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シゲ・エッセイ Feed

2017年12月 4日 (月)

さよならマット・ユマノフ!~私とニューヨーク

 
実際には既に金曜日の時点で12月に入っちゃってるんだけど、改めて時の早さに驚きますナァ。
2017年ももう終わりだもん。
モダン・ジャズ・ピアノの開祖として知られるバド・パウエルに『Jazz Giant』というアルバムがある。
『ジャズの名盤』に数え上げられることもあって、私も20台の頃はよく聴いた。
このアルバムの1曲目を「Tempus Fugue-It」という。
凄まじくドライブするマイナーのバップ・チューン。録音は1949年。
穐吉敏子もソロ・アルバムで取り上げているが、ピアニストの他にもマイルス・デイヴィスなんかも録音している。
それだけカッコいい曲…マイルスはカッコいいこと以外は絶対やらないから。
で、そのタイトル。
コレはチョットしたシャレになってる。
クラシックが好きな人は「Fugue」が「フーガ」であることはすぐ読み解けると思う。
元は「Tempus Fugit(テンパス・フュージット)」というラテン語。
意味は「光陰矢の如し」。
英語で言えば「Time flies like an arrow」…と教えるのは日本の学校。
ネイティブの人はこんなこと言わない。
「Time flies!」だ。
そんな「Tempus Gugue-It」のテンポのようにブッ早い時の流れの中で世の中がガンガン変わり、それによって色んなことが起こるネェ。
良いことももちろんあるけれど、音楽業界に目をやると、ITテクノロジーの進化でソフトもハードもズタズタにされているように見える。
CDの開発までで止めておけばヨカッタんですよ。
そして…。  
コレはちょっとショックだったナァ…。

T_3img_5346 マンハッタンはグリニッジ・ヴィレッジにある老舗の楽器店、Matt Umanov(マット・ユマノフ、「ウーマノヴ」が正しい発音かな?)が昨日閉店した。
リペア部門は今後も継続するらしいが、かつてはボブ・ディランも通ったという1965年開店のニューヨークの名物楽器店のひとつがなくなってしまうのはとても寂しいことだ。
いつも「ロンドン、ロンドン」と騒いでいるのは、色んなことを知るにつれて、若い時あれほど憧れていたアメリカが「チョット、チョットチョット」の国であると思うようになった背景もあるんだけど、ニューヨークだけは別。
今でも、いつでも行きたい街であることに変わりはない。
この楽器店のことをからめてたまにはニューヨークの思い出なぞを…。

10私が初めてニューヨークに行ったのは1995年のことだから、22年も前のことになる。
ナニをしに行ったのかというと、デヘヘ、遊びに…。
ジャズとミュージカルと美術館の旅だ。

15まだ、前の前の会社に勤めていた時のことで、その会社のニューヨーク支店の方々に大層お世話になった。
コレは3rdアヴェニューにあるその会社の事務所で撮った一枚。
ね~、窓からクライスラー・ビルが見えるんだよ。
東京じゃどうガンバってもスカイツリーが関の山だもんな~。
以前はパーク・アヴェニューにあるあの有名なパンナム・ビル(現メットライフ・ビル)に事務所を構えていたが、アホほど家賃が高いとかで何年か前にこの3rdアヴェニューに引っ越してきていた。
残念!
この頃のマンハッタンは、128丁目以北や8thアヴェニュー以西、そしてアルファベット・アヴェニュー以外であれば安全と聞いていたが、駐在の方から「先週も1stアヴェニューで追いはぎがあったんだよ」という話を聞されてビックリした。
その方は、移動の際にはどんなに近距離でもタクシーを使うとのこと。
「だって、相手は銃を持ってるんですよ。ズドンで終わりですから」と言っていたのがとても印象的だった。
そんなことを聞かされてはいたものの、着いたその日の晩にひとりでグリニッジ・ヴィレッジのブルーノートに繰り出し、パット・マルティーノとジョー・ロヴァーノのダブルヘッドライナーを観た。
久しぶりの海外旅行で興奮していたのか、身体はクタクタのハズなのに全く眠くならなかった。
次の日も、またその次の日も夜になると目が冴えて、寝付いたかと思うとすぐに目が覚めてしまう。
この時、人生で初めて時差ボケのツラさを知った
しかし、この頃は毛があったな~。
今は「お怪我(毛が)なくてヨカッタ」ってか?「大山」じゃねぇ「ミューヨーク」詣りしてんだよ。

17vちょうどこの時、フランク・ザッパのベスト盤がリリースされた時で、HMVの店頭にザッパの顔がズラリと並んでいてうれしかった。
昼は美術館や名所めぐり、夜はミュージカルやコンサートを観て、それからヴィレッジのライブハウスにジャズを聴きに行くということを繰り返した。
そう、丸っきり『踊るニューヨーク』のフランク・シナトラ状態だった。
楽しかったな~。
でも、このために1年近く前から、ニューヨークに関する本や映画に目を通し、丹念に下調べをした。
行く頃には郵便配達ができるぐらいの知識を蓄えていたんよ。
ところが!
英語にはかなり難渋した。
ナメていたのね。
向こうに行ってすぐに気がついたのは、現地の連中は「英語ができないヤツは相手にしない」ということだった。
とにかく現地の皆さんの態度が冷たい。
ホームの連中は日本に来ている外人と違ってやたらと愛想が悪い。
こっちは完全アウェイで、まったくのオマケなし。
反対に気がついたことは、「コレ、英語ができたらこの何倍も楽しいんじゃないの?」ということだった。
そして、その場で英語を勉強し直そうと決心したのであった。

16とにかくガッカリしたのは楽器屋だった。
ニューヨークにはロンドンのデンマーク・ストリートやお茶ノ水のようなところが西48丁目にあって、サム・アッシュやマニーズのような店がズラリと軒を連ねていた。
この頃はまだギターに夢中で、希望に胸を膨らませてイの一番に訪れたのだが、ゼンゼン期待はずれだった。
チョット程度のいいストラトキャスターを見つけると日本製だったり、汚い割には値段が破天荒に高かったり…。
「ダメだ、コリャ…」と諦め、事前に調べて置いたグリニッジ・ヴィレッジにある楽器店に期待をかけた。
その店がマット・ユマノフだった。
 
グリニッジ・ヴィレッジに行った時、11時の開店を待って店に飛び込んだ。
その時のことが「旅日記」に記してある。
アタシャ、元来こういうことをするのが好きでしてね。
昔からマーシャル・ブログをやっているようなもんでさ。
でも、こうして書いておくと絶対に忘れてしまうような些細なことも後に思い出すことができてすごく楽しいね。
ナニナニ…フムフム…なるほど、この頃はホントに一生懸命ギターをやっていたんだな~。
長野市のパブでハコバンをやってたからね。
ギョエ!途中でヤバいことが書いてある!
ま、この時はマーシャルに勤めるなんてことは夢にも思っていなかったのでご愛敬ね。

50上のメモにあるように、お店ではウィットという日本人の奥さんがいる若い店員が相手をしてくれた。
日本語なんてゼンゼンできないのよ。
にもかかわらずアンケートに答えてくれっていうワケ。
質問は「どうしてこの店に来たのか」ということなんだけど、もちろんこっちは英語で説明なんてできるワケがない。
何とか知っている単語で「日本にいる時に、前もって調べて来た」と伝えたいのだが、どうもうまくいかない。
すると彼は「Come across?  Come acorss?」ってしきりに訊いてくるんだよね。
何とかして私の答えを「I came acorss your store」にしたいようなのだが、何しろコッチは「come across」の意味がわからない。
面倒だから「ハイハイ、『かむあくろす』って答えればいいんでしょ」と心で思い、最終的に「Yes」と答えた。
彼は「ほおらね!」と言わんばかりにニコリとしてくれたが、コレは「タマタマ出くわした」という意味で、私の本意ではなかった…ということが大分後になってわかった。
おかげで「come across」は一生忘れない英語表現のひとつに昇格した。
  
ところでマクドナルドをはじめとした海外のファストフード店って有色人種の店員ばかりでやたら不愛想じゃない?
ロンドンなんかはそうでもないけど、ニューヨークなんかはヒドイというか、もはやコワイというか。
小声で注文などしようもんなら「ハアアアア?」と、まるでテレビドラマに出てくる殺人事件の取調べの刑事のような迫力で攻めて来やがる。
で、「Here or to go?」なんて眼光鋭くドスのきいた声で聴かれると完全にビビってしまって、そこで食べて行くつもりだったのに、つい「トトト、トゥ、ゴウ」と答えてしまったりして。
それでワザワザ袋に入れてくれたハンバーガーを店内で食べる時の後めたさと恐ろしさね。
その店員の死角の席に座って隠れて食べたりして…。
さすがに今はこんなことはないけど、以前は「コーヒー」を頼んで普通に「コーラ」が出て来たこともあった。
「コー」しか聞いていない。確認もしない。
もちろん何の文句も言わずにそのコーラをおいしく頂戴しました…とさ。
やっぱり日本が一番いいわ。

40で、その時買ったレス・ポールがコレ。
セス・ラバーが巻いたピックアップが乗ってるんだって。
翌年、イリジウムに行った時、レス・ポールご本人にこのギターの写真を見せたところ、「ああ、キレイなギターだね~」と言ってくれた。

20vね、「MATT UMANOV GUITARS」というステッカーが貼ってあるでしょ?
私がこのギターを買ったようすを見ていて他の店員がやたらと「いい買い物だ!」みたいなことをうれしそうに言っている。
私も実際気に入って買ったものなのでそう言ってもらえると悪い気がしない。
しかし、よくよく聞いてみると、このレスポールはその店員の委託品だったの。
道理でホメるワケだわ。
コレに立派なリユニオン・ブルースのケースが付いていた。
 
結局、48丁目の楽器店よりは魅力的な品ぞろえではあったが、それでもヒックリ返って驚くようなモノがズラリと並んでいるようなことはなかった。
ところが…。
途中でトイレに行きたくなって貸してもらうように頼んだ。
「ああ、どうぞ。アッチだよ」と店に裏に連れて行ってもらった。
すると、そこには大きなガラスのショウ・ケースが置いてあって、あるわあるわ!
中に収まっていたのは、ビンテージのL5、L7、L6S、ピッカピカのTal FarlowやJohnny SmithやBarney Kessel…この時はフルアコしか興味がなかったのでフェンダー系のギターは記憶にないが、きっとスゴイものがあったのだろう。
そういうことです。

30翌年、リターンマッチをやった。
再度ニューヨークを訪れたのだ。
この時に備えて1年間、ミッチリ英語の勉強をした。
朝から晩までやった。
まず「出る単」の内容を1冊頭に入れて、NHKの英会話のプログラムは初級からビジネス英語まですべて録音。買って来た教本と首っ引きで取り組んだ。
ブックオフで良さそうな英語関連の書籍を見つけると片っ端から買い込んだ。
営業でひとりで車に乗っている時はズ~っと英語のテープをかけて耳を鍛えた。
英字新聞のスクラップもやった。
当時は長野に住んでいたのだが、家内が近くに住んでいる外人を探して来て個人レッスンをしてもらった。
ま、コレだけやっても所詮は付け焼刃。
とても完璧というワケにはいかなかったが、それでも英語の勉強が楽しくなったし、さほど英語がコワくなくなった。
ポイントは語彙と文法ということもわかった。
そして、もうひとつ。
よく「アタシって~、外人の言ってることは~、だいたいわかるんだけど~、しゃべれないんだよね~、ウケる~」みたな話を耳にするが、コレは絶対ウソ。
「わかっている」ような気になっているだけ。
相手の英語が聴き取れる能力がある人は、その前にしゃべることができるって!
ナゼかというと、しゃべる時に適切な単語が見つからないことはあるにしても、「ナニを相手に伝えたいか」を見失うことはない。自分のことなんだから。
それに相手は世界中のヘタクソな英語に慣れているので、何とかそのヘタな英語を理解してくれようと歩み寄ってくれるのが普通だ。
つまり助け船を出してくれる。
中にはものすごく勘のいいのがいて、60%ぐらいしか英語で説明できていないのに120%以上理解するヤツがいるんだよね。
一方、外国語を聞きとるのは本当に大変なことだ。
ナゼなら、ナニが出て来るかわからないし、頼れるのは自分の聴き取り能力だけだから。
聞くことのない単語が出てきたら、もう理解のしようがないでしょ?
「辞書を引かなくても単語の意味がわかるようになる」なんて言うけど、コレもウソ。
「意味が分からなくでもごまかせるようになる」だけの話。
もちろん何度も聞き返すことも構わないのだが、人によっては3回目はNGになることもある。
だからまず気を付けるべきは、少なくとも肯定文か疑問文の区別をつけられないとかなり恥をかくことになる。
「What....」と訊かれて「Yes」と答えたところ、「'What'に'Yes'の答えはない!」と注意されている人を目の前で見たこともある。
  
「『聞く』は『言う』よりムズカシイ」、すなわち、「攻撃は最大の防御なり」…ということもわかって意気揚々と再度ニューヨークに乗り込んだのであった。
その結果…恥ずかしがらずに色々な局面でこちらから積極的に話をすると、なるほど前回とは大違い。
どこでもみんなニコニコしてとても親身になって応対してくれるではないか!
とてもうれしかったね~。
そして、再度マット・ユマノフを訪れた。
今回はオーナーのマットに会うことを前提にお土産を持参した。
海苔だ。
首尾よくマットに会ってそのお土産を渡したところ大いによろこんでくれて、お店の黒いオリジナルTシャツをお返しにとプレゼントしてくれた。
さっそく昨年私の面倒をみてくれたウィットに面会を申し入れると既に辞めてしまったという。
代わりに私の応対をしてくれたのは…アレッ?!
去年もお店で会った私のレスポールの前の持ち主じゃないの!
彼の名前をズィークといった。
向こうも私のことを覚えてくれていて「ヨォ!どうだい、オレのレスポールの調子は?」ってなもん。
「オレのレスポール」だっての。キミのじゃない。
「今回はどうするんだい?」と訊かれて、「安いSGかテレキャスターがあれば買って行こうかと思っているんだ」…コレぐらいのことはもう英語でラクラク言える。
予算を告げると、さすがにSGはムリだという。
じゃ、ということで下のテレキャスターのアメリカン・スタンダードを買うことにした。
約60,000円だった。

60vおしゃべりをしている時に当時私が大好きだったピックをズィークに見せた。
「ジョン・スコフィールドだね?」と、すぐさま言い当てた。
「でもね、本物はこのサインが金色なんだよ」と付け加え、「彼はこの店に来るの?」と私が尋ねると、「ウン、時々来るよ」と答えた。
本場やな~。
そうしている合間も店内の電話がジャンジャン鳴る。
すると、電話を取り次いだ店員が呼び出された人に受話器を渡しながら「ジョン!ギブソンから!」とか「フェンダーからだぞ、ポール!」とか言うワケよ。
MarshallからSkypeがかかってくる今なら何とも思わないけど、当時はコレがメッチャカッコよくてね~。
本場ならではの光景でしょう。
日本だと「〇×楽器さんから」とか「△□商会からお電話です」ということになる。

70その後、数年して私は楽器業界に転職し、楽器の輸入販売の仕事に就いた。
さっそく何か最新の海外のヒット商品を輸入できないものか?と考えた私はズィークに連絡を取ってみた。
メールなんてまだ普及していない時代だったのでファックスだ。
自分が楽器業界に転職したことと、彼が持っていたレスポールを愛用していることを伝え、「今、ニューヨークで最も流行しているグッズを教えてくれ」と頼んでみた。
すると、すぐに返事が来た。
「It makes me happy that my Les Paul is being enjoyed by a fine guitar player」だって。
もちろん社交辞令である。
そして、1998年当時、ニューヨークで猛烈に流行しているアイテムとして…

T_img_5319このホンモノのタバコの空き箱で作ったアンプを紹介してくれた。
すぐに買って送ってもらったが、その会社で取り扱うことはなかった。
コレ、どこ行っちゃったかな?
  
コレが最後のマット・ユマノフとの交流だった。
この後、一度だけNAMMの直前にニューヨークに行ったが、マット・ユマノフを訪ねることはなかった。
代わりにすごい光景を目にした。
その日は信じられないほどの大雪で、人っ子ひとりいないタイムズスクエアを目撃したのだ!
写真を撮っておけばヨカッタな~。
後で知ったことなのだが、実はそれは雪のせいだけではなくて、スーパー・ボウルの試合が重なっていたからだったらしい。
冬季にニューヨークを訪れたのは初めてのことだったので、『真夜中のカウボーイ』のあの道路から吹き出る湯気を見て興奮したっけ。

80vそれから数年して、ギターセンターがニューヨークに進出したことにより48丁目の楽器店街は壊滅状態に陥ったと聞いた。
その情報を耳にした時、マット・ユマノフがヴィレッジにあってヨカッタと思った。
そして、そのギターセンターも経営が苦しいという話を最近耳にした。
通販の隆盛である。
「実際に弾いて試さないでギターを買うのかね~」なんて台詞をもう日本でもスッカリ聞かなくなった。
アメリカはシアーズをはじめとして元々通販の盛んな国なので、ひとたびギターが通販で普通に流通し出せば小売店はひとたまりもないのであろう。
そして、とうとうマット・ユマノフも斃れた。
少し前にスタテン島のマンドリン・ブラザーズも終わったとか…。
さらに世界でも一、二を争うギター・メーカーも今や苦しい経営を強いられているとウェブサイトのニュースが報じていた。
あと数年したらギターを楽しむ人がこの世からいなくなってしまうのではなかろうか?
冒頭でも触れたが、この原因はもちろん流通の変化によるものではなく、ITの普及により音楽が無料になってしまったことが根本的な原因だろう。
おかげで音楽の質が低下して、ギター・ヒーローもいなくなってしまった。
一体どこまで変わっていくのやら…。
日本でこの現象を歓迎しているのはTシャツ屋とチェキ屋、それに今治の方々か…。
そういえば、私がニューヨークに行った時にはワールド・トレード・センターがあったんだよな~。
  
最後に得意の「三大」でこの記事を〆てみると…。
「自分の人生を変えた三大出来事」は…まず、家内に出会ったこと。
それからジャズを知ったこと。ココから音楽の愉しみが飛躍的に広がった。
そして、英語を覚えたこと…と言っても、まだまだゼンゼン使い物にはならないが、結論としてこうしてMarshallで働き、毎日のように英語を使っているのは驚き以外の何物でもない。
それもこれも、この2度のニューヨークの旅があったからなのだ。
Tempus Fugit…今日はちょっとセンチな気分でマット・ユマノフの個人的な思い出をつづらせて頂いた。
   
ちなみに、1回目の渡航にはカメラだけ。
そして2回目の時はビデオを持って行った。
もちろん私のことなので、微に入り細に穿ちテープを回したが、帰って来て1度はそのビデオを見たが以降2度と見ることはなかった。
ビデオはテレビなりパソコンの前で構える必要があるし、どうしても一定の時間がかかってしまう。規格もすぐに変わっちゃうし。
動きもしなければ音も出ないけど、写真はこうして気軽に引っ張り出して好きなところだけ見れるのがいいし、思い出を書き込んでおくこともできる。
2回目も写真にしておけばヨカッタ…と少々後悔している。
やっぱり私は写真派だ。

90

2017年9月 5日 (火)

【訃報】 ウォルター・ベッカーのこと

  
Steely DanのWalter Beckerが3日に亡くなったそうだ。
67歳。
昨今では「早死に」の部類に入るだろう。
死因は今のところ不明。
  
Steely DanもWalter BeckerもおおよそMarshallに関係なさそうだが、素晴らしい音楽を作った業績に対しエッセイ的に一筆寄せることをお許し頂きたい…というか、こんな時でなければMarshallのブログでSteely Danについて書くことなんてないだろうし…。  
早い話、Steely Danが好きだったのよ。
普段から、やれ「イギリス」だ、やれ「ロンドン」だと騒いでいることからもわかるように、私は根っからのブリティッシュ・ロック派で、いつの頃からかアメリカのロックをあまり聴かなくなってしまった。
ま、局地戦ではSteve MillerやLittle Featのような例外もたくさんあるけど、アメリカン・ハードですらAerosmithを除いてはチョット苦手なんだよな~。Grand FunkもKissも夢中になったことがない。Blue Oyster CultとAlice Cooperぐらい?
アメリカのロックを「アメリカン・ロック」たらしめる、さわやかなウエスト・コースト・ミュージックとかアーシーな南部のロック、さらにカントリーやブルースがかった音楽をもはや自主的に聴くことがないんだよね。(といいつつ、つい先日Black Oak Arkansasを聴いて、あんまりカッコいいんでウナってしまったけど)
しかし、Frank ZappaやTodd Rundgrenは例外中の例外でゼンゼン別物。一生好き。
そして、もうひとつの大きな例外がSteely Danなのです。
  
Steely Danを初めて知ったのは1976年のことだったと思う。
記憶違いだったらゴメンなさいよ。当時、東芝EMIって下のような洋楽のレコードを紹介する小冊子を時折出していた…と思う。
下のヤツはもしかしたら1976年に出たビートルズの『Rock'n'Roll Music』というコンピ―レーション・アルバムのオマケだったのかも知れない。
私はこのアルバムを一度も買ったことはなかったんだけど、ナゼかこの小冊子だけは持ってたな。
ところで、この頃って、ビートルズが解散してからまだ5、6年しか経ってない頃だったんだよね。
今はナニ…ビートルズが解散して47年が経ったの?
ビートルズのメンバーの名前が言えない若者が普通…なんてのもムリのないことなのかも知らんね。
47年…道理で私もどこへいっても最年長になるワケだよ。
さて小冊子…当時はレコード会社もロックを広めるために必死だったんだろうね。定期かはたまた不定期かはわからないけれど、こういうモノを作ってロックの普及に努めていたワケだ。
あんまり一生懸命やりすぎたせいか40年経ったらこの頃のロックがスカッリどっかへ行っちゃった。

20vで、この頃中学2年生だった私は何かの拍子に、このひとつ前の紺の表紙の小冊子を手に入れて、しょっちゅう中身のチェックをしていた。
ロックの知識を吸収しようとして夢中だったのね。
そして、そこに出ていたのがSteely Danで、確か『Ketty Lied(うそつきケティ)』が新譜として紹介されていたのだと思う。
その紹介文には下の1973年の『Countdown to Ecstasy』の裏ジャケの写真が使われていた。
で、この写真で印象に残ったのが、ちょっとイッちゃってる感じのDonald Fagenではなくて、ご立派なヒゲがステキなJeff Baxterでもなくて、はたまたコワモテのDanny Diasでもなくて、一番奥にサングラスをかけて座っているWalter Beckerだった。
何でかって?
この頃はWalterがSteely Danなるバンドの中心人物などということはツユ知らず、「ウワ~、意地の悪そうなオジさんだな~」という猛烈に強力な印象を受けてしまったのだ。
だって、今この写真をパッと見てもひとりだけ変でしょう?
コレで紙袋を持っていたら「宅八郎」だよ(古いか?)。

10当時はまだロックを聴き始めた頃だったので、Steely Danに興味が湧くワケもなく、ビートルズを卒業すると、私はToddを経てZappaやRoxy Musicをはじめとしたブリティッシュ・ロックの道を突き進んだのであった。
2度目にSteely Danに接近したのは『Aja』が出た時だった。
2年後の高校1年の時だったかな?
池袋に新しくできた楽器店でアルバイトをしているヤツがクラスにいて(ど~こだ?)、バイト先の年上の人に教わって来たんだろうね…ソイツはハード・ロックやプログレッシブ・ロックに夢中になっている我々に向かって小バカにした口ぶりで「お前らも『エイジャ』いいぞ~」なんて言っていた。
やかましい!こっちがナニを聴いたって「えいじゃないか!」…ナンチャッテ。
そんなことがあったので、どうもSteely Danは長い間苦手にしていた。友達ギライによる聴かずギライ。
40cdで、Steely Danを本格的に聴くようになったのは、私の場合、実は高校を卒業してからなのですよ…恥ずかしながら。
それも一番大きなキッカケは今の家内と話を合わせるためだったの。
まだ、18歳の時よ。
「私、Steely Danが好きなの…」なんて言われた日には「ダメダメ、そんなの!男は黙ってFrank Zappa!」なんてことも言えない。フラれるのがコワいから。
ま、Steely Danも完全に知らないワケでもないし…ということで家内が持っていたカセット・テープをこと細かに聴き出してブっ飛んだ。
「ナンダ、こんなことをやっていたの?」
当時、すなわち1980年に入りたての頃は、パンク/ニューウェイブ、テクノ、フュージョン等の嵐が吹きすさび、時の音楽に興味を失っていたことに加え、従来型のハード・ロックやプログレッシブ・ロックにも飽きが来ていたので、私は何か自分にとっての新しいタイプの音楽を摸索していたんだね。
そして、完全にシビれてしまったのが、『The Royal Scam』の1曲目、「Kid Charlemagne」のLarry Carltonのソロ。
彼はコレをアドリブで弾いたと言っているけど、いまだに信じられん。
人間、こんなことが即興でできるハズがない。
このアルバムはSteely Danのハードな面が出ていて好きだった。
Rick Derringerがこんなにギターがウマいんだということも知ったし…。

30cdそれで改心して(?)、『Gaucho』までのすべてのアルバムを即時中古で買い揃え、聴き漁った。
まずは「Do it Again」で名高い『Can't Buy a Thrill』。
「Reelin' in the Years」のDenny Diasのソロにもシビれたな~。
5曲目の「Only a Fool World Say That」で、曲が終わったところで「ムッフフ、止めて、ホント、ホントに」と言っているように聞こえるのは私だけか?
最後の「Turn That Heartbeat Over Again」も名曲。
このアルバムにもVictor Fledmanが参加しているのか…。
FeldmanはMiles Davisの愛奏協でおなじみの「Seven Steps to Heaven」の作曲者。お父さんもジャズ・ミュージシャンで、有名なロンドンの「100 Club」のオーナーだった。

50cdこの頃はまだCDが出て来る前でね、『Gaucho』は数寄屋橋のハンターで買ったのを覚えている。
コレの「Third World Man」のCarltonのソロもスゴイよね。
Larry Carltonはかつて自分の代表的な仕事をメドレーにして自分のコンサートのレパートリーにしていたが、「Theme from Hill Street Blues」や「Put it Where you Want it」の他に、「Kid Charlemagne」や「Don't Take Alive」を加えていた。
ホ~ラ、やっぱりアドリブじゃないんじゃないの?1101975年の『Katy Lied』。
「Rose Darling」「Daddy Don't Live in That NYC no More」、「Everyone's Gone to the Mivies」、「Your Gold Teeth II」、「Chain Lightning」…名曲そろいの傑作だと思う。
特に「Doctor Wu」のPhil Woodsのソロが好きだった。
そういえば日本でもおなじみになったんだか、なじまなかったんだか知らないが、「Black Friday」なんてブギも入っていた。
この『うそつきケイティ』という邦題はなかなか良いセンスだと思ってる。
ところで、このアルバムのジャケットがなぜバッタだか知ってる?
コレ、実はバッタではなくて「Katydid」というキリギリスの仲間なんだって。イギリスでは「Bush Cricket」というらしい。
それでアメリカではこの虫が鳴くと「katy did, Katy didn't(ケイティ・ディド、ケイティ・ディドゥント)」と聞こえるんだって。虫の名前としては「ツクツクボーシ」みたいなもんだね。
で、さっきの「Doctor Wu」。
「Katy tried」と「Katy lies」という歌詞が出て来る。
この虫をその歌詞に引っ掛けたんだって。

80cd下はCDになってから初めて聴いた1970年代初頭に吹き込まれた未発表音源集。
一時アメリカの音楽界では「Steely Dannish」という言葉があったらしい。
この音源集での録音や演奏は原始的なものだが、この頃には既にそのSteely Dannishなサウンドが完成していることに驚く。
「Don't Take Me Alive」とほとんど同じ曲もあったりするぐらい。
プロデューサーのGary Katzはコレらの原石を磨き上げたワケね。
「プロデュース」という仕事がいかに重要かということを思い知るわ。(誰か私にナニかプロデュースさせて!)
このアルバムで上の『Can't Buy a Thrill』に入っている「Brooklyn」や、その後の『Pretzel Logic』に収録された「Parker's Band」の原型を聴くことができる。

60下がその1974年の『Pretzel Logic』。
ジャケットがいいね~。
しかし、邦題がひどかった…「さわやか革命」。ナンだそりゃ?「サワデー」かぁ?それとも「消臭力」かぁ?
プレッツェルってニューヨークに行って初めて食べたんだけど、驚いたナ。
アレ、上にかかっている粒々って砂糖かと思っていたら塩だったんだもん!
  
ココでもう一度「Parker's Band」。
タイトルにある「Parker」とはもちろんモダン・ジャズの巨人、Charlie Parkerのこと。
彼のオリジナル・ブルース、「Parker's Mood」に引っ掛けたのかな?
オットット…今ココでParkerで脱線しようものなら、それこそキリがなくなってしまうことは必至なので、要点だけ書く。
このSteely Danの曲は、Charlie Parkerの音楽の素晴らしさについて歌っているんだけど、歌詞が実におもしろい。
冒頭の「Savoy presents a new saxophone sensation(サヴォイが新しく紹介するとんでもないサックスの新人スター)」とある。
「Savoy」というのは「Now's the Time」や「Confirmation」や「Koko」などのParkerスタンダードを世に出した1940年代のニューアークのジャズのレコード・レーベル。
皆さんはJacoの愛奏曲としてご存知であろう「Donna Lee」もParkerがMiles Davisと一緒に吹き込んでこのレーベルからリリースした。
「Savoy」なんて固有名詞を入れるところが何ともカッコいい。日本のロックの歌詞には見ることのできない手法。
そして、実はこの部分には伏線がある。
1954年2月にニューヨークのBirdlandというジャズ・クラブで録音された、「ハードバップ時代の幕開け」とされる『A Night at Birdland』というArt Blakeyの名ライブ盤がある。
「Birdland」という店の名前もCharlie Parkerの「Yardbird」というアダ名から付けられたのだが(Clapton、Beck、PageのThe YardbirdsもCharlie Parkerゆずりだ)、このクラブにはPee Wee Marquetteという小人の有名な専属司会者がいた。
この司会者がそのライブ盤に収録されているパフォーマンスの中で、当時デビューしたての天才トランぺッター、Clliford Brownを「A new trumpet sensation、Clliford Brown!」と紹介しているるワケ。
「trumpet sensation」と「saxophone sensation」…ジャズ・マニアのDonaldとWalterはコレを知っていてそういう歌詞にしたにちがいない。
いいナァ~、こういう楽屋落ちは大好きだ。
もうチョット書かせて!
この「Parker's Band」の歌詞の中にはこういう一節も出て来る。
「♪You'll be grooving high or relaxing at a kind of riddle」…ジャズ・ファンなら絶対にニヤリとしちゃう。
この一節にはふたつ仕掛けが仕込んであって、前半の「grooving high」というのはDizzy Gillespieが書いたCharlie Parkerの愛奏曲のタイトルなのね。
もうひとつがおもしろい。
「relaxing at a kind of riddle」…「riddle」は「ナゾナゾ」ね。つまり「ナゾナゾのようなものでリラックス」という意味。
これだけではおもしろくもなんともないし、そもそも意味がわからん。
実はココは言葉遊びになっていて、Donaldは「a kind of riddle(アカインダバリロル)」を強引に「カマリロ」って歌っている。
そうすると、この一節の後半は「♪リラキシンアットカーマリロ~」となる。
この「Relaxin' at Camarillo」というのはParkerが作った有名な「C」のブルースのタイトルなのです。
恐らくDonaldとWalterは「どう歌ったら『カマリロ』に聴こえると思う?」なんてさんざん考えたんじゃないかしら?
カマリロというのはカリフォルニアにあった精神病院の名前で、Parkerは6ヶ月間ココに収容されて治療を受けた。
ナゼ、精神病院に入れられたのかはまた今度…キリがなくなっちゃうから。

70cd私はこの「Relaxin' at Camarillo」が大スキで、伊藤広規さんのライブ・アルバム『Relaxin' at IWAKI ALIOS』でアイデアを借用させて頂いた。

Ri それと、『Pretzel Logic』の1曲目の大ヒット曲、「Rikki Don't Lose That Number(リキの電話番号)」のイントロはHorace Silverの「Song for my Father」の完全パクリ。
コレは偶然にも最近Marshall Blogで触れたばかりだ。

350 Steely Danが2000年に『Two Against Nature』で復活した後、『Everything Must Go』も聴いた。
往年のクリエイティビティには叶わないかもしれないが、音楽としては十分にカッコよろしく、Steely Dannishを貫いていると思った。
でも、私にとって復活後のSteely Danで最もご利益があったのは、Drew Zinggというサポート・ギタリストを知ったことだったかな。
Marshallじゃないけどね。
120もう『Aja』あたりになると誰でも知っているでしょうから、今回ココでは詳しく触れなかった。
その代わり、ヘソ曲がり的にこんなヤツを…。
Marian McPartlandというベテラン女流ピアニストがパーソナリティを務めて1978~2011年まで続いた『Piano Jazz』というラジオ番組に、Steely Danの2人とベースのJay LeonhartとドラムのKeith Carlockが出演した時の音源。
ピアノ談義とジャム・セッションという内容で、Bill EvansやElvis Costello版もあるようだ。
ま、ジャズに興味がなければ例えSteely Danファンであっても、そうおもしろい内容ではないかも知れないが、私はこの2人のジャズへの傾倒ぶりがよくわかっておもしろかった。
取り分け、Duke Ellingtonへの敬愛ぶりには興味をそそられる。実際、『Pretzel Logic』では「East St. Louis Toodle-Oo」というエリントンの古い曲を取り上げているもんね。
どうして今、私がエリントンに興味を持っているのかというと、長年アメリカで活躍しているジャズ・ギタリストが書いた本を最近読んで、それに感化されたからなの。
その本によると、アメリカでは「ジャズ」は「マイルス・デイヴィス」でもなく「ジョン・コルトレーン」でもなく「デューク・エリントン」を指すというのだ。
もちろん日本でも「デューク・エリントンは数々の名曲を残したジャズの偉人」とされているが、アメリカでの地位とは雲泥の差があるようなのだ。
だから、「エリントニアン(Ellingtonian)」などという言葉があるワケ。
「エリントニアン」というのはデューク・エリントン・オーケストラで演奏することができる数少ない優れたミュージシャンを指す名誉ある言葉。
どうなんだろう?
アメリカ在住のミュージシャンの数とエリントン・オーケストラの席数を考慮すると、エリントニアンになれるチャンスたるや、大相撲の横綱になるぐらいの確立なのではないだろうか?(無責任な推測)
ということは日本の総理大臣になるよりムズかしいということだ。
ま、ココでエリントニアンの名前をズラズラと上げるのはいともたやすいことだが、知識をひけらかしているようでイヤらしいのでヤメておこう、ヒヒヒ。
しかもジャズだけでなく、ありとあらゆるアメリカのポップ・ミュージックはデューク・エリントンの影響を受けているというというのだ。
あの有名なJames Brownのガウン芸も元はエリントンなんだって。
つまりは、このSteely Danもエリントン傘下ということになるのだろう。
私も好きで30枚以上のエリントンのLPやCDを持っているが、そういう風に彼の音楽を聴いたことはなかった。
どんなに情報が氾濫していても、本当の情報が伝わってこないことが多い…ということを思い知る。

90Mrian McPartlandはOBEも叙勲しているイギリス人でJimmy McMartlandというアメリカ人トランぺッターと結婚してアメリカに帰化した。
私はほとんど知らないのだが、下のイギリス人ピアニストふたりによるコンピレーション・アルバムはナゼかLPとCDの両方を持っている。
収録されている私の好きな曲「It Might as Well be Spring(春のごとく)」なんかを聴くと、Marianはいかにも上品で面倒見のよさそうなピアノをお弾きになっていらっしゃる。
ちなみにこのMarianも前掲のSavoyからアルバムをいくつかリリースしている。
もうひとりのピアニストはGeorge Shearing。
有名な「バードランドの子守唄」の作者であり、そのプレイング・スタイルはHerbie HanckやChick Coreaといったモダン・ピアニストに多大な影響を与えているらしい。
私は聴いてもよくわからないが、好きなピアニストのひとり。

100ナゼかSteely Danのスコアもこんなに家にあった。
ナンダ、結局大スキなんじゃん!…と言われれば「Yes」ですよ。

2_img_0184しからば、Steeley Danのどのアルバムが一番好きか?と訊かれたら…コレかな?
1973年のセカンド・アルバム『Countdown to Ecstasy』。
やっぱり「My Old School」は泣ける!
他にも、マァ、よくもこんなにいい曲を作ることができるものだ、と感心せざるを得ない。
昔の人はエラかった!

130…とスッカリ、私的なSteely Dan録になってしまったが、恐らくみなさんが触れたり、書いたりしないような内容で故人を偲んだつもり。
ジャズの話題をからめたのは私の弔意(condolence)だ。
私は『Nightfly』も『Kamakiriad』もDonald Fagenのソロってどうもシックリこなかった。
やっぱりWalter Beckerという相棒がいてからこそのSteely Dannishサウンドだったのだろう。
ギタリストとしては、活動中に出した音の数の合計はYngwie Masmsteenが弾く1曲の音数よい少ないかもしれない。
でも、どれもヨカッタよね。
彼の弾くギターこそ「ツボを得たプレイ」というのだろう。
ロック界はまた大きな才能を失ったことと、この先Steely Danの新しい音楽は永久に聴くことができないということだけは確かだ。
謹んでお悔やみ申し上げます。

2017年7月31日 (月)

岡井大二の青梅はAMAZINGだった!

  

今日の話題はコレ。

20vそう、梅。
同じ梅でも今日登場するのは下の写真の方。
上の梅と下の梅、色以外にどういう風に違うかわかる?
上の黄色い梅はもう熟していて、これから自家製梅干しになる。
梅と塩を広口のビンに入れて重石で漬け込んでやる。色や香りをつけるためにシソを入れることが多いが、ウチは入れない。
頃合いを見計らって漬かった梅を取り出して、しばらくの期間天日干しをする。
ビンの中に残った梅から出た水分は「梅酢」といって「グワシ!」とやる。
それは「楳図」か!
梅酢は除菌作用があって、昔はうがい薬や咳止めとして珍重されたらしい。
他に、漬物に使ったりして何のムダも出さない。昔の人は本当に賢い。
今ではその梅酢を原料に「梅ドレッシング」を作ったりもするそうだ。
取り出した梅は事務所の前の日の当たるところに置いておいて、雨が降ってきたら取り込むのが私の仕事。
Marshall AmplificationのAsia & Oceania Region Managerが製造に関わった梅干しだ…酸っぱさもしょっぱさも超ラウドだぜ!
かなり久しぶりに作るんだけど、化学調味料や添加物を一切入れない梅干しはすごくおいしいんだ。
海外では使用が厳しく禁止されているアミノ酸(グルタミン酸)が入っている食品をできる限り摂らないようにしているしね。
下の青い梅は梅酒になる。
おいしいもんね~、自家製の梅酒は!
もちろん化学系添加物は一切入らない。
実に完成が楽しみだ。
今日の舞台はこの青い方の梅。
つまり青梅ね。

10v_2

私が青梅に足を踏み入れたのは、人生でコレが初めてのこと。
東京の東の住人にとってはかなりの距離。
八王子のチョット先ぐらいに考えていたらトンデモナイのね?
お、目的地が見えてきた。

30ココが目的地。
民家ですな。
同じ「ハウス」でも、ライブハウスはMarshall Blogに数え切れないほど登場しているけど、もしかしたら普通の「ハウス」が舞台になるのはコレがはじめてのことかも知れない。

40コチラは榎本さんのお住まい。
もしくは、ご芳名の下にある通り「studio AMAZING」。

50ご新居で…結構なお住まいですな~。

60風通しのよいベランダでくつろいでいるのは、岡井大二とおなじみのギタリスト、関雅樹

70実は榎本さんは、ドラムスの録音ができるプロフェッショナル・クォリティのスタジオを自宅に作ってしまったのだ!
関ちゃんの手配で大二さんがお見えになり、そのスタジオでレコーディングをしたというワケ。
100v_2自宅のスタジオに「岡井大二」が現れるなんてまさにAMAZING!
セッティングに余念がない大二さん。

90録音に使用したキットはNATALのバーチ。
実際に大二さんがステージで何度か使っているモノだ。

80

セットを終えて軽くウォーミング・アップ。

120え、大二さんが使っているスネア?
気がついちゃった?
さすがお目が高い!
コレはNATALのStave Snare。
シェルが桶状になっている。
大二さんが叩くとスゴイんだわ!
宇宙の果てまで音が届きそうに抜けまくる!

130大二さんは案外慎重にセッティングをするが、自分の出したい音がシッカリと頭の中にあって、また楽器のツボを心得ているので時間はかからない。
一発でキメちゃう。

110

準備万端。
ヘッドホンをつけてイザ本番!

140スゴイ集中力!
コワいぐらいだ。
レンズを向けている私のことなど全く気にしない。

150ミキサー室でも関ちゃんが大二さんのプレイに集中している。
そう、コレは関ちゃんがアレンジとギターを担当した女性歌手の伴奏のレコーディングなのだ。

160まずは一回録ってみて…

170お~っと、関ディレクターがマイク位置の修正に飛び出してきた~!

180もう一回。

190v大二さんのドラミングはいつ見てもサウンド、フレーズともにこの上なく気持ちがいい。
それだけではなく、曲のコンセプトに合わせて当意即妙にプレイを変えて、音楽に当てハメていくクリエイティビティが何とも素晴らしい。
50年以上の音楽キャリアを誇る「歩くポップ・ミュージック辞典」みたいな人だからね、チョコチョコっとロックを聴いてツーバスを無遠慮に踏みまくる若者とは格も、ケタも、音楽への取り組み方も全く違う。
加えて大二さんのスゴイところは、今の若い人たちのロックもチャンと聴いているということだ。
オマケにいつまでもパワフルなのだからケチのつけようがない。

210カメラを持っていつまでもチャラチャラしていても目障りなだけなので、私は早々に現場を失礼させて頂いた。
大二さん、がんばって~!
  
このstudio AMAZING、今のところまだウェブサイトも広告も展開していない状態だけど一般開放している。
ご興味のある方は下記のアドレスへメールでお問い合わせください。
  
studio AMAZINGへのお問い合わせは⇒studio.amazing46@gmail.com

200さて、スタジオを後にして私はというと、青梅の街に散策へと繰り出した。
マーブロ名物「ワガママ観光ガイド」ね。
せっかく(ウチから)遠いところまで行くんだから、とウェブサイトで下調べをしておいた。
「古い映画の看板がたくさん飾っている街」…そうか、アレって青梅だったのか!と実は楽しみにして来たのよ。
それと、榎本さんからも情報を頂いて、まずは裏手の山の上にあるこの「青梅鉄道公園」に立ち寄った。

220私は鉄道には興味がないので中には入らなかったんだけど、こうして屋外に展示してある機関車などを眺めることができる。
「デゴイチ」ね。
一時期蒸気機関車ブームってのがあったよね。
こんなデカい鉄のカタマリが湯気で動くんだからスゴイよな~。
ちなみに蒸気機関を発明したジョージ・スティーブンソンはイギリスのノーサンバーランドの出身だ。
私がなんでこのノーサンバーランドを知っているのかというと、近くまで行ったことがあるから。
「Northumberland」と綴るんだけど、一発で読めなくて、当時Marshallに勤めていたエンジニアのスティーヴに笑われたので、かえって読み方だけは一発で覚えた。
ノーサンバーランドはニューキャッスルのチョット北に位置するイングランド最北の地域。
脱線。
ニューキャッスルのチョット南にサンダーランドというところがあるんだけど、熱心なロックファンの間ではFreeのライブ・アルバム『Free Live!』がこの街にあったホールとロンドンの南のクロイドンで収録されていることが知られている…かどうかは知らない。
で、2、3日前の東京新聞の夕刊に出ていたのがイギリスの特派員の方の話。
新聞社の海外特派員だから当然「英語の達人」なワケ。
ところがサンダーランドに取材に行って腰を抜かしてしまったという。
ナント、英語がゼンゼンわからなかったんだって。
ナゼかというと、訛りが強いことに加え、単語からしてロンドンなんかで使われている英語と全然違っていたのだそうだ。
津軽弁みたいなもんだね。
私もロンドンで乞食の英語がわからなくてホテルの人に標準英語に通訳してもらったことがあったが、それの比ではないようだ。
二ューキャッスル出身の人は「ジョーディ」と呼ばれていて、やはり訛りが強い英語を話すが、ブッ速いだけで、私にはそれほどキテレツなモノには聞こえなかった。
  
イギリス北部の珍道中はコチラ。
興味のある人はおヒマな時にどうぞ!
【イギリス-ロック名所めぐり vol.6】 サウス・シールズ(South Shields)
【イギリス - ロック名所めぐり vol.13】 Newcastle(ニューキャッスル)はよいところ
Shige Blog】イギリス紀行2012 その10~ニューキャッスル
【Shige Blog】イギリス紀行2012 その12~サウス・シールズ

230E10形式タンク蒸気機関車。

240vクモハ40054系。
私がかなり小さい頃、総武線ってこんなヤツが走っていたような記憶があるな。何しろ茶色だった。
「ク」は運転台つき。
「モ」は中間電動車。
「ハ」は普通車。
「4」は交直流。
「0」は通勤型あるいは近郊型の車両。
…とか意味があるんだよね。
昔の仕事で必要だったことがあって、ホ~ンのチョットだけ勉強したけど、「ム」しか覚えてない。
「ム」は無蓋車のこと。
要するに砂利なんかを積む屋根のついていない車両のことだね。

250山から下りて来て街の駐車場へ。

260おお~、さっそく!
『夕日のガンマン』って原題は『For a Few Dollars More』っていうのか…。
駐車場の係りのオバちゃんがまたヤケクソにいい人で色々と情報を提供してくれた。
何でも八王子から青梅にお嫁に来たというのだが、「青梅の方がゼンゼン好き!」とおっしゃっていた。

270駐車場の前のレコード屋さん。280vこっちは『シェーン』だよ。
西部劇が好きなのかな?
以前にも書いたことがあったけど、アラン・ラッド扮するシェーンって、ジャック・パランスとの決闘に勝って少年に別れを告げて去っていくでしょ?その後どうなったか知ってる?って話。
コレはサミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーの『交渉人』という映画の受け売りなんだけど、馬に乗ったシェーンが最後のシーンでどう見えるか…。
ご自分で確認してみてくだされ。
私は興味があったので、レンタルしてきて確認したわ。
かなりショックを受けたよ。子供の時に観たときと違う結末がそこにあったから。
しかし「詩情をたたえ秀麗とそびえ立つ名作西部劇の最高峰!」なんて固いコピーだな~。
昔はコレでよかった。

290西部劇だけじゃない。
『シェーン』の上は『ベニイ・グッドマン物語』。
「ベニイ」だからね…「犬神サアカス團」みたいだ。
もちろん観てるけど、私は『グレン・ミラー物語』の方が好き。
でも、コレ、そういえばベニー・グッドマンのお相手役を演じたのはドナ・リードなんだよね。
ジューン・アリソンよりドナ・リードの方が断然いいな。
「グッドマン」とは名ばかりで、結構根性が悪い人だったという話を聞いたことがある。
ちなみに、「チャーリー・クリスチャン」っていう名前を聞いたことがあるでしょ?
ジャズにおいては伴奏楽器だったギターをソロ楽器として使用して見せた大イノベーター。
今、メタルの皆さんがピロピロやっていられのも、もしかしたらチャーリー・クリスチャンがいてくれたからかも知れない。
そのチャーリー・クリスチャンはベニー・グッドマン楽団で有名になった。
この1930年あたりのジャズを「スウィング・ジャズ」という。
その後、1940年代に入って別のチャーリーが出現し、ジャズのすべてを変えてしまう。
チャーリー・パーカーが中心となって巻き起こした「ビ・バップ」のムーブメントだ。
ココからのジャズを「モダン・ジャズ」と呼ぶ。
300さて、街に繰り出すぞ~!

310おお~、そこら中にあるわ、あるわ!
また西部劇。

320フリッツ・ラングの『メトロポリス』ね。1927年に作られたSF映画。
コレ、大学の時かな?リバイバルで上映されていたけど観なかったな。
私にはBe Bop Deluxeで十分です。

330
コレのことね。
ライブ・アルバムの『Live! in the Air Age』。
高校の頃、よく聴いたわ~。
Bill Nelsonは結構好きだったが、今聴くとギター歪ませすぎでしょう?

1_bbd 邦画もちょくちょく混ざってる。
名作の誉れ高い小津映画だけど、私は苦手。
コレだったかな~?『晩春』っていうヤツだったかな~?
小津作品レギュラーの笠智衆の恩師が東野英治郎で、婚期を逃したその娘が杉村春子というキャストがすさまじかった。
だってみんな同じ年ぐらいでしょう?
…と思って調べてみると、笠智衆が1904年(明治37年)で年長。恩師ゆえズッと年上であるはずの東野英治郎が何と年下で1907年。
その娘役の杉村春子が1906年という強引な配役。
黒澤明だったら絶対にこういうことをしないだろう。リアリズムが一発で消し飛んでしまうからだ。
確か飛行機の中で他に観るモノがなかったんだよな。
ま、悪くはなかったけど、オコチャマな私には向かんわ。

335vん、コレはウマい!

345 傘屋さんに『雨に唄えば』だもん。
以前、水天宮に一階が傘屋さんで、その二階の喫茶店が「シェルブール」っていうのがあったけど、こういうのはよろしいね。
こないだデビ―・レイノルズがお嬢さんのレーア姫(キャリー・フィッシャー)とほぼ同時に亡くなったのには驚いたね。

340青梅駅。
改装中だった。
ソロソロお腹が空いてきたので、駅前に行けば何か食べ物屋があるだろうと思ったが、モス・バーガーが目に入るだけで目立ったお店はなし。
ココまで来てモスというのも芸がないので他を探すことにした。
ま、通りを歩いていればそのうち何かウマいもの屋に出くわすだろう…とタカをくくってしまったのが大きな間違いだった。

350駅前の八百屋さん。
「八百梅」なんていい名前だね。
ちゃんと「おうめ」って入ってるもん。

355vしかし…あまりにも人がいなさすぎる。
こんな光景を見たのは信州の飯山以来かも知れない。
そして、商店のほとんどがシャッターを下ろしている。
商店街が休みの日なのかな?

360あ、そうか!
ココ東京だったんだ。
あんまりノンビリしているもんだから忘れてた。
都議選の宣伝カーで小池さんの顔を目にして自分が東京都内にいることを実感した。
この森村さんという方は現職を破って当選したんだね。
政治のことには触れないでおくけど。

570そこかしこに出て来る映画の看板!
『百万長者と結婚する方法』ね。
マリリン・モンローにローレン・バコール、それにベティ・グレイブル…スゴイ時代だよな。
まだアメリカが、ハリウッドがヨカッタ時代の映画だ。

370コレは…「油屋」ってぐらいだから燃料屋さんだね。

380油だから『モダン・タイムス』。
コレもウマい!

390v薬屋さんには『Gone with the Wind』。
「風邪と共に去りぬ」…か。

395vコレは「青梅市民会館」。
50年の歴史を持っていたが、過日閉館した。
さっきの駐車場のオバちゃんはこのことを大層寂しがっていた。
今、青梅で最もにぎやかなのは、「まちの駅」という地元の特産物を販売しているお店で、何でもバスで乗り付けて来る団体客もいるとのこと。

396お、『グレン・ミラー物語』が出て来たよ。
またジャズの話で恐縮だけど、時代的に仕方ない。
「Moonlight Serenade」とか「String of Pearl」とか「Tuxedo Junction」とか、音楽好きの人なら世代を問わずグレン・ミラーの曲を聴いたことのない人はいまい。
この映画では飛行機の格納庫で演奏される(と思うのだが…)代表曲のひとつ「Chattanooga Choo Choo」は世界最初のゴールド・ディスクを獲得した。
それほど人気があった。
グレンミラー楽団にはその他にも「In the Mood」とか「Pensilvania 65000」なんていうヒット曲があるんだけど、ブルースなんだよ。
正確に言うと「ブルース形式」。
やっぱり日本とは音楽の環境とか下地が全然違うんだよね。
音楽の消費者の耳が肥えていたんだね。
これまで日本で一般の人までが口ずさむようなブルース形式の曲があっただろうか?
ソバ屋の出前までが歌ったという「Moanin'」がソレっぽいが、ブルースではない。
ちなみに、「Moanin'」を歌いながら出前をしているソバ屋を見たことがある人はいないらしい。
     
私はこの映画を何回観たかわからないけど、すべてのシーンが丁寧に、かつ可愛いらしく作られていてすごく好きなんだな。
特にリード・トランぺッターがリハーサル中にソロを終えてイスに座る時に譜面台に楽器をぶつけて唇を切ってしまうシーンがある。
トランぺッターにとって唇はサックスでいうところのマウスピースと同じ。
したがって唇を切ってしまったら吹くことができない。
主旋律を奏でるリード・トランぺッターが演奏できないとなるとバンドは成り立たない。
ところが公演は明日。
さぁ、どうするグレン!
…と、グレンは部屋にひとり閉じこもって五線紙を前にアレンジをし直す。
このシーンがアホほどカッコいい。
この映画の一番の見どころと言ってもいい。
ピアノで音を確かめながらベース・ラインの四分音符をキレイに五線紙に書きつけていく。
実はコレ、薄~く下書きがしてあって、キレイに書けるようになっているんだけどね。
そうして、仕上がったアレンジというのが、クラリネットが主旋律をオクターブ上で奏でるという手法。
コレを「Killer Diller Sound」といった。
「Killer Diller」というのは当時のスラングで「メッチャかっこいいもの」みたいな意味だったらしい。
こうして、グレンは予てからの「何か自分だけの新しいオリジナル・サウンドを確立したい」という夢をかなえ、大ヒットを飛ばしていく。
ああ、また観たくなってきた。
そのグレン・ミラーも第二次大戦中、戦地の慰問に赴く飛行機に乗ったまま行方不明になってしまった。
しかしですよ、いつも思うのは、日本軍がほぼ餓死状態の白兵戦を強いられている一方、アメリカはジャズのビッグ・バンドが戦地や基地を回って兵隊さんの応援をしていたんだからねェ。
余裕だよ。
最後に…「茶色の小瓶」っていう曲があるでしょう?
この映画でもその愛らしいメロディがラスト・シーンに効果的に使われていて観る者の涙を誘う。
で、この曲は19世紀のアメリカ人音楽家の作品なんだけど、元はアルコール中毒の夫妻の歌なんだって。
知らなかった!
 
『荒野の決闘』の原題は「My Darling Clementine」。
日本では「♪雪よ岩よ 我らが宿り」の「雪山賛歌」でおなじみね。 

400vまた小津に西部劇。

410草履屋さんは『哀愁』に『道』か…。
『哀愁』は後で出て来る。
  
「ザンパノが来たよ!」
ジュリエッタ・マシーナ演じるチョイと足りないジェルソミーナが子供ながらに憐れでね、『道』は小学校の時に観たきりだ。
『禁じられた遊び』とか、ああいう貧乏くさい映画がキライなのよ。
でもザンパノを演じたアンソニー・クインはすごく好きな役者。
『アラビアのロレンス』でハウェイタット族の首長、アウダを演じた時はカッコよかった。
他の部族はラクダなのに颯爽と馬に乗ってね。
戦争に翻弄されるドイツ軍の捕虜を演じた『25時』という戦争映画はすごくヨカッタ。
アレはまた観たいナァ。

420ビットリオ・デ・シーカか…このあたりはチト苦手だな。

430「キスする時は鼻が邪魔にならないのね?」…知ったことか!
『誰のために鐘はなる』ね。
それにしてもハラが減った。
誰かのためにラーメン屋のひとつぐらいあってもいいだろうに。

440『第三の男』は中学の時に岩波ホールに観に行ったっけ。

450イギリス映画かと思っていたらアメリカ映画だった『哀愁』。
『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ、すなわちビビアン・リーはイギリス人で、アメリカの男性は「イギリスにはこんな美人がいるのか!」とブッたまげたという…ということは以前にも書いている。
実は『哀愁』はMarshall Blogでは既に何回か登場している。
というのもこの作品の原題が『The Waterloo Bridge』だから。
テムズ川にかかる大きな橋の名前だ。

460コレがそのWaterloo Bridge。

1_img_0440上から見るとこんな感じ。

6a0163044657d3970d0167692e87da97_2 ま、『哀愁』というより、なんといってもThe Kinksの必殺の名曲「Waterloo Sunset」の方が今やシックリくるか。
「テリーとジュリーは毎週金曜日の夕方にウォータールー駅で落ち合ってデートをしているけど、ボクはめんどくさがり屋だから、テムズ川に沈む美しいウォータールーの夕日を部屋から窓越しに眺めているのがパラダイスなのさ」だとさ。

1_img_0441

中にはかなりアブなそうな看板も混ざっている。
上で紹介している映画の看板は、青梅の街に映画館があった頃、実際にその映画看板を手掛けていた久保板観さんの手によるもの。
1993年に開催された『青梅宿アートフェスティバル』というイベントで約20年ぶりに久保さんが映画看板を制作したのがキッカケとなったのだそうだ。
以来、街興しの一環として久保さんの描く映画看板で町を飾り続けている。
制作には明星大学造形芸術学部の学生も商店街とのコラボで看板づくりに参加しているのだそうだ。
経費も莫大なものになるのであろう、それぞれがかなり汚れてしまっているのだけはチョット残念に思った。

470vバスの停留所には当然『バス停留所』!

480v中はネコだらけ。

490青梅は「ネコの町」でもあったんだね。
でも小津。

500気が付くとそこらじゅうネコが主役の映画の看板がかかってる!
さっき紹介した『シェーン』のコピーが『ニャーン』では「猫をたたえる名作最高峰」になってる。
そういえばネコが主役の映画ってあるかな?
『ハリーとトント』ぐらい?
アレはいい作品だったね。

510v私が子供の頃に飼っていたネコは時々どこからか芋虫を持って帰って来て、それを見つけた母がいつも飛び上がっていたな。
ちなみに私はニョディー・フォスターと生年が一緒で誕生日が一日違いなのよ。

520まぁ、『ニャジラ』は出やすいだろうな。

530こんな電話ボックスとオブジェも。
その向こうは『怪猫二十面相』と『第三の猫』。

535vこんなのもあったよ。
カレーライスを食べているのか…マジでハラ減ったな~。
朝かなり早い時間に高速のPAで食べたきりだもんね。
タマがうらやましい。
でも、見事に食べ物屋がないんだよな~。

540看板の方はもう何でもアリだ。
『Bone with the Cat』だって。
どういうことなんだろう?

550v『用心棒』は『用心猫』にすればよかったのに…。
ちゃんとピストルを持った卯之助猫まで描かれているのがうれしいね。
「空腹はつらいよ」!

560しかし、このネコづくし、東京の東では谷中が有名だけど、押しは青梅の方が断然強いね。
私はネコにナンの興味もないんだけど、facebookなんかを見ているとネコ人気の高いことよ。
皆さんがよろこぶかな?と思って並べてみた。

575青梅にはまだフィーチュアしているモノがあるよ。
それは「昭和」。
アッコちゃんが案内してくれる。
『ひみつのアッコちゃん』で思い出すのはウチの家内。
アレ?コレ以前に書いたかな?
小学校低学年の時の図工の授業で、「母の日にちなんでお母さんの絵を描きましょう」というお題が先生から出された。
すると、ある友達が実に巧みにアッコちゃんの絵を描いた。
ウチの家内は素直なもんだから、その子のお母さんが本当にアッコちゃんみたいにカワイくて、すごくうらやましく思ったらしい。
そんなバカな…。
先生はそれを見てその友達に「ウソを書いてはイケません!」と叱ったという。
ところが、その子はガンとして描き直さなかった。
後日、ウチの家内がその子の家に遊びに行った時、とうとうそのお母さんと対面した。
そこで家内は腰を抜かして驚いた。
ナ、ナント、その友達のお母さんは本当にアッコちゃんソックリだったというのだ!
テレビなどでアッコちゃんが出て来るとウチでは必ずこの話になる。
家内もよっぽどビックリしたのだろう。
ラミパス、ラミパス、ルルルルル。

580世間ではやたらと「昭和の香り」だとか「昭和の雰囲気」とかいう表現を使うけど、一体どういうのが「昭和」なんだ?と私なんかは不思議に思うワケよ。
元号が変わればすぐに文化が変わるワケないんだからさ。
「古臭い」のが「昭和」なのか?
でも、コレを見ると…失敬ながら「昭和の香り」がするわ~。
典型的な金物屋さんのルックスだね。
今はみんなホームセンターへ行っちゃうんだろうけど、昔はこういう金物屋とか荒物屋っていうのが大抵街にあった。

590「染物と洗張」のお店。
コレは昭和だわ。
「洗い張り」って知ってる?
昔、多くの人が普通に着物を着ていた時代の着物の洗濯方法ね。
着物をいったんほどいて、水洗いをし、針の付いた竹ひごや張り板にピンと張り、糊付けしてシワを伸ばしながら乾かしていく方法がそれ…って、私は知りませんでした!
着物ってスゴイよね。
昔の人の知恵や昔のモノっていうのは本当によくできている。
ムダがないんだよ。
冒頭の梅干しだってそうだったでしょ?
600v昔はポストはみんなコレだった。

610vこういう路地はいいね。
「障子紙、千代紙 その他 和紙各種取り揃えています」
千代紙なんて今使う子供いるのかな?

615vこの路地なんか未舗装だよ!
昔はこんなの全く珍しくなかった。
突き当りは蔵だね。
蔵は東京の真ん中にはほとんど残っていない。
誰かさんが焼夷弾を落として全部燃やしちゃった。

630vね、歩いていると時折こうして蔵を見つけるのよ。

640
この二階のデザインはステキだナァ。
でも、いくらステキでもハラの足しにならんわ。
ハラ減った~。
下はカフェなんだけど、もうそんなんじゃガマンできません。
ガッツリ何かを食べないと!

620vこの手の建物がたくさん並んでいる。
千葉の佐原や栃木市の街並みにはかなわないけど、かなり古い建物が残っていてうれしいにゃ~。

650この家なんかスゴイよ。

660文化庁が認めるところの国の有形文化財だもの。
  
さっきの話、「昭和」と「平成」を区別するとしたら、インターネットと携帯電話が「なかった時代」と「ある時代」ということじゃないかな…なんて最近思うんだよね。
もちろん、この違いには利便性やら犯罪やら、色んなものが絡んでくる。
私はそうした機器の出現によってヘンテコな犯罪が増えるよりも、少しぐらい不便だって平和な方がいいいいと思うんだけどね。
だって、元々は携帯電話なんかなくたって何ひとつ困ることはなかったんだから!
でもMarshall Blogはできなかったね。
そうした場合、私は今ナニをやっていたのだろうか?

670こういうのがすごく好きでしてね~、見ていて全く飽きないんだけど、もうハラ減ってガマンできん!
時計を見るともう三時じゃねーか!
誰か助けてくれ~!

680…と苦しんでいたら、お~!「かつ」の文字が目に飛び込んで来た!
やった、天の助けだ。
トンカツだ、トンカツだ、トンカツだ!
ナニ食べようかな~。ヒレか、ロースか、ミックスか!
もうこうなりゃいくらでも払う。
エビフライも付けちゃおうかな~。タルタルソースはかけないようにしてもらわないとイカンぞ。
嗚呼、ここまでガマンした甲斐があった。
ごはんとキャベツがおかわり無料だといいな~。
食うぞ~!

690…と思ったら…。
オイオイオイオイオイオイオイ、「がまかつ」って…。
「釣り針」じゃねーか!
オレは魚じゃね~ッ!
ガックシ。
こうなりゃ「四六のガマ」のカツでもいいんだけど…。

700やれやれ、「青菜に塩」状態でどうしようかと思ってトボトボ歩いていたら、途中に鶏肉屋みたいな店があったのを思い出して行ってみた。
「シカゴチキン」か…そういえば、studio AMAZINGに来ていた人がウマい鶏を食わす店がある…とおっしゃっていたな。
でも、あまりに小さい店なのでよく見落として通り過ぎてしまう…とか。
…ということを思い出した。
チョットのぞき込んでみると、鶏のモモの素揚げみたいのが数本陳列ケースに入っていた。
もう大分前に揚げたモノなんだろう。
きっと冷たくてカチンカチンに違いない。
しかし、こっちはもう本当にお腹と背中がくっつきそうな程のハラの減りようだ。
この先いくら歩いてもナニもないのはわかっている。
そこで、思い切ってそのモモを食べることにした。
薄暗い店内に向かって「このモモ1本くださ~い」と声をかけると、恐ろしく元気のないおジイさんが出て来た。
大病をされたのだろうか…食べた後のモモ肉の骨のように痩せきっている。
ありがとうございます」…と言ったのだろうか?…500円玉を一枚渡してモモ肉と引き換えた際、あまりの小声で聞き取れなかった。

710v白い紙袋に入ったモモを受け取ると、コレが意外にあたたかい…どころか熱い。
予想に反して、ナント揚げたてだったのだ。
要するにモモ肉のから揚げだ。
さっそくかぶり付いてみると…コレが本当に気を失いそうになるぐらいウマかったのだ!
塩が効いていて香ばしく揚った肉はこの上なくジューシーで、通行人の目も気にせず、道端でむさぼるようにして食べてしまった。
イヤ~、おいしかった。
極度な空腹であったことを差し引いても、もしかしたら今年食べたモノの中で一番おいしかったかもしれない。
困ったのは食べた後の骨。
あたりにゴミ箱がないのだ。
次に入る博物館に骨をそのまま持って行って「捨ててください」とお願いしたら、「鶏肉屋に返して来い」と言う。
その指示にしたがって鶏肉屋に引き返し、さっきのおじいさんに骨の処分をお願いしたら快く引き取ってくれた。
「そうだ!」と思って、あまりにもウマかったモモ肉のお礼をそのおじいさんに向かって言った。
「オジさん、メチャクチャおいしかったよ!ありがとう!」
おじいさんは少しだけほほ笑んで何かを口にしたが、その言葉は小声すぎてやはり聞き取れなかった。
コレならまた食べに来てもいいな…と思ったほどだったのだが、店先に近々閉店する旨の張り紙がしてあった。
もったいない。
シカゴチキンのおジイさん、お疲れさまでした!

720骨の処分を断られたのがこの博物館。
立派な土蔵造りのこの建物は元は医院だったらしい。

730平成15年秋にオープンした赤塚不二夫の記念館。
赤塚不二夫自身や親戚は青梅に縁はない。
赤塚さんは新潟で過ごした青春時代に映画館看板の仕事をしていたことがあって、その符合を得てココに開館させたそうだ。

740私の世代は、「おそ松くん」にはチョット早いんだけど、「バカボン」、「ア太郎」、「アッコちゃん」はドンズバ。
「バカボン」は少年マガジンで、残りのふたつはテレビで見ていた。

760館内は一階に作品にまつわるディスプレイがセットされている。

770「レレレのおじさん」の声をテレビで初めて聞いた時って感動しなかった?
ホントにあんな声だったのかな?

780v展示を見ていると、『もーれつア太郎』関連の展示が思いのほか多いことに気付く。
ニャロメとかココロのボスとか脇役がシッカリしてたからね。

790「イヤミ」なんて実にいい名前だね。
そうそう、名作ってのはまず登場人物の名前がいいんだよ。
「シェー!!」はゴジラもやってたもんな。

800v中学の時かな?
約40年前、東京12チャンネルの「モンティ・パイソン」の余りの時間にタモリが出て来た時は驚いた。
こんなのあんの~?みたいな。
タモリが赤塚不二夫の家に居候していた話は有名だ。

810このア太郎のソノシート持ってたよ!
なつかしいな~。
このテーマソング、作曲がいずみたくで、父が感心していたのを覚えている。

820二階はときわ荘の再現や原画が豊富に展示されている。
原画は撮影禁止。
どれもスゴクきれいなのには驚いた。
赤塚不二夫のマンガって、背景が真っ白なコマがやたら多いんだよね。アレは背景を書くのが面倒だったのかな?
私はそうは夢中になったことはないが、スゴク尊敬している。
手塚治虫をビートルズに例えるなら、赤塚不二夫はジミ・ヘンドリックスだと思っている。
そのココロは「誰もやらないことをやった」というオリジナリティへの畏敬の念だ。
今、アニメも音楽も赤塚不二夫ほどにクリエイティブなスタイルを作り上げる人はいまい。

830青梅赤塚不二夫会館のとなりが…

840『昭和レトロ商品博物館』だ。
文字通り昭和に活躍した様々な商品が陳列されている…というんだけど、チョットこわかった。
だって、こちとら昭和の中頃の生まれだからして、そうした人様からは「レトロ」と扱われているアイテムが全然当たり前のモノに感じられるかも知れないじゃん?
それでも忘れていたものがたくさんあって面白かった。

850ハッハ~!
「こうだった、こうだった!」というようなモノがズラリ。

860目に留まったのがコレ。
「昆虫採集セット」ってのはいくつも買ったな~。
考えてみれば残酷な話で、コレのおかげで犠牲になったセミはかなりの数に上るぞ。
この赤だの青だのの怪しい液体。「防腐剤」とかなんとか言ってたけど、一体何が入っていたんだろうか?
そういえば、コウモリって東京では全く見なくなったね。
昔は夕方になるとチラチラと空を飛んでいたんだけどね。
  
それとこの定規のセット!
新しいデザインの入れ物で発売されると毎回欲しくなっちゃってサ。
私はだらしないもんで、分度器とか三角定規とかたいてい何かを失くしてしまって、「セット」になっている期間はいつも短かった。
そういえば、分度器なんてもう何年も使ってないな。

880鉛筆削りなんてものがこの世にあることを忘れていたよ。
このチェックライターも見なくなったね~。

870コレは輸入薬品か。
デザインがカッコいい。

890「ポン」ね、ポン。
若い人は信じられないだろうけど、我々はこの牛乳のフタでずいぶん遊んだよ。
どうやって遊ぶのかというと、自分のポンと相手のポンを二枚重ねて、ヒックリ返した手の人差し指の爪でポンの端を上から押し込むようにしてはじく。
うまくやればポンがひっくり返る。
これを相手と交互に繰り返す。
二枚目をひっくり返した選手は手のひらを広げてその二枚のポンにタッチする。
タッチできれば勝ちで、相手のポンをゲットすることができる。
タッチできなければまた最初から始める。
みんなそれぞれ簡単にはヒックリ返されない強いポンを持っていて、負けが続くとソイツを出して来て勝負をかける。
要するに、フタの端が反り返っていなければなかなかヒックリ返らないワケ。
…ってんで、「修行」とか言って、フタの端を踏んづけてペッチャンコにしたりしてね。
ナンでこんなコトがおもしろかったんだろうな。
でも少なくとも「何とかDS」や携帯電話よりは健康的で経済的だ。
今になって考えてみると、コレってもしかしたら乳製品会社の販売促進策だったんじゃないのかね?
「ドンドン牛乳を飲んでフタを集めましょう」みたいな。
今、ポンどころか牛乳ビン自体見かけないもんね。

900今私にとっての「ポン」はもっぱらこちらのお方!

910vゴミ箱。
こんなものが懐かしく思えるようになるとはナァ。
小さいね。
使い捨ての現在、これじゃ小さくてとても間に合うまい。

920ウワ~!
コレ、大キライだった!
「吸入器」っていうんだっけ?
風邪を引くとコレをやらされてね~。
何やらクスリを温めて蒸気にして、それを吸ってノドに送り込む。
それほどやった記憶はないんだけど、ナゼかその薬の味は覚えてるぞ。
クスリを飲み込むワケでなし、ズッと口をあけっぱなしにしているもんだからビチャビチャになっちゃってね。
アレ、果たして効果のほどはどうだったかな?
でも何となく真空管に共通項を見出せる感じの前時代的なデザインがカッコいいな。

930少し離れたところにあるのが『昭和幻燈館』。
「幻燈」なんて死語だよね。
『青梅赤塚不二夫会館』、『昭和レトロ商品博物館』とこの『昭和幻燈館』、それぞれ入館料を取るんだけど、3館共通券というのがあって、800円で全部回れるようになってる。

940ホラここにもネコ。

950ココは「レトロ」の別館で2015年に展示を新しくして生まれ変わったのだそうだ。
入って右側に展示しているのが青梅の街のジオラマ。
コレは駅前の夜景。

960コレはネコの街だけど、昔はこんな雰囲気だったのかしらん?

970昔の映画館って立派だったんだよね。
アールデコ調の建物が多く、ロンドンなんかは今でも営業している映画館があるよ。
浅草はもう何もなくなっちゃった。

980その他、「Q工房」という墨絵画家の有田ひろみさんとぬいぐるみ製作家のちゃぼさんの作品が展示されている。

990モチーフはネコ。
愛猫家にはタマらないんじゃないの?ネコだけに。

1000イヤ~、結構歩いたな。
ま、結果おいしいものも食べたし、久しぶりに激古い映画も思い出したし、充実の一日だった。
駐車場に戻って来ると、さっきとは違う年配の女性が係りをしていて、また少し話し込んだ。
昔は青梅もにぎやかだった…なんて話から、「この先を左に曲がった路地には映画館が三軒もあったんですよ」と聞いて驚いた。
そこを通りかかった時にそれっぽい雰囲気が全くなかったので、ワザワザ見に行ってみた。
それが下の写真。
信じられん!
でも、私が小さい頃はそこらの商店街の中に平気で映画館があったもんですよ。
駅前のデパートの中に映画館が三つも入っていたりとかね。

1010そして、最初に戻って…大二さんのドラム。
やっぱり好きだ~。
三日前にクレイジーケンバンドの小野瀬さんと四人囃子の曲だけを演奏するライブに行ってきたけど、最高だった。
やっぱり、大二さんは四人囃子の曲を演奏している時が一番楽しそうだな。
そのドラミングは本当に歌を歌っているようなのだ。
私もずいぶんたくさんのドラマーを見て来たけど、こんなに音楽を感じさせるドラマーって他にいないと思うんだよね。
若いドラマーはゼヒ参考にして欲しいと思うよ。
あ、ドラムはNATALね。
  
ところで今日の記事、期せずしてMarshall Blog史上最多の写真掲載数となった。

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1965年創業のNATAL(ナタール)はMarshallのドラム・ブランドです。

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★NATALの詳しい情報はコチラ⇒NATAL Drums Official Web Site(英語版)
★NATAL製品は全国有名楽器店にてお求めください。
★NATALドラムは高田馬場バズーカスタジオでお試しになれます。バーチ、メイプル、そしてアッシュのキットの他、各種スネアドラムも用意しています。ドラマーの方、「NATALの部屋」ご指名でお出かけください。
詳しくはコチラ⇒バズーカスタジオ公式ウェブサイト

  
(一部敬称略 2017年6月20日 青梅にて撮影)



2017年5月31日 (水)

CROSSWINDの未発表ライブ音源とLo-Dプラザの思い出

よくMarshall Blogに書いていることだが、「虫の知らせ」的な現象がやたらと身の回りで起こる。
別段困ることは何もないのだが、あんまり手の込んだヤツになるとさすがにうす気味悪くなる。
コレがラッキーな知らせだったら大いにありがたいのだが、そういうのはほとんどやって来ないね。
何かがキッカケで普段はまったく興味がない宝くじを買ったら大当たりしちゃった!…「ああ、アレは虫の知らせだったんだね~」みたいなヤツ。
来いよ、虫!
寄ってくるのはハエか蚊ばっかりじゃんか!
イヤ、知らず知らずのウチに「ラッキー虫の知らせ」も受けているのかも知れなくて、それに気が付いていないだけなのかもしれない。
また、人間はどちらかというとアンラッキーな事象に「虫の知らせ」を当てはめたがる習性があるのかも知れない。
今日の話はラッキーな部類に入るだろう。
それはこういうことだ。
私はよくジャズのピアノ・トリオを聴くのだが、好きなピアニストのひとりにKenny Barronという人がいる。
先日中古CD屋で目に留まったBilly Cobhamがリーダー名義のピアノ・トリオ盤『The Art of Three』に参加しているピアニストがKenny Barronだったので早速買ってみた。ベースはRon Carter。
コレが存外によくて、時々CD棚から引っ張り出しては聴いている。
で、数日前もこのCDを聴いていたのだが、その日は何となくBilly Conhamのドラミングがすごく気になった。
バックをやっている時は、何とも言えない硬質なスウィング感がとても気持ち良いのだが、ひとたびソロになると、やかましいというか、落ち着かないというか、場所違いというか、「コブさん、今演ってんのマハビシュヌではありませんよ!」と横から耳打ちしたくなるような感じ?
ま、それもこの人ならではのスタイルなんだけどね。
そこから、ますます気になり出して他のBilly CobhamのCDに乗り換えた。  

A3_2耳タコの「Stratus」を聴くのが辛いので、ファースト・ソロ・アルバムであるところの『Spectrum』は今回敬遠させていただいて、メッチャ久しぶりに2枚目のソロ・アルバムなんぞを聴いてみた。普段はまず聴くことのないアルバムだ。
その翌日のことだった。
ある友人から連絡があり、故小川銀次さんのバンド、CROSSWINDの未発表音源をクラウドファウンディングで制作することになったというのだ。
チョット、ビックリでしょ!
なぜなら、Billy Cobhamの2枚目のソロアルバムのタイトルが『Crosswinds』だからだ。

Cw2その新譜の音源というのは、かつて有楽町にあったLo-Dプラザでのライブ演奏を収録したものだ。
Lo-Dプラザは過去何回かMarshall Blogに登場しているので、熱心なマーブロ読者(そんなのいるのか?ありがたいことにいるんです!)は実際に行ったことはないにしても、名前を耳にしたことがあるかも知れない。
今日はそのLo-Dプラザのお話から。
チっ!こんなことになるなら今までチビチビ書くんじゃなかったよ…ということで、もう一回ちゃんとおさらいしておこう。
なんとならば、その連絡をくれた友人というのは、このLo-Dプラザでエンジニアをされていた方なのだ。
  
何か月か前に「ポタフェス」というポータブル・オーディオの展示会のレポートを掲載したでしょ?
なんとマァ、音楽やギター・アンプだけでなく、オーディオ機器のスタイルもデジタル・テクノロジーの革命を経て、すっかり変わり果ててしまったことに私は驚いてしまったワケだけど、40年ぐらい前は音楽を聴く時はチャンとしたオーディオ装置、いわゆる「ステレオ」で鑑賞するのが普通だった。
それがウォークマンの登場以来、アレよアレよと小型化が進んで、今では何もかも「こんなに小っちゃくなっちゃった!」状態になってしまったのはある意味残念なことだと思っている。
私も初代のウォークマンを手に入れて以来、40年近くの間その手のポータブル・オーディオの恩恵を受けているので、決して悪く言うつもりはないのだが、せめて家で音楽を聴く時は大きなスピーカーを鳴らす正式な再生装置を使うべきだと思っている。
時代が変わったといえばそれまでなのだが、昔はオーディオ機器もひとつのステイタスだったんだろうね。居間にステレオがあるのが当たり前の時代。だから50年ぐらい前のステレオは家具調だった。
こんなヤツ。
この電話器!ウチもコレだった。
でも、何もステレオの上に電話器を置くことはないと思うのだが…。
ウチは違ったけど、昔は玄関に電話器が設置してあった家をよく見かけた。アレはどういう理由からだったんだろう?

Cst そういう時代だったので、各家電メーカーがそれぞれ独自のオーディオ機器ブランドを持っていた。
コレも以前にも書いたけどね。忘れていませんよ。
三菱はダイアトーン(スリー・ダイヤだからね。岩崎弥太郎のステレオだ)
松下はテクニクス(当時は「松下電工」だった。雷門の提灯をありがとう!)
東芝はオーレックス(東芝にもそんな時代があった。毎年武道館でジャズ・フェスまでやってたんだから!)
サンヨーはオットー(親亀コケすぎ。三洋電気もろともなくなってしまった)
シャープはオプトニカ(ココも目の付けどころがちょっとマズかったか?)
…ってな具合。
DENONは「デンオン」と読んだし、KENWOODはTRIOという名前だった。
TRIOなんてレコードもやっていて、一時ECMを配給していたもんだから私が持っている『Travels』ぐらいまでのPat Methenyの初期のLPは全部トリオ・レコード製よ。
そして、日立。
日立のオーディオ機器ブランドは「Lo-D(ローディ)」という名前だった。
すごいよね、発電所のタービンやジェネレーターやエキサイターを作るメーカーがステレオのブランドを持っていたんだから。
こうした高速回転する重量のある発電機器を設置する時には「グラウト材」という特殊なセメントを使うんだ。
どうする?「セメント」で脱線する?それとも「発電所」?いくらでもできるよ。
でも、今日はやめておこう。
さて、Lo-D。
名前の由来は「Low Distortion」なのだそう。
ASTORIA CLASSICみたいなもんだね。ASTORIA CUSTOMは当たらない。
それで、各メーカーはそうしたオーディオ機器のデモンストレーションをするために、大都市にショウ・ルームを展開したんだね。
SONYビルなんてのはそれの親玉みたいなもんだ。
で、日立は有楽町のフードセンター(現銀座インズ)という高速道路の高架下に「Lo-Dプラザ」というショウルームを設置したというワケ。
コレがいつ始まったのかはわからないんだけど、クラスメイトの安藤君に教わって私が初めて行ったのは1976年ぐらいのことだったと思う。
私は最初映画キチガイだったので、有楽町にはなじみがあり、とても行きやすかったのだ。
ずいぶん通ったよ。
当時は土曜日にも学校があったので、日曜日になると毎週有楽町に足を向けた。
ナゼかというと、Lo-Dプラザには、オーディオ機器の視聴用に無料で聴けるレコードがたくさんあったからなのだ。
当時はLPレコードが一枚2,500円。
2,500円といえば子供にとっては大金だ。
大人になった今でも大金なのが情けなくもあり、不思議でもあり…。
当然YouTubeなんてあるワケがないので、今みたいに聴きたい音楽を無料で聴くなんてことは一切できなかった。
「もっと色んなレコードを聴きたい!」という欲望はもちろん激烈に強かったが、「不便」だと思ったことは一度もなかったし、音楽はお金を出して手に入れることに何の違和感もなかった。今でもそれが当り前だと思っている。
時代はまだCDが一般化するより十年も前の話で、「レンタル・レコード」なんていうのが登場するのはそれから四年ぐらい後のことだ。
だから、Lo-Dプラザに行って、レコードをそこで借りて、まったく買う気のないオーディオ機器を試すふりをして、次に買うべきレコードの下調べやロックの勉強をしたワケだ。
今にしてみると、何に興味を持って聴きに行っていたのかはほとんど覚えていないのだが、一枚だけハッキリと記憶しているのはサディスティック・ミカ・バンドの『ライブ・イン・ロンドン』だったが、何回か貸してもらって聴いたものの結局LPは買わずじまいだったな。
そうやって買った一枚のLPを大事に大事に何回も聴いたものだった。
不幸にして買ったLPが気に食わない内容だったとしても、ひたすら聴き込んで強引にお気に入りにした。
Cld
Lo-Dプラザにはスピーカーから盛大に音を出して聴く小部屋があって、日曜日はいつも満室で順番待ちだった。
一方、ヘッドホンを使って聴く装置が何台も並んでいて、私はいつもこっちだった。
他にもラジカセ等の小型オーディオ機器をディスプレイするコーナーや高級オーディオを体験するリスニング・ルームがあったのを覚えている。
…と、こんな説明をするより、その友人から写真をお借しりて、ココでお見せすればどんな様子だったかが一目瞭然なのだが、奇妙なことに写真がまったく残っていないらしいのだ。
今ならチョチョイとスマホで撮って残しておくところだろうが、昔は写真一枚撮るにしても、カメラを持って行って、撮影して、写真屋にフィルムを持って行って現像してもらわねばならなかったのだから大事だ。だからそう簡単に写真に残しておくなんてことなどできなかったんだね。
  
チョット脱線になるが、このLo-Dプラザの奥に「モーニング・サン」という輸入&中古レコード屋があった。
今はもう見る影もないが、昔は数寄屋橋の西銀座デパートとSONYビルの地下にハンターがあって、レコード好きにとっては有楽町も捨てたモノではなかった。
数寄屋橋のハンターは私が学校を出て就職した頃でもまだ残っていたな…と言っても1985~1986年ぐらいの話だからもう30年も経ってるか。
下の写真は数寄屋橋のハンターがあった場所。
私は14歳か15歳の時にココで生まれて初めて中古レコードというものを買った。ELPの『Tarkus』だった。
昔はこんなにきれいな内装ではなかった。

C2img_2499 ハンターは規模を拡大し、上の写真から50mほど離れた場所にもう一軒店を構えた。
そこで手に入れたのが下のTony Williams Lifetimeの『Energency!』。
大学の頃、どうしてもコレが手に入らなくてネェ。聴きたくて、聴きたくて…まんじりともしない日々を送っていた。
それがある日、その新しい方のハンターで発見したのだ。
まだカウンターの中にあって、値札も付いていない状態だったのだが、頼み込んで何とか売ってもらった。
当時は万単位のプレミアが付いていたやに聞いていたが、1,400円だった。
「へへへ、コレだから中古レコードはやめられまへんナァ」とか何とか言いながら家に持ち帰ったのではなかろうか?
で、聴いてガックシ。期待しずぎちゃったんだね。
今ではCDで簡単に手に入るが、コレはまだCDが世に現れる前の話。

C0r4a5836 まだ脱線中ね。
さて、そのLo-Dプラザの奥にあった「モーニング・サン」というレコード屋、いつまで営業していたんだろうか?
気が付いてみるとなくなっていて、洋品店になったのかな?
それでも二枚ほどその店でレコードを買ったことがあった。
一枚はコレ。
King Crimsonの『Earthbound』。
やっぱり15、16歳の時だった。
コレも以前に書いたことがあったが、当時このアルバムは音質が劣悪ということで国内盤が制作されておらず、聴くためには輸入盤を手に入れるしかなかった。
どうしても聴きたくて、Lo-Dプラザに行ったついでに、多分このお店で探したんだろうね。
店員さんが「ボク、何を探してるの?」…ま、本当に「ボク」と呼ばれたのかどうかは定かではないんだけど、とにかく店員さんに話しかけられて、「あ、キング・クリムゾンの『アースバウンド』です」と答えると、「あ~、今ないな~。イギリスから取り寄せてあげるよ!」と言うではないの。
「イ、イギリスから!?」とかなりビビった。
だって、コストがどれだけかかるかわからないじゃない?…と心配していたら「値段は普通のレコードと同じ」だというのでお願いすることにした。
すると今度は「やっぱりIsland盤がいいんでしょ?」と来た。
「あ、あいらんどぉ?」
こっちはロックを聴き始めて数年の15、16歳の子供だ。何のことかサッパリわからなかったが、「ええ、マァ…」と答えておいた。
そして、数か月後に「入荷した」という連絡を受けて手に入れたのが下のIsland盤の『Earthbound』。
2,000円だった。消費税などない時代のお話し。
Cimg_0096

もう一枚はKevin Ayers他の『JUNE1,1974』。
コレも聴きたかったのだが、当時国内盤は廃盤になっていてどうにも手に入らなかった。
それで、もう勝手がわかっていたので、コレは「モーニング・サン」にこちらからお願いしたような記憶がある。
私はこのアルバムでPeter Ollie Halsallという素晴らしいギタリストを知った。やはり15、16歳の頃。
世間的には決して貴重品というワケではあるまいがそれぞれ青春の思い出のアイテムとして今でも大切に保管してある。
私の青春はロックだったから。

Cimg_0097

話をLo-Dプラザに戻す。
そのオーディオ機器ブランドの戦国時代、Lo-Dプラザが他のブランドのショウルームと大きく異なっていたのは、今でいう「ライブ・スペース」があって、歌謡曲からロックまで広範囲なジャンルにわたるアーティストが頻繁に出演していたことだろう。
当時私は国内のアーティストにほとんど興味がなかったので、満員になっているそのスペースを横目に見て、「ああ、また今日も誰か出ているのか…」程度のものだった。
それよりも自分の聴きたいレコードの方が優先だった。
当時はこんなプログラムを発行していたそうなのだが、見事に記憶がない。
「ヤングと音楽のふれあう広場」だもんね。
「ヤング」か…。
名実ともに「ヤング」もずいぶん遠くなったもんだ。
人間、ヤングよりオールドの時期の方がはるかに長いということを知るのは、オールドになってからなんだよな~。
右は1981年8月の発行。表紙の人…有名な方なのかな?こんな二重アゴの写真、今なら絶対NGでしょう。ノンビリしてたナァ。
左の人が肩からブラ下げているのは日立製のウォークマンか?
ヤケにデカいな。
あ!今気が付いた!
このお姉さんが右手をかけている白い複数の板!
このケースにレコード・ジャケットが入っていたの。
コレをめくっていって気に入ったレコードを探す。ケースには番号が付いていて、その番号を受け付けのお姉さんに伝えると当該のレコードを出して来てくれる…というシステムだった。
Cpg
さらにLo-Dプラザがスゴかったのは、抽選で当たった10人のお客さんに16チャンネルのミキサーが設置された客席に座ってもらい、目の前の生の演奏をマルチで録音させていたのだ。(ミキサーを8チャンネルで使う時は20名)
録音媒体はカセット・テープ。
当然、そこで売っている日立Maxellのモノを使用する。
私は高校の時にコレを二度ほどやらせて頂いた。
ひとつはPANTA&HAL。
実はこの時は生の演奏ではなくて、卓に8チャンネル分の音源が送られてきて、それをミキシングして、その場で2チャンネルにトラックダウンするというものだった。
正確な演奏日時はわからないが、まだ『マラッカ』をリリースする前だったのだろうか?「マラッカ」の歌詞がレコードとは異なっている。
まだ今さんがHALにいた頃で、卒倒もののすさまじいギター・ソロを聴かせてくれている。
特に「マーラーズ・パーラー」のオブリガードは人間ワザとは思えないほどの出来で、ずいぶんコピーさせて頂いた。
もう一回はBAD SCENEだった。
この時は本当の生の演奏で、3曲演奏した後、BAD SCENEに銀次さんがジョインして更に3曲を演奏した。
どの曲も銀次さんらしいプレイにあふれていて、とりわけ「Rising Dream」のソロはあまりにも素晴らしい。Maj7thのアルペジオがクロマチックで上がっていくアイデアがカッコよくてね、コレも高校の時にコピーさせて頂いた。
下がその時のカセット・テープ。
アレ?富士フィルムのテープだね。
ったく、エチケットを知らねーな、若いヤツは!って、私ですわ。
とにかく大切な宝物のひとつ。
しかし不思議なのは、実施日が異なるのにどうして同じテープに音源が収まっているんだろう?
二回分を考慮して初めから90分テープを用意していたワケはないので、「PANTA&HALのテープにまだ空きがあったな…」とワザワザ家から持って行ったのだろうか?
あの頃はカセット・テープだってそう安くはなかったからね。

50

これでLo-Dプラザがわかった。
そして、今回のCROSSWINDの未発表音源は、1981年9月13日、1982年1月30日と5月15日にLo-Dプラザに出演した時のモノが収録されているのだそうだ。
私の友人がその音源を蔵出しし、ナント35年ぶりに陽の目を見ることになる。
下はLo-Dプラザのステージで演奏するCROSSWIND。
こんなだったかな~。もっと広い感じがしたんだけど。
そうそう、各ミキサー卓に「録音中」っていうサインがついていたな。

Ccw4 下の写真は渋谷の屋根裏ね。
しかし、こうしてみると屋根裏もいい加減小さかったな~。
でも、そんな感じはまったくしなかった。
私は高校二年の時にこのステージで銀次さんを観たことがあった。
RCサクセションで活動していた時のことだ。
大ブレイク寸前で、当時屋根裏でもっとも集客力の大きい二大バンドのウチのひとつだっただけに息もできないほどの超満員だった。
もうひとつの人気バンドはPANTA& HALだった。

Yu_2

持っているクラスメイトにカセットに録音してもらってよく聴いていたので、私はCROSSWINDのレコードはとうとう買わずじまいだった。
銀次さんのギターが殺人的にカッコよくてね~。
2001年の『マーシャル祭り2』にご出演頂いたのも、その時分のあこがれ感によるものだった。
結局大分後になってCDを買い込んだ。
「フュージョン」と形容するにはあまりにもハードなサウンで、当時の日本のロック・シーンでは他に類を見ないバンドだった。
日本人ばなれしていてジャケットもいいよね。真ん中のセカンド・アルバムなんてまるでフランスのAngeのアルバム・ジャケットのようだ。

60そして、今回のアルバムは今はやりのクラウド・ファンディングでの制作となる。
クラウドファンディングっていうのも私のような古い人間から見るとナンカ違和感のカタマリなんだよね~。
この手法について深い知識を持ち合わせているワケではないので大言は控えるべきだが、要するに「カンパ」っていうことなんでしょ?
私なんかが思うには、本当にいい音楽なら、やっぱりレコード会社が率先して作るべきだと思うんですよ。
そんなにね、誰も彼もが音楽をやったって、いいモノができる可能性なんか万にひとつもありゃせんって。
コレね、音楽だけじゃなくて、今の世の中何でも同じで、食べ物なんかもそうなんだけど、いいモノを教えないからドンドンおかしなモノばかりになってるんだよ。
それで、そのおかしなものばかりの中でラクして商売をしようとするから、ますます状況が悪くなっているんだと思う。
音楽に関して言うと、傍で見ていて今の若い人は本当に憐れだと思いますよ。
いい音楽を厳選して、レコード会社がコッテリと金をかけていいモノを作るだよ。
とにかくミュージシャンがタオルやシャツやチェキを売らなければ生活できないような状況を打破してやらないと!
「ミュージシャン」という職業は自分たちだけのいい音楽を作ってそれを形にすることなんだから。
断じてタオルやシャツを作って売るのが仕事ではない。
ま、古いと思ってもらって結構。
とにかくコンピュータの利便性が「無償」を武器に、「風情」どころか「芸術」までも壊滅的な状態に追い込んだことを人類はよく見つめ直すことですな。
私は「CD」というフィジカルな製品がある限り、それを支持します。
お、ナニが言いたかったかというと、小川銀次のような不世出のギタリストが作った音楽をナニが悲しくてカンパで形にしなきゃならないのか?ってことよ。
久しぶりに毒づいてみたけど、逆らったところで時代の趨勢にかなうワケがないこともわかってる。
結果、形はどうあれCROSSWINDの新しい音源が世の中に出て来ることは大歓迎であることは間違いない。
私は内容を耳にしているワケではないが、この時点で既にひとつ言いたいのは、「若い人」、特にひとりでもの若いギタリストやギターの勉強をしている人たちに聴いてもらいたいということだ。
銀次さんのギターを通じて「オリジナリティ」という言葉の意味を自分なりに分析してもらいたいと思う。
Cwc
さて、そのクラウドファンディングの案内がこの動画だ。
6月2日から出資者を募るそうだ。
興味のある人はゼヒご参加あれ。

今年の8月で三回忌を迎える銀次さん。
このプロジェクトがその三回忌に合わせた動きであることは言うまでもない。
また、「CROSSWIND」という唯一無二のバンドの名前を後世に残すことを目的にもしている。
さらに、経費を差し引いた売上金はすべて銀次さんの奥様のご遺族に贈られるとのことだ。
  
今日は過去の記事と内容が重複してしまうので銀次さん自身のことについてはほとんど触れなかった。
代わりに銀次さんの思い出や関連情報を掲載した過去のMarshall Blogの記事を紹介しておく。
★【訃報】 小川銀次さんのこと

★Ginji Lives!~小川銀次、新譜をリリース!

10v_2※今日のバナーは、銀次さんが2001年の『マーシャル祭り2』にご出演された際、JCM2000 DSL50をステレオでお使いになられたことより現行のDSL100の図柄を採用しました。

(Marshall並びにMarshall Blogは記事内のクラウドファンディング事業には関わってはおりません。ご質問他、いかなるトラブルも関知いたしませんこと予めご了承ください)

2017年4月12日 (水)

チケットは楽し。青いのキライ。

何かを集めたくなるのは基本的に男性特有の習性なんだってね。
まったくそういう「収集」に興味のない人も見かけるけど、私の周りの皆さん、すなわちミュージシャンとか音楽ファンの方々は間違いなく何かを集めている。
もちろんCDとか、レコードとか、ミュージシャン・グッズとかいうアイテムが対象ですな。
私も集めて並べるのが大スキ。
買って、集めて、並べて…意味がわかんな~い、なんていう若い人もいるかもしれないが、「意味なんかない!」。
ただ好きなのだ。
でもね、ホントにこの「何かを集める」ってのは金と時間がかかる。
一番の問題は入れ物と置き場所なんだよね。
段ボールに入れてしまって積み上げていたら面白くも何ともないし、並べて置けば場所を取るし…。
モノに固執せず、何の未練もなくポイポイと処分できちゃう人がうらやましくて仕方ない。
しかし!
我々収集族は、コレクションに大きな楽しみがあることを知っている。
ひとつはもちろん「収集」するという楽しみ。繰り返すが「収納」という苦しみも付きまとう。
もうひとつは「思い出」なのよ。
「心はかたちを求め かたちは心をすゝめる」…コレはマーブロに時々出てくる近所の仏壇屋のキャッチ・コピーだが、ま、そういうこと。
何か形に残しておくと、それにまつわる思い出が残りやすい。
よく海外の映画で家族が残した「形見」を大切にしているシーンが出てくるでしょう。
例えば『パルプ・フィクション』にクリストファー・ウォーケンが戦争で捕虜になった時、おじいさんの形見の懐中時計を没収されないように肛門に入れて守り通したというシーンが出てくる。
このクリストファー・ウォーケンの表情が最高に面白くとても印象深いシーンだった。
我々は近親者を亡くすと墓に収めて、成仏を願い、盆暮れ等に墓参りをして故人を偲ぶ。
しかし、西洋の人たちはコレをやらないんだよね。
少なくともイギリス人はよほどのことがない限り墓参りしないと聞いた。
ではいつ墓参りに行くのか?と尋ねたところ、思い立った時に自由に花を持って墓地に赴き、墓前にぬかずくとのことだった。
その代わり、彼らは故人の形見や写真を肌身離さず、あるいは家の目立つところに置いておいて、いつでも大切な人のこと想いだせるようにしている…というワケ。
何でこんな話になった?!
あ、そうだ「思い出」だ。
つまり、コレクションのひとつひとつには思い出が詰まっていて、それを見たり手にしたりすることで郷愁に浸ることができるのね。
もちろんすべてのアイテムに思い出が込められているということはないけれど、中学時代に買ったLPなんかを手にするとその当時の色んなことを思い出すよ、私は。
その「思い出させアイテム」の重鎮のひとつにコンサート・チケットの半券がある。
集めている人は決してすくなくないハズだ。
最近、facebookでかなり昔のコンサートの半券の写真を投稿されている方を見かけるが、すごくうらやましい。
というのは、私も1976年のRitchie Blackmore's Rainbowの武道館公演の半券を振り出しに、中学&高校時代にお小遣いをはたいて見に行った外タレのコンサートのそれをすべてコレクションしていたのだが、大学に上がった時にした引っ越しの際、父が誤って全部捨ててしまったのですわ。
ウチの父は私と正反対でナニひとつ集めるということをしない人だったから。
とても残念だったけど、悔やんでも仕方ない…。
ということで、キッパリ諦めたけど、知らないうちにまたこんなに集まってしまった。
仕事の関係でご招待頂いたコンサートのチケットの半券。
チャンと保存してるのです。
「意味わかんな~い」って?意味なんかない!(←松川さん、コレ重宝してます)
コンサートに取材に行ってチケットを用意して頂くのは稀なことで、バックステージ・パスを発行して頂くのが普通。それでもすぐにこんなに集まってしまう。
だから、バックステージパスのコレクションたるや、コレの10倍ぐらいになるかもしれない。イヤ、もっとか?段ボール箱ひとつパンパンになってる。
  
今回のコレを機にチラチラとチケットをチェックすると、やっぱり色んなことを思い出すナァ。
今もバリバリに活躍されているバンド、解散したバンド、どうしているのかサッパリわからないバンド…悲喜こもごもですナァ。

10

中にはこんなのもあるんよ。
ロンドンで観た『Mary Popins』。

20コレはイギリスの国鉄のチケット。
「RETURN」とは「往復」という意味。片道は「SINGLE」という。

30おなじみのロンドンの地下鉄のチケット。
2011年6月27日はラッシュアワーを除いて自由に乗り回すことができるというヤツ。
ZONEが6までの最強のヤツだから、おそらく在英最後の日だったのだろう。つまりコレでヒースローまで地下鉄で行ったということ。

20r4a0278 チャーチル博物館。

40コレは見にくいけど、サンディエゴで観たDave Matthews Bandのチケット。
比較的に厚い紙に銀色の文字を使っている豪華版。
Dave Matthews Bandは一時アメリカで一、二を争う人気バンドだったけど、日本ではウケなかったネェ。
私もまったく苦手だった。
このバンドのドラマー、Carter Beaufordってのメッチャすごかったけど今ナニをやっているんだろう?

50コレはイギリスで観たElton Johnのコンサート。
「& His Band」となっているが、ベースのDee Murrayは亡くなっているので仕方がないが、ギターにDavey Johnstone、ドラムにNigel Olssonという全盛期のメンバーが登場してうれしかった。
Special Guestは、一時日本のテレビCMにも出ていたイケメンのチェロのデュオだった。

60上のように、日本でも昔はチケットにアーティストの写真やロゴがあしらってあって、コレクションするのにふさしいモノだった。
私は行かなかったが、Rod Stewardtのチケットなんかは豪華なデザインで学校で話題になっていたな。
プレイガイドに並んだりしなくても、今はコンビニなんかで発券できて便利かもしれないけど、あの必要事項だけが記された字だけのチケットは面白くも何ともないよね。
コレクションのしがいがない。
やっぱり「利便性は風情を殺す」んだよ。
そこへ行くと、さすが永ちゃん!
カッコいいじゃないの!

70そう思っていた私は、2000年に開催した『マーシャル祭り』では記念にきちんとチケットを作って皆さんの思い出として残してもらおうと思ったんだよね。
ただ作るのでは面白くないので、横型にしてMarshallのヘッドをそこにあしらった。
それがエスカレートして、二回目と三回目のチケットは三段積のデザインのチケットをもぎると半券が二段積みになるようにした。
コレらのコンサートにお越しいただいた方がその二段積の半券を保存してくれているかどうかはわからないけど、そんな思いを込めたデザインだった。
ところが、肝心の一回目の『マーシャル祭り』のチケットっていうのがゼンゼン見当たらないのだ。
集め好きの私がどうしたことか、一枚もキープしていないのだ。
そしたら!

80出てきたんですわ~。
もう17年も前のヤツ。
私のところから出てきたワケではなくて、先ごろの大二さんのインタビューの時にご協力頂いた四人囃子研究家の灘井さんがコレを保管していてくださったのだ。
すなわち灘井さんもMarshall祭りをご覧になられていたのですな。縁って不思議だな~。
この時はMarshallの主力ラインナップのひとつであるValvestateが代替わりをする大きな転換期だった。
ジムもまだピンピンしていて、コンサートの本番だけでなく、楽器店の方々をお招きした「Valvestate2000 AVTシリーズの発表会」でも元気に挨拶をしてくれた。
そうか、こんなデザインだったっけ。
まだTSLだったんだね~。
フロント・パネルのフレット・クロスの部分に「Marshall祭り」のロゴをピッタリに収めてくれとデザイナーに頼んだ記憶があるわ。
なつかしいな~。
この頃の経験があってMarshall GALAを開いたのです。
次回のGALAではオリジナルのチケットを作りたくなるね、こんなの見ると。
作らないけど。

90こんなチケットはゴメンだね。
頼みもしないのにナゼか思い出したようにコイツがやってくるんだな~。

35 (チケット写真提供」灘井敏彦さん  ありがとうございました!)

2017年3月30日 (木)

パソコンが壊れた!

昨日はMarshall Blogの更新をお休みさせて頂ました。
今日もお休みします。
理由はメインで使っているパソコンが壊れて動かなくなってしまったから。
こうなりゃ覚悟を決めて、たまには記事のことを全く考えずに写真の整理でもするか…と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
じゃ、遅れ遅れになっている英語版のMarshall Blogの英訳でもするか… と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
仕方ない、今日はYouTubeで何かエグイ動画でも探してみようか…と思ったけど、当然それもできない。
しからば、インターネット・ラジオでも聴きながらレコードの整理でもするか…と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
じゃ、Marshallの月報でも書くか…あ~、EXCEL使えないんだった!
なんだよ~、パソコンがないと何もできないじゃん!
  

実際には外で仕事をする時のためのノート・パソコンが1台あるんだけど、コレは外出時に寸暇を惜しんでマーブロの記事を書き進めるためのもので、インターネットにつないで文字を打つぐらいの機能にしか耐えられない。
つまり写真の取り扱いが大変困難なので、とてもこのノート・パソコンだけでMarshall Blogの記事を制作するなんてことはできない。
もっと高価で高機能のノート・パソコンを買えばいいんだけど、すぐ壊れちゃうんだもん。
去年、国産のノート・パソコン2台に「煮え湯」を飲まされた。
1台は保証が切れた途端ハードディスクが壊れ、メーカーに問い合わせたところ、10万円で買ったものを5万円出して修理しろと言う。
電話口の女性に罪はないが、怒り心頭、怒鳴り散らしたことは言うまでもない。
それからしばらくしたらもう1台のノート・パソコンのディスプレイに黒い影が出始め、ほどなくして全面がまっ黒になってしまった。
それも10万円内外で買ったもので、5年の延長保険に申し込んでいたので、意気揚々と買ったお店へ修理に出しに行った。
すると、ディスプレイの修理は保険の対象外で、修理に12万円かかると言うのだ。
「ハァ?10万円で買ったものに12万円の修理代をかける?」
私は窓口で尋ねた。
「このパソコンのメーカーさんの人たちは、割り算はチョット無理にしても、引き算ぐらいはできますよね~。10から12を引く…答えがマイナスになる計算は習っていないのかナァ?」
もう怒鳴ることもできなかった。
この2台、同じメーカーの商品である。超メジャーな国内ブランドだ。
もちろん、今では「私的不買運動対象銘柄」の筆頭に燦然と輝いている。
  
こんなことがあったので、少なくともノート・パソコンは安いものをとっかえひっかえ買い換えたほうが得だ…という結論に達した。
それで、「インターネットにつながって文字さえ打てればよし」という代物をサブのパソコンに従えている…というワケ。
  
さて、メインの方、ここのところ、電源を入れると何となく反応が鈍いな…というイヤな予感がしていた。
すると、一昨日の夕方、案の定立ち上がらなくなって、「Your PC needs to be repaired」なんてサインが出てきてしまった。
もう手も足も出ませんな。
昔の電化製品と違って、いったんトラブルが発生すると、もうどうしてよいのかわからんのよ。
で、早速メーカーに問い合わせて色々とチェックをしてもらった。
しかし、あの中国の人たち、若干不明瞭な発音や不自然な表現が混ざるものの、実にうまく日本語を話しますわナァ。
あれ、一体どうなってるの?
まさかあの手の仕事をするに当たってゼロから日本語を勉強しているワケじゃないよねェ?
ま、こんなことは初めてではなくて、いつも色々と試した挙句、「修理に出してください」という結論だったので、「とっとと修理を受け付けてチョーダイよ」と叫びたい気持ちが大きかった。
でも、一生懸命電話の向こうで「ああしてくれ」、「こうしてくれ」とやっているもんだから付き合ってみることにした。
パソコンの自己診断の結果、「ハードウェアに故障はない」という結論。OSを再インストールすれば元に戻る可能性が高い…という。
当然、PC内のデータはすべてスッ飛んでしまう。
もちろんそれは大変困るが、チョット前から不穏な動きを感じ取り、万が一に備え、復旧に時間がかかりそうなデータを外付けのハードディスクに避難させておいたため、再インストールの可能性にかけてみた。
翌日、再インストールの専門家みたいな人から電話がかかってきて作業に当たった。
OSのリカバリー・ディスクというのが見当たらず、作業はOSのソフトをダウンロードすることから始まった。
お昼休みをはさんで朝10時から午後2時過ぎまでかかりっきり!
アレ、大変な仕事ですよ。
果たしてそんなに根を詰めて取り組んで直るのか…直ったんですわ。
それで今、これを書いてる。
よくアプリケーションのアップデートが勝手にされるでしょ?故障のひとつの原因として、アレがOSにダメージを与えることがあるんだって。
  
大切なデータは避難していたといっても、イザまっさらな状態から元の通りの仕事ができる状態に戻すのは結構大変な作業で、まだMarshall Blogの記事が書けるレベルまで復旧できていない。
それでも来週にはどうしてもタイムリーにアップしなければならない案件があるので今日中に何とかして、明日から再開するようにしたいと思っている。
  
こういうことが起こるたびに『火の鳥』を思い出すわ。
あのコンピューター同士がケンカして核戦争になっちゃうヤツ。
私なんかコンピューターからもっと遠い存在だと思っていたんだけど、ドップリだもんね。
冒頭に書いた通り、コンピューターがなければ何の仕事もできやしない!
30年チョット前、社会に出た時、事務所でワープロに近づく人なんていなかったんだけどナァ。
なんか10インチぐらいのでっかいフロッピーディスクが事務所にゴロゴロしていた。
コピーは「青焼きを使いましょう!」なんて言っててね。(昔は設計図は絶対に青焼きだった。普通のコピー機だと内部にレンズが使われているため、複製するときに誤差が生じ、縮尺が狂い図面の意味をなさなくなってしまうのだ)
机の上にPCがひとり1台なんていう光景は想像したこともなかった。
EXCELなんてものもなかったので、表計算は完全に人力よ!
自分で言うのもナンだけど、私は比較的字がうまい方なので、書類の美しさには定評があった。すべて手書きだったからね。
契約書等の重要な書類には和文タイプが活躍していたな。
それから本当に数年の間に手書きの書類は姿を消し、表からは計算間違いが一切なくなった。
仕事がすべてパソコンの中に入ってしまった。
そして、いつの間にか音楽もパソコンの中に入ってしまい、SNSなるものを通じ、人は一日中携帯電話から離れられなくなった。
ナンだよコレ?!
手塚治虫が生きていたらコレをどう表現していたかね?
…といいつつ、私もパソコンに向かい明日からのMarshall Blogの準備に勤しむのであった。
   
また明日からもよろしくお願いします!


  

2017年2月 1日 (水)

【訃報】 さよならジョン・ウェットン

中学から高校の頃、好きだったJohn Wetton。

     
先日、チョットRoxy Musicの調べごとをしていたらファースト・アルバムのLPからこんなものが出て来た。
1974年秋のコンサート・プログラム。
中学生の頃、どこかで私が買ったものだ。
中身はメンバーの紹介だけで、コンサートのことには一切触れていないため、どこで使われたものかはわからないが、イギリスの住所を記したファンクラブの案内が書いてあるのでイギリスでのコンサートなのだろう。
前座はJess Rodenだった。
数年前にはここにSadisic Mika Bandが紹介されていたハズだ。
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そのメンバー紹介の最後のページ。
『Viva! Roxy Music』にもJohn Wettonのクレジットがあるが、他にBryanの『Another Time, Another Place』への参加等、Roxy人脈とは関係が深かったようだ。

9_img_3341_2

下は1975年のRoxyのアメリカ・ツアーの海賊盤。
この「Re-Make/Re-Model」のベースがスゴイ!
昔の海賊盤にしては音がすこぶるよく、昔はよく聴いたものだが、残念ながらベーシストのクレジットがない。
何か所かの録音なので、わからなくなってしまったのかもあしれないが、この「Re-Make/Re-Model」は間違いなくJohn Wettonだろう。
カッコよすぎるもん。

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初めて本物のJohn Wettonを見たのは1977年6月、中野サンプラザでのこと。
Bryan Ferryのバンドで来日した時だ。
先に触れた通りRoxy Musicのつながりでメンバーに選ばれたのであろう。
ギターはChris Spedding。
他にPhil ManzaneraやAndy McKayやPaul Thompsonがバンドにいて、Roxy Musicが好きだった私は、『Viva!』を出した後活動を停止していたRoxy Musicの変形が見れるとあって大喜びしたものだった。
しかも、ベースは大好きなKing CrimsonのJohn Wetton!
二階席だったけどすごくうれしかった。
この時はひたすらベーシストに徹していたっけ。


その後、Uriah Heepに入った時は「金の亡者」ぐらいのことを言われて気の毒だった。

Bryan Ferry での来日から2年、またJohn Wettonを観た。
場所は日本青年館、U.K.での来日だった。
中学の頃からAlan Holdsworthが好きだったので、U.K.がトリオ編成になってしまいとても残念だったが、コンサートを観てビックリの連続だった。
まずは毎朝電車で一緒になるカワイ子ちゃんが会場に来ていたこと。
そして、Trry Bozzioのドラム・ソロ。
コレはホントにスゴかった。
もうその頃にはFrank Zappaを聴いていて、『Bongo Fury』はすでに耳にしていたものの、そこはまだ子供のこと、ギターばっかりでドラムにあまり意識がなかったのでこのソロには腰を抜かすほど驚いた。
Jack DeJohnetteとSantanaの誰か(多分77年の来日時)と並んで、今のところの私の人生の中のドラム・ソロ・ベスト3に入ってる。
Littel cuteなTerry Ted Bpzzioのソロと同じぐらい驚いたのがJohn Wettonのベース・ソロだった。
もうフレーズがどんなだったかは覚えていないが、何やら右手の指すべてを使ってバリバリ弾いていたように記憶している。

Uk
Gordon Haskellは70歳でまだ元気なようだが、King CrimsonはGreg Lake、Boz Burrell、John Wettonと70年代に活躍したベーシストを軒並み失ってしまったことになる。
   
ベース・プレイもさることながら、やっぱりあの男性的な声と、チョット変わった発音が魅力的だった。
ああいう歌い手ってホントに少なくなった。
パンクやテクノ、ニュー・ウェイブを経て80年代に入ると、素っ頓狂な声を出すボーカルズばっかりになってしまい、ロックのカッコよさのひとつが完全に葬られてしまった。
  
そんな80年代に登場したAsiaには完璧なまでに興味が湧かなかった。
自分自身がジャズに興味が移っていった時期と言うこともあったが、Steve HoweにCarl PalmerにJohn Wettonといった大好きなプログレの立役者が集まったバンドだったにも関わらず、商業主義丸出しのポップ・ミュージックには何の刺激も感じなかったのだ。
だから80年代は私にとってはロックの「暗黒時代」なのだ。
  
2010年にロンドンのフェスティバルにAsiaが出演していたが、観る気はまったく起こらなかった。
楽屋村では、Carl PalmerはAsiaでは演りたがっているが、その時一度限り再結成したELPでの演奏は乗り気ではないようだ…という噂が流れていた。
「なんでやねん!」と思った。
Asiaのおかげで、John Wettonとはスッカリ疎遠になってしまっていたので、今回あまりショックが大きくなくて助かった。
facebookなどでは「AsiaのJohn Wettonが逝ってしまった」と騒いでいるが、私にはそんな感覚はツユほどもない。
Asiaファンには失礼かもしれないが、私が思うにはKing Crimsonで見せたクリエイティビティこそがJohnの偉業であり遺産なのだ。

Sundown dazzling day
Gold through my eyes
But my eyes turned within
Only see
Starless and bible black
私の心にひたすら流れているのは、「Starless」の悲しく美しい旋律。
ロックの偉大なイノベーターの逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

2015年8月 4日 (火)

【訃報】 小川銀次さんのこと

小川銀次さんが天に召された…。
昨日の朝、銀次さんに近しい方がfacebookで報じていて仰天。どうしても信じられなくて、その方に電話をして確認したほどだった。
残念ながらその方の投稿の内容に誤りはないようであった。
58歳…。
天才ギタリストとのお別れの時があまりにも早く来てしまった。

10v_2ご多分に漏れず、私も銀次さんのことを知ったのはRCサクセションでの活動からだった。
高校2年生の時だから1979年かな?
渋谷の屋根裏にRCサクセションを観に行った。
当時、入手できるRCの音源は『シングル・マン』だけで、確かコレも一般には流通しておらず、青山のパイドパイパー・ハウスで限定的に入手できたのではなかったか?
どう考えても当時パイドパイパー・ハウスに行った記憶がないのだが、とにかく『シングル・マン』は持っていた。誰かに頼んでついてに買って来てもらったのかもしれない。
実を言うと、このアルバムを聴き込んだ覚えがなく、後に有名になった「スロー・バラード」ぐらいしかなじみがない。
それでも屋根裏にRCを観に行ったのは、銀次さんを見たかったからだったのかも知れない。
しかし、RC以前に銀次さんを知るルートは無かったようにも思えるし、この辺りの記憶はあいまいだ。
多分、どこかでRCを観て、それから屋根裏に行ったんだろうね。


RCサクセションはブレイクする直前で、当時、屋根裏で最も動員力が強かったのがPANTA&HALとRCサクセションと言われていた。店員さんが話していたのだから間違いない。
屋根裏は通常イス席で、大きなテーブルが据え置かれていたが、RCの時にはイスもテーブルも全部取っ払い、客席後方にひな壇が設置された。
私はそのひな壇の最上段から小川銀次が上手に立つRCサクセションのステージを観た。
当時にしては規格外の長さだったが、最初から最後まですさまじい熱演でアッという間だった。
コンサートに騒ぎに来るだけの感がある今とはまるで様相が異なり、お客さんも一生懸命音楽を聴いていた。
もちろん期待していた銀次さんのプレイは最高だった。
コーラスをギンギンにかけた独特のトーンが実にカッコよかった。あの後、CE-1を買ったのは100%銀次さんの影響だ。
あの手の音楽のバンドにケタ違いのテクニカル・プレイヤーを参加させたアイデアも素晴らしかったよね。

20時期はほぼ同じだったと思うが、有楽町にあった日立のオーディオのショウルームLo-DプラザにBAD SCENEと銀次さんが出演するというので喜んで観に行った。
Lo-DプラザのことはコチラのBAD SCENE関連の記事に詳述したのでここでは詳しく触れないが、幸運にもBAD SCENEと銀次さんの共演を高音質で記録しておくことができた。
下がその時のカセットテープ…私の宝物だ。
この中でBAD SCENEは銀次さんへ捧げた「銀次」というオリジナル曲を演奏している。
銀次さんは最後の3曲に参加しており、超絶技巧を披露。
BAD SCENEの代表曲でもあるこの時の「ライジング・ドリーム」は銀次さんのソロもコピーして高校の仲間と人前で演奏したこともあった。

25それから大幅に時代は下り、2001年。
二度目の『マーシャル祭り』に銀次さんに出演して頂いた。
30
私は上に書いた通りだったので、銀次さんに接するのがうれしくうれしくて…。
40
打ち合わせと称して何回かイッパイご一緒させて頂いた。
銀次さんは大のFrank Zappa好きで、ジャズにも造詣が深く、いつも話がハズんだ。
何かの雑誌で知ったのだが、銀次さんはZappaが1976年に来日した際に、浅草国際劇場でのリハーサルをご覧になったという。
「どうやって入ったんですか?」と尋ねると、「ン?あのね、円谷監督の息子だって言ったんだよ。ホラ、ザッパは怪獣映画好きじゃん?」…スゴい。銀次さんによるとそのリハーサルもスゴかったらしい。
また、銀次さんは独自のギターの練習法を編み出したという話しをされていた。スケール練習の類なのだが、何でも順列組み合わせで120万通りのパターンがあるとのことで、世の中に発表したくても内容量が多すぎて取り扱えないのが悩みだ…とも。
レコード2万枚、創刊号からのギターマガジンのコレクション、数々のマニアックなバンドやギタリストの話し…銀次さんのお話しをうかがうのが毎回とても楽しかった。何かの話しを振ると、内容を何倍にも濃くして返してくれるのだ。

それで、この『マーシャル祭り2』。

81750002 このイベントは、基本的によく知られている曲を出演者に演奏して頂くことを主旨としていた。
「Zappaに世間一般によく知らられた曲があるのか?」と問われればそれまでだが、銀次さんにはFrank Zappaの曲を選んで頂くことを期待していた。
81750013
ところが「オレは他人の曲は演らない」とキッパリおっしゃって「その代り…」と自作の「ザッパがおしえてくれた事」というスローテンポの曲を選ばれた。
他に「いたちごっこ」という曲を矢堀孝一さんと演奏した。
銀次さんはこの時、JCM2000 DSL50をステレオで鳴らしたい…とリクエストされ、ご希望に答えたのだが、それがあまりにもすさまじい音だった。

81750031 このイベントでは、櫻井哲夫さんにベースをお願いしたのだが、お忙しくて曲をさらっている時間がないため、私がほとんどすべてのベースの譜面を書き起こし櫻井さんにお渡しした。
で、この銀次さんの曲は2コードぐらいを延々と繰り返し、銀次さんがすさまじいインプロヴィゼーションを乗せるというZappaでいえば「Black Napkins」的な曲。
それだけなら問題はないのだが、エンディングに4小節ぐらいのキメがあって、この部分の音を取るのに徹夜を強いられてしまった。
何せ銀次さんがどう弾いているのがわからくて何百回と聴き返した。こっちも意地だ。徹夜してナントカ譜面に収めた。

81750028 このことを後日銀次さんに白状すると「お~、そうか、そりゃそうだよ。あの部分だけでギターを10回以上重ねたんだもん!」なんて、平然といつもの笑顔でおっしゃっていた。
銀次さんはいつも笑顔だった。
それと、とてもおしゃれでカラフルなスニーカーをはいて、いつも清潔にしていらっしゃった。

コレはその時に銀次さんが取り組んでいた12枚組シリーズの『Private Diary』のサンプル盤。本当は本体が欲しかったんだけど…。
銀次さんが直に私に手渡ししてくれたもの。今でも大切にしている。
「12枚同時リリースでギネス狙ってるんだよ」ともおっしゃっていたっけ。

50この2001年の『マーシャル祭り2』では終演後、とんでもないことを起こしてしまった。
このイベントは、何から何までほぼ私ひとりで段取りを組んでいたのだが、さすがに当日になると色んな所にアラが出てしまい、銀次さんに失礼なことをしてしまったのだ、
もちろん、あこがれの銀次さんに面と向かって失礼なことを言ったワケでもしたワケでもないのだが、結果的に気分を害することをしてしまったのだ。
はじめは冗談かと思っていたら、本気で怒っていらして、いくら謝っても許してもらえず地獄の思いだった。
ところが一晩明けるとケロっとされていて、いつもの「銀次スマイル」で「おう、悪いけど荷物運ぶの手伝ってくれる~?」なんて昨晩のことなどナニひとつ覚えていらっしゃらないようだった。
あれほどホッとしたことも珍しいわ。

81750038

『マーシャル祭り』の後はあまりお会いする機会がなかった。久ぶりにお会いしたのは2005年の5月、渋谷公会堂のJethro Tullのコンサートの時だった。
会場の前で関係者受付が開くのを待っていると、「オ~イ、うしざ~く~ん!」と遠くからお声をかけて頂いた。
こういうことって覚えているもんだナァ。
すごくうれしかったのだろう、銀次さんがワザワザお声をかけてくださるなんて…。
だって、屋根裏で見た時にはニオイすらかぐことができない存在だったのだから。

もちろんCrosswindも好きだった。
実際の演奏を観る機会がなかったのが悔やまれる。
今にして思うのは、Crosswindというバンド名はBilly Cobhamからのインスピレーションなのかな?
もうこんなグループは出て来ないだろうナァ。

60

CDに入っているライナー・ノーツ。あまりに字が小さいのでたまたまお会いした銀次さんにこのこと尋ねると…「いいんだよ。字が大きかったら読めちゃうじゃん?」とおっしゃっていた。

70

このライブ盤の自筆ライナーではそのことに触れていらっしゃって笑える。
ちなみにこのライブ・アルバムもLo-Dプラザで録音されていて、ドラムはそうる透だ。

80

今はなき六本木のピットインに銀次さんのバンドを観に行った時、一部の演奏が終わると銀次さんは客席でものすごく大きな声で、「あ~!弾けてネェ!全然弾けてネェ!」と自分に怒りをブツけていた。会場にいたお客さんはみんな飛び上がってビックリしていた。

55v最後に銀次さんとご一緒させてもらったのももうずいぶん前のことだ。
2008年に『北野ロック教習所』というビートたけし関連のテレビ番組に中野重夫が出演した時、銀次さんも出演されていて同時に取材させて頂いた。
銀次さんの向こうに見えているMarshallはシゲさんのSuper100JHだ。

100

銀次さんは「The Orchestra」と称したひとりバンドで登場された。機材を駆使し、アコースティック・ギターを歪ませたりして、今までついぞ聞いたことのないようなギター・サウンドをクリエイトしていた。

90vこの時、珍しく一曲歌われたんだよね。銀次さんの歌はこの時初めて聴いた。

130v

銀次さんは特に目の覚めるような速弾きをするとかいうことではなかったが、十分にテクニカルなギターを弾いた。
ギターと相談して、誰もやらないような弾き方で、自分だけの言葉を自分だけの声で歌っていたのだ。

110v時にハードに、そして時にメランコリックに…ギターに入り込んでいるのか、ギターが銀次さんに乗り移っているのか…とにかくギターと一心同体で「音楽」を作っていた。
コレだけは間違いない。

115銀次さんのオリジナル曲はタイトルのほとんどが日本語だった。
「ナントカ of カントカ」なんてタイトルは見たことがない。
ココにもこだわりがあったのだろう。
銀次さんは英語もご堪能だったから、辞書で調べた英単語を並べてカッコだけつけているようなタイトルを自分の子供に付けるのをイヤがったのではないであろうか?
イッパイやりながらホンノ少しだけ英語の話しをしたこともあった。もう題材は覚えていないが、何かを英語で表現するとどうなるか…みたいな話だったんだけど、銀次さんがものすごくセンスのいい訳をされていた。
それでも「俺が世界に出た時はオマエを通訳で雇うからな…」なんて言ってくれた。もちろんイッパイやってる時だよ。

120銀次さんの名刺も持ってる。
名刺の右上には「12.10.7.」と頂いた日付が記してある。2012年かと思ったけど、コレ、平成12年だ。すなわち2000年。
肩書が”The Guitar"となっている。
ホント、その通りだと思う。ひとつしかないから「The」がついているのだ。
銀次さんにだけしか弾けないギター。
ギターを弾くために生まれて来た男。
銀次さん自身がギターだったのだ。
日本のギター界は計り知れない音楽的財産を失ったことに気づき、大いに困るべきだ。

Img_1668_2
銀次さんが少なくない音源を残してくれたおかげで、我々は未来永劫銀次さんの音楽を楽しむことができる。
しかし、音や映像は残せたとしても人となりを知るためのエピソードや言葉はなかなか残すことがムズカシイ。
しばらくの間はハッキリと覚えていても、時間が経つにつれてどうしても記憶が薄らいでいってしまうものだ。
そこで、短期間とはいえ、銀次さんと一緒に過ごすことができた私なりの思い出をココに残して銀次債に哀悼の気持ち捧げた次第である。
140v
銀次さん、お疲れさまでした。
素晴らしい音楽と唯一無二のギターをありがとうございました。

心からご冥福をお祈り申し上げます。


さようなら…小川"The Guitar"銀次!

81750039 (一部敬称略 ※写真協力:55 Station入谷店)

2015年7月13日 (月)

Like Father, Like Son ~ 父の思い出

五月の下旬、父が81歳で永眠し、先週四十九日の法要も無事に済ませた。
この場をお借りしまして、お心遣いを頂戴しました皆様に心から御礼申し上げます。

父が息を引き取った時、私はイギリスにいたものだから今わの際に立ち会うことが出来なかった。
芸人でも公人でもない自分が、まさか肉親の臨終に接することが出来ないなんてことはついぞ考えたことがなかったが、却ってよかったとも思っている。
ドラマよろしく目の前で「ご臨終です」なんてやられた日には号泣してしまって思いっきり正体を失いかねなかったからね。
何しろMarshallの近くのホテルで妹から訃報メールを受け取って、それを見ただけで「ガ~っ」っとひと泣きしちゃったぐらいだから…。
それでも、聞こう翌日からお通夜、告別式と時差ボケしているヒマもないぐらいの忙しさだった。


生まれてこの方、ズ~っと心配のかけ通しだった。
本当に親孝行なんて何ひとつできなかったナァ。
「親孝行した」と、こっちの論理で自分を納得させるならば、孫の顔を二種類見せることができたのと、最後まで父と仲良くしていたことぐらいかしらん?

父は明るく、人を笑わしたり、おどかしたりすることが大好きなオッチョコチョイなキャラクターだった。だから、棺の中の彼を見ても息を引き取ったことが信じられず、しんみりしているところに突然ガバッと起き出して、「ギャハハ、驚いたかッ?!」とやりそうな気がしてならなかった。
でも、その亡骸は氷のように冷たく、ピクリともしなかった。
「お父さんはどういう人でしたか?」と人から尋ねられたら、何の迷いもなく、「とてもやさしい人でした」と答える。
今日はそんな父のことを書かせて頂く。

これまでMarshall BlogにはMarshallに関わった方々の訃報を何度も掲載してきた。
もちろん私の父はギタリストでもなければ、楽器業に携わっていたワケでもない。せいぜいJim Marshallに一度会ったことはあるぐらいだ(正確にはJimを「見た」だ)。
だからMarshall Blogに採り上げられる所以はまったくない。
彼は浅草生まれの大工で、音楽とはまったく縁のない仕事をしていた。
強引に結びつければ、下の写真の若い頃の父のヘアスタイルを見ると、ちょっと「ロケンロー」になっているからだ…というのはもちろん冗談。

戦時中は仙台に集団疎開し、戦後の混乱期には学校にもロクに行かれず、幼い頃から玄翁(トンカチのこと)や鍛冶屋(釘抜きのこと)を握り、同じく大工だった祖父の仕事を手伝わされて過ごしたため、十分な教育を受けることが何ひとつできなかった。
しかし、父は(私から見れば…)かなりの博学だった。
知識はすべて書物から得たと昔よく言っていたが、彼は日本文学はもちろん、シェイクスピア、ディケンズ、ヘミングウェイ、スタインベック、スタンダール、ドストエフスキー等の海外文学まで精読していた。
囲碁や将棋にも詳しく、ゴルフやスキーも今みたいに一般化する大分以前からたしなんでいた。
…なんて書くと、いかにも優秀な「スーパー・インテリ大工」のように見えるが、全然そんなことはなくて、チョット一杯引っ掛ければデレデレになってしまう一介の職人だった。
また、昔はそんな人がゴロゴロしていたものだった。
しかし、父には誰にも負けない分野があった。
それは「映画」だ。
特に洋画に関しては膨大な知識を持っていた。アレで文章のひとつも書けて、滑舌よくしゃべることができれば、簡単に映画評論家になれていたかもしれない。実際に雑誌の企画で淀川長治や小森和子と旅行に行ったこともあったらしい。

私はその父の薫陶を受けて、かなり小さい頃から映画に夢中になった。
中学に入るとその興味が音楽に移行し、ギターを弾き始めた。
そして時は流れに流れて、今はMarshallのために額に汗し、Marshall Blogを書き続け、幸せなことに読者の皆様から大きな支持を頂戴している。
つまり、父がいなければ映画に興味を持たなかったかもしれないし、音楽を好きになることもなかったかも知れない。
すなわち、Marshall Blogもこの世にあり得なかったかもしれない…。
そうであれば父もMarshallに関係していることになるのではないか…と私流に感謝の気持ちを込めて考えたのである。

そういうことで、今日は紙幅をお借りして思い出を交えながら映画の話しをして、Marshall Blogの源流である父にトリビュートさせて頂きたいと思う。
家内にも話したことのない話しばかりだ。どうでもいいような話しだからだ。
しかし、私の中ではそのどうでもいい話しが連綿と生き続けていて、一生忘れることができない父の思い出になっているのだ。
お時間のある方は是非お付き合い頂きたい。映画好きの方のもゼヒご一読願えれば幸甚である。
タイトルの「Like father, like son」とは「この親にしてこの子あり」を意味するイギリスのことわざだ。
では…

<Beep!(開演ベルの音)>

さて、下の写真は浅草の父の実家の前で昭和39年ぐらいに撮られたもの。50年前の写真だ。
すでにfacebookに乗せたことがあるので、それをご覧になられた方多くいらっしゃると思うが、この当時、まだ東洋の一大繁華街であった浅草でもまだ地面が舗装されていなかった。
後ろは私の父と母。前に立っている利発そうで可愛らしい男の子が私である。
この後、このガキが迷惑と心配と金を親にかけっぱなしにするなんてことは、写真の中の二人はつゆ知らない様子だ。
昭和39年、1964年、東京オリンピックが開催した年。
年表を調べると、経済的、政治的、文化的にものすごくたくさんの発展的な出来事が起こっている年だ。
終戦から約20年、イケイケドンドンで戦後日本の一番いい時代だったんだろうね。

D_dad2さて、ここに父の薫陶を受けた証しがある。
三冊のファイル・ブック。
本当はもっとあったのだが、引っ越しのドサクサでこれだけになってしまった。
強引なのは百も承知。でもこれらを紹介することを父への追悼のひとつとしたい。
これらが積りに積もってMarshall Blogになっているのだから…。

10ファイルブックの中身は映画のチラシだ。
私が小学校高学年から中学1年生の時に集めたもの。リアル・タイムでゲットしたものもあれば、後追いでコレクションに加わったものもあって、すべてホンモノである…といってもたかがチラシ、金銭的には何の価値もなかろうが、思い出がいっぱい詰まっている私には値千金の宝物なのだ。

20ところで、昔は子供の数も多く、怪獣映画がすごく盛んだった。
ゴジラやガメラは言うに及ばず、ギララ、ガッパ、『恐竜グワンジ』…あと忘れたけど、そういう怪獣物は母が連れて行ってくれた。ケロヨンもよく観に行った。
当然ビデオなんかない時代だからね、映画館でしかそれらの動く怪獣を見ることができない。
父と一緒に映画館で映画を観た最古の記憶は多分『ポセイドン・アドベンチャー』だ。
錦糸町の江東リッツだったように記憶している。
それから今は無きテアトル東京で観た『パピヨン』。コレなんか親戚一同で行ったわ。

一番印象に残っているのは、小学生の時に観た『七人の侍』だ。
モノスゴイ雨の日で、ヘタをすると映画の中の野武士との決闘シーンより映画館の外の方が土砂降りだったに違いない。
映画館はまたしてもテアトル東京で、父はナニを勘違いしたか、道を間違えてしまい開演時間に間に合わなくなてしまった。
ほうほうの体で映画館にたどり着いた時は全身ずぶ濡れだった。
『七人の侍』の公開が久しぶりだったのか、あの広い館内はスシ詰め状態で、まだ小さかった私は立ち見することもできなかった。
すると父は「アソコへ行っちゃえ!」と舞台を指さした。
テアトル東京は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていて、よじ登ることなくステージにあがることができたのだ。
そこにも大勢のお客さんが座っていて、軽く頭を下げて仲間に入れてもらった。つまりあの大スクリーンから2~3mの距離で三時間半の映画を観たのだ。
それでも子供ながらに「なんておもしろい映画なんだ!」と夢中になって映画の中に入り込んだナァ。今観てもそうなんだけど。
父が亡くなる数か月前、私の家に来た時、DVDで『七人の侍』を一緒に観た。すると、「あの時はすごい雨だったナァ…」と、ポツリポツリと40年前のことを静かに口にしていた。この時、「父にさよならする日もそう遠くないな」…と感じた。
その後に『隠し砦の三悪人』も観たのだが、彼はあまり集中している様子ではなかった。
すぐに疲れてしまい寝てしまうのだ。
『赤ひげ』もすすめたのだが、「アレは長いからイイや」と遠慮していた。この数か月後、自分が『赤ひげ』の中の藤原鎌足扮する六助のようになってしまったのだ。
結果、『七人の侍』が父の最後の映画になった。

下は珍しいA4サイズのチラシ。1967年の『特攻大作戦(The Dirty Dozen)』。チラシはやはり映画好きで年上のいとこからもらった。
ロバート・アルドリッチ監督、リーマービン、アーネスト・ボーグナイン、チャールズ・ブロンソン、ジョン・カサベテス、テリー・サバラス、ジョージ・ケネディ、ロバート・ライアン、ドナルド・サザーランド…ク~、タマらんぜ!男のニオイしかしない映画。メチャクチャおもしろかった。
映画も監督も俳優も全部父から教わった。
もうハリウッドはこういう映画を作ることはできなくなってしまった。『ミッションなんとか』の軽く数百倍は面白い。

30『シャレード』を初めて観たのはテレビでだった。小学校四年ぐらいだったのかナァ?やはり父のすすめだった。「そうか!切手か!」なんてそのトリックに感心したりして…。


父は『ベン・ハー』がとても好きだったな。ジュダ・ベン・ハーよりもメッサーラの方がカッコいいぐらいのことを言っていたのを覚えている。


『アラビアのロレンス』も父から勧められた。
我々の世代はこういう映画をすでに「名画」として観るワケだが、父は「新作」として観てるからね。それはそれは新鮮だったと思う。
よくオマー・シャリフがラクダに乗って向こうの方から近づいてくる最初のシーンのことを話していた。
そのオマー・シャリフも数日前に亡くなった。享年83歳だったそうだが、ナント、ウチの父よりたった2歳上なだけだった!片やベドウィン族の親分、こっちは浅草の職人。父もアラビアに生まれていたらモスクのひと棟も建てていたかもしれない。


『エデンの東』の話しも良くしていたナァ、というのもジェイムス・ディーンの役どころと自分の立場が重なると考えるらしいのだ。次男坊の悩みだ。
「親は長男ばかり可愛がるが、本当に親や家のことを考えているのは次男なんだ」って。
父は自分の家族には最高にやさしく接してくれたが、自分はあまり家族愛に恵まれない境遇だった。


『風と共に去りぬ』も恐らく十回以上は観ているのではないだろうか?「金はあるし、カッコいいし、アシュレーよりレッド・バトラーの方がゼンゼンいいのにな?」と観るたびに言っていた。
しかし、昔のアメリカ映画は本当にスゴかったね~。音楽もよかった。(『ロレンス』はイギリス映画。ちなみにヴィヴィアン・リーはイギリス人。ヘップバーンも元はイギリス国籍でベルギーで生まれ育った)

40この辺りは珍しいのではないかと思ってピックアップしてみた。

ほとんどピーター・オトゥールしか出て来ない異色戦争映画『マーフィの戦い』、本当にネズミが恐ろしい『ウイラード』、設定が巧妙な『さらば荒野』なんてのを父から教わった。
どれも最高におもしろくて夢中になって観た。


『マッド・ボンバー』のチラシなんて珍しいでしょ?チャック・コナーズもネヴィル・ブランドもよかった!
『おかしな夫婦』は原題が『The Out of Towners』というニール・サイモン脚本の喜劇。ジャック・レモンとサンディデニスの主演。メチャクチャおもしろいよ。
30年後にスティーブ・マーチンとゴールディ・ホーン主演で、『アウト・オブ・タウナーズ』というタイトルでリメイクされた。私はスティーブ・マーチンが苦手なんだけど、コレは案外よかった。「モンティ・パイソン」や「フォルティ・タワーズ」のジョン・クリースも出てる。

50『ゴッドファーザー』も大好きだった。ただし『パートIII』のことはクソミソに攻撃していた。
ご多分にもれずニーノ・ロータのテーマ曲にやられたクチでよく鼻歌を歌っていた。
自分ではジェイムス・カーンかアル・パチーノ気取りだったかもしれないが、実際はジョン・カザールだったりして…イヤイヤ、私にとって父はいつまでもドン・ビトー・コルレオーネなのです。
やっぱりコッポラってスゴイ。また観たくなってきた!

60彼、『007』は最後の最後まで全部観てるんじゃないかしら…。
車をアストン・マーチンにすることはなかったけど、ボンドのことはすごく好きだったハズだ。
私よりチョット年上の方々がLed ZeppelinやDeep Purpleをリアル・タイムで体験したように、父はもこのシリーズも最初からリアル・タイムで観ているハズだ。
そりゃ、『ロシアより愛をこめて』なんて出てきた時に観りゃおもしろくてタマらんわナァ。よくあの列車の中のロバート・ショウとの決闘のシーンの話しをしていた。あのロバート・ショウは本当にカッコよかったもんね!
一方、サンダーボール作戦」なんて言葉を父の口から聞いたことはなかった。でも観てるハズ。

さて、このチラシ、ちょっとよく見てみて。
『ドクター・ノォ』と『サンダーボール作戦』のショーン・コネリーの写真が何と使い回しなの!なんでこんなことしたのだろうか?! 
ボンドのピストルはワルサーPPK。PPKとは「Polizeipistole Kriminal(警察用拳銃刑事版)」のこと。「Polizei」はドイツ語のポリスね。何年か前、タクシーにスーツケースを忘れてフランクフルトのPolizeiに大変お世話になった。

アレ?よく見ると『死ぬのは奴らだ』と『黄金銃を持つ男』のロジャー・ムーアも同じだ!ロゴみたいなもんか?
そういえば『黄金銃』のクリストファー・リーも先ごろ亡くなった。
私が「ポール・マッカートニー」という名前をハッキリと認識したのは、「ビートルズのポール」ではなく、「『死ぬのは奴らだ』の主題歌の人」だった。
原題の『Live and Let Die』は「Live and Let Live」ということわざのパロディ。「自分も生きて、他人を生かす」という「共存共栄」を意味するが、ここでは「自分は生きて他は死なせる」と物騒な意味に変えている。
10ccは、この後さらにひねって『Live and Let Live』というライブ・アルバムを発表した。

70昔はCGなんてないから特撮映画は珍しがられたし、良く出来ている作品は人気も高かった。
このシンドバッドのシリーズとか『アルゴ探検隊の大冒険』とか『ミクロの決死圏』とかその特殊効果に驚いたものだった。
このあたりも全部父から教わった。
ちなみに海外では「シンドバッド」のことは「シンバッド」と発音する。

80『燃えよドラゴン』も父が新宿へ観に連れて行ってくれた。
映画館から出てきた時にはふたりともすっかりブルース・リー気分で、道を歩きながら「アチャ~!」なんてやったものだ。
根っからのアメリカ映画信奉者の父は、ブルース・リーをカッコいいと思いながらも『燃えよドラゴン』以外作品はまったく観なかったのではないかと思う。あるいは、チョットは観たけど受け付けなかったのではないか?
「キョンシー」なんて絶対に観なかった。でもジャッキー・チェンはヨカッタみたいだ。

90ヨカッタよね~『フレンチ・コネクション』。
ジーン・ハックマンのポパイもヨカッタけどロイ・シャイダーがまたいいんだ。
音楽はDon Ellis。
『2』の頃になると私はひとりで映画館に通っていたので、もう父と映画を観に行くことはなかった。『2』は日比谷映画で観たな。ポパイが麻薬中毒にされて監視役のババアに時計を取られるシーンがナゼかショッキングだった。
しかし、ジーン・ハックマンっていい役者だった…ってまだご存命なのね!『俺たちに明日はない』ではあんな役だったのに…ドンドンすごい仕事をするようになった。
『盗聴』なんて今でも観てる。

100あ~、『ダーティ・ハリー』も夢中になって観てたな。ただし、一作目だけ。でもそれは正解。

『2』は小学生の時、親戚のオバサンに新宿のミラノ座へ連れて行ってもらった。映画は面白いとは思わなかったが、帰りにそのオバサンが映画館で即売していたMGCの「44マグナム6インチ」のモデルガンを買ってくれた。うれしかったナァ。
それからしばらくの間モデルガンにハマった。
それで勉強がおろそかになり、父が罰としてモデルガンをどこかに隠したことがあった。没収だ。
返して欲しくば勉強をしろ…ってなことになったのであろう。
珍しくしっかり勉強をして、約束通りテストで良い点を取って許してもらったのかな?
「モデルガンを返して欲しい」と父に詰め寄ると、一枚の紙を私に渡した。
そこには「勉強が~」から始まり、何やらしかつめらしいことが何行か書いてあった。
「わかったから返してくれ!」と詰め寄ると、父は「その文章をよく読んでみろ。特に最初の字を!」と答えた。
言われるままにジーっと最初の文字だけに目をやると、「勉強」の「べ」から始まり、後は覚えていないが…それらの最初の文字をタテに連ねて読むと「べつどのした」となった。
私の大切なモデルガンがベッドの下から出て来た。
そんなことをする父だった。

110古さからいけば最初の『特攻大作戦』の方がレアかもしれないが、恐らく私のコレクションの中で最も珍しいのはコレじゃないかしら?『ボルサリーノ』。二種類揃ってるし。
『ボルサリーノ』は1970年の日本公開。『2』は日比谷映画で観た。
父はジャン・ポール・ベルモンドが好きでね、『リオの男』とか『カトマンズの男』とかを紹介してくれた。アレもおもしろかった。
それで私もベルモンドが好きになると、どこからかポスターを買って来てくれたことがあった。
当然大工仕事はお手の物だから、手作りでパネルを作って来て、そのポスターを貼ろうということになった。
そんなもんうまくいくハズもなく、案の定、ノリの水分でデコデコになってしまった。憐れベルモンドはイッキにゴミと化した。
そういえば、昔は木造の家の建築現場ってのがあちこちにあって、子供たちがその廃材に久ぐを打ってパチンコ(スマート・ボールかな?)だの手製の船だのを作って遊ぶことがあった。
私もその船を自分で作ったことがあった。船といってもただ五角形に切った薄めの板に船室に見立てた小さな木端を釘で打ち付けたような取るに足らない代物だ。
ところが、それを見た父が「そんなんじゃダメだ」と仕事場で立派な船を作ってくれた。うれしかったんだけど、さすがにプロらしく、正目の檜から切り出した木材の表面をノミで掘り出して、側にカンナをかけた、「木曽の土産」とでも言えそうな流麗な船仕上がりだった。イヤな予感がした。
さっそく家のフロに水を張ってその船を浮かべてみたら…見事に転覆して沈没していった。
こんなことって結構覚えているもんだわ。

120『さらば友よ』は観ていない。
コレ、1974年の1月31日にテレビ放映しているハズ。どうして覚えているかというと、死ぬほど観たかったんだけど、親に早く寝るようにいわれて泣く泣く布団に入ったんよ。次の日は2月1日で、ある私立中学校の入学試験日だったの。
それを受験するもんだから、前日の夜更かしは厳禁だったというワケ。
結果は不合格。
それなら観ておけばヨカッタ。
そして、いまだに観ていない。
アラン・ドロンも人気あったよね~。久しぶりに『レッド・サン』なんて観たいな。ドロンもまだご存命だ。

140

チャップリンの話しはほとんどしたことがない。どうもあまり好きではなかったようだ。
少なくとも『キッド』は自分の子供の頃を思い出すとか言ってイヤがっていた。別にウチの父は孤児じゃないんだけど…。
反対にマルクス兄弟が大好きだった。
私もその影響でDVDのボックスセットを買った。『A Night at the Opera』とか『A Day at the Races』とかね。Queenファンはコチラをご覧あれ。

そのせいか私もチャップリン映画はほとんど観ていない。でも、ナゼか自然とチラシだけは集まった。多分、私が中学一年生ぐらいの時にチャップリンのリバイバル・ブームがあって、映画館へ行くたびにチラシだけ持って帰って来ていたんだと思う。
今こそジックリ観たい。

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やっぱり単純で明るい人だったといえるのだろう。父はハリウッド映画とそれに準ずる娯楽映画以外は一切観なかった。
ベルイマンとかブニュエルとかフェリーニとか、いわゆる芸術映画を徹底的に忌避していたね。
私もそういうのは苦手で、『去年マリエンバートで』とか『8 1/2』とか、観るには観たけどサッパリよさがわからなかった。
そんなしかめっ面して観る小難しい映画よりも、ビリー・ワイルダーやヒッチコックや初期のスピルバーグを心から愛でていた。ワイルダーのお気に入りは『第17捕虜収容所』と『お熱いのがお好き』と『サンセット大通り』だった。
思い出したらキリがないな、ハンフリー・ボガードもお気に入りで、『黄金(原題は『The Tresure of Sierra Madre』)』とか『サハラ戦車隊』とか『脱出』、『アフリカの女王』、『必死の逃亡者』もすすめてくれた。全部破天荒におもしろかった。特にジョン・ニューストンの『黄金』はスピルバーグのお気に入りでもある文句のつけようがない傑作だと思う。

おかげで私も難しい映画は苦手。音楽はダンゼン難しい方が好きなんだけど。
でもチラシはチョット様子が違っていて、こんなサタジット・レイなんかも集めてみた。映画は観たことない。

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…と、とにかく色々と教えてもらったな。
父は落語にも造詣が深く、「生きている志ん生を見た」というのが自慢のひとつだった。
仕事中は現場でラジオを聞くのが常で、ラジカセのある現場ではテープを持参して落語をよく聴いていた。
私も父によろこんでもらおうと思って、図書館でレコードを借りて来てはカセット・テープにダビングして差し入れあげた。
すると、「お、可楽か?」、「三木助だな?」と片っ端から演者を言い当てていた。
若手では志ん生の息子、志ん朝と談志は別格だった。それと、「小金治がちゃんと古典をやっていればナァ」と嘆いていたナァ。
なぜコレを覚えているかというと私にとってのDavid Sanbornだったから。「Sanbornがちゃんとビバップを演奏してればナァ」という嘆きと同じだったからだ。


私も小づかい銭欲しさに中学の頃から父の仕事をよく手伝っていたので、その仕事現場で落語に馴染み、興味を持った。
浅草で仕事を手伝って、取っ払いで5,000円もらってそのまま秋葉原の石丸電気へ行って、少しお金を足して『Yessongs』を買ったことを昨日のことのように覚えている。
それと、よく柳家三亀松のテープを買い込んで聴いていたな。他にも虎三をはじめとした浪曲や相撲甚句なども好んで聴いていた。
あの浪曲ってのは「ひとりミュージカル」で、よく聴いていると結構おもしろいよ。
私のミュージカル好きも父親譲りなのだ。

私はというと、映画だけでなく映画音楽にも深く興味を持ち、月一回のNHK FMの関光男の映画音楽の番組を丹念にエアチェックしていたりしたが、The Beatlesを知ってから徐々に音楽単体に興味が移って行った。
あの頃に映画で知った音楽で今でも聴いているものも結構ある。
例えば『ルシアンの青春』のDjango Reinhardtや『好奇心』のCharlie Parkerなどがそうだ。

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他にも『スティング』に使われたScott Joplinのラグタイムもそう。ま、今はそう聴かないけどね。『スティング』はミュージック・テープをお茶の水の駅の横の小さいレコード屋で買った。
その他、ずいぶんポピュラー音楽が使われた映画が当時からあった。ポランスキーの『マクベス』なんでThird Ear Bandだもんね。『ビリー・ザ・キッド』はBob Dylan。Bee GeesやSimon& Garfunkelについては説明不要だろう。
こういう映画が私を音楽の世界に這い込むキッカケを作ってくれた。すなわち父からの流れだ。

130上にも書いた通り、父には「生きている志ん生を見た」というのが大きな自慢だったが、他にもうひとつ自慢があって、晩年まで私にその話しをしていた。これは以前、Marshall Blogに書いたことがあったように記憶している。
それは、『絶壁の彼方に』という1950年のイギリス映画を観ている…ということだった。
私はこの映画を『たかが映画じゃないか(←コレはヒッチコックの有名な言葉、明日解説します)』という和田誠と山田宏一の対談集で知った。何しろヤケクソにおもしろいらしいのだ。
この話を父にすると、「エ、何?『絶壁の彼方』?シドニー・ギリアットのか?ダグラス・フェアバンクス・ジュニアな!ジャック・ホーキンスも出てたよ。あれは本当におもしろかった。アッレ~?もしかしてキミ観てないの?あんなおもしろいのに!何で観ないの?」…なんて猛烈に私をからかうのである。しかも、毎回会う度にである。
そんな愉快な人だった。
こっちも悔しいので、あの手この手でビデオを探した。VHSがかつてあったようだが、モノは見つからなかった。
ま、死ぬまでに一回ぐらいは観ることができるだろう。楽しみはキープしておこう。

今日ここで触れた以外にも、一体どれだけの情報を私に授けてくれたことだろう。映画に限った話しではない。
忘れていたけど、父は写真がウマかったらしい。何だかのコンテストで優勝したことがあるとか言っていたが、賞状はおろか作品も見たことはなかったし、写真の話しなんかしたことなかった。
でも、後年私が「写真の仕事をしている」と告げると「ホホウ、僕の才能が遺伝したのかな?」とか言っていた。ホンマか?

こうして落ち着いてくると、結構色んな事が自然に思い出されて来てツライ。いくつになっても肉親を失うのは寂しいものだね。
私が幼い頃ふたりで行ったスキーのこと、交通事故で入院した時のこと、カップヌードルが発売になって大興奮で買って帰って来た夜のこととか、半分に切ったグレープフルーツに間違えて塩を乗せて食べさせてしまったこと(飛び上がっていた)、中三で入院した時、私が読みたいと言ったLed Zeppelinの本をお茶の水じゅうを探してゲットしてきてくれたこと、マーシャル祭りを観に来てくれたこと…もう、いつもしてもらってばっかりだった!
怒られたこともホンの数回あったけど、父といると笑いが絶えることがないのが普通だった。ずいぶん笑わされてもらったし、こっちもたくさん笑わせた。

お父さん、本当にどうもありがとう。
こうして考えてみると、私は完全にお父さんのクローンだわ。まったく出来の悪いクローン。
すなわちLike father, like son。
もう一回お父さんとイッパイやりながら映画の話しをしたいよ…。
続けられる限りMarshall Blogは続けるぜ!
さようなら、お父さん。
あ、お盆だからすぐ帰って来るか…。
それなら大好きな浅草でユックリしていけばいいよ。


  ★     ★     ★    ★


本稿に関連し、明日はMusic Jacket Galleryで『サウンドトラック盤特集』を掲載します。
お楽しみに!

(敬称略)

2015年3月26日 (木)

三文役者なわたし <前編>

まさかね~。
まさか、こんな日が来るとは思わなかったよ。
人間、生きていると本当に驚くべきことが起こる。そして、つくづく思い返したのは歳を取るのも決して悪いことばかりではないということだ。
「時間の経過が与えてくれる感動」とでも言おうか…歳を取っていくと若いうちには絶対に味わうことのできない大きな感動に遭遇できることがあるということがわかった。
長い間生きてる分、もちろん苦労も多いワケだが…。

ずっと以前はMarshall Blogに私的なことを書くのをなるべく控えてきたが、最近はそうでもなくて、私が若い頃に体験した音楽をはじめとしたあらゆるエンターテインメントについて触れて、忘れ去られようとしているよき時代を伝承しようと努めている。
決してジジイの自慢話しでも思い出話しではないつもりなのだ。

しかし、今日はタップリ公私混同させて頂いて、私的な思い出話しを書かせて頂きたい。タマにはいいでしょ?
いわゆる「カミング・アウト」ってヤツ?

私はゲームの類は一切やらないが、それでも高校1年ぐらいの時は夢中になったものである。
スペースインベーダーの登場だ。
あのブームは本当にスゴかった。ゲームセンターがそこら中にポコポコと現れ、どこも賑わいを見せていた。
その時住んでいた東京の東のはずれも例外ではなく、ごく普通の商店街にもゲームセンターがある日出現し、さっそく入ってみた。
それは何の飾りもないただの部屋にズラリとテーブル型のゲーム機が設置してあるだけのお店だった。例えて言うなら温泉場の射的場をさらに簡素にした感じか?
奥には長髪でヒゲをはやしたお兄さんが店番をしている。
フトその奥を見やると、ピックガードにヘビ革を貼った国産のストラトキャスター・モデルが壁に立てかけてある。
そのお兄さんはチョット怖い感じだったので勇気を出してこう訊いてみた…「お兄さん、ギターやってるんですか?」
するとお兄さんは実にやさしく、「やってるってほどじゃないんだ。あ、このギター?コレは僕の友達のギターだよ」と答えてくれた。
何でもその友達の方と住み込みでゲームセンターで働いているとのこと。その時はその友達がいなかったので、店番をしている日を教えてもらってインベーダーを1~2ゲーム楽しんでその場を離れた。

数日後、その友達がいるという日にゲームセンターに再び出向くと、店の奥には先日とは違う兄さんが座っていた。長髪で色白でチョー細身の人だった。何日も太陽の光に当たっていないのは明らかだった。
やはりストラトはその人の持ち物で、名前を大竹亨さんといい、私より4つほど年が上だった。
ナニを話したのか、後の細かいことは忘れてしまったが、とにかくすごく気が合ってたちまち仲良くして頂いた。正確には可愛がって頂いたということになろうか?

その頃の私は洋楽一辺倒で、学校で最もロックに詳しい一人である自信はあったが、国内のロックは全くと言っていいほど聴いていなかったので無知に等しい状態だった。
1978年頃、大竹さんはすでにプロとして渋谷屋根裏や新宿ロフトに出演していて、日本のロックについて色んなことを教えてくれた。

この真ん中の青い看板のお店がそのゲームセンターだった。
今はお好み焼き屋さんになっている。
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時折Marshall Blogに書いているが、その当時は自分たちで音源を作って販売するなんて構想は無いに等しく、自分たちの音源を世に出すにはレコード会社に認められてレコードを出すしかなかった。
こんなことはホントに奇跡のような話で、ライブハウスに出演できるだけでもバンドにとってはひとつの大きな大きなステップだった時代だ。
今みたいにスターバックスよりライブハウスの方が多いのではないか?というような時代ではないからね。
加えて、ミュージシャンたちも洋楽の黄金期のエキスをタップリと吸収したロックの権化のような連中ばかりで、楽器の演奏技術は高くて当たり前。どれだけ人と違うことをやるかに心血を注いでいるオリジナリティあふれる連中ばかりだった。


話しは反れるが、そんな連中でも持っている機材といえば、極めて貧弱なもので、ギターは国産が普通で、MarshallやFenderやGibsonが当たり前のような今とは全然ワケが違った。
しかし、みんないい音を出していたよ。腕は一流、機材はなにせ全部アナログのホンマもんのロック機材だからね。
今でもいいMarshallの音を出している人に出くわすと思わず、「昔、屋根裏やロフトで聞いた音だ…」と形容してしまう。

そんなライブハウスに出ている人がこんな場末のゲームセンターにいることも信じがたいことであったが、4つ年上の大竹さんにはロックに関する色んなことをたくさん教えて頂いた。

大竹さんがギターを弾いていたバンドは「三文役者」といった。
彼の影響で日本のロックに大きな魅力を発見した私は、三文役者のライブのテープを借りて聴き、いっぺんに好きになった。曲のよさがハンパじゃなかったのだ!

「それなら今度の屋根裏に遊びにおいでよ」と大竹さんはライブに誘ってくれたのだが、当時はライブハウスに行く高校1年生などは周囲にまったくおらず、親に相談して許可を得て渋谷に行った記憶がある。親は当然心配していた。
行ってみると、さほど大きくないスペースにホールと同じような大音響で演奏する様に腰を抜かしたが、とても楽しかった。
当時三文役者は屋根裏と新宿のロフトに月替わりで出演している感じで、すっかり魅せられた私は毎月そのどちらかに友達を連れて遊びに行くようになった。
そうこうしているうちに「ボウヤ」として三文役者のライブに出入りさせてもらえるようになった。
何せ金のない高校生の時分だったのでうれしかった。
イヤ、何よりも好きなバンドのメンバーの傍にいられて、ギターのチューニングをしたり、弦を張り替えたり…こんなことが最高にうれしく楽しかった。
自分が高校の友達と組んでいたバンドも完全に三文役者のコピーバンドになってしまった。当時のレパートリーなら今でも弾ける。

この人が大竹亨さん。
20v
その後、ほどなくして大竹さんはゲームセンターのアルバイトを辞め引っ越してしまったが、付き合いは当然続いた。
コレは引っ越す前に記念に…とお願いして作ってもらったサイン入り色紙…のようなもの。
大竹さんは手先が大変に器用でこの程度のステンシルはいつも簡単に作ることができるのだ。
しかし…「女学生」だって…死語だな。
50
この色紙と一緒にこんなのが出てきた。下敷き。今下敷きなんて持っている子なんているのかな?
時代を表すアイテムとして本文とは関係ないが掲載しておこう。
こういう時代だ。若いってはヤッパリいいな。野村さんワッケ~!
60
ある時、スゴイことが起こった。
大竹さんではない方のギターの人が高熱を出して屋根裏に出れそうもないので、私に代演してくれというのである。コピーバンドやっていたので全曲弾けたからね。
コレはうれしかったナァ。
高校生の分際で当時のライブハウスに出ることなど、昨日デビューしたバンドがいきなり武道館に出るようなものだ(←今なら十分あり得るか?…)。
この話しをもらって、家に帰った時、寝ていた両親を叩き起こして報告したことを覚えている。
結局、そのギターの人は無理を押して出演されたので、私の出番は2曲となったが、あの感動は一生忘れんよ。
今を時めく国民的バンドがまだ屋根裏の昼の部に出てた頃の話しだからね。
このロフトの創設者、平野悠さんの著書『ライブハウス「ロフト」青春期(講談社刊)』にも、スケジュールのページにRCサクセションやカシオペアやシーナ&ロケッツと並んで「三文役者」の名前が出ている。

S_img_0029 その後、私は大学に入り大竹さんの友人が手放すというMarshallを手に入れた。JMPの1959と1960AXだった。
コレがおっそろしく音がデカくて、とうとう歪んだところを聞いたことがないうちに手放した。
私は国産のストラトとOD-1、CE-1、それにSpace Echoをつないで1959を使うのが好きだった。
そして、時を同じくして、大竹さんではない方のギターの方が三文役者をお辞めになるのを受け、バンド参加の誘いを頂戴した。
これも当然うれしかった。まだ18の時だ。私はプロのギタリストになりたかったのだ!

当時メンバーの入れ替えを機に「三文役者」もボーカルの哲さんをフィーチュアしたバンド名に変えようということになり、一時期「哲&ATOMS」と名乗っていた。口にすればわかる通り、「鉄腕アトム」に聞こえるというのが由来。
しばらくしてまた「三文役者」に戻ったが、私は18~19歳の2年間お世話になった。
その間、毎月屋根裏かロフトに出演し、吉祥寺に新しいライブハウスが出来たというのでシルバー・エレファントにも何回か出たかな?埼玉大学や慶応大学医学部の学祭に出てビートたけしの前座をやったこともあった。
二度ほど関西方面へツアーにも出かけた。名古屋のElectric Lady Land(もちろん昔の方ね)、京都のフレンチマーケットや磔磔、大阪の寺田町にあったスタジオあひる、千日前にあった夢屋などに出演した。
当時はインターネットなど当然なく、宣伝することすらままならないので、見知らぬ土地で集客なんかできるワケがない。動員は予想通り苦しい展開となったが、個人的には「ツアーする」ということが実にカッコよく思えてウキウキだった。
京都で肩をハチに刺されてストラップが付けられなくなったり、大阪では大好きななぞなぞ商会と対バンしたり、ELLや磔磔のような名門のライブハウスのステージに上がれたり、と思い出に尽きない楽旅となった。

その後、徐々にロック熱が冷めてきたり、自分の才能のなさを思い知ったり…と将来への不安も大きくなり、学校へ戻る決心をして、無理を承知でバンドを退団させて頂いた。
時代はパンク/ニューウェーヴのムーブメントを経て80年代に入っていて、ロックは急速にポップ化の道をたどり、大衆におもねる姿勢を示したことに幻滅を感じたことも大きな理由だった。
以降私の音楽の嗜好の中心はジャズに移行した。

後悔はまったくない。
こうして縁の下の力持ちとしてミュージシャンをサポートしたり、写真を撮ったり、文章を書いたりして、文句を言いながら側面的に音楽の魅力を伝える方が性に合っている。
だいたいね、ミュージシャンになる第一の条件は…食べ物に好き嫌いが全くなく、どこでもすぐに平気で寝ることができて、世間のことには少し鈍感なぐらいでなければとても持たん!私には音楽的才能の欠落の前にそうした難関もあったのだ。
そして、バンドを辞めた後は、学業に専念し(コレはウソ。とにかく大学を卒業しただけ)、ジャズのビッグバンドでギターを弾いた。
その関係でバンドを辞めた後もブラスのアレンジをして、ビッグバンドの管楽器の連中と一緒に新宿ロフトに出させてもらったことが一回あった。あれも楽しかった。
その後、就職して地方に赴任してしまったため完全に大竹さんとも哲さんとも疎遠になってしまった。

こんな青春を過ごしてきて、振り返ってみるに、今の斯界の音楽の状況があまりにもイビツな恰好をしていることに驚きを感じ得ない。
それに同感する諸兄も多いのではなかろうか?
最近、この三文役者が活躍していた時代のご同輩たちが集まり、次々と音楽活動を再開している傾向がある。
ドンドンやるがいい。大人が聴けるロックを演るのだ!
ロックは若者のモノであると同時に元来大人のものだったのだから!大人のロックはもうジジイが演るしかない!
そんなムーブメントが感じられる中、とうとうやらかしてしまったのだ。
いい大人が最後の悪あがきを見せてくれるというのだ。
三文役者の復活である。

そこで、Marshall Blogはその三文役者のワンマン・ライブを公私混同で2本立てでお送りするワケだが、その前に少しだけこのバンドの説明をしておきたいと思う。

三文役者はPANTAさんの芝居の仲間であった花之木哲という人のバンドだ。
哲さんが曲を作り、歌っている。
優れた作詞家でもある哲さんは、PANTAさんの『PANTAX'S WORLD』の中の「三文役者」と「EXCUSE YOU」という曲の詩を提供している。
もちろん、この「三文役者」という曲がバンド名にスライドしていることは言うまでもない。ちなみにこのレコーディングではCharさんがギターを弾いている。
大分前にこのことをCharさんに言ったら「オマエ、何でそんなの知ってんだ!」と笑っていらした。さすがCharさん、日本人離れした分厚いギターがカッコいい。

30さらに『走れ熱いなら』では「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」、「追憶のスーパースター」等の詩を提供。
「三文役者」、「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」あたりは私もよく演奏させてもらった。
そんな関係で、一度新宿ロフトの時にPANTAさんが飛び入りで出演してくれたことがあって、ファンだった私は興奮しまくった。
「Cadillac」というブルースだった。The Kinksの「Cadillac」ではない。
ちなみにこのジャケット写真、双方鋤田正義さんの撮影。この後の『マラッカ』も『1980X』もそう。PANTAさんの写真はいつも鋤田さんだ。

40そしてコレは三文役者の12"シングル。LPサイズ、45回転の4曲入り。当時はまだ珍しかった自主制作盤だ。
新宿ロフトの昼間を借り切って録音機材を持ち込み一発録音した。
コレが思い出せない…。高校生だった私は一部始終を見ているのだが、日曜日だったのかな?昼間に録音したことは間違いない。それとも平日で学校を休んで行ったのかな?
…と思ってインターネットで調べてみたら、案の定日曜日だった。

「三文役者」、「北斗星」、「サド書簡」、そして当時新曲だった「東京デストロイシティ」の4曲が収められている。

80その中から出てきたのがこの「ロッキンf」誌1980年5月号の記事のコピーを使った宣材物。このレコードについて書かれている。
どれどれ…
「彼らには3原則がある…
1. ファンには絶対に手を出すな。破れば即クビである。
2. ステージの前及びステージ上での禁酒禁煙。
3. 時間厳守。
ま、そういうバンドだった。

70

そしてこれは名曲「怒雨降り」と「風」を収録した10"シングル。
これは目黒のスタジオで録ったような…。これも私が高校の時。
夜中の録音で、終了後、大竹さんの家に泊めてもらってそこから直接学校へ行った。
この後にも音源を制作しているが、ここでは自分に特にかかわりの深い作品を紹介した。我がセイシュンなのだ!

90そんな思い出がたくさん詰まった三文役者。
とうとう我々の前に再び姿を現したのだ!

…といってもコレが初めてではなくてPANTAさんといっしょに昨年の暮れにも舞台に上がっていたのだが、私はインフルエンザで行けなかったのよ。
これまただいぶ前の話しだが、頭脳警察のトシさんが「哲がまた三文やるって言ってたよ」とおっしゃっていた。
その時から、ずいぶん時間が経ってしまって、はたしてコレがそうなのかはわからないが、とにかく哲さんが帰ってきたのだ!
120
この人が花之木哲。
実は私の結婚式にもご参列頂いている!
100v
ベースは石井正夫。
130_2正夫さんは三文役者のオリジナルメンバーというより創設者のひとり。
元頭脳警察のメンバーで日本のロック史に残る必殺的超スーパーウルトラ名盤『悪たれ小僧』のレコーディング・メンバーでもある。
アタシャ、このアルバム、高校の時に大竹さんから教わって聴いて好きでネェ。今でも聴いてる。
そのレコーディングメンバーの正夫さんと一緒に演奏できるってんでものすごくうれしかった。
ちなみにこの日、同じくレコーディング・メンバーの勝呂和夫さんも会場にいらしていて正夫さんにご紹介頂いた。
すごく腰の低い方で、この方があの狂気の「戦慄のプレリュード」や「真夜中のマリア」なんかを弾かれていたとはチョット信じがたかったが、とにかくうれしかった~!

140cdドラムはさとっちょ。
さとっちょは元是夢(ゼム)というバンドのメンバー。
このバンド名に聞き覚えのある方もいらっしゃるだろう。昔、某楽器メーカーの広告に出ていたバンドだ。
「俺たち浦和のツェッペリンじゃなく、世界の是夢になりたいんだ」
これが広告のキャッチ・コピーだった。
是夢というバンドも凝った曲作りが魅力的ですごくいいバンドだった。

150vそして大竹亨。いわゆる「ちぇり~」。
ヘタすると私をこの世界に引きずり込んだ犯人。
コレがまた不思議で、何でまた大竹さんと再会したかというと、SHOW-YAのsun-goさんのおかげだったのよ!
最後に会ったのは22歳ぐらいの時だから30年ぶりの再会だ。ゼンゼン変わっていない!
ステージ・ネームは「ちぇり~」ということになっているけど、私はいまだに「大竹さん」と呼んでいる。
だって子供の時に知り合った大竹さんは、私にとっては永久に「大竹さん」なんだもん。今更とても恥かしくて「ちぇり~」とは呼べん!

110

G→D→B…何回弾いたことか…。オープニングは当然「三文役者」!

160「♪待ち続ける朝の光…歌い続ける人の愛…演じ続ける三文オペラ」…一生忘れないわ。

170v大竹さん、昔はMUSIC MANのコンボを使っていたんだけど…

180今日は1962 Bluesbreaker。

190ああ~、哲さんの声だ!
ナンカ30年前よりパワーが増してる感じ!

2002曲目は「あやつり人形」。
PANTAさんはコレをレゲエで演ったが、三文役者はストレートな8ビートでヘヴィに聴かせる。

210また正夫さんのベースが堅実かつ剛健でいいんだ~。ベースらいしいベース。低音以外は何もいらない!って感じ。
昔はね、1992SUPER BASSを使ってたんだよ。ステージの上で私の1959と並べていたんだ。

230v「♪あやつり人形さ、人間なんて…」
しっかしいい曲だナァ。
300
さとっちょのヘヴィなビートがバッチリとマッチする。是夢のころからカッコいいドラムだな~って思ってた。

250ここでビックリするMCが…。
次の曲は「聖羅」というロッカバラード。昔からある曲で、ずっとバンド・アレンジで演奏してきたが、『主役だけじゃつまらない』というアルバムの中で哲さんはピアノをバックに録音した。
今回のコンサートではそれを再現すべく、ピアノを弾いた「タコ」こと高島田裕之というキーボード・プレイヤーを呼ぼうとしたが、それはかなわなかった。
私も最後期に一緒に演奏させてもらっていたので、久しぶりに会いたかったが、この哲さんのMCでもう二度とお会いできないことを知った。
このコンサートの数日前に亡くなったというのである。
タコさんは底抜けに明るい人で、腕も確か。後にマキさんのバンドでも活躍したと聞いた。
この場をお借りしてご冥福をお祈り申し上げます。

260この「聖羅」という曲は昔「おまえ」というタイトルだったのかな?

240v

古式ゆかしいロッカバラードの典型のような曲。そう、ロックのバラードはコレでいい。
情感豊かに絞り出すように熱唱する哲さんの姿が印象的だ。
310v
第一部最後。
「今日は特別よ!」と私に言っていた哲さんが最後に選んだのは「コルト63」。
270v
うれしいわ~。
哲さんが自作ミュージカルのために作った曲のひとつ。
この楽しく、ハードな曲が大好きだった。

290元々この曲のタイトルは「コルト●●」の●●にその時の年を入れることになっていた。
一番古いところで記憶に残っているのは「コルト'77」ぐらいかナァ。つまり40年以上前の曲ということだ。
今年は1963年でも2063年でもない。
「63」とは哲さんの齢というワケだ。若い!
ホント、身体を悪くされたと聞いていたが何のことはない、昔よりよっぽどパワー・アップしているし、声もよく出ている。何よりも歌がうまくなった!(失敬!)
昔から根性とエネルギーが服を着ているような人だった。

330その鉄人を支える鉄壁のバンド陣!

340シンプルにしてタイト。

350vハードにしてロマンチック!ああ、やっぱりいいナァ、三文役者!
320v
…と、コレだけ読んだらMarshall Blogをご愛読頂いている方は三文役者を見たくなったでしょう?
4月18日、新宿URGAに出演するので是非この日本のロックの生きる化石のようなバンドを体験してもらいたい。

三文役者の詳しい情報はコチラ⇒三文役者オフィシャルサイト

360v【特報!!】
チョット、これはスゴイよ!
大人のフジロックかサマソニか、はたまたHigh Voltageか?!
外道、頭脳警察、めんたんぴん、THE 卍、そして三文役者が一堂に会するスペシャル・コンサートが決定した。
おやじニンマリ。
6月28日、場所は新宿のスペースゼロ。
ここは2000年にJim Marshallを呼んで「マーシャル祭り」を開催した会場だ。
ん~、運命を感じるネェ~!

June あ~、今日はタップリ書いた!
<後編>はもっとサッパリいきます!

(一部敬称略 2015年2月21日 荻窪ルースターズ・ノースサイドにて撮影)

2015年3月18日 (水)

【追悼】Andy Fraserのこと

まただ…。
またロック界はひとりの偉大なミュージシャンを失ってしまった。
Andy Fraser…2015年3月16日永眠。

今日は予定を変更して、ロック史に偉大な足跡を残す名バンド、FreeのベーシストにMarshall Blogでは未公開の写真を交えて追悼の意を表すことにした。
1_30v
AndyがMarshallの創立50周年を記念するコンサート『50 YEARS OF LOUD LIVE』に出演したことは詳しくレポートした通り。

50 YEARS OF LOUD LIVEの詳しいレポートはコチラ⇒Marshall Blog

私は決して熱心なFreeのリスナーではなかったが、ロックを聴き出した頃はご多分に漏れず『Fire and Water』や『Free Live』等の前期の作品は聴いたものだ。
その頃、私はPaul Rogersの声とAndy Fraserのベースが好きで、AndyがFreeを脱退した後、Chris Sppedingと組んだSharksというバンドのレコードが聴きたくて当時ずいぶん探し回ったが、手に入れることができずいまだに聴けていないことは以前にも書いた。
そんなだから、このMarshallの記念コンサートにAndyが出演するということを知った時はとてもうれしかった。

そして、コンサートの前日、通しリハをやっているテムズ川の南のバーモンジーというところにあるスタジオに赴いた。
ライブハウスのイベントじゃあるまいし、律儀にリハは逆順でプログラムされていた。
Andyが参加するGlenn Hughesのセットは本番ではトリの登場だったので、リハの順番が一番最初で、かなり早い時間からスタジオに入っていたようだった。
それでもAndyもGlennは下の写真の通り元気モリモリ!

1_10正直言うと、私にとってのAndy Fraserは『Fire and Water』のジャケットの左端の人だったので、スタジオに入った時、ベースを弾いている人がAndyのホンモノだとはパッと見わからなかった。
それにリハが終わるとすぐにお帰りになってしまったので挨拶することもできなかった…後悔している。

ちなみにこのアルバムの一部はロンドンのTrident Studioで録音されている。ということはFreeの4人もあのスタジオにつながる細い路地を歩いていたのか…。

1_15cdAndyのミュージシャンとしてのキャリアは大変長く、Alexis Kornerのお嬢さんと学校で知り合い、それが縁でAlexisの推挙でJohn Mayallのバンドに加わったのはAndyが15歳の時だったという。
さらにAlexisのつてでFreeに参加することになった。
Andyは1952年生まれ(私よりたった10歳上なだけ!)なのでFree結成時には16歳…ということになる。
Andyだけでなく、1968年のFree結成時、全員が10代だった。結成の翌年、20歳と19歳と18歳の若者がリリースしたのが『Tons of Sobs』なのだ。
信じられん!

1_20リハーサルの翌日、Glenn Hughesに「この人がいなければ私はベースをやっていなかった!」と紹介されウェンブリー・アリーナに颯爽と登場したAndy Fraser。
FreeはThe WhoやDeep PurpleのようにMarshall史に頻出するバンドではないが、Marshallが自社の製品を使ってもらったことに対し、大きな誇りを持てるバンドのうちのひとつだ。
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今、コレを書きながら『Tons of Sobs』を聴いているのだが、まさにウェンブリーで聞いたAndyのベースはこの音だった!
しかし、こうして改めて聴くと最高にカッコいいな…思わず聴き入って作業する手が止まってしまう。コレで18とか19歳か。

1_40パワフルに「Mr. Big」を歌ったのもすごく印象的だった。

1_40v

AndyはFreeを2回脱退した後、Sharks他いくつかのバンドを経てアメリカに渡り、プロデュース業に携わっていたが、HIVとガンを併発し病魔との闘いを余儀なくされた。
それゆえ目立った活動の情報が、我々一般人の耳に入ってくることはなかった。
このウェンブリーのステージは、Glennからもアナウンスがあった通り「Andy Fraser」の復活を告げるものであり、その事実に偽りなく、自分のバンドを引き連れて来日したことも記憶に新しい。
それなのに…。

1_60またひとりロック・ジャイアントがこの世から姿を消したことこそが本当に「tons of sobs」なことだ。ゼンゼン「All Right Now」じゃない。
心からご冥福をお祈りします。

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(敬称略 ライブ写真は2012年9月21~22日ロンドンにて撮影)

2013年7月12日 (金)

マーシャル創立50周年記念コンサートにむけて~その1

2012年9月19日 Shige Blog 初出

で、結局またイギリスに来ているワケ。先週の金曜日に『イギリス紀行2012』を脱稿したばかりなんだけど、また始まっちゃった!イヤでしょう~?ライブ・レポートの方がいいでしょう~?でも今回のレポートは今週の土曜日、9月22日に開催される『マーシャル創立50周年記念コンサート』にむけての、ま、何というか、イントロみたいなものだと思ってくだされ。

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50年…企業が半世紀も持ちこたえるというのはなかなか大変なこと。しかも生き馬の目を抜く楽器業界というか、あまりにも移り変わりが早く激しい音楽業界の中での50年生き残るというのはスゴイことだと思う。例え出発は他社品のコピーであったとしても、結果的に独自のサウンドをクリエイトし、つまりヤケクソに強力なオリジナルな商品を作り出し、発展させ続けてきたことがよかったのだろう。

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玄関は50周年ロゴで飾り立てている。
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…ということで、徐々に土曜日に向けてなにがしかの情報をお届けできたら…と思っとりやす。できるかな~?

今日はマーシャルの工場周辺の情報ね。

これは工場から歩いて10分ぐらいのところにあるサンドイッチ屋さん。4、5年前にスティーヴ・ドーソンに教えてもらった。

こっちでは朝のトースト以外、パンを焼いて食べる習慣がどうもないらしく、カチンカチンに冷たくてヘビーデューティなサンドイッチばかり食べている。アタシャ、これが苦手でね~。だって、もう虫歯でもあろうもんなら飛び上っちゃうほど冷たくて硬いんだから!だから今回も来る前にちゃんと歯医者さんへ行って歯の手入れをしてもらった(これホントです)。それよりも何よりも、温かいものが食べたいですよ。

そんなサンドイッチ環境にあって、ここのお店はベーコンエッグみたいなものを作りたて、焼きたてのまんまパンにはさんで出してくれるのだ。でも残念ながらパンは生なのね。
Sandwich

メニューを見て、パンを選んで具を選ぶシステム。すると係りのオバさんは(3人ぐらいいて、一種のユニフォームなのであろう、なぜかみんな同じカンカン帽をかぶっている)そのオーダーを聞いて紙袋にジャンジャンそのオーダーを書き込んでいく。それでその袋をキッチンのオバさんに渡す。つまり、紙袋が一種の伝票になっているのだ。

それ見てたら昔よくあった駄菓子屋の奥のもんじゃ屋さんを思い出しちゃった。
Bag

今回の具はベーコン&エッグのブラウンソースがけ。これが滅法デカい!そしてうまい!ソースがかかってなければもっとまいう~。パンが焼いてあって少々野菜がはさんであれば完璧よ!って作り直した方が早い。ま、それは冗談でマジで存外においしのですよ。これで300円ちょっとぐらいかな?ベーコンの量が尋常じゃない!
Bacon

ホテルから工場までの通勤路。
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途中にこんな立派な教会もある。そういえば葬儀屋もある。で、この教会、失礼なので写真は撮らないが、車通りのメチャ激しい道路沿いに墓地があって、あまりにも環境がよくない。あれらのお墓はおそらく17~18世紀のものなんでしょうな。当然土葬。最近イギリスは火葬が多くなったらしいが、このお墓に眠っている人たちは土葬に決まってる。その横をジャンジャン人やら車が行き交っているんですよ。考えてみりゃ夜はコワイな。でもそんな感じがしないのが不思議。
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昨日入ったThe Chequresというパブ。

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今日はこっちの店に入ってみよう。
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で、入った。当然エール。「The Bitter」とかいう銘柄。ややこしいね。これが£2.70!東京のアイリッシュ・パブなんかの1/3ぐらいかな?安いよ~。
Bitter

おなじみテスコ。高円寺や新大久保にもありますな。イギリスで一番大きいスーパーマーケット・チェーン。とにかく海外へきて一番面白いのはスーパーよ、スーパー。ここで今晩のごはんのお買いもの。
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ブーブー言っておきながら結局サンドイッチ。テスコのサンドイッチ、今まで何個食べたかなぁ?ゲンナリするナァ~。と思いつつこの新商品「British Ham & Engish Mustard」ってのを買ってみた。これが実にウマイのよ!思いっきりマスタードがきいてて実にウマイ…というよりも「覚悟」と「あきらめ」と「慣れ」がそうさせてくれたんでしょうね。でもまた食べてもいいわ。
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いわゆるジャケ買い。パッケージに惹かれて買っちまった!これポテチなんだけどね…ズイマ!

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明日ここへ行ってみようかと思ってる。フィッシュ&チップス屋でいいのかな?

ここで注目してもらいたいのは看板に書いてある英語。「Eat In or Take Away」と書いてある。あのさ、お店で食べるのと持ち帰りは「Here」と「To go」って習うでしょ?「間違っても日本のハンバーガー屋さんみたいに『いーといん』とか『ていくあうと』とは言いません!」とか聞いたことあるでしょ?

「Here」とか「To go」はアメリカの話。ここ英語のふるさとではお店で食べていくことを「Eat In」と言うですよ!でも「テイク・アウト」とは言わない。「テイク・アウェイ」となる。「テイク・アウト」はピクニックみたいに外で摂る場合に使う表現。

そういえば中学の時、「海外ではトイレットとは言いません。バスルームといいます」と習った記憶がある。イギリス人はみんな「トイレット」って呼んでますよ。「バス・ルーム」なんて誰もいわない。せいぜいアタシぐらいかな?だって習っちゃったんだもん!とにかく聞いたことがないのはLavatoryとかいうヤツね。

…なんてエラそうこと言っとりますが、何が言いたいのかというと、学校で教える英語はもうちょっとイギリス英語にするべきだと思うんですよ。英語のふるさとなんだから。アメリカ英語でもいいけど、イギリス英語の単元もあっていいと思う。

ついでに英語で苦労している身としてもうちょっと書かせてもらいますが、藤原正彦先生じゃないけど、小学校に英語の単元を繰り入れるなんてことはヤメろ!もっと国語の勉強もしくは読書をさせろ!人間の知的水準を上げるには読書が一番簡単で一番有益だと思うね。それも小さいうちに読まなきゃダメ。中学校ぐらいまでは世界の名作を徹底的に自分の国の言葉で読ませるだよ。え?自分は読んだのかって?いいえ。だからこんなんなっちゃったんですよ!後悔してます。

友達のノン・ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーの連中はみんなホントに英語がウマい。スペイン人の友達なんか何の不自由もなく英語をしゃべるけど、英会話学校なんて行ったことないって言ってる。学校で勉強しただけなんだって。おっかしいナァ~境遇は変わらないんだけどナァ。

やっぱりね、英語のカリキュラムがマズイと思うんですね。もっと中学の時に文法をつめこんで、第5文型とか仮定法までとにかく覚えさせる。で、高校ぐらいから徹底的に会話をやったらどうかね?で、単語は中一から試験のたびに最低500~1000個ぐらいずつ覚えさせる。すると中学三年間で10,000を超える語彙を有することになるでしょ。我々は日常の会話で50,000語使ってるそうだけど、英語の人たちは20,000語しか使わないんだって。だから若い時からやっていれば難なく日常語は制覇できるはずなのよ。

文法は身につけているから高校になって会話の勉強をしたら信じられないぐらいの進歩を見せるって。ネイティブでない人は文法なくしては絶対に上達しない、もしくは上達が遅くなるからね。単語はブロックで文法は設計図。設計図にそってブロックを積んでいけば家が建つっていう寸法なんです。文法がダメなら単語だけでもやらせるこったよ。どんなに発音がうまくても、会話表現を知っていても語彙がなければニッチもサッチもいかないからね。

あ~、イカン!自分が英語で苦労しているからってこんなに書いちまった!スミマセン。

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ホテルの裏ではサッカーを盛んにやってた。

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マーシャル、50周年おめでとう!

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つづく…と思う。



2013年4月20日 (土)

ありがとうジム・マーシャル!<後編>~I Remember Jim! 3

Shige Blog 2012年4月20日初出…ウワ!ちょうど1年前の今日だ!

2002年5月、ついに私はマーシャルのあるミルトン・キーンズの地に立った!ザック・ワイルドのシグネイチャー・モデル2203ZWが発表される直前のことだ。その時はまだスティーヴがマーシャルにいて、The Gerorge InnというB&Bに宿を取った私と食事をするために、夜、出てきてくれた。ラリー・コリエルとフィリップ・キャサリンの名ライブ『Twin House』のジャケットのようなこの建物がThe George Innだ。

それまで何度も日本で彼を迎えた私に向かって発した言葉は…

「シゲ!とうとう来たじゃないか!とうとうマーシャルに来た!」

だった。私をハグハグしながらしきりに背中を叩くスティーヴにわからないように泣いたよ、あまりにも感激して…。

Sgi2

この旅は私にとってはじめてのヨーロッパ探訪で、見るモノ、聞くモノ、喰うモノ、嗅ぐモノ、感じるコトすべてが新鮮で、それまでアメリカ一辺倒だった私にいい意味で大きなショックを与えてくれた。下の写真はこのB&Bの前の通りの様子。この道は古代にローマ軍が行進した道だという。つき当りに古い教会が見える。

Street2
その教会がコレ。失礼な行為かもしれないが、ちょっと中に入って、お墓の墓碑銘を見ると、16~17世紀のものばかり。そこここに歴史を感じざるを得ない。そして、頭に浮かぶメロディを抑えることはできない…もちろんキング・クリムゾンだ。

Church2
これは部屋のようす。5月だというのに昼間からガンガンと暖房がついていた。「キタへキタ~!」と実感する。ここの主人や奥さんがまた最高にいい方々で、アレコレと面倒をみてくれ、一気にイギリスびいきになってしまった。

Room2
ついでにこれは滞在2日目以降に泊まったホテルとその庭。湖は人口のものだが、その美しさに息を飲んだ。ここのロースト・チキンと揚げたてのフライドポテト(Chips)がおいしくて、その後もここに泊まるたびにオーダーしたっけ…。なんだか『イギリス紀行』みたいになってきちゃった。

Coldecotte2

そしていよいよマーシャルの本拠地に!
Factory02

中に入る前に何枚写真を撮ったことか!
Factory3

左から右から…なめるように全景を拝んでおいて…

Factory2

…イン!

感激したな~。マーシャルだもんね。正真正銘、初めて自分で撮ったマーシャル本拠地の写真。

Reception2

正面玄関の2階にあったミュージアム。今は大分様子が変わった。

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この時、イギリス国内の楽器店の販売担当者を集めての商品研修会があり、ついでに出席させてもらった。

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若い男の子ばかりだった。研修会の終了後、私が泊まっているThe George Innで出席者を集めた会食があった。そこで偶然隣り合わせになった男の子と話しをした。どこから来た子だったか覚えていないが、自分の子供の年齢と大して変わらないようなとても若い子だった。当然会話は音楽の話しとなる。それぐらいしか共通の話題がないからね。そこで驚いたのが、この子の出すその話題。

ディープ・パープルなのだ。他にも「整流管ってな~に?」なんて話しも出たが、それよりパープルだ。「知ってる?」なんて訊いてくる。「オジちゃんは『Made in Japan』のコンサートを観に行ったんだよ!」とウソもつけないので、「オジちゃんはレインボーの『On Stage』の時、ブドーカン(「ブ」に思い切りアクセント)の席に座っていたんだよ!」と告げると、すかさず手を出して「握手してください!」とおおよろこび。こっちは鼻タカダカ!実にイイ気分の会食だった。

それまでアメリカ人とはずいぶん音楽の話しをしたことがあったが、相手が老若男女を問わず、ディープ・パープルの話しなんかしたことなかった!イギリスの素晴らしいロック事情を垣間見た気がした。

そして!次の日の晩はいよいよジム・マーシャルとサシで食事なのであった!

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翌日、各部門の担当者にあいさつをし、打ち合わせを済ませてから、当時の重役らとブレッチリーという近くの街の「Voong's」という中華料理店へ連れて行ってもらった。いきなりモソモソと食べだすのもナンなので、「自己紹介をさせてください」と断ったうえで一席ぶった。

ひと通りありきたりの挨拶をして、いよいよパンチ・ライン(オチ)へ突入した。「私は1962年生まれ。マーシャル社と同じ年なんですよ。だから私のこと”Bluesbreaker”と呼んでください」とやった。

ここでドーンと来ると思ったワケです。「ヒュー、ヒュー」とか…。そしたら完全にドン引き!ドン引きに加え明らかに「?」が出まくっていた。もしかしたらこの人たち「1962 Bluesbreaker」知らないんじゃないの?とさえ思いましたよ!

その後、10数年の間に何度この「Voong's」に連れて来てもらったかわからない。ベトナム人が経営している中華料理店で、我々が横浜や神戸の中華街で食す中華料理とはかなり隔たりがあり、やや無難な言い方をすれば過剰なまでに味つけにオリジナリティを加えているのだ。

ジムはここのスペアリブが大好きだった。晩年、手が不自由になった時、となりに座っていた私に「シゲ、世界一うまいあのスペアリブをいくつか私の皿に乗せてくれるかい?」と頼んでくれたりした。そのスペアリブをおいしそうに頬張っているジムの姿も忘れることができない。

さて、話しは戻り、ジム・マーシャルと初の会食!ジムと当時のパートナーとヴィクトリア、そして私の4人!緊張したな~。ジムは行きつけのイタリア料理店「The Bell」というお店に連れて行ってくれた。築100年は優に超す古いパブ風のレストランだ。

この時は、洋式の食事の手順を知らなかった(フル・コースとかそういうことではない…)。というのは、バーで食事の準備が完了するまでオリーブの実なんかをかじりながら軽くイッパイやる。これを知らないもんだから、「ずいぶん質素なオードブルだな…」と思いつつ緊張をほぐそうと最初からグビグビとワインをいただいてしまう。

ほどなくすると、イタリア人のご主人が出てきて「r」を思い切り巻きながら、「お食事の準備ができました~」というではないか!「エ~、これから本番なの~?」と驚きつつ席を移す。

ジムと当時のパートナーが目前にお座りになり、ヴィクトリアが横に…いっくら飲んでも緊張するって!だって、ジム・マーシャルとその家族とサシでお食事ですよ!

「好きなドラマーは誰ですか?」

「ジーン・クルーパじゃよ、フォッ、フォッ、フォッ!」

なんてことを話したナ。「ラウドネスを知ってる」とかおっしゃっていた。

こういう時のジムの客をもてなす気遣いはさすがで、こんな若造にでもドンドンとワインを注いでくれる。「注ぎ上手」っていうの?うれしいんだけど、前半で飛ばしすぎてもう飲めないって!しかも、昼間は昼間であんな自己紹介をしたもんだからロクに食べてない!これで酔わない方がおかしい。時差ボケもすさまじい!

何とか最後までがんばったんだけど、自爆。下の写真はその後で「100年物のブランデーを飲もう!」とジムの自宅へ呼んでいただいた時に撮ったもの。

シンドかったけれど、最高に幸せな夜だったナ。まさか、ジム・マーシャルの家にお呼ばれするなんて、ギターを始めた頃、イヤ、お邪魔する直前まで想像したことすらなかった。「ちょっと寄ってや!」みたいに声をかけてくれるところが本当に庶民的で「オヤジ!」という感じだった。

この後も何度かお邪魔させていただいたが、人生の成功者が住むにふさわしい豪邸で、池のある庭がとても美しかった。「こういうのを日本では『Park』って呼ぶんですよ!これがホントの『Park』」なんて笑わせたこともあった。

そういえば、工場に行ったある時、レセプションで待機していたら、ヒョコヒョコとジムが玄関から入ってきて私を見つけると、「お、ナンダ来てたのか?」と気さくに声をかけてくれる。ジムの顔を見るとかさぶたができていて、「チョットそのお顔どうしたんですか?」と訊くと「イヤ~、転んじゃってサ、フォッ、フォッ、フォッ!ところでメシ喰った?喰ってないなら、シゲ、いっしょに喰いに行こうよ!」なんてこともあった。

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2003年の楽器フェア以降、来日することはなかったが、海外の楽器ショウではよくご一緒させていただいた。特にフランクフルトではマーシャルの一員のように私を扱ってくれ、実に楽しい時をすごした。

これはそのフランクフルトでのショット。開催中に世界のディストリビューターを招待して催される「マーシャル・ナイト」と呼ばれる巨大なパーティだ。

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まだ元気なころ、ここで興が乗るとジムはよくスティックを握ったものだった。
まさか、へヴィ・メタルを演るワケでもなく、やわらかに4ビートを刻むのだ。

そして、もっとノッてくるとスティックをマイクに持ち替えて自慢のノドを披露してくれた。よく歌っていたのはガーシュインの「S' wonderful」とディーン・マーチンばりにシブくキメる「Everybody Loves Sombody」。同じくガーシュインの「Somebody Loves Me」も得意だった。

ジムの声はマーシャルの歪みとは正反対で、クリーンそのもので(マーシャルはクリーン・サウンドも素晴らしい!)、本当に澄んだベルベット・ヴォイス。ジャズが大好きな私としては結構その歌を楽しみにしていた。

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それから数年後の同じフランクフルトのパーティでのショット。もう手足の自由はままならなかったが、スティックを握ってグラスを叩き、会場を大いに盛り上げた。こんなときでも大好きなハバナ産の葉巻とマカッランは欠かせなかった。

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とにかくいつでもジムのまわりはたくさんの人が溢れていた。これはフランクフルトのマーシャルのスタンド。

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ジムのサインをもらおうと長蛇の列ができる。この光景は最後の最後まで変わることがなかった。

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これは私がジムにもらったサインの一部。もっともらっておけばヨカッタ!サインをもらった年を見るとナゼか一年おきになっている!

きっと誰でもそうだと思うが、私はサインをするジムの姿が好きだった。いつも愛用のマジック・インクを持っていて、どんな時でも、誰がペンを差し出そうとも、使いなれたマジックしか使わなかった。そして、あの有名なサインを色紙や本にキリリと施していた。

普通の人は生まれてから死ぬまでに自分の名前を30,000回書くといわれているらしいが、ジムが生涯を通じてしたサインたるや一体どれくらいの回数になるんだろう?
普通の人の10倍や20倍ではきくまい。これもジムの偉業のひとつだったんだナァ。
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ジムに最後に会ったのは今からちょうど(当時)1年前のことだった。もう会社には来ていないので、ジムの家にあいさつに行ったのだが、社長のジョンが直前に「シゲ、ジムに会っても驚くなよ」と警告してくれた。

実は何年か前にも同じことをマーシャルの別の役員から言われたことがあった。
元気な時をよく知っていただけに、正直あの時は小さくやせ細ったジムの姿を見て驚いた。
でも、今回はまったく驚くなんてことはなかった。むしろ、ジムの握手が力強いことに驚き、たのもしく思ったくらいだった。

その時にもらったのがこのミルトン・キーンズ銀行発行の50ポンド紙幣。マーシャルの創立50周年を記念して作った絵葉書だ。
向かって右のコンボに足をかけている写真は、ジムが最初に倒れ、復帰してすぐに撮影されたものだ。そう!ジムはいつでも鉄人だった。「Mighty Jim」と呼んでいる人も実際にいた。
ジムが天国に行くなんて誰も想像できなかった!

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それはこの50ポンドの裏面にサインをもらった時のことだった。事実これが本当に最後のジムのサインとなってしまった。あのボクサーのジャブのように素早くマジックを動かして書かれていた「Dr. Jim Marshall OBE」が、まるで初めて字を書く子供のようにゆっくりと描かれたのだ。

「もうジムに会えないかもしれない…」と思った。

「驚くなよ」と言われたジムの姿を見ても全然驚かない私だったが、このサインをするジムの姿を見た途端、大粒の涙を落としてしまった。とにかく涙をこらえようとしてこめかみが猛烈に痛くなった。それを思い出して今も涙が止まらない!
何度ももらったジムのサインだが、今となって私にはこの絵葉書のサインが一番美しく力強く見える。

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どんなに一緒に時間を過ごした人でも、どんなに親しい人でも、時間が経つとその人の声を忘れるものである。もちろんジムの声は耳に焼き付いているがいずれ忘れてしまう時がくるかもしれない。
そんな時にはこのCDを聴くんだ。ジムが愛したジャズのスタンダードの数々。元気のいいピアノ・トリオに乗って弾むように歌うジムの声が美しい。「S'wonderful」も「Everybody Loves Somebody」も入っている。私の宝物だ。

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そして、これはジムがBBCラジオのインタビューをCDにしたもの。これも大切にしている。
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でも、私が一番大切にしている物はこれだ。

マーシャルのプロモーション活動に精励したことを讃えていただき、2009年、フランクフルトのマーシャル・ナイトで世界中のディストリビューターの前で授与されたトロフィ。

その台座には「Shige Award」と記してあった。これはあまりにも大きな栄誉だった。我が人生の頂点といっても過言ではないかもしれない。

もちろんこの賞は私の他にも心からマーシャルを愛していただいている皆さまのご協力で頂戴できたと感謝している。同時にこのような機会を与えてくれたジム・マーシャルやマーシャルの仲間にもあらためて心からお礼を申し上げたい。

もうひとつジムのことで忘れてならないのは、彼は偉大なギター・アンプ・ブランドの創設者であったということの他に、慈悲深い篤志家であったということだ。
社会団体に莫大な寄付をし続け、その功績がイギリス政府に認められOBE(Order of British Empire)の称号を授与されたのだ。

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ロックを作った男、ジム・マーシャル。

大きな夢を、楽しい時を、素晴らしい思い出をどうもありがとう!

安らかにお眠りください。

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ありがとうジム・マーシャル!<中編>~I Remember Jim! 2

Shige Blog 2012年4月19日初出

最後にジムが日本に来てくれたのは2003年の楽器フェアのことだった。身体を悪くしてしまったジムはそれ以降来日していない。マーシャルのブースではジムのサインを求めて、連日サイン会の長い長い行列ができた。

何しろJCMシリーズの他、シグネイチャー・シリーズ等、イギリス製の主要モデルにのみ付されるDr. Jim Marshall O.B.E.のサインが直にゲットできるワケだからね。2003年以降、ジムからサインをもらった日本人は極端に少ないと思う。あの時にサインをもらった方は大切にされるといいかもしれない。

ジムは元々シンガーでドラマーでタップ・ダンサーで…レス・ポールようにステージの上に居続けてもいい人だったが、事業が成功したために、結果的に人生の大半を、いわば「裏方」に徹したことになった。

このあたりは日本で最初のマーシャルの本『Marshall Chronicle』をご参照いただきたい。

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しかし、このサイン会については並々ならぬ情熱を注ぎ、最後の最後までひとりでも多くのファンにサインを授けようとした。ジムは自分のサインをもらってよろこぶお客さんの顔を見るのが大好きだった。

この時、お役目で毎晩ジムと会食をすることになった。ジムと当時のパートナー、そしてマーシャル社の担当スティーヴと4人で…。

マァ、久しぶりにお会いすることもあって、はじめのうちはジャズの話しかなんかで盛り上がっちゃって、比較的話題に事欠かなかったのだが、さすがに毎晩となると状況が厳しくなってくる。何しろ相手は大正12年生まれで、私の父よりもはるかに年上だ。

当時、楽器フェアの期間中は毎晩どこもレストランが混んでいて、夕食の予約もできない状態が続いていた。ある晩、イチかバチかレストラン街に繰り出して、大衆的なイタリア料理店に空席を発見した!

ジムはステーキが好物で、その晩も「#$%&ステーキ」を注文した。そして、私は話題がなくなってハラハラしていた。かといって沈黙はもっとマズイ。そこで苦しまぎれにクイズを出すことにした。

「クイズを出してもいいですか?」と訊くとジムは「フォッ、フォッ、フォッ、何だね?やってごらん」なんて興味を示してくれる。クイズはよくあるスタンダードなお国柄問題だ。

「それではひとつ…アメリカの家に住んで、日本人のコックがいて、イギリス人の執事を雇う男が世界で一番幸せな男。では世界で一番不幸な男はどんな男でしょーかッ?」これが問題。よくあるでしょ?こういうヤツ。

するとジムは、「フォッ、フォッ、フォッ、面白いことを訊くじゃないか…答えは何だね?」と存外におもしろがっている!

よしゃいいのにやっちまった…「エヘン!答えはですね…世界一不幸な男は~…日本の家に住んで、アメリカ人の執事を持って、イギリス人のコックを雇う男ですよ!」

ここでドッカ~ン!ダイバクショ~となるはずだった。「フォッ、フォッ、フォッ、確かにイギリスの料理はマズイからね~」…と。

ところが、現実は予想と大きな隔たりを見せてしまったのだ。

笑うどころか、ジムの顔色はにわかに変わり、真剣な顔をして「オイオイ、ヘンなことを言わないでくれたまえ、シゲさんよ。イギリス人のコックのナニが悪いのかね?イギリスには料理自慢のテレビ番組だってあるのを知らんのかね!」…冷汗。雰囲気最悪!「な~に~?やっちまったな~!」なんてギャグはまだなかった。ましてや「シゲちゃん、ワイルドだゼィ~」なんてとても言えなかった。

そして、スティーヴが間に入ってくれて「マァ、マァ」となった。と、そこへジムがオーダーしたステーキが運ばれてきた。「オオ!これで助かる!ウマイものでも食えば機嫌もよくなるさ!」と胸をなでおろしたのもつかの間…「オイ、これはナンだね?」と皿の上の薄切りの肉を指して明らかにムっとしている。そう、ジムが食する「ステーキ」は最低でも厚さが3cm以上なくてはならないのだ!

「これでもステーキのつもりか?フン、史上最大の大惨事(Catastrophe)だな…そうだ、これは『タイタニック・ステーキ』っていうんだろう?フォッ、フォッ、フォッ!」…ガックシ…大量の冷汗。

雰囲気がさらに悪くなると思いきや、どうもこの自分の「タイタニック・ステーキ」の命名が気に入ったらしく、なんと上機嫌に戻ってる!皿の上の肉はたいらげなかったものの、笑いが戻って来た!

この後、ホテルのバーに移動し、18年もののマッカランを飲んで楽しく過ごすことが出来たのでした。翌朝、まだ「史上最大の惨事、タイタニック・ステーキ」って言ってはまだおかしそうに笑っていたっけ!

別の日には中華街へ繰り出した。マッカランの話し。ジムはとにかくこのスコットランドはスペイサイドで蒸留されるスコッチ・ウイスキーの猛烈な愛飲家なのだ。マッカランとハバナ産の葉巻は必須だった。

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さて、席に座る。「お飲み物は?」と当然なる。「マッカラン、いっちょ!」なんて言って簡単に出てくりゃ話しは早い。ここは中華料理店、出てくる道理がない。

…しまった!不覚!どっかの洋酒販売店で買ってくればヨカッタ!気が付かなかった~!オレとしたことがッ!…

すると私の優秀な部下がスックと立ち上がって「私、買ってきます!」と脱兎のごとく店の外へ飛び出して行った。30分も中華街中を走り回ってくれたであろうか?老酒はあってもマッカランなんてどう考えてもあるワケない。

その部下は汗だくで帰って来て…「スミマセンッ!見つかりませんでした!」と今にも責任をとって切腹しそうな勢いだ。ジムはそんな彼を見て「どうもありがとう、いいよいいよ、日本のウイスキーを試してみるよ…」とニコニコやさしく言葉をかけてくれたのであった。

かくして日本のウイスキー(黒くて丸っこいボトルのヤツね)の封は切られたが、私が観測した限りでは、ひとナメ程度したかしないか…。ああ、封開けちゃった…。

以上は以前にも公開した文章だが、生前のジムの片鱗を後世に伝えたいと思い加筆訂正のうえこのブログに再録した。

若かりし頃のジムにつきあった先輩達はビジネスの面で色々なことがあったことは想像に難くない。でも、私がおつきあいさせていただいたジムは、タイタニック・ステーキでハラハラさせられる程度で、本当に好々爺という趣きが強かった。当時のパートナーと楽しそうにじゃれていたのを思い出す。本当に楽しかった!

写真を入れたいのはヤマヤマだったのだが、案外残っておらず臍を噛む思いをした。その時は面倒だと思っても写真はこマメに撮っておくに限る。

<後編>は貴重な写真をちりばめてお送りする<海外編>です。

ありがとうジム・マーシャル!<前編>~I Remember Jim!

Shige Blog 2012年4月18日初出

突然やって来た連絡は仲良しのギタリスト、三宅庸介さんからだった。

何となく、本当に何となく「ピン」と来た。「ジムだな…」って。案の定、三宅さんから携帯に届いたメールはジムの逝去を知らせるものであった。

前の日の晩、ブログのバナーの件でデザイナーが家に来てくれて音楽の話しに花が咲いた。フランク・ザッパ、ザ・バンド、リトル・フィート、ジェントル・ジャイアント、とコロコロと話題が変わり、行きついた先は偶然ジム・マーシャルだった。ジムが歌った自主制作のCD『Reflection of a Man』に収録されているガーシュインの「S'wonderful」を聴きながら「ん~、ベルベット・ヴォイス~」などと話しをしていた。

まさに「虫の知らせ」。この現象は科学的にはまったくただの偶然として片づけられている…ことは知っていたが、この出来事を「虫の知らせ」としてただの偶然と片づけることができる人間は恐らくこの世にいまい。

ジェイムズ・チャールズ・マーシャル。イニシャルは「JCM」。彼がいなかったら今日のロックはなかったと言っても過言ではなかろう。

私はジムと仕事をすることができた最後の日本人として最高に幸せだと思っているし、そのことを誇りに思っている。

ジム・マーシャルの偉業はあらゆるところで触れているので、ここでは割愛することにして、晩年のジムとの思い出をここに認め、哀悼の意を表したいと思う。

はじめて生のジムに会ったのは1998年のことだった。私も若かりし頃、1959のハーフ・スタックの中古をゲットして新宿ロフトやら渋谷の屋根裏のブッキングの末席を飾らせていただいていたので、そりゃホンモノのジム・マーシャルにお会いすることができた感激は大きなものであった。

その時、ジムはJCM2000 TSLシリーズの発表会にデモ・バンドとともに来日したのであった。バンドのメンバーはギターがジェフ・ホワイトホーン(プロコル・ハルム)、ベースがジョン・キャリー(セッション・ミュージシャン)、ドラムがジョン・リングウッド(元マンフレッド・マンズ・アース・バンド)という面々だった。ジムは東京、名古屋、大阪とすべての発表会に出席し、熱心にバンドの演奏やデモンストレーションに聴き入っていた。その姿がマジメそのもので、やはりどんな分野であれ、歴史に名を残すような人の上に立つリーダーというものは威厳があると感じたものだった。

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そして、次にジムが日本にやって来たのは2000年、『マーシャル祭り』の時だ。 この時は、満を持して世に問うたValvestateの後継機種、AVT(Advanced Valvestate technology 2000)シリーズの発表会も兼ねていた。AVTは2203を彷彿とさせる分厚い歪みが売りのシリーズで、特にAVT50はザック・ワイルドが愛用していることで名器と謳われた。

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この時も発表会の後のショウをジックリと見てくれて、最後に出演者全員にマーシャル特製ウイスキーを贈呈してくれた。その時ジムが出演者のひとりであった王様の顔を凝視して、「君の顔には面白いものが描いてあるね!」と言ったのを忘れられない。

下の写真は打ち上げの時に撮影されたもの。同じく出演者のひとり、中野重夫とのワンショット。この時、シゲさんと2人で懸命にジムにお願いしたのを覚えている。「ジミ・ヘンドリックスが名をなしたのはロンドンでのこと。日本のジミ・ヘンドリックスをロンドンに呼んでくれんませんか!」と。

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最高に楽しい一夜だった!

シゲさんが過去にジムが来日した際、イギリス大使館でジムの前で演奏をしたことがあった。ジミヘンだけについ「アメリカ国歌」を弾きそうになったというが、寸止めしたらしい。危ないっつーの!

2001年10月、楽器フェアが開催され、前年に引き続き『マーシャル祭り2』が企画された。残念ながら前月の9月11日のテロ事件を慮り、ジムは来日をキャンセル。ジムが来れなかったのは残念であったが、時のマーシャルの担当者とジェフ・ホワイトホーンが来日し、幸いにも大成功をおさめることができたのであった。

そして、次にジムが日本に来てくれたのは2003年の楽器フェアだった。

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まさか、この時が最後の来日なろうとは夢にも思わなかった。

<中編>につづく