しんでいるあのホールは地上2階にあるのです。
つまり目黒鹿鳴館は地下では全くないし、地下は存在すらしない。
このビルがあの坂の下のレベルに建てられているからこうなるんだね。
裏から見るとこのビルが大きく感じるのもそのせい。
タメになるね~。
この楽屋スペースが1階だから、そこから数えると道路に面している入り口は4階ぐらいになるのかな?
いまだにココが地下だと思っている人が多いようなので最後にこのことを明らかにした次第。Img_2247廊下の入り口側。
ロビーから降りて来る階段の背面にトイレがある。
Img_1801_1_2せっかくだからトイレも記録しておこう。Img_1802_1ええい、ついでだ!コレが男子トイレ。
中学生の男の子をココで見たことがある…という噂はどうもデマだったようだ。
イヤ、「ペペさんパワー」が知らない間に退散させてしまったのであろう。
Img_1804_1そのトイレの横からホールへとつながっている階段。Img_1805_1ペペさんによると、ココに誰かがいるような感じがする…というのだ。
私も数えきれないぐらいこの階段を上り下りしたけど、サッパリわからなかったです。Img_1806_1その階段から上がって来てこのドアを通ってホールに入る。Img_2240廊下の反対側。
コレが楽屋スペースからステージに上がる階段。
前回KANちゃんも言っていたけど、出番直前のミュージシャンがココで大いに緊張するらしい。
ココも何度も行き来したけど、私は一度たりとも緊張したことがないわい。
Img_9842昔はこんなようすだった。S41a0157その階段を上がって、このドアを通ってステージに入る。Img_2233するとステージからはこんな景色が広がる…というワケだ。
2階席は結構な高さだからね、ペペさんが言っていた通り、女の人の手が上がって来るなんてことは絶対にあり得ない。
やっぱりペペさんは貴重なモノを目にしたな。Img_22242階席へ上がる階段。
関係者以外は立ち入り禁止だ。
Img_2222反対から見たところ。Img_2220昔はこんな感じだった。S41a0152_2照明のポジションから2階席を見る。
この辺りに中学生がしゃがんでいたんだネェ。Img_22172階からの舞台の風景。
こういう風に見える。
ステージは最後の目黒鹿鳴館の出番を待つばかりのCONCERTO MOONのセット。Img_2216ところで、この鹿鳴館の内装について本シリーズの<その1>にご登場頂いたREACTIONのユキさんからオモシロイお話を伺った。
ユキさんは、REACTION解散後に加入したDEVILSも解散し、「第二の人生」よろしく職人3人を擁する内装業の会社を立ち上げた。
そして、2010年に目黒鹿鳴館の前の社長から仕事の依頼があり、叙々苑の脇の入り口から一番奥の楽屋まで、電気設備や壁面の塗装、床貼り、ステージの補修等々ホール内を除くすべての箇所の改装を一括でユキさんの会社が請け負うことになった。
だからホール以外の今の鹿鳴館の内装はすべてユキさんたちの手によるものなのだそうだ。
だからこの真っ黒い黒い壁の塗装もそう。「漆黒にして欲しい」というリクエストがあったのだそうだ。Img_1807_1改装前、この奥の楽屋の床は土間コンクリートがムキ出になっていのだそうだ。それはヒドイな。
「キレイな部屋にして欲しい」というリクエストを受けてユキさんたちがコンクリートの上に床板を載せてこのような仕様になった。
Img_2249
ステージに上がる階段の壁の色にも当初は「漆黒」のリクエストが寄せられたが、本番で照明を落としてバンドがステージに上がる時、すべて黒い塗装にしてしまうと足元が見えず大変危険であるため、ユキさんのアドバイスでこの色が採用された。
実際に足を踏み外してひどい捻挫を負ってしまったバンドがあったのだ。
昔は底が高い靴を履いてステージに上がるバンドが多かったからね。Img_2248かつてはツーバスを擁するような特大のドラム・キットを使用する時は既成のドラム・ライザーに乗り切らないため舞台に直置きしていた。
そこでエキストラのライザーを製作して面積を広げ、大型のドラム・キットでも載せられるようにしたのもユキさん。
ずいぶん器用な人だ。
何でもおジイちゃんが大工さんで子供のころから大工仕事のお手伝いをしたそうだ。
ウチは父も祖父も大工で、学生時代は私も小遣い欲しさにずいぶん手伝った…けど、私は全然ダメ。
でも、下地の釘を打つ速さはそこらのヤツには負けないぜ。
結果、今、鹿鳴館でツーバスのドラマーがライザーに乗ることができるはユキさんのおかげなのだ。
このエキストラのライザーはユキさん個人で製作したもので鹿鳴館に寄贈された。S41a0447 それだけに<その1>のコメントにあるように、文字通り「鹿鳴館をともに作ってきた」という思いがあるそうだ。
下の写真は「ドヤ顔」のユキさん。S41a0541 
鹿鳴館伝説
S:(事務所内に飾ってあるポスターを指して)あの『鹿鳴館伝説』…アレは何年でしたっけ?
S41a0140_1_2
P:2010年と2012年…震災の年を挟んで2回やりました。
S:うれしかったでしょう?
P:そりゃうれしかったですよ!
S:出演者はどうやって決めたんですか?
P:純粋にボクが「鹿鳴館らしいイベントをやりたい」と言い出して、鹿鳴館に縁のあるジャパメタとヴィジュアル系の代表的なバンドを選んだんです。
普段だったら絶対に実現しない組み合わせもあって、ファンの間では「夢の共演」が実現したイベントだったんですよ。
S:それはイベントの醍醐味ですね。
P:JCBホール(現東京ドームシティホール)はスタンディングでキャパが3,000なんです。ま、初日のヴィジュアル系は入りがよくて1,500、2日目のジャパメタは1,000は入らないだろうな~、と読んでいたんです。
ところが、フタを開けてみると、初日が2,200、2日目は2,800ぐらい入ったんですよ。
ほぼほぼソールドアウトでした。
で、翌年にも開催しようと思ったんですが、結果的に震災でできなかったので、2年後の2012年に1日にまとめて開催したんです。
S:2回とも大成功してヨカッタですね!
P:まったく。
実は2020年には「40周年記念」のイベントをやろうと思ったんですが、コロナになっちゃったんです。
またメタル系とヴィジュアル系の2本立てという企画で、出演バンドにもオファーをして、会場も押さえてあったんですよ。
S:ウワァ、それは残念でしたね~。

************<コラム17:鹿鳴館を記録する>************
事務所内に飾られている『鹿鳴館伝説』のポスター。S41a0094_1JCBホールの満員のお客さんと出演者との記念撮影。
ぺぺさん、うれしかったろうナァ。11_0320

************<コラム18:鹿鳴館の思い出>************
来年30周年を迎えるBLINDMANを率いてきたギタリストの中村達也。
達也さんも鹿鳴館の古参のウチのひとりだ。
 
中村達也
S41a0747「初めて鹿鳴館のステージに立ったのは1987年。
それから37年の間ずっと継続的に出演していたわけではありませんが鹿鳴館はずっと大切な場所でした。
決して大きくはないけれど、ステージが高くてお客さんの顔が良く見える。
死ぬまで絶対に忘れない景色です。
そういえば、1989年の1月7日、昭和天皇が崩御された日にブッキングしていて、とにかく前例のないことだったので、当時のスタッフの方々がアチコチのライブハウスに連絡を取って営業するかしないかの検討していたのを思い出します(もちろんライブはキャンセルになりました)。
そして、新しい鹿鳴館にはボクらも出演したいし、若く新しい世代のバンドたちのためにも一日も早い再開を期待しています。
ペペさん、同じ齢どうしお互い身体に気を付けて頑張りましょうね!」
 
<BLINDMANは去る12月22日、目黒鹿鳴館の最後のステージを終えた。ショウのもようは後日Marshall Blogにてレポートします>0r4a0223

************<コラム19:鹿鳴館の思い出>************
PONさんも古い。
広島から上京してプロ・ドラマーとして初めて立ったステージが目黒鹿鳴館だったのだ。
 
山口PON昌人160v「かれこれ41年前、プロアーティストに憧れて上京した時、東京で初めて立ったステージが目黒鹿鳴館でした。
NOVELAやACTIONの曲を演奏するように頼まれてセッションに出ました。
慣れないメイクもされたりしてね!
それからはバンドを結成する度に必ずブッキングしてもらっていました。
そして遂に28歳の時にメジャーデビューしたのがFEEL SO BAD…その初ライブも鹿鳴館でした。
確かシークレットライブだった。
その後、活動の拠点を大阪に移して10年ほどご無沙汰だったんだけど、また東京に戻って2010年に結成したのがBLIND BIRDで、その初のワンマン・ライブも鹿鳴館で演りました。
様々なアーティストのサポートで数えきれないぐらい鹿鳴館の舞台に上がりました。その経験と仲間たちとの出会いで今の自分があると言っても過言じゃないと思います。
それと、常備のドラムスが現在エンドースしているNATALのメイプルのドラム・キットだったので常に安心して演奏できることがありがたかったですね。
機材を抱えて階段を上り下りしたこと、楽屋でバンド仲間や対バンの連中との大騒ぎ、SEが流れてドアを開けてステージへ入る瞬間などなどみんなと作った楽しいライブの思い出は一生忘れることがないでしょう。
新人スタッフで鹿鳴館に入って来た頃からペペさんには本当にお世話になりました。
目黒での鹿鳴館は一旦ピリオドになりますが、伝説はまだ終わらないはず。
楽しみにしてるし、これからもよろしく!
目黒鹿鳴館、本当にありがとう!そしてお疲れさまでした!」

<PONさんがメッセージの時に触れている2014年8月10日のBLIND BIRDの初のワンマンの時がコレ>Img_0046 <その時に撮ったPONさんの写真。NATALのスリー・バスドラム!>Img_0033_2 
************<コラム20:鹿鳴館の思い出>************
最後に目黒鹿鳴館に言葉を贈るのは島紀史。
ペペさんが「鹿鳴館ホーム」のバンドとして真っ先に頭に浮かべるというのがConcerto Moonだ。S41a0021「関西に住んでいたボクにとって目黒鹿鳴館は憧れのヘヴィメタル/ハードロックの殿堂でした。
そんなボクが初めて鹿鳴館で演奏したのはCRYSTAL CLEARの時代でしたが、それはレーベル主催のライブだったので、上京してConcerto Moonを結成して、やっと自分たちの看板で出演出来た時はメチャクチャうれしかったです。
目黒鹿鳴館は簡単に出演できるライブハウスではなかったし、そこに出演できるバンドをやっているということに誇りを感じていました。
それ以来、目黒鹿鳴館をホームグラウンドと言えるバンドでいたいと思っていました。
一度、演奏中に会場のすべての電源が落ちてしまったことがあるのですが、その時はトラブルにアセるどころか、「自分は鹿鳴館の電源を落とすぐらいラウドなバンドをやっているんだ!」と思い、興奮してそこから演奏のテンションが何段階も上がった記憶があります。
ペペちゃん、目黒鹿鳴館を守り続けてくれてありがとうございます!
アナタがいなければ鹿鳴館はなくなってしまっていたかも知れない…と思っています。
新天地での鹿鳴館で演奏するのが待ち遠しいです。
場所は変わってもアナタがいればそこは「鹿鳴館」です。
相変わらずマニアックなメタル話をしてテンションを上げてからステージを踏むことが出来るのを楽しみにしています!
鹿鳴館はいつまでもボクの憧れの場所であり、ホームグラウンドです。
また電源が落ちるぐらいのラウドな演奏をしてビックリさせてやるぜ、鹿鳴館!」
  
<通常、Concerto Moonはステージの背面にバンド・ロゴが入ったバナーを掲げていた>0r4a0039<下は去る12月14日の目黒鹿鳴館最後のConcerto Moonのステージ。
お気づきであろうか?
島さんはConcerto Moonのバナーを取り付けず、「鹿鳴館」のネオン・サインをあらわにして演奏したのだ。私はこのことに途中で気がついて、心を込めてシャッターを切ったわ>0r4a0015<最終回につづく>
 

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イギリス南西部のコーニッシュ出身のキング・クリーチャー。
本場のブリティッシュ・ハードロックを存分にお楽しみあれ!

<Lowlife>

<Can You Forgive Me>


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200 (一部敬称略 ※写真提供:ぺぺさん)

2024年12月26日 (木)

目黒鹿鳴館物語<その3>

  
大型トラブル発生!
S:それではヒドイ目に遭った話を聞かせてください。S41a0003_1P:ヒドかった話ネェ…。
S:何やらたくさんありそうですね?
P:いっぱいありますよ~!
そうね~、アレはスゴかったナァ。
あるヴィジュアル系のバンドが仕切ったイベントでした。
S:一体ナニが起こったんですか?
P:はい、ヴィジュアル系のバンドだけを集めてやればよかったんですが、ナニを考えたのかハードコアのバンドと組み合わせた企画だったんです。
ハードコアの連中ってのはちょっとコワいワケですよ。
それで8バンドぐらいが集まってやるにはやったんです。
「やった」まではヨカッタんですが、ハードコアの連中にしてみるとヴィジュアル系なんてどうでもいいワケですよ。
ハードコアとヴィジュアル系が交互に出演して行って、このままナニも起こらなければいいナァ…なんて思っていたんですが、最後の最後に両方のバンドが出るセッションがあったんです。
それに出たハードコアのバンド・メンバーはわずかで、ヴィジュアル系のバンド・メンバーばっかりだっS41a0035たんですね。
その時演奏したのはセックス・ピストルズの「Anarchy in the UK」かなんかだったかな?
そうしたら2階にいたハードコアのファンの連中が「お前らナンだってパンクの曲なんか演ってんだ!」って怒り出してステージに向かって空き缶をガンガン投げ出したんです!
S:ハードコアの人たちはパンクが気に喰わないというワケですね?
P:でも、ビジュアル系のバンドの子たちはハードコアのバンドを恐れていたので、空き缶を投げられても反抗もナニもできなかったんです。
ところが、今度は1階にいたヴィジュアル系のファンの連中が「自分たちがヒイキにしているバンドに向かってナニをしてくれるんだ!」と怒り出して、2階席と1階席でお客さん同士のケンカが始まっちゃったんです!
S:ギャハハ!分断だ!
P:そう!そのケンカを止めるでもなくステージではそのまま

演奏が続いていたんですが、2階の連中がその場にあった長椅子を下の階へ放り投げたんです。
S:そんなムチャな!
P:ナニかに引っかかってズドンと直接下に落ちることはなかったので幸いケガ人は出なかったんですが、お客さんの1人が救急車を呼んじゃいましてネェ。
結局、救急車は来るし、警官は来るし、ライブは中断するし、マァ~、アレにはマイりましたよ。
 
禍福は糾える縄の如し
S:それは大変でしたネェ。天災は?…浸水とか。
P:そりゃありましたよ!
下水ではなかったんですが、上の階から水が漏れ出したんです。
場所がステージの上だったんですが、ビニールを張ってポタポタ垂れてくるのを防いでいたんですね。
漏れて来る水の量は多くないにしても段々ビニールに溜まっていっちゃうじゃないですか。S41a0009_1_2
で、あるバンドのアンコールの時にシンガーが上向いた瞬間にビニールがハズれてジャッバ~とやっちゃった!
S:まるでドリフ状態じゃないですか!
P:まったく!
他にも上の階の配管工事がオソマツで、トイレのところから上に上がる階段の壁が全部崩れ落ちたなんてこともありましたよ。
この楽屋も隣の配管がおかしくなって水浸しになったことがありましたね。
その時は汚水だったのでクサくて大変でしたよ!
S:そういう意味では近所のお付き合いなんかもご苦労があったんじゃないですか?
P:さっきもチョット触れましたが、最初の頃は店の前のお客さんの行列でこの辺りの商店会の会長さんからら毎日クレームが入ったんですよ。
我々も菓子折りを持って近所のお店に挨拶をして回ったりしたんですが、ある時から鹿鳴館のロゴが入ったシャツやジャケットを着てこのあたりの清掃活動をするようにしたんです…毎日欠かさず。
見てくれている人はよく見てくれていて、そのうち商店会の会合で新しく店を出した人から鹿鳴館に対するクレームが出たりすると「アナタのお店の前を掃除してくれているのは鹿鳴館さんなんですよ!」と、かつて鹿鳴館にクレームを入れて来ていた皆さんが味方をしてくれるようになったんです。
S:やりましたね~!気持ちが通じた。
P:で、周辺のお店とはうまくいくようにはなったんですが、通行人からクレームが入ることもありましてネェ。
店の前の道も狭いので、通行人の邪魔にならないように気をつけてはいたんですが、一度お客さんとその筋の人がモメてしまったことがあって、その仲裁に入ったなんてこともありましたよ。
ズ~っと手首をつかんで話をするんですよ…コワかった。
ま、大人しく引き下がってくれましたけどね…。
 
**********<コラム11:鹿鳴館を記録する>**********
その問題のイベントの時、このような長椅子を下の階に向けてココから放り投げたのだという。
そんなことしちゃダメよ、ダメダメ。
しかし、ペペさんたちもビックリしただろうナァ。
「客どうしのケンカ」といえば、コレはこれまで何度も書いているけど、私は武道館のテッド・ニュージェントのコンサートの最中にアリーナ席で外国人の客と警備員が取っ組み合いのケンカをしたのを目にしたことがある。団体戦でスゴイ迫力だった。
でも、おかげさまでライブハウスで危険な目に遭ったことはなかったナァ。Img_2219コレはステージの天井スラヴ。
先日のJill's ProjectのMCでDio Kenちゃんが「鹿鳴館のステージの天井は黒くない」ということを言っていたけどホントだわ。
打ちっぱなしのコンクリート。
ココから水が漏れていてドッパ~ンとなった。
見てみたかったナァ。
Img_2227ステージ上に設置されている照明群。
第1回目のコメントでユキさんが触れていたが、この中にREACTONの時に設置された照明機材が残っているかな?Img_2236楽屋エリアのようす。Img_2252ノンちゃん、チョット失礼!
かつてはココにも汚水が入り込んでしまったことがあったという。Img_2250楽屋用の部屋は奥にもうひとつあって、男女別、または喫煙/禁煙別で使い分けているバンドが多かった。
Img_2249

困ったお客さん
S:お客さんの中にも厄介な人がいたのでは?ゲロ吐いちゃうヤツとか。
P:ウ~ン、結構いましたネェ。
切ない話なんですけど印象に残っているのは…「たこ八郎」を思い浮かべてもらえばよいと思うのですが、ああいうパンチドランカーみたいな感じの人が、油まみれの汗臭い作業服を着てやって来るんですよ…週一ぐらいで。
S:ライブを観にくるんですか?
P:そう。メタルだろうがヴィジュアル系だろうが、そういうことはお構いなしで、3バンドぐらい出るイベントになると現れるんです。
でもナゼかワンマンの時には来ない。
とにかく酒と汗と油のニオイがスゴくてまったくしゃべらない。
で、受付でポケットから小銭を取り出してトレイの上にジャラジャラ置くんです。
5円玉とかも混ざっていて、それで何とかチャージを支払ってくれるんですよ。
当時の鹿鳴館はドリンクをやっていなかったのでチャージだけ支払ってもらう。
それで一番前の席に座って、ツマらないと思うと寝ちゃうんです。
ところが、寝ると小便をしちゃうんですよ!…寝小便ね。
反対に楽しくなると他の人たちと一緒になって「ワ~!」って騒ぐんですが、今度は周りのお客さんからクレームが来ちゃうんですよ…「あのオジさんがクサイ!」って。
S41a0025_1_2まぁ、ナニかしちゃってからでは遅いということはわかっているんですが、痴漢をするワケでもないし、人のモノに手を出すワケでもないのでこちらからはどうすることもできない。
「あの人もライブハウスが好きで来てくれるみんなと同じお客さんなのでわかってあげて~」って周りのお客さんには納得してもらいました。
S:そのお客さんはその後どうなったんですか?
P:気がついたら来なくなっていましたね。
ナンカこっちも勝手にストーリーを作っちゃって…だって2,000円も出せば他でイッパイできるのに、仕事をしてクタクタになった後、ライブを見に来てくれるワケでしょ?
キレイごとを言うつもりはありませんが、鹿鳴館はそういう人の心の拠り所にもなっていたんだナァと思うんです。
あの人のことを思い出すととても切なくなるんですよ…今どうしてんのかナァ。

一番お客さんが入ったライブ 
S:切なくなってしまったところで今度は景気よく行きましょう。
今までで一番客が入ったライブは誰でした?
P:(即座に)「Dancer」だと思います。解散ライブでは400以上入れましたからね。S41a0092_1_2
S:エエエエエッ?400人もッ?! 一体どうやって?
藤本泰司さんがやっていたバンドですね?
P:そうです。420近く入れたのかな?
メジャーに行く前、インディーズ界隈ではかなり惜しまれつつ解散しちゃったんですよ。
アルバムもよく出来ていましたし、本当の正統派のメタルというか、ハードロックのバンドでした。
その解散ライブだったんです。
S:メタルに人が群がる時代だったんですね。
しかし、400って…。
P:前売りで300とか350とか出してソールドアウトしたんです。
もう入りきらないので今だったらもうそこで打ち切りにしますけど、ナンカ知らないけど当日券を出したんですね。
S:だってホールに入れなければお客さんだって観ることができないでしょう?
P:そうです。だからホールの扉を開けっぱなしにして、ロビーまで満員にしたんです。
S:ヒョエ~!
P:でもそれどころじゃなくて、階段にまで入ってもらって、お客さんは手すりの下からアタマを出して見てもらったんです…ま、見えませんけどね。
あの光景は忘れることができません。
S:その反対は?つまりお客さんがゼロとか。
P:ワンマンで20人以下とかいうバンドはありましたよ。
ボクはそのバンドがニガテでしてネェ。
ライブもムダに長くて、そのバンドが出る時には仕事に来るのがユーウツでしたね。
S:ペペさんでもそんなことがあるんですか?
それにしても鹿鳴館のワンマンで20人じゃいくらなんでも寂しいですね~!
 

**********<コラム12:鹿鳴館を記録する>**********
ホールの扉を開けてロビーを望む。Img_2241反対にロビーからホール内を望む。
今はホールに誰もいないので見通すことができるけど、お客さんが入ってしまったらココからはナニも見えやしないって!Img_2242 この階段に座って首を手すりの間から出して逆方向を向いてホールの中を覗いたっていうんだけど…ますます見えるワケがない!
音だけなら家でレコード(この頃はもうCDかな?)を聴いているほうがよっぽどよかろうに!
姿は見えなくても、音を聴いて、一緒にその場にいる…ということだけで満足だったんだろうね。
「ファン」ってのはそういうもんなのね?
Img_1812_1_2 かく言う私も実は似たようなことをしたことがある。
1981年、キング・クリムゾンが初めて日本に来た時のこと…『Discipline』のレコ発ツアーね。
コンサートに行きたいものの小遣いが足りない。
でもどうしても観たい!
そこで思い立ち、家から自転車で5分の浅草国際劇場まで行って、中から漏れ聞こえて来る音だけを聴きに行くことにした。
外からだから、Dancerのファンより条件が悪いハズだった。
劇場の前で開演を待っていると、若い男性が近寄って来て、「スイマセン、友達が急に来れなくなってしまったんです。チケットをお持ちでないのであれば2,000円でこの余ったチケットを買い取ってもらえませんか?
どうせ売るのであればあの人たちに売るより、キング・クリムゾンが好きな人に買ってもらいたいんです」と、その男性は見るからに風体のよろしくないオジさんたちの方を指さした。
もちろんダフ屋の皆さんである。
ズボンのポケットに手をいれると千円札が3枚ぐらい入っていたので勿怪の幸いとばかりに即座に2枚の千円札を渡した。
チケットはS席で2階席の1番前だった。「コレで2,000円はラッキーすぎる!」と思ったことはココに書くまでもなかろう。
中学生の時からキング・クリムゾンが大好きだったので、そのコンサートは人生の中で忘れ得ない感動的なモノとなった。
前回、ペペさんが鹿鳴館でもダフ屋が出た話をされていたが、インターネットでコンサートのチケットを買い求めるようになった昨今、今でも「ダフ屋」って商売はあるのかね?
今は「転売ヤー」か?
皆さんきっと「昔はヨカッタなぁ」と思っていることでしょうナァ。
何でも昔はヨカッタよ。
Skd2  
鹿鳴館とMarshall
S:ところで、ペペさんが記憶している範囲で…Marshallは昔からズッと鹿鳴館のステージにあったんですか?
P:イエ、昔は鹿鳴館のステージには機材が備え付けられていなかったんです。
鹿鳴館は「オーディションが厳しい」って言われていて、ボクが1987年に入社して、その翌年からそのオーディションを担当したんです。
LUNA SEAを落としたのもボクなんです。
S:ギャハハ!ビートルズを失格にしたデッカのディック・ロウみたいですね?(Marshall Blog「ビートルズに勝った男」参照)
P:最終的には店長が合否をキメるんですけど、彼はライブをあんまり見ないんですよ。
それで「あのLUNA SEAってのどうだった?」って後で訊かれて「イヤ~、ダメですよ」なんてやっちゃった。S41a0069_1
そんなんで「鹿鳴館は敷居が高い」なんて言われていたんです。
一方では、鹿鳴館には機材がないので自分たちの機材や機材車がないと出ることができない…ということもあったんですね。
今ではハコの機材を使ってライブをやることは普通になっていますが、鹿鳴館はそれを許さなかった…というか、機材を持っていなかったので許しようがなかったんです。
その内、ドラムスを持っていないバンドがだんだん増えて来てしまった。
あるいはドラム・キットは持っているけど、それを運搬する車がないというバンドですね。
それで「コリャ鹿鳴館も機材を置かないとダメだな…」ということになって来たんです。
S:そう言われてみると、あの頃って屋根裏でもロフトでも備え付けの機材を持っていたのかな?
少なくとも今みたいに「Marshallが常備してあった」というイメージは全くないな。
実際自分もMarshallを中古で買って持ち込んでいましたし…。
P:当時はほとんどなかったと思いますよ。
S:イギリスには機材を常備しているライブハウスもありましたけど、海外は基本的に機材は用意されていませんもんね。
P:そうですよね。
それで「鹿鳴館も機材を置こう」ということになって、誰が持ち主だかわからなかったドラム・キットをS41a0052_1_2使ったり、ピーヴィーのベース・アンプを買い足したりしたんです。
当然ギター・アンプは最初からMarshallのスタックを2セット用意しました。
S:ありがとうございます!
それはザっと何年頃の話ですか?
P:1994、95年位かな~?
S:結構後になってからだったんですね?
それじゃお買い上げ頂いたのは「JCM900」だったのかな?
P:多分。
昔はココ(事務所の場所)でスタジオをやっていたんですが、そのMarshallは最初、そのスタジオ向けだったんです。
 
鹿鳴館のスタジオ
ココでインタビューの場所を事務所の中に移した。
S
:今でも階段の壁に「ALL NIGHT STUDIO」という黒いサインが残っていますけど、アレはどういう風になっていたんですか?S41a0096_1
P:この部屋(事務所)だけがスタジオだったんです。
かつてこのビルのオーナーだった人が経営していたんですが、ビルを手放すことになって、「この地下のスタジオも鹿鳴館が借りてくれないか」と言われて引き継いだんです。
S:ん?…ということは、上は鹿鳴館で下は別の人がスタジオをやっていたということなんですね?
P:そうそう。中がつながっていたのでチケットが取れない人気のあるバンドが出る時は、スタジオを借りて中から鹿鳴館に入ってライブを見た…なんてこともあったようです。
「今だから話すけど」と、後から聞いた話なんですが…。
S:それでその誘いに乗ってスタジオを引き継いで経営されたワケですか?
P:実はそれには乗り気ではなかったんですよ。
ところが第三者がそのスタジオを運営するということになると、共有部分が自由に使えなくなってしまう…そこで渋々借りたんですね。
それで「深夜料金1万円」なんてやっていたんですけど、シンバルの補充だけでもかなりコストがかさんでしまって「コリャ元が取れね~な」ということになった。
で、上の事務所が手狭になって来たこともあって、スタジオの経営からは撤退してココを事務所として使うことにしたんです。

************<コラム13:鹿鳴館の思い出>************
今回、目黒鹿鳴館の思い出を語って頂くのはNAKED MACHINEチームのふたり。
思い出してみるに、源ちゃんのことはかなり前から存じ上げていたが、2016年の4月に私が初めて5人組のNAKED MACHINEに接したのは目黒鹿鳴館だった。
下はその時のようす。
10 その後、メンバー・チェンジを経て、ペペさんおっしゃるところの「ホームにしているチームのひとつ」として鹿鳴館とは切っても切れない関係のバンドがNAKED MACHINE。
008a3950 まずはリーダーでギタリストの源ちゃんから。
 
里村源多朗S41a0005 「僕が初めて鹿鳴館に出演したのは割と遅く、1993年頃だったと思います。
その時、楽屋の横の事務所を覗くと、元Xのベーシスト沢田泰司さんが打ち合わせにいらしていて、Xファンだった当時のバンドのボーカルが驚いていた記憶があります。
それから10年後、まさか泰司さんと『音風』というバンドを結成するとはその時には夢にも思いませんでした。
2003年、鹿鳴館での音風の初ライブは超満員のソールドアウト。
フロアの扉は開きっぱなしでお客さんが溢れてた記憶があります。
現在NAKED MACHINEでは鹿鳴館RECORDSからCDをリリースさせて頂き大変お世話になっております。
そんな鹿鳴館ももうすぐ閉館、沢山の思い出をありがとうございました。
オーナーのぺぺさん、デンさん、シキちゃん、大変お世話になりました。
今後新たな地で『鹿鳴館』の歴史が始まることを期待しております」
  
************<コラム14:鹿鳴館の思い出>************
続いてはボーカルズのKANちゃん。
ペペさんと並ぶ「鹿鳴館の華」だけあって思い出は尽きないことでしょう。
 
KANS41a0626 「『目黒鹿鳴館』といえば!…私は小学生の頃からハードロックが好きで、中学時代は「将来バンドを始めたら絶対に毎月鹿鳴館で演奏するバンドマンになるんだ!」と思っていた憧れの聖地でした。
それから18歳位になってやっと鹿鳴館に出られるようになったのです。
その頃は今の楽屋と事務所の辺りはスタジオだったのですよ~!
で、階段の踊り場の横が事務所だったのですが、常連のバンドマンの先輩たちはその事務所から小さな窓をくぐり抜けて2階席に行くのです。
それがカッコよくて、いつかそれをするのが許される人になりたくて、初めてその窓から行き来できた時はうれしかったな~。
ペペちゃんがこれまで目黒鹿鳴館を支え、発展させ、そして動かしてきた功績はみんなの希望の証です。本当にスゴい!
ペペちゃんがアルバイトで鹿鳴館に来た時からアッあっという間に時が経ちましたが、今でも一緒に日々笑い、励まし合っている私の人生には無くてはならない大切な存在です。
そして忘れてはいけないのは、スタッフのデンさんとしきちゃん!
各バンドのステージ上での諸々を記憶していてくれて、毎回完璧な対応を施してくれました。
しきちゃんが、Marshallアンプをヒョイッと持ち上げた時は驚いた!
本当に安心して身をゆだねることができたことに感謝しています。
ところで、楽屋裏から舞台に上がる細い階段があるのですが、ライブが終わって高いブーツを履いたままその階段を降りる時、何回か落ちたことがありましたが、反対にあの階段を上がる時の緊張感はいつも変わらない「聖なる瞬間」でしたね。
長い間ずっと鹿鳴館に居ることができて本当にうれしかったです…『憧れていた場所』が『いつも居られる場所』になったのですから。
私の人生に目黒鹿鳴館が現れてくれたことに心から感謝します!
今はない歩道橋、打ち上げ後の蕎麦屋『与一』、エレベーターが無い搬出入、折り畳みのイス席…全部覚えておくよ~!
私はあのステージからの景色を忘れないでこれからも生きていきます。
ひとます、目黒の地でお疲れさまでした。
そして、次の鹿鳴館でもお世話になりますね!
そう、新たな『鹿鳴館』も楽しみでしかありません。
またずっとホームとして出られるようにNAKED MACHINEもがんばります。
これからも健康で一緒にワクワクして行こうね!
ありがとうペペちゃん、ありがとうスタッフのみんな!
これからもお支えします!」
 
<NAKED MACHINEは去る12月21日に最後の鹿鳴館での単独の公演を予定していたが、ドラマーの本間大嗣さんの椎間板ヘルニアが悪化し、やむなく内容を変更しての上演となった。
私も椎間板ヘルニアで塗炭の苦しみを味わった。本間さんが「稲妻のような激痛」と表現していたけど、ホント、アレは「苦痛のチャンピオン」としか思えないような苦しみだから!
最後にもう1度目黒鹿鳴館のステージに上がったNAKED MACHINEの姿を見てみたかったが、この判断は仕方のないところであろう。
代りに源ちゃんのソロ演奏と…>0r4a0095 <メンバー3人によるトーク・ショウが上演された。
滅多に目にすることのできない出し物を観ようと大勢のファンが駆けつけて大いに盛り上がった(詳細は後日Marshall Blogでレポートします)。
新しい鹿鳴館のステージ上がったNAKED MACHINEの雄姿が待ち遠しい!>
0r4a0150  
************<コラム15:鹿鳴館を記録する>************
ロビーから…Img_1815_1楽屋の階に降りる階段。
Img_1810_1その壁にペペさんやkANちゃんが述べていたスタジオがあった痕跡が残っている。Img_1809 廊下の突き当りの左、楽屋スペースの隣にある今は事務所として使っている部屋がかつてはそのスタジオだった。
部屋はこのひとつだけ。
Img_1799_1スタジオを始めた時に導入したMarshallのハーフ・スタック2セットがコレ。
やはり「JCM900 4100」と「1960A」だった。S41a0167 ちなみにペペさんが語っている「手狭になった上の事務所」とは踊り場の受付の右のところにある小部屋。
あ、しきちゃんが写ってる。
KANちゃんのメッセージにあったように、しきちゃんはいつもステージ周りの面倒をみている鹿鳴館の重要なスタッフのひとり。
新しいところへ行ってもよろしくね!Img_2243今、そのかつての事務所はこんな具合。
そうだ!コレを見て思い出した。
鹿鳴館にはバーがなくて、昔はドリンクをやっていなかったわ。
この小部屋から…Img_22452階席のPA卓の後ろあたりにつながっていた。
コレがKANちゃんが憧れていたという2階席への抜け道。
実は、前のMarshallの社長を鹿鳴館に連れて来たことがあった。
その時、ちょうど音響設備を入れ替えたばかりで、今はなき鹿鳴館の前の社長が英語で直々にその新しい設備をウチの社長に説明してくれた。
その音響設備を操っているのがデンさん。
Img_2244オマケ的に…。
PA卓と照明卓の配線。
2階席に上がって写真を撮る時にいつもコレが気になっていた。
ナゼかというと…Img_2305 このベトナムの街で目にした電線のようすを思わせてくれたから!320v_2 <つづく>
 

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<Nowhere>

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9img_9727

200 (一部敬称略 写真提供:ぺぺさん)

2024年12月25日 (水)

目黒鹿鳴館物語<その2>

 
目黒鹿鳴館入社

S:ナニはともあれ念願の音楽関係の仕事に就けてヨカッタですね。
S41a0005_1_2P:ハイ。でもマァ、色々とこき使われましたよ。
今で言うパワハラみたいなことも普通にありましたし。
でも、そうして一生懸命やっていたのでバイトから社員に格上げしてくれたんです。
それで「音響をやってもらう」って…。
S:社員になるとPA担当になるんですか?
P:そう。でも仕事の最初はピンスポの担当から始まるんです。
アルバイトは照明までしか担当させてもらえなかったんですよ。
ところが、「PA」と言われてもボクは音響の学校を出ているワケでもないのでどうやっていいのかサッパリわからない。
すると店長が「ああ~大丈夫、大丈夫!後ろで見てオレのを盗めばいいんだから」と言われて1、2週間やったんです。
ナニひとつ教わらないで「ハイ、後はその人のセンスだから。最初は後ろに付いていてあげる」で終わり。
結局ナニも盗めなかったんですよ!
S:アレは見ているだけは絶対わからないと思いますよ。
慣れている人は作業も速いし。
P:そうなんですよ!どれぐらいの音を出せばよいのかなんて全然わからない。
しかもボクは19歳ぐらいで、出演者はみんな年上じゃないですか?
もうコワかったんですが、昔はボクも長髪で痩せていて皆さんに可愛がってもらいましてね…特にガーS41a0020_1ル・バンドの皆さんとか「ペペちゃん、ペペちゃん」なんて言ってもらっちゃって…で、そのガールズ・バンドの人がミュージシャンの彼氏に「ペペちゃんを可愛がってあげて!」なんてやってくれるワケです。
S:実際、ペペさんはカワイイですからね、目が。
P:アハハハハ!
S:しかし、それからはズッ~~~と鹿鳴館?
P:そうです…1987年からズッと。
S:スゴイですね。私なんかMarshall社は3つめの勤め先ですからね。
P:ナンカあんまり働いているという感覚がないんですよ。
そりゃ仕事に対して悔しい思いや辛い経験もしましたが、好きなことなので…というか、コレをやりに田舎から出て来たので今までアっという間でしたよ。
S:以前はよくペペさんがデカい紙パックのコーヒー牛乳を片手にピンスポを動かしているのを目にしましたが、アレにはそんな職歴が背後にあったんですね?私はペペさんの照明が大好きでしたよ!
だって「コンサート」というモノをよくご存知だもん。
P:アハハハハハハハ!
 
***********<コラム4:鹿鳴館を記録する>************
真ん中が昔のぺぺさん。
ピントが合ってないこともあるが、この写真を見て私は真剣に「アレ?西田敏行が来たんですか?」とペペさんに訊いてしまった。
「イヤ、それがオレです」って。S41a0165昔の鹿鳴館の入り口。
マリーンのポスターが時代を感じさせるナァ。
え?もしかして鹿鳴館に出演していたの?
コレは『サマー・ナイト』というアルバムのポスターでリリースは1982年だそうです。
そんな時分に撮った写真だとしたらコレは鹿鳴館がオープンしてから2年後のモノだ。
S41a0151 
ペペさんの下積み時代
S:そんな状態で一番最初に音響を担当したバンドって誰だったんですか?
P:「Magician’s Birthday」という当時30歳ぐらいのハードロックのバンドでした。
S:ユーライア・ヒープが好きだったのかな?
P:それが時間を守らないバンドでしてネェ。持ち時間が40分とか45分なのに平気で1時間を越したりするんですよ!
S41a0009_1当時は音出しが9時までだったんです。
6時から始めて、転換も含めて1時間ずつ3バンド演奏して終わりが9時。
ところがそのバンドが時間をオーバーするもんだから9時に終わらずに大騒ぎ。
すると先輩たちが「山口!オマエがチャンと言わないからダメなんだよ!」って言うんですよ。
相手はかなり年上でしたからね、「エエエエ?オレが言うんスか?」ってなもんです。
こういうことはブッキングの担当者の仕事なんですけど、しょうがないから「あの~、時間を守ってもらいたいんですけど」って言いに行ったんですよ。
そしたら「へへへ、迷惑をかけるつもりはないんだけどね~…ノッちゃうとね~、止まらないんだよね~」とか言われて困ったことがありました。S41a0047_1_2
でも当時はそういうバンドがたくさんいましたよ。「自由」と言えば自由な時代だった。
S:ルールを無視するのがロックだゼ!みたいな?
好きな仕事とはいえ、そういうご苦労は絶えなかった?
P:まぁ、色々ありましたネェ。
当時は今と違って「出待ち、入り待ち」がスゴくて、店の前なんかもうグッチャグチャになっていたんですよ。
すると近所のゲームセンターの人とかがもう怒鳴り込んで来ましてね。
こっちは隣近所に迷惑をかけるワケにはいきませんから、店の前にいる女の子たちに「移動してくれ」って頼むんですが、彼女たちも意地になっちゃってテコでも動いてくれない。
困りましてね…で、考えたのがその日のライブが終わってから、出演したミュージシャンがステージに落としたピックをかき集めてその子たちに「コレをあげるからどっかヨソへ行って!」ってやったんです。
そんなことをしているウチに向こうもボクに親しくしてくれるようになって、「ペペちゃんが怒られちゃうからアッチへ行こう!」なんて協力してくれるようになったんです。アレはアレでいい経験でしたよ。
S:それはウマいことを考えましたね~。

***********<コラム5:鹿鳴館を記録する>************
鹿鳴館が入っているヤマザキビル。Img_2753お店の前の歩道の幅員は普通で特に狭いワケではないが、ココに若いヤツらがひしめき合って通行の邪魔をしていれば近隣の人はハラが立って当然だわナァ。
ペペさんも大変だったと思う。
Img_2211 
ジャパメタについて
P:ボクが鹿鳴館に入った1987年は、時代的にはジャパメタ・ブームのピークだったです…まだ「X」が出て来る前ね。
S:ペペさん、途中でちょっとゴメンなさい。
私は1980年に入った頃からロックとはゼンゼン異なる音楽に夢中になっていたものですから、「ジャパメタ」なるモノを全く通っていないんですよ…それでMarshallか?って怒られちゃいそうですけど、70年代の洋楽なら人後に落ちることはまずありませんから!
で、「Xが出て来る前」ということになると、「ジャパメタ・ブーム」というのは一体ダレが火をつけたということになるんですか?EARTHSHAKERとかの世代?S41a0013_1_2
P:イヤイヤ、シェイカーは「第2世代」ですよね。
言ってみればBOW WOWとか、LOUDNESSが「第1世代」。
それからEARTH SHAKER、ANTHEM、44MAGNUM、ACTION、BLIZARDとかの「第2世代」につながるワケです。
で、「第3世代」がREACTIONとか、PRESENCEとかDEAD ENDとかの世代になるんだと思います。
それが1987年ぐらいになると、そうしたバンドが次々にメジャー・デビューをして大きな会場でライブをやるようになった。
その後にもバンドは出て来ましたが、ブームは段々終焉に向かい出した。
その頃にXが出て来たんですよ。
S:へぇ~、そういう感じだったんですか?
P:はい。正確に言うとXは「出て来た」のではなくて元々別のメンバーで存在していてチョット他のバンドとは違う感じだったんです。
当時のジャパメタよりもスラッシュ・メタルみたいにもっと激しい感じって言えばいいのかな?…すごくハデでね。
で、メンバーの何人かはすでに別のバンドで鹿鳴館に出ていたこともあってXも出るようになった。
S:なるほど…。
 
ライブハウスは危ない?
P:当時はライブハウスも黎明期というか、今とは違って親に「ライブハウス行ってきます!」って言えないような怪しい場所だったんですよね。
S:そうだったと思います。
私は高校生だった70年代の後半から屋根裏とかロフトに通っていましたが、確かにライブハウスはコワいイメージでしたよ。当時は店内でタバコもゼンゼンOKでしたしね。
P:そうそう、ヴィジュアル系も市民権を得るようになって、Xの頃から「ライブハウスというモノはそういう怪しい場所ではない」という風に変わったんですね。
テレビなんかにもライブハウスが出て来るようになったし。
で、その時代にライブハウスに通っていた人たちが親になっていますからね。
今ではライブハウスもそんなに煙たがられることがなくなったワケです。
S:ライブハウス周辺でブラブラしているお兄さん、お姉さんがまたコワかった。
いつ行ってもそこにいる人たちが何人かいた。
P:はい。この辺の高校なんて「鹿鳴館の前を通ってはいけません」という校則があったぐらいなんですよ!マジで。
目黒駅に行くのに鹿鳴館のところはワザワザ道路の反対側へ渡って通過するという規則なんですよ!S41a0019_1
P&S:ギャハハハハ!(大爆笑!)
P:それでも「行ってみたいナァ」って子がいるので先生がこのあたりをパトロールしていましたよ。
だから制服なんかでは絶対に行かれない。
埼玉とかからは制服で来ている子がいましたけどね…この辺の学校の生徒はムリ。
S:昔はライブハウスに高校生なんてまずいないのが普通でした。
そもそもロックを聴いている子が少数派でしたから。
だから私はどこへ行っても必ず一番年下でした。
それがいつの間にかどこへ行っても最年長になっちゃいましたよ!
P:そうでしょ?ボクも鹿鳴館に入った頃は一番年下でした。
お客さんに年下がホンの少しいたかな?
S:そうして若い子が鹿鳴館にも来るようになってなんかトラブルがあったりしました?
P:忘れもしませんよ。見るからに中学生の子が近所の居酒屋で酔いつぶれていたことがあったんですよ。
あの頃は居酒屋もかなりいい加減でしたけど、打ち上げの時なんかバンドもファンも居酒屋へ行って一緒になってメチャクチャやっちゃうんですよ。
おかげでバンドマンはこの辺りの居酒屋に出入り禁止になっていましたからね。
長髪にしているだけで出入りが許されない。
S:ま、ご苦労はあってもそのジャパメタの第3世代が来て、ものすごく盛り上がったというのは「とても良い思い出」ということですよね?
P:そうですね。

***********<コラム6:鹿鳴館を記録する>************
近くの高校生たちは道路の反対側に渡り、こんな景色を見て目黒駅へ向かっていたのであろうか?
そういえば昔、ココに歩道橋があったよね?Img_2751 「あ~あ、学校帰りに入ってみたいナァ、鹿鳴館」Img_2760_2 この高校生の話って実は他人ごとではなくて、今から約30年前、初めてニューヨークへ行った時、あまり治安がよくないと聞かされていた「バワリー・ストリート」というところをビクビクしながら歩いていると、「ドォォォォン、ドォォォォン」という不吉な低音が聞こえて来た。
何事かと思ったらそこにニューヨーク・パンクの殿堂の「CBGB」があった。
もうコワくてね、目黒の高校生のように店の前を通らずにワザワザ通りを渡ってCBGBを遠巻きにしながら通過した。
ペペさんの話をお聞きしてこの時のことを思い出してしまった。Cbgb2 で、こうして通りの反対側に来て初めて気がついたんだけど、コレ以前は「筑前屋」とかいう焼きとん屋が上に入っていたんですかね?
いつのことかナァ。かすかに覚えているような…覚えていないような。
その後に叙々苑が入ったのかな?
Img_2759  
Xの思い出
S:いわゆる「鹿鳴館が育てた」的な代表的なバンドというと?
P:「育てた」というワケではありませんが、鹿鳴館をホームグランドにしていてテレビに出るようになったバンドということで言えば、X、LUNA SEA、GLAY。S41a0066_1
Xは違いますが、他は鹿鳴館のオーディションから入っていますのでね。
S:私が高校生の頃はライブハウスに出るだけでも大変だった。
P:そうです。Xはベースの沢田泰司さんがボクが入る前の鹿鳴館の店長の高校の後輩だったんです。
その店長がXのツアー・マネージャー兼PAをやっていたので鹿鳴館がホームグランドになったんです。
で、1988年にメジャー・デビューして「紅白歌合戦」にも出るようになったんですが、当時、鹿鳴館では大みそかに「オールナイト・メタル・パーティ」というのをやっていたんです。
それでXの連中がNHKホールの後、必ず鹿鳴館に来てくれていたんです。
お客さんもそれを知っているもんだからNHKホールから全部流れて来ちゃう!
だって、こんな小さなライブハウスなのにダフ屋が出ていたんですよ!S41a0089_1S:ヒエエエエ!ダフ屋が?! 実際に演奏もするんですか?
P:タマにメンバーがステージに上がることはあっても演奏はしませんでした。
紅白も終わったし、後輩のバンドがたくさん出ているし、朝までやっているしで、自分たちも混ざってワイワイ楽しみに来ていたんです。
メチャクチャになっていましたけどオモシロかった!
アレには「ライブハウスの本質」を見たような気がしましたよ。
バンドのメンバーが楽しんでいるところを見てお客さんが楽しむ…みたいな。
S:そのイベントに出て今でも活動しているバンドはいますか?
P:東京ヤンキースとMUCCぐらいかな?
GLAYは出ませんでしたけど、LUNA SEAは一度出たことがありました。
S:しからば、今、鹿鳴館をホームグラウンドにしてくれている現役のロックのバンドとなると誰が思い浮かびますか?
P:CONCERTO MOON、BLINDMAN、岡垣さんのイベント…ズッ~と現役で「鹿鳴館がホーム」ということになると、一番最初に名前が出て来るのはやっぱりCONCERTO MOONかな?
あと高橋ヨシロウさんのバンドもそうですね。
S:それほど古くないにしてもNAKED MACHINEも?
P:もちろんです。
 
***********<コラム7:鹿鳴館の思い出>***********
「鹿鳴館の思い出」の第2回目はまず、ペペさんが「鹿鳴館をホームにしているバンド」のひとつに挙げていた岡垣さんの登場。
 
岡垣"JILL"正志0r4a0603「1984年にTERRA ROSAで初めて東京に遠征した時の会場が目黒鹿鳴館でした。
権之助坂に機材車を停車してその看板を目にした時『これがあの有名な目黒鹿鳴館か!東京進出頑張ろう!』と意気込んだのが40年前。
それ以来、初の全国ツアー、メジャー・デビューライブ、レコ発ライブ、そして解散ライブと、関東ではTERRA ROSAの節目の時には目黒鹿鳴館でライブを行うのが慣例となりました。
TERRA ROSAが解散した後も梅ちゃん祭、マンドレ祭、パープディープル、レインボー伝説などのセッション・イベントに出演したり、Metal総進撃、様式美大作戦といった自主企画イベントを目黒鹿鳴館で開催させて頂いてきました。
その慣れ親しんだステージの上から今年の11月に見た景色は40年前と変わらずとても素敵で、その時『この風景を見るのもコレで最後なんだな…』と思ってちょっとセンチメンタルになりましたね。
そして、鹿鳴館といえば本当に温かいスタッフの皆さん!
特別な安堵感があって、毎回『いつもの感じでお願いしま~す』で伝わる空気感の素晴らしさ。
ライブ中にブレーカーが落ちて停電状態になっても1度も不安になったことがありませんでした。
自分にとってそんな特別なホーム感がある目黒鹿鳴館が大好きでした。
エレベーターがない鹿鳴館では道路から2階分の階段を下りて人力でホールに機材を運ぶ必要があって、キーボードやアンプやスピーカー等、重くて大きな機材が多い私にとってはそれがかなりの力仕事で体力的にも精神的にも鍛えられた気がします。
1991年のTERRA ROSAのライブ・レコーディングでは48chオープンリール・レコーダーを持ち込んだのですが、人力ではその長い階段を降ろすことができなかったので電動昇降装置で搬入してもらい『こういう方法もあるのか!』と感動したのを覚えています。
派手さを求めて照明を追加したり、特効のCO2ボンベを複数持ち込んで会場を煙まみれにしたり、好き勝手をやらせてもらって舞台裏の面白さも知ることができました。
本当にタメになった『目黒鹿鳴館の日々』でした。
このライブハウスがなければ関西人である私にとって恐らく『目黒』という場所を頻繁に訪れる機会はなかったハズです。
関東でのライブの拠点として活動させて頂けたこと、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
最後になりますが、ぺぺさん、長きに渡り本当にお世話になりました!
思えば自分と同じく『Deep Purple好き』、『Rainbow好き』ということもあって、様式美イベントをいつも気持ちよく開催させて頂き感謝しております!
また新天地でも同じスタッフの皆さんと一緒にステージを作っていきたいと心から思っております。
今後もお世話になるつもりですので引き続きよろしくお願いいたします!」
 
<昔の鹿鳴館の入り口には出演バンドの情報が張り出されていた。
いいね~、すべて手書き!

その真ん中…TERRA ROSAの出演を告知している。
よく見ると「Final Concert」と題されていて「解散」の文字が見えるではないか。
コレは文字通り1991年の12月に開かれた解散コンサートの告知。
岡垣さんのコメントにある48チャンネルのレコーディング機材が持ち込まれたのはこの時>

S41a0154_2<そしてこのライブアルバム『Live・・・Final Class Day』が誕生した。
ジャケットに使われている写真を見ると、すべて2階席から撮ったモノだね?
きっと1階はパンパンで撮影するスペースがまったくなかったのであろう>
91_12_21<2024年11月9日、『様式美大作戦2024』のこのJill's Projectのステージが岡垣さんの最後の目黒鹿鳴館での演奏となった>0r4a0727 
***********<コラム8:鹿鳴館を記録する>************
では、鹿鳴館の入り口の様子を記録しておこう。
歩道に向かってつけられている電飾の看板。Img_2213かつて入り口の右側には焼肉の「叙々苑」が入っていた。Img_9829このネオンサインが上の岡垣さんのところに掲載した写真と同じモノだとすると…もう33年は使っていることになる。
Img_2214鹿鳴館に入る。
岡垣さんがオルガンやレスリー・スピーカーの搬入に苦労した箇所の始まりがココ。Img_9832 踊り場に受け付けがあって…Img_9834 更に階段を降りる。Img_1814_1_2昔はこんな感じだった。S41a0158そして、ロビーに降りてくる。S41a0161コレは今のようす。Img_1811_1 踊り場のショウ・ケースには目黒鹿鳴館のステージに立った皆さんのサイン入り色紙やドラム・ヘッドが所狭しと飾られている。
鹿鳴館の財産のひとつだ。Img_1813_1 
***********<コラム9:鹿鳴館の思い出>************
岡垣さんのTERRA ROSAでデビューを果たした三宅庸介さんからもメッセージを頂戴した。
三宅さんにもまた並みならぬ鹿鳴館への思い入れがおありなのだ。
 
三宅庸介
S41a0066「初めての鹿鳴館に出演したのはTERRA ROSA加入後の1987年6月のことだったと思います。
それは初めての東京でのライブでもありました。
TERRA ROSA在籍時は、イベントが開催されるホール以外で東京で演奏する場所は鹿鳴館ばかりで、あの音や景色は今でも特別な思い出になっています。
その後、他のバンドでも出演させてもらいとても感謝しています。
一度、2000年頃だったかな?…あるイベントに大谷令文さんと一緒に出演させてもらったことがあって、彼がデヴィッド・ボウイの『Lady Stardust』をギターで見事にカヴァーされていたことをよく覚えています。
それから、いつだったか打ち上げの後、ナゼか令文さんと”CRAZY"COOL-JOEさんと3人で話し込んでいい感じになってしまったことがありました。
するとぺぺちゃんが『朝まで鹿鳴館で飲んでていいですよ!』と、お店を開けておいてくれたんです。
ビックリするぐらいの量のお酒を買い込んで、3人で鹿鳴館のフロアの真ん中に寝そべったりしながら翌日の昼まで飲み明かしたこともありました…懐かしいですね。
初めて出演した時は20歳…そして先日、57歳で自身のバンドであるStrange,Beautiful and Loudで出演させてもらったのが最後の鹿鳴館のステージとなりました。
それもTERRA ROSAゆかりのイベントで。
個人的に色々なことがあった1年だったこともあって、たくさんの記憶と想いが交錯してしまいサウンドチェックの時に涙が溢れて止まらなかった。
音がとても良いあのステージ上で本番でも涙を流しながら自作曲の『petal』を弾いたことはきっと忘れることはないでしょう。
そういえば、TERRA ROSAで初めて出演したとき、ちょうどぺぺちゃんも鹿鳴館に入ったばかりの新人さんだったことを記憶してます。
歳も近いこともあってずっとよくしてもらいました。
ありがとうございました。ひとまずお疲れさまでした…感謝。
鹿鳴館は関西出身の者にとっては最後まである種の『緊張感』のある場所でした。
加えて、ステージ上でも、客席フロアでも、2階席でも音がとても良い見栄えのする特別な場所でもありました。
ステージからの景色は決して忘れません。
『鹿鳴館』というハコ、ぺぺちゃん、そして長年にわたってお世話になったスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。
これからもよろしくお願いします」

<2024年7月14日、三宅さんはTERRA ROSAのメンバーとして、鹿鳴館では最後となる岡垣さんとの共演を果たした>008a0391 <そしてコレが三宅さんの最後の鹿鳴館のステージの姿。
バンドは自信のStrange,Beautiful and Loud。
2024年11月9日、岡垣さんが主催した『様式美大作戦2024』のひと幕だった>

0r4a0168 
***********<コラム10:鹿鳴館の思い出>************
Jill's Projectで岡垣さんの、そしてStrange,Beautiful and Loudで三宅さんの最後の鹿鳴館をサポートしたのが金光さん。
金光さんも古くからの鹿鳴館のステージの常連だ。
「鹿鳴館の金光健司」というと、個人的には声優シンガーのバックを務めたステージもとても印象に残っている。
 
金光健司S41a0618「上京する前、関西で在籍していたJERUSALEM (エルサレム) というバンドのステージが個人的には初めての鹿鳴館でした。
おそらく1985年頃...ジャパメタシーンのド真ん中にあるその聖地にいつも勇気と刺激をもらい、ヘコまされ、励まされ、そして『お客さんの前で演奏する』ということがいかなる意味を持つのか…その全てを教わった場所が鹿鳴館です。

昔はどのバンドも自分のドラム・キットをフルで持ち込んでごっそりと転換するのが普通のやり方でした。
自分の楽器は自分の『武器』ですからね。
近年ではライブハウスに常設してあるキットを使い回しするのが一般的になったため、どんな状態のキットが常設されているのかはドラマーにとって非常に重要なポイントになります。
それゆえ後年、鹿鳴館にNATALのキットが常備されたことはとても嬉しく思いましたね。
これから新たに鹿鳴館でステージに立つドラマーにとっても武器になること間違いなしです。

鹿鳴館の思い出に話を戻します。
自分としてはペペちゃんの成長を昔から見守ってきたようでいたんですが、実はその何倍もこちらが見守ってもらって来たんだな…と感じることが多々あります。
これからもたくさんのアーティストを見守ってあげてくださいね。
鹿鳴館からは人生の宝物をたくさん与えてもらいました。
どんなに時が経っても憧れの場所であり、帰ると心が落ち着く場所でもありました。
もちろん寂しさはありますが、それ以上に今後の期待が大きい…そんな鹿鳴館の新たな門出を祝いたいと思います」11_0r4a1063 <つづく>

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200 (一部敬称略 ※写真提供:ぺぺさん)

2024年12月24日 (火)

目黒鹿鳴館物語<その1>

 
今日から向こう数回にわたって「鹿鳴館」の話題をお送りする。
…とくればまずは歴史から。
鹿鳴館のオープンは明治16年(1883年)。
江戸幕府を倒し、開国をして列強各国との付き合いを始めたものの、不平等な条約に苦しんでいた新政府は海外から賓客を招き、上げ膳据え膳でご機嫌を取りながら「ネェ?日本だってナウでしょ~。これから仲良くしてくださいよ~」と近代化が進んだことをアピールして国際的な立場を向上させようとした。
そのために作られた宿泊所を兼ねた施設が鹿鳴館だった。
設計はイギリスからやってきた「御雇外国人」のひとりジョサイア・コンドル。
東京駅や万世橋駅(関東大震災で壊滅)を設計したことでその名がよく知られている辰野金吾の師匠。
御雇外国人というのは、一刻も早く西洋の文化を取り入れようとした明治政府が目玉がいくつも飛び出すほどの高給を出して雇い入れた外国人学者や技術者のこと。
施工に関係したのは大倉喜八郎の大倉財閥。
その建設部門が今の大成建設の源流となった。Rmk「外国人との交流の場を設ける」というアイデアは良かったが、そのアイデアを出した人の素行は決してホメられたものではなかった。
その人とは当時の外務大臣を務めていた井上馨(かおる)。
井上聞多(もんた←名前がカッコいい)として高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らとともに1863年の「英国公使館焼き討ち事件」に参画したり(川島雄三の『幕末太陽傳』という映画では二谷英明が演じている)、「長州ファイブ」とか言って伊藤博文らとイギリス留学を果たしたりして、時として「維新の立役者」のひとりとされるようだが、新政府設立後はその立場を利用して徹底的に私服を肥やした大悪党でもあった。
ココには詳しく書かないけど、「尾去沢事件(おさりざわ)」という民間の鉱山を強引に我が物にしたり、ニセ札を作ったり、「川上冬崖(とうがい)」という日本で最初の洋画家を清国への地図密売事件の犯人に仕立て上げるために自殺に見せかけて箱根で暗殺したり(井出孫六著の直木賞受賞作『アトラス伝説(冬樹社刊)』より)、まさにやりたい放題だった。
まぁ、その時代にそういうことをしていたのはこの人だけじゃないだろうし、似たような悪事は現在でもごく当たり前のように横行しているけどね。
ちなみにその「尾去沢事件」で得た鉱山は後に三井物産の礎になった。
そうして井上と三井は濃密な関係を築き上げたのだそうだ。いいな。Ki鹿鳴館は日比谷の今の帝国ホテルの隣にあったが、元は薩摩藩の装束屋敷(藩主が江戸城に登る時に身支度をするための屋敷)が立っていた。
井上馨の政治的失脚とともに明治23年に「華族会館」として使用されるようになった。
その後、昭和2年に華族会館は大和生命保険に売却され、昭和15年に解体された。
一方、その外国人との交流の場は芝の高級料亭「紅葉館」に移されたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失。
今、その同じ場所には東京タワーが立っている。
ちなみに「金色夜叉」の「尾崎紅葉」はこの料亭の名前をペンネームに引用した。
Hhy私は浅学にして全く詳しくはないが、鹿鳴館を題材にした創作物はこれまでたくさん生み出されて来ていて、三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」もそのウチのひとつ。
私が大阪に住んでいた1987年頃、この三島の戯曲が有馬稲子の主演で梅田コマ劇場で上演され、知り合いが出演していた関係で家内が観に行った。
下はその時のプログラム。
だから私は観ていない。
ネコちゃん、見てみたかったナァ(92歳でご存命です)。
小津さんの『東京暮色』なんてすごくヨカッタ。
Img_2709私の鹿鳴館はもっぱらロックの方。
サディスティック・ミカ・バンドは「タイムマシンにお願い」で「♪鹿鳴館では夜ごとのワルツのテンポに今宵も…」と演ったし、パンタさんは頭脳警察の「鹿鳴館のセレナーデ」という曲で「♪ほのかにともるシャンデリア 夜の鹿鳴館のセレナーデ」と歌った。11_albumこれらの歌のように、さぞかし毎晩華やかだったんでしょうネェ。
華美な洋装に身を包んだ貴族やら華族やらが一同に会し、金髪碧眼の紳士淑女と手を取り合って生バンドの演奏に合わせてステップを踏んだワケよ、多分。
私にピッタリだな。Btkその中には「鹿鳴館の華」と謳われたひと際見目麗しい淑女たちがいた。
下の写真、向かって左は時の外務大臣・陸奥宗光の奥さん「陸奥亮子」。
陸奥宗光、小村寿太郎なんてのは日露戦争の後始末で大活躍した人だからネェ。
一時、鶯谷に住んでいたんだけど、息子をイギリスに留学させるための資金を得るためにその家を売り払ってしまった(現存しています)。
そして、亮子さんはその美貌で特に人気があって「ワシントン社交界の華」とも称された。
真ん中が岩倉具視の令嬢、戸田極子(きわこ)。
そして右端が同じく岩倉具視の長男の奥さんで、後に佐賀藩の最後の藩主であった鍋島直大(なおひろ)と結婚した鍋島榮子(ながこ)。
皆さん、140年前の女性とは思えないカワイさよのう。11_rmhそして、ようやく記事の内容が目黒へ飛ぶ。
ロック・ファンの皆さんの多くが既にご存知であろうが、「目黒鹿鳴館」は来年1月19日の「東京一家」の興行を最後に閉館し、移転することになっている。
Img_9828今、東京にライブハウスがいくつあるのかおおよその見当もつかないが、目黒鹿鳴館はその中でもとりわけ長い歴史を持つお店だ。
「私もずいぶん通ってネェ。決して鹿鳴館のことを忘れないよ!」などと今はおっしゃる皆さんも、時間が経てば必ずその記憶は薄れて行き、「アレ?鹿鳴館って確かココにあったような気がするな…」となるのが関の山だ。
私もあんなに熱心に通ったにもかかわらず、周囲の様子が変わってしまったために昔の新宿ロフトの場所を正確に指摘することができないんだから!
しからば…ということでMarshall Blogはこの栄えある歴史を誇る「日本のロックの殿堂」を半永久的に保存しておくためにいくつかの記事を編むことを思い立った。
そこでご登場頂くのが「目黒鹿鳴館の華」。
「ペペさん」の愛称でおなじみの目黒鹿鳴館社長、山口高明さんだ。
「鹿鳴館の華」でつなげたいがために冒頭で井上馨やら陸奥亮子やらまで引っ張り出したというワケ。
こんな調子でペペさんへのインタビューを中心に立体的に、そしてできるだけ具(つぶさ)に目黒鹿鳴館の姿をココに記録しようとするのが今回のシリーズだ。
それではさっそく…ペペさんよろしくお願いします!S41a0140_1 
目黒鹿鳴館事始め
Marshallシゲ(以下「S」):鹿鳴館のオープンは1980年ですよね?
それ以前は映画館だったと思っている人も多いようですが、鹿鳴館になる前は1960年代から続く寄席だったんですよね?
山口”Pepe”高明(以下「P」):はい、そうなんです。『目黒名人会』という立川談志がやっていた寄席でした。
: 私は談志のファンということもあるものですからチョット調べてみたんですが、どうやら談志も誰からか引き継いだらしいんですよね。
S41a0084_1:そうだったんですか?
:その寄席からすぐに鹿鳴館になったんですか?
:前の社長の言い方だと、「目黒にあるライブハウスが経営者を探している」という話があって、元々「鹿鳴館」というライブハウスがあったようなんですよね。
:それでは前の社長が誰かから鹿鳴館を引き継いだ…ということになるんですね?
:そう、だから前の社長は鹿鳴館の最初の社長ではないんです。
:前の社長は確か映画会社にいらっしゃったんですよね?
:はい。
で、その会社の人から「目黒でこういう話があるけどやってみないか?」という話を聞いて「オモシロそうだからやってみるか…」ということになったらしいんです。
当時はライブハウスが今みたいにたくさんなかったですからね。
新宿のロフト、渋谷のジアンジアンと屋根裏…。
:有名なところではヘッドパワー、ルイ―ド、クロコダイル、下北沢のロフト、それと1978年に吉祥寺のシルバーエレファントがオープンしたぐらい?
:そうですね。
それで、当時はどこもあんまり爆音が出せなかったので、それじゃ「鹿鳴館はデカイ音を出そうじゃないか!」という方針にしたらしいんです。
すると、「どうも目黒には爆音が出せるライブハウスがあるらしいぞ!」ということでジャパメタの流れにつながったようなんですね。
 
********<コラム1:立川談志と目黒名人会に関する話>********
上に書いたように私は立川談志が大好きで、昔勤めていた会社の関係で信州に住んでいた頃、長野市の一番の夜の繁華街「権藤」でナントご本人にバッタリと出くわしてビックリ仰天したことがあった。
平成2年1月25日のことだった。
この年の2月に衆議院議員選挙があったので、恐らく談志は小坂憲次の応援に来信していたのだと思う。
私はとてもうれしくて、酔っぱらっていたこともあって目の前で「地べたを掘ったって一文だって出て来やしねえ!」とご本人のモノマネをやってしまった。
すると談志は「おお?『ねずみ穴』だね?いいネェ!」と大変よろこんでくれて、「今夜はオモシロい人に会ったよ!オイ、アレを出してやんな」とお付きの人に命ずると、その人が下の名刺を渡してくれた。
私の大切な大切な宝物である。
ちなみに私がモノマネをしたのは、談志が指摘した通り、彼のオハコの人情話「ねずみ穴」の一節である。
この名刺の住所を見ると談志の事務所が「目黒区」になっているので、ナニか鹿鳴館と関係があるのでは?と場所を調べてみたがゼンゼン別のロケーションだった。
11_img_2714 そんなこともあって「目黒名人会」のことをペペさんに根ほり葉ほり伺っていたら「何かの参考になりますかね?」と倉庫の奥から木製のハコ2点を持ち出して来てくれた。
何でも「目黒名人会」の頃から存在するアイテムなのだそうだ。
ひとつがコレ。
S41a0180さすがにコレはごく普通の化粧箱でしょうな。S41a0177興味を持ったのはもうひとつの箱。
何だかわかりますか?S41a0169コレは「謄写器」…つまりガリ版印刷をする装置の簡易バージョン。
ガリ板印刷の正式名称は「謄写印刷」だ。
まだプリントゴッコすらなかった頃のシロモノ。
今、コレを読んでいる方の多くは「ガリ版印刷」をご存知であろう。
しかし、そうでない若い皆さんにピンと来ることは恐らくあるまい。
「ロウ原紙」と呼ばれるパラフィン紙に鉄のペン(鉄筆)でキズを付けるようにして文字や絵を描き(ガリ切り)、そのキズにインクを刷り込んで印刷する極めて原始的な印刷手法がガリ版印刷。
一旦鉄筆で何かを描いてしまうと訂正するのがとても厄介で、ガリ切りは大変に集中力を要する作業だった。
我々が小学校に通っていた時分の校内の印刷物はほぼ100%が藁半紙にこのガリ版印刷で白い紙にクッキリとした印字などにはほとんどお目にかからなかった。
コピーすることを「ゼロックスする」と言っていた時代はまだ後のことかな?
S41a0170「萬古(読み方に注意)」というのは大正14年に大阪で創業したこの謄写器の大手メーカーで、現在は「バンコ株式会社」としてプラスチック素材の文房具を製造している。
現在の社長のお名前が「萬(よろず)」さんとおっしゃるところとを見ると、創業家の苗字を冠して「萬古」としたのであろうか。
S41a0174この謄写器、試しにメルカリに出ているかと思って調べて見るとゾロゾロと出品されていてビックリ!
それらには5,000円内外の値段が付けられていて、何台も「SOLD OUT」になっていた。
一体誰が使っているのだろう?
どうしてこの謄写器にこれだけ紙幅を割いたのかというと、ひとつには「滅んでしまったモノ」とか「滅びゆくモノ」だけが持っている美しさとか寂寥感のようなモノを感じてしまってね。
そもそも見た目がカッコいいじゃん?
Marshallの観点から言えば「真空管」に通じるモノがある。
S41a0172
もうひとつの理由は下の手紙。
この印刷機で刷ったと思われる書状をペペさんが引っ張り出して来てくれた。
こんなことが書いてある。

立春とはいいながら寒い日が続いています。
貴芸能会の皆様にはご壮健に御活躍のこと御喜び申し上げます。
ご愛顧を受けました目黒名人劇場に従来の落語定席を改めまして
今後皆々様方の貸席として御利用いただきますのでご案内申し上げます。

下部椅子並補助席  180   舞台間口  4.30米
上部椅子席      80    奥行          3.10米
立見         60    舞台高さ   1.5米

 平日 午前 五阡円  午後 壱万円   夜 壱万五阡円
 土日 午前 五阡円  午後 壱万三阡円 夜 壱万八阡円
 全日 平日 二万円  土日 二万五阡円

狭いが音響の良いこぎれな小劇場でございます出来る限り御希望に添いたいと考へています 一度ぜひ御来館の上御利用いただきたくお待ち申し上げています

お連絡先  <電話番号>    目黒名人会劇場
(文中の表記は算用数字の部分を除いてすべて完全にママ)
 
「定席」というのは定期的に公演を行っている寄席のことを指すので「従来の落語定席を改めまして」というのはもう寄席を止めて「貸しホール」の商売に徹することをお知らせした書状ということになろうか?
言い換えると、鹿鳴館、あるいはその前身のライブハウスになる前にこのホールは貸しホールを生業として存在していた期間があったということか。
日付が表記されていないのが残念!
舞台の高さが1.5mとあるが、ペペさんによれば、現在のステージの高さは約70cmとのこと。
あのステージ、かつては倍以上の高さだったのか?
2階も合わせてイス席で260とはずいぶん詰め込んでいたんだナァ。
S41a0184 目黒名人会のポスターの切れ端。
当時の木戸銭は400円。
1970年頃のラーメンの値段は100円ぐらいだったようなので、今のラーメンを800円だとすると3,200円ぐらい?
ナニ?ラーメン一杯800円は安い見積もりだって?
ミシュランだかナンだか知らんが、ラーメンなんて元々は金がない時の食べ物なんだよ。
私はそれを知っている古い人間ゆえ、850円以上のラーメンは敬遠するようにしているのでこの計算でいいのだ。
今、浅草演芸場の木戸銭が2,800円なので目黒名人会の値段設定はチョット高めだったのかな?
S41a0187インタビューにあるように目黒名人会のオープンは1960年代後半のこと。
下は先頃亡くなった「柳家小三治」の1969年に披露した真打昇進時公演のポスター。
縁に魚のイラストが入っているところがオシャレ…もちろん「目黒のさんま」だ。
私は小三治がニガテなんだけど、フーム、後に人間国宝となる噺家の真打披露が目黒名人会で開催されていたとは…。
しかし、目黒名人会の経営は苦しく不振続きで廃業する予定になっていたが、1971年12月に救世主が現れる。
それが七代目立川談志だった。
その年の参議院議員選挙に立候補した談志の公約のひとつが「寄席の復活」だったのだ。
その後、談志ならではの色々な企画を打ち出して目黒名人会をプロデュースし続けてはみたものの、やはり経営状態は好転せず、数年で閉鎖してしまった。
もしかしたら上のガリ版刷りの案内状はその頃に送付されたモノかも知れない。
「ゲスト無数?」…ウワァ、この三平のリサイタルは見てみたかったナァ!
死ぬほどオモシロかったに違いないよ。
Mmkjpg談志はその後、寄席文化に見切りをつけて立川流を設立して自ら家元に収まり、「落語協会」にも「芸術協会」にも属さなかったため寄席に出ることがなくなった。
1983年、目黒名人会を引き継いだ12年後のことである。
 
下はウチにある談志のCD。
チョット前にこのウチのどれかを聞いていたら、枕で「寄席文化の復活」を提唱して三遊亭円楽が1985年に東陽町で「若竹」という寄席を開業した話をしていた。
円楽が好きではない私の父が「円楽にしては立派なことをするナ」と珍しくホメそやしていたのでこのことは私も覚えている。
ところが、残念ながらその若竹も4年ほどで閉鎖に追い込まれてしまう。
すると談志がその時のことを茶化して指してこう言う。
「円楽が寄席で失敗しやがったろう?ま、オレも目黒で失敗しちゃったんで他人のことは言えないんだがね!」
コレがまさに「目黒名人会」、すなわち今の「目黒鹿鳴館」のことなのだ。
Img_2711  
ペペさん上京
:ジャパメタ関係のライブハウスといえば当時神楽坂に「エクスプロージョン」というお店がありましたよね?
アレは鹿鳴館とどっちが古いんですか?
S41a0047_1:多分、鹿鳴館の方が古いと思います。
ボクは栃木の鹿沼の出身なんですが、高校の時にそのエクスプロージョンが出したインディーズのソノシートを買いにワザワザ東京に出て来たりしていたんですよ。
それが1984とか1985年ぐらいのことで、鹿鳴館はそのズッと前からありましたからね(後に調べたところ、エクスプロージョンのオープンは1982年だった)。
それでボクは1987年に鹿鳴館に入ったんです。
:ペペさんってもしかしたらその時からズ~っと鹿鳴館だけにお勤めなんですか?
:はい。
ボクはどうしても音楽の仕事がしたかったんです。
でも田舎には音楽の仕事なんて全くありませんからね。
上京すればナニかしら音楽の仕事があると思ったんですよ…出版社のアルバイトでも、スタジオの仕事でも音楽関係の仕事ならナンでもよかった。
で、訛り丸出しで電話をすると「いつから来られますか?すぐに来てくれる人を探しているんです」って言われる。
でもボクは田舎にいるでしょ?交通費のこともあるし、ボクとしてはもう採用の確約をもらっている状態で東京に来たいワケなんです。
S:ワザワザ東京に出て来て「ハイ、不採用」じゃタマッタもんじゃありませんもんね?
P:まったくその通り!
でもそうは問屋が卸さない…「それじゃ上京したら連絡ください」なんて言われちゃう。
仕方がないのでとりあえず東京に出て来て、先輩がやっていたラーメン屋で半年ぐらいアルバイトをしたんです。
S41a0016_1_6その先輩は後に「BAD MESSIAH」いうバンドでメジャーへ行くんですが、当時「SHOCK」というバンドでドラムスを叩いていたんですね。
で、そのSHOCKが北陸ツアーに出ることになったんですが機材車の運転手がいない。
「ダレかいないか?」ということでボクが手伝うことになった。
それで、そのSHOCKが鹿鳴館に出演していたのでボクも鹿鳴館に出入りするようになったんです。
打ち上げの時に「コイツ音楽の仕事がしたいんだってよ」という話が出て、「それじゃウチに来ないか?」と鹿鳴館でアルバイトをするようになったんです。
でも、そのラーメン屋さんの女将さんに気に入られちゃって、「アンタ、調理師免許を取らせてあげるから音楽の仕事なんか諦めてラーメン屋をやりなさいよ!手に職をつけなきゃダメよ!」って言われていたんです。
:ペペさんならラーメン屋もバッチリこなせそうですけどね…つけ麺専門店とか。
:イヤイヤイヤイヤ…そのバイトも楽しかったんですけど、女将さんのその誘いがちょっとストレスになってしまって一刻も早くラーメン屋を辞めたかった。

 
鹿鳴館のアルバイト
S:鹿鳴館でアルバイトを始めた時はどんな感じでした?
P:鹿鳴館の最初のアルバイトは、1987年のゴールデンウイークに「REACTION 5Days」というのがあって、それの1、3、5日目の警備の仕事をしたんです。
S41a0053_1REACTIONの人気はスゴかったですからネェ。
その時はもうメジャーに行っていて、それ以前に『INSANE』という人気アルバムを出していて警備なしではとてもライブができなかったんですよ。
そこから始まってその年の8月からアルバイトに来るようになったんです。
当時、REACTIONは備え付けのPAじゃ音量が足りないと言って、その時の鹿鳴館の社長に「Turbosound(ターボサウンド)」という音響設備を買わせたんですよ。
当時、そんな設備を備えているライブハウスなんてどこにもありませんでしたからね。
それまでは古臭い音響設備だったんですけど、Tourbosoundが入って音がガラっと変わったのをよく覚えています。
S:まずは爆音…いい時代でしたね~。
P:そのREACTIONの5Daysは連日超満員でしてネェ…鹿鳴館ってステージが高いので一番前のお客さんが後ろから圧迫されないようにするのが大変でした。
S:当然、あのイスがあった頃ですよネェ?
P:そうです。あのイスも満杯でない時には「座ってユックリ観られるからいい」という意見もあったんですよ。
S:今となっては特に同感です。
P:ボクからしてみると、あのイスのおかげで事故がなかったんだと思っています。
今はもうお客さんがおとなしいですけど、昔は本当にスゴかった。
あのイスがお客さんが将棋倒しになるのを防いでくれたんです。
S:イスを撤去したのは?
P:2012年ですね。
Xとかの時もそうでしたが、2階席なんか揺れていましたからね。
S:エ?2階にお客さんを入れていたんですか?
P:ボクが入った時にはもう止めていたんですが、それ以前はお客さんに開放していたんですよ。
ただご存知の通り、前の人が立っちゃうと2階の後ろからは何も見えませんでしたけどね。

***********<コラム2>鹿鳴館を記録する***********

イス席があった頃の鹿鳴館。
私が初めて鹿鳴館にお邪魔した時はこんな様子だった。
S41a0148…とは言ってもそれは最近のことで、2010年12月4日の「メガトン・クラブ」の時のことだった。
出演したバーニーに誘われてお邪魔したような気がする。
その様子は2011年末に終了した前のMarshall Blogでレポートした。Maga 私なんかは武道館や厚生年金での公演中にイスからチョットでも立ち上がっただけで警備員がスッ飛んで来る時代に頻繁にコンサートに通っていたので、正直こうしてイス席でショウを観る方がシックリ来る。
写真でザっと数えて固定のイスは90席弱という感じか?
だから目黒名人会は補助席を使っていたにせよものスゴイ詰め込み状態だったのではなかろうか?
S41a01632012年、撤去する前のイスで記念撮影をするペペさん。
後方のエアコンは昔のヤツ。
お客さんがたくさん入ってしまうと効きが悪くなってホール内が大変に暑くなることがあった。
11_2isu2コレが今のエアコン。
スゴイ強力で、脚立に乗って写真を撮る時など、風が直接当たらないように注意しないと凍えてしまう。Img_9841エエッ?!
こんなところに荷物を置く人がいるの?Img_2306_2 ステージから見た2階の風景。
昔はココにお客さんを入れていたそうだ。
今は関係者以外は立ち入り禁止になっている。
2階席の前面に取り付けられている扇風機は暑さ対策。
エアコンの入れ替えと同時ぐらいに取り付けられたような記憶がある。3img_22242階席のようす。
後に陣取ってしまうとステージは見えない。
Img_2219 
***********<コラム3>鹿鳴館の思い出***********
目黒鹿鳴館にゆかりのあるミュージシャンの皆さんから頂戴した贈る言葉を毎回紹介していく。
第1回目はペペさんのインタビューに登場したREACTIONのベーシストのYukiさん。
反町"Yuki"哲之S41a0650 「目黒鹿鳴館閉館…。
多くのミュージシャンがSNSやブログに悲しみのコメントを書いていますね。
『メタル、ビジュアル系の聖地』という表現をよく見聞きしますが、私にはその認識がありません。
というのは、鹿鳴館がその聖地化する前から出ていたからなんです。
つまり、私が出始めた頃はまだ『聖地』ではなかったワケです。
『今はなき前のオーナーやスタッフと共に鹿鳴館を作って来た』というような気持ちがあるんです…おこがましいですがね。
初めて鹿鳴館に出演させてもらったのは、REACTION 以前の1982年だったかな?
音楽のジャンルを問わず、それ以前にはTHE MODS、米米CLUB、NOVELAなどを観に行った覚えもあります。
『音楽のジャンル』どころか、鹿鳴館となる前、アソコが劇場だった頃はアングラ演劇とか落語がブッキングされていましたねえ。
REACTION 結成後、1986年ぐらいからホール・コンサートでの演奏が主になりましたが、それまでの間鹿鳴館をREACTIONのホームとして出演させてもらっていました。
84〜85年の年越しイベント、鹿鳴館初の5Days、ライブ作品シューティング等、多くの思い出があります」 
<Yukiさんご本人によると1985年頃の写真>
S41a0166 
「その5Daysの時が現オーナーのペペちゃんの鹿鳴館での初めてのバイトだったんですよ。
だからいまだにペペちゃんから『小僧』のイメージが抜けないんだよナァ。
ちなみにこのシューティングのためにイントレを組んで照明の施設を増強したり、当時は最新だった『Turbosound』というスピーカーを導入して音響も補強、さらにステージのセリ出しも造作しました。バブリーだったナァ~!」
 
<そうして制作されたビデオがこの『TOKYO GIG'S DEAD & LIVE』>Dvd  
「シューティングの後、イントレの一部とTurbosoundはそのままで、現在も使われています。
また、その時に作った木製バンド・ロゴは、REACTIONの解散後もしばらくの間、記念品として楽屋からステージに上がる階段右の梁の上に置かれていました。
ああ、思い出を書き出すと止めどがないナァ!
さて、故初代オーナー、歴代店長及びスタッフ、そして現オーナー店長のペペちゃん、本当にお世話になりました!
『鹿鳴館あってのREACTION』だったことは間違いありません。
どうもありがとう!
移転後をとても楽しみにしています…とりあえずお疲れさま!」 0r4a0060_2 <つづく>

 

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2024年12月23日 (月)

金属恵比須のキンゾク万博2024

 
新たなキーボード・プレイヤーを獲得してますます意気の揚がる日本のプロッグ・ロック界の最重鎮「金属恵比須」。
結成33年を迎える金属恵比須は去る12月11日に待望のライヴ・アルバムを発表し、それに合わせる形で今年もポップアップ・ストア「キンゾク万博」を開設した。
そこでさっそく会場の新宿のディスクユニオンにお邪魔して来た。
と思ったら…
05v新宿に着いて気が付いた…会場は渋谷だった!
完全に思い込み。絶対に新宿だと勝手に思っていた。
トホホ、ただでさえ人出の多い繁華街へ赴くのが大きな苦痛だというのに、よりによって日曜日の新宿と渋谷を訪れるなんて何たる悲劇!
よっぽど渋谷へ行かないで帰っちゃっおいかと思ったけど、どうしても「キンゾク万博」が見てみたかったので歯を食いしばって人ごみに我が身を投じた。
しっかし、渋谷ってヒドイね。
私が大学生頃はとても魅力的な街だったのにナァ…と言っても40年前の話だけどね。
あの頃は銀座も浅草も今よりステキだった。新宿は知らん。10_2 会場は渋谷のディスク・ユニオン「ロックイントーキョー」。
こんなのができたのか…。
私の「渋谷のディスクユニオン」といえばパルコの筋向いにあった間口が1間半ぐらいの店舗だからね。
当時はもう少し公園通りを上がったの右側に「ハンター」もあったんだよ。
さて、店舗のある地下へ降りる階段の壁一面には古今東西のロックの名盤のジャケットが展示されていて壮観!
でも、近い将来はこんなこともできなくなるんだろうナァ。
サブスクにはジャケットがないからネェ。20到着!
コレが「キンゾク万博」の会場。30vニューアルバムを中心に金属恵比須のありとあらゆるアイテムが展示されている。
40この日の警備員を務めていた高木大地さんと後藤マスヒロさん。35やっぱり「万博」となるとコレだよね~。
そう、長時間並んで「太陽の塔」に入ったわ。
せっかくの機会なのでココで「万博」で大きく脱線させてもらいましょう。
あの「日本万国博覧会」が開催されたのは1970年(昭和45年)の3月から9月。
今から54年前。
私は小学校2年生で、も~行きたくて行きたくて仕方がなかった。
そこで出不精の父が珍しく連れて行ってくれることとなり、平日に大阪へ行くことになった。
母は事前に学校へ行って担任の先生に休みの許可を願い出た。
すると先生は「一生に一度あるかないかのことでしょうから、休みを取ってよ~く見せてあげて来てください」と言ってくれたそうだ。
50vコレがその時の入場券。
小人は400円だったので、大人でも800円程度のものであったろう。
裏面に開場時間が書いてあって、それを見ると4月末から最後までは朝の9:00からナント夜の10:30まで開けていたそうだ。
60コレは万博を訪れる人たちのための記念周遊券。
東は草津、西は明石までの区間が乗り降り自由だった。
私はこの時に生まれて初めて新幹線に乗った。
万博終了後に取り払ってしまった新大阪駅から千里丘の会場に向かう電車の中から太陽の塔が見えた時には気絶しそうなぐらいうれしかったのを覚えている。
何しろ日帰りだったからね~。
アメリカ館だのソ連館だの、行列に長い時間を要する人気の展示館は避け、タンザニア館とかガーナ館とか並ばなくても入れるマイナーな展示館ばかり見て回った。
しかし、太陽の塔だけは「記念に見ておこう」ということで長い行列に加わったのだった。
こんな訪問でも大満足だったし、あの感動は一生忘れまい。70とにかくスゴイ人出でね。
以前にも何度かやっているんだけど、万博のそんな様子を垣間見ることができる映画を紹介しましょう。
それは1970年、山田洋次監督の『家族』という作品。
長崎の伊王島の炭鉱夫の家族が、斜陽化する石炭産業に見切りをつけ、酪農家になるために先行して入植した友人がいる北海道を陸路で目指すロード・ムービー。
何も知らない田舎の人たちなので、大阪を通過する時、「万博でもチョット見て行こうか」と軽い気持ちで会場を訪れると殺人的な人出にスッカリまいってしまう。
映画は全編ロケーション撮影であることに加え、万博のシーンなどは演出をしていないのでその混沌ぶりが実によく表現されている。Av話は飛んで…柴又の「寅さんミュージアム」のすぐ隣に「山田洋次ミュージアム」が併設されている。
みんな簡単に「寅さん、寅さん」と気安く呼んでいるけど、最終的には寅さんひとりで「松竹」という大きな映画会社を支えていたワケですからね(歌舞伎は別)、井上ひさし先生に言わせると「車寅次郎は世界最強の架空の人物」だというワケ。Bそれを作ったのが山田洋次。
コレも井上先生の受け売りだが、「男はつらいよ」というのは「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」といって、世間知らずの高貴な身分の人が旅に出て、社会の荒波にもまれて成長する…という古代ギリシアやローマの時代からあるような作劇の基本のその逆をやっているのだそうだ。
寅さんは失恋していつもガックシになるでしょ?
それだけに話の基盤が強固で、新しいアイデアを肉付けするだけでいくらでも作ることができるというのだ。
ま、戯曲作家のプロ中のプロが言うのだから間違いないでしょう。
さすが山田さん、東大出だけのことはある。Cvそんな山田さんの業績を結構キメ細かく展示しているのがこのミュージアムなんだけど、この『家族』にはほとんど触れていない…残念!
というのも、数ある山田作品の中にあって、興行成績がすぐれなかった作品のウチの1本に数えられているのだそうだ。
でも内容はとてもいいですよ。
泣けます。008a0138さらに脱線させてもらうと…。
コレは「大波止(おおはと)」という長崎港にある桟橋。
映画の中で伊王島から船で出て来た家族はまずココへ到着するのね。
ちなみにこの大波止はオランダに帰ってしまったシーボルトが戻って来やしないかと、日本人妻のお滝さんが幼い娘の楠本イネを抱きながら入港してくる船を毎日眺めていたとされる場所。
稲本イネは成長して日本で最初の女性産婦人科医になった。Dそして『家族』の家族は桟橋からこの交差点に出て右に曲がって長崎駅を目指す。E家族は福山や大阪を経て何とか東京までたどりつくが、疲労が重なり家族の一員である乳飲み子が死んでしまう。
クリスチャンである一家がその弔いをしようと探し出した旅先の教会が上野の駅前、浅草通り沿いにある「下谷教会」。
映画では下の写真の以前の建物が出て来る。
そして、家族は艱難辛苦に耐えながら何とか北海道にたどり着く…というお話。
私は父の推薦でこの映画を小学生の時に初めて観たんだけど、万博会場が出て来ることもあってエラク感動してしまいましてね。
みんなにおススメしているのです。
多分、日本で一番スケールの大きなロード・ムービーなんじゃないかな?Img_2787それと…こういうお店が谷中にある。
アンティーク・ショップということなんだろうけど、親しみを込めて呼ばせて頂くならば「ガラクタ屋」。
私はこういうお店が大好きなのだ。
ありとあらゆるヘンなものが置いてあって、私はアルテュール・オネゲルというフランスの作曲家の交響曲全集2枚組CDを100円で見つけてよろこんだことがある。
オネゲルはプロッグ・ロックとして聴くと大変にカッコよろしい。
高木さんなんかもお好きなんじゃないかしらん?
で、店名が示すように、大阪万博に関するグッズもたくさん取り扱っている。Ex さて、「認知して!プログレ。」のキャッチ・コピーが目を惹くキンゾク万博。
ハイハイ、もう認知してからカレコレ50年近く経ちますからご安心あれ。
既に書いたように展示の中心は…
11012月11日に発表したライブアルバム『金属恵比須 邪神<ライヴ>覚醒』。
丸っきり個性が異なる「塚田円」と「大和田千弘」からなる2人のキーボード・プレーヤーをそれぞれゲストで迎えた時の演奏が収録されている。
2通りの金属恵比須が平面的に並んでいると言えばいいのかな?
こういう作りのアルバムってのは結構珍しいのではなかろうか?
他に同じ趣向のアルバムがなかろうか?と考えてみたのだが、ひとつしか出て来なかった。
それは、1977年のマッコイ・タイナーの2枚組の『Supertrios』というピアノ・トリオ・アルバムで1枚目と2枚目でリズム隊が丸ごと変わる…というモノ。
もうコレしか思い浮かばなかった。Mt もちろん『金属恵比須 邪神<ライヴ>覚醒』には「武田家滅亡」、「う・ら・め・し・や」、「紅葉狩」、「邪神覚醒」といった人気曲がド迫力な演奏でタップリと収録されている。
 
それぞれの演奏はMarshall Blogでレポートしているので未読の方はゼヒ!
 ↓  ↓  ↓
<塚田さん編>
金属恵比須~猟奇爛漫FEST vol.6 <前編>&私のチョット井の頭
金属恵比須~猟奇爛漫FEST vol.6 <後編>
<大和田さん編>
金属恵比須~邪神"大和田千弘"覚醒 <前編>~私の「日本映画と音楽」
金属恵比須~邪神"大和田千弘"覚醒 <後編>
90個人的にジャケットもうれしかったね。
NATALドラムスが2台も登場している。
これまで1台というのは何回かあったんだけど、2台は多分「世界初」だと思います。
どうもありがとうございます!100v高木さんと来たら、ヒマさえあればPOPを手づくりしているようで、まぁ、展示のナント賑やかなことよ!80会場でメンバーがお迎えできる予定は…
12月28日:18:00~20:00 稲益宏美
12月29日:14:00~16:00 後藤マスヒロ&埜崎ロクロウ
万博の会期は12月31日まで。
 
金属恵比須の詳しい情報はコチラ⇒金属恵比須Offician Web
130(一部敬称略 2024年12月22日 ディスクユニオン ロックイントーキョーにて撮影)

2024年12月20日 (金)

FATE GEAR~最新アルバム『Kill the Shadow King』出来!

 
2025年もワールド・ツアーが決定しているFATE GEARがニューアルバム『Kill the Shadow King』を発表。
そしてリード・チューンの「Kill the Shadow King」のミュージック・ビデオを公開した。
 
コレが通常盤。
20cdそして「Kill the Shadow King」のミュージック・ビデオの本編とメンバー別のソロ・ショットの計6本を収録したDVDが同梱されている豪華盤付属バージョンがコレ。
両CDには2024年のワールド・ツアーの際のベルギー公演のライブ音源が収録されている。
11_10cd最新作のプロジェクト・メンバーは…

Mina隊長30Haruka40vゲスト参加しているのは…
 
NANA50v橋村姫70v2そしてビデオに登場しているのはErika。60v冥界の王と対峙する、数奇な天使と悪魔の運命は?…ということでFATE GEARならではの世界が展開する。80さて、その「Kill the Shadow King」のビデオ。100今回もMarshallと…90NATALドラムスが登場!110今回も「日本を代表するスチーム・メタル楽団」の名に恥じない独特の世界を構築した。120vやっぱりこうやってコンセプトを確立した上で作り込んだモノってのはいいですな。130v隊長によるとRainbowの「Kill the King」へのオマージュを詰め込んだ1曲なんですって。140vそんなだからHarukaちゃんもNATALドラムスで大デンジャー!150そのビデオがコレ。
FATE GEARの飛行をお楽しみあれ!
 
FATE GEARの詳しい情報はコチラ⇒FATE GEAR official site


 
(一部敬称略 写真提供:Mina隊長 撮影:Toshio Kawabata)

2024年11月27日 (水)

ブレイズブリンガー~新たなるメタルを求めて

 
昨年の春、自身の30周年を迎えイベントを開催した元TORNADO-GRENADEの塚本"JOE"旭がアキトと組んで新しいチーム「ブレイズブリンガー」を結成。
そして、その名も「ブレイズブリンガー」とバンド名と同じタイトルを冠したデビュー曲並びにビデオを公開した。

10メンバーは塚本"JOE"旭と…
 30v2アキトの2人。
すなわちブレイズブリンガーはこの2人がタッグを組んだツイン・ボーカルズのグループなのだ。

40v2そして、今回のビデオは3人の他に仲間を迎え入れて撮影された。

50ギターにはかつてVelatoriaを率いてMarshall Blogに登場してくれたことがあるKabaya'n(カバやん)。
現在はTweyelight(トワイライト)というバンドで活躍中だ。

60ベースはOctaviagraceのYouske。
Octaviagraceも『DON』というイベントのライブ・レポートでMarshall Blogにご登場頂いたことがある。

_i6a6107 
そしてドラムスはKabaya'nのTweyelightのメンバーのTkken。80Kabaya'nはMarshall。90v2ビデオでは「1959」のフル・スタックをセットした。

100v2ブレイズブリンガーの2人とMarshallの相性もバッチリだ。115

一方、TkkenはNATALを使用。

110

24"ツイン・バスドラムのメイプルのキット。

120こちらもとてもいい雰囲気!

140

そして今回、ブレイズブリンガーの2人と…150Kabaya'nをお招きして…160

ブレイズブリンガーについて色々と話を聞かせてもらった。170

Marshall(以下「M」):ビデオの公開おめでとうございます!
ブレイズブリンガーはJoeくんとアキトくん2人のグループということだけど、そもそもどうしてその2人がくっついたんですか?
Joe(以下「J」):「オマエら、日の目を浴びに行ってこい!」って2人を引き合わせてくれた人がいたんです。
それで一緒に始めたんです。

_y8a2229
M:今回のビデオのメンバーはどういう風にして集めたんですか?
J:アキトと2人で相談でしてキメました。
まずはギターのカバちゃん(=Kabaya'n)に連絡をしたんですよ。_i6a5651 M:今回のビデオは初動で6万回のアクセス…コレってスゴいんでしょ?
J:おかげさまで…アキトの人気が高いからなんです。
M:こういうSNSのフォロワー数とかアクセス数とかってどういう風にとらえています?
アキト(以下「A」):数字を丸々鵜呑みにするのはどうかと思いますが、安心感につながる指標にはなり得ると思うんです。
興味を持ってくれている人を離さないモノを作っていくための数字って言うのかな?0r4a0365_3 M:なるほど。この「ブレイズブリンガー」という曲は誰が作ったんですか?
J:オレが歌詞を書いて、カバちゃんが作曲しました。
M:最近は何でもかんでも「まずYouTube」ですよね?
まずはこうして実際にYouTubeで曲を発表したワケですが、今の世の中でこれからはどういう展開をしていきたいと思いますか?
J:オレはCDを出さないとダメだと考えているんですよ。
ナニがナンでもアルバムを1枚作りたいですね。0r4a0356_3 M:「CDが売れない」と言われてから久しいでしょ?それでもCDを作りたい?
A:「CDを作りたい」というのはとってもよく理解できるんです。
それはとても大事なことだと思うんですが、ゼロからスタートするということになると今風のやり方を取り込まないとダメだとも思うんです。
今ではCDは「グッズの中のひとつ」になってしまいましたからね。0r4a0366_3 M:アナタ、すごく大人しくされているワリにとてもいいことをおっしゃる。
身体は大丈夫?…もう10年ぐらい太陽の光を浴びていないようなイメージだけど…。
A:全然大丈夫です!
でも本当に少なくとも5年は運動をしていないですね~(一同大爆笑!)。

0r4a0373_2

M:音楽的にはどうしていきたい?
J:色んな曲を演って行きたいと思っています…でも、メタルからは離れたくない。
M:でも今となってはメタルはキツすぎるでしょう?
演奏する側も観客の側も驚くほど高齢化が進んでしまった。
これからメタル界隈はどうなって行くと思います?
J:はい、時流に全く合っていないとは思いますが、消え去ることはないと考えています。
他とは違ったカッコいいメタルを作っていく自信はあります。
そうすれば聴いてくれる人もまた増えてくるハズだと信じています。
0r4a0362 M:アキトくんはメタルを演ることについてどう思っているんですか?
A:メタルの方向性はいいと思っています。
色々なモノを吸収した多様性に富む現代風のメタルを作り出したいですね。
J:そう、メタルの要素を捨てずに色々なことをやってみたいです。
0r4a0369
M:ビデオではMarshallとNATALをバッチリと露出してくれてありがとうございました。
J:へへへ、Marshallが好きなもんで…。
M:ブレイズブリンガーのメタルっぽさをフィーチュアするのに少しは役立ったかな?
J:はい。
でも案外、アニソンっぽいって言われるんですよ。
ですからそこにMarshallが登場してくれると一気にメタルっぽくなります。

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M:アキトくんは「アニソン」と受け止められることについてどう感じますか?
A:我々の音楽の届いている形がどうあれ、受け入れられればそれでOKだと思うんです。
つまり、どういうジャンルの音楽に聞えているかは受け取り手次第でいいのではないか。
M:「何とかメタル」とか「何ポップ」とか、ジャンル分けをすることに意味がなくなっていますもんね。
アレは我々が若かった頃、新しいタイプのロックがガンガン出て来た時にレコード会社の「宣伝のツール」としてとても有効だったんです。
A:はい。我々がやっている音楽は我々が好きな音楽であるワケで、それが支持されればもう結果はOKです。
ジャンルは関係ないと感じます。0r4a0374
M:Joeくんは以前から「Heavy Metal Strikes Back!」を標榜して徹頭徹尾ヘビメタを支持して来たワケですが、こと最近の若い人たちの間ではメタルはどうなっているんだろう?
J:ウ~ン、なかなか厳しいのが現実だと思います。
つまり、残念ながら演る方も聴く方も下の世代が続いて来ていないんですよね。
M:ところで、ビデオを拝見するにJoeくんは以前に比べてますます声が出るようになったんじゃない?
J:ありがとうございます。
イヤモニを使うようになってからピッチもよくなって、何よりもノドを痛めることがなくなったんですよ。

_i6a6330

M:曲はカバちゃんがつけたんですよね?
イントロがなくて、いきなりサビのパートで始まってAメロに入る時に転調する…モロに今風の曲の展開だよね?
ま、このあたりの世間の事情は色々と聞いています。
この転調の多用に関してはどこからハヤリ出したんだろう?
Kabaya'n(以下「K」):ボカロが普及した時からではないでしょうか?
ボカロで何でも好きなことができるようになって色々なモノが出て来て、人と違うことをやる傾向が強くなった。
今度はそれをYOASOBIとかが人力で演るようになったという流れではないでしょうか?0r4a0377

M:カバちゃんもVelatoriaの時からメタル要素の強い音楽を演っていたよね?
K:激しい音楽が好みなんです。
でもメタルを押し出し過ぎるとイヤがられてしまうんです。
ですからさりげなくメタルの要素を…ん~、例えばニンジンがキライな人にニンジンをそのまま食べさせるのではなく、細かく刻んでオムライスの中に入れて知らない間に食べさせてしまおう…みたいなことを考えています。
M:ウマいこと言うね~。カバちゃんもずいぶん成長したもんだ。
K:へへへ、ありがとうございます。
ところがそれをやるとメタルからもロックからも「ナンダこりゃ?」と思われてしまう可能性もあるんです。
でも新しいモノってそうやって生まれてくるのだと考えています。

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M:カバちゃんはずっとMarshall、いつもMarshallだよね。
K:もちろんです!
ボクは「アンプで良い音を作ってナンボ」だと考えているんです。
まずはそこから始まって、それにエフェクターを足したりする。
外部プリアンプとかデジタル・アンプの類をもちろん試しはしましたが、ボクには合わないと感じました。

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M:それはそうと、ビデオの屋外の撮影は天気もよくて気持ちよさそうですね?
J:イエイエ、実は晴れたり曇ったりで天気は良くなかったんですよ!
午前中は雨も降っていたんです。
アレ、オレが編集したんですが、晴れている時と曇っている時で色がすごく変わっちゃうんです。
もうそれを調節するのがメッチャ大変でした!
スタジオの方は問題ありませんでしたけど。
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M:そうか、それは大変でしたね。
でも屋外のシーンは解放感があってとてもいい感じ。
J:実は朝日の中で撮りたかったんですよ!
オレが「旭」でしょ?
アキトも漢字で「暁」の「人」と書くので本当は朝日に包まれて撮りたかった!

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M:あのビデオに登場する女の子はどういう意味合いなんだろう?

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J:はじめは我々のことを不安に思っているんですけど、最後は「もう大丈夫」と思って去って行く…という設定なんです。

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M:なるほどね。「ブレイズブリンガー」という名前は?
J:「ブリンガー」という言葉を使いたくて「炎の使者」にしたんですけど、ディープ・パープルの「嵐の使者」、「Storm Bringer」が元です。

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M:さしあたってブレイズブリンガー界隈では次にナニが起こるんだろう?
全員:12月6日に2作目を発表します!
M:おお!それは楽しみだ!

0r4a0350M:ナニか言っておきたいことはありますか?
J:メタルとはずっとくっついていたいですね。
あ、ブレイズブリンガーは「ビジュアル系ではない」とうことはハッキリ言っておきたいと思います!
M:わかってるって!メタルだよね!
J:ハイ!

0r4a0397

楽しいインタビューだった。
Joeくんとは付き合いも長いので世間の共通の話題も盛りだくさんで話はどこまでも尽きることがなかった。
ココに掲載したのはその話の中のホンの一部。
ブレイズブリンガーの音楽に対する姿勢について語った部分を抽出したつもり。
若い人と話をすることは古ボケてしまった自分の脳ミソへのとてもよい刺激になる。
とにかく2人にはブレイズブリンガーを続けて行ってくれることを願うばかりである。
 
最後にそのデビュー曲「ブレイズブリンガー」をお送りする。
ライブで聴くのがとても楽しみだ!
 
ブレイズブリンガーの詳しい情報はコチラ⇒Xオフィシャル・アカウント

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イギリス南西部のコーニッシュ出身のキング・クリーチャー。
本場のブリティッシュ・ハードロックを存分にお楽しみあれ!

<Desolation>

<Captives>


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200(一部敬称略)

2024年7月24日 (水)

伊藤ショボン太一~松田聖子コンサートツアー『lolli♡pop』から

 
6月8日の「さいたまスーパーアリーナ」を皮切りに現在『lolli♡pop』とタイトルしたコンサート・ツアーを展開中の松田聖子。
今回のツアーは「Pre 45th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour」と銘打たれている。
聖子ちゃん、来年はデビュー45周年!
その45周年の1年前の大切なツアーを今回も我がNATALドラムスがお手伝いしている。
…ということで、今年も開演前の武道館にお邪魔してきた。
10ところで、昨年のツアー『Parade』の日本武道館の公演は聖子ちゃんにとって「125回目」だったのだそうだ。
コレは女「性アーティストの日本武道館公演」の最多記録。
スゲエな~。
今回のツアーでも2公演、そして追加公演が決定ているので更にもう2回記録を伸ばすことになる。
コレはもう誰も抜くことができない金字塔と言えるしょう。20聖子ちゃんのバンドのリズムを担当するのは伊藤ショボン太一。30vドラムスはNATAL。4010"、12"、16"、22"のウォルナットのキット。50ショボちゃんは昨年と同じ場所で同じドラム・キットを叩いた。60前回、ドラムスのサウンドの評判が大変ヨカッタという話しを聞いてとてもうれしかった。
70
この時は「さいたまスーパーアリーナ」、「大阪城ホール」と武道館の1日目の5公演を終わらせていたのだが、ショボンちゃんから「NATAL絶好調!」と聞いていたので今回の評判を耳にするのが楽しみなのだ。80ハードウェア類もすべてNATAL。90昨年同様アコースティック・セット用のドラムスもNATALが使用された。100Cafe Racerの10"、14"、18"というキット。110ペダルもNATAL。
120コチラのセットのハードウェアもすべてNATALで固めた。130NATALグ~!
150ナンだってショボンちゃんがそんなにNATALを気に入っているのか…についてはコチラのインタビューをご覧あれ!
  ↓  ↓  ↓
伊藤ショボン太一インタビュー~松田聖子コンサート・ツアー『Parade』日本武道館公演から008a0028コッチもグ~!
 
今晩の福岡の追加公演を終了すれば、後は8月23&24日の日本武道館の追加公演と31日&9月1日の名古屋公演を残すのみ。
最後まで張り切ってお願いします!
160  

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200 (一部敬称略 2024年7月7日 日本武道館にて撮影)

2024年6月27日 (木)

CLESTION100周年記念モデル登場!

 
Celestions are really the only speakers that are compatible with the Marshall souns as well as giving great reliability(セレッションは素晴らしい信頼性もさることながら、マーシャルのサウンドに対応できる唯一のスピーカーだ)
とは1993年のジム・マーシャルの言葉。
 
「切っても切れない関係」とか「車の両輪」とかいう間柄ってあるじゃない?
「マイルス・デイヴィスとテオ・マセロ」とか、「ひろしとピョン吉」とか、「トンカツとキャベツ」とか、「政治と金」とか…。
「氏家真知子と後宮春樹」なんてのどう?…「ダレ、それ?」って感じだよね?
コレはタッチの差でスレ違ってばかりでどうしても会うことが出来ないんだけど、心の底からお互いを慕い合う切っても切れない若い2人の悲恋を描いた『君の名は』の主人公の名前。
あの「マチ子巻」の「真知子」さんです。
そして、「マーシャルとセレッション」の関係はまさに「切っても切れない」ヤツと考えて良いでしょう。
もちろんセレッション(CELESTION)とは、イングランドはイプスイッチのスピーカー・メーカーのこと。
そのCELESTION社が今年で創業100周年を迎えた。
しかも「ほぼスピーカーひと筋」で100年てぇんだからスゴイ。
今から100年前というのは1924年、すなわち大正13年。関東大震災の1年後。
この年に創業した日本の企業をチョット調べてみると…
当時は「伊那製陶」だった現「INAX」、レストランの「聚楽」よぉん、それからレコードの「ポリドール」、横浜元町の「ジャム・ターツ」がおいしい「喜久屋洋菓子舗」、かつては「北日本食品工業」を名乗っていたみんな大好き「アルフォート」の「ブルボン」、イギリスの「British Airways」なんかも1924年の創業らしい。
なんかもっとズラ~と巨大企業の名前が並ぶかと思っていたらそうでもなかった。
一方、文化人・芸能人は豊作だよ。
好きな映画の分野からいくと…何と言っても1924年には「デコちゃん」こと高峰秀子が生まれている。
他にも宝塚の同級生だった越路吹雪、乙羽信子、淡島千景。
更に京マチ子に鶴田浩二、三木のり平、赤木春恵なんかもこの年の生まれ。
作家では安部公房に山崎豊子、吉行淳之介。
作曲家の團伊久磨、力道山もこの年だ。
ご存命であれば皆さん、今年で100歳にお成りになっていたところだった。
 
さてこの度、「相棒の100周年はおめでたい!」というワケでMarshallがCELESTIONとのコラボレーション・モデルをリリースした。10コレがSTUDIOシリーズの「ST20H」と「ST112」をベースにしたその記念モデル。
ヘッドが「ST20HC」、キャビネットが「ST112C」。
も~、このSTUDIOシリーズの名前は本当にややこしいな~。
この最後の「C」は「コンボ」の「C」じゃなくて「CELESTION」の頭文字の「C」だよ。
20v_2まずはヘッドの「ST20HC」。
フロント・パネルの電源スイッチの上には「CELESTION 100 YEARS」のサインが入って…

Sw キャビの左下にはユニオン・ジャックが入ったプラークが取り付けられている。
CELESTION社はシリル・フレンチという人が創業した現存する世界最古のスピーカー・メーカー。
Marshallが「ロック」という新しい音楽の隆盛にともなって発展したのと同様、CESLESTIONはラジオの普及でひと山当てた。
加えて戦時中の船舶に搭載する拡声器の需要が会社の拡大に拍車をかけた。
我々の居場所からすると、どうしてもギターやベース・アンプ用のスピーカー・メーカーのイメージが強いが、オーディオ向けや映画館のPAをも含むあらゆる用途のスピーカーを製造してきた筋金入りのスピーカー・メーカーなのだ。
現在は「GOLD PEAK」という香港資本の会社の傘下に入り、2006年から楽器アンプ用のスピーカーに専念しているそうだ。
Pl2 オフ・ホワイトのヘッドのルックスは「サウンドウイッチ」とアダ名された時代の「JTM45」。
だからモデル名も「ST」なのだ。
もちろん、CELESTIONスピーカーを搭載したMarshallの最初のモデルが「JTM45」だったということでこの意匠を採用したのであろう。
コントロールは「ST20H」と同じで、左から…PRESENCE、BASS、MIDDLE、TREBLE、LOUDNESS1、LOUDNESS2。
そして、インプットはもはや説明不要の「4 Input」仕様。
出力は20W。STUDIOシリーズ共通の機能である5Wとの切り替えも可。
30白一色のノブは珍しい。
Marshall史上初めてなんじゃないかな?
パネルも黒一色ではなく、斜めに赤い格子が入っているのがナイス。40_2カバリングはオフ・ホワイトの「レヴァント」。
「フォウン・フレットクロス」に「コフィン・ロゴ」がよくマッチする。46搭載している真空管はECC83が3本と5881が2本。45_2 リアパネルには「D.I OUT」や「センド&リターン」等、STUDIOシリーズ共通の機能を搭載。
取り付けられたCELESTIONロゴのプラークには「x/100」の刻印が施されている。
50次、キャビネットの「ST112C」。
おお!やっちまったナァ~。60vCLESTIONが腕によりをかけてリイシューした「CELESTION 100 ALNICO」スピーカーを載せた!
やっぱりこう来たか~。
インピーダンスは16Ωで入力は30W。
70_2 見るからにいい音がしそうでしょう?
そう、スゴイんですよ~!80コレは1999年にMarshallが第1号機である「JTM45 Offset」を忠実にリイシューした時に採用されていたスピーカー・ユニット。
だからそのスゴさを知っているのだ。85当時、あまりにも音が良くてみんなビックリしたものだった。
しかし今にして考えて見ると、この「JTM45 Offset」が世に出たのは1962年でしょ。
もうその時ってCELESTIONは創業から38年ものキャリアを積んだベテラン・スピーカー・メーカーだったワケ。
だからMarshallがCELESTIONのスピーカーを採用したのはものすごく当たり前の成り行きだったんでしょう…というより、CELESTIONは当時からイギリスの音響機器のメーカーには欠かせない重要な存在だったようだ。
「TANOY」なんかも既にあったがMarshallには「CELESTION一択」だったろうな。

86もちろんイギリスはブレッチリーの工場での手作り生産。90Marshallがデモンストレーション・ビデオが公開しているのでご覧あれ。
実は私、大分前に一度CELESTIONの社長さんとサシで食事をして、色々な話をさせて頂いたことがあった。
あの方は技術畑出身だったのかナァ?…すごくマジメな方で、とにかく新しい技術の開発に前向きで、言葉の端々に「スピーカーのことなら我々に出来ないことはない」と言う気合を感じた。
ところで、「音響機器」って必ず「スピーカー」が音を出しているワケでしょ?
その「スピーカー」なるモノは、こう言っちゃナンだけどほぼ鉄の枠と紙と磁石でできているオッソロしくシンプルな製品だ。
すごい奥の深さだと思わない?
そんなシンプルなシロモノが最終的に音の良し悪しを決定しちゃうんだから。
どんなにいいギターでも、どんなに貴重なアンプでもキャビネットの中のスピーカーが使い物にならなかったら絶対に良い音が出ないんだもん。
今、そのアンプの類が何でもかんでもデジタル製の「~っぽい音」になってしまって、あの社長さんはどう思っているのかな?
「技術に自信あり!」の企業姿勢だからして、もちろん大きな「ビジネス・チャンス」と捉えていらっしゃることでしょう。
でも、やっぱり自分の会社の商品は今回の「ST20HC」のような真空管駆動のチャンとしたギター・アンプで鳴らしてもらいたい…と思っているんじゃないかナァ。
あの社長さんでなくても、本当にいいギターの音を知っている人は漏れなくそう思っているに違いない…と思いたい。
 
ST20HCとST112Cの詳しい情報はコチラ⇒Marshall.com(日本語ページ)

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200 (一部敬称略)

2024年5月31日 (金)

伊藤ショボン太一~ゼニスでレコーディング

 
おかげさまでサウンドもルックスも好評を頂戴しているのNATALのビンテージ・モデル「Zenith(ゼニス)」。

10_2岡井大二さんも…10_1金光健司さんも…10_2_2Mayoちゃんも…10_3石川達也さんも…
 
実際に試して頂いてこぞってとても高い評価をして頂きました。10_4今回は最もNATALのキャリアが長いドラマーのひとりで、いつでもどこでもNATALでステージやレコーディングをこなしてくれている伊藤ショボン太一にゼニスを試して頂いた。20_2イヤ…「試す」のではなくて、実はいきなり劇伴のレコーディングで叩いてもらった。
ショボンちゃんはNATALのすべてを知り尽くしているので、何の疑いもなくぶっつけ本番で使っちゃったというワケ。
40v_2そこでレコーディング終了後、ゼニスをプレイした感想を述べてもらった。
ゼニスはビンテージ・ドラムスの再現を標榜しているので基本的にはシングル・タムのキット。
まずはそのあたりのことから話を聞いてみた…30_2シングル・タムのキットって良い音でレコーディングできるんですよ。
タムが少ない分、マイクの数が減りますからね…マイクの数は少ない方が良い。
今回みたいなアニソンとか劇伴の仕事は、目立ったフィルを必要としないことが多いのでシングル・タムでもまず問題ないのが普通なんです
50_2極端な話、最低限キックとスネアとフロア・タムがあればイケちゃいます。
もちろん特別にタムを使う指定があれば多点のキットが必要になって来ますが、そういうことはまずありませんから。
だからシングル・タムで録る人が多いんですよ。
キットがシンプルになる分ドラムス自体がよく鳴るし。
その点、ゼニスは超バッチリでした!
60v_2ショボンちゃんはNATALのウォルナットとバーチのキットのオーナーだ。
いつも愛用してくれているキットと比べるとゼニスのサウンドはどうだったのかしら?
 
いつもウォルナットやバーチを使っていますし、これまでブビンガやアッシュのNATALも使って来ましたでしょ?…それらと比べるとゼニスは叩いた時のタッチが少し硬い感じがしました
100_2他のキットの素材よりシェルの剛性が高いのかも知れない…スティックをヒットさせた瞬間はブビンガぐらいかも。
コレは…メイプルーアッシューメイプルの3プライですか?
なるほど、なるほど!すごくよくわかります。
音自体はウォルナットと比べるとよりフラットですね。
ウォルナットは『ドンシャリ』とまでは言いませんが、中域が少しへこむんですよ。
でもゼニスはすごくフラットで、それがビンテージっぽさを出しているのでは?

0r4a0046私はそんなに古いキットを叩いてきたワケではありませんが…ウン、自分のイメージではとてもビンテージな感じがします。
でも新しい要素が入っていることも感じます。
他のキットもそういう傾向があって、NATALのドラムスはトラディショナルな部分とコンテンポラリーな部分をミックスしているサジ加減がとてもいいんですよ。
ゼニスはもちろんビンテージのテイストがメインですよね。
NATALのドラムスはそうしたコンセプトをすごく上手に示していると思います。

110_2ツイン・ペダルはもちろんのこと…70v_2シンバル・スタンド等、すべてのハードウェアもNATAL製を使用した。80v_2「セッティングもとてもしやすいですね。
チューニングもラクラク。
NATALのクセを知っているからかもしれませんが一発です」120v_2ショボンちゃんがゼニスを試している間、マイクのセットが着々と進んでいく。140_2 
160_2バスドラムのマイキングのようす。190_2あのバスドラムの足ね…最初に見た時『コレで大丈夫かな?』と思ったんですけど、アレって完璧ですよ!
まったくバスドラが動かなかった!
ショボンちゃんが言っているのはNATALでは「Spur(スパー)」と呼んでいるバスドラムを固定するための「足」のことね。
実は私も初めて目にした時チョット心配したのよ!
一見、いかにもヒョロっとしていて頼りなさそうな感じなんだけど、仕事っぷりはバッチリなのです。000_zn_leg_3さっき叩いた時の感じが硬いと言いましたが、バスドラムは逆に柔らかいんですよ。
ペダルを踏むとビーターが埋まる感じ。
コレがね…すごく気持ちがいいんですよ!
マジで感動しました!170_2今も藤井八冠が「叡王」のタイトル防衛戦に臨んでいるけど、そういうチャンとした対局には「榧」という木で作られた将棋盤が用いられる。
で、昔とある棋士から聞いたんだけど、本当に高級な榧製の将棋盤は駒をパチリと置いた時にヌプって駒が沈むんだって。
木材ですから粘土じゃあるまいし、まさかそんなことはあるワケがないんだけど、そういう感じがするらしいよ。
ショボンちゃんのバスドラムの話を聞いてこの将棋盤のことを思い出した。
Sbペダルを踏んだ時に柔らかい分、自分に返ってくる音は他のキットに比べて少し小さいんです。
その代わり、他のキットは音がドンと前に行く感じなのに対して、ゼニスの場合はバスドラムの音がブワっと全体的に広がっていくイメージがあります。
いい意味で音が大きくないんですよ!
コレもすごく好きなところですし、ペダルを踏んでいてとても楽しい!0r4a0122ルックスがまたメチャクチャいいですよね!
フィニッシュの色もラグのスタイルも最高です!
200_2私はカバリング仕上げのキットが好きなんですよ。
多分、一番最初に手に入れたキットがカバリングだったのでとても馴染みがあるんだと思います。
ゼニスもカバリング仕様のおかげで音に芯があって、グっと締まっている感じがするんです。
音が明る過ぎなくて、チョット枯れた感じがすごく好き!
210v前のインタビューの時にも言いましたが、私は『整いすぎていない』というか、『チョット雑なところがある』みたいな…そういうキットが好きなんです。
要らない音の成分が入っていそうなんですけど、それが実際にはすごくおいしい音だったりする。
そういう要らない音は不必要であれば後でどうとでも処理できますから、まずはそういうおいしい音を出しておかないと!
NATALはそれが十分に可能ですからね
180_2「前のインタビュー」というのはコレのことです。
  ↓    ↓    ↓
伊藤ショボン太一インタビュー~松田聖子コンサート・ツアー『Parade』日本武道館公演から

220_2ゼニスを試し、マイキングが終わったところで早速レコーディングがスタート!
230v慎重に…しかしダイナミックにゼニスを鳴らすショボンちゃん。250_2なるほど…コリャ本当にいい音だわ!
正直、ショボンちゃんがNATALを叩くとどれもメチャクチャ気持ちのいい音がしちゃうんだけど、コレは特にいいぞ!
そして、このグルーヴ!タマりませんナ。
240v本当に叩いた瞬間から気持ちヨカッタです!
シングル・タムでイケる仕事は普段から使いたいですね!
270_2ショボンちゃん曰く…「ドラムスのレコーディングは完璧でした!
 
この時レコーディングした音源は今秋には世の中に出て来る予定。
その時はまたMarshall Blogでお知らせ致しますのでよろしく!
260_2 
ゼニスは基本12"x8"、16"x16""、22"x16""のコンフィギュレーション。
フィニッシュは4種類。
 
Forge Black(フォージ・ブラック) 290_2Forge Blue(フォージ・ブルー)300_2Forge Red(フォージ・レッド) 310_2Pink Frost(ピンク・フロスト)320_2Silver Frost(シルバー・フロスト)330_2最後に少々前のモノだけどショボンちゃんが参加している東京アクティブNEETSのビデオを紹介しておきます。
ショボンちゃんはNEETSの録画の時はいつもバーチのキットを使用している。
2014年に初めてショボンちゃんが手に入れたNATAL。
その時の最初のステージの様子はコチラ。
  ↓  ↓  ↓
虹色オーケストラ 『少年と魔法のロボット』

もうコレから10年も経ったのか!360 ショボンちゃん、いつもどうもありがとう!
東京アクティブNEETSの「【東方爆音ジャズ15】偶像に世界を委ねて ~ Idoratrize World 」。

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2024年5月 8日 (水)

【Marshall Headphones】MAJOR V発売!~私のポタ史

 
【荒行】と称して「持っているCDを死ぬまでに全部聴く」ということに取り組んでいる。
ま、大した枚数を持っているワケではないのだが、「1回しか聴いていない」あるいは「最後まで1回も聴いていない」などというCDがあまりにもたくさんあって、これまでいくら投資してきたかコワくてとても計算できないでいるが、少しでも元を取ってやろうじゃないか…という魂胆だ。
ルールは2つ。
 
①音楽のジャンル別&アルファベット順に聴き進めること。
②基本的にすべてのCDを聴く努力はするが、聴き馴染んだモノ、もう生理的に受け付けないモノはスキップすることができる。
②プライベートでは【荒行】対象のCDしか聴かない。
すなわち好きな時に聴きたい音楽を自由に聴くことができないというワケ。
 
どうよ?音楽好きにとってはまさに「荒行」、「苦行」以外の何ものでもなかろうが?
世間では「愚行」と云うのかも知れないがな。
コレが、はじめのウチはスイスイだったのだが、時間が経つにつれて実にツラくなってきた。
ま、痛棒や警策が飛んでこないだけマシと言えよう。

Zazen
それでもジャズの「A」から始めて今はロックの「K」までたどり着いた。
英米以外のロック、クラシック、映画音楽、民族音楽、落語、浪曲、収納棚のサイズの関係で別に仕分けしている紙ジャケットやボックスセットの類等々…まだまだ残された道のりはあまりにも長い。
今、一番恐れているのは32枚組のバルトーク、27枚組のショスタコーヴィチ等…ではなく、15枚組のジャンゴ・ラインハルトのボックスセットなのね。果たして乗り切ることができるのか?
一方、10枚組の「八代目桂文楽全集」なんてのはとても楽しみにしている。
そんな折、今朝facebookの「思い出」という過去の投稿を偶然見て驚いた。
コレ…もう2年以上もやっていることを知ったのだ。
すなわち2年以上自分が聴きたい音楽を自由に聴いていないことになる。
道理でストレスが溜まるワケだわ。

Fr_2
少な目に見積もって5,000枚、1枚聴き通すのにザッと1時間要するとして合計5,000時間。
毎日8時間、ルール①に従ってCDを順繰りにかけっぱなしにしておくと625日…すなわち1.7年で持っているCDのすべて聴き通すことができる計算になるハズ。
ところがその進捗たるや、2年を経過しても半分をホンの少し経過したところまでしか来ていないのはどういうことか?
やっぱり「1日8時間聴く」という設定には無理があるし、出かけることが多いのも事実なので1.7年で終わるワケはない。
ソロソロ【荒行】から解放されて聴きたい音楽を自由に聴きたくなって来たのだが、そうはならないところこそが【荒行】。
音楽の「千日回峰行」なのだ!
そもそも「聴きたい」とか「興味がある」とかいう気持ちがあるからこそ買ったCDのハズなのにネェ。
おかしいネェ。
私の場合、次から次へと激しく音楽の興味が移行していくことに加え、「勉強聴き」と称して聴きたいとは思わずにイヤイヤ購入したCDもたくさんあるので、買った時しか聴かないアルバムが山積しているのも仕方のないことなのだ。
でもそうしたコレクションの内容を別にしてひとつ言えることは、プライベートで音楽を聴く時間が若い頃に比べて格段に少なくなったということだ。

10_lm
そんな中、Marshallが「MAJOR V」という新しいヘッドホンを発表。
入手したので早速試してみた。
最新式のオーディオ製品を手にするなんて一体いつ以来だろう?
ケーブルが付いていないヘッドホンか…コレが存外に楽しくて【荒行】から離れて音楽をまた積極的に聴きたくなるような気にさせてくれるシロモノなのだ。
今日は「私のポタ史」と副題を付けて自分のポタ体験を交えてエッセイ的にこの新商品を紹介したいと思う。60_2「ポタ」とは「ポータブル・オーディオ」のこと。
「ポタフェス」の名の下、そうした携行型のオーディオ装置の展示会が開かれていることを数年前に知った時には驚いた。
さらにその品揃えに仰天!
例えば当のヘッドホンやイヤホンの類。
本体の種類の多さは言うに及ばず、ケーブルやイヤー・パッド等、夥しい数のオプション・パーツが所せましと並んでいたのだ。
実際の音質をチェックするために自慢のプレイヤーを持参している来場者も多く、その再生装置らしきモノに目をやると、それはまるで「プレデター」がラスト・シーンで自爆する時に操作していた腕にハメられた得体の知れないメカのようなモノだった。
102最近はポタフェスもスッカリご無沙汰しているが、かつてはMarshallのオーディオ製品もバッチリ展示していた。
ここのところはどうなんだろう?
40会場内は自慢のポータブル・オーディオ装置をグレードアップしようというファンの熱気でムンムン。
みんな真剣よ!
50_2しからば自分の時はどうだったか…。
 
私が中学1年生だった1975年に「カッパ・サイズ」という惹句でソニーが発売した小型のカセット・テープ・レコーダーは衝撃的だった。
「カッパ・サイズ」といっても今の若い人にはわからないだろうな。
光文社という講談社系の出版社が刊行していた「カッパ・ブックス」という書籍があった。
多胡輝の『頭の体操』なんて人気シリーズはウチの実家にも転がっていた。
一時はベストセラーを連発するシリーズだったが今はもう出していないようだ。
このカッパ・ブックスの判型がいわゆる新書判で、10.5cm×17.4cmというサイズだった。
「そんな小さなサイズでカセットテープの録音も再生もできるなんてまるで夢のようじゃないか!
コレさえあれば外タレのコンサートだって録音できちゃうぞ!」…と感激しつつも私のお小遣いでは買うことが出来なかったので、必要な時にはコレを買ったお金持ちの友人に借りてヴァン・ヘイレンやリトル・フィートの初来日の演奏他を隠し録りしたものだった。
昔のコンサートはそうした隠し撮りを防止するために、入場時の荷物チェックがとても厳重であったが、ただの一度も「カッパ・サイズ」が摘発されたことはない。
録音はモノラルのみだったが何の不満もなかった。もうそういうモノだと思っていたから。
ちなみに「新書」というスタイルの書籍を最初に刊行したのは「岩波書店」だよ。10_3
それからしばらくして1979年に「ウォークマン」が発売された。
私は高校2年生で、明けて暮れてもロックが聴きたくて仕方ない時分だったが、すぐには飛びつくことはなかった。
今にして思うと「いつでも音楽を聴いていられる」ということが感覚的に理解できていなかったような気がする。
もちろんそれまでは街中でも電車の中でもヘッドホンを着けている人なんて目にすることはなかった。
せいぜい補聴器を着けたお年寄りとイヤホンを着けた競輪や競馬の予想屋ぐらいのものだった。
そんなだからいつでも音楽を聴くことができるなんて想像もしていなかったのではないか?
そしてある時、いち早くウォークマンを買った知り合いに試させてもらう機会があった。
コレはね、ホントにビックリしたよ。
映画の『オズの魔法使い』でドロシーがオズの国に行くと画面が総天然色になるでしょ?
初のウォークマン体験はまさにアレだった。
生まれた時からこの手のモノがある連中にはあの感激は到底想像できまい。
だってステレオだぜ、ステレオ!
その後、すぐに買ってどこに行くにも持ち歩いた。ホントに24時間身体から離さなかった。
下の写真にあるように本体の上面についている黄色いボタンを押すと内蔵のマイクで拾った外部の音が聞こえる機能がついていたけど1回も使ったことがなかったな。
そういえば好きな曲をカセットに集める今で言う「コンパイル」の作業もとても楽しかった。
カセット・テープがいくらあっても足りなくて、繰り返し上書きして使うのは当たり前のことで、時には箱単位で秋葉原に買い出しに行ったこともあった。
70年代、本当にロックが好きで好きでどうしようもなかった。
20_2 
ソニーはその後「カッパ・ブックス」どころではなくて「カセット・テープの同じ大きさ」の「ウォークマン2」を発表した。
私も買ったが、最新式すぎたせいか自分はあまり好きではなかった。
私は好きなロックがいつでも聴くことができさえすれば満足なのでサイズに拘泥することはなかった。
それよりカバンの中でこんがらがってしまうヘッドホンのケーブルに泣かされた。
この後、雨後のタケノコのように発売される色々なメーカーのプレイヤーを一体何台買ったことか?
私の場合新しいモノが出たから買うということは皆無で、使いすぎてすぐに壊れてしまうので仕方なく買い替えるパターンばかりだった。
そのウチの1台がAIWA製で、FM放送を受信してステレオで録音できる機種を買ったことがあった。
「街中どこにいてもエアチェックできる!」とかいうのがウリだったが、そんなことするワケがないんだよね。
もう44年前のことなのでハッキリとは覚えていないが音質が優れていたのでそれを選んだような記憶がある。


Wm2_2
それから90年代に入り時代はMDになったが、私は手を出すことはなかった。
アレは何かシックリ来なかったナァ。
長年世話になったカセットテープに申し訳ないと思ったのかも知れない。
MDってもう絶滅してしまったのかと思いきやソニーが今でも製造しているんだって。
エライなぁ、ソニーは…昔は「Lカセット」、その後「ベータマックス」等々、失敗を恐れず新しいモノに取り組む進取の気性は素晴らしかった。
寅さんじゃないけど、やっぱり人は額に汗をして何かを作らないとダメだ。
金で金を稼ぐなんてトンデモナイ!

Lc_2 
ポータブルCDプレイヤーは何台か買ったけど、それほどは使わなかったナ。
そして、2001年にiPodが発売された。
はじめのウチは全く興味がなかったが、周囲の多くのミュージシャンたちが愛用しているのと、サイズが大きいモデルには無尽蔵にCDのデータを取り込むことができるということを耳にして大分後なってから購入した。
もちろん一番容量が大きい160GBのヤツ。
それが知らないあいだに「Classic」という名称に替わり「エエ?!もうクラシックになっちゃったのかよ!」と驚きつつもう1台買い足した。
この頃は海外出張に行く機会も多く、フランク・ザッパの全アルバムをはじめパンパンにデータを取り込んで大よろこびしていた。
 
一方、ヘッドホンはいつの頃からかイヤホンに取って変わったが、私は耳の穴の直径が人より大きいのか、普通のタイプだとスピーカーの部分がすぐに耳穴から転げ出てしまうのには閉口した。
世の中には私のような耳穴を持っている人が多いのか、ある時そのスピーカーの部分に輪っかを半分にした引っ掛かりパーツが取り付けられているモデルを発見し、専らそれを買い替えて使っていた。
いずれにしてもバッグの中でいいようにこんががってしまうケーブルにはいつもイライラさせられた。

ま、私のポタ史といえばザッとこんなところかな。
消耗が早く、必要と欲望に迫られて何度も買い替えはしたものの、特に金を賭けたりすることはなかった。
ここ数年は全く持ち歩くことはしなくなってしまった。30_2
さて、今回Marshallがリリースするのは「MAJOR V」というオーバーイヤー型のヘッドホン。
そういえば、はじめに言っておきますが「ヘッドホン」を英語で言うと「headphones」ですからね。
メガネ(glasses)やズボン(trousers)と同じで常に複数系。
ヘッドホンが2つだったら「two headphoneses」ではなくて「two pairs of headphones」になるので注意。 
62ああ、最新型のヘッドホンを手にするなんて一体いつのこと以来だろう?
もしかしたら人生で初めてのことかも…。
ではさっそくケーブルをさして…と思ったら「線」がない!…というのは知っていたんだけど、なんか落ち着かないな。
そもそも再生装置はナニを使えばよいのだろう?
正直少々悩んでしまったのだが、iPhoneにSpotifyをダウンロードしてBluetoothで聴いてみることにした。
コレでいいんでしょ?
70本体の底部には2つのボタンがついている。
緑色の矢印が付いている金色のボタンは電源スイッチ。
小さなライトが近くについていてバッテリーの状態を色で示してくれる。
一方の黄色い矢印の「M」の字がついているボタンはそのまま「Mボタン」といって「Marshall Bluetooth」のアプリをスマホにダウンロードするとヘッドホンをお気に入りの状態にカスタマイズすることができる。
120_2コレがそのアプリ。10_img_0302何ができるかというと…例えばイコライザー。10_img_0301こんなグラフィックを使って自分好みの音質にEQを調節できるというワケ。
まるでCODEだな。
MAJOR VはBluetooth LE Audioに対応しており、Auracastのようなオーディオ共有機能にも可能性を広げている。
10_img_0300それから、青い矢印は付属しているUSB-C充電ケーブル用のジャック。
そして赤い矢印の方は3.5mmステレオ・ミニ・プラグ用のジャック。
90_2下の付属のケーブルを使えば旧来の有線式の方法で使用することができます。
安心してください。100_2 

ワイアレス充電もOK(充電器は付属していません)。
フル充電で100時間のワイアレス再生ができる。
クイック・チャージ機能を備えているので充電もスムーズ!
140s

たたむとアルマジロみたいにこんなにコンパクトになっちゃうよ。
コレでバッグにポイ!っと放り込んでおけばケーブルがこんがらがっちゃうトラブルもないし、全く便利なものですな。

130こんなMarshallからの挨拶状と…150クイック・スタート・ガイドも入っています。160さて、実際に使ってみてどうだったか?
いいのよ、コレが!
何しろケーブルが付いていないことがこんなにステキなことだとは知らなんだ。
自由になった感じ?…例えていうならタバコを止めた時に「ああ、もう食後のタバコの有無を心配をしなくていいんだ!」という感じか?
私がロジャー・ダルトリーだったら思わず「♪I'm free~!」と歌ってるわ。
音もバッチリ。
音像がクリアで分離感がとても心地よい。
そして、もちろん軽くて装着感がバツグンに優れている。
スッカリ気に入っちゃった!
最近街を歩いているとMarshallヘッドホンを使っている人をよく見かけるようになったが、こうして実際に使って見るとその理由がよくわかる。
そして、Marshallヘッドホンを愛用しているのは女性が多いように見受けられる。
このことを本社の担当者に話したら世界的にはそうした傾向は見られないそうだ。
80_2MAJOR Vの詳しい情報はコチラ⇒Marshall.com
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2024年5月 2日 (木)

EAST OF EDEN~御社の乱れ正します!

 
最近、ゴジラがアカデミー視覚効果賞を獲得したことが話題になったが、ゴジラといえば「東宝」の看板キャラクターのひとつ。
かつてMr.BIGが世田谷の東宝の撮影所で公開ライブを開催したことがあって、私はポール・ギルバートが使用するMarshallのサポートで一度だけそこにお邪魔したことがあった。
撮影所正門の正面の建物の壁面には『七人の侍』の巨大な姿が描かれていて、それを目にした私は大興奮したものだった。
ナンとならば、私は黒澤さんの監督処女作である1943年(昭和18年)の『姿三四郎』から1993年の遺作『まあだだよ』まで監督作品の30本すべてを観ている黒澤ファンなのだ。
大正から戦前にかけては向島の「日活」、蒲田の「松竹」と都内にいくつか大きな撮影所があったが、前者は京都、後者は大船に移転し、現在では砧の「東宝」と大泉の「東映」ぐらいになっているのではなかろうか?
それではナゼ東宝が世田谷に撮影所を建設したか…?
また、成城学園前の三船敏郎をはじめ、ナゼ映画関係者の多くが世田谷に住んでいたか…?
その理由は、昭和30年代ぐらいまでの世田谷はかなりの未開の地で、オープンセットを組まずして素の景色のままで時代劇の撮影が出来たため、通勤の利便性を考慮した多くの映画関係者が世田谷に居を構えていたというワケ。
『七人の侍』の冒頭で島田勘兵衛(志村喬)が出家僧を装い、子供を人質に離れに立てこもった強盗を撃退する場面があるでしょ?
スロー・モーションが最高にカッコいいシーン。
アレは仙川でロケをしたそうだ。
今では「高級住宅地」の代名詞みたいになっている世田谷だけど、少し遡ればそんな寂しいところだった。
黒澤さんの話が出たところでついでに書いておくが(自分で出しておいてスミマセン)、後に狛江へ引っ越した黒澤さんもかつては成城学園前に住んでいて、夜ごとスタッフや俳優を家に呼びよせては好きな肉を大盤振る舞いし、その肉をいつも同じ成城の精肉店にオーダーしていた。
その精肉店は黒澤さんのおかげで繁盛し、それが後に「成城石井」になったそうな。
…ということで、東宝ではないが、世田谷にあるテレビ番組収録のスタジオにお邪魔してきた。10用向きはEAST of EDENの撮影だ。20YukiちゃんはMarshall「JVM410H」と「1960A」のハーフスタックを2セット持ち込んで撮影に臨んだ。30この撮影は今晩21:00から放映されるBS-TBSの番組『MUSIC X』のためのもの。40v 演奏したのは4月2日から始まった同じくBS-TBSの連続ドラマ『御社の乱れ正します!』の主題歌「Judgement Syndrome」。
50先日のZepp Hanedaのコンサートでも演奏していたし、すでにミュージック・ビデオが公開されているのでご存知の方も多いことであろう。60そのエキサイティングな曲調に合わせて…0r4a0030 気合の入ったアクションを展開するメンバーたち。75演奏が終わると…ハイ、お櫛。
90メンバー間の演技のスリ合わせにも余念がない。80「次も気合入れてイキまっせ~!」95v とうことでセカンド・テイク。100このテイクもバッチリとキマった!110プロ中のプロが集まっているチームだけあって仕事が早い。
アッという間に仕上げちゃった!
仕事がら私もこういう現場には何度も立ち会って来たけど、これほどスムーズだった撮影は他になかったナ。
120 そんなEAST of EDENの魅力がタップリと詰め込まれた番組をお見逃しなく!
放映は…

番組名:BS-TBS『MUSIC X』
日 時:2024年5月2日(木)21:00~
出 演:<司会>関根勤、早見優
    <ゲスト>EAST of EDEN、中西保志、辰巳ゆうと、新浜レオン
アレ?…スチュアート・オーがナレーターを担当しているのか。
超熱血シンガーのスチュアートさんは過去に何度かMarshall Blogにご登場頂いているのです。410v EAST of EDENの詳しい情報はコチラ⇒Official Website
130v 

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日本が世界に誇るインストゥルメンタル・バンド、D_Drive。

<だるまさんは転ばない(Red Light, Green Light)>

<Wings>

<Thmbs Up>

<Begin Again>

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2024年4月10日 (水)

陽の当たるZENITH / 大世界夜桜極蔵楽団

 
イヤ~、昨日の東京地方の雨風はスゴかったネ~。
ようやく満開になったと思った桜もあの風じゃひとたまりもないわナァ。
Marshallの友人に咲き乱れる桜の写真を送ろうと思い、咲くのを今か今かと待っていたのだが今年はなかなか咲かなかったでしょう?
咲いたと思ったらあの暴風雨だ。
でもその直前、半日だけ晴れたチャンスを逃さずカメラを持って桜を見に行って来た。
まずは定番の上野恩賜公園。
外人ばっか!10隅田公園…家綱さん、吉宗さん、どうもありがとう!

20ウチがいつも行くのは浅草側。
ココは土手にあがると花が目の位置に来るので他とは異なる桜の情景を目にすることができる。
宴会している連中もおらず、子供連れが多いのも平和でいい感じ。30そして谷中墓地。
墓場だけあってココもさすがにシートを広げて酒を飲み騒いでいる連中は皆無だ。
それも外人がものスゴく多いのには驚かされる。
チョット前までは全くいなかったのに…。
そこで私に道を尋ねて来たイタリアから来たという女性にどこでこの墓地のことを知ったのか訊いてみた。
すると、やっぱりガイドブックに掲載されていて、「上野よりも静かでジックリ花を見ることができる」というようなことが書いてあるのだそうだ。
40夜桜はコレだけ…龍鳴山本覚寺の桜。
地元の人は「お祖師さまの桜はもう咲いたかいな?」とこの桜の咲き具合で春の訪れを計る。50あ、もうひとつ夜桜があった…「大世界夜桜極蔵楽団」だ!60このバンドをサポートしているのがMUTANT MONSTERのドラマー、CHAD。90vCHADちゃんはNATAL。
NATALは「ナタル」でも「ナダル」でもありません。「ナタール」と読みます。70NATALドラムスはCHADちゃんのダイナミックなプレイにベスト・マッチするのだ。80vそして、大世界夜桜極蔵楽団がこの度発表したビデオが「陽の当たる場所」。
100(映画に興味のない読者はココは飛ばしても大丈夫です)
キタキタキタ~!
「陽の当たる場所」といえば、音楽ファンにはスティーヴィー・ワンダーの「A Place in the Sun」が真っ先に頭に浮かぶだろう。
もちろんアレは文句のつけようがない名曲・名演だけど何と言っても私は映画の『陽のあたる場所(A Place in the Sun)』。
主演はモンゴメリー・クリフト、シェリー・ウインタース、そしてエリザベス・テイラー。
コレはいいよ~。
モンゴメリー・クリフト(以下「モンティ」)扮する貧しい母子家庭に育った青年が叔父が営む工場に就職し、工場の女性と恋仲になる。
この工場に勤める女性がシェリー・ウインタース(以下「シェリー」)…『ポセイドン・アドベンチャー』のあの太った水泳が得意なオバさんね。キューブリックの『ロリータ』ではお母さんの役を演った人。
ある時、モンティは叔父の家に来ていた美しいエリザベス・テイラーを見染てしまう。
ところがあまりにも身分が異なるため将来が望めない。
しかしお互いに惹かれ合うようになり、周囲も結婚を認めるようになってきてしまう。
するとモンティはシェリーが邪魔になってきてしまう。しかも彼女は妊娠していたのだ。
一計を案じてモンティはシェリーを湖に誘い出し、ボートを転覆させて溺死させようとする。
ところが、なかなかできない…ドキドキしてもう汗びっしょりになっちゃう。
するとモンティの意図を読み取ったシェリーが激高してボートの上で立ち上がって暴れ出してしまう。
小さなボートは激しく揺れて、やがて転覆…。
ココから先は映画を観てください。
とてもよく出来ています。
撮影時、モンティはそのボートの上でかいた汗は霧吹きでかけた水ではなく、自力で身体の中から出したという。
昔の役者は本当にスゴかった。
この映画は、作品賞は逃したものの1951年のアカデミー賞で9部門でノミネートされ、監督賞をはじめ6部門で受賞した。
まだ怪獣映画やマンガ映画がオスカー像を手にする70年以上も昔、アメリカの映画界が正気だった頃のアカデミー賞だからして作品のクォリティの高さが窺い知れるでしょう。
ちなみにこの年の作品賞には他にエリア・カザンの『欲望という名の電車』もノミネートされいて、最終的にはヴィンセント・ミネリの『巴里のアメリカ人』が獲得した。
3本とも大好きな作品。
でも私が選考委員だったら『欲望という名の電車』を選ぶかな。
110vさて、大世界夜桜極蔵楽団のミュージック・ビデオ。
CHADちゃんがその撮影時の写真を送ってくれた。120CHADちゃんが撮影に使用したのはNATALのZENITH(ゼニス)。
この撮影が日本でもビデオ・デビューとなった。Img_8667ZENITH(ゼニス)は60年代のビンテージ・ドラム・キットを音もルックスも忠実に再現したモデル。140コレはCHADちゃん撮影の写真。
やっぱこのデフォルトで装着されているフロント・ヘッドが気になるよね~。145vコレもCHADちゃんの撮影。
やっぱり皆さん、このロゴの形をした空気穴をお気に召すようで…。
「キーホルダーにして欲しい」というリクエストもあったぐらいですから。146大世界夜桜極蔵楽団の皆さん。
大変個性的な皆さん。
150軽快にゼニスを叩くCHADちゃん。160寡聞にして大世界夜桜極蔵楽団のことを存じ上げず、一体どんな音楽を演っているのかの情報も全くなかった。
そして出来上がったビデオを観て驚いた!
コレがですね~、バンジョーやフィドルが入ったパンキッシュなカントリー・テイストなのよ!
歌っている内容はこの世の欺瞞を批判する辛辣な内容でとてもゴキゲン!
175皆さんとお揃いの水兵さんの装束ですっかりメンバーに溶け込むCHADちゃん。
コレはコーラスのシーンの撮影ですな。
180とにかくCHADちゃんはMUTANT MONSTERとは似ても似つかぬテイストの音楽のドラム・パートをバッチリこなしている。
そのドラミングをNATALがお手伝いさせて頂いております。170コレがその「陽の当たる場所」。
お楽しみあれ!


ホント「何でもいいからやっとけ!」だよナァ。
前見て生きてりゃチャンスはどこにでも転がってる。
極蔵さんが歌っていらっしゃる通りよ。
そして、時間は死ぬまであるけれど、それはアッという間!
 
大世界夜桜極蔵楽団の詳しい情報はコチラ⇒X
190v 

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<Birdsong>

<Today We're Warriors>

<Monsters>

<Heart is on Fire>


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2024年4月 4日 (木)

英Marshallの新しいウェブサイト

 
イギリス本国のMarshallのウェブサイトが新しく生まれ変わりました。 
Ws14 
昨年より「Marshall Group」として、Marshall、NATAL、レコード等の従来のMarshall商品とヘッドホンやスピーカーのラインナップを組み合わせた「新しいMarshall」のウェブサイトです。   Ws13 
今回からオリジナルの英語版に加え、一部を除き日本語のページを併設。 Ws2 
内容はもちろんアンプのラインナップと…
Ws25_2  
各モデルの詳細… 
Ws11 
スピーカー・キャビネット… 
Ws15 
ペダル等の旧来のMarshall Amplification商品… Ws16  
オーディオ・スピーカー… Ws3_2  
ポータブル・スピーカー… 
Ws12 
ヘッドホンやイヤホン… Ws4 
NATAL(ナタール)… 
Ws5 
レコードやアクセサリー類… 
Ws6
  
スタジオ等のアーティストまわりのビジネスまで。 Ws7 
さらにMarshallの歴史やアイコニックなアーティストの紹介… Ws8 
「BACKSTAGE」と題したコミュニティ・ページ。 
Ws17 
ココで目を惹いたのが「HOMEWARD BOUND」というところ。
サイモン&ガーファンクルに「Homeward Bound」という曲があって「早く家へ帰りたい」という邦題が付けられていた。
「Homeward bound」というのはその邦題通り「早く家に帰る」という意味で、「困難を乗り越えた者が愛する者がいる場所に急いで帰る」ということなのだそう。
生活の中に音楽やMarshall製品がどう溶け込んでいるかを紹介している。Ws9 
他にMarshallブランドと他社とのコラボレーションの紹介など盛りだくさん! 
Ws10 
新しいMarshallのウェブサイトはコチラ⇒Marshall.com
  Mar_logo

2024年3月12日 (火)

【告知】田川ヒロアキ~NHK TRUE COLORS SPECIAL LIVE 2024


「マーブロさんは何か告知ありますか?」
「ハイ!エット~、去る3月7日、NHKホールにて一般財団法人「日本財団 DIVERSITY IN THE ARTS」が主催する『TRUE COLORS SPECIAL LIVE 2024』という音楽とダンスのコンサートに田川ヒロアキが出演したんですが、そのもようがテレビで放映されるんですよ!」
…と今日はライブの後半の雰囲気でスタートしてみた。
10s_2
コンサートではヒロアキくんはもちろんMarshallをプレイ。
事前のリハーサルからJVM210Hと1960Aを持ち込んでガッツリいつもの音を作って臨んだ。20本番当日。30v控室は5号室。
前回私がココへお邪魔したのは2019年11月のこと。
D_DriveのYukiちゃんが「うたコン」で石川さゆりさんと共演した時だった。
コロナの2月前のこと。40「祝 御出演」!
ヒロアキくんに届けられた祝い花。
というか、コレは祝い飴かな?50sステージ袖に準備されたMarshall。
もちろんヒロアキくんの愛器であるところのJVM210Hと1960A。
ご苦労様です…重いでしょう?
でも、この重さこそがデジタル・アンプには到底マネすることのできないどこまでも突き抜ける無敵の「田川サウンド」をクリエイトしてくれるのです。60本番前のリハーサルのようす。
たくさんのスタッフが見守る中で入念に音作りを進める…と言ってもヒロアキくんはJVMさえあればサササっといとも簡単に仕上げちゃうんだけどね。70リハーサルのようすもカメラが追い続ける。90よし。
いつも通りのサウンド完成!100vそして本番の衣装に着替えて直前のリハーサルに臨む。110「イヤモニの調子はどうかな?」
80vリハーサルの合間にはインタビューにも応じる。
忙しいよ~。120共演の皆さんと記念撮影。130佐藤ひらりちゃんと。
ひらりちゃんはパラリンピックの開会式で国歌を独唱した人。
今回1曲ヒロアキくんと共演した。140さて本番。150vヘッドセットも装着して出番のタイミングを窺うヒロアキくん。
この続きはテレビで!
160v『TRUE COLORS SPECIAL LIVE 2024』テレビ放映は次の通り。

★日   時:3月17日 16:00~17:00
★チャンネル:NHL Eテレ
 
お見逃しなく!
うちはもう忘れないように録画予約しておきました。180s田川ヒロアキの詳しい情報はコチラ⇒FretPiano170v(一部敬称略 2024年3月7日 NHKホールにて撮影 ※写真提供:吉岡美瑞穂さん…ありがとうございました!)
 

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<K.B.B.>

<Choose Your Fighter>


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2024年3月11日 (月)

【追悼】仮谷克之さんのこと

 
数日前にギタリストの田川ヒロアキさんから仮谷さんが急逝された旨の連絡を頂き腰を抜かして驚いた。
仮谷さんとは昨年の9月、THE GOOD-BYEの40周年を記念するコンサートの時に昭和女子大人見記念講堂でお会いしたのが最後となった。
その時は本当にご挨拶程度ではあったが、よもやお身体を悪くされていらっしゃるようには見えなかった。
仮谷さんにはMarshallが取り扱っている頃、何度かEDENを弾いて頂いたことがあったものの楽器を接点にした仕事は決して多くはなかった。
しかし、田川さんのライブの取材の時にご一緒させて頂くことが多く、Marshall Blogに何度もご登場頂いた。
今日はそうした記事を振り返って故人を偲ぶ。Img_0490考えてみると仮谷さんに初めてお会いしたのは「ベーシスト」としてではなかった。
八王子の「X.Y.Z→A」で手数セッションがライブ・レコーディングをした際、仮谷さんは「レコーディング・エンジニア」としてご参加されていて、その時が初対面となった。
それは2011年2月19日の時のことで(20日もライブを開催)、私はスチール写真を担当させて頂いた。
確かその時は「今日エンジニアさんは『バビロン大王』のベーシストの仮谷さんです」と紹介された記憶がある。
ほーじんさん、孝三さん、ヒロアキくん…このトリオは本当にスゴかった。
その音源が仮谷さんのエンジニアリングによって残されているのは今となっては本当にありがたいことだと思う。
10_20110219_20_2ベーシストとしての仮谷さんに初めて接したのはその手数セッションの半年後…
Img_0472三軒茶屋の「GRAPEFRUIT MOON」での三宅庸介さんのバンドとのダブルヘッド・ライナーの時のこと。20_110829_se_2それから2年後の江古田Marqueeのヒロアキくんのライブ。
ファンキーさん、石黒さんを交えたカルテット。50_130315この時ベラボーに照明が暗くて往生したのをよく覚えている。
仮谷さんから頼まれてこのカレー屋の帽子をかぶっているソロのポートレイトを何枚か撮影して差し上げた。60_130315_marqueeコレは2014年4月の吉祥寺GB。
手数セッションと五星旗3rdのダブル・ヘッドライナー。
このライブは本当に愉快だったナァ。70_140419gb2ほーじんさんとのベース・バトル!80_140419_gb屋外の仮谷さん。
2015年5月のつくばサーキット。
90_150515_2この時もEDENを使ってバリバリ弾いて頂いた。
何度か記事にも書いたように記憶しているが、私は猪突猛進的で勇ましいことこの上ない仮谷さんのスラップのソロが、すごく好きだった。
100_150515_2016年4月のヒロアキくんの新譜『Over Drive』リリースツアー。
会場は二子玉のKiwa(現在の「ジェミニ・シアター」)。110_160415_kima_odt2この時もEDENだった。
リハーサルの時、仮谷さんが外に出ていた私に電話をかけて来て「スピーカーが1ケ飛んでいますよ!」と教えてくれた。
もちろんそんなこと何ら問題にせず、この日もド迫力のプレイを聞かせてくれた。120_160415_kiwa_odtコレは2017年のヒロアキくんバースデイ・ライブ。
130_17611_birth1ヒロアキくん、二井原さん、石黒さん、千里ちゃんとともに充実の演奏を披露してくれた。140_17611_bitth2二井原さんが神妙な面持ちで壇上からご挨拶をされているこの場面は2017年11月23日、ヒロアキくんの結婚披露宴。150_171123_1スーツ姿の仮谷さん!
帽子をとった姿を拝見したのはこの時が初めてだった。160_171123_2ヒロアキくんのライブの制作などに携わっている八王子の「ALWAYS」の創立20周年記念パーティが開かれたのは2019年3月のこと。170_190312_2ヒロアキくんの披露宴同様、記念の式典とあってピリっとしまった感じが凛々しかった。180_190312_1こうして何度も仮谷さんとご一緒させて頂いたことは忘れられない思い出となった。
下の写真は上で触れた江古田Marqueeの時に仮谷さんに頼まれてシャッターを切ったポートレイト。
仮谷さんが長年にわたってこの写真をfacebookのプロフィールにご採用頂いていたことをとても光栄に思う。
仮谷さん、色々とご協力ありがとうございました。
 
素晴らしいベーシストのご逝去を悼み心からご冥福をお祈りいたします210v 

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2024年2月15日 (木)

金光健司とNATAL ~ZENITHの魅力~

 
【お詫び】
今日はまずお詫びから。
過日、NATALから『ZENITH』という新商品が発売されたお知らせをMarshall Blogに掲載した。
その際に「ZENITH」は「ゼニス」ではなく「ズィーニス」と発音するべき…と書いた。
このことは「ウスウス」ではなく「ハッキリ」と覚えている。
ところが!
コレがすっかり「ゼニス」だったんですわ。
「頂点」とか「最高点」とかを意味する「zenith」という英単語を「ズィーニス」と発音することは確認していたんだけど、このNATALの「ZENITH」を紹介する海外のビデオを見ると、皆さん「ゼニス」と発音していたのだ。
コレにはマイッた!
そして考えた…意地と根性で私だけこのまま「ズィーニス」で通そうか…?
イヤイヤ、それでは夜郎自大のそしりも免れないので、今後この商品は「ゼニス」と潔く改称する決心をした。
となると「ズィーニスである」と言い張った記事はどうするのか?
また考えた…記事にドリルで穴を開けるワケにもいかないのでシレッと消しちまおうか?
イヤイヤ、ココは記事を撤回しないことにした。
あのままにしておき、ココで説明責任を果たして終わり。
そして、今後は与えられた職務をまっとうし、残された職責を果たすことに邁進致します…なんて書くといかにも軽いか?
ということでお詫びして訂正し、これからは「ゼニス」という呼称を使用致しますことどうぞよろしくお願いします。Nz さて、そのゼニスのリリースに合わせて金光健司によるNATALドラムスのビデオを作りました!
初めてのNATALのビデオ。
10ドラマーとしての金光さんについては改めて説明するまでもないでしょう。
金光さんにはNATALが初めて日本に入って来た11年前からずっとNATALを愛用して頂いているのだ。
 
MOONSHINEでも… 
20Strange,Beautiful and Loudでも…30はたまたJill's Projectでも…
 
金光健司とNATALは一心同体なのだ。40今回のビデオではゼニスを使った実演を交えてタップリとNATALについて語って頂いた。50ライブではいつもステージの後方に陣取ってモクモクとリズムをジェネレイトすることに専念しているが、実は金光さんってベラボーにトークがお上手なのです。
「こういうことについてしゃべってください」と、トークの内容について前もってお願いをしていたのだが、この日も期待をはるかに超えるパフォーマンスを披露して頂いた。
カンペはおろかメモも一切使わず、すべてアタマの中にあることを澱みなくしゃべった頂いてのオール・ワン・テイク。
一度もやり直しなし!
こんなこと…本当に思っていることでなければこんなに「立て板に水」でしゃべることは絶対に不可能だ。
つまり金光さんの本心が語られているというワケ。
10_kt2 内容はまさに百戦錬磨のドラマーならでは。
その金光さんの理論的にして簡潔な言葉を通し、間違いなくNATALの魅力が伝わると思う。
10_kt3 「NATALドラムスとの出会い」、「ナゼNATALドラムスを気に入っているか」から始まって…
130「ゼニスの魅力」まで、長い間第一線で活躍して来たドラマーの目と耳と手足でシッカリと洞察して頂いたのだ。
140vもちろんドラミングも見逃すことはできない。
金光さんのドラミングには決して彼にしか生み出すことのできない独特のグルーヴがあって、私はMarshall Blog内で勝手に「金光ビート」と呼んでいるが、その魅力もタップリ味わって頂けるビデオになったと思う。150「ドシャメシャと音数が多ければいい」式のドラミングとは全く異なる大人のドラムス。
ライブの場で金光さんのドラミングを単独で聴ける機会はまずないであろうから、そういう意味でも貴重なビデオになったのではなかろうか?0r4a0069四の五の言っても、私としては金光さんがとてもNATALを好いていてくだることがよ~くわかったのが一番の収穫だったし、何よりもうれしかった!
次回、ゼニスでのステージを楽しみにしております。170v今回公開した当該のビデオはコチラ。
金光さんがビデオの中で紹介してくれている「レトロ・リヴァイバル」を標榜したゼニスはビンテージ・テイストタップリ!
110

1205種類のフィニッシュをご用意しております。
 
Forge Black(フォージ・ブラック)
「forge」とは「鍛造」という意味。
すなわち、金属を叩いて圧力を加えて強度を高め目的の形状に成型すること。
もちろん名前はイメージで、シェルが金属製というワケではありません。
シェルは「メイプル+アッシュ+メイプル」の3プライ構造です。60

Forge Blue(フォージ・ブルー)70 Forge Red(フォージ・レッド)
90Pink Frost(ピンク・フロスト)
「frost」は「霜」ね。
もちろん「霜」と言ってもイメージで、シェルが凍ったりしているワケではありません。
シェルは「メイプル+アッシュ+メイプル」の3プライ構造です。

80Silver Frost(シルバー・フロスト)100ゼニスの詳しい情報はコチラ⇒日本語版NATAL公式ウェブサイト 

 
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骨太なロックがスキ!という方におススメなのはBAD TOUCH!
筋金入りのブリティッシュ・ハード・ロックをお楽しみアレ! 
 
<Lift Your Head Up>

<Skyman>


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2023年12月18日 (月)

後藤マスヒロ PLAYS NATAL!

 
モノ・マガジン(ワールドフォトプレス刊)の最新号に、な、なんとNATALが登場している!
コレ、一般の雑誌では初めてのこと。
「1」どころか「0」からNATALに取り組んで来た私としてはとてもうれしいことだ。10一方、Marshallはかつてモノ・マガジンさんに取り扱って頂いたことがあるのです。
それはMarshallが2003年に創業40周年を記念してリイシューしたJCM800 2203。
ドカっとご紹介頂いてとてもうれしかったのを覚えている。
下が実際の記事。
…というのも、イギリスの工場の検品係の人を除けば、恐らく私は「世界で一番2203をたくさん弾いた男」だと思っていたからだ。
要するに倉庫に積んであった2203を1台1台をすべてギターをつないで検品したから。
「いいな~!」なんて思いなさんな。
箱から出しちゃ、試して箱に戻す…これをひがな一日延々と繰り返した。
腰が死んだわ。
でも、オモシロイことはオモシロかった。
この時から20年…そりゃそうだよナァ、去年60周年だったんだから。
私もMarshallに関わり出して今年で25年が経過したよ!

20vさて、今回のNATALの登場は金属恵比須の総帥、髙木大地さんのおかげ。
髙木さんはもちろんMarshall弾きで、モノ・マガジンに「髙木大地の狂気の楽器塾」という連載ページを持っていらっしゃる。
その中で金属恵比須のドラムスの後藤マスヒロさんの評価を交えてNATALを紹介してくれたのだ。
ありがたや~!30vところで、金属恵比須と出会ったのはそれほど昔のことではない。
金属恵比須のメンバーがCreaturesとしてダミアン浜田陛下のサポートを務めた2021年11月のことだった。
でも、あれからもう丸2年経ったのか!40v 寡聞にしてこの時、私は金属恵比須を存じ上げなかったが、聞けば「プロッグ・ロックのバンド」っていうじゃん?
それで、金属恵比須ではベース、Damian Hamada's Creaturesではギターを弾いていた栗谷秀貴くんを介してお近づきとなった。
秀貴くんは先頃金属恵比須を脱退してしまったが、事務所まで来てくれましてね。
2人で「Frame by Frame」かなんかを弾いたりして楽しかった。
そうして私は金属恵比須に出入りさせて頂くようになった。50私、プロッグ・ロック好きじゃん?
スッカリ金属恵比須が気に入ってしまったというワケだね。60v それでカッコいいワケよ、ドラムスが!
で、ビックリしたのがマスヒロさんのキャリア。
人間椅子にいらっしゃったということは知っていたんだけど、頭脳警察にもご在籍だったということを知らなかった。
直接お話をしてみると出て来る出て来る、共通の知り合いが!もう笑っちゃうぐらい。
それが誰かと尋ねるならば…皆さん70年代からロックの世界でご活躍のベテラン・ミュージシャンよ。
先頃Marshall Blogに追悼記事を書いたぐらい私はパンタさんが好きだったので、マスヒロさんのキャリアに大変感動してしまったのです。
オマケに…
70頭脳警察が2004年にリリースした『万物流転』というライブDVDのドラムスがマスヒロさんだっていうじゃない?
ウチのDVDの保管ファイルから引っ張り出してチェックしてみると…出てる出てる!
「銃をとれ」とか「悪たれ小僧」とかを演っちゃってるワケよ。
メチャクチャうれしくなっちゃってネェ。80さらに金属恵比須のメンバーのサポートを得て2017年に発表した『INTENTION』というマスヒロさんのソロ・アルバムも聴かせて頂いた。
コレがすごくヨカッタのです。
ドラムスが出すぎるワケでもなく、かといって引っ込むワケでもなく。
新しいような懐かしいような。
立派な音楽がたくさん詰まっている好盤だ。
ピクチャーCD仕様なのもうれしい。
100そんなだからマスヒロさんにNATALを使ってもらえたらいいナァ~…とズット思っていた。
そして…90下は先月の25日、横浜のランドマーク・ホール。
金属恵比須があるイベントのトリを務めた(レポートは後日掲載予定)。110ジャジャ~ン!S41a0403 どうよ…マスヒロさんが叩いているドラム・キットは間違いなくNATALじゃないの?130v そうです。
後藤マスヒロさんはNATALプレイヤーになられたのです!
Marshallファミリーへようこそ!150v自分が取り扱っている楽器を好きなミュージシャンに使って頂く…コレがこの仕事の一番の醍醐味なのです。
マスヒロさんがモノ・マガジン誌上でNATALをどうご評価されているかって?
ココに書きたいけどガマン。
もちろんしっかりとホメて頂いています。
ゼヒ雑誌をお買い上げ頂き髙木さんのページをご覧くだされ!
次の金属恵比須が楽しみだ!
 
金属恵比須の詳しい情報はコチラ⇒Kinzoku-Yebisu Official Web140 

200 (一部敬称略)