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シゲ・エッセイ Feed

2017年2月 1日 (水)

【訃報】 さよならジョン・ウェットン

中学から高校の頃、好きだったJohn Wetton。

     
先日、チョットRoxy Musicの調べごとをしていたらファースト・アルバムのLPからこんなものが出て来た。
1974年秋のコンサート・プログラム。
中学生の頃、どこかで私が買ったものだ。
中身はメンバーの紹介だけで、コンサートのことには一切触れていないため、どこで使われたものかはわからないが、イギリスの住所を記したファンクラブの案内が書いてあるのでイギリスでのコンサートなのだろう。
前座はJess Rodenだった。
数年前にはここにSadisic Mika Bandが紹介されていたハズだ。
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そのメンバー紹介の最後のページ。
『Viva! Roxy Music』にもJohn Wettonのクレジットがあるが、他にBryanの『Another Time, Another Place』への参加等、Roxy人脈とは関係が深かったようだ。

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下は1975年のRoxyのアメリカ・ツアーの海賊盤。
この「Re-Make/Re-Model」のベースがスゴイ!
昔の海賊盤にしては音がすこぶるよく、昔はよく聴いたものだが、残念ながらベーシストのクレジットがない。
何か所かの録音なので、わからなくなってしまったのかもあしれないが、この「Re-Make/Re-Model」は間違いなくJohn Wettonだろう。
カッコよすぎるもん。

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初めて本物のJohn Wettonを見たのは1977年6月、中野サンプラザでのこと。
Bryan Ferryのバンドで来日した時だ。
先に触れた通りRoxy Musicのつながりでメンバーに選ばれたのであろう。
ギターはChris Spedding。
他にPhil ManzaneraやAndy McKayやPaul Thompsonがバンドにいて、Roxy Musicが好きだった私は、『Viva!』を出した後活動を停止していたRoxy Musicの変形が見れるとあって大喜びしたものだった。
しかも、ベースは大好きなKing CrimsonのJohn Wetton!
二階席だったけどすごくうれしかった。
この時はひたすらベーシストに徹していたっけ。


その後、Uriah Heepに入った時は「金の亡者」ぐらいのことを言われて気の毒だった。

Bryan Ferry での来日から2年、またJohn Wettonを観た。
場所は日本青年館、U.K.での来日だった。
中学の頃からAlan Holdsworthが好きだったので、U.K.がトリオ編成になってしまいとても残念だったが、コンサートを観てビックリの連続だった。
まずは毎朝電車で一緒になるカワイ子ちゃんが会場に来ていたこと。
そして、Trry Bozzioのドラム・ソロ。
コレはホントにスゴかった。
もうその頃にはFrank Zappaを聴いていて、『Bongo Fury』はすでに耳にしていたものの、そこはまだ子供のこと、ギターばっかりでドラムにあまり意識がなかったのでこのソロには腰を抜かすほど驚いた。
Jack DeJohnetteとSantanaの誰か(多分77年の来日時)と並んで、今のところの私の人生の中のドラム・ソロ・ベスト3に入ってる。
Littel cuteなTerry Ted Bpzzioのソロと同じぐらい驚いたのがJohn Wettonのベース・ソロだった。
もうフレーズがどんなだったかは覚えていないが、何やら右手の指すべてを使ってバリバリ弾いていたように記憶している。

Uk
Gordon Haskellは70歳でまだ元気なようだが、King CrimsonはGreg Lake、Boz Burrell、John Wettonと70年代に活躍したベーシストを軒並み失ってしまったことになる。
   
ベース・プレイもさることながら、やっぱりあの男性的な声と、チョット変わった発音が魅力的だった。
ああいう歌い手ってホントに少なくなった。
パンクやテクノ、ニュー・ウェイブを経て80年代に入ると、素っ頓狂な声を出すボーカルズばっかりになってしまい、ロックのカッコよさのひとつが完全に葬られてしまった。
  
そんな80年代に登場したAsiaには完璧なまでに興味が湧かなかった。
自分自身がジャズに興味が移っていった時期と言うこともあったが、Steve HoweにCarl PalmerにJohn Wettonといった大好きなプログレの立役者が集まったバンドだったにも関わらず、商業主義丸出しのポップ・ミュージックには何の刺激も感じなかったのだ。
だから80年代は私にとってはロックの「暗黒時代」なのだ。
  
2010年にロンドンのフェスティバルにAsiaが出演していたが、観る気はまったく起こらなかった。
楽屋村では、Carl PalmerはAsiaでは演りたがっているが、その時一度限り再結成したELPでの演奏は乗り気ではないようだ…という噂が流れていた。
「なんでやねん!」と思った。
Asiaのおかげで、John Wettonとはスッカリ疎遠になってしまっていたので、今回あまりショックが大きくなくて助かった。
facebookなどでは「AsiaのJohn Wettonが逝ってしまった」と騒いでいるが、私にはそんな感覚はツユほどもない。
Asiaファンには失礼かもしれないが、私が思うにはKing Crimsonで見せたクリエイティビティこそがJohnの偉業であり遺産なのだ。

Sundown dazzling day
Gold through my eyes
But my eyes turned within
Only see
Starless and bible black
私の心にひたすら流れているのは、「Starless」の悲しく美しい旋律。
ロックの偉大なイノベーターの逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

2015年8月 4日 (火)

【訃報】 小川銀次さんのこと

小川銀次さんが天に召された…。
昨日の朝、銀次さんに近しい方がfacebookで報じていて仰天。どうしても信じられなくて、その方に電話をして確認したほどだった。
残念ながらその方の投稿の内容に誤りはないようであった。
58歳…。
天才ギタリストとのお別れの時があまりにも早く来てしまった。

10v_2ご多分に漏れず、私も銀次さんのことを知ったのはRCサクセションでの活動からだった。
高校2年生の時だから1979年かな?
渋谷の屋根裏にRCサクセションを観に行った。
当時、入手できるRCの音源は『シングル・マン』だけで、確かコレも一般には流通しておらず、青山のパイドパイパー・ハウスで限定的に入手できたのではなかったか?
どう考えても当時パイドパイパー・ハウスに行った記憶がないのだが、とにかく『シングル・マン』は持っていた。誰かに頼んでついてに買って来てもらったのかもしれない。
実を言うと、このアルバムを聴き込んだ覚えがなく、後に有名になった「スロー・バラード」ぐらいしかなじみがない。
それでも屋根裏にRCを観に行ったのは、銀次さんを見たかったからだったのかも知れない。
しかし、RC以前に銀次さんを知るルートは無かったようにも思えるし、この辺りの記憶はあいまいだ。
多分、どこかでRCを観て、それから屋根裏に行ったんだろうね。


RCサクセションはブレイクする直前で、当時、屋根裏で最も動員力が強かったのがPANTA&HALとRCサクセションと言われていた。店員さんが話していたのだから間違いない。
屋根裏は通常イス席で、大きなテーブルが据え置かれていたが、RCの時にはイスもテーブルも全部取っ払い、客席後方にひな壇が設置された。
私はそのひな壇の最上段から小川銀次が上手に立つRCサクセションのステージを観た。
当時にしては規格外の長さだったが、最初から最後まですさまじい熱演でアッという間だった。
コンサートに騒ぎに来るだけの感がある今とはまるで様相が異なり、お客さんも一生懸命音楽を聴いていた。
もちろん期待していた銀次さんのプレイは最高だった。
コーラスをギンギンにかけた独特のトーンが実にカッコよかった。あの後、CE-1を買ったのは100%銀次さんの影響だ。
あの手の音楽のバンドにケタ違いのテクニカル・プレイヤーを参加させたアイデアも素晴らしかったよね。

20時期はほぼ同じだったと思うが、有楽町にあった日立のオーディオのショウルームLo-DプラザにBAD SCENEと銀次さんが出演するというので喜んで観に行った。
Lo-DプラザのことはコチラのBAD SCENE関連の記事に詳述したのでここでは詳しく触れないが、幸運にもBAD SCENEと銀次さんの共演を高音質で記録しておくことができた。
下がその時のカセットテープ…私の宝物だ。
この中でBAD SCENEは銀次さんへ捧げた「銀次」というオリジナル曲を演奏している。
銀次さんは最後の3曲に参加しており、超絶技巧を披露。
BAD SCENEの代表曲でもあるこの時の「ライジング・ドリーム」は銀次さんのソロもコピーして高校の仲間と人前で演奏したこともあった。

25それから大幅に時代は下り、2001年。
二度目の『マーシャル祭り』に銀次さんに出演して頂いた。
30
私は上に書いた通りだったので、銀次さんに接するのがうれしくうれしくて…。
40
打ち合わせと称して何回かイッパイご一緒させて頂いた。
銀次さんは大のFrank Zappa好きで、ジャズにも造詣が深く、いつも話がハズんだ。
何かの雑誌で知ったのだが、銀次さんはZappaが1976年に来日した際に、浅草国際劇場でのリハーサルをご覧になったという。
「どうやって入ったんですか?」と尋ねると、「ン?あのね、円谷監督の息子だって言ったんだよ。ホラ、ザッパは怪獣映画好きじゃん?」…スゴい。銀次さんによるとそのリハーサルもスゴかったらしい。
また、銀次さんは独自のギターの練習法を編み出したという話しをされていた。スケール練習の類なのだが、何でも順列組み合わせで120万通りのパターンがあるとのことで、世の中に発表したくても内容量が多すぎて取り扱えないのが悩みだ…とも。
レコード2万枚、創刊号からのギターマガジンのコレクション、数々のマニアックなバンドやギタリストの話し…銀次さんのお話しをうかがうのが毎回とても楽しかった。何かの話しを振ると、内容を何倍にも濃くして返してくれるのだ。

それで、この『マーシャル祭り2』。

81750002 このイベントは、基本的によく知られている曲を出演者に演奏して頂くことを主旨としていた。
「Zappaに世間一般によく知らられた曲があるのか?」と問われればそれまでだが、銀次さんにはFrank Zappaの曲を選んで頂くことを期待していた。
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ところが「オレは他人の曲は演らない」とキッパリおっしゃって「その代り…」と自作の「ザッパがおしえてくれた事」というスローテンポの曲を選ばれた。
他に「いたちごっこ」という曲を矢堀孝一さんと演奏した。
銀次さんはこの時、JCM2000 DSL50をステレオで鳴らしたい…とリクエストされ、ご希望に答えたのだが、それがあまりにもすさまじい音だった。

81750031 このイベントでは、櫻井哲夫さんにベースをお願いしたのだが、お忙しくて曲をさらっている時間がないため、私がほとんどすべてのベースの譜面を書き起こし櫻井さんにお渡しした。
で、この銀次さんの曲は2コードぐらいを延々と繰り返し、銀次さんがすさまじいインプロヴィゼーションを乗せるというZappaでいえば「Black Napkins」的な曲。
それだけなら問題はないのだが、エンディングに4小節ぐらいのキメがあって、この部分の音を取るのに徹夜を強いられてしまった。
何せ銀次さんがどう弾いているのがわからくて何百回と聴き返した。こっちも意地だ。徹夜してナントカ譜面に収めた。

81750028 このことを後日銀次さんに白状すると「お~、そうか、そりゃそうだよ。あの部分だけでギターを10回以上重ねたんだもん!」なんて、平然といつもの笑顔でおっしゃっていた。
銀次さんはいつも笑顔だった。
それと、とてもおしゃれでカラフルなスニーカーをはいて、いつも清潔にしていらっしゃった。

コレはその時に銀次さんが取り組んでいた12枚組シリーズの『Private Diary』のサンプル盤。本当は本体が欲しかったんだけど…。
銀次さんが直に私に手渡ししてくれたもの。今でも大切にしている。
「12枚同時リリースでギネス狙ってるんだよ」ともおっしゃっていたっけ。

50この2001年の『マーシャル祭り2』では終演後、とんでもないことを起こしてしまった。
このイベントは、何から何までほぼ私ひとりで段取りを組んでいたのだが、さすがに当日になると色んな所にアラが出てしまい、銀次さんに失礼なことをしてしまったのだ、
もちろん、あこがれの銀次さんに面と向かって失礼なことを言ったワケでもしたワケでもないのだが、結果的に気分を害することをしてしまったのだ。
はじめは冗談かと思っていたら、本気で怒っていらして、いくら謝っても許してもらえず地獄の思いだった。
ところが一晩明けるとケロっとされていて、いつもの「銀次スマイル」で「おう、悪いけど荷物運ぶの手伝ってくれる~?」なんて昨晩のことなどナニひとつ覚えていらっしゃらないようだった。
あれほどホッとしたことも珍しいわ。

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『マーシャル祭り』の後はあまりお会いする機会がなかった。久ぶりにお会いしたのは2005年の5月、渋谷公会堂のJethro Tullのコンサートの時だった。
会場の前で関係者受付が開くのを待っていると、「オ~イ、うしざ~く~ん!」と遠くからお声をかけて頂いた。
こういうことって覚えているもんだナァ。
すごくうれしかったのだろう、銀次さんがワザワザお声をかけてくださるなんて…。
だって、屋根裏で見た時にはニオイすらかぐことができない存在だったのだから。

もちろんCrosswindも好きだった。
実際の演奏を観る機会がなかったのが悔やまれる。
今にして思うのは、Crosswindというバンド名はBilly Cobhamからのインスピレーションなのかな?
もうこんなグループは出て来ないだろうナァ。

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CDに入っているライナー・ノーツ。あまりに字が小さいのでたまたまお会いした銀次さんにこのこと尋ねると…「いいんだよ。字が大きかったら読めちゃうじゃん?」とおっしゃっていた。

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このライブ盤の自筆ライナーではそのことに触れていらっしゃって笑える。
ちなみにこのライブ・アルバムもLo-Dプラザで録音されていて、ドラムはそうる透だ。

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今はなき六本木のピットインに銀次さんのバンドを観に行った時、一部の演奏が終わると銀次さんは客席でものすごく大きな声で、「あ~!弾けてネェ!全然弾けてネェ!」と自分に怒りをブツけていた。会場にいたお客さんはみんな飛び上がってビックリしていた。

55v最後に銀次さんとご一緒させてもらったのももうずいぶん前のことだ。
2008年に『北野ロック教習所』というビートたけし関連のテレビ番組に中野重夫が出演した時、銀次さんも出演されていて同時に取材させて頂いた。
銀次さんの向こうに見えているMarshallはシゲさんのSuper100JHだ。

100

銀次さんは「The Orchestra」と称したひとりバンドで登場された。機材を駆使し、アコースティック・ギターを歪ませたりして、今までついぞ聞いたことのないようなギター・サウンドをクリエイトしていた。

90vこの時、珍しく一曲歌われたんだよね。銀次さんの歌はこの時初めて聴いた。

130v

銀次さんは特に目の覚めるような速弾きをするとかいうことではなかったが、十分にテクニカルなギターを弾いた。
ギターと相談して、誰もやらないような弾き方で、自分だけの言葉を自分だけの声で歌っていたのだ。

110v時にハードに、そして時にメランコリックに…ギターに入り込んでいるのか、ギターが銀次さんに乗り移っているのか…とにかくギターと一心同体で「音楽」を作っていた。
コレだけは間違いない。

115銀次さんのオリジナル曲はタイトルのほとんどが日本語だった。
「ナントカ of カントカ」なんてタイトルは見たことがない。
ココにもこだわりがあったのだろう。
銀次さんは英語もご堪能だったから、辞書で調べた英単語を並べてカッコだけつけているようなタイトルを自分の子供に付けるのをイヤがったのではないであろうか?
イッパイやりながらホンノ少しだけ英語の話しをしたこともあった。もう題材は覚えていないが、何かを英語で表現するとどうなるか…みたいな話だったんだけど、銀次さんがものすごくセンスのいい訳をされていた。
それでも「俺が世界に出た時はオマエを通訳で雇うからな…」なんて言ってくれた。もちろんイッパイやってる時だよ。

120銀次さんの名刺も持ってる。
名刺の右上には「12.10.7.」と頂いた日付が記してある。2012年かと思ったけど、コレ、平成12年だ。すなわち2000年。
肩書が”The Guitar"となっている。
ホント、その通りだと思う。ひとつしかないから「The」がついているのだ。
銀次さんにだけしか弾けないギター。
ギターを弾くために生まれて来た男。
銀次さん自身がギターだったのだ。
日本のギター界は計り知れない音楽的財産を失ったことに気づき、大いに困るべきだ。

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銀次さんが少なくない音源を残してくれたおかげで、我々は未来永劫銀次さんの音楽を楽しむことができる。
しかし、音や映像は残せたとしても人となりを知るためのエピソードや言葉はなかなか残すことがムズカシイ。
しばらくの間はハッキリと覚えていても、時間が経つにつれてどうしても記憶が薄らいでいってしまうものだ。
そこで、短期間とはいえ、銀次さんと一緒に過ごすことができた私なりの思い出をココに残して銀次債に哀悼の気持ち捧げた次第である。
140v
銀次さん、お疲れさまでした。
素晴らしい音楽と唯一無二のギターをありがとうございました。

心からご冥福をお祈り申し上げます。


さようなら…小川"The Guitar"銀次!

81750039 (一部敬称略 ※写真協力:55 Station入谷店)

2015年7月13日 (月)

Like Father, Like Son ~ 父の思い出

五月の下旬、父が81歳で永眠し、先週四十九日の法要も無事に済ませた。
この場をお借りしまして、お心遣いを頂戴しました皆様に心から御礼申し上げます。

父が息を引き取った時、私はイギリスにいたものだから今わの際に立ち会うことが出来なかった。
芸人でも公人でもない自分が、まさか肉親の臨終に接することが出来ないなんてことはついぞ考えたことがなかったが、却ってよかったとも思っている。
ドラマよろしく目の前で「ご臨終です」なんてやられた日には号泣してしまって思いっきり正体を失いかねなかったからね。
何しろMarshallの近くのホテルで妹から訃報メールを受け取って、それを見ただけで「ガ~っ」っとひと泣きしちゃったぐらいだから…。
それでも、聞こう翌日からお通夜、告別式と時差ボケしているヒマもないぐらいの忙しさだった。


生まれてこの方、ズ~っと心配のかけ通しだった。
本当に親孝行なんて何ひとつできなかったナァ。
「親孝行した」と、こっちの論理で自分を納得させるならば、孫の顔を二種類見せることができたのと、最後まで父と仲良くしていたことぐらいかしらん?

父は明るく、人を笑わしたり、おどかしたりすることが大好きなオッチョコチョイなキャラクターだった。だから、棺の中の彼を見ても息を引き取ったことが信じられず、しんみりしているところに突然ガバッと起き出して、「ギャハハ、驚いたかッ?!」とやりそうな気がしてならなかった。
でも、その亡骸は氷のように冷たく、ピクリともしなかった。
「お父さんはどういう人でしたか?」と人から尋ねられたら、何の迷いもなく、「とてもやさしい人でした」と答える。
今日はそんな父のことを書かせて頂く。

これまでMarshall BlogにはMarshallに関わった方々の訃報を何度も掲載してきた。
もちろん私の父はギタリストでもなければ、楽器業に携わっていたワケでもない。せいぜいJim Marshallに一度会ったことはあるぐらいだ(正確にはJimを「見た」だ)。
だからMarshall Blogに採り上げられる所以はまったくない。
彼は浅草生まれの大工で、音楽とはまったく縁のない仕事をしていた。
強引に結びつければ、下の写真の若い頃の父のヘアスタイルを見ると、ちょっと「ロケンロー」になっているからだ…というのはもちろん冗談。

戦時中は仙台に集団疎開し、戦後の混乱期には学校にもロクに行かれず、幼い頃から玄翁(トンカチのこと)や鍛冶屋(釘抜きのこと)を握り、同じく大工だった祖父の仕事を手伝わされて過ごしたため、十分な教育を受けることが何ひとつできなかった。
しかし、父は(私から見れば…)かなりの博学だった。
知識はすべて書物から得たと昔よく言っていたが、彼は日本文学はもちろん、シェイクスピア、ディケンズ、ヘミングウェイ、スタインベック、スタンダール、ドストエフスキー等の海外文学まで精読していた。
囲碁や将棋にも詳しく、ゴルフやスキーも今みたいに一般化する大分以前からたしなんでいた。
…なんて書くと、いかにも優秀な「スーパー・インテリ大工」のように見えるが、全然そんなことはなくて、チョット一杯引っ掛ければデレデレになってしまう一介の職人だった。
また、昔はそんな人がゴロゴロしていたものだった。
しかし、父には誰にも負けない分野があった。
それは「映画」だ。
特に洋画に関しては膨大な知識を持っていた。アレで文章のひとつも書けて、滑舌よくしゃべることができれば、簡単に映画評論家になれていたかもしれない。実際に雑誌の企画で淀川長治や小森和子と旅行に行ったこともあったらしい。

私はその父の薫陶を受けて、かなり小さい頃から映画に夢中になった。
中学に入るとその興味が音楽に移行し、ギターを弾き始めた。
そして時は流れに流れて、今はMarshallのために額に汗し、Marshall Blogを書き続け、幸せなことに読者の皆様から大きな支持を頂戴している。
つまり、父がいなければ映画に興味を持たなかったかもしれないし、音楽を好きになることもなかったかも知れない。
すなわち、Marshall Blogもこの世にあり得なかったかもしれない…。
そうであれば父もMarshallに関係していることになるのではないか…と私流に感謝の気持ちを込めて考えたのである。

そういうことで、今日は紙幅をお借りして思い出を交えながら映画の話しをして、Marshall Blogの源流である父にトリビュートさせて頂きたいと思う。
家内にも話したことのない話しばかりだ。どうでもいいような話しだからだ。
しかし、私の中ではそのどうでもいい話しが連綿と生き続けていて、一生忘れることができない父の思い出になっているのだ。
お時間のある方は是非お付き合い頂きたい。映画好きの方のもゼヒご一読願えれば幸甚である。
タイトルの「Like father, like son」とは「この親にしてこの子あり」を意味するイギリスのことわざだ。
では…

<Beep!(開演ベルの音)>

さて、下の写真は浅草の父の実家の前で昭和39年ぐらいに撮られたもの。50年前の写真だ。
すでにfacebookに乗せたことがあるので、それをご覧になられた方多くいらっしゃると思うが、この当時、まだ東洋の一大繁華街であった浅草でもまだ地面が舗装されていなかった。
後ろは私の父と母。前に立っている利発そうで可愛らしい男の子が私である。
この後、このガキが迷惑と心配と金を親にかけっぱなしにするなんてことは、写真の中の二人はつゆ知らない様子だ。
昭和39年、1964年、東京オリンピックが開催した年。
年表を調べると、経済的、政治的、文化的にものすごくたくさんの発展的な出来事が起こっている年だ。
終戦から約20年、イケイケドンドンで戦後日本の一番いい時代だったんだろうね。

D_dad2さて、ここに父の薫陶を受けた証しがある。
三冊のファイル・ブック。
本当はもっとあったのだが、引っ越しのドサクサでこれだけになってしまった。
強引なのは百も承知。でもこれらを紹介することを父への追悼のひとつとしたい。
これらが積りに積もってMarshall Blogになっているのだから…。

10ファイルブックの中身は映画のチラシだ。
私が小学校高学年から中学1年生の時に集めたもの。リアル・タイムでゲットしたものもあれば、後追いでコレクションに加わったものもあって、すべてホンモノである…といってもたかがチラシ、金銭的には何の価値もなかろうが、思い出がいっぱい詰まっている私には値千金の宝物なのだ。

20ところで、昔は子供の数も多く、怪獣映画がすごく盛んだった。
ゴジラやガメラは言うに及ばず、ギララ、ガッパ、『恐竜グワンジ』…あと忘れたけど、そういう怪獣物は母が連れて行ってくれた。ケロヨンもよく観に行った。
当然ビデオなんかない時代だからね、映画館でしかそれらの動く怪獣を見ることができない。
父と一緒に映画館で映画を観た最古の記憶は多分『ポセイドン・アドベンチャー』だ。
錦糸町の江東リッツだったように記憶している。
それから今は無きテアトル東京で観た『パピヨン』。コレなんか親戚一同で行ったわ。

一番印象に残っているのは、小学生の時に観た『七人の侍』だ。
モノスゴイ雨の日で、ヘタをすると映画の中の野武士との決闘シーンより映画館の外の方が土砂降りだったに違いない。
映画館はまたしてもテアトル東京で、父はナニを勘違いしたか、道を間違えてしまい開演時間に間に合わなくなてしまった。
ほうほうの体で映画館にたどり着いた時は全身ずぶ濡れだった。
『七人の侍』の公開が久しぶりだったのか、あの広い館内はスシ詰め状態で、まだ小さかった私は立ち見することもできなかった。
すると父は「アソコへ行っちゃえ!」と舞台を指さした。
テアトル東京は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていて、よじ登ることなくステージにあがることができたのだ。
そこにも大勢のお客さんが座っていて、軽く頭を下げて仲間に入れてもらった。つまりあの大スクリーンから2~3mの距離で三時間半の映画を観たのだ。
それでも子供ながらに「なんておもしろい映画なんだ!」と夢中になって映画の中に入り込んだナァ。今観てもそうなんだけど。
父が亡くなる数か月前、私の家に来た時、DVDで『七人の侍』を一緒に観た。すると、「あの時はすごい雨だったナァ…」と、ポツリポツリと40年前のことを静かに口にしていた。この時、「父にさよならする日もそう遠くないな」…と感じた。
その後に『隠し砦の三悪人』も観たのだが、彼はあまり集中している様子ではなかった。
すぐに疲れてしまい寝てしまうのだ。
『赤ひげ』もすすめたのだが、「アレは長いからイイや」と遠慮していた。この数か月後、自分が『赤ひげ』の中の藤原鎌足扮する六助のようになってしまったのだ。
結果、『七人の侍』が父の最後の映画になった。

下は珍しいA4サイズのチラシ。1967年の『特攻大作戦(The Dirty Dozen)』。チラシはやはり映画好きで年上のいとこからもらった。
ロバート・アルドリッチ監督、リーマービン、アーネスト・ボーグナイン、チャールズ・ブロンソン、ジョン・カサベテス、テリー・サバラス、ジョージ・ケネディ、ロバート・ライアン、ドナルド・サザーランド…ク~、タマらんぜ!男のニオイしかしない映画。メチャクチャおもしろかった。
映画も監督も俳優も全部父から教わった。
もうハリウッドはこういう映画を作ることはできなくなってしまった。『ミッションなんとか』の軽く数百倍は面白い。

30『シャレード』を初めて観たのはテレビでだった。小学校四年ぐらいだったのかナァ?やはり父のすすめだった。「そうか!切手か!」なんてそのトリックに感心したりして…。


父は『ベン・ハー』がとても好きだったな。ジュダ・ベン・ハーよりもメッサーラの方がカッコいいぐらいのことを言っていたのを覚えている。


『アラビアのロレンス』も父から勧められた。
我々の世代はこういう映画をすでに「名画」として観るワケだが、父は「新作」として観てるからね。それはそれは新鮮だったと思う。
よくオマー・シャリフがラクダに乗って向こうの方から近づいてくる最初のシーンのことを話していた。
そのオマー・シャリフも数日前に亡くなった。享年83歳だったそうだが、ナント、ウチの父よりたった2歳上なだけだった!片やベドウィン族の親分、こっちは浅草の職人。父もアラビアに生まれていたらモスクのひと棟も建てていたかもしれない。


『エデンの東』の話しも良くしていたナァ、というのもジェイムス・ディーンの役どころと自分の立場が重なると考えるらしいのだ。次男坊の悩みだ。
「親は長男ばかり可愛がるが、本当に親や家のことを考えているのは次男なんだ」って。
父は自分の家族には最高にやさしく接してくれたが、自分はあまり家族愛に恵まれない境遇だった。


『風と共に去りぬ』も恐らく十回以上は観ているのではないだろうか?「金はあるし、カッコいいし、アシュレーよりレッド・バトラーの方がゼンゼンいいのにな?」と観るたびに言っていた。
しかし、昔のアメリカ映画は本当にスゴかったね~。音楽もよかった。(『ロレンス』はイギリス映画。ちなみにヴィヴィアン・リーはイギリス人。ヘップバーンも元はイギリス国籍でベルギーで生まれ育った)

40この辺りは珍しいのではないかと思ってピックアップしてみた。

ほとんどピーター・オトゥールしか出て来ない異色戦争映画『マーフィの戦い』、本当にネズミが恐ろしい『ウイラード』、設定が巧妙な『さらば荒野』なんてのを父から教わった。
どれも最高におもしろくて夢中になって観た。


『マッド・ボンバー』のチラシなんて珍しいでしょ?チャック・コナーズもネヴィル・ブランドもよかった!
『おかしな夫婦』は原題が『The Out of Towners』というニール・サイモン脚本の喜劇。ジャック・レモンとサンディデニスの主演。メチャクチャおもしろいよ。
30年後にスティーブ・マーチンとゴールディ・ホーン主演で、『アウト・オブ・タウナーズ』というタイトルでリメイクされた。私はスティーブ・マーチンが苦手なんだけど、コレは案外よかった。「モンティ・パイソン」や「フォルティ・タワーズ」のジョン・クリースも出てる。

50『ゴッドファーザー』も大好きだった。ただし『パートIII』のことはクソミソに攻撃していた。
ご多分にもれずニーノ・ロータのテーマ曲にやられたクチでよく鼻歌を歌っていた。
自分ではジェイムス・カーンかアル・パチーノ気取りだったかもしれないが、実際はジョン・カザールだったりして…イヤイヤ、私にとって父はいつまでもドン・ビトー・コルレオーネなのです。
やっぱりコッポラってスゴイ。また観たくなってきた!

60彼、『007』は最後の最後まで全部観てるんじゃないかしら…。
車をアストン・マーチンにすることはなかったけど、ボンドのことはすごく好きだったハズだ。
私よりチョット年上の方々がLed ZeppelinやDeep Purpleをリアル・タイムで体験したように、父はもこのシリーズも最初からリアル・タイムで観ているハズだ。
そりゃ、『ロシアより愛をこめて』なんて出てきた時に観りゃおもしろくてタマらんわナァ。よくあの列車の中のロバート・ショウとの決闘のシーンの話しをしていた。あのロバート・ショウは本当にカッコよかったもんね!
一方、サンダーボール作戦」なんて言葉を父の口から聞いたことはなかった。でも観てるハズ。

さて、このチラシ、ちょっとよく見てみて。
『ドクター・ノォ』と『サンダーボール作戦』のショーン・コネリーの写真が何と使い回しなの!なんでこんなことしたのだろうか?! 
ボンドのピストルはワルサーPPK。PPKとは「Polizeipistole Kriminal(警察用拳銃刑事版)」のこと。「Polizei」はドイツ語のポリスね。何年か前、タクシーにスーツケースを忘れてフランクフルトのPolizeiに大変お世話になった。

アレ?よく見ると『死ぬのは奴らだ』と『黄金銃を持つ男』のロジャー・ムーアも同じだ!ロゴみたいなもんか?
そういえば『黄金銃』のクリストファー・リーも先ごろ亡くなった。
私が「ポール・マッカートニー」という名前をハッキリと認識したのは、「ビートルズのポール」ではなく、「『死ぬのは奴らだ』の主題歌の人」だった。
原題の『Live and Let Die』は「Live and Let Live」ということわざのパロディ。「自分も生きて、他人を生かす」という「共存共栄」を意味するが、ここでは「自分は生きて他は死なせる」と物騒な意味に変えている。
10ccは、この後さらにひねって『Live and Let Live』というライブ・アルバムを発表した。

70昔はCGなんてないから特撮映画は珍しがられたし、良く出来ている作品は人気も高かった。
このシンドバッドのシリーズとか『アルゴ探検隊の大冒険』とか『ミクロの決死圏』とかその特殊効果に驚いたものだった。
このあたりも全部父から教わった。
ちなみに海外では「シンドバッド」のことは「シンバッド」と発音する。

80『燃えよドラゴン』も父が新宿へ観に連れて行ってくれた。
映画館から出てきた時にはふたりともすっかりブルース・リー気分で、道を歩きながら「アチャ~!」なんてやったものだ。
根っからのアメリカ映画信奉者の父は、ブルース・リーをカッコいいと思いながらも『燃えよドラゴン』以外作品はまったく観なかったのではないかと思う。あるいは、チョットは観たけど受け付けなかったのではないか?
「キョンシー」なんて絶対に観なかった。でもジャッキー・チェンはヨカッタみたいだ。

90ヨカッタよね~『フレンチ・コネクション』。
ジーン・ハックマンのポパイもヨカッタけどロイ・シャイダーがまたいいんだ。
音楽はDon Ellis。
『2』の頃になると私はひとりで映画館に通っていたので、もう父と映画を観に行くことはなかった。『2』は日比谷映画で観たな。ポパイが麻薬中毒にされて監視役のババアに時計を取られるシーンがナゼかショッキングだった。
しかし、ジーン・ハックマンっていい役者だった…ってまだご存命なのね!『俺たちに明日はない』ではあんな役だったのに…ドンドンすごい仕事をするようになった。
『盗聴』なんて今でも観てる。

100あ~、『ダーティ・ハリー』も夢中になって観てたな。ただし、一作目だけ。でもそれは正解。

『2』は小学生の時、親戚のオバサンに新宿のミラノ座へ連れて行ってもらった。映画は面白いとは思わなかったが、帰りにそのオバサンが映画館で即売していたMGCの「44マグナム6インチ」のモデルガンを買ってくれた。うれしかったナァ。
それからしばらくの間モデルガンにハマった。
それで勉強がおろそかになり、父が罰としてモデルガンをどこかに隠したことがあった。没収だ。
返して欲しくば勉強をしろ…ってなことになったのであろう。
珍しくしっかり勉強をして、約束通りテストで良い点を取って許してもらったのかな?
「モデルガンを返して欲しい」と父に詰め寄ると、一枚の紙を私に渡した。
そこには「勉強が~」から始まり、何やらしかつめらしいことが何行か書いてあった。
「わかったから返してくれ!」と詰め寄ると、父は「その文章をよく読んでみろ。特に最初の字を!」と答えた。
言われるままにジーっと最初の文字だけに目をやると、「勉強」の「べ」から始まり、後は覚えていないが…それらの最初の文字をタテに連ねて読むと「べつどのした」となった。
私の大切なモデルガンがベッドの下から出て来た。
そんなことをする父だった。

110古さからいけば最初の『特攻大作戦』の方がレアかもしれないが、恐らく私のコレクションの中で最も珍しいのはコレじゃないかしら?『ボルサリーノ』。二種類揃ってるし。
『ボルサリーノ』は1970年の日本公開。『2』は日比谷映画で観た。
父はジャン・ポール・ベルモンドが好きでね、『リオの男』とか『カトマンズの男』とかを紹介してくれた。アレもおもしろかった。
それで私もベルモンドが好きになると、どこからかポスターを買って来てくれたことがあった。
当然大工仕事はお手の物だから、手作りでパネルを作って来て、そのポスターを貼ろうということになった。
そんなもんうまくいくハズもなく、案の定、ノリの水分でデコデコになってしまった。憐れベルモンドはイッキにゴミと化した。
そういえば、昔は木造の家の建築現場ってのがあちこちにあって、子供たちがその廃材に久ぐを打ってパチンコ(スマート・ボールかな?)だの手製の船だのを作って遊ぶことがあった。
私もその船を自分で作ったことがあった。船といってもただ五角形に切った薄めの板に船室に見立てた小さな木端を釘で打ち付けたような取るに足らない代物だ。
ところが、それを見た父が「そんなんじゃダメだ」と仕事場で立派な船を作ってくれた。うれしかったんだけど、さすがにプロらしく、正目の檜から切り出した木材の表面をノミで掘り出して、側にカンナをかけた、「木曽の土産」とでも言えそうな流麗な船仕上がりだった。イヤな予感がした。
さっそく家のフロに水を張ってその船を浮かべてみたら…見事に転覆して沈没していった。
こんなことって結構覚えているもんだわ。

120『さらば友よ』は観ていない。
コレ、1974年の1月31日にテレビ放映しているハズ。どうして覚えているかというと、死ぬほど観たかったんだけど、親に早く寝るようにいわれて泣く泣く布団に入ったんよ。次の日は2月1日で、ある私立中学校の入学試験日だったの。
それを受験するもんだから、前日の夜更かしは厳禁だったというワケ。
結果は不合格。
それなら観ておけばヨカッタ。
そして、いまだに観ていない。
アラン・ドロンも人気あったよね~。久しぶりに『レッド・サン』なんて観たいな。ドロンもまだご存命だ。

140

チャップリンの話しはほとんどしたことがない。どうもあまり好きではなかったようだ。
少なくとも『キッド』は自分の子供の頃を思い出すとか言ってイヤがっていた。別にウチの父は孤児じゃないんだけど…。
反対にマルクス兄弟が大好きだった。
私もその影響でDVDのボックスセットを買った。『A Night at the Opera』とか『A Day at the Races』とかね。Queenファンはコチラをご覧あれ。

そのせいか私もチャップリン映画はほとんど観ていない。でも、ナゼか自然とチラシだけは集まった。多分、私が中学一年生ぐらいの時にチャップリンのリバイバル・ブームがあって、映画館へ行くたびにチラシだけ持って帰って来ていたんだと思う。
今こそジックリ観たい。

160

やっぱり単純で明るい人だったといえるのだろう。父はハリウッド映画とそれに準ずる娯楽映画以外は一切観なかった。
ベルイマンとかブニュエルとかフェリーニとか、いわゆる芸術映画を徹底的に忌避していたね。
私もそういうのは苦手で、『去年マリエンバートで』とか『8 1/2』とか、観るには観たけどサッパリよさがわからなかった。
そんなしかめっ面して観る小難しい映画よりも、ビリー・ワイルダーやヒッチコックや初期のスピルバーグを心から愛でていた。ワイルダーのお気に入りは『第17捕虜収容所』と『お熱いのがお好き』と『サンセット大通り』だった。
思い出したらキリがないな、ハンフリー・ボガードもお気に入りで、『黄金(原題は『The Tresure of Sierra Madre』)』とか『サハラ戦車隊』とか『脱出』、『アフリカの女王』、『必死の逃亡者』もすすめてくれた。全部破天荒におもしろかった。特にジョン・ニューストンの『黄金』はスピルバーグのお気に入りでもある文句のつけようがない傑作だと思う。

おかげで私も難しい映画は苦手。音楽はダンゼン難しい方が好きなんだけど。
でもチラシはチョット様子が違っていて、こんなサタジット・レイなんかも集めてみた。映画は観たことない。

180

…と、とにかく色々と教えてもらったな。
父は落語にも造詣が深く、「生きている志ん生を見た」というのが自慢のひとつだった。
仕事中は現場でラジオを聞くのが常で、ラジカセのある現場ではテープを持参して落語をよく聴いていた。
私も父によろこんでもらおうと思って、図書館でレコードを借りて来てはカセット・テープにダビングして差し入れあげた。
すると、「お、可楽か?」、「三木助だな?」と片っ端から演者を言い当てていた。
若手では志ん生の息子、志ん朝と談志は別格だった。それと、「小金治がちゃんと古典をやっていればナァ」と嘆いていたナァ。
なぜコレを覚えているかというと私にとってのDavid Sanbornだったから。「Sanbornがちゃんとビバップを演奏してればナァ」という嘆きと同じだったからだ。


私も小づかい銭欲しさに中学の頃から父の仕事をよく手伝っていたので、その仕事現場で落語に馴染み、興味を持った。
浅草で仕事を手伝って、取っ払いで5,000円もらってそのまま秋葉原の石丸電気へ行って、少しお金を足して『Yessongs』を買ったことを昨日のことのように覚えている。
それと、よく柳家三亀松のテープを買い込んで聴いていたな。他にも虎三をはじめとした浪曲や相撲甚句なども好んで聴いていた。
あの浪曲ってのは「ひとりミュージカル」で、よく聴いていると結構おもしろいよ。
私のミュージカル好きも父親譲りなのだ。

私はというと、映画だけでなく映画音楽にも深く興味を持ち、月一回のNHK FMの関光男の映画音楽の番組を丹念にエアチェックしていたりしたが、The Beatlesを知ってから徐々に音楽単体に興味が移って行った。
あの頃に映画で知った音楽で今でも聴いているものも結構ある。
例えば『ルシアンの青春』のDjango Reinhardtや『好奇心』のCharlie Parkerなどがそうだ。

200

他にも『スティング』に使われたScott Joplinのラグタイムもそう。ま、今はそう聴かないけどね。『スティング』はミュージック・テープをお茶の水の駅の横の小さいレコード屋で買った。
その他、ずいぶんポピュラー音楽が使われた映画が当時からあった。ポランスキーの『マクベス』なんでThird Ear Bandだもんね。『ビリー・ザ・キッド』はBob Dylan。Bee GeesやSimon& Garfunkelについては説明不要だろう。
こういう映画が私を音楽の世界に這い込むキッカケを作ってくれた。すなわち父からの流れだ。

130上にも書いた通り、父には「生きている志ん生を見た」というのが大きな自慢だったが、他にもうひとつ自慢があって、晩年まで私にその話しをしていた。これは以前、Marshall Blogに書いたことがあったように記憶している。
それは、『絶壁の彼方に』という1950年のイギリス映画を観ている…ということだった。
私はこの映画を『たかが映画じゃないか(←コレはヒッチコックの有名な言葉、明日解説します)』という和田誠と山田宏一の対談集で知った。何しろヤケクソにおもしろいらしいのだ。
この話を父にすると、「エ、何?『絶壁の彼方』?シドニー・ギリアットのか?ダグラス・フェアバンクス・ジュニアな!ジャック・ホーキンスも出てたよ。あれは本当におもしろかった。アッレ~?もしかしてキミ観てないの?あんなおもしろいのに!何で観ないの?」…なんて猛烈に私をからかうのである。しかも、毎回会う度にである。
そんな愉快な人だった。
こっちも悔しいので、あの手この手でビデオを探した。VHSがかつてあったようだが、モノは見つからなかった。
ま、死ぬまでに一回ぐらいは観ることができるだろう。楽しみはキープしておこう。

今日ここで触れた以外にも、一体どれだけの情報を私に授けてくれたことだろう。映画に限った話しではない。
忘れていたけど、父は写真がウマかったらしい。何だかのコンテストで優勝したことがあるとか言っていたが、賞状はおろか作品も見たことはなかったし、写真の話しなんかしたことなかった。
でも、後年私が「写真の仕事をしている」と告げると「ホホウ、僕の才能が遺伝したのかな?」とか言っていた。ホンマか?

こうして落ち着いてくると、結構色んな事が自然に思い出されて来てツライ。いくつになっても肉親を失うのは寂しいものだね。
私が幼い頃ふたりで行ったスキーのこと、交通事故で入院した時のこと、カップヌードルが発売になって大興奮で買って帰って来た夜のこととか、半分に切ったグレープフルーツに間違えて塩を乗せて食べさせてしまったこと(飛び上がっていた)、中三で入院した時、私が読みたいと言ったLed Zeppelinの本をお茶の水じゅうを探してゲットしてきてくれたこと、マーシャル祭りを観に来てくれたこと…もう、いつもしてもらってばっかりだった!
怒られたこともホンの数回あったけど、父といると笑いが絶えることがないのが普通だった。ずいぶん笑わされてもらったし、こっちもたくさん笑わせた。

お父さん、本当にどうもありがとう。
こうして考えてみると、私は完全にお父さんのクローンだわ。まったく出来の悪いクローン。
すなわちLike father, like son。
もう一回お父さんとイッパイやりながら映画の話しをしたいよ…。
続けられる限りMarshall Blogは続けるぜ!
さようなら、お父さん。
あ、お盆だからすぐ帰って来るか…。
それなら大好きな浅草でユックリしていけばいいよ。


  ★     ★     ★    ★


本稿に関連し、明日はMusic Jacket Galleryで『サウンドトラック盤特集』を掲載します。
お楽しみに!

(敬称略)

2015年3月26日 (木)

三文役者なわたし <前編>

まさかね~。
まさか、こんな日が来るとは思わなかったよ。
人間、生きていると本当に驚くべきことが起こる。そして、つくづく思い返したのは歳を取るのも決して悪いことばかりではないということだ。
「時間の経過が与えてくれる感動」とでも言おうか…歳を取っていくと若いうちには絶対に味わうことのできない大きな感動に遭遇できることがあるということがわかった。
長い間生きてる分、もちろん苦労も多いワケだが…。

ずっと以前はMarshall Blogに私的なことを書くのをなるべく控えてきたが、最近はそうでもなくて、私が若い頃に体験した音楽をはじめとしたあらゆるエンターテインメントについて触れて、忘れ去られようとしているよき時代を伝承しようと努めている。
決してジジイの自慢話しでも思い出話しではないつもりなのだ。

しかし、今日はタップリ公私混同させて頂いて、私的な思い出話しを書かせて頂きたい。タマにはいいでしょ?
いわゆる「カミング・アウト」ってヤツ?

私はゲームの類は一切やらないが、それでも高校1年ぐらいの時は夢中になったものである。
スペースインベーダーの登場だ。
あのブームは本当にスゴかった。ゲームセンターがそこら中にポコポコと現れ、どこも賑わいを見せていた。
その時住んでいた東京の東のはずれも例外ではなく、ごく普通の商店街にもゲームセンターがある日出現し、さっそく入ってみた。
それは何の飾りもないただの部屋にズラリとテーブル型のゲーム機が設置してあるだけのお店だった。例えて言うなら温泉場の射的場をさらに簡素にした感じか?
奥には長髪でヒゲをはやしたお兄さんが店番をしている。
フトその奥を見やると、ピックガードにヘビ革を貼った国産のストラトキャスター・モデルが壁に立てかけてある。
そのお兄さんはチョット怖い感じだったので勇気を出してこう訊いてみた…「お兄さん、ギターやってるんですか?」
するとお兄さんは実にやさしく、「やってるってほどじゃないんだ。あ、このギター?コレは僕の友達のギターだよ」と答えてくれた。
何でもその友達の方と住み込みでゲームセンターで働いているとのこと。その時はその友達がいなかったので、店番をしている日を教えてもらってインベーダーを1~2ゲーム楽しんでその場を離れた。

数日後、その友達がいるという日にゲームセンターに再び出向くと、店の奥には先日とは違う兄さんが座っていた。長髪で色白でチョー細身の人だった。何日も太陽の光に当たっていないのは明らかだった。
やはりストラトはその人の持ち物で、名前を大竹亨さんといい、私より4つほど年が上だった。
ナニを話したのか、後の細かいことは忘れてしまったが、とにかくすごく気が合ってたちまち仲良くして頂いた。正確には可愛がって頂いたということになろうか?

その頃の私は洋楽一辺倒で、学校で最もロックに詳しい一人である自信はあったが、国内のロックは全くと言っていいほど聴いていなかったので無知に等しい状態だった。
1978年頃、大竹さんはすでにプロとして渋谷屋根裏や新宿ロフトに出演していて、日本のロックについて色んなことを教えてくれた。

この真ん中の青い看板のお店がそのゲームセンターだった。
今はお好み焼き屋さんになっている。
10
時折Marshall Blogに書いているが、その当時は自分たちで音源を作って販売するなんて構想は無いに等しく、自分たちの音源を世に出すにはレコード会社に認められてレコードを出すしかなかった。
こんなことはホントに奇跡のような話で、ライブハウスに出演できるだけでもバンドにとってはひとつの大きな大きなステップだった時代だ。
今みたいにスターバックスよりライブハウスの方が多いのではないか?というような時代ではないからね。
加えて、ミュージシャンたちも洋楽の黄金期のエキスをタップリと吸収したロックの権化のような連中ばかりで、楽器の演奏技術は高くて当たり前。どれだけ人と違うことをやるかに心血を注いでいるオリジナリティあふれる連中ばかりだった。


話しは反れるが、そんな連中でも持っている機材といえば、極めて貧弱なもので、ギターは国産が普通で、MarshallやFenderやGibsonが当たり前のような今とは全然ワケが違った。
しかし、みんないい音を出していたよ。腕は一流、機材はなにせ全部アナログのホンマもんのロック機材だからね。
今でもいいMarshallの音を出している人に出くわすと思わず、「昔、屋根裏やロフトで聞いた音だ…」と形容してしまう。

そんなライブハウスに出ている人がこんな場末のゲームセンターにいることも信じがたいことであったが、4つ年上の大竹さんにはロックに関する色んなことをたくさん教えて頂いた。

大竹さんがギターを弾いていたバンドは「三文役者」といった。
彼の影響で日本のロックに大きな魅力を発見した私は、三文役者のライブのテープを借りて聴き、いっぺんに好きになった。曲のよさがハンパじゃなかったのだ!

「それなら今度の屋根裏に遊びにおいでよ」と大竹さんはライブに誘ってくれたのだが、当時はライブハウスに行く高校1年生などは周囲にまったくおらず、親に相談して許可を得て渋谷に行った記憶がある。親は当然心配していた。
行ってみると、さほど大きくないスペースにホールと同じような大音響で演奏する様に腰を抜かしたが、とても楽しかった。
当時三文役者は屋根裏と新宿のロフトに月替わりで出演している感じで、すっかり魅せられた私は毎月そのどちらかに友達を連れて遊びに行くようになった。
そうこうしているうちに「ボウヤ」として三文役者のライブに出入りさせてもらえるようになった。
何せ金のない高校生の時分だったのでうれしかった。
イヤ、何よりも好きなバンドのメンバーの傍にいられて、ギターのチューニングをしたり、弦を張り替えたり…こんなことが最高にうれしく楽しかった。
自分が高校の友達と組んでいたバンドも完全に三文役者のコピーバンドになってしまった。当時のレパートリーなら今でも弾ける。

この人が大竹亨さん。
20v
その後、ほどなくして大竹さんはゲームセンターのアルバイトを辞め引っ越してしまったが、付き合いは当然続いた。
コレは引っ越す前に記念に…とお願いして作ってもらったサイン入り色紙…のようなもの。
大竹さんは手先が大変に器用でこの程度のステンシルはいつも簡単に作ることができるのだ。
しかし…「女学生」だって…死語だな。
50
この色紙と一緒にこんなのが出てきた。下敷き。今下敷きなんて持っている子なんているのかな?
時代を表すアイテムとして本文とは関係ないが掲載しておこう。
こういう時代だ。若いってはヤッパリいいな。野村さんワッケ~!
60
ある時、スゴイことが起こった。
大竹さんではない方のギターの人が高熱を出して屋根裏に出れそうもないので、私に代演してくれというのである。コピーバンドやっていたので全曲弾けたからね。
コレはうれしかったナァ。
高校生の分際で当時のライブハウスに出ることなど、昨日デビューしたバンドがいきなり武道館に出るようなものだ(←今なら十分あり得るか?…)。
この話しをもらって、家に帰った時、寝ていた両親を叩き起こして報告したことを覚えている。
結局、そのギターの人は無理を押して出演されたので、私の出番は2曲となったが、あの感動は一生忘れんよ。
今を時めく国民的バンドがまだ屋根裏の昼の部に出てた頃の話しだからね。
このロフトの創設者、平野悠さんの著書『ライブハウス「ロフト」青春期(講談社刊)』にも、スケジュールのページにRCサクセションやカシオペアやシーナ&ロケッツと並んで「三文役者」の名前が出ている。

S_img_0029 その後、私は大学に入り大竹さんの友人が手放すというMarshallを手に入れた。JMPの1959と1960AXだった。
コレがおっそろしく音がデカくて、とうとう歪んだところを聞いたことがないうちに手放した。
私は国産のストラトとOD-1、CE-1、それにSpace Echoをつないで1959を使うのが好きだった。
そして、時を同じくして、大竹さんではない方のギターの方が三文役者をお辞めになるのを受け、バンド参加の誘いを頂戴した。
これも当然うれしかった。まだ18の時だ。私はプロのギタリストになりたかったのだ!

当時メンバーの入れ替えを機に「三文役者」もボーカルの哲さんをフィーチュアしたバンド名に変えようということになり、一時期「哲&ATOMS」と名乗っていた。口にすればわかる通り、「鉄腕アトム」に聞こえるというのが由来。
しばらくしてまた「三文役者」に戻ったが、私は18~19歳の2年間お世話になった。
その間、毎月屋根裏かロフトに出演し、吉祥寺に新しいライブハウスが出来たというのでシルバー・エレファントにも何回か出たかな?埼玉大学や慶応大学医学部の学祭に出てビートたけしの前座をやったこともあった。
二度ほど関西方面へツアーにも出かけた。名古屋のElectric Lady Land(もちろん昔の方ね)、京都のフレンチマーケットや磔磔、大阪の寺田町にあったスタジオあひる、千日前にあった夢屋などに出演した。
当時はインターネットなど当然なく、宣伝することすらままならないので、見知らぬ土地で集客なんかできるワケがない。動員は予想通り苦しい展開となったが、個人的には「ツアーする」ということが実にカッコよく思えてウキウキだった。
京都で肩をハチに刺されてストラップが付けられなくなったり、大阪では大好きななぞなぞ商会と対バンしたり、ELLや磔磔のような名門のライブハウスのステージに上がれたり、と思い出に尽きない楽旅となった。

その後、徐々にロック熱が冷めてきたり、自分の才能のなさを思い知ったり…と将来への不安も大きくなり、学校へ戻る決心をして、無理を承知でバンドを退団させて頂いた。
時代はパンク/ニューウェーヴのムーブメントを経て80年代に入っていて、ロックは急速にポップ化の道をたどり、大衆におもねる姿勢を示したことに幻滅を感じたことも大きな理由だった。
以降私の音楽の嗜好の中心はジャズに移行した。

後悔はまったくない。
こうして縁の下の力持ちとしてミュージシャンをサポートしたり、写真を撮ったり、文章を書いたりして、文句を言いながら側面的に音楽の魅力を伝える方が性に合っている。
だいたいね、ミュージシャンになる第一の条件は…食べ物に好き嫌いが全くなく、どこでもすぐに平気で寝ることができて、世間のことには少し鈍感なぐらいでなければとても持たん!私には音楽的才能の欠落の前にそうした難関もあったのだ。
そして、バンドを辞めた後は、学業に専念し(コレはウソ。とにかく大学を卒業しただけ)、ジャズのビッグバンドでギターを弾いた。
その関係でバンドを辞めた後もブラスのアレンジをして、ビッグバンドの管楽器の連中と一緒に新宿ロフトに出させてもらったことが一回あった。あれも楽しかった。
その後、就職して地方に赴任してしまったため完全に大竹さんとも哲さんとも疎遠になってしまった。

こんな青春を過ごしてきて、振り返ってみるに、今の斯界の音楽の状況があまりにもイビツな恰好をしていることに驚きを感じ得ない。
それに同感する諸兄も多いのではなかろうか?
最近、この三文役者が活躍していた時代のご同輩たちが集まり、次々と音楽活動を再開している傾向がある。
ドンドンやるがいい。大人が聴けるロックを演るのだ!
ロックは若者のモノであると同時に元来大人のものだったのだから!大人のロックはもうジジイが演るしかない!
そんなムーブメントが感じられる中、とうとうやらかしてしまったのだ。
いい大人が最後の悪あがきを見せてくれるというのだ。
三文役者の復活である。

そこで、Marshall Blogはその三文役者のワンマン・ライブを公私混同で2本立てでお送りするワケだが、その前に少しだけこのバンドの説明をしておきたいと思う。

三文役者はPANTAさんの芝居の仲間であった花之木哲という人のバンドだ。
哲さんが曲を作り、歌っている。
優れた作詞家でもある哲さんは、PANTAさんの『PANTAX'S WORLD』の中の「三文役者」と「EXCUSE YOU」という曲の詩を提供している。
もちろん、この「三文役者」という曲がバンド名にスライドしていることは言うまでもない。ちなみにこのレコーディングではCharさんがギターを弾いている。
大分前にこのことをCharさんに言ったら「オマエ、何でそんなの知ってんだ!」と笑っていらした。さすがCharさん、日本人離れした分厚いギターがカッコいい。

30さらに『走れ熱いなら』では「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」、「追憶のスーパースター」等の詩を提供。
「三文役者」、「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」あたりは私もよく演奏させてもらった。
そんな関係で、一度新宿ロフトの時にPANTAさんが飛び入りで出演してくれたことがあって、ファンだった私は興奮しまくった。
「Cadillac」というブルースだった。The Kinksの「Cadillac」ではない。
ちなみにこのジャケット写真、双方鋤田正義さんの撮影。この後の『マラッカ』も『1980X』もそう。PANTAさんの写真はいつも鋤田さんだ。

40そしてコレは三文役者の12"シングル。LPサイズ、45回転の4曲入り。当時はまだ珍しかった自主制作盤だ。
新宿ロフトの昼間を借り切って録音機材を持ち込み一発録音した。
コレが思い出せない…。高校生だった私は一部始終を見ているのだが、日曜日だったのかな?昼間に録音したことは間違いない。それとも平日で学校を休んで行ったのかな?
…と思ってインターネットで調べてみたら、案の定日曜日だった。

「三文役者」、「北斗星」、「サド書簡」、そして当時新曲だった「東京デストロイシティ」の4曲が収められている。

80その中から出てきたのがこの「ロッキンf」誌1980年5月号の記事のコピーを使った宣材物。このレコードについて書かれている。
どれどれ…
「彼らには3原則がある…
1. ファンには絶対に手を出すな。破れば即クビである。
2. ステージの前及びステージ上での禁酒禁煙。
3. 時間厳守。
ま、そういうバンドだった。

70

そしてこれは名曲「怒雨降り」と「風」を収録した10"シングル。
これは目黒のスタジオで録ったような…。これも私が高校の時。
夜中の録音で、終了後、大竹さんの家に泊めてもらってそこから直接学校へ行った。
この後にも音源を制作しているが、ここでは自分に特にかかわりの深い作品を紹介した。我がセイシュンなのだ!

90そんな思い出がたくさん詰まった三文役者。
とうとう我々の前に再び姿を現したのだ!

…といってもコレが初めてではなくてPANTAさんといっしょに昨年の暮れにも舞台に上がっていたのだが、私はインフルエンザで行けなかったのよ。
これまただいぶ前の話しだが、頭脳警察のトシさんが「哲がまた三文やるって言ってたよ」とおっしゃっていた。
その時から、ずいぶん時間が経ってしまって、はたしてコレがそうなのかはわからないが、とにかく哲さんが帰ってきたのだ!
120
この人が花之木哲。
実は私の結婚式にもご参列頂いている!
100v
ベースは石井正夫。
130_2正夫さんは三文役者のオリジナルメンバーというより創設者のひとり。
元頭脳警察のメンバーで日本のロック史に残る必殺的超スーパーウルトラ名盤『悪たれ小僧』のレコーディング・メンバーでもある。
アタシャ、このアルバム、高校の時に大竹さんから教わって聴いて好きでネェ。今でも聴いてる。
そのレコーディングメンバーの正夫さんと一緒に演奏できるってんでものすごくうれしかった。
ちなみにこの日、同じくレコーディング・メンバーの勝呂和夫さんも会場にいらしていて正夫さんにご紹介頂いた。
すごく腰の低い方で、この方があの狂気の「戦慄のプレリュード」や「真夜中のマリア」なんかを弾かれていたとはチョット信じがたかったが、とにかくうれしかった~!

140cdドラムはさとっちょ。
さとっちょは元是夢(ゼム)というバンドのメンバー。
このバンド名に聞き覚えのある方もいらっしゃるだろう。昔、某楽器メーカーの広告に出ていたバンドだ。
「俺たち浦和のツェッペリンじゃなく、世界の是夢になりたいんだ」
これが広告のキャッチ・コピーだった。
是夢というバンドも凝った曲作りが魅力的ですごくいいバンドだった。

150vそして大竹亨。いわゆる「ちぇり~」。
ヘタすると私をこの世界に引きずり込んだ犯人。
コレがまた不思議で、何でまた大竹さんと再会したかというと、SHOW-YAのsun-goさんのおかげだったのよ!
最後に会ったのは22歳ぐらいの時だから30年ぶりの再会だ。ゼンゼン変わっていない!
ステージ・ネームは「ちぇり~」ということになっているけど、私はいまだに「大竹さん」と呼んでいる。
だって子供の時に知り合った大竹さんは、私にとっては永久に「大竹さん」なんだもん。今更とても恥かしくて「ちぇり~」とは呼べん!

110

G→D→B…何回弾いたことか…。オープニングは当然「三文役者」!

160「♪待ち続ける朝の光…歌い続ける人の愛…演じ続ける三文オペラ」…一生忘れないわ。

170v大竹さん、昔はMUSIC MANのコンボを使っていたんだけど…

180今日は1962 Bluesbreaker。

190ああ~、哲さんの声だ!
ナンカ30年前よりパワーが増してる感じ!

2002曲目は「あやつり人形」。
PANTAさんはコレをレゲエで演ったが、三文役者はストレートな8ビートでヘヴィに聴かせる。

210また正夫さんのベースが堅実かつ剛健でいいんだ~。ベースらいしいベース。低音以外は何もいらない!って感じ。
昔はね、1992SUPER BASSを使ってたんだよ。ステージの上で私の1959と並べていたんだ。

230v「♪あやつり人形さ、人間なんて…」
しっかしいい曲だナァ。
300
さとっちょのヘヴィなビートがバッチリとマッチする。是夢のころからカッコいいドラムだな~って思ってた。

250ここでビックリするMCが…。
次の曲は「聖羅」というロッカバラード。昔からある曲で、ずっとバンド・アレンジで演奏してきたが、『主役だけじゃつまらない』というアルバムの中で哲さんはピアノをバックに録音した。
今回のコンサートではそれを再現すべく、ピアノを弾いた「タコ」こと高島田裕之というキーボード・プレイヤーを呼ぼうとしたが、それはかなわなかった。
私も最後期に一緒に演奏させてもらっていたので、久しぶりに会いたかったが、この哲さんのMCでもう二度とお会いできないことを知った。
このコンサートの数日前に亡くなったというのである。
タコさんは底抜けに明るい人で、腕も確か。後にマキさんのバンドでも活躍したと聞いた。
この場をお借りしてご冥福をお祈り申し上げます。

260この「聖羅」という曲は昔「おまえ」というタイトルだったのかな?

240v

古式ゆかしいロッカバラードの典型のような曲。そう、ロックのバラードはコレでいい。
情感豊かに絞り出すように熱唱する哲さんの姿が印象的だ。
310v
第一部最後。
「今日は特別よ!」と私に言っていた哲さんが最後に選んだのは「コルト63」。
270v
うれしいわ~。
哲さんが自作ミュージカルのために作った曲のひとつ。
この楽しく、ハードな曲が大好きだった。

290元々この曲のタイトルは「コルト●●」の●●にその時の年を入れることになっていた。
一番古いところで記憶に残っているのは「コルト'77」ぐらいかナァ。つまり40年以上前の曲ということだ。
今年は1963年でも2063年でもない。
「63」とは哲さんの齢というワケだ。若い!
ホント、身体を悪くされたと聞いていたが何のことはない、昔よりよっぽどパワー・アップしているし、声もよく出ている。何よりも歌がうまくなった!(失敬!)
昔から根性とエネルギーが服を着ているような人だった。

330その鉄人を支える鉄壁のバンド陣!

340シンプルにしてタイト。

350vハードにしてロマンチック!ああ、やっぱりいいナァ、三文役者!
320v
…と、コレだけ読んだらMarshall Blogをご愛読頂いている方は三文役者を見たくなったでしょう?
4月18日、新宿URGAに出演するので是非この日本のロックの生きる化石のようなバンドを体験してもらいたい。

三文役者の詳しい情報はコチラ⇒三文役者オフィシャルサイト

360v【特報!!】
チョット、これはスゴイよ!
大人のフジロックかサマソニか、はたまたHigh Voltageか?!
外道、頭脳警察、めんたんぴん、THE 卍、そして三文役者が一堂に会するスペシャル・コンサートが決定した。
おやじニンマリ。
6月28日、場所は新宿のスペースゼロ。
ここは2000年にJim Marshallを呼んで「マーシャル祭り」を開催した会場だ。
ん~、運命を感じるネェ~!

June あ~、今日はタップリ書いた!
<後編>はもっとサッパリいきます!

(一部敬称略 2015年2月21日 荻窪ルースターズ・ノースサイドにて撮影)

2015年3月18日 (水)

【追悼】Andy Fraserのこと

まただ…。
またロック界はひとりの偉大なミュージシャンを失ってしまった。
Andy Fraser…2015年3月16日永眠。

今日は予定を変更して、ロック史に偉大な足跡を残す名バンド、FreeのベーシストにMarshall Blogでは未公開の写真を交えて追悼の意を表すことにした。
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AndyがMarshallの創立50周年を記念するコンサート『50 YEARS OF LOUD LIVE』に出演したことは詳しくレポートした通り。

50 YEARS OF LOUD LIVEの詳しいレポートはコチラ⇒Marshall Blog

私は決して熱心なFreeのリスナーではなかったが、ロックを聴き出した頃はご多分に漏れず『Fire and Water』や『Free Live』等の前期の作品は聴いたものだ。
その頃、私はPaul Rogersの声とAndy Fraserのベースが好きで、AndyがFreeを脱退した後、Chris Sppedingと組んだSharksというバンドのレコードが聴きたくて当時ずいぶん探し回ったが、手に入れることができずいまだに聴けていないことは以前にも書いた。
そんなだから、このMarshallの記念コンサートにAndyが出演するということを知った時はとてもうれしかった。

そして、コンサートの前日、通しリハをやっているテムズ川の南のバーモンジーというところにあるスタジオに赴いた。
ライブハウスのイベントじゃあるまいし、律儀にリハは逆順でプログラムされていた。
Andyが参加するGlenn Hughesのセットは本番ではトリの登場だったので、リハの順番が一番最初で、かなり早い時間からスタジオに入っていたようだった。
それでもAndyもGlennは下の写真の通り元気モリモリ!

1_10正直言うと、私にとってのAndy Fraserは『Fire and Water』のジャケットの左端の人だったので、スタジオに入った時、ベースを弾いている人がAndyのホンモノだとはパッと見わからなかった。
それにリハが終わるとすぐにお帰りになってしまったので挨拶することもできなかった…後悔している。

ちなみにこのアルバムの一部はロンドンのTrident Studioで録音されている。ということはFreeの4人もあのスタジオにつながる細い路地を歩いていたのか…。

1_15cdAndyのミュージシャンとしてのキャリアは大変長く、Alexis Kornerのお嬢さんと学校で知り合い、それが縁でAlexisの推挙でJohn Mayallのバンドに加わったのはAndyが15歳の時だったという。
さらにAlexisのつてでFreeに参加することになった。
Andyは1952年生まれ(私よりたった10歳上なだけ!)なのでFree結成時には16歳…ということになる。
Andyだけでなく、1968年のFree結成時、全員が10代だった。結成の翌年、20歳と19歳と18歳の若者がリリースしたのが『Tons of Sobs』なのだ。
信じられん!

1_20リハーサルの翌日、Glenn Hughesに「この人がいなければ私はベースをやっていなかった!」と紹介されウェンブリー・アリーナに颯爽と登場したAndy Fraser。
FreeはThe WhoやDeep PurpleのようにMarshall史に頻出するバンドではないが、Marshallが自社の製品を使ってもらったことに対し、大きな誇りを持てるバンドのうちのひとつだ。
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今、コレを書きながら『Tons of Sobs』を聴いているのだが、まさにウェンブリーで聞いたAndyのベースはこの音だった!
しかし、こうして改めて聴くと最高にカッコいいな…思わず聴き入って作業する手が止まってしまう。コレで18とか19歳か。

1_40パワフルに「Mr. Big」を歌ったのもすごく印象的だった。

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AndyはFreeを2回脱退した後、Sharks他いくつかのバンドを経てアメリカに渡り、プロデュース業に携わっていたが、HIVとガンを併発し病魔との闘いを余儀なくされた。
それゆえ目立った活動の情報が、我々一般人の耳に入ってくることはなかった。
このウェンブリーのステージは、Glennからもアナウンスがあった通り「Andy Fraser」の復活を告げるものであり、その事実に偽りなく、自分のバンドを引き連れて来日したことも記憶に新しい。
それなのに…。

1_60またひとりロック・ジャイアントがこの世から姿を消したことこそが本当に「tons of sobs」なことだ。ゼンゼン「All Right Now」じゃない。
心からご冥福をお祈りします。

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(敬称略 ライブ写真は2012年9月21~22日ロンドンにて撮影)

2013年7月12日 (金)

マーシャル創立50周年記念コンサートにむけて~その1

2012年9月19日 Shige Blog 初出

で、結局またイギリスに来ているワケ。先週の金曜日に『イギリス紀行2012』を脱稿したばかりなんだけど、また始まっちゃった!イヤでしょう~?ライブ・レポートの方がいいでしょう~?でも今回のレポートは今週の土曜日、9月22日に開催される『マーシャル創立50周年記念コンサート』にむけての、ま、何というか、イントロみたいなものだと思ってくだされ。

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50年…企業が半世紀も持ちこたえるというのはなかなか大変なこと。しかも生き馬の目を抜く楽器業界というか、あまりにも移り変わりが早く激しい音楽業界の中での50年生き残るというのはスゴイことだと思う。例え出発は他社品のコピーであったとしても、結果的に独自のサウンドをクリエイトし、つまりヤケクソに強力なオリジナルな商品を作り出し、発展させ続けてきたことがよかったのだろう。

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玄関は50周年ロゴで飾り立てている。
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…ということで、徐々に土曜日に向けてなにがしかの情報をお届けできたら…と思っとりやす。できるかな~?

今日はマーシャルの工場周辺の情報ね。

これは工場から歩いて10分ぐらいのところにあるサンドイッチ屋さん。4、5年前にスティーヴ・ドーソンに教えてもらった。

こっちでは朝のトースト以外、パンを焼いて食べる習慣がどうもないらしく、カチンカチンに冷たくてヘビーデューティなサンドイッチばかり食べている。アタシャ、これが苦手でね~。だって、もう虫歯でもあろうもんなら飛び上っちゃうほど冷たくて硬いんだから!だから今回も来る前にちゃんと歯医者さんへ行って歯の手入れをしてもらった(これホントです)。それよりも何よりも、温かいものが食べたいですよ。

そんなサンドイッチ環境にあって、ここのお店はベーコンエッグみたいなものを作りたて、焼きたてのまんまパンにはさんで出してくれるのだ。でも残念ながらパンは生なのね。
Sandwich

メニューを見て、パンを選んで具を選ぶシステム。すると係りのオバさんは(3人ぐらいいて、一種のユニフォームなのであろう、なぜかみんな同じカンカン帽をかぶっている)そのオーダーを聞いて紙袋にジャンジャンそのオーダーを書き込んでいく。それでその袋をキッチンのオバさんに渡す。つまり、紙袋が一種の伝票になっているのだ。

それ見てたら昔よくあった駄菓子屋の奥のもんじゃ屋さんを思い出しちゃった。
Bag

今回の具はベーコン&エッグのブラウンソースがけ。これが滅法デカい!そしてうまい!ソースがかかってなければもっとまいう~。パンが焼いてあって少々野菜がはさんであれば完璧よ!って作り直した方が早い。ま、それは冗談でマジで存外においしのですよ。これで300円ちょっとぐらいかな?ベーコンの量が尋常じゃない!
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ホテルから工場までの通勤路。
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途中にこんな立派な教会もある。そういえば葬儀屋もある。で、この教会、失礼なので写真は撮らないが、車通りのメチャ激しい道路沿いに墓地があって、あまりにも環境がよくない。あれらのお墓はおそらく17~18世紀のものなんでしょうな。当然土葬。最近イギリスは火葬が多くなったらしいが、このお墓に眠っている人たちは土葬に決まってる。その横をジャンジャン人やら車が行き交っているんですよ。考えてみりゃ夜はコワイな。でもそんな感じがしないのが不思議。
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昨日入ったThe Chequresというパブ。

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今日はこっちの店に入ってみよう。
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で、入った。当然エール。「The Bitter」とかいう銘柄。ややこしいね。これが£2.70!東京のアイリッシュ・パブなんかの1/3ぐらいかな?安いよ~。
Bitter

おなじみテスコ。高円寺や新大久保にもありますな。イギリスで一番大きいスーパーマーケット・チェーン。とにかく海外へきて一番面白いのはスーパーよ、スーパー。ここで今晩のごはんのお買いもの。
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ブーブー言っておきながら結局サンドイッチ。テスコのサンドイッチ、今まで何個食べたかなぁ?ゲンナリするナァ~。と思いつつこの新商品「British Ham & Engish Mustard」ってのを買ってみた。これが実にウマイのよ!思いっきりマスタードがきいてて実にウマイ…というよりも「覚悟」と「あきらめ」と「慣れ」がそうさせてくれたんでしょうね。でもまた食べてもいいわ。
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いわゆるジャケ買い。パッケージに惹かれて買っちまった!これポテチなんだけどね…ズイマ!

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明日ここへ行ってみようかと思ってる。フィッシュ&チップス屋でいいのかな?

ここで注目してもらいたいのは看板に書いてある英語。「Eat In or Take Away」と書いてある。あのさ、お店で食べるのと持ち帰りは「Here」と「To go」って習うでしょ?「間違っても日本のハンバーガー屋さんみたいに『いーといん』とか『ていくあうと』とは言いません!」とか聞いたことあるでしょ?

「Here」とか「To go」はアメリカの話。ここ英語のふるさとではお店で食べていくことを「Eat In」と言うですよ!でも「テイク・アウト」とは言わない。「テイク・アウェイ」となる。「テイク・アウト」はピクニックみたいに外で摂る場合に使う表現。

そういえば中学の時、「海外ではトイレットとは言いません。バスルームといいます」と習った記憶がある。イギリス人はみんな「トイレット」って呼んでますよ。「バス・ルーム」なんて誰もいわない。せいぜいアタシぐらいかな?だって習っちゃったんだもん!とにかく聞いたことがないのはLavatoryとかいうヤツね。

…なんてエラそうこと言っとりますが、何が言いたいのかというと、学校で教える英語はもうちょっとイギリス英語にするべきだと思うんですよ。英語のふるさとなんだから。アメリカ英語でもいいけど、イギリス英語の単元もあっていいと思う。

ついでに英語で苦労している身としてもうちょっと書かせてもらいますが、藤原正彦先生じゃないけど、小学校に英語の単元を繰り入れるなんてことはヤメろ!もっと国語の勉強もしくは読書をさせろ!人間の知的水準を上げるには読書が一番簡単で一番有益だと思うね。それも小さいうちに読まなきゃダメ。中学校ぐらいまでは世界の名作を徹底的に自分の国の言葉で読ませるだよ。え?自分は読んだのかって?いいえ。だからこんなんなっちゃったんですよ!後悔してます。

友達のノン・ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーの連中はみんなホントに英語がウマい。スペイン人の友達なんか何の不自由もなく英語をしゃべるけど、英会話学校なんて行ったことないって言ってる。学校で勉強しただけなんだって。おっかしいナァ~境遇は変わらないんだけどナァ。

やっぱりね、英語のカリキュラムがマズイと思うんですね。もっと中学の時に文法をつめこんで、第5文型とか仮定法までとにかく覚えさせる。で、高校ぐらいから徹底的に会話をやったらどうかね?で、単語は中一から試験のたびに最低500~1000個ぐらいずつ覚えさせる。すると中学三年間で10,000を超える語彙を有することになるでしょ。我々は日常の会話で50,000語使ってるそうだけど、英語の人たちは20,000語しか使わないんだって。だから若い時からやっていれば難なく日常語は制覇できるはずなのよ。

文法は身につけているから高校になって会話の勉強をしたら信じられないぐらいの進歩を見せるって。ネイティブでない人は文法なくしては絶対に上達しない、もしくは上達が遅くなるからね。単語はブロックで文法は設計図。設計図にそってブロックを積んでいけば家が建つっていう寸法なんです。文法がダメなら単語だけでもやらせるこったよ。どんなに発音がうまくても、会話表現を知っていても語彙がなければニッチもサッチもいかないからね。

あ~、イカン!自分が英語で苦労しているからってこんなに書いちまった!スミマセン。

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ホテルの裏ではサッカーを盛んにやってた。

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マーシャル、50周年おめでとう!

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つづく…と思う。



2013年4月20日 (土)

ありがとうジム・マーシャル!<後編>~I Remember Jim! 3

Shige Blog 2012年4月20日初出…ウワ!ちょうど1年前の今日だ!

2002年5月、ついに私はマーシャルのあるミルトン・キーンズの地に立った!ザック・ワイルドのシグネイチャー・モデル2203ZWが発表される直前のことだ。その時はまだスティーヴがマーシャルにいて、The Gerorge InnというB&Bに宿を取った私と食事をするために、夜、出てきてくれた。ラリー・コリエルとフィリップ・キャサリンの名ライブ『Twin House』のジャケットのようなこの建物がThe George Innだ。

それまで何度も日本で彼を迎えた私に向かって発した言葉は…

「シゲ!とうとう来たじゃないか!とうとうマーシャルに来た!」

だった。私をハグハグしながらしきりに背中を叩くスティーヴにわからないように泣いたよ、あまりにも感激して…。

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この旅は私にとってはじめてのヨーロッパ探訪で、見るモノ、聞くモノ、喰うモノ、嗅ぐモノ、感じるコトすべてが新鮮で、それまでアメリカ一辺倒だった私にいい意味で大きなショックを与えてくれた。下の写真はこのB&Bの前の通りの様子。この道は古代にローマ軍が行進した道だという。つき当りに古い教会が見える。

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その教会がコレ。失礼な行為かもしれないが、ちょっと中に入って、お墓の墓碑銘を見ると、16~17世紀のものばかり。そこここに歴史を感じざるを得ない。そして、頭に浮かぶメロディを抑えることはできない…もちろんキング・クリムゾンだ。

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これは部屋のようす。5月だというのに昼間からガンガンと暖房がついていた。「キタへキタ~!」と実感する。ここの主人や奥さんがまた最高にいい方々で、アレコレと面倒をみてくれ、一気にイギリスびいきになってしまった。

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ついでにこれは滞在2日目以降に泊まったホテルとその庭。湖は人口のものだが、その美しさに息を飲んだ。ここのロースト・チキンと揚げたてのフライドポテト(Chips)がおいしくて、その後もここに泊まるたびにオーダーしたっけ…。なんだか『イギリス紀行』みたいになってきちゃった。

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そしていよいよマーシャルの本拠地に!
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中に入る前に何枚写真を撮ったことか!
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左から右から…なめるように全景を拝んでおいて…

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…イン!

感激したな~。マーシャルだもんね。正真正銘、初めて自分で撮ったマーシャル本拠地の写真。

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正面玄関の2階にあったミュージアム。今は大分様子が変わった。

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この時、イギリス国内の楽器店の販売担当者を集めての商品研修会があり、ついでに出席させてもらった。

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若い男の子ばかりだった。研修会の終了後、私が泊まっているThe George Innで出席者を集めた会食があった。そこで偶然隣り合わせになった男の子と話しをした。どこから来た子だったか覚えていないが、自分の子供の年齢と大して変わらないようなとても若い子だった。当然会話は音楽の話しとなる。それぐらいしか共通の話題がないからね。そこで驚いたのが、この子の出すその話題。

ディープ・パープルなのだ。他にも「整流管ってな~に?」なんて話しも出たが、それよりパープルだ。「知ってる?」なんて訊いてくる。「オジちゃんは『Made in Japan』のコンサートを観に行ったんだよ!」とウソもつけないので、「オジちゃんはレインボーの『On Stage』の時、ブドーカン(「ブ」に思い切りアクセント)の席に座っていたんだよ!」と告げると、すかさず手を出して「握手してください!」とおおよろこび。こっちは鼻タカダカ!実にイイ気分の会食だった。

それまでアメリカ人とはずいぶん音楽の話しをしたことがあったが、相手が老若男女を問わず、ディープ・パープルの話しなんかしたことなかった!イギリスの素晴らしいロック事情を垣間見た気がした。

そして!次の日の晩はいよいよジム・マーシャルとサシで食事なのであった!

Training2

翌日、各部門の担当者にあいさつをし、打ち合わせを済ませてから、当時の重役らとブレッチリーという近くの街の「Voong's」という中華料理店へ連れて行ってもらった。いきなりモソモソと食べだすのもナンなので、「自己紹介をさせてください」と断ったうえで一席ぶった。

ひと通りありきたりの挨拶をして、いよいよパンチ・ライン(オチ)へ突入した。「私は1962年生まれ。マーシャル社と同じ年なんですよ。だから私のこと”Bluesbreaker”と呼んでください」とやった。

ここでドーンと来ると思ったワケです。「ヒュー、ヒュー」とか…。そしたら完全にドン引き!ドン引きに加え明らかに「?」が出まくっていた。もしかしたらこの人たち「1962 Bluesbreaker」知らないんじゃないの?とさえ思いましたよ!

その後、10数年の間に何度この「Voong's」に連れて来てもらったかわからない。ベトナム人が経営している中華料理店で、我々が横浜や神戸の中華街で食す中華料理とはかなり隔たりがあり、やや無難な言い方をすれば過剰なまでに味つけにオリジナリティを加えているのだ。

ジムはここのスペアリブが大好きだった。晩年、手が不自由になった時、となりに座っていた私に「シゲ、世界一うまいあのスペアリブをいくつか私の皿に乗せてくれるかい?」と頼んでくれたりした。そのスペアリブをおいしそうに頬張っているジムの姿も忘れることができない。

さて、話しは戻り、ジム・マーシャルと初の会食!ジムと当時のパートナーとヴィクトリア、そして私の4人!緊張したな~。ジムは行きつけのイタリア料理店「The Bell」というお店に連れて行ってくれた。築100年は優に超す古いパブ風のレストランだ。

この時は、洋式の食事の手順を知らなかった(フル・コースとかそういうことではない…)。というのは、バーで食事の準備が完了するまでオリーブの実なんかをかじりながら軽くイッパイやる。これを知らないもんだから、「ずいぶん質素なオードブルだな…」と思いつつ緊張をほぐそうと最初からグビグビとワインをいただいてしまう。

ほどなくすると、イタリア人のご主人が出てきて「r」を思い切り巻きながら、「お食事の準備ができました~」というではないか!「エ~、これから本番なの~?」と驚きつつ席を移す。

ジムと当時のパートナーが目前にお座りになり、ヴィクトリアが横に…いっくら飲んでも緊張するって!だって、ジム・マーシャルとその家族とサシでお食事ですよ!

「好きなドラマーは誰ですか?」

「ジーン・クルーパじゃよ、フォッ、フォッ、フォッ!」

なんてことを話したナ。「ラウドネスを知ってる」とかおっしゃっていた。

こういう時のジムの客をもてなす気遣いはさすがで、こんな若造にでもドンドンとワインを注いでくれる。「注ぎ上手」っていうの?うれしいんだけど、前半で飛ばしすぎてもう飲めないって!しかも、昼間は昼間であんな自己紹介をしたもんだからロクに食べてない!これで酔わない方がおかしい。時差ボケもすさまじい!

何とか最後までがんばったんだけど、自爆。下の写真はその後で「100年物のブランデーを飲もう!」とジムの自宅へ呼んでいただいた時に撮ったもの。

シンドかったけれど、最高に幸せな夜だったナ。まさか、ジム・マーシャルの家にお呼ばれするなんて、ギターを始めた頃、イヤ、お邪魔する直前まで想像したことすらなかった。「ちょっと寄ってや!」みたいに声をかけてくれるところが本当に庶民的で「オヤジ!」という感じだった。

この後も何度かお邪魔させていただいたが、人生の成功者が住むにふさわしい豪邸で、池のある庭がとても美しかった。「こういうのを日本では『Park』って呼ぶんですよ!これがホントの『Park』」なんて笑わせたこともあった。

そういえば、工場に行ったある時、レセプションで待機していたら、ヒョコヒョコとジムが玄関から入ってきて私を見つけると、「お、ナンダ来てたのか?」と気さくに声をかけてくれる。ジムの顔を見るとかさぶたができていて、「チョットそのお顔どうしたんですか?」と訊くと「イヤ~、転んじゃってサ、フォッ、フォッ、フォッ!ところでメシ喰った?喰ってないなら、シゲ、いっしょに喰いに行こうよ!」なんてこともあった。

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2003年の楽器フェア以降、来日することはなかったが、海外の楽器ショウではよくご一緒させていただいた。特にフランクフルトではマーシャルの一員のように私を扱ってくれ、実に楽しい時をすごした。

これはそのフランクフルトでのショット。開催中に世界のディストリビューターを招待して催される「マーシャル・ナイト」と呼ばれる巨大なパーティだ。

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まだ元気なころ、ここで興が乗るとジムはよくスティックを握ったものだった。
まさか、へヴィ・メタルを演るワケでもなく、やわらかに4ビートを刻むのだ。

そして、もっとノッてくるとスティックをマイクに持ち替えて自慢のノドを披露してくれた。よく歌っていたのはガーシュインの「S' wonderful」とディーン・マーチンばりにシブくキメる「Everybody Loves Sombody」。同じくガーシュインの「Somebody Loves Me」も得意だった。

ジムの声はマーシャルの歪みとは正反対で、クリーンそのもので(マーシャルはクリーン・サウンドも素晴らしい!)、本当に澄んだベルベット・ヴォイス。ジャズが大好きな私としては結構その歌を楽しみにしていた。

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それから数年後の同じフランクフルトのパーティでのショット。もう手足の自由はままならなかったが、スティックを握ってグラスを叩き、会場を大いに盛り上げた。こんなときでも大好きなハバナ産の葉巻とマカッランは欠かせなかった。

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とにかくいつでもジムのまわりはたくさんの人が溢れていた。これはフランクフルトのマーシャルのスタンド。

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ジムのサインをもらおうと長蛇の列ができる。この光景は最後の最後まで変わることがなかった。

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これは私がジムにもらったサインの一部。もっともらっておけばヨカッタ!サインをもらった年を見るとナゼか一年おきになっている!

きっと誰でもそうだと思うが、私はサインをするジムの姿が好きだった。いつも愛用のマジック・インクを持っていて、どんな時でも、誰がペンを差し出そうとも、使いなれたマジックしか使わなかった。そして、あの有名なサインを色紙や本にキリリと施していた。

普通の人は生まれてから死ぬまでに自分の名前を30,000回書くといわれているらしいが、ジムが生涯を通じてしたサインたるや一体どれくらいの回数になるんだろう?
普通の人の10倍や20倍ではきくまい。これもジムの偉業のひとつだったんだナァ。
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ジムに最後に会ったのは今からちょうど(当時)1年前のことだった。もう会社には来ていないので、ジムの家にあいさつに行ったのだが、社長のジョンが直前に「シゲ、ジムに会っても驚くなよ」と警告してくれた。

実は何年か前にも同じことをマーシャルの別の役員から言われたことがあった。
元気な時をよく知っていただけに、正直あの時は小さくやせ細ったジムの姿を見て驚いた。
でも、今回はまったく驚くなんてことはなかった。むしろ、ジムの握手が力強いことに驚き、たのもしく思ったくらいだった。

その時にもらったのがこのミルトン・キーンズ銀行発行の50ポンド紙幣。マーシャルの創立50周年を記念して作った絵葉書だ。
向かって右のコンボに足をかけている写真は、ジムが最初に倒れ、復帰してすぐに撮影されたものだ。そう!ジムはいつでも鉄人だった。「Mighty Jim」と呼んでいる人も実際にいた。
ジムが天国に行くなんて誰も想像できなかった!

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それはこの50ポンドの裏面にサインをもらった時のことだった。事実これが本当に最後のジムのサインとなってしまった。あのボクサーのジャブのように素早くマジックを動かして書かれていた「Dr. Jim Marshall OBE」が、まるで初めて字を書く子供のようにゆっくりと描かれたのだ。

「もうジムに会えないかもしれない…」と思った。

「驚くなよ」と言われたジムの姿を見ても全然驚かない私だったが、このサインをするジムの姿を見た途端、大粒の涙を落としてしまった。とにかく涙をこらえようとしてこめかみが猛烈に痛くなった。それを思い出して今も涙が止まらない!
何度ももらったジムのサインだが、今となって私にはこの絵葉書のサインが一番美しく力強く見える。

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どんなに一緒に時間を過ごした人でも、どんなに親しい人でも、時間が経つとその人の声を忘れるものである。もちろんジムの声は耳に焼き付いているがいずれ忘れてしまう時がくるかもしれない。
そんな時にはこのCDを聴くんだ。ジムが愛したジャズのスタンダードの数々。元気のいいピアノ・トリオに乗って弾むように歌うジムの声が美しい。「S'wonderful」も「Everybody Loves Somebody」も入っている。私の宝物だ。

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そして、これはジムがBBCラジオのインタビューをCDにしたもの。これも大切にしている。
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でも、私が一番大切にしている物はこれだ。

マーシャルのプロモーション活動に精励したことを讃えていただき、2009年、フランクフルトのマーシャル・ナイトで世界中のディストリビューターの前で授与されたトロフィ。

その台座には「Shige Award」と記してあった。これはあまりにも大きな栄誉だった。我が人生の頂点といっても過言ではないかもしれない。

もちろんこの賞は私の他にも心からマーシャルを愛していただいている皆さまのご協力で頂戴できたと感謝している。同時にこのような機会を与えてくれたジム・マーシャルやマーシャルの仲間にもあらためて心からお礼を申し上げたい。

もうひとつジムのことで忘れてならないのは、彼は偉大なギター・アンプ・ブランドの創設者であったということの他に、慈悲深い篤志家であったということだ。
社会団体に莫大な寄付をし続け、その功績がイギリス政府に認められOBE(Order of British Empire)の称号を授与されたのだ。

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ロックを作った男、ジム・マーシャル。

大きな夢を、楽しい時を、素晴らしい思い出をどうもありがとう!

安らかにお眠りください。

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ありがとうジム・マーシャル!<中編>~I Remember Jim! 2

Shige Blog 2012年4月19日初出

最後にジムが日本に来てくれたのは2003年の楽器フェアのことだった。身体を悪くしてしまったジムはそれ以降来日していない。マーシャルのブースではジムのサインを求めて、連日サイン会の長い長い行列ができた。

何しろJCMシリーズの他、シグネイチャー・シリーズ等、イギリス製の主要モデルにのみ付されるDr. Jim Marshall O.B.E.のサインが直にゲットできるワケだからね。2003年以降、ジムからサインをもらった日本人は極端に少ないと思う。あの時にサインをもらった方は大切にされるといいかもしれない。

ジムは元々シンガーでドラマーでタップ・ダンサーで…レス・ポールようにステージの上に居続けてもいい人だったが、事業が成功したために、結果的に人生の大半を、いわば「裏方」に徹したことになった。

このあたりは日本で最初のマーシャルの本『Marshall Chronicle』をご参照いただきたい。

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しかし、このサイン会については並々ならぬ情熱を注ぎ、最後の最後までひとりでも多くのファンにサインを授けようとした。ジムは自分のサインをもらってよろこぶお客さんの顔を見るのが大好きだった。

この時、お役目で毎晩ジムと会食をすることになった。ジムと当時のパートナー、そしてマーシャル社の担当スティーヴと4人で…。

マァ、久しぶりにお会いすることもあって、はじめのうちはジャズの話しかなんかで盛り上がっちゃって、比較的話題に事欠かなかったのだが、さすがに毎晩となると状況が厳しくなってくる。何しろ相手は大正12年生まれで、私の父よりもはるかに年上だ。

当時、楽器フェアの期間中は毎晩どこもレストランが混んでいて、夕食の予約もできない状態が続いていた。ある晩、イチかバチかレストラン街に繰り出して、大衆的なイタリア料理店に空席を発見した!

ジムはステーキが好物で、その晩も「#$%&ステーキ」を注文した。そして、私は話題がなくなってハラハラしていた。かといって沈黙はもっとマズイ。そこで苦しまぎれにクイズを出すことにした。

「クイズを出してもいいですか?」と訊くとジムは「フォッ、フォッ、フォッ、何だね?やってごらん」なんて興味を示してくれる。クイズはよくあるスタンダードなお国柄問題だ。

「それではひとつ…アメリカの家に住んで、日本人のコックがいて、イギリス人の執事を雇う男が世界で一番幸せな男。では世界で一番不幸な男はどんな男でしょーかッ?」これが問題。よくあるでしょ?こういうヤツ。

するとジムは、「フォッ、フォッ、フォッ、面白いことを訊くじゃないか…答えは何だね?」と存外におもしろがっている!

よしゃいいのにやっちまった…「エヘン!答えはですね…世界一不幸な男は~…日本の家に住んで、アメリカ人の執事を持って、イギリス人のコックを雇う男ですよ!」

ここでドッカ~ン!ダイバクショ~となるはずだった。「フォッ、フォッ、フォッ、確かにイギリスの料理はマズイからね~」…と。

ところが、現実は予想と大きな隔たりを見せてしまったのだ。

笑うどころか、ジムの顔色はにわかに変わり、真剣な顔をして「オイオイ、ヘンなことを言わないでくれたまえ、シゲさんよ。イギリス人のコックのナニが悪いのかね?イギリスには料理自慢のテレビ番組だってあるのを知らんのかね!」…冷汗。雰囲気最悪!「な~に~?やっちまったな~!」なんてギャグはまだなかった。ましてや「シゲちゃん、ワイルドだゼィ~」なんてとても言えなかった。

そして、スティーヴが間に入ってくれて「マァ、マァ」となった。と、そこへジムがオーダーしたステーキが運ばれてきた。「オオ!これで助かる!ウマイものでも食えば機嫌もよくなるさ!」と胸をなでおろしたのもつかの間…「オイ、これはナンだね?」と皿の上の薄切りの肉を指して明らかにムっとしている。そう、ジムが食する「ステーキ」は最低でも厚さが3cm以上なくてはならないのだ!

「これでもステーキのつもりか?フン、史上最大の大惨事(Catastrophe)だな…そうだ、これは『タイタニック・ステーキ』っていうんだろう?フォッ、フォッ、フォッ!」…ガックシ…大量の冷汗。

雰囲気がさらに悪くなると思いきや、どうもこの自分の「タイタニック・ステーキ」の命名が気に入ったらしく、なんと上機嫌に戻ってる!皿の上の肉はたいらげなかったものの、笑いが戻って来た!

この後、ホテルのバーに移動し、18年もののマッカランを飲んで楽しく過ごすことが出来たのでした。翌朝、まだ「史上最大の惨事、タイタニック・ステーキ」って言ってはまだおかしそうに笑っていたっけ!

別の日には中華街へ繰り出した。マッカランの話し。ジムはとにかくこのスコットランドはスペイサイドで蒸留されるスコッチ・ウイスキーの猛烈な愛飲家なのだ。マッカランとハバナ産の葉巻は必須だった。

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さて、席に座る。「お飲み物は?」と当然なる。「マッカラン、いっちょ!」なんて言って簡単に出てくりゃ話しは早い。ここは中華料理店、出てくる道理がない。

…しまった!不覚!どっかの洋酒販売店で買ってくればヨカッタ!気が付かなかった~!オレとしたことがッ!…

すると私の優秀な部下がスックと立ち上がって「私、買ってきます!」と脱兎のごとく店の外へ飛び出して行った。30分も中華街中を走り回ってくれたであろうか?老酒はあってもマッカランなんてどう考えてもあるワケない。

その部下は汗だくで帰って来て…「スミマセンッ!見つかりませんでした!」と今にも責任をとって切腹しそうな勢いだ。ジムはそんな彼を見て「どうもありがとう、いいよいいよ、日本のウイスキーを試してみるよ…」とニコニコやさしく言葉をかけてくれたのであった。

かくして日本のウイスキー(黒くて丸っこいボトルのヤツね)の封は切られたが、私が観測した限りでは、ひとナメ程度したかしないか…。ああ、封開けちゃった…。

以上は以前にも公開した文章だが、生前のジムの片鱗を後世に伝えたいと思い加筆訂正のうえこのブログに再録した。

若かりし頃のジムにつきあった先輩達はビジネスの面で色々なことがあったことは想像に難くない。でも、私がおつきあいさせていただいたジムは、タイタニック・ステーキでハラハラさせられる程度で、本当に好々爺という趣きが強かった。当時のパートナーと楽しそうにじゃれていたのを思い出す。本当に楽しかった!

写真を入れたいのはヤマヤマだったのだが、案外残っておらず臍を噛む思いをした。その時は面倒だと思っても写真はこマメに撮っておくに限る。

<後編>は貴重な写真をちりばめてお送りする<海外編>です。

ありがとうジム・マーシャル!<前編>~I Remember Jim!

Shige Blog 2012年4月18日初出

突然やって来た連絡は仲良しのギタリスト、三宅庸介さんからだった。

何となく、本当に何となく「ピン」と来た。「ジムだな…」って。案の定、三宅さんから携帯に届いたメールはジムの逝去を知らせるものであった。

前の日の晩、ブログのバナーの件でデザイナーが家に来てくれて音楽の話しに花が咲いた。フランク・ザッパ、ザ・バンド、リトル・フィート、ジェントル・ジャイアント、とコロコロと話題が変わり、行きついた先は偶然ジム・マーシャルだった。ジムが歌った自主制作のCD『Reflection of a Man』に収録されているガーシュインの「S'wonderful」を聴きながら「ん~、ベルベット・ヴォイス~」などと話しをしていた。

まさに「虫の知らせ」。この現象は科学的にはまったくただの偶然として片づけられている…ことは知っていたが、この出来事を「虫の知らせ」としてただの偶然と片づけることができる人間は恐らくこの世にいまい。

ジェイムズ・チャールズ・マーシャル。イニシャルは「JCM」。彼がいなかったら今日のロックはなかったと言っても過言ではなかろう。

私はジムと仕事をすることができた最後の日本人として最高に幸せだと思っているし、そのことを誇りに思っている。

ジム・マーシャルの偉業はあらゆるところで触れているので、ここでは割愛することにして、晩年のジムとの思い出をここに認め、哀悼の意を表したいと思う。

はじめて生のジムに会ったのは1998年のことだった。私も若かりし頃、1959のハーフ・スタックの中古をゲットして新宿ロフトやら渋谷の屋根裏のブッキングの末席を飾らせていただいていたので、そりゃホンモノのジム・マーシャルにお会いすることができた感激は大きなものであった。

その時、ジムはJCM2000 TSLシリーズの発表会にデモ・バンドとともに来日したのであった。バンドのメンバーはギターがジェフ・ホワイトホーン(プロコル・ハルム)、ベースがジョン・キャリー(セッション・ミュージシャン)、ドラムがジョン・リングウッド(元マンフレッド・マンズ・アース・バンド)という面々だった。ジムは東京、名古屋、大阪とすべての発表会に出席し、熱心にバンドの演奏やデモンストレーションに聴き入っていた。その姿がマジメそのもので、やはりどんな分野であれ、歴史に名を残すような人の上に立つリーダーというものは威厳があると感じたものだった。

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そして、次にジムが日本にやって来たのは2000年、『マーシャル祭り』の時だ。 この時は、満を持して世に問うたValvestateの後継機種、AVT(Advanced Valvestate technology 2000)シリーズの発表会も兼ねていた。AVTは2203を彷彿とさせる分厚い歪みが売りのシリーズで、特にAVT50はザック・ワイルドが愛用していることで名器と謳われた。

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この時も発表会の後のショウをジックリと見てくれて、最後に出演者全員にマーシャル特製ウイスキーを贈呈してくれた。その時ジムが出演者のひとりであった王様の顔を凝視して、「君の顔には面白いものが描いてあるね!」と言ったのを忘れられない。

下の写真は打ち上げの時に撮影されたもの。同じく出演者のひとり、中野重夫とのワンショット。この時、シゲさんと2人で懸命にジムにお願いしたのを覚えている。「ジミ・ヘンドリックスが名をなしたのはロンドンでのこと。日本のジミ・ヘンドリックスをロンドンに呼んでくれんませんか!」と。

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最高に楽しい一夜だった!

シゲさんが過去にジムが来日した際、イギリス大使館でジムの前で演奏をしたことがあった。ジミヘンだけについ「アメリカ国歌」を弾きそうになったというが、寸止めしたらしい。危ないっつーの!

2001年10月、楽器フェアが開催され、前年に引き続き『マーシャル祭り2』が企画された。残念ながら前月の9月11日のテロ事件を慮り、ジムは来日をキャンセル。ジムが来れなかったのは残念であったが、時のマーシャルの担当者とジェフ・ホワイトホーンが来日し、幸いにも大成功をおさめることができたのであった。

そして、次にジムが日本に来てくれたのは2003年の楽器フェアだった。

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まさか、この時が最後の来日なろうとは夢にも思わなかった。

<中編>につづく