Marshall Blogに掲載されている写真並びに記事の転載・転用はご遠慮ください。
【マー索くん(Marshall Blog の索引)】
【姉妹ブログ】
【Marshall Official Web Site】
【CODE/GATEWAYの通信トラブルを解決するには】

シゲ・エッセイ Feed

2022年8月30日 (火)

プログレッシブ・ロックってナンだ?~D_Driveの新作『DYNAMOTIVE』が教えてくれたこと

 
皆さんはプログレッシブ・ロックがお好きですか?
今日は「プログレッシブ・ロック」について書きます。
 
時折こんなシーンに出くわすことがある。
曲が長いっちゃあ…「アラ!プログレだネェ」。
変拍子に気が付いて…「ヘェ!プログレっぽいネェ」
歌詞が難解と見れば…「ナニ?プログレ好きなの?」
それらがいわゆる「プログレッシブ・ロック」と呼ばれている音楽のステレオタイプであることは否定はしない。
実際、King CrimsonもPink Floydも曲は長いし、ワケのわからないことを歌ったりしているもんね。
あと付け加えるなら、メロトロンを使っているか否か…か?
でもね、そういう条件に当てはまっていればミソもクソもプログレッシブ・ロックに括ってしまうのはナ~ンカ違うような気がズットしていた。
もうチョット言うと、「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」かが判別できないモノはすべてプログレッシブ・ロックにしてしまう的な処理方法。
クラシックの「現代音楽」の取り扱いにも似たイメージ。
そうではなくて、プログレッシブ・ロックというのはもっと精神的なモノではないか?…と私は予てから考えていたワケ。
「進歩的な」とか「前進的な」という意味の「progressive」という単語を冠した「プログレッシブ・ロック」と呼ばれている音楽は、出て来た時にはブルースに深く根差したそれまでのロックと一線を画したまさに「プログレッシブ」な音楽だったんだけど、時間が経ってピンからキリまで色んなモノが出揃った結果、プログレッシブ・ロックはちっともプログレッシブではなくなってしまった。
そこで、「曲が長い」とか「変拍子の多用」だとかいう外見だけがプログレッシブ・ロックの言葉の意味として生き残っている…というのが今の日本のプログレッシブ・ロックをとりまく環境と考えてまず間違いないであろう。
ところが!
今回、プログレッシブ・ロックの故郷であるイギリスでは、上に書いたようなステレオタイプを包含しつつ、プログレッシブ・ロックという音楽がその語意通りに存在しているということを知った。
そのキッカケを作ってくれたのはD_Driveだった。5bafyggdq  
Marshall Blogの前回の記事でD_Driveが2枚目の世界リリース・アルバム『DYNAMOTIVE』を発表したことをレポートした。
現在、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、キリル文字を使う国のどこか…あたりのウェブサイトや雑誌を通してPRが盛んに展開されているのだが、今回は特にイギリス国内でのPRが充実していて、D_Driveの名前も徐々にイギリスで浸透してきているらしい。
コレはうれしい!
ロックの第一等国のイギリスである程度の地位を築くことができればヨーロッパを押さえることができるかも知れないからね。
アニメの力もゲームの助けもなしに、自分たちの作った音楽一本で勝負をしているだけに、もしそうなれば喜びもひとしおというモノだ。
210
そのPR戦略の中で特にうれしかったのは雑誌関連。
イギリスは日本とは比べ物にならないぐらい雑誌の文化が発達している。
日本では先日、若いバンドを取り扱う雑誌の休刊が発表されて私は結構ショックを受けたんだけど、イギリスはまだまだ雑誌が盛ん。
下はMarshallの本社の近所にある「ASDA」という大手スーパーなんだけど、本屋でもないのに向こうのハジが見えないぐらい多種多様な雑誌を陳列している。
イギリスのスーパーはどこへ行っても同じ。
その代わり町の本屋は極端に少ない(本屋に関しては今や日本も同じか…)。
Img_0624 
もちろんギターに関する雑誌も何種類か置いてあって、その中のひとつが『GUITAR WORLD』。
コレはアメリカの雑誌だが、イギリス版が発行されている。
イギリス産の『Total Guitar』と人気を二分するギター雑誌だ。
うれしいことに、コレにD_Driveのインタビューと機材紹介が掲載されるようなのだ。
「ようなのだ」というのも変なのだが、もし出なかったら恥ずかしいのでこういう表現にしておく。
でも、イギリスに行くたびに目にしている雑誌なのでコレはうれしかった。
こういうインタビューの依頼が来ると、毎回私は「英語の質問⇒日本語の質問⇒日本語の答え⇒英語の答え」という翻訳の全プロセスを担当している。
もちろん私の英語だけでは不自然なので、英語の達人であるMarshall Recordsのスタッフに「Anglicization(アングリサイゼーション)」という作業をしてもらう。
つまり、学校で習ったような四角四面の私の英語を、日常のイギリス人が使っているような自然な英語にブラッシュアップしてもらうのだ。
連中は英語ウマいよ~…当たり前か?
それでも8割以上は私が翻訳した英文が残る。
ところが、加筆訂正してもらった残りの2割の鋭さが生半可じゃないのですよ!
「そうか!ココはそういえばヨカッタのか!」と毎回目から大きなウロコが何枚も落ちる。Gw_2 
『GUITAR WORLD』もうれしかったけど、もっとうれしかったのは『Prog Rock』というプログレッシブ・ロック専門誌からインタビューが来たこと。
『Prog Rock』は70~80年代のロックを題材にする『Classic Rock』の姉妹誌。
私はこの雑誌が大好きで、自分の好きなバンドが特集されていれば必ず買って帰って来るのが常だった。
「prog」というのは「progressive」の略ね。
向こうの連中は普通「プログレッシブ・ロック」のことを「プロッグ・ロック」と呼ぶ。
このインタビューの質問はムズカシかった!
さすがプログレッシブ・ロック専門誌というだけのことはあったな。
 
私はプログレッシブ・ロックが大好きでしてね。
今はもうほとんど聴くことはないけれど、中学3年生の頃から夢中になって、数年前まで積極的にCDを買い漁っていた。
ブリティッシュは言うに及ばず、イタリア、フランス、北欧、東ヨーロッパと、ドイツ物を除く色々なプログレッシブ・ロックを聴いてきたつもり。
出だしはKing Crimson、次いでYes。
Pink Floydはあまり聴かなかったナ。
イギリスに頻繁に行くようになってからというもの、Genesisが猛烈にスキになった。
Soft Machineを筆頭にカンタベリー派も大好きでご当地カンタベリーへも2度行った。
最終的に一番好きなグループは、イタリアのAreaかな?
私の頭の中ではこうしたバンドが作り出した音楽こそが「プログレッシブ・ロック」だったし、それが当たり前のことだと思っていた。
550r4a0204ココでチョット待てよ…ということになる。
D_Driveってプログレッシブ・ロック・バンドだったっけ?…ということね。
 
D_Driveの音楽をご存じない方はゼヒCDをお買い上げ頂くなり、サブスクでチェックするなりして頂きたい。
一方、ご存知の方にお尋ねしましょう。
D_Driveの作っている音楽ってナンだと思いますか?
ハード・ロック?それとも歌なしのヘヴィ・メタル?
そんなところでしょうな…決して間違えていないと思う。
ところが、イギリスにおいてはハードロック系の雑誌ではなく、プログレッシブ・ロックの専門誌がD_Driveを取り上げてくれるという。
ナンでやねん?!
  
チョットコレをご覧頂きたい。
コレは一番最近アップされたD_Driveのニューアルバムに関する記事。
『DYNAMOTIVE』のレビューを載せて頂いた。
媒体はイギリスのウェブ・マガジン「Distorted Sound」。
5dm 
いいですか~?
一番最初のところを見てください。
ナント!堂々と「ジャパニーズ・プログレッシブ・ロッカーズのD_Drive」と紹介しているではないの!

5  
 
実は前作の『MAXIMUM IMPACT』を発表した時も同じだった。
「D_Driveがクリエイトしている音楽には、メタルとかハードロックとかいろいろな音楽の要素が感じられる」…として、必ずと言っていいほどその要素のひとつに「プログレッシブ・ロック」が挙げられるんですよ。
日本人で胸を張ってD_Driveの音楽を「プログレッシブ・ロック」にカテゴライズする人って本当にごく僅かなのではなかろうか?
私が知る限りでは今回の『DYNAMOTIVE』のアートワークを担当して頂いた梅村デザイン研究所の梅村昇史さんぐらいだ。
彼は、さすが日本屈指のフランク・ザッパ研究家にしてSoft machineやEnglandの国内盤のアートワークを手掛けただけのことがあって、D_Driveの音楽を「プログレッシブ・ロック・メタル・ヴェンチャーズ」と形容してみせた。
イギリス人が梅村さんの表現を耳にしたら「Hit the mark!!」と声を上げるかもしれない。
280
しからば、そのプログレッシブ・ロックの故郷であるイギリスの人は一体何をどう捉えてD_Driveを「プログレッシブ・ロック・バンド」と呼ぶのであろうか?
気になり出したら止まらない!
そこで、Marshall Recordsの3人の若いスタッフにプログレッシブ・ロックに関するアンケートをしてみることを思いつき、番頭格のピーターに答えの取りまとめをお願いしてみた。
回答者が3人と少なく、普遍性が低いアンケート結果ではあるものの、3人ともイギリスの音楽業界に直接関与している業界人なので、よもや大きく勘違いをした回答は含まれていないと信じている。
イタリック体は私の質問青字はイギリス・チームの答え、そして各>>>>は私の感想、あるいは解説。
では…。
 
Q1:プログレッシブ・ロックとはどういう音楽だと思いますか?連想する言葉を3つ挙げてください。
A1:複雑、オモシロい、革新的。
>>>>このイメージは洋の東西を問わないようだ。

Pr 
Q2:個人的にプログレッシブ・ロックと思っているバンド/アーティストを3つ挙げてください
A2:●クラシック・ロックのバンド:Pink Floyd、Genesis、Yes
   ●現代のバンド:Porcupine Tree、Tool、Dream Theatre(当然TheaterではなくてTheatre)
>>>>Pink Floydというのは本当に強い。
イギリスの「ケンブリッジ」という場所を説明するには2通りあって、ひとつは当然「オックスフォードと並ぶ大学がある所」。
もうひとつは「Pink Floydの出身地」って言うんだよね。
また、アコースティック・ギターが目の前に1本あって、「みんなでナニか歌おうか?」となった時、日本人なら一体ナニを歌うだろうか?
「ゴンドラの唄」か?「ああ上野駅」か?はたまた「琵琶湖周航の歌」か?
そんな時、イギリス人って「Wish You Were Here(あなたがここにいてほしい)」とか歌っちゃうんだゼ。
反面、Genesisはかなり意見が分かれるところのような気がする。
例えば、私より若い布袋さんのバンドのドラマーのスティーブ・バーニーはGenesisが大好きで、コンサートを観た私をものスゴく羨ましがっていた。
一方、昔The Animals、今はニューカッスルのバンドGeordieでギターを弾いているスティーブ・ドーソンは「生涯でGenesisの音楽を聴いたことは一度もない」ぐらいのことを言っていた。
同じイギリス人でもGenesisの音楽の受け入れられ方がココまで違うモノか!と驚いたことがあった。
Wyh    
Q3:「イギリスはプログレッシブ・ロック発祥の地」という認識はありますか?
A3:はい。
>>>>ヨカッタ。そうこなくちゃ!Img_8393  
Q4:イギリスのプログレッシブ・ロック・バンドを歴史的に代表すると一般的に思われるバンドは誰でしょう?3つまで挙げてください。
A4:Pink Floyd、King Crimson、Genesis
>>>>ココでYesがハズれてKing Crimsonが出て来るところがオモシロい。
結局Genesis強し。
とにかくPink Floyd!

Cte

Ck 

Q5:「カンタベリー派」と呼ばれるプログレッシブ・ロックのサブ・カテゴリーがあるのをご存知ですか?
A5:いいえ、知りません。
>>>>実はこの質問は以前に他の人にもしたことがあって、やはり「知らない」と言っていた。
私が「カンタベリーに行く」と伝えると、「ナンで?」とすごく不思議そうな顔をしていたのを思い出す。
Rimg0176 Q6:「プログレッシブ・ロック」と呼ばれているカテゴリーの中から好きなアルバムや曲を3つ挙げてください。
A6:●ピーター:『Meddle/Pink Floyd』、『The Dark Side of the Moon/Pink Floyd』、曲で「Echoes/pink Floyd」
  ●T氏:『Lateralus/Tool』、『Gear of a Blank Planet/Porcupine Tree』、『Colors/Between the Buried and Me』
  ●I氏:プログレッシブ・ロックはほとんど聴きません。 
>>>>ピーターが挙げたモノは当たり前なのでナニも言うことはない。
ちなみに30歳前のピーターに「Echoes」は『2001年宇宙の旅』の「スター・ゲイト」のシーンにシンクロしていることを知っているか?と尋ねたことがあった。
ピーターはチャンと知っていた。
日本の30歳前の若い人でこのことを知っている人は一体何人いるだろうか?
今となっては1人もいないような気がする。
一方、T氏が挙げたPorcupine Tree以外のバンドは全く知らないので、早速Spotifyで聴いてみた。
んんん~、私にはチョット受け入れ難いナ。
少なくともプログレッシブ・ロックには聞こえなかった。
でもこのToolってのジャケットがすごくカッコいいな。

Tl

Por

Bt   
 
Q7:イギリス若い人たちはどんなバンドが「イギリスのプログレッシブ・ロック」と認識していると思いますか?
A7:Haken、 Porcupine Tree、 Museなど…イギリスのバンドは少ないですね。
それよりも、アメリカの方が盛んかも知れません。
例えば…Polyphia、 Animals as Leaders、Covet、Plini、Periphery、The Contorsionist、Chon、Gojiraなど…。
>>>>コレも片っ端から全部聴いてみた。
このHakenというバンドはとてもいいね。スッカリ気に入っちゃった。
このバンドは問答無用の正統派ブリティッシュ・プログレッシブ・ロックだよ。

「Haken」っていうから「Yonaka」みたいに「派遣」という日本語をバンド名にして、労働問題に一石投じようとしているのかと思ったら「ヘイケン」と読むのだそうな。
ピーターが挙げたアメリカのバンドは、Polyphiaというのを除いては、全部同じに聞こえた。

Polyphiaというのはナイロン・ギター・サウンドをフィーチュアしているので他との聴き分けができるが、やっていることに違いは感じられない。
また、Polyphiaの演奏している曲がどれを聴いてもほとんど同じで、3曲と辛抱できなかった。
これらのバンドの曲を適当に入れ替えて連続して聴かされたら、多分「全曲ひとつのバンドが演っている」と思うに違いない。
まるでどのバンドも声と曲調が示し合わせたかのように共通しているJ-POPのバンドの音楽を聴いているのと同じ感覚に陥ってしまった。
それと、ナイロン・ギターを使うPolyphiaを除いてはどのバンドもギターの音が同じなの!
ま、それを言っちゃぁ、シュレッダー系なんてもっとどれも同じか…。
Hk  
Q8:もしD_Driveがプログレッシブ・ロック・バンドだとすると、どういうところがそう感じさせるのでしょう?
A8:D_Driveの音楽は紛れもなく「Progressive Music」ですよ。
「プログレッシブ・ロック」という言葉の定義は、普通60年代後期や70年代のプログレッシブ・ロックに当てはめられますが、今は「progressive」という言葉はもっと広い意味で使う傾向にあります。イギリスにおいては、複雑でオモシロく、革新的で音楽のジャンルを押し広げるような音楽すべてに適用されている言葉なんです。
我々が言う「プログレッシブ・ロック」を常にPink Floyd、Yes、King Crimson、Genesis等の音楽にリンクさせて考える必要はないのですが、ある範疇で音楽の実験を行なうことはそのプログレッシブ・ロックの伝統を尊重したものだと言えます。
そういう意味では「progressive」という言葉は、例えばブルース基盤のハード・ロック('60年代初期のような曲)、ソウル(アイザック・ヘイズの『HOT BUTTERED SOUL』)、ジャズ(マイルス・デイヴィスの実験的なフレーズ)、エレクトロニカ(Floating Pointsとファラオ・サンダースの『Promises』)、メタル(現代的なプログレッシヴ・ミュージックのほとんど)、ヒップ・ホップに至るまで何でも当てはめることができるのです。
>>>>やはり思った通りヨーロッパ西端の島国と極東の島国とでは「プログレッシブ」という言葉の捉え方が違うということなのだ。
ファラオ・サンダースというのは後期コルトレーンのコンボにいたフリー系のテナーの人。
そんな人の名前が出て来たので、ロンドン交響楽団も参加しているという『Promises』というアルバムも聴いてみた。

ピーターの言葉を説明するために引き合いに出すにはもってこいの作品かもしれない。
しかし…2021年の作品ながら、私の耳には全く「プログレッシブ=進歩的」には響かなかったナァ。
何か私が知らないところで何らかの新しい要素を組み込んでいるのかも知れないが、現代音楽を聴いていればこんなのいくらでも出くわすわ…というサウンドに私には聞こえる。
要するにクラシック音楽の世界から見ると「古い」ということ。

しかし、こんなこと演っちゃって、ファラオもファラオだわ。
他のアルバムではコッテコテのテナーを吹いて、泥臭い歌まで歌っているんだゼ!

Fy_2  
A9:D_Driveの曲で特にプログレッシブ・ロックを感じさせる曲はありますか?
A9:全部です。D_Driveの音楽は全曲「プログレッシブ・ロック」の旗の下にあります。
>>>>全部!? 
アレは全部プログレだったのか!
今度、海外で「D_Driveってどんな音楽を演っているの?」と訊かれたらナンの迷いもなく「あ、プログレです」と言うぞ!
50r4a0028
 Q10:D_Driveから離れて…一般的に現在の音楽シーンを見渡した時、プログレッシブ・ロックに未来はあると思いますか?
A10:上で述べたように、我々が言うところの「プログレッシブな音楽」は山ほどあるワケです。
そしてそれらの音楽は、音楽のジャンルを押し広げたいと思っているミュージシャンの中に連綿と続いていくのです。
例えば、イギリスで超人気のポップ・ミュージック・アーティストのハリ―・スタイルズの「She」という曲などは『狂気』のB面によく似ていますよ!
>>>>コレも聴いてみた。
さすが、ピーター。いい耳をしていると思った。
でも私には『The Dark Side of the Moon』のB面というより、「Shine on You Crazy Diamond」に聴こえた。
しかし、「百文は一音にしかず」でこの1曲でピーターがプログレッシブ・ロックの現在について言おうとしていることがよく理解できた。

Dom_2

Hs 

さすが英語の母国ですナァ。
変拍子がどうのとか、メロトロンがどうのとかいうこととは全く関係なく、イギリスでは「progressive」という単語をその言葉の意味の通りに使っているにすぎないということがわかった。
ナンカ、この記事を書いていてこんな本があったのを思い出しちゃったよ。
昔、ヤクルトに助っ人で来ていたボブ・ホーナーの『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった(日之出出版刊)』ってヤツ。

Bh
しかし、日本ではD_Driveを自然に「プログレッシブ・ロック・バンド」と呼ぶ人はこれからもいないだろうナァ。
しかしピーターが言うようにイギリスのメディアがD_Driveが取り組んでいることを「複雑でオモシロく、革新的で音楽のジャンルを押し広げるような音楽」と評価しているとなれば、コレはコレでとても誇らしいことではなかろうか?
自信を持って世界に行けるというモノだ。
53000x3000 
そこで、もう一度「Distorted Sound」の記事を見てみるとこうある。
「Japanese progresive rockers D_Drive are truly one of a kind in this industry」
この「one of a kind」というのは「種類がひとつしかない」という意味で、すなわち「他に例を見ない」ということ。
ロックの本場の国で、「日本のプログレッシブ・ロック・バンドのD_Driveは、この業界においてまさに他に類を見ない」と評価されたのである。
やはりイギリスのロックは今でも個性が重んじられているのだ。

5
 
□■□Marshall Recordsからのお知らせ■□■Marshall_records_logo_square_blac_2
過日、Marshall Recordsより世界リリースしたD_Driveのセカンド・アルバム『DYNAMOTIVE』を世界に向けてリリースしました!
内容もジャケットも大変高いご評価を頂戴して胸を撫でおろしています。
さて、輸入盤(帯とブックレットが付属していません)を販売しているMarshall Music Store Japanでは先行予約の段階で品切れとなっておりましたが商品が入荷いたしました。
ご愛顧のほど何卒よろしくお願い申しげます。
 
お求めはコチラ⇒Marshall Music Store Japan

53000x3000 200(敬称略 ※翻訳協力:ヤングギター編集部 蔵重友紀さん)

2021年8月23日 (月)

【Marshall Blog Archive】厚生年金会館の思い出

 
コロナの影響の有無を問わず、東京の中~大型のライブハウスというか、ホールというか、そうした設備がドンドン閉鎖していってるでしょう。
チョットさかのぼると渋谷のBOXX、隣りにあったAX、横浜BLITZ、赤坂BLITZ、新木場COAST(来年1月末閉館予定)…まだ他にもあるかな?
みんななくなっちゃった。
そんなことを先日Zepp Tokyoへお邪魔した時にシミジミと思ってしまった。
そのZepp Tokyoも今年いっぱいで閉館してしまう。
そこで思い出したのが、昔のMarshall Blogの時に編んだ1本。
11年前に閉館した新宿の厚生年金会館のことをつづった記事。
仕事でお邪魔した上のホールたちとは異なり、厚生年金ホールはロックに夢中になっていた高校時代に足繁く通っていた私にとってのロックの「生地」であり「聖地」でもあったのだ。
今日は【Marshall Blog Archive】として2010年3月30日と31日にわたって2本立てで投稿した記事を下地に現在の情報や状況をカラめた大幅な加筆を施してお送りします。
 
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 
新宿駅からチョット遠いんだよね。
いつも往きは胸をワクワク、帰りは友達と「ああでもない、こうでもない」と興奮交じりに今観て来たコンサート評。
そうやって歩いていれば長いハズの距離もアッという間だった。
東京厚生年金会館ホールの話。
49年の営業に幕を降ろし、今月いっぱいでその歴史に終止符を打つという。
寂しいね~。7img_1727 開場前にこの階段で待っている時はいつもドキドキだった。
「あの曲演るかな~」とかいって…。7img_1728 初めて厚生年金に観に行ったコンサートは残念ながら覚えていないけれど、ずいぶん色んなのを観たわ。
…と言っても、何を観に行ったか思い出そうとしてもパッとは出てこないな。
半券も全部保存していたんだけど、昔父が誤って全部捨てちゃったし…。
結局、コンサート・プログラムが手元に残っているコンサートが一番間違いがない…ということになる。
そういうこともあって私は今でもなるべくプログラムを買うようにしている。
そう言えば、昔は「ライブ」なんて言い方はしなかったナァ…もっぱら「コンサート」だった。
歌謡系の人たちが定期的に開催するコンサートを「リサイタル」と呼んでいたイメージがあるけど、「リサイタル」なんて言葉ももはや死語でしょう。
「ライブ」という言葉は、今となっては「音楽」から遠く離れてしまった感じがして、とても安っぽく聞えるので正直あまり使いたくないんだよね。
昔は「あ~、ライブに行きたい!」なんてことは言わなかった。
さて、この記事を書くにあたって「新宿厚生年金出演者一覧」みたいな資料をインターネットで検索したんけどどうしても見つからなかった。
仕方なく調べついでに関連するブログをチェックしてみると、あるわあるわ、ご年配の皆さんの厚生年金会館の閉館を惜しむ想いが!
私なんぞ丸っきりヒヨッコよ。
ここに厚生年金の思い出を書き連ねるのもおこがましい。
そうした年配の方々がココでご覧になったコンサートとなると…
デビッド・ボウイ、スリー・ドッグ・ナイト、ハンブル・パイ、スレイド、フォーカス、そしてマイルス・デイヴィス…。
ハ~ッ…タメ息が出るじゃんね。
私だってもう5年ほど早く生まれていれば間違いなく片っ端から観に行ってたよ!
ごく普通に仕事で訪問するあの楽屋でマイルスやボウイやマリオットが出番を待っていたのか思うと鳥肌が立っちゃうよね。
そして、あのステージには延べ何千台ものマーシャルが並べられて来たワケですよ。
 
これ(下の写真)は1978年、ヴァン・ヘイレン初来日の時のプログラム。
まだファースト・アルバムの発表からそう時間が経っていなくて、アルバムから全曲演奏した。
それでも、1時間にも満たない尺だったためか、このころにしては珍しく前座が付いた。
東京公演はレッド・ショックというバンドで、後年このバンドのドラマーと知り合いになる機会があり、この時の話をして興奮したものだった。

70r4a0134 エディが「暗闇の爆撃(Eruption)」を弾いた時には感動したな~。
まだ「ライトハンド奏法」などという名前がなくて、我々の間では右手の人差し指を少し曲げ気味に立ててそれを回しつつ「アレ」とか「コレ」とか呼んでいた。
チケットは、S席3,000円、A席2,800円、B席2,500円、C席1,800円也…消費税なんてなかった。
 
エントランス脇には49年間の公演の歴史がダイジェストで展示されている。
思いのほか試写会が盛んに行われていたんですネェ。
見にくいですが、右のウインドウの上にはソニー・ロリンズの来日公演のパネルが飾られている。
コレ、私もココへ観に来たのよ(後出)。
ウインドウの中には落語公演の歴史が飾られていた。
とっくの昔に東横ホールもなくなってしまったし…志ん朝を観たっけ…ホール落語の様相もすっかり変わってしまったようだ。Board最近の話だけど、頭脳警察と四人囃子のダブル・ヘッドライナーなんかもよかったナ~。
コレは完全に客として拝見させて頂いた。
Z4
Procol Harumと四人囃子のダブル・ヘッドライナー。
この時は差し入れでギターのジェフ・ホワイトホーンに日本酒を持って行った。
私は『Grand Hotel』以外のProcol Harumって通っていないんです。
つまりほとんどナニも知らないに等しい。
そんなんで楽屋を訪れるとジェフの姿が見えない。
そこで、そこにいた白髪の品のいいおジイさんにジェフの居場所を尋ねると、「ココにはいないよ。外へ行った。イッパイやりに行ったんだろう」ぐらいの返事をしてくれた。
そして、本番が始まって驚いた。
ピアノの前に座って歌を歌っている人がさっきの白髪のおジイさん、すなわちゲイリー・ブルッカ―だったのだ!
「知らない」というのはげに恐ろしい。P4 この時、開演前に楽屋の廊下のベンチに座って岡井大二さんとおしゃべりをした。
初対面でね、相手は「四人囃子のドラマー」ですからね、かなり緊張した。
それが今となってはNATALのトップ・エンドーサー。
そして私のRock Guruにして、呑んだ時にはともすれば事務所にお泊り頂くこともある9つ年上の大先輩。
人とのお付き合いというモノは出会った時にはどうなるか全くわからないモノです。
大二さん、フジロックお疲れさまでした!7s41a0300 今は亡き井上堯之さんのコンサートにはすごく驚かされた。
井上さんはVALVESTATE VS100Rとごく普通のテレキャスターをお使いになっていたんだけど、その音の素晴らしいことと言ったら!
当時は私も同じアンプを持っていたので、家に買ってすぐに自前のテレキャスターで試したみたが、及びもつかないツマらない音がしてガッカリしたことがあった。
わかっちゃいるけど…道具じゃないんよ。

Vs100r2

DEENやCLASSIC ROCK JAMの取材もさせて頂いた。

Crj そういえばKANSASもご招待を頂戴して2回ぐらい観に行ったナ。
「Dust in the Wind」とか「Point of no Retuen」とか「Song for America」とか代表曲を演ってくれるんだけど、何しろ「Carry on~」に向けて他の曲も演奏しているような印象を受けたな…というか、受けざるを得なかった。

このFair Warningというバンド、私は全然知らなかったんだけど、Marshallのレンタルの話が舞い込んできて対応した。7img_1533 サポート・メンバーのニクラス・ターマン。
ものすごく感じの良い人で、楽屋でJVMの話をした。

7img_1552 そうそう、それからイングヴェイの取材も一度ココでしたことがあった。
それまでにもショウは何回も観ていたのだが、面と向かって会うのはその時が初めてのことだった。
ご存知の通り私は世代が古いので、イングヴェイのことはよく知らなかったのだが、ファンのみんなが親しみを込めて「インギー、インギー」と呼んでいることは知っていた。
そこで、ひと通りの挨拶した後に「アナタのことを『インギー』と呼んでいいですか?」と尋ねてみた。
もし失礼だったらヤバいからね。
でも「イエー、もちろん!『インギー』と呼んでくれ!」という答えが返って来るものばかりと思っていた。
とことが…彼は急にキッとした表情になってこう言った。
「オレのことを『インギー』と呼ばないでくれ。
オレの名前は『イングヴェイ』だ。『イングヴェイ』と呼んでくれ」
「インギー」と呼ばれるのをものスゴくキラっていることが十分に伝わって来た。
正直、この時は結構ビックリしたけど、私は少しも慌てず「オーケー、イングヴェイ!」とだけ答えた。
もちろん、それからイングヴェイと一緒になる機会が何回かあったが、絶対に「インギー」と呼ばなかったことは言わなくてもイイングヴェイ?
 
…と、このことを今まで軽く3、4回はMarshall Blogに書いた。
ところがfacebookなんかを見ていると、イングヴェイ・マルムスティーン本人がイヤがっているにもかかわらず平気で「インギー、インギー」と呼んでいる人を見かけると悲しくなる。
これほどまでにMarshall Blogが読まれていないのか!…とね。
ま、そういう人は実際にマルムスティーンさんに会った時に「インギー」と呼んでみるといい。
「なんだ、お前、Marshall Blog読んでないのか?」と言われるかどうかは知らない。7img_0189 元の記事はココから<後編>になっていた。
  *    *    *    *
本日、2010年3月31日…いよいよ東京厚生年金会館の最後の日が来た!
 
ヴァン・ヘイレン初来日の年と同じ1978年の11月にはジェネシスを観に行った。
これも初来日だったのね…もうスティーブ・ハケットもいなくて、ダリル・スチューマーがギターを弾いていた。70r4a0122 でも、フィル・コリンズとチェスター・トンプソンのツイン・ドラムスがカッコよかったこと、照明がすごくきれいだったことをよく覚えてる。
もっとも印象的だったのは、フィル・コリンズがタンバリンひとつでソロを演ったこと。
手のほかに、頭、足、お尻と身体のあらゆる場所にタンバリンを当てて色んな音を出していた。
ものスゴイ演奏だった。
正直を言うと、当時はGenesisは苦手だったんだ。
でも、演奏は照明スゴイし、特に照明が素晴らしいということを耳にして行く決心をしたのです。
今は超大好き。
イギリスに頻繁に行くようになってからメチャクチャ好きになった。
惜しむらくは、もっとチェスターをよ~く見ておけばよかった!
何といっても歴代ザッパ・バンドで一番好きなドラマーはテリーでもヴィニーでもなくてチェスターだからして。70r4a0117 下は布袋寅泰さんのバンドのイギリス人ドラマー、スティーヴ・バーニー。
もちろんNATALドラマーだ。
2019年の国内ツアーで来日した時にウチの事務所に遊びに来てくれた時の写真。
私が東京大空襲の話をすると、ものすごく熱心に耳を傾けてくれた。
スティーヴはGenesisの大ファン。
私よりも幾分年下で、いわゆるプログレ時代のGenesisを観たことがない…と、私が厚生年金会館で観たことを話すとこれまた熱心に聴いてくれた。
家内の手料理を喜んでくれて、2人で「Afterglow」のチェスターのドラム・フィルの話なんかをして大いに盛り上がった。
楽しかったな~、この時。
まだコロナの「コ」の字もなかった頃だ。7s2b エントランスを抜けるとロビーは案外狭いんだよね。終演後はいっつも大勢の人でゴッタ返していた。

7img_1730臨時ニュースを申し上げます!臨時ニュースを申し上げます!ゴジラが銀座方面に向かっています…。大至急避難してください、大至急避難してください!
1979年5月、Blue Oyster Cult(以下「BOC」)は忘れることのできない最高のコンサートを見せてくれた。
『Spectres』とライブ・アルバム『Some Enchanted Evening』収録の「Godzilla」が話題になってて、当然この時も演奏した…というか、日本で「Godzilla」演らないでどうすんねん。

70r4a0129 レーザー光線や照明がすごくて、カギ十字の形をしたギターを持ったリード・シンガーのエリック・ブルームがギターをマシンガンに見立てるアクションをすると銃声とともにストロボがたかれたりしてね。
とにかくカッコよかった!
曲も滅法よくてね。70r4a0132 ショウのクライマックス圧巻はファイブ・リード・ギター。
ドラマーまでフロントに出てきてメンバー5人全員でリード・ギターを弾いちゃう!
最近はライブ映像を収録したDVD付きのCDも発売された…はい、当然ゲットしています。 

70r4a0124 後年、Marshallの本社に行った時、事務所に1976年のBOCのヒット曲、「(Don't Fear) The Ripper」がインターネット・ラジオで流れていて、若い連中がそれに合わせて歌っていた。
私はそれを見てビックリしたね。
だって、その若い連中が生まれる20年以上も前の曲だからね。
たまらず彼らにどうして知っているのか訊いてみた。
「ヒットした曲だから、いつの時代もどこかで流れているので若い人も覚えちゃうんだよ」
「両親がよく聴いていたのよ」
ウーム、コレがベイ・シティ・ローラーズかなんかならわかるが、ブルー・オイスター・カルトだぜェ?
日本では絶対に考えられん。
しかもブルー・オイスター・カルトはイギリスではなくて、ニューヨークのバンドなのよ。Dfr BOCのプログラムの広告には5月のNazarethが載っていた。
コレも渋谷公会堂へ観に行った。
このコンサートは「観ておいてヨカッタ~」のウチのひとつ。
この年の6月の興行として2回目の来日となるScorpionsとUFOが掲載されている。
すべてS席3,000円也。
Scorpionsはウリが脱退した代わりにマイケル・シェンカーが来るというので大評判になっていた。
でも来なかった…。
その後、UFOでやって来たけど、ギターは元Lone Starのポール・チャップマンじゃん。
おかげで今の今までホンモノのマイケル・シェンカーなるモノを観たことない!
これには後日譚があって、もはや笑ってしまうのだが、このブログ記事を書いた年のフランクフルト・メッセのマーシャルのブースではマイケル・シェンカーのサイン会を開いたらしい。
それまで長年毎年参加したフランクフルト・メッセなのに、選りによってその年は行かれなかったのだ。
もうスティーヴ・ミラーとマイケル・シェンカーは一生見れないモノと決め込んでいる。

70r4a0138 廊下に据え付けられている時計。
右の灰皿みたいな丸いのはスピーカー。
上演中ここから場内の音を控えめに流していた。
そういえば、ここは1階廊下にも2階フロアにもイスがふんだんに置いてあったこともヨカッタ。

7clock2ソニー・ロリンズは厚生年金で2回観た。
ボビー・ブルームのギターとトニー・ウィリアムスのドラムが抜群にカッコいいアルバム『No Problem』を発表した直後の1983年のLive Under The Skyがすごくよくて、「今度ソロで来日したら観に行こう」と心に決めていてそれが実現したというもの。
ちょっと脱線するが、この時の『Live Under the Sky』のロリンズのバンド・メンバーがメッチャ豪華で、ギターがパット・メセニー、ベースがアルフォンソ・ジョンソン、そしてドラムスがジャック・ディジョネットという顔ぶれ。
おまけにダブル・ヘッドライナーということでチック・コリア、ミロスラフ・ヴィトウス、ロイ・ヘインズの3人が名盤『Now He Sings, Now He Sobs』を再演するというオマケつき。
よみうりランドEASTのクソ遠さを忘れてよろこんだものだった。70r4a0151 で、厚生年金でロリンズを観たのは1985年と86年の2回。
85年にはヴァイブラフォンの名手、ボビー・ハッチャーソンが、86年のにはギターのボビー・ブルームと電化マイルスのドラマー、アル・フォスターが出演した。
とにかく、豪快にバリバリ吹きまくるロリンズがやっぱりカッコよかったな。70r4a0147 それにしてもこの49年の間に一体延べ何台のマーシャルがステージに上がったことだろう?
先日のAC/DCの来日追加公演では後ろの方にほんの少々空席が認められたが、AC/DCのチケットが売れ残るのは世界広しといえどもナント日本だけなんだそうだ。そういった状況が外タレの日本離れ現象を引き起こしているとも聴いた。一体いつから日本は世界のロック後進国になってしまったんだろう?世界のアーティストから相手にされない国なんてイヤだ~!
もちろん色々な事情があったのであろうが、この名ホールの閉館もそんな状況のあおりを受けたような気もするし、ますます日本人を海外のロックから遠ざけてしまうような暗い気持ちにもなってしまう。

さらば厚生年金!

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
…と、2010年の記事はこうして締めくくられている。
この時から11年。
今、何を思うかと言うと…コレは友人のジャズ・サキソフォニストと話していたことなんだけど、ロックに関してもジャズに関しても、私の世代は「レジェンドが生きていた時代」に生きたということ。
パソコンやスマホやゲームなんかなくても、こと音楽や映画等のエンターテインメントに関しては、とてもいい時代を過ごすことができたと思う。
冒頭に挙げたライブハウスは「我が青春の」では全くないが、厚生年金会館のように「なつかしいな~」と思い出す日が来るのだろう。 
 
ちなみに厚生年金会館の跡地はヨドバシカメラさんの本社になっている。

7yhh_2  

■□■□■□■□■□お知らせ■□■□■□■□■□■□
Marshall Music Store Japan

Marshallのレコード屋さん「マーシャル・ミュージック・ストア・ジャパン」営業中です!
Marshall Recordsのバンドの作品を販売するお店。
よろしくお願いします!Photo Marshall Music Store Japanはコチラ
  ↓   ↓   ↓
Marshall Music Store Japan

 

200

2020年12月31日 (木)

2020年を振り返って

 
今年も今日で終わり。
早かった~。
ご多分に漏れずコロナのせいで何にもしないウチに終わっちゃう感じだ。
ということで今年のMarshall Blogの更新回数を数えてみた。
今日のを入れて156回。
以前だったら毎日更新して、週末、祭日、盆暮れを除いて、マァ大体230回ぐらいか?
2019年は242回だった。
   ★   ★   ★
それでは、今年はこんな状況で何回ライブに行っただろう…。
これまで最も多い年で150回を超えていたのね。
今年は…数えてみたらナ、ナント17回だった!
『ライブ・レポート』が屋台骨のMarshall Blogなのに、156本もの記事を書いたなんて我ながらスゴイじゃないか!
一体何を書いたのかと思って記事の一覧を眺めてみると…ああ、なるほどね。
「業務」といえば「業務」。
「強引」といえば「強引」。
「妙案」といえば「妙案」。
「根性」といえば「根性」。
「執念」といえば「執念」。
「惰性」といえば「惰…」、オット!絶対にそんなことはないのだ!
今のMarshall Blogになって丸8年。
本日のこの記事を以ってその数たるや1,840本を数えるまでになった。
2,000回まであとチョット!
さすがに長いことやっていると、飽きられもすることはよ~くわかっていましてね。
それでも支援してくださる方がたくさんいらしてくださって、そうした皆様には心から感謝申し上げます。
今年も最後にこの1年をMarshall Blog的&私的に振り返ってみたいと思います。 
    ★   ★   ★ 
2020年はいつも通りヤッチンのバースデー・ライブで始まり、数日後にD_Driveのスペシャルな企画を取材しに神戸に赴き、一日空けてD_Driveと共にNAMMショウでロサンゼルスへ出張した。
いつもと変わらない忙しい年明けだった。
10月の上海同様、アナハイムのNAMMショウでもD_Driveのウケはすこぶるよく、軌道に乗って来た感触を間違いなく得ることができた。
そして、日本に帰った翌日の夕方のこと、NATALのパーツの配達をするために着替えをしに家に戻ると家内が夕飯の支度をしていて「何時ごろ帰って来る~?」なんてやっていた。
ココまでは全くいつも通りだった。
その1分後のことだ。
着替えを取りに行って戻って来た私の目に入ったのはダイニング・ルームで倒れている家内の姿だった。
驚いて様子を確かめると、意識はあったものの「倒れちゃった…。足が動かないの…」としか言わない家内。
タマタマ上のセガレも早い時間に仕事から帰って来ていたので、ダイニングに呼びつけ手伝いを乞うた。
セガレは長いアメリカン・フットボールの経験を通じて、わずかながらスポーツ医療の心得を持ち合わせていて、家内の姿を見た瞬間に「ただ事ではない」と見抜いた。
そして、携帯を取り出し、その場で119番しようとするセガレ。
それを見た私は「何を大ゲサな!」とセガレを止めようとしたが、彼の判断に任せることにした。
コレが奏功した。
幸いすぐに救急車がやって来て家内の様子を観ると、瞬時に「脳疾患が発生している」と診断して脳神経外科のある病院を探してくれた。
これまた幸いなことに、ウチから車で5分もかからない大きな病院の宿直医が偶然にも脳神経外科医だった。
病院に運ばれるやいなや、しかるべき処置が施され「最低でも2週間の入院」という診断を得た。
私やセガレが家にいたこと、すぐに救急車を呼んだこと、病院に専門医がいて迅速かつ適切な処置が施されたこと…コレらがすべてウマい具合に連携され、大事に至らず、幸いに後遺症も残らず現在では元気に過ごしている。
マァ~、生きた心地がしなかったとはこのことで、コレらの連携がなかったら…と考えただけでもゾっとする。
日頃から私は1分でもいいから家内より先にアノ世に行きたいと思っているからね。
驚いたのはMarshallの対応。
病院から帰ってすぐに家内のことを社長に報告した。
社長は日頃から家内のことを「My boss」とか呼んでとても可愛がってくれていたので「いいか、仕事の心配なんかしてはダメだ!付きっ切りで全力で看病するんだ!私に毎日病状をレポートしろ!いいか、自分にとって一番大切なモノがナニかをよく考える時だぞ!!」ぐらいの勢いに海外と日本の会社に大きな違いを見たような気がした。
そして、翌朝イギリスから早速見舞いの花が届いた。
日本の会社だったら「大変だな…ところで君は明日出勤できるんだろう?」ってなところが関の山だったろう。
   ★   ★   ★ 
1年経って落ち着いたので書いてみたが、私の年明けはこんな具合だった。
それから病院に日参し、家内と2人で「大変だね~。コワイね~」なんて言いながらテレビでクルーズ船の様子を見守った。
まさかこの時、コロナがこれほど大変なことになるなんて予想だにしなかった。
後は皆さんもご存じの通り。
その時予定されていたライブやイベントはすべて中止か延期。
ライブの取材は当然できないじゃない?
そうなると、飛車角落ちの対局に臨むようなモノで、アノ手コノ手でMarshall Blogの更新に取り組んだ1年になった。
   ★   ★   ★ 
新しく始めたこともあった。
それはYouTube。
コレは以前から「Marshall Japan」というチャンネル名で『Marshall GALA2』の動画やMarshallが制作した動画に字幕を入れたモノなどを投稿していたのだが、ディストリビューターのヤマハミュージックジャパンさんの発案によりCODEのデモ動画シリーズ『BREAK the CODE』を制作することになり、本格的に稼働することになった。
オモシロかったね、動画の制作は。
『Marshall GALA2』のビデオの編集でその味をしめて、チョットしたディレクションまでさせて頂いた『BREAK the CODE』は新しい楽しみとなった。
お付き合い頂きました皆さん、どうもありがとうございました。
しかし!
ナンダ、このYouTubeってのは!
こちとら「Marshall」よ、チャンネル登録者数なんてのは簡単につり上げることができると思っていたらトンデモナイじゃないの!
テコでも増えやしネェ。
土台コレも若い人のモノだからね~。
で、コレはガツガツしないで自然体でいくことにキメた。
もう数字に拘泥しない。
そして、良い内容の作品を作ることに務めるだけ。
年寄りには年寄りのやり方ってモノがある。
コチとら仕事でさんざっぱら教則ビデオ見たからね~。
愛情を込めたモノを作っていれば必ず見ている人に伝わると信じてる。
恐ろしいと思ったのは、もうこの世の中とにかく「登録者数」とか「フォロワー数」とか「いいね!の数」でしょ?
それらの数字が大きければもはや完全勝利。
インフエンサーだか、ツベルクリーナーだか知らんけど、内容はどうでも数字が大きいものはすべて良し…ってのはあまりに危険だと思うんですけど。
もうね、こんなことをしていたら良いモノと大したことないモノの判別ができなくなっちゃうよ。
あんな犯罪まがいのことやバチ当たりなことをするヤツが出て来るのは当然のことだ。
そういう意味ではこのYouTubeには功罪があると思う。
教則系のモノとかもスゴイでしょ?
何で人って、こう物事を教えたがるかネェ。
本当に苦労して体得したモノは自分だけの秘密にしておきたがるハズだと思うんだけど…。
つまり、アソコに上がっているモノは人に教えても惜しくない、どうでもいいことのオンパレードのように私には見える。
だからYouTubeが出て来た頃のように、ジミヘン秘蔵映像が見れる!ぐらいに留めておけばよかったんだよ。
こっちは「功」だった。 
それでもよければ「Marshall Japan」チャンネルを登録すればいいじゃない。
登録はコチラ⇒YouTube「Marshall Japan」チャンネル登録
  ★   ★   ★ 
とにかくブログを書いて「更新しました」とfacebookとTwitterでお知らせする。
もうコレらの作業だけでも面倒極まりないのにインスタグラムが加わったでしょう?
なんだよ、「バエル」ってよ。ギタリストかよ…「ケニー・バエル」、なんちゃって。
ま~、時代の趨勢には勝てないので仕事と思ってやっているけど、一体誰がこんな世の中にした。
メールをして「今。電話をしてもよろしかったですか?」だなんて。
電話なんて都合が悪けりゃ出ないんだよ。
どちらかがかけ直せばそれで終わりだよ。
「あ、今お電話大丈夫でしたか?」って都合が悪けりゃ出ね~んだよ。
そもそもなんて過去形を使うんだっての?
英語じゃないんだから(英語は「shift back」と言って時制を過去にすると丁寧な表現になる)!
それよりも解せないのはインスタグラムの「フォロワー数」ってヤツ。
私は「marshallamps_shige」というアカウントで泣く泣くやってるんだけど、「〇〇さんがフォローしました」みたいなメッセージがしょっちゅう来る割にはフォロワー数が一向に増えない。
要するにフォローをしてくれる人とフォローを止める人の数が等しいということでしょ?
フォローしようが、ナニしようがこちとら痛くも痒くもないけど、「止める」という理屈がわからん。
それは「投稿された写真が気に入らない」ということなんでしょ?
つまり、上がって来る写真を慎重に吟味・審査・判断して「フォローを止める」という行為に至るんでしょ?
もしこの推察が正しいとしたら、こんなモノをそんな風に真剣に取り組んでいる精神構造が理解できん!
そんなことをやっているヒマがあれば本を読むか、塗り絵か、刺し子でもやっていた方がよっぽどいい。
それとも私のアプリケーションがコワれているのか?
コレを読んでまたフォロワー数が減れば面白ェーな。
   ★   ★   ★ 
次…『鬼滅の刃』。
スゴイのね~。
毎日、毎日なんやかんやとテレビに出て来て老若男女を問わずコレに夢中になった1年だった。
もちろん私は全く興味がないんだけど、も~ますます日本人の嗜好の一極化が進んでいるようで、コレがコワイ。
「流行はチェックしておかないとね!」なんて…どうしてみんなそんなに人と同じことをしたがるんだろう?
この年になると朝ブッ早く目が覚めることが多いんだけど、そんな時にはテレビをつけてテレビ東京あたりでやっているミュージック・ビデオを延々と流している番組を見たりすることがタマにある。
イヤ、見てはいないんだけど、ウッスラとBGM代わりに流して本を読んでいる。
すると盛んに若いバンドさんが登場してくる。
ま、そんな番組に接するのは私にとっては、巷間の音楽を知るいい機会になるんだけど、どれも同じに聞こえるんだよね。
同じような曲、同じような声、同じようなアレンジ…サッパリ区別がつかないんだよね。
一応バンドの体裁をしているので「ロック」のつもりでいるんだろうけど、違うって!
ロックというのは人と違うことをする気概がある連中が演る音楽、つまりオリジナリティを競う音楽なハズなのよ、ね?
もしああいうのを「ロック」と呼ぶなら、本来のロックからずいぶん遠いところまで来ちゃいましたよ~。
もうロックが元あった場所には戻れないだろうね。
いつか戻って行くと期待していたけど、もうどうにもならん。
やはり消費者の方が知見を広めて良いモノと大したことないモノを見極める能力を身に付けないとダメだろうね。
でもですね、そういう流行りに乗ってくれる人が日本経済を支えていることも確かなんだよね。
みんなが私みたいなワガママでアマノジャクだったら経済は成り立たない。
作り手はその最大公約数を狙って商売しないとどうにもならない。
昔は作り手がロックが何たるかを全く理解していなかったので片っ端から何でもやっていた。
だから何でもあった。
ところがロックが商売になることを覚えてしまったので儲かるものしかやらなくなってしまった…と業界の先輩から教えて頂いた。
だったらですね、その流行りモノで得た利益を私のような変態のマイノリティどもが喜ぶ分野に少し配分を回してくれないだろうか?
つまり、今は人気がなくても、今は注目されていなくても、本当に素晴らしいオリジナリティを発揮しているミュージシャンを援助してもらいたいんだな。
流行りモノだけでは文化が死んでしまう!
  ★   ★   ★ 
フランク・ザッパのドキュメンタリー映画ができたそうで…。
私は中学2年の時に『Fillmore East - June 1971』を石丸電気でジャケ買いして以来、断続的ではあったにせよカレコレ45年近く聴いてきた。
そして今、何だか知らないけど最近はやたらと「ザッパ、ザッパ」と波が打ち寄せる磯釣りのポイントみたいなことになっているのがイヤでしてね。
自分だけのモノにしておきたいワケね。
で、そのドキュメンタリー映画のサントラ盤が3種類リリースされるとか…。
3枚組CDと2枚組カラーレコードと5枚組のレコードらしいんだけど、全部買えば占めて20,000円ほど。
オフィシャルのアルバムは良識の範囲内でほとんど揃えてきた(全部ではない)身としては全部欲しいわね。
でも…フト思った。
「買ってどうするんだ?」…と。
私の頭の中では天使と悪魔の両方がそう言ってる。
『Hot Rats』やら『New York』やら『Roxy』やらの未発表音源がそれこそ雨後のタケノコのように出て来て、全部買った。
でも結局は1回聴くか、聴かないか、なんだよね。
若いころだったら夢中になって何度も聴いたかも知れない。
ところが長いこと聴いていると、結局、オリジナルのバージョンが一番いいワケよ。
そりゃそうだよ、ミュージシャン自身が天塩にかけて、考えに考え抜いて作ったモノなんだから。
となると、もう「持っている」という「征服感」とか「達成感」だけで買うようなものなの。
持っておかないとマズイ…みたいな。
ナニもマズイことなんかありゃせんのよ。
 
さて、私の父は83歳で死んだんだけど、もし父と同じ年齢で自分が死ぬとすると、あとせいぜい25年しか生きられない。
1年がコレだけ早いんだから、25年なんてアッという間に違いない。
今、ウチにはCDとLPが合わせてだいたい7,000枚ぐらいあるんだけど、家内もセガレたちもそんなモノに全く興味を示さない。
私が死んだらそれらをどうするか?
「棺桶に入れてくれ」なんてことを私は絶対言わない。
「どうぞディスクユニオンに持って行ってくれ」と言ってる。
そうすれば「今半」でスキヤキを食べて、後藤パーラーさんで最高においしいデザートぐらいは頂くことができるだろう。
しゃぶしゃぶでもいい。
一生懸命集めてもそれだけのことだ。
ウチにある自分のお小遣いで買った一番古いレコードはおそらく『A Hard Days Night』だと思うんだけど、中学1年生の時のことだから45年が経過している。
完全に減価償却が終わっている。
翻ってみるに、このザッパの3アイテムを今次買ったとしてもたった25年しか持っていることができない。
25年だけの「征服感」と「達成感」に20,000円もはたくのはあまりにもモッタイなくはないか?
好きな音楽を聴くのにこんな考え方はおかしいにキマっているんだけど、ハッと気が付いた…コレが「終活」ってヤツか?
初めてレコードを買って以来、高校や大学に行っても、就職しても、結婚しても、子供ができても、転職しても、父が死んでも、レコードやCDへの欲望を途絶えさせたことがなかった私がそんな気持ちになったのは自分でもかなり意外だった。
CDも買わなくなった。
以前は年に300~400枚ぐらい買っていたが、今年はザッパを除いてはブックオフで290円のクラシックのCDを十数枚買っただけに留まった。
理由は、プライベートで心底楽しんで聴ける音楽がなくなって来たことに尽きる。
ギターだってバンド活動を止めたら欲しくなくなるのと同じだ。
ビートルズやレッド・ツェッペリンに興奮した自分、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのアドリブに鳥肌を立てた自分がもういなくなっちゃった。
苦しいよ~!
仕事で聴く音楽は全然別よ。
皆さんからお預かりした力作は自分の全音楽知識を総動員して真剣に聴きます。
最近、かろうじてクラシックに光明を見出してはいるんだけど、アレは一対一でジッと聴いていないとオモシロくない音楽だし、ナゼか音源アイテムを集める気にならん。
あ、そういえばマーラーのボックスセットを買ったわ。
   ★   ★   ★ 
そんな人生を送って来た私だから、死ぬ前に周りにいる若く将来のあるミュージシャンに自分の音楽の知識をシェアしたいと思っているんだよね…大きなお世話だろうけど。
Marshall Blogでウンチクを固めているのはそうした気持ちによるところもあるの。
若いミュージシャンたちはあまりにも音楽知らなさすぎる。
もっともっとインプットして何かヒネリ出してもらわないことには日本のロック界が本当にダメになってしまう。
新しいモノは古いモノにしか見出すことができないんだから。
そんなことが長年私を夢中にさせてくれた音楽への恩返しかな…なんて思ってる。
   ★   ★   ★ 
 それと…Marshall Blogで『イギリス-ロック名所めぐり』っていうカテゴリーがあるでしょう?
ブリティッシュ・ロックにまつわるイギリスのランドマークを訪ね歩く…という企画。
私はMarshall Blogの記事を書いていて、アレに取り組んでいる時が一番楽しいのね。
ところが、熱心に読んで頂いている方もいらっしゃるんだけど、総じてアレが一番食い付きが悪い。
平たく言って「人気がない」。
ま、完全に私の嗜好でやっているので、テイストが合わなければ読む気が起こらないのは百も承知しているから別に構わないんだけど、やっぱり馴染みのない内容でも読めば少しは何かの足しになるかも知れないし、そもそも書いている方だってより多くの方に目を通して頂いた方が励みになる。
でもダメなんよ。
やっぱり洋楽のリスナーの層がかなり薄くなっていることを肌で感じるよね。
アレを40年前にやっていたらかなりウケていただろうにナァ~。
ところが!
年末ギリギリに完結した「ジミ・ヘンドリックス特集」はいつもより明らかにたくさんのご支持を頂戴しましてね、とてもうれしかったです。
年末の珍事だった。
   ★   ★   ★ 
もうひとつ年末の珍事…私ごとながら、上の子が結婚しましてね。
こんなご時勢なのでセレモニーは一切なしで、とりあえず現時点では事務処理のみ済ませた。
初めての娘ができましてね。
お嫁さんに「チョット『お義父さん』って呼んでみて」なんて言うと、とても明るく朗らかな彼女はなんのためらいもなく「お義父さんッ!」なんてやってくれましてね。
コリャ、いいもんですな~。
ウチは野郎2人だったもんだから、ついデレデレになってしまいましたとさ。
    ★   ★   ★ 
今年は何の下地もなく頭に浮かんだことをズラズラと書かせて頂きました。
最後に…
ミュージシャンやショウビジネス関係者の皆さん、今年は本当に大変な年でしたね。
まさかこんなことが起ころうとは一体誰が想像したことでしょう。
月並みですが、とにかくこのコロナ禍の早期終息を願って止みません。
がんばりましょう! 
来年もMarshall/NATAL/EDEn、そしてMarshall Blogをよろしくお願いします!
 
あ、私?
もう長くないんじゃないかって?
おかげさまで今のところ全くの健康体です。
 

200






 




2020年10月15日 (木)

ジム・マーシャル⇒フランクフルト⇒フランク・ザッパ⇒ニューヨーク

 

調べてみたら去年は『Music China』で昨日まで上海だった。
楽しかったナァ。
『Music China』は今年も今月の28~31日で開催されるようだ…「ようだ」というのはチェックしてみても「中止」という情報がウェブサイトに上がって来ないから。
今年もD_Driveが呼ばれていて、またひと花咲かせようとしていたけど…断念。
だって中国への飛行機は、全日空の場合週にたった1便、上海にしか飛んでいないっていうんだもん。
行けるワケもないし、例え行けたとしても帰って来れなくなっちゃう。
昨日の新聞に出ていたけど、全日空さん、もちろん冬のボーナスはなし、給料は5%減、社会保険自己負担料は50%に引き上げだそうだ。
さっき別の用件で電話した時に係の人を思いっきり励ましておいた。
だってツブれちゃったらせっかく貯めてきたマイレージがオジャンになっちゃうからね。
しかし上海メッセ、ホントにやるのかな?
海外からの出展もお客さんも皆無だろうに…ま、人口が14億人もいればなんとかなるのか?390 10月3 & 4日に開催する予定だった『楽器フェア』は中止。
SNSで誰も話題にしていないようだけど、『楽器フェア』は替わって11月11~13日の間にオンラインで開催するそう。
1月の『NAMM』も中止。こちらもオンラインで開催するらしい。
もうひとつ…フランクフルトの『Music Messe』。
コチラは2020年の4月に開催する予定だったのを、来年に10月に「延期」という形を採ったようだ。
コレ、「中止した」と素直に言った方がよいような気もするけど…。
今日はそのフランクフルトから。10毎年フランクフルトに通っていた頃は私の人生の中でも最も楽しい期間だった。
そのあたりは『私のフランクフルト』と題してすでに詳しく、6回にわたってしつこく思い出を書かせてもらった。
 ↓  ↓  ↓
【Marshall Blog】私のフランクフルト <vol.1 : 2003~2006年>20そういえば2009年には「Zappa Plays Zappa」もフランクフルトに来ていたんだっけ…。
今日はそんなフランクフルトからフランク・ザッパに至る話。
自慢めいたエッセイです。
ツマらんジジイのロマンです。
読んで頂いたところで得るモノは何もありませんのであしからず。

25v話のマクラにチョコっとフランクフルトのことを書こうと思って写真をヒックリ返して見ていたらまたまた懐かしくなっちゃって…。

30ココでずいぶん色んなことを教わったからナァ。40一番の思い出は、やっぱりブースでMarshallの連中と一緒に仕事をしたこと。50私が通っていた当時はこの『Musik MESSE』まだ世界一大きな楽器の展示会で、それはそれは大変な盛り上がりを見せていた。60展示のセットや片づけはもちろんのこと、ジム・マーシャルやゲスト・アーティストのサイン会の行列の整理をしたりポスターを巻いたり、販促品の補充をしたり…。
タマに英語で商品の説明をしたり。
同じゲルマン語族のドイツ人でも英語が下手なヤツもたくさんいてね。
若いイングヴェイ・ファンに話を合わせながら商品の説明をしていたら、私がイングヴェイの熱心なファンであるとスッカリ勘違いしてしまって、毎年来るたびに私を見つけては、イングヴェイの話をしてくるのには閉口したな。
あの子どうしてるかな?70コレはポールのデモだな。

90サイン会やデモで参加するアーティストとお近づきになるのも大きな楽しみのひとつだった。

Srimg0212 まだジムも全然元気でね~。
毎年、イギリス⇒フランス⇒ベルギーを通過してドイツまで車で来ていた。
そして、毎回必ずフランクフルトに来てジムと行動を共にするご夫妻がいらっしゃった。
見ていると、ご主人が時折ジムのサイン会の手伝いをする程度で、どう考えてもMarshallの人ではないし、Marshallの関連する企業の方…という風でもない。
で、ある時、Marshallの人にその方々がジムとどういう関係なのかを尋ねてみた。
答えはこうだった。
「Jim's friends」
ただのトモダチ?S2rimg0087話は変わって…。
2か月ぐらい前に心当たりのない人から突然facebookにメッセージが届いた。
そのメッセージが言うには…
「シゲ、あなたフランク・ザッパが大好きなのよね?
私が彼のコンサートに行ったことがあると言ったらすごく羨ましがっていたわ!」
エ~、誰よ、ダレダレ?アナタは誰?
私はベテランのロック好きの欧米人と話をすると、手当たり次第に「フランク・ザッパを観たことがありますか?」って訊いちゃうもんだから、最初はこのメッセージの送り手の見当が皆目つかなかった。
「フランクフルトでそんな話をしたわよね!」というメッセージの続きを読んで、とりあえずどっち方面の方かがわかった。
その方がおっしゃるには…
「今度ウチの娘がザッパのヴァイナル(レコード)のコレクションを譲り受けたの。
ウチの娘は興味がないんだけど、アナタ、興味ある?」
あるある!そりゃありますよ!
しかし、それでもメッセージの主が誰であるのかがハッキリとわからない。
そこで「もちろん興味あります!」と返事をする前に、当時はジムの秘書をしていた今の社長の奥さんに確認を乞うた。
やっぱり毎年フランクフルトに来ていたからね。
背景を説明すると、間髪入れずその方が誰かを察してくれた。
答えはこうだった。
「Jim's friend」
コレでわかった!
社長夫人曰く、何でも私はフランクフルトでかなり熱く「ザッパ愛」をその方に語っていたらしい。
恥ずかし~。
でも、そのおかげで私のことを覚えていて頂いたというワケ。100それ以降は、ザッパのコレクションを譲り受けたお嬢さん本人とのやり取りとなった。
コレがまたアータ、その方のお住まいがストックポートだっていうワケよ。110ストックポートといえば10ccの出身地。
因縁を感じるね~。
ストックポートと10ccについては、しばらく前に詳しく、しつこく書いておいたので興味のある方はコチラをどうぞ。
 ↓ ↓ ↓
【イギリス-ロック名所めぐり】
vol.43 ~ 10ccに会いに行く <前編>

vol.44 ~ 10ccに会いに行く <後編>~ストロベリー・スタジオ物語

420さて、そのお嬢さんからレコードのリストを頂いて、コレだけ買わせていただいた。
〆て12枚。
向こうの人はジャケットを丁寧に扱わないのが普通だけど、前のオーナーがすべてのレコードを厚手の硬質なビニールに入れて保管してくれていたので、古いモノで50年近く経っていてもジャケットが超キレイ!
盤質も文句なし。
どういう基準で選んだのかというと、すべてUKオリジナル・プレス。
私はオリジナル盤がどうとか、マトリックスがどうだとか、そういうレコード・コレクター的な集め方にはまったく興味がないのね。
「プレスした工場が違うと音が違う」と、全国の「赤いきつね」や「緑のたぬき」の食べ比べのようなことをやっている時間が私にはもうないのだ。
そもそもその音の違いがわからないし…。
私も死期が近いのかどうか知らないが、最近マジで「人生で残された時間」というのを気にするようになってきましてね。
とにかく少しでも多くのいい音楽を楽しんでから棺桶に入りたいと思っているのだ。
でも、今回はチト違った。
ナゼならリストの中に『Zappa in New York』が入っていたからだ。
コレのUKオリジナル盤にはどうしてもこだわる必要があるのだ。120私は高校の時に『Zappa in New York』がリリースされてすぐに左下のヤツを買ってね~、正直、最初はチョット???だったけど、すぐに入り込んでしまった。
ナンダカンダでこのアルバム関係でレコード×3とCD×4で今のところ7種類集めてある。
140もうひとつ持ってる。
コレだけの演奏でしょ、どうしたってこの時の全演奏が聴きたくなるのが人情でしょう?
今ではリリース40周年を記念して全公演を収録した缶入り5枚組CDなんてのが出ちゃったけど、どうしても未発表の音源を聴きたければ、昔は海賊盤に手を出すしかなかった。
で、買った。
インタビュー・ディスクが付いた7枚組ボックスセット。
この頃、ザッパの昔のCDをピンク色の収納ケースに入れてまとめて販売しちゃうのが流行っていたんじゃいかな?
それをマネしてなのか、この海賊盤にもそんな箱が付いているんだけど、そこら辺の既製品のCDケースなのかサイズが全然マッチせず。
他に缶バッチだの、ハンコだの、ブロマイドだのが入っていて、値段は忘れちゃったけど、スゲエ高かったのを覚えている。
オマケなんていらないからもっと安くして欲しいわ。
「オマケ」といえば、最近のハロウィンの未発表音源のマスクは頼むから止めてもらって、もっと安くして欲しいわ。
また1981年のハロウィン・コンサートの音源が出るでしょ?
もうあのヘンなマスク要らないのよ!絶対に使わないんだから。
場所も取るし。
ああいう「全公演記録」みたいなヤツが雨後のタケノコのごとく出て来るけど、たいてい買った時に1回聴いて終わりだね。
アレは「音楽作品」というより「資料」だもんね。
ジャズ評論家の故中山康樹さんが、よく未発表曲を追加したマイルス・デイヴィスのアルバムのことをクソミソに入っていたけど、同感。
土台、後から作り直したモノはダメね。
このアルバムにしても、オリジナルのライブ音源に入念にダビングを施し、アーティストの意向を完璧に反映させた「作品」になっているんだから、それが一番輝いているにキマってる。
それでも1度は聴いてみたくなるのも否めないけどね…どっちじゃい!
 
さて、この海賊盤、CDはCD-R。
音質はオーディエンス録音で最悪…と思っていたけど、今回1枚聴いてみたらそれほどでもなかったな。
The Kinksの『Kelvin Hall』より2回りぐらい悪いぐらい?…というと相当悪いことになるけど、昔の海賊盤なんてそんなもんだ。
音質はあきらめて、客の反応を聴いているとすごくオモシロイ。
若い人なんだろうけど、ステージのようすに興奮して反応するのが興味深いの。
コレで『Zappa in New York』関連アイテムは8つ。
150_2そして、今回手に入れたオリジナルUKプレス。
コレはね~、そうだな~、40年近く待ったかな~。
要するに、1978年に国内盤が出て、それに「Punky's Whips」が収録されていないことを知って、どうしても聴きたくなった…というところから始まっているワケ。
当時はまだ『Baby Snakes』も出ていなかったのでこの曲を聴く術がなかった。
ま、「40年近く探した」といっても、来る日も来る日もレコード屋を回っていたワケではありませんよ。
でも、イギリスに行くようになって20年、彼の地で中古レコード屋を見つけるたびにチェックだけは怠らなかった。
イギリスに行くとよく広場を利用した市に出くわす。
デヴィッド・ボウイの「Five Years」に出て来る「Market squre」ってヤツね。
いわゆる不用品を集めて売っている「フリー・マーケット」とは違って、ちゃんとしたビジネスでやっている露店の「市」ね。
中古レコードを扱う店もチラホラ出展していて、そういうところなら何となく期待できそうじゃない?
でも、絶対に見かけなかった。
お店のオジサンに訊くと「ああ、アレは出てこないよ」といつも言われた。

160このアルバムをリリースした頃はザッパとワーナーの関係が悪かった。
イギリスでは初回プレスとして、元々の「Punky's Whips」が収録されたバージョンを発売。
一方、アメリカのワーナーは「Angelから訴えられたらヤバイ」という理由でこの曲を削り、「Big Leg Emma」と差し替えた。
「ヤベッ!」とばかりにイギリスでは当該の初回プレス盤を回収したが間に合わず。
その後、「Punky's Whips」がクレジットされた初回プレス・バージョンのジャケットに同曲が入っていないアメリカ仕様の盤を入れて販売したが、当然ごとくクレームに。
つまり、ジャケットには「Punky's Whips」と書いてあっても、音源が収録されていない商品があるらしいんですよ。
そこで、下の写真の私のUKオリジナル盤(写真右)を見てみると…。
A面にチャンと「Punky's Whips」と入ってる。
ちなみにこのオリジナル盤の方では「Big Leg Emma」は、B面の「Black Page#1」と「#2」の間に挟み込まれている。
後のCDの仕様と同じ。
さて、果たして私の盤には本当に「Punky's Whips」は収録されているのかな…。
聴いてみると…ヨカッタ!入ってた!
 
しかし、音がいいな。
私は元転勤族だったので、引っ越しの時の作業量軽減と利便性についてはCDに感謝しているし、今になって「アナログ、アナログ」と騒いでいる人たちのように音にやかましくもない。
何回も書くけど、1984年ぐらいか?…CDが出てきた時に「音が良い」と泣いて拝んだのはどこのどちらさまよ?
音質機器比べの試聴会とかやっちゃってサ。
CDを神様扱いしてたじゃん?
私の場合はドップリとレコードで育ったけど、CDを使っている…という感じ。
両方OKなんだけど、ダウンロードとかはムリ。
「音ウンヌン」ではなくて、アレはすべてにおいて音楽を聴く態勢ではないもん。
今までただの1回もやったことがない。
 
最近、ギタリストの三宅庸介さんの影響を受けて、43年前に買った30cmウーファーの入ったダイアトーンの大きな3ウェイ・スピーカーと、44年使ってきたヤマハのレコード・プレイヤーを事務所に持ち込みましてね。
アンプは20数年前に転職を記念して買ったデンオンの汎用品なんだけど、アナログなので音は完全にアナログ仕様。
デジタル一切なし。
それで柄にもなく、聴き比べをやってみた。
ナニせカッティング技術に長けたUKオリジナル盤だから。
 
結論…「太い」に尽きますな。
CDは音がとてもキレイなんだけどひ弱な感じ。
レコードの音のなんとたくましいことよ!
CDだけ聞いていればわからないんだけど、レコードを聴いちゃうとダメ。
音の押し出しが全く違ってまさに「遠くまで届く音」というイメージ。
待てよ…コレってギター・アンプと全く同じじゃん!
近い将来、ギター・アンプでもオーディオと同じことが起こるような自信が湧いてきた…つまり、「ギター・アンプは真空管に限る」と多くのギタリストがアナログに戻って来るということね。170…と、念願のアイテムが長い長い時を経てウチにやって来た!という一席でした。
ジムの友人の女性に荷物が届いた報告とお礼をすると…
「レコードの話があった時、真っ先にフランクフルトでのアナタのことを思い出したのよ!そのレコードが収まるべき所に収まって本当にうれしいわ!」と言ってくれた。
彼女は15歳の時にThe Mothers of Inventionをハマースミス・オデオンでご覧になったそうだ。
そんな話を聞いたらザッパ・ファンなら誰でも興奮しちゃいますよね~。
その頃に他に行ったコンサートとしてEdgar Broughton Bandの名前が出てきたにはビックリしたよ。
 
フランクフルトに行っていなかったらコレが実現しなかった…と思うと壮大なロマンを感じるね。
私にこんなロマンを仕掛けてくれたジムに心をからお礼言いたい。
そもそもザッパも1959を愛用してくれていたし、このライブ・アルバムの公演でもMarshallを使っているハズだ。
ザッパの家にはとても程度の良いビンテージのMarshallが保管してあったらしい。180 

200

2019年2月 2日 (土)

レコードだ!CDだ!やっぱりモノだよ、モノ!


今日のタイトルにある「モノ」はステレオとかモノラルとかの「モノ」ではなくて、「物」ということね。
昨秋に導入したSpotifyが「便利」だの、「ラク」だの言ってきたけど、その感想に変わりはない。
でも、やっぱりダメだね。
最初はヨカッタんだけど、私のような古い人間には「音楽」を聴いているような感じが段々しなくなってきて、ナント言うか…ウ~ン、一種の「事務機器」に接しているみたいな感じ?
「アレを聴いてみようか?」とか、「コレはどうなんだろう?」と未知の音源に興味を持ってアクセスしていたのは初めのウチだけで、今現在、音楽的な活用法といえば何のことはない、昔から愛聴しているレコードやCDを引っ張り出すのが面倒だからSpotifyを使って聴いている…みたいな?
イヤ、「引っ張り出す」より「片づけなくていい」の方がありがたいかな。
未経験のアルバムを聴いた時にしても、チョット聴いて波長が合わないと「あ、ダメだコリャ…」ともう1分も経たないうちに打ち切っちゃう。
昔はサ、大枚2,500円も払って買ったレコードでコレは絶対にできなかったよね。
ウチのレコード棚には1回しか聴いたことのないアイテムが山ほどあるけど、1分聴いて止めた…なんてのはさすがに1枚もない。
中学生の頃は、不幸にして好みではなさそうなレコードにブチ当たった時でも好きになるまで意地で聴いたもんだったし。
とにかくタダ同然の音楽って頭に入って来てくれないんだよね。
何かインターネットで調べごとをする時に似ている。
ウェブサイトで何か調べるのはものすごく便利なんだけど、すぐ忘れちゃう。
反対に本を読んで、付箋を貼って得た知識の方がはるかに頭に残る。
ま、この年なので1回でナニかを覚えることが若い頃に比べで難しくなってしまったけど、本からの知識の方がどこか有機的で価値のあるように感じる…そりゃ本を買っているからね。
やっぱり音楽と同じだ。
でもコレも年寄りの古い感覚なんだろうね。
では、若い人はどうか…。
実際に尋ねてみた。
CD等の音楽商品を買ったり集めたりすることに魅力を感じない世代の子だ。
「ストリーミングやってるでしょ?」
「はい、音楽はストリーミングで聴いています」
「フフフン、オジさんも最近そうしているんだよ。でもさ、もし自分の聴きたいヤツがストリーミングで見つからなかったどうするの?お金を出してCDを買うの?」
「いいえ、CDは買いません。もしストリーミングで聴けなかったら、もう聴きません」
「え…」
このことである。
素人&年寄り考えで、タダ聴けちゃうそういうシステムにどうして手塩にかけた自分の大切な音楽をタダ同然で公開しちゃうのか不思議に思っていたけど、こういうことなのね。
そういう媒体に顔を出しておかないと、一生誰の耳にも止まらない可能性が高いんですよ。
とどのつまりはほぼ音楽でお金で取れない…ということじゃんね。
「オッサン、今頃ナニ言ってんだ?」と呆れられそうだけど、コレも実際にSpotifyを導入しなかったら最後まで理解できないことだったよ。
だって音楽ってそういうもんじゃないもん。
でもひとつ…Spotifyのカタを持つワケではないけど、こんな仕事をしていると「チョコっと聴いて調べたい音源」が必要な時なんかには途轍もなく便利だね。
コレには助かっています。
あ、更にもうひとつ。
数か月前に知り合った若いバンドさん。
ビデオの撮影でMarshallやEDENを使ってもらったんだけど、彼らビデオを作ってもCDを作らないのよ。
「それで大丈夫なの?ミュージシャンなのにCDなくていいの?」と訊くと、こういう答えが返ってきた。
「あ、いいんス。あの、いきなりCDを作っても1枚も売れないんッスよ。それよりビデオを作ってまずYouTubeにアップするんスよ。
それに引っ掛かってきて、ライブの動員が増えてくればCDを作るかも知れないス」
…だそうです。
世の中、そういうことになっています。
皮肉なもんでしてね、ロックが一般的になればなるほど、ロックで喰うのが難しくなる…という。
 
もうだいぶ前のことだけど、アメリカ人と話をしていて、「Physical Products」という言葉を初めて耳にした時はかなりショックだった。
寝ても覚めてもレコードだった青春時代を過ごした私には、その言葉が「悪魔の呪文」もしくは「この世の終わり」みたいに聞こえたもんだよ。
「やがてレコードやCDがこの世からなくなってしまうのか?」…けどマァ、なるようにしかならないね。
芸術よりも経済活動が優先だから…。
で、なるようにしてなったのが、レコードのリバイバルだっていうんだからこれまたフシギ極まりない。
さらに自分でもフシギに思っているのは、私がコレをあんまり快く思わないんだな。
だってそうでしょ?
1984年、CDが一般化し出した時、みんなどう言ったよ。
「最高の音質」って泣いて喜んで、座りションベンしたでしょうが…失敬。
「あ、そのアルバム持ってるよ。レコードじゃなくて、エヘン!CDで持ってるよ」なんてことを言ってたヤツがたくさんいたハズだ。
そんなヤツをうらやましく思うことなどなく、もちろん私は「レコードの貞操」を守っていたよ。
CDを凍らせるともっと音が良くなるなんて話もあった。
ところが、以前に何度か書いたように当時は転勤族でね、度重なる引っ越しの労苦に耐えかねて3,000枚以上のレコードを売ってCDに買い替えてしまったんだね。
音質に関してはどっちでもヨカッタ。
それから25年ぐらいは経ったか?
今度はレコード・ブームだってよ。ざけんなよ!…となるワケ。
もうね、Spotifyも経験したことだし…何でもいいわ。
とにかく死ぬまでに少しでも多くのいい音楽を聴きたいわ。
 
ハイ、結論!
とにかく、「音楽はモノで持っとけ」ということ。 
例の仏壇屋のキャチコピーこですよ。
「形は心をすすめ、心は形をもとめる」
ついでに言うと「性格は顔に出る。生活は身体に出る」…コレは関係ないか。とあるお寺の掲示板に書いてあった。
今日の話題はその「モノ」。
Marshall RECORDSのモノがしばらく前に届きましてね。
ようやくイジくる時間ができたので紹介させて頂く。

10まずは、BAD TOUCH。
現在Marshall RECORDSと契約しているアーティストはレコードとCDの両方をリリースしている。
収録曲数はレコードもCDも同じ。
あ、あの日本人が「ヴァイナル」っていう呼ぶのはイヤだな~。「レコード」って呼んで欲しいな~。
20コレがレコード・ジャケット。
いいね、デザインが!
コレをデザインしたのはこのバンドのギタリスト、Daniel 'Seeks' Seekings。ヤケに「求める」人だな~。

30裏はこんな感じ。

40そ~ら、「Marshall RECORDS」のロゴ。
70ダスト・ジャケットも付いてる。

60レコードのレーベルはこう。
ああ、いいニオイ。
輸入盤のニオイだよ。
こうして久しぶりに新しいレコードを手にしてみると…やっぱりレコードはいいな~。
考えて見ると、最後にレコードで新譜を買ったのはいつのことだろう?
Frank Zappaであることは間違いない。
そもそもレコードもCDもZappa以外は新品なんてまず買わなかったからね。

80こっちはCD。
デジパック仕様…悪いけど、小さくて頼りない感じがするナァ。
でも中身はいいよ~。
私がいつも言っている、古き良き伝統のハードロックを踏襲しつつ、今の世代のエキスが詰め込まれている感じ。
どうして日本の若いバンドってこういうのが出て来ないんだろう…それはロックのルーツが違うからなんだね。
イギリスの連中はブルース、もしくはブルース/ロック。
我々の国のロックのルーツはグループ・サウンズなんだよ。要するに歌謡曲だ。

90続いてはマーレコでは古株のコーンウェル出身、KING CREATUREの『VOLUME ONE』。
レコードはコレ。
ああ、コレもいいニオイ。
かつてウチの居間はディスクユニオンと同じニオイがするのが自慢だったんだよ。
だから便通がいいのなんのって!

100ク~「SIDE A」!タマらんね。
その下にMarshall RECORDSロゴ。

110コチラはCD。
コレもデジパック仕様。
KING CREATUREはシュレッド・ギターもふんだんに盛り込まれたマーレコの中では最もメタル寄りのバンド。
私あたりでも何の抵抗もなく聴ける。
先日のNAMMで演奏して来たようだ。

120コレはロンドンやベルファストをベースに活動を展開しているギター女子とドラム女子のデュオ・チーム、REWSの『PYRO』。
コレはCD。
REWSもNAMMで演奏して大きな反響を呼んだようだ。今度はニューヨークへお呼ばれだとか…。
いかにも「海外の女子ロック」という感じ。
不思議なんだよナァ。
イギリスは日本ほどガール・バンドが盛んではないんだけど、「英語で歌っている」とかいうことではなしに、女子でもチャンとこうして「イギリス風女子ロック・サウンド」になる。
やっぱり聴いている音楽が日本人と違うということなんだろうね。
そんな典型的な「海外の女子ロック」なんだけど、チョイとヒネった曲作りがとても魅力的だ。

140こっちがLP。
キャ~!カラー・レコード!
うれしいなったら、うれしいなッと!
1曲目のタイトルが「Let it Roll」っていうんだよ。
もちろん我々世代のアレとは違いますのであしからず。

130 REIGNING DAYSもマーレコでは古株だ。
ヘヴィだよ。
典型的な今の人のハード・ロックとでもいいましょうかね。
でも3曲目の「Chemical」という静かめの曲なんかおもしろいな。
短調の曲が多く日本の若いバンドなんかとはやっぱりゼンゼン雰囲気が違うね…Rockだ。

150今の西洋のロックと日本のロックの一番大きな音楽的な違いって、メロディのワザとらしさの違いだと思うんだよね。
こういうところにルーツの違いが出るね。
私なんかには、日本の若いバンドさんは無理してメロディを作り込んでいるように聞こえるんだよね。
そういうのは「歌謡曲」がやっていたことで、少なくとも「ロック」のやることではない。
でもね、奇妙なことにこの傾向が一番顕著に表れているのは、メロディのキャッチーさよりもパワーで押し切るはずのヘヴィメタル・バンドさんたちなんだよね。
あのサビ…一体誰があんな風にしちゃったの?
正直マーレコの中で一番印象が薄い感じだったんだけど、このバンド、一度見てみたいナァ。

1601989年に結成した北アイルランドのオルタネイティブ・ロックバンドのTherapy?のモノ。
アルバムは『CLEAVE』。
何となくHipgnosisを連想させるジャケット?
このアルバムがリリースされて初めて聴いた時、私にとってはちょっとパンキッシュで苦手な印象があったんだけど、聴き直してみると…いいね。

165「cleave」というのは「突き進む」とか「切り裂く」とかいう意味…まさにそんな感じ。
このバンドはドラムスがカッコいいな。

166最後のモノはコレ。
コレもまずジャケットがすこぶるよい。
Press to MECOの『Here's to the Fatigue』。
「fatigue」か…「出る単」に出てくるよね。「疲労」という意味。
このジャケットの絵はバンドのお友達かなんかが描いたらしいんだけど、Zappaの『Grand Wazoo』あたりのCal Schenkelの影響を受けているんじゃないかしら…なんて思ってしまう。
『Chunga's Revenge』の内ジャケにもイメージが似ている感じがする。

180若バンドなので「若い音」がするのは当然なんだけど、このチームはひと味違うな…と、大分前に初めて聴いた時に思った。
日本の若いバンドには絶対に出せないサウンド。
ハードだのヘヴィだの、とかいうことではなくて、メッチャ若い割には音楽が熟しているという感じがする。
そのカギはコーラスの多用と高度な演奏技術。
やっぱりそれなりの音楽を聴いていないとこうはならないワケで…Marshall RECORDSのプロデューサーに訊いてみたら大当たり。
3人ともFrank Zappaの大ファンなのだそうだ。
やっぱりね…「コーラスと高度な演奏技術」はZappaの影響を受けているに違いない。
それにCal Schenkelだって符合する。
でも音楽は『Freak Out』でもなければ『One Size Fits All』でも『Shiel Yerbouti』でも『Jazz from Hell』でもない。
Press to MECOの音楽なのだ。
コチラはCD。

190ガーンと見開くとThe Carpentersの『Now & Then』みたいになってるよ。
コレ、レコードでやればヨカッタのに!

200以上が現在のところのMarshall RECORDSのモノたち。
よろしくね!

今、音楽商材の和洋の売れ行きの比率はもう、9:1なんだって。
まぁ仕方ないよ、時代だから。
聞いた話によると、今の若い人にとっての「ロック」って「恋」の人なんだって?
松山千春じゃないよ!
まぁ仕方ないよ、時代に合わせて言葉の意味が変わることもある。
でも、このまんまの「ありがとロック」や「草食ロック」でいいのかね?
「仕方ない」じゃ済まされないんじゃないの~?
このまま放っておくと、日本のロックってこの後どうなって行くんだろう?
私が生きている間に顕著な変化が見られるかしら?チョット覗いてみたい気もするナ。
今日紹介したバンドは自分のところのバンドとあって正直ヒイキ目な聴き方をしちゃうんだけど、どのチームも、やっぱり「ロックのルーツ感」というものをシッカリ感じるんだよね。
ナント言ってもビートルズの国だからネェ。
そして、コレらのバンドには日本の「草食ロック」にはない、そしてロックには不可欠な強烈な「肉食」を感じるワケです。
そういえば、どなただったか忘れちゃったけど、Marshall Blogで以前から唱えていた、若い人のロックを指す「草食ロック」という言葉をごく自然に使っていた人がいらしてビックリしたよ。
私だけじゃなくて、やっぱり70年代あたりのロックを経験しているとそういう表現がごく自然に浮かぶんですな?
Marshall RECORDSのように我々も少しでいいから「肉食ロック」を取り戻して次の世代に「ロックはかくあるべき」を伝承したいものです。
え、「肉食ロックってどういうの?」かって?
Marshallをガツンとならす音楽のことよ。

10_2 

200

2019年1月 7日 (月)

明けましておめでとうございます

Marshall Blogの読者の皆様におかれましては幸多き新春をお迎えになられましたこととお慶び申し上げます。

Marshall、NATAL、EDEN、並びにMarshall Blogを本年も相変わらずご支援を賜り度くよろしくお願い申し上げます。

Marshall_logo_square

M_natal_square

M_eden_square

9marshallblognega_3 さて、昨年も何度書いたかわからないけど、やっぱり時の経つのが早すぎますな。
チョット前にMarshall Blogが1,000回目の更新を迎え、常日頃からご登場頂いているアーティストの皆様からの祝辞を交えて記念記事を掲載したばかりだと思っていたんだけどね~。
そうなんです。
今日のこの投稿が1,500本目の記事なのです。
早い~!
実はこの2019年最初の記事がちょうど1,500回目になるように、年末に記事の投稿頻度をチョット調節したんだけどね。
相も変わらず同じようなことを書いて、脱線しまくりのMarshall Blogですが、これからもお引き立てのほど何卒よろしくお願い申し上げます。
 
新年のご挨拶はおわり…。
今日はこの後、エッセイ風に文章だけでお送りします。
ロクなことが書いてありません。
時間の無駄になるので絶対に読まない方がいいでしょう。
 
ココで2018年を、自分の周辺のことでチョット振り返ってみたいと思うのです。
こんなこと旧年中にやるべきことなんだけど、年末はあの紙芝居動画の制作に夢中になってしまって書けなかったのです。
 
ナニからやろうかな?
まず触れるべきは…Spotifyでしょうな?
Marshall Blogで数え切れないほど何度もガミガミ書いて反対して来た音楽配信の類。
Spotifyってのを9月の末にとうとう始めてしまったよ。
「『ダウンロード』と『ストリーミング』は違うゼよ、オッサン」と言われるかも知れないけど、んなことはどうでもよい。
40年以上にわたってレコードやらCDやらに少ない財産と時間をつぎ込んで来たオッサンにとっては「目クソ」と「鼻クソ」ほどの違いもない。
Spotifyを導入したのは、Marshall RECORDSでの仕事でやがて必要になるであろうということがひとつ。
そして、もうひとつは田川ヒロアキ。
彼が出演する9月のチャリティ・イベントにお邪魔した時に「イヤ~、もう時代はストリーミングですよ!」と諭すように口にした彼の言葉が私の背中を強く押した。
日頃はこっちがダマしているので、タマにはヒロアキくんにダマされたと思ってSpotifyに加入してみた。
それでも最初は「チッ、ナンだいこんなの…結局は若者がハヤリの曲を追いかけるだけのツールじゃないの。モノによってはオレのコレクションの方がよっぽどマッシブじゃねーか」などとケチをつけてもみたが、Bluetoothのレシーバーという装置が存在することを知り、早速買って来てステレオに接続して試した瞬間にプカプカと「黒船」がやって来たよ。
ま、それでナニをやっているかというと、CD棚から聴きたいアルバムを探して引っ張り出すのが面倒なので、代わりにSpotifyで聴いている程度のことだったりもするんだけどね。
でもひとつ、私の生活に大きな変化をもたらしたことがあった。
それは「CDを買わなくなったこと」だ。
「CDが欲しくなくなった」と言い換えても差し支えない。
私はジャズのアルバムを中心に、長年にわたって月に20~40枚の中古CDを買う生活を続けて来た。
ところが、行きつけのお店が月1回のバーゲンを止めてしまい、去年の前半からCDをほとんど買わなくなっていたこともあったのだが、Spotifyが完全にそれにトドメを刺したのだ。
もう音楽のジャンルを問わず、楽しみとして聴くCDを欲することがなくなってしまった。
例えばこういうことだ…。
昨日の晩、テレビでラヴェルの「ピアノ協奏曲」を放送していた。
イヤ、コレがまたちょっとジャズがかっていてエラくカッコいい。
以前だったら翌日は中古レコード屋に足を運んでいるところ。
しかし今は違う。
マルタ・アルゲリッチの録音がSpotifyにあったので、それを聴きながらこの原稿を書いているとこと。
CDは要らない。ジャケットもなくても何の不自由もない。
元々そういうモノだもんね、コレは。
だって、Spotifyがあればいつでも聴けるじゃん。もうウォークマンもほとんど使わなくなったし。
私は事務所で仕事をしている間にしか自発的に音楽を聴かないので、ステレオからある程度の音質で聴ければもうコレで十分。
『ホワイト・アルバム』もSpotifyで聴いたよ。
レニーの『Candide』なんかはこの3か月で100回近くは聴いた。
それでもCDは欲しくならなかった。
その結果、2018年に買ったCDの数は、ダントツで「五代目古今亭志ん生」が一番だったわ。
志ん生の音源はSpotifyで検索しても出て来ないから。
私ですらこうだもん…そりゃCDなんか売れなくなるにキマってるわ。
それとね、Spotifyのおかげで「音の調べごと」がすごくラクになった。
Marshall Blogの記事を書いていると、色々と音源を確認しなければならないケースが多いのね。
そういう時に圧倒的に便利なの。
欲を言えば、アルバムの情報が付随していないので、こうなりゃWikipediaにリンクしちゃえばどうかね?どうせタダ同然同士なんだから。
『隠し砦の三悪人』の田所兵衛(たどころひょうえ)ではないが、「裏切りゴメン!」と攘夷はもう諦めるが、それでもミュージシャンの本来の仕事は「音楽を作って、CD(あるいは音の出る何がしかの物体)を発売する」ことだと信ずる佐幕派ではいるつもり。
しかし、我々だって生まれた時からこういうのがあったら「音楽ってタダで聴けるもの」って思うにキマってるわな。
クワバラ、クワバラ。
 
次…「レコード大賞」。
今回は「怖いもの見たさ」でトライしようとしたんだけど、撮影の仕事と重なって結局観ることができなかった。 
大賞が「シンクロニシティ」…おお~Policeか!ま、私は頭脳警察はバッチリだけど、Policeは全く知りませんが。
え?違う?
もうチョット受賞結果を見てみましょう。
最優秀新人賞は「辰巳ゆうと」。どちらさま?…演歌の方だそうです。
優秀作品賞として、「アンビバレント」、「いごっそ魂」、「Wake Me Up」、「サザンカ」、「勝負の花道」、「Teacher Teacher」、「Be Myself」、「Bedtime Story」、「U.S.A.」…。
やっぱり予想通りだったね~!
ウソコケ!
「U.S.A.」を除いてはどの曲も1小節もわからんわ。
「Bedtime Story」なんてHerbie Hancockかと思うわ。
元より私は世の中の流行からかなり距離を置いた人生を送って来ているので、ほとんどコレについて言う資格はないんだけれど、かつてはこんな私でもレコード大賞受賞曲ぐらいは口ずさめるのが普通だったわ。
今、あまりにも普遍性の高い曲、つまり「流行歌」がなさすぎるでしょう?
私が言う「流行歌」というのは、「幼稚園生からオッサンオバサンまでが歌える曲」のことね。
私が子供の頃はそういう曲がいくらでもあった。
だいたい「♪森(とんかつ)、泉(にんにく)、囲(んにゃく)まれ(天丼)」なんて、二次使用作品まで流行したからね。
それじゃいつから世の中の歌がわからなくなったのか?
ウィキペディアで大賞受賞曲をさかのぼってみる。
私が生まれる前、1959年の第1回目の水原弘の「黒い花びら」から始まって、「こんにちは赤ちゃん」から「天使の誘惑」から「また逢う日まで」。
「勝手にしやがれ」から「北の宿から」を経て「ルビーの指環」、「長良川艶歌」、「パラダイス銀河」、「おどるポンポコリン」、「愛は勝つ」、「キミがいるだけで」…今1992年ね。
完璧に歌えないまでも、ココまでは全曲わかった。
次の「無言坂」ってのは知らないな…演歌か?
そして、1994年からアルファベットのタイトルの曲が出始める。
「innocent world」…この辺りから全くわからない。
「Overnight Sensation」…お!「Camarillo Brillo」に「Montana」か?まさかね…。
「Don't Wanna Cry」、「CAN YOU CELBRATE?」、「wanna Be A Dreammaker」、「Winter ,again」、「TSYNAMI(コレは知ってる)」、「Dearest」、「Voyage」、「No way to say」…ココまでで2003年。
ココはどこだ?!公用語は英語か?
イヤチガウ!
先進国で英語力最貧国のウチのひとつがやっていることとは到底思えない。
まぁいい。
ハイ、じゃそこのオジサン、「wanna Be A Dreammaker」歌ってみようか~?
真理ちゃん自転車がなつかしい。
  
次、そのウィキペディア。
Marshall Blogを書く時に多くの場面でお世話になっているのがウィキペディア。
でも日本の事柄を調べる時以外は、まず日本語のウィキペディアをチェックしない。
つまり、海外のことを調べる時にはすべて英語版に当たっている。
だって情報の量が雲泥の差なんだもん。
アレどうして全部翻訳しないんだろう?
まぁ、「作り」の情報も多いといわれているWikipediaだけど、音楽に関することなんかは、ロマンがあっていいんじゃないの?…と私は思っている。
そしてもうひとつ、いつも思っていることがある。
それはね、中国語版のウィキペディアなの。
少しマイナーな海外の事柄や人物に関する記事には日本語版がないことが多いでしょ。
だから結果的に英語版を読まざるを得ないんだけど、そんな記事でもたいてい用意されているのが中国語版なんですよ。
どんなマイナーな記事でもかなり高い確率で「中文」っていう表記が出てる。
端的な見方ではあるけど、「一事が万事」…つまり、中国語を話す人たちに供給されている情報の量は何事も日本人へのそれより圧倒的に多いのではないか?ということ。
こういう所にも国の力の勢いの差を感じて怖くなっちゃうんだよね。
 
次、ガールパワー。
ウチの社長が「日本はゴーバンズが盛んだろ?」って言うので一体何のことかと思ったら「Girl Bands」のことだった。
Marshallの連中も日本のガール・バンドの隆盛には驚きを隠せないようでしてね。
他の国の連中に訊いてみると、コレはどうも日本特有の現象のようだ。
そしたら今、エレキ・ギターを中心としたロック楽器のお客さんというのは9割が女の子だっていうじゃんね。
amazon等の通販の普及により、コワくて行かれなかった楽器屋さんに行かずしてギターをゲットできるようになったことが大きな理由のひとつらしい。
顧客の年齢層が圧倒的に高校生で、学校の軽音楽部のおかげらしい。
Marshallも楽器メーカー…ビジネス的にはとても喜ばしいことなんだけど、「エレキ禁止令」が出た時代を知っている、70年代のロックで育った私なんかにはとても複雑な心境だ。
彼女たちは高校を卒業して、つまり、軽音楽部から離れるともうギターなんかほったらかしになっちゃうらしい。
そんなの当たり前じゃん。
ナゼかというと、「音楽」が先に来ていないからなんだよ。
若いバンドが簡単に解散しちゃうのも同じ。
昔は音楽が好きで、ロックがカッコよくて、どうしようもなくてギターを手にしたもんですよ。
「音楽」はファッションじゃない。
ギターは洋服ではなくて、人を感動させる美しい音楽だったり、時には人に涙を流させる音楽を奏でて楽しむための「道具」だから。
とにかくジャンルを問わず若い人たちに色々な音楽を聴かせてあげるべきだと思うんだけどな~。
Spotifyのようなツールが出て来た割には、聴かれている音楽の幅が昔と比べて極端に狭くなっているように見えるのがとても不思議だ。
 
次、それにちなんでQueen。
どういう風の吹き回しか、「ボヘラ」ブームがスゴイね。
若い人たちも盛んに映画を観に行っているようで、このブームを機に「ロックの先祖返り」を期待している音楽関係者もいるようだけど、残念ながら無理でしょう。
若い人が「感動しました。それにQueenの音楽があんなに素晴らしいものだって知りませんでした」なんて感想を漏らしているテレビのワイドショウのインタビューを見かけるけど、それで終わりでしょう。
あの後に「あの時代の音楽…70年代って言うんですか?その時代のロックをもっともっと聴いてみたいと思います」という発言を期待したいところだけど、そんな若い子は私がテレビを見た限りではひとりもいなかった。
そりゃそうですよ。時代が違うんだもん。
Deep PurpleやLed Zeppelinに夢中になっていた若者とポケモンだのニコニコだのスマホに夢中になっている若者は食べ物も違えば言葉も違う。
もっと言うと気候も違う…コレ、外国人と同じだから。
相容れ合うワケがない。
「イヤ、今の若い人は知らないだけでPuepleやZeppelinを聴かせてあげると必ず『カッコいい!』って言うんだよ」という話を時折耳にするけど、その場ではそう言うし、実際にカッコいいとも思うんだろうけど、家に帰れば全く忘れちゃう。
自分の時代に流布している音楽がいいにキマってる。
私だってプレスリーよりDeep Purpleの方がヨカッタもん。
で、そうしたトラディショナルなロックの将来を考えた時に、ひとつ思い当たった。
若い人たちが60年代や70年代のロックに興味を示さず、この先聴き手(演り手ではない)が全くいなくなってしまったら、その時代のロックはかつての「琵琶語り」や「ドドンパ」のように絶滅するのではないかと考えていたが、そうはならないね。
クラシックやジャズのように、トラディショナルなロックは「古典芸能」として子々孫々細々と生き永らえていくのではないだろうか…ということだ。
そして、そういう歴的な遺産から良質なエキスをうまいこと抽出して時代時代の感性とミックスして、自分たちだけの音楽を作る若いバンドがだけが最後は生き残っていくのではなかろうか…イヤ、それを期待している。
今はまだその前の段階であり、次のジャンプに備えてしゃがんでいるところだと思いたい。
あまりしゃがみ続けて、足がシビれてジャンプできないような気もするが…。

ハイ、ひとりごとは以上で終わり。
あ~、書いた書いた。気が済んだ。
ココまでご高覧頂きまして誠にありがとうございます。
1,501回目からは、以前の通り写真と脱線を交えた内容でお送りします。
まだ詳細は発表できませんが、今年は秋に2回目のMarshall GALAを予定しています。
ゼヒご期待ください。
 
それでは今年もよろしくお願い申し上げます。
 

200 
(一部敬称略)

2018年11月15日 (木)

私の女王様

 
え~、「女房と畳は新しい方がよい」…なんてことが昔から云われておりまして…。
 
畳は間違いなく新しい方がいい。
ウチは残念ながら改装した時に畳の部屋がなくなってしまったが、あの青々としたイグサのいい香りを味わうことができるのは日本人の特権のひとつだと思っている。
子供の頃、家の畳が入れ替わるのがとてもうれしかった。
一方、女房は「古女房」なんて言葉もある通り、同じ世代の相手と長年連れ添うことはは、とてもいいことだと私は思う。
何が一番いいって、話題がピッタリじゃん。
ウチは夫婦が全く同じ年なもんだから、同じテレビ番組を見て、同じ流行歌を聴いて育っているワケ。
歳をとって来ると昔を懐かしんで「あ~、そんなのあったね!」なんてやるのも楽しいもんですよ。
さすがに前のオリンピックはまだ2歳だったので何も覚えていないが、万博とか、ダッコちゃん、三億円事件、ノストラダムス、あさま山荘、笠谷、佐藤栄作とニクソン、アポロ11号、光化学スモッグ、チクロ、PCB、横井さんや小野田さん、紅茶キノコ、ユリ・ゲラー、アメリカン・クラッカー、そして大量のヒットソングなどなど。
そんなことを話していると結構話題に上がるのがQueenなんだよね。
そう、このお方、ハーマジェスティ、エリザベス2世。
相当イギリスに通っている私でも実際にお会いしたことはない。
そのうちソーホー辺りのパブでバッタリ出くわすだろう…「ハイ、リジー!」なんてね。アホか!

20もしくはコチラ、1世さん。
ヘンリー8世と2番目の奥さん、アン・ブーリンとの間にできたお嬢ちゃん。
ウチ、「八っつあんモノ」好きだから。八五郎じゃないよ、8世ね。
1588年、「アルマダの海戦」でスペインの「無敵艦隊」を破ってイギリスを世界の一等国に引っ張り上げた女王。
「オレって最強?」よろしく、「無敵艦隊」なんてスペインもずいぶんと大仰な名前を付けたことよと思ったがさにあらず。
スペインを打ち破ったイギリスが、自分たちのスゴさを喧伝するために「スペイン無敵艦隊」と呼んだらしい。よ~やるわ。

30vでも同じエリザベス1世を演るならこっちのお方の方がいい。
デイㇺ・ジュディ・デンチ。「デイㇺ」は男性で言うところの「ナイト」。

40それと、やっぱりバンドのQueenね。
私たちの世代だと、「Killer Queen」の大ヒットの直後ぐらいからリアルタイムで意識するようになった感じかな?
Queenが出ていないミュージックライフの号はなかったし、「ぎんざNOW」ではしょっちゅうフィルムが流れていた。QueenとBay City Rollersば~っかりだった。
そもそもあの頃はヤングもまだ「銀座」だもんね。断じて渋谷ではない。
我々が大学ぐらいまでは「渋谷」ってのはとてもいい街だったんだよ。今はホントにウンザリさせられる。
だいたい「ヤング」なんて言葉も死んだもんね。今はなんて言うんだろう?
当時、つまり中学の頃、家内のクラスはKISS派(硬派)とQueen派(軟派)の対立が盛んだったというんだよね。
いい時代だナァ。
一方、私はといえば、Queenが好きではなかった。
「女の子たちのアイドル」というイメージが強くて、どうも苦手だった。
それといつもの調子で、人と同じことをするのがイヤで、そういう流行り物には一切近づかなかった。
だからKISSもダメだった。
ウチにはいまだにKISSの音源はレコードもCDも1枚もない。あるのは初来日の時のコンサート・プログラムだけ。あのコンサートは本当にヨカッタにゃ~。メッチャ感動したわ。でも全くファンではない。
その頃ってナニを聴いていたかな?Toddとか?とにかく「♪ドンドンパン」が出る前にはFrank Zappaに夢中になってたのは覚えている。
  
しかし、スゴイね~、facebookを見ていると、皆さん『ボヘミアン・ラプソディ』だらけじゃないの!
まぁ、私なんか上に書いた通りで、絶対に観に行くワケがないのよ。
しかも、今映画ってひとり1,800円もするのね!
数か月前に新宿の映画館で『スパイナル・タップ』を観たんだけど、関係者としてご招待頂いたのでチケットの値段は知らなんだ。
その前はロンドンの『ナショナル・ギャラリー』のドキュメンタリーを観に行ったけど、3年前のことだったので、入場料のことなんか忘れてたよ。
でもね、行っちゃったのよ……「ボヘラ」を観に!(「ボヘラ」はどなたからかのパクリ)
観に行った理由はね…「夫婦どちらかが50歳以上」という割引があるのを知ったから。
1,800円が1,100円になるの。
ああ~、自分がこんなサービスを受けられるようになるなんて「Killer Queen」が流行っていた頃には想像したことすらなかったよ。
でも、コレだけじゃない。
Marshallの連中が「アレ、すごくいいよ~!絶対に観た方がいい」と強力に薦めてくれたのだ。
イギリスの人が言うんだから間違いないだろう…と思って、「じゃ、行ってみっか!」と軽い気持ちで家内を誘って、ガラガラであろう平日に行ってみることにした。
そしたら、結構入ってた。
客層は予想通り年配の方々ばっかりだったね。

10…と、いうことで、今日は映画『ボヘミアン・ラプソディ』の私なりの感想とウンチクを少々書き記してみたいと思う。
 
その前にもう少し私のQueen遍歴を…。
上に書いた通り、アンチQueenの私だったが、大学に入って間もない時、軽音楽部に加わらせてもらい、どういういきさつだったのかは覚えていないが、Queenのコピーを演ることになった。
その時点で生まれて初めてQueenのLPレコードを買った。
アンチとはいえ、以前から密かにカッコいいと思っていた「Keep Yourself Alive」を演りたかったので、明治大学の生協でファースト・アルバムを買った。
大学の生協ってレコードが1割引きだったんだよね。
『The Game』の頃かな?そういえば、周囲のヤツらは『The Game』のことを「メンコ」って呼んでたわ。「銀メン」ってあったでしょ?アレのこと。
Queenのファンの連中って当時やたらと『Queen II』をススメるんだよね。「特にB面がいいんだよ!」って。
私にはどうもピンとこなかったナァ…今でもわからん。素直に『Sheer Heart Attack』の方が魅力的だと思う。
で、結局演ったのは「Death on Two Legs」だけだった。
確か私が部室で外道の「香り」のリフを弾いた時、先輩が「あ、ソレ知ってる!『外道のテーマ』だよね?」と言った瞬間にイヤになった。
「香り」というタイトルが出て来なかっただけで、私にとってはその先輩はロックに関しては無知に等しく、失格なワケ。
私はやっぱりもっとマニアックな音楽の方が性に合うし、人とは違う行動がしたくてすぐにクラブを離れてライブハウスの世界に戻った。
私はそれほどロックが真剣に好きだった。1980年の話ね。「80年代のロック」が出て来る前の話。
 
さて、もうそのファースト・アルバムはとっくの昔に処分してしまってウチのレコード棚には入っていないが、手元にいくつかQueenのアイテムが残っている。
まずはシングル盤。
デへへ、アンチ・クイーンの「Queen Killer」を気取っていながら、好きな曲のシングル盤を少し買っていたんだね。
でもね、この「Bicycle Race」にはビックリしたね。ラジオで聴いてすぐにこのシングル盤を買いに行った記憶がある。後年『Jazz』を買ったけど、この頃はまだLPを買うことに抵抗があったのか、お金がなかったのかは覚えていない。
ちなみに海外の人が「bicycle」という言葉を使うのをほとんど聞いたことがない。「bike」って言うんだよね。で、オートバイは普通「motor cycle」。
でもコレは当然のことで、冷蔵庫のことを「refrigerator」なんて言わずに「fridge」って言うでしょ?
アレと同じ。
「bicycle」の短縮形が「bike」。我々は「バイク」と言うとすぐにオートバイを思い浮かべてしまうけど、コレも和製英語の良くないところ。
「Killer Queen」は「Seven Seas of Rhye」とのカップリングで両A面だったんだね。この「Seven」を好きな人って多いよね。

70それとこのライブ盤。
当時はカラー・レコードが珍しくて、それに惹かれて買った。

80後はコレかナァ。

90ロンドンはトッテナム・コートロードにあるドミニオン・シアターで『We Will Rock You』を観た。
おもしろかった。
エンディングには出演者全員で「Bohemian Rhapsody」のオペラ・パートを実演して盛大に鳥肌が立って、感動で涙が止まらなかったね。
90r4a3281 バンド・メンバーがかつてMarshallのデモンストレーターをしていたフィル・ヒルボーンと元Wishbone Ashのローリー・ワイズフィールドのダブル・キャスト。
ベースはニール・マレイがクレジットされていた。
この時は200回目の記念公演とかで、ホンモノのブライアン・メイが出て来て「Bohemian Rhapsody」のソロを弾いてくれた。VOXでよ。
終演後、ブライアンは出口のところに立って、劇場を後にするお客さんたちにに礼儀正しくお礼を言っていた。
さすが天文学者。ペンギンになることはできなかったけど、キチンとしとる!
ま、この辺のことはもう何回もマーブロに書いたね。別に忘れているワケではござんせん。

9img_0334 私は「アンチ」と言っても、「何が何でもイヤだ」というワケではなくて、さっきの「Keep Yourself Alive」のように、いい曲はいいと思ってるワケ。
だから、こうして僅かとはいえ、シングル盤も買い込んだりしてたのね。
来日公演に行かなかったのは後悔してるね。
そこへチャンスが到来したのは2014年のSUMMER SONIC。
来ちゃったんだよね、Queen、チーバくんのところへ。
私も年を取って、頭も心もスッカリ丸くなっちゃっいましてね、正直、メッチャ楽しみましたよ
その時のことはコチラでレポートさせて頂きました。
  ↓    ↓    ↓
【Shige Blog】SUMMER SONIC 2014~QUEENを観たよ…の巻30_2あ~思う存分総括した。
「ネタバレ」になる部分もあるのでまだこれから映画をご覧になるおつもりの方は、映画を鑑賞してからこの先をお読みください。
ココでスッと辞められるところがインターネットのいいところ。
勝手に読み進めて「ナンダ!」なんて言うことになっても責任は持てません。
じゃ、なんで書くんだ?と問われると、一応私なりに映画を観て刺激を受けているので、その刺激が薄らぐ前に書いておこうと…。

Exit さて!
ココからは私の映画『ボヘミアン・ラプソディ』に関する感想とウンチク…というか、ま、気の付いたことを書かせてね。
な~んにも知らない、まっさらの状態で映画をご覧になりたいと思っていらっしゃる方は以下を読まない方がいいでしょう。
観た後に読んでも大したことはありませんけど。

Ver まず、「20世紀フォックス」のファンファーレはニヤリとさせられるよね。
こういうアイデアがウマいよね、向こうの人は。
 
最初の方で、バンドがマネージメント・オフィスと契約に関するミーティングをするシーンがあるでしょ?
アレはココ。
コレはハマースミスのテムズ川沿いにあるパブなの。
私は以前、ロンドンに行くとハマースミスにあるホテルを定宿にしていて、ある時、川沿いを散歩していてココを通りかかった。
ものすごくステキなところでね~、とても印象に残っていたので映画を観ていてすぐにわかった。

190あのシーンのバックに見えている橋がこのハマースミス橋。
スゴく立派な橋なのよ。
今回、これらの写真を見てなつかしくなっちゃって…『イギリス-ロック名所めぐり』で急遽「ハマースミス」の記事を書くことにした。
おスキな人はお楽しみに…おキライな人はお気の毒に。

200ハイ。
映画の中でEMIのプロデューサーとどの曲をシングル・カットするかモメるでしょ。
「ボヘミアン・ラプソディ」は6分近くあるから「ダメよダメダメ」って。
ヘヘヘ、ね、ゼンゼン平気なんだよ、6分。それで大ヒット。
アンチだった私だってこうしてシングル盤を持ってる。
だからケンカしなくてもヨカッタのよ。
昔はドン・アーデンとかシェル・タルミ―とか、スゴイ権力だったんだろね。

60フレディがムクれて部屋を出る時「Queenを捨てた男って言われるぞ!」みたいな捨てゼリフをプロデューサーに向かって吐くでしょう?
あれはデッカ・レコードのディック・ロウというプロデューサーのことを言ってるの。
詳しくはコレを読んでみて!
 ↓   ↓   ↓
【Marshall Blog】ビートルズに勝った男

240気になったのは、『オペラ座の夜』のタイトルを決めるシーン。
あの『A Night at the Opera』というのはマルクス兄弟の『オペラは踊る』から引用したと聞いたが、このことに一切触れていないのはどういうことか?
コレも何回も書いたけど、『オペラ座の夜』の次のアルバムは『華麗なるレース』という邦題が付けられているじゃない?
コレもマルクス兄弟の『マルクス一番乗り』の原題の『A Day at the Races』を拝借している。

110「night」と「day」で対が完成するのに、邦題の『華麗なるレース』はコレを台無しにしちゃってる。
そもそもナンでマルクス兄弟の映画からタイトルを引用したかというと、レコーディングの時にこの映画を観ていたっていうんでしょ?
この話が本当だとしたら…グルチョやチコやハーポからこの偉大なアルバムを作っちゃうところこそがオモシロイのにナァ。
私が脚本を書いていたら絶対にそうするのに~!

120ファンでない私が指摘するのもどうかと思うけど、もう少し丁寧に有名になっていく過程を描いて欲しいと思ったのが素直な感想。
例えば、Queenは日本で人気が出たこともあって、本国で名声を得たんでしょ?
チョット日本を素通りしすぎじゃないのかしらん?
そこのところ、もうチョット「手を取り合って」欲しかった。
「Bohemian Rhapsody」の創作過程のシーンなんかにももっと時間を費やして欲しいと思ったんだけど、観ていてこの辺りの感想は自分が間違っていることに気付いた。
つまり、この映画はQueenの映画ではなくて、Queenという場所で名声を掴み早逝した「フレディ・マーキュリー」という音楽家のプライベート・ストーリーなのね。
だからQueen単位で観るのは間違いだと思うワケ。ジョン・ディーコンのファンなんかがこの作品を見ると期待外れに終わっちゃうかもね。
で、プライベートといえば、コレ。
フレディの終の棲家。

130ココであのパーティをやったのね?
ジム・ハットンとアレのヤツ。
世界中から訪れるファンの手紙が入り口周辺の壁に貼られているが、最近ココに赴いたMarshallの友人の写真を見ると、キレイサッパリ取り除かれていた。

150ちなみにジム・ハットンも2010年にAIDSで亡くなったそうだ。

155場所はアールズ・コート。
すぐ近くにあの「クソテスコ」がある。
なんで「クソ」なのかはコチラをそうぞ。コレが本当の「クソ」だから!
  ↓   ↓   ↓
イギリス紀行 2015 その4~雨のウエストミンスターからの~

260さらに…マジソン・スクエア・ガーデンでのライブのシーンがあった。
アソコでフレディは「ビッグ・アップルを喰ってやった」みたいなことを言う。
もちろん、マンハッタン島が「Big Apple」と呼ばれていることは誰でも知ってる。
でも、わたしは下のロゴを思い出した。
年配のイギリス人なんかは即座にアラン・チューリングのことを連想するのではないか?
アップル・コンピューターの設立は1976年だというから、もしかしたらアラン・チューリングのことがバイセクシャルのフレディのアタマにあったのでは?…なんて考えるのは思い違いか?
何のことを言っているのか知りたい人はコチラ。
  ↓   ↓   ↓
【Marshall GALA レポート】 vol.7: LUKE Tries CODE!そしてスタッフの皆さんのご紹介!

230_2映画の中ではフレディとマネージメント・サイドのイザコザのシーンが何回か出て来るが、面白い話を入手したのでココにひとつ付け加えよう。
いつかもMarshall Blogで紹介したロンドンはソーホーのトライデント・スタジオ。
このスタジオがどんなにスゴイかは下にリンクした記事をご覧になって頂くとして…。
Queenはポールの計らいでこのスタジオを自由に使うことができたらしい。
そこからスタートしたのかどうかは知らないが、このスタジオのオーナーのノーマン・シェフィールドという人はQueenの初代マネージャーだった。
やっぱり、ノーマンとバンドはケンカをして離れ離れになってしまったが、数年後ノーマンはQueenの新しいアルバムの1曲目を耳にして、驚いてイスから飛び上がったという。
そのアルバムは『A Night at the Opera』といい、1曲目は「Death on Two Legs」といった。
さっき出て来たヤツね。
この曲、フレディとノーマンのケンカのことを歌っていて、ノーマンは訴訟沙汰にするつもりだったが、取りやめたとのことだ。
も~、ケンかばっかりよ。
で、映画にも出て来る「Bohemian Rhapsody」のブライアンのギター・ソロね。
アレはやっぱりロック史に残る名ソロだよね。
映画の中でもブライアンが気合いを入れてレコーディングをしていたけど、あのメロディはフレディが作ったんですってね。
トライデント・スタジオに興味のある人はコチラをどうぞ。
  ↓   ↓   ↓
【イギリス-ロック名所めぐり vol.7】 ソーホー周辺 その2

140v そして最後の『LIVE AID』のウェンブリー。
『LIVE AID』のリハーサルをしていて、終わろうとするとジョン・ディーコンが「let's call it a day!」って言うシーンはチョットうれしかったな。
コレ、英会話の教科書によく出て来るけど、外人が実際言うのほとんど聞いたことがないんだよね。
ちなみにイギリスからの情報によると、ジョンは絶対にブライアンとロジャーと合わないし、口もきかないようにしてるんだって。
あのシーン、フレディが座っているピアノ椅子の下をくぐってカメラごと移動してブライアンをクローズ・アップしてるでしょう?
アレ、どうやって撮った?
ちょっとカメラの動きが不自然だった感じがあったので、CGなんだろうナァ。

210下はスタジアムの隣にあるウェンブリー・アリーナ。Marshallの50周年記念コンサートを開いたところね。

220なんて、ここまでいかにも淡々と書いて来たけど、感動した…かというと、感動はしませんでした。
またヘソ曲がり&アマノジャク風を吹かせてしまっているようだけど、私は映画を前にすると本来の姿である「映画小僧」に戻ってしまうのです。
2時間チョット、飽きることは全くないんだけど。映画として観た時チョット厳しいんですよ。フレディやQueenのファンなら感動必死なんでしょうけど、感激するには伏線の張り方が浅すぎる。
同じ音楽家の伝記モノということになると『グレンミラー物語』とか『ジョルソン物語』とか『アメリカ交響楽』とかと比べて残念ながら脚本のレベルが違う。
また、「アンチ」ということと、上に書いたような役に立たない付帯知識があったせいもあるでしょう。
でもね、私は「Bohemian Rhapsody」という曲は人類の宝のひとつだと思ってる。
私は死ぬまでに順不同で「自分のベスト・ソング10」をキメようと思っていて、ビートルズの「Hey Jude」、The Kinksの「Waterloo Sunset」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と並んで「Bohemian Rhapsody」は既に10曲のうちにランクインさせてるの。
残りの6曲はどうなるか?
何か奇跡でも起こらない限り、こういう曲はもう未来からは出て来ないでしょう。
過去から選ぶしかない。
映画館に行ったのが平日の昼間ということもあって、お客さんの年齢層はかなり高かった。
週末はどうなるのか知らないが、こういう映画こそ若い人たちに観てもらいたいと心底思うよね。
誰もやっていないこと、誰も聞いたことのない音を夢中になって探求するQueenの4人の姿を見てもらいたい。
コレが私の一番の感想かな?

しかし、考えようによってはこの種の映画、これからジャンジャン出来てくるかもしれないね。
クラプトン、エルトン・ジョン、The Who、フィル・コリンズ…一番観たいのはThe Kinksかな?
レイとデイヴのケンカとダニー・クェイフをイジめているシーンばかりで1本終わっちゃいそうだけど。
でも、『Sunny Afternoon』というクロニクル的なミュージカルもあったことだし、The Kinksが一番可能性があるんじゃん?涙を流すシーンはなさそうだ。
でも、エンドロールで「Waterloo Sunset」が流れたら号泣間違いなし!
その点、この作品はどうしたことか?それがイキというモノなのか?

10 

200_2

2018年8月 4日 (土)

私のボリビア(行ったことないけど)

 

しかし、暑いね~。
いつものMarshall Blogならしつこいぐらい「アツイ、アツイ」と文句を並べるところだけど、そんな気にもならない。
もはやコワイわ。
「一番暑い時期」と言われている3月に行ったベトナムよりゼンゼン暑い。なんかね、この暑さには「悪意」を感じるね。地球を大事にしないことに対する「お仕置き」とも取れる。
…ということで、今日は涼し気な画像を並べて少しは暑さを忘れて頂こう…という企画。
どういうことかというと、Marshall Blog初の南米の話題。
何しろ南半球は今、冬だからね。
いいな~、冬。11月生まれの私は、生来暑いのが苦手なのだ。
大黒屋光太夫のように零下50度の世界で10年も過ごすなんてのはさすがにゴメン被るが、「暑い」よりは「寒い」方がいい。
今日の舞台はボリビア。
ボリビアって知ってる?
私は小学生の時に初めて「ボリビア」という国の名前を耳にした。
それはポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演の人気映画『明日に向かって撃て!』の予告編の中のことだった。
この映画、こんなマヌケな邦題を付けられてしまって気の毒なんだけど、原題は『Butch Cassidy and the Sundance Kid』という。
コレは「ブッチ・キャシディ」と「サンダンス・キッド」という19世紀末のアメリカの2人組の強盗の逃避行の話。
英語学習者は、後ろの「サンダンス・キッド」にだけ定冠詞の「the」が付いていることに気付くべきだ。
「サンダンス」というのはワイオミングにある地名で、それに「kid」が付いているアダ名なんだね。苗字ではない。「サンダンスのガキんちょ」といったところか?で、他にはいないから「the」が付いてる。
「Butch」もアダ名で「頑丈なヤツ」みたいな意味がある。
こういう名前ってSonny RollinsとかChick CoreaとかDizzy GillespieろかBuster Williamsとか、昔のジャズ・ミュージシャンに結構多いんだよね。
それで、その予告編の中で「銀行強盗をしながら、はるか南米のボリビアまで逃げた」みたいな一節があって、それでこの国の名前を知った。
バート・バカラックの「雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin' on my Head)」のヒットもあってとても人気の高い作品だったけど、私はあまり好きではなかった。
父の影響で幼いころから重厚なハリウッド映画ばかりを観て育ったので、この作品や『イージーライダー』のような「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれた軽い作風が好みに合わなかったのかも知れない。

10vしかし、今回のこの記事を書くまでその「ボリビア」なる国が南米大陸のどこにあるのかは知らなんだ。
で、調べてみた。
ブラジルとペルーの間って感じか…南米大陸にも海のない国ってあったんだな。パラグアイもそうか…。
事実上の首都はラパス(La Paz)。
国土の広さは日本の3.3倍。世界で27番目に広い国なんだって。
こうして見るとブラジルってデッカイな~。
日本の22.5倍で、ロシアを差っ引いたヨーロッパ大陸より広いんだって。

20v国旗はコレ。
またこの3色か…。

30ここで脱線。
この赤・黄・緑の配色の国旗ってやたら多いよね。
チョット見てみると…
  
サリフ・ケイタの故国、マリ。
公用語はバンバラ語とフランス語のはず。

C__5配色を反対にすると、ギニア。
コリャ、まるで「江戸三座」の定式幕だ。

C__2さらに配色を入れ替えて星をつければカメルーン。

C_マリを45°傾けてやればコンゴ。

C__3応用編はベナン。
アフリカの国旗に多く用いられていることより、この3色を「汎アフリカ色」と呼ぶらしい。
それぞれの色の意味は「赤」は殉教のために流された血、「緑」はアフリカの植生、「黄」はアフリカの富と繁栄なのだそう。
イカン、イカン、アフリカの話をしていたら暑くなって来た。
イヤ、いまや東京の方が暑いかも知れない。

C__4それじゃ、コレでどうだ!
今、冬のボリビアから。
ああ、見ているだけで涼しくなってくるような大雪原! 

50_4写真を送ってくれたのはこの女性。
Marshallの友人を通じて知り合ったブラジルはサンパウロ在住のお友達リリアン。
そして、旦那さまのエドサンドロ。

40_3新婚旅行でボリビアに行ったんだって。
そこへMarshallも連れて行ってくれたとうワケ。
でもね、コレ…残念ながら雪原じゃないの。
ナント、塩!
有名な「ウユニ塩湖」を訪れたのだそうだ。

60_3スゲエな~!
視界を遮るものナニもない。
そして、白と青だけ世界!
この塩の湖の大きさは10,582平方メートル…と聞いてもピンとこんな。
秋田県と同じぐらいの広さだって。
オイオイ、塩分摂り過ぎじゃないの?

70_3標高3,700mっていうから、富士山のてっぺんと同じぐらいの高さだわね。
冬季の富士山の頂上がどんなに過酷なところかは新田次郎の『芙蓉の人』と読んでもらうことにして、やはり高山病が厄介らしい。
リリちゃんも高山病に罹ってしまい、2日ぐらい吐き気に悩まされてしまった…

Fuyo…ようには見えませんナァ。
アルパカかなんかに乗っちゃって!

75_3おまけにMarshallの上でジャ~ンプ!

80_3そして着地。
スゴイ!
リリちゃんの服装も偶然モノトーン。
白と黒と青で統一されている。

90v_2しかし、キレイだな~。
この湖面がまるで鏡のようなんだって。

100_2乾季になると、こうして湖面にクラックが入るのだそうだ。

110_2そして、夕暮れ。
さっきまであんなに青かった空が鮮やかなオレンジ色に変化する。
そして夜には満面の星が現れる…って、さも自分で見たように、スミマセン。

120_2一瞬、奥の山が浅間山のように見えるが、コレはLaguna Hediondaというところ。
「laguna」とは「潟」という意味。要するにエディオンダ湖だ。
ココも塩湖でフラミンゴで有名らしい。
塩湖とは普通の淡水湖とは異なり1ℓ当たりの塩類の総イオン量が3g以上の水を湛えている湖のことを指す。
何かテーブル・クロスがいかにも南米じゃない?フォルクローレ。

130_2場所を移して、ココはボリビアの首都、ラパスの「Carrot Tree」というレストラン。
アタシャ、れっきりバックパッカーのための宿の食堂かと思ったよ。
このラパスという街も標高3,600mを超える地点にあり、世界で最も高所に位置する首都なのだそうだ。
そして、ラパスにはいいレストランがたくさんあるんだって。
でも、インターネットでウユニ塩湖に行った人の紀行文を読むと、屋台なんかで売っている食べ物は食中毒になる危険度がかなり高いとのことで、その人もヤラれてしまったそうだ。
コレはリリちゃんに聞いたんだけど、当然水道の水は飲めない。
私ホラ、こないだのベトナムで水道の水飲めないことの不便さを知ったからさ。
ホントに日本の衛生環境には感謝してるのさ。

140_2コチラは「Cocina popular Boliviana」というレストラン。
リリちゃんは魚のフライをオーダー。
ま、淡水魚なんだろうね…海がない国なんだから。
結構デカい。
とても美味しかったって。

150_2コレは赤葉トウガラシを使ったスタッフド・ピーマンというモノ。

160_2コレなんかはリトル・マーメイドなんかで昔から取り扱っているバゲット・サンド…に見えるけど、間に挟まっているのはリャマの肉だそうだ。
ありゃま~!

170_2コレがリャマ。

180コレは「ちゃま」。
浅草の飲み屋だ。

C_chama_2こっちはミラバケッソ…つまりアルパカ。
リャマの近い親戚かね。
ボリビアではアルパカも召し上がるのだそうだ。

リャマの肉は柔らかく、牛肉のフィレのようなイメージだそうだ。
ウ~ン、爬虫類でもナンでも、未知の肉って大抵「鶏肉みた~い」となるのが普通なのだが、リャマはそうではないらしい。

190リリちゃんが日本にいた時には、家にお邪魔してブラジル料理をごちそうになったりしたものだった。
例えば、ブラジルの家庭の味、フェイジョアーダ。
豆とソーセージの煮込みっていうのかな?
コレを白米とミカンで頂く。ミカンってあの普通の温州ミカンね。

C_fd_2 コレはブラジルのチーズ・パン、ポン・デ・ケイジョ。
要するにチーズ・パン。
とてもおいしかった。 

Pdc下の2枚の写真もリリちゃんが送ってくれた。
この白い建物、ナンだと思う?
コレ、「サンペドロ」という刑務所なんだって。

200_21,500人もの囚人を収監しているんだけど、看守がいなければ、囚人服もないのだそうだ。外出も自由。
刑務所の中には、屋台やレストラン、美容師、さらにはホテルまであって、囚人たちが自主的にひとつの町を作っているというワケ。
で、この刑務所内を自由に見て回れるツアーがあって、ラパスの観光地として有名なんだって。
なんて書くと何やら面白そうだけど、麻薬フリーだったり、窃盗天国だったりで、どうやらトンデモナイところらしい。
入り口の前に行列ができている。
観光客だろうか?

210_2以上、正確には「私のボリビア」ではなくて「リリちゃんのボリビア」でした。
 
さて、せっかくのMarshall Blog初の南米の記事なので、リリちゃんにちなんでブラジルの音楽の話を少々。
何といってもブラジルは音楽の宝庫だからネェ…といいたいところだけど、私は特段ボサノバが好きなワケではないし、浅草のサンバ・カーニバルを楽しみにしているワケでもない。
でも、大好きなブラジルのミュージシャンがひとりいる。
それはアイアート・モレイラでもなく、フローラ・プリムでもなく、イヴァン・リンスでもなく、ましてやミルトン・ナシメントやエウミール・デオダートでもない。
私は、エルメ―ト・パスコアール(Hermeto Pascoal)が大好きなのです。
あ、エグベルト・ギスモンティも相当いいな…。
 
で、以前リリちゃんとブラジルの音楽について話していた時、当然パスコアールの話になるワケで、「エルメ―ト・パスコアール」って知ってる?と訊くと、「あ、はい。知ってますよ」と気軽に答えるでないの!
日本にいると、結構音楽を聴き込んでいる人でなければパスコアールなんて知らないと思い込んでいたので、いくら地元とはいえリリちゃんのような若い女性が知っていたのでビックリ!
「え?ブラジルの人だったらみんな知ってますよ!」と追い打ちをかける。驚いちゃったよ。
私はナンで知ったのかな…と思い返してみると、19歳ぐらいの時に聴いたMiles Davisの『Live Evil』で恐らくその名を知ったのだと思う。
エルメ―トはこのアルバムに「Nem Um Talvez」という曲を提供していて、そこにドラムで参加しているのだ。
この曲、マイルス作となっている次の「Selim('miles'の逆さ綴り)」と同じ曲なので注意。
この曲自体は「In a Silent Way」のできそこないのようで、私にはサッパリ良さがわからないのだが、名前は覚えて気に留めておいた。

Aそれに加えて、仙人のような風貌に惹かれて買ってみたのが下の右の『Slaves Mass』というアルバム。
コレでビビビと来たね。かなり気に入ってよく聴いた。
 
この人、1936年の生まれというから、今年でもう82歳にもなるんだけど、ついこの5月にも来日していた。
元々はバンドネオン奏者なのだが、フルートなんかもすさまじい演奏技術を持っている。
下は数少ない私のコレクション。
もっと聴きたいんだけど、滅多に中古に出ないんだもん!

1973

1976

どんな音楽を演っているのかというと、私はよく「ブラジルのFrank Zappa」と形容している。
とにかく「自由」なんですよ、自由。何しろクリエイティブ。
下の左はモントルー・ジャズ・フェスティバルのライブ盤で、オープニングのMCが強いフランス訛りの英語でこんなことを言っている。
「ブラジルはあらゆる異なる種類の音楽のるつぼです。今から数分後に登場するグループは、信じられないようなセンス、トーン、リズム、ハーモニー、作曲、即興演奏、まさにそれらが溶け合ったモノで、「驚異的」としか言いようのない唯一の音楽を演奏します」
もう、このMCのオッサンが言う通り。
でもこのオッサン、「エルメ―ト」ではなくて「エルメット」って発音してるな…「エルメット」の方が正しそうだ。
今度リリちゃんに会った時に教えてもらおう。

1979

1980 自分のアタマの中にポッと浮かんだアイデアをそのままダイレクトに曲にしている感じ?
あるいは何も考えずに自然発生的に作曲している感じさえする。
ナレーションとユニゾンでピアノを弾いたりするアイデアなんかはZappaの「Dangerous Kitchen」みたいなこともしているんだよね。
創作の姿勢としては何となくPat Merhenyを感じさせる。

1987

1992 それと、楽器の偏重がないっていうのかな?自身の楽器をフィーチュアするようなところが一切なく、本当に「音楽最優先」という精神が伝わってくる。
でも、一緒に演る人は大変だろうナァ。エルメ―トがクチで「♪タリララダッパッダズララズビズビタラリラ…はい、このメロディ演奏して」ってやっている感じ。
こんなメロディ覚えるのは至難の業だ。
すなわち、シュッレッディング・ギター・ミュージックの極北だわね。
いつまでも元気に活躍して欲しい偉大なアーティストのひとりだと思う。

1999

2002 最後にもう1枚。
コレは昨年の11月にリリちゃんとエドが来日した時のようす。
ちょうどお酉さんをやっていたので連れて行った。
「ナニこれ?!」と2人は初めて見る「カメすくい」にビックリ。
リリちゃんは英語がベラベラなので、私がエドにわかるように英語で説明しようとしたら、このカメすくいのオジちゃんが英語を話し出した。
カメすくいのオジちゃん、まさかの英語ペラペラ!
あまりの予想外の展開に、失礼ながら3人で大笑いしてしまった!

C_img_5023 最後に…リリちゃん、どうもありがとう!
また日本に帰って来てね!その時を楽しみに待っています。

 

200_3

(一部敬称略)

2018年4月21日 (土)

HAPPENINGS TEN TIME YEARS AGO~Marshall Blogの10年

  
今日、「4月21日」は10年前にMarshall Blogの記事を初めて投稿した日。
現実的にはその3日前の18日にこんな調子で「予告編」を掲載した。
 

1_2mb
かくして2008年4月21日の月曜日、Marshall Blogはスタートした。
第1回目の記事は当時Vintage Modernを使用していたポール・ギルバートのインタビューで、掲載の10日ほど前にポールにメールを送り、その中でMarshall Blogのコンセプトを説明して協力を乞うたのだった。
ポールは実に親切に、かつ丁寧にいくつかの設問に答えてくれて、内容の面白さも相まって興奮しながら翻訳したことを覚えている 。
  

1_2mb2

  
この日、投稿したのはこのポールのインタビュー記事だけではなかった。
スッカリ忘れていたのだが、手元にある原稿を調べてみると、フランクフルトMUSIK MESSEのレポートなど、驚いたことに総計9本もの記事をいっぺんに投稿していた。
いかに満を持してのスタートだったのかが窺える。
  
そもそもMarshall Blogは、以前Marshallのディストリビューターに勤めていた時、ウェブサイトに今のマーブロに投稿しているようなアーティストの活動情報を載せたい…という私の要望から始まった。
ところが、私はこんなだから載せたいこと…イヤ「書きたいこと」と言った方が適切か…が山ほどあって、「その都度ウェブサイトをイジるのは大変」だということで、「別棟にして写真満載でブログの形式でやったらどうか?」という提案を受けた。
当時の私はといえば、「ハ?『ぶろぐ』ってナ~ニ?」という状態だった。
とにかく「そういうモノがある」ということだけを教わって、とりあえずチャレンジしてみることにした。
「おお~、これなら心置きなく文章が書けるやんけ!」とうれしくなった。
「ブログは写真がポイント」だということを知らされていたので、新婚旅行に備えて買った時以来ご無沙汰だった一眼レフのカメラを久しぶりに購入した。
Canonの「Digital Kiss2」というママさん一眼。
さすがにデジタルカメラ自体をイジるのは初めてではなかったが、一眼レフは初めてのことだったので、指南書を1冊買って手探りでライブの撮影を始めることにした。
そして、そのカメラを使って最初に撮ったライブ写真を、そのブログのアイデアを提案してくれたウェブサイトの担当者に見せた。
彼女はその写真を目にした瞬間「ワ~ッ!」と歓声を上げ、その写真をホメてくれた。
こちとら人間が単純にできているもんだから、スッカリその気になってしまい、それ以来写真が面白くて仕方なくなっちゃった。
ちなみにその写真の被写体はCANTAの時のルークさんだった。
写真はとにかく面白かったね~。
教えてくれる人はいなかったが、お手本は頭の中にいくらでもあった。
子供の頃に穴の開くほど見ていたミュージック・ライフ誌に載っていた外タレのステージの写真だ(当時は「ライブ」という言葉を使わなかった)。
そして、少しでもそのお手本のイメージに近づくように、自分なりに考え、ありとあらゆることを実地で試してみた。
でもそれだけでは他の人が撮る写真と同じになってしまうので、どうにかして自分のタッチが出せないものかと試行錯誤を重ねた。
それと図々しくも黒澤映画をいつも意識していた…今でもね。
もうひとつ写真を撮る時の心構えがあるんだけど、それは「企業秘密」。
そんなことをやっているウチにアッという間に10年が過ぎちゃった。
 
Marshall Blogを毎日更新するようになったのは…「9本もいっぺんに投稿するのはモッタイない。この先、ネタが無くなっても困るので、小出しに投稿した方がいい」というアドバイスを最初にもらったからだ。
そして、週末や盆暮れを除き、また東日本大震災の時と離職による休止期間を除いては毎日更新を続けた。
これまで10年間、ただの一度もネタに尽きるということはなかったナァ。
でも色々な意味でツライ時もあって、止めちゃおうか…と思ったことも少しはあった。
しかし、アクセス数がドンドン増えて行き、次第にMarshall Blogが世間が定着してくると、ライブ会場などで見知らぬ方から「毎日マーブロ見てますよ!」とか「いつも楽しみにしていますよ!」などという励ましのお声をかけてもらえる機会が多くなっていった。
そうなるとヤル気が出ちゃうよね。
そうして前の会社を辞める2011年の末にまで約930回ほどの記事を投稿して脱稿した。
手元に当時のマーブロの原稿がすべて残ってはいるのだが、あまりの数ゆえ正確に記事の数を勘定したことがないので「約」をつけた。
正直止めた時は肩の荷が下りた感じがしてホッとしたナァ。
 
とこどがイザ止めてみると、今度はどうにも文章が書きたくてしょうがない。
活字ってのは読む方だけでなく、書く方も中毒になるんだね。
そこで、自分の名前を冠した私設のブログを始めた。
Marshallとは直接関係のない話題について今でも時折更新している「シゲ・ブログ」のことだ。
ブログのバナーは「梅村デザイン研究所」の梅村昇史さんにお願いした。
季節に合わせて色を変えようということで、私のラッキー・カラーのオレンジとブルーのバナーを作って頂いた。
思い返してみると、当時はゲンを担がなければならないほど先行きに対する不安感があったのかもしれないな…。

1_shigeblog_top_orange_finalシゲ・ブログをスタートさせたのは2012年4月17日。
前の会社を辞してから4か月ほど経った頃だ。
最初の記事を読み返してみる。
ん~、本当にこの時ご協力頂いた皆様には改めて感謝したい気持ちでイッパイだ。
この「♪シゲ・ブログはじめました~」というタイトルはあの「冷やし中華」からだ。
多分この頃ハヤっていたのだろう。
同じことを長いことやっていると、こうした歴史的な楽しみも加わって来ますな。
この最初の記事の翌日、今はMarshall Blogに繰り入れてある「I remember Jim」と題したジム・マーシャルの逝去に関する文章を書いた。
ジムが息を引き取った2012年4月5日はまだシゲ・ブログが始まっていなかったからね。
このジムに関する記事が書きたくて慌ててシゲ・ブログの準備をしたのかも知れない。
当時、Marshallから離れることを余儀なくされてはいたものの、自分なりのジムへの感謝の気持ちを表したかったのだ。
1_shigeblog_top_blue_w_lそう間を空けないウチに今のMarshall社の社長、Marshall Blogでもおなじみのジョナサン・エラリー(以下ジョン)から連絡が届いた。
当時は「Marshallと何の関係もなくなっていた」ワタシへの連絡だ。
それは、2012年の5月末に工場の近くで開催される『ジム・マーシャルの生涯を祝う会』への招待の知らせだった。
「ジムにもしものことがあった時には『シゲに必ず連絡する』と約束しただろ」とジョン。
その心づかいがとてもうれしかった。
ところが、こちとらその時は浪人の身。
経済的な余裕などあるワケがなく、イギリスへの渡航費を捻り出すことなどそう簡単なことではない…。
しかし、お世話になったジムとのお別れの会だ…。
さらに私のことを忘れずに誘ってくれたジョンのせっかくの好意を無碍にしたくない…。
行くか行くまいか…かなり迷った。
こういう時は男はダメだね。「イヤ、お金が…」なんてビビっちゃう。

6a0163044657d3970d0163068e205c97_4そんな私の背中をドカンと押してくれたのが家内だった。
「バカじゃないの?ナニつまらないことを言ってんのよ!
お世話になったジムのためでしょ!お金なんかで後でどうにでもなるわよ!」と思いきり背中を押してくれたのだ。
コレは家内がお金を出してくれたワケではないのよ。
結局、その当時持っていたギターのほとんどを売却して旅費を工面した。
このセレモニー、日本からの招待されたのは私だけで、行ってみると以前の仲間たちから大歓迎されて、思う存分ジムの感謝の気持ちを告げて来た。
そしてこの時、先ごろ亡くなったMarshallの創設メンバーのひとりであるケン・ブランにもお会いすることができた。
ジャズ歌手のクレオ・レーンにお会いすることもできたし。
楽しかったな~。今にして思うと「無職でも絶好調」だったわ。

6a0163044657d3970d01676781dade97_4この時「もう2度とイギリスに行くことはないかも知れない」と覚悟を決め、家内の了解を得て、セレモニーの後しばらくイギリスに残りってスコットランドまで行って来た。
その間はちょうど「Diamond Jubilee」というエリザベス女王の在位60周年を記念するお祭りの最中だったのはラッキーだった。
タマタマ時を同じくしてベースの伊藤広規さんが私の滞在期間に合わせてロンドンを訪ねてくれた。
広規さんといえばMarshall。
そのMarshallで山下達郎サウンドを長年にわたってサポ―トされきたワケだからして、イギリスに来て工場に行かない手はない。
何度も書くが、その時の私は職務上はMarshallとは何の関係のない立場ではあったが、ジョンは快く広規さんを工場に迎えてくれた。
このことは初めて書くのだが、工場に着いて、まずかつてのジムの執務室でジョンと顔合わせをした。
マーシャルの工場はドアのオートロック解除の暗証番号を知っているほど私の勝手知ったるところで、当初、広規さんには私が工場を案内するつもりでいた。
ところがジョンから「Kokiの案内は他のモノに頼むからシゲはココに残りなさい…キミにはチョット話があるんだ」と言われた。
広規さんたちを工場見学ツアーに送り出し、ジョンと2人きりになると彼はこう切り出した。
「シゲ、コレを持ってMarshallで働かないか?」ということだった。
「コレ」とジョンが私に見せたのは下の当時のMarshallの名刺だった。
「キタキタキタキタキタキタ~!」
そりゃもう最高にうれしかったね~。
そして、ジョンはこう言ってくれた。
「あの『Marshall Blog』をまたやったらいいじゃないか!」
コレも信じられないぐらいうれしかったね。
「見ている人は見てくれている」…ということを感じ入りざるを得なかったよ。

1_ncそうして2012年10月26日、現在のMarshall Blogがスタートした。
一番最初の記事で再開のご挨拶をさせて頂き、またしてもポール・ギルバートからコメントを頂戴し、ジョン社長からの祝辞へと記事をリレーした。
  
当初は下のようなデザインのバナーを使っていた。
後にMarshallからイメージの統一令が発布され、このバナーは姿を消さざるを得なかったが、コレも「梅村デザイン研究所」の仕事で大の私のお気に入りだった。
こうして、現在のMarshall Blogになっても毎日更新を続け、今日の記事を含めてその更新回数は1,349回となった。
と言っても、最近はどうしても記事の制作に割く時間が足りなくて「完全な毎日更新」がツラくなって来てはいるが、ま、気持ちとヤル気は以前と変わらない。
  
ココでひとつ触れておきたいのが「脱線」のこと。
コレは今に始まったことではなくて、かなり昔から脱線し続けて来た。
私の人生そのものが「脱線」だから。
時折、こんなこと書いてイヤがられはしないかな?と心配になることもあるのだが、存外に読者の皆さまからのご評価が高く、現在では24時間脱線ネタを考えている。
イヤ、ネタはいくらでも出て来るのだが「どれをどこに組み込もうか?」ということに腐心しているのです。
このことは「オープニング・トーク」と呼んでいる(「トーク」ではないのだが…)前書きもしかり。
前書きがうまく書けるとその回の記事は割とスラスラと筆が進むんだよね。
この「脱線」と「オープニング・トーク」でとてもいいカタルシスになっているのだ。コレを書いている今の今もそう。
だからこれからも双方ジャンジャンぶっ込んでいきます。

まぁ、文章を書くのは好きだけど、ムズカシイですよ。
「ムズカシイ」というのは、「人に読んで頂く」ということがムズカシイのね。
マーブロに載せている文章の最大のモットーは「初見で暗譜」。
一回スラッと読んで意味が通って、読み返す必要がなく、なるべく読んだ人の印象に残る文章を書いているつもり。
それを達成するのはやっぱり「笑い」だと思う。
「マーブロの文章なんか面白くない」という人もたくさんいらっしゃるだろうが、私はこれでも自分でも気に入ったお笑いネタがありましてね…やっぱり自分が面白いと思わないモノは人が読んでも面白いワケがないもんね。
品性を保ちつつユーモアを交えて行くことに努めているのです。
 
今コレを読んでいる多くの方がご存知だと思うが、Marshall Blogにしょっちゅう出てくれている田川ヒロアキさんのCODEのデモ動画が今週MarshallのSNSで公開された。
現時点で、facebookで7万6千回。Twitterで7千回。さらにInstagramでは15万6千回の再生回数をヒットした。
Twitterの回数が少ないのは、ヨーロッパはfacebookやTwitterに比べ利用者が少ないかららしい。
たった4日の間に世界で24万の人が田川ヒロアキのMarshallでの演奏を目にしたワケだ。
ホントにスゴイ世の中だと思う。
もちろんコレはひとえにヒロアキくんの実力によるところなんだけど、元はといえば彼が頻繁にMarshall Blogに出ていたおかげで、Marshallの社内でも「変な弾き方をする盲目のギタリスト」としてよく知られた存在だったことが土台にあった。
実は今もMarshall Blogがキッカケとなって始まったプロジェクトが進行している。
Marshall Blog、ヘヘヘ、実はバカにできたモンじゃないんですぜ。
だからもっともっとミュージシャンの方に利用してもらいたいと思ってるんだ。
1_marshall_blog_2bこの業界に入って、初めてジム・マーシャルとお近づきにさせて頂いて今年でちょうど20年。
そして、今日でマーシャル・ブログを初めて10年。
ずいぶん色んなことがあって世の中も変わった。
本当にアッと言う間で、「幻のような10年」だった…ということで今日のタイトルを付けてみた。
「Happenings Ten Years Time Ago」…唯一ジェフ・ベックとジミー・ペイジがリード・ギターを弾いた1966年のThe Yardbirdsのヒット曲。
YbThe YardbirdsもMarshall Blogに出たことあるんだゼ!
やっぱり私は昔のロックが好き。
でも、少しは若い人の音楽も追いかけないといけないとは思っている。
その辺りのバランスを考えて、新旧のミュージシャンやリスナーの架け橋となるような内容づくりを目指してで11年目に入りたいと思っています…写真と脱線タップリでね!
皆さん、これからもMarshall Blogをお引き立てのほど何卒よろしくお願い申し上げます。

 
(一部敬称略)

2018年4月11日 (水)

私の南松本

  
今日はチョット変わった記事。
信州は松本駅のひとつ隣に「南松本」という駅がある。
その駅から線路に並走して国道19号線をホンのしばらく行くと、セメントのサイロが密集しているエリアに出くわす。

20そのウチのひとつがコレ。
向かって右側の大きいのが普通ポルトランドセメントを貯蔵している5,000tサイロ。
左が高炉セメントが入っている1,000tサイロ。
チョットわかりにくいけど、右の大きなサイロと建屋の間に付いている小さなサイロは早強セメント用で容量は100tだ。
詳しいでしょう?
ココへ何百回来たことか…。
こういうデカい入れ物に入っている粉末商品も棚卸し作業をするの知ってる?
どうやってやるかというと、サイロのてっぺんに棚卸し用の小さなハッチがいくつも付いていて、そこから先っちょに剣山のようなモノが付いた長~い巻尺をソロリソロリと降ろす。
するとその剣山が中に入っているセメントに当たったな?…と感じたところで巻尺の値を読んでハッチからの距離を記録する。
中に貯蔵されているセメントの量が多ければ当然その巻尺の値は小さくなるし、量が少なければその反対のことが起こる。
当然サイロの高さは予めわかっているので、計測した値をそのサイロの高さから引き算すれば、そのハッチの下にどれだけの高さまでセメントが詰まっているかが判明する。
ところが、サイロの中のセメントは絶対に真っ平らにはなっていないので、いくつもの場所でこの作業を繰り返して、それぞれ計測した値の平均値を取って容積を計算する。
最終的にはセメントは重さで量を表すので、この容積に比重をかけて重量にしてやる。
コレで棚卸しは終わり。
なんとプリミティブな!
サイロのてっぺんに上がって見渡す松本平のナント美しいことよ!
ところがコワいのなんのって…。
真ん中の渡り廊下を歩く時なんかもうヒザが笑いまくり。
どうして私がこんなことをしていたのかはご想像にお任せします。

30もうひとつ…駅の近くにあるのがこの「南部公園」という名前の公園。

50ちょうど桜がいい感じ。
しかし、日本っていうのは美しい国だよ。
敢えて政治のことを考えないようにすると、本当にいい国だと思うね。
みんな祖国が一番いいにキマっいるのでベトナムのことをどうこう言うつもりはないけれど、日本に帰って来てからつくづく「日本」っていい国だって思うようになった。
今、コレを書いている瞬間でもそう思ってる。

60ココ、す~ごくいい公園なの。
40上に書いたように1988年から1996年にかけて、この辺りには何百回来たかわからないが、こんな公園があったなんてゼンゼン知らなかった。

70公園の入り口で写真を撮る私。
ナニを撮っているのかというと…

80コレ。
公園の表札。
ギターの形をしてるでしょ?
実はココはマツモク工業の工場の跡地なのだ。
ベテランのギター愛好者であれば「マツモク」、あるいは「松本木工」の名前にはきっと馴染みがあることだろう。
線路の向こうの国道19号線のそのまた向こうには「松本木工団地」という工業団地があるが、それとは関係ない。
マツモク工業は世界に誇る日本のギター製造の草分けだった。

90今年のNAMMのレポートでこんな写真を掲載した。
シカゴの通販会社のスタンドに飾ってあった日本製の楽器の数々。
「日本の楽器メーカーは100年の長きにわたって、その素晴らしい品質により世界中の信頼を得て来た」とそのクォリティを称賛していた。
ココに飾ってあるバーニー・ケッセルがまさにVenturaブランド名義のマツモク製。

120v 私は国内の楽器製造の知識に疎いし、当時のご関係者が現在も業界にいらっしゃることも珍しくないので、知ったかぶりはキレイに避けることにする。
つまり、日本でのギター製造が盛んなりし頃の状況は各自でお調べ頂きたいということ。
 
ホンの少しだけ誰にも怒られないようなことを書いておく。
マツモク工業は元来「シンガー日鋼株式会社」というシンガーと日本製鋼所の合弁企業の子会社だった。
つまり、アメリカのシンガーの孫会社に当たる。
あ、もちろんこんなことは全く知りませんでしたよ。今回調べた。
「シンガー(Singer)」なんて会社知ってる?
19世紀に創業したアメリカの名門ミシン・メーカー。
ナンだってミシン会社の孫会社がギターなんかを作り出したのか?…ミシンの構造が時代と共に変化して、木工部分のパーツが減少したため、ギターの製造に乗り出したのがキッカケだったのだそうだ。
木工の技術を持っているからね。家具の製造業との共通点も多いようだ。
反対に現在では高級車の室内に使われる木工パーツを製造しているギター・メーカーなんかもあるもんね。
しかし、「ミシン」ってすごく変な言葉だと思わない?「鰊」みたいで。
もちろん「ソーイング・マシン(Sewing Machine)」が転化したものなので、絶対に海外では通用しない…と、言うより果たして今、ミシンを使える若い人なんているのかしら?
そこで出番が回って来るのが私の母。
実は私の実家にはビンテージのシンガー製のミシンがあった。
母は洋裁学校を卒業していて、カタンカタンとそのミシンのペダルを踏んでは裁縫をしていた。昔は自分の洋服を自分で作っていたっけ。家のカーテンと同じ柄の服があったもんね。
そして、私が小さい頃、こう言ったのをハッキリ覚えている。
「このミシンはね、お母さんがこの家にお嫁に来る時に持って来たのよ。『シンガー』というアメリカ製のミシンでとても大事にしているの」
だから私は「シンガーのミシン」というのをかなり小さい時から知っていた。
下の写真はウチのモノではないが、今こうして見るとなるほど…ボディは木でできていたんだね。
大変にゴージャスなルックスだ。
こうして考えてみると、あのミシンのボディは松本木工製だったのかもしれない。
ペダルと回転軸を連結するベルトなんかは丸い形状の革でできていた。
こうなると居ても立っても居られない。
ウチのシンガー・ミシンの写真を撮らねば!
早速母に電話してみた。

100知らない間に母もスッカリ歳を取り、来年傘寿を迎えるに至るが、おかげさまでとても元気にしている。
横浜生まれの横浜育ちながら、ナゼが時折「ヒ」と「シ」がひっくり返ってしまう。浅草生まれ浅草育ちの父よりもよっぽど江戸っ子気質だ。
「お母さん、あのミシンってまだウチにある?」
「んなもん、あるワケないじゃない!もうずいぶん前に捨てちゃったわよ!」…と、相変わらずの気風の良さでスッポ~ンとした答えが返って来た。
考えてみれば「お嫁に来る時に持参した」ということであれば、60年前に作られたモノなワケで、それを長年ガンガン使っていたということになれば、どんなに良いモノであっても寿命は尽きるだろう。
「あんなに大事にしてたのに捨てちゃったの?!」と私が言うと、「そうね~…どこもかしこもスリ減っちゃって使い物にならなくなっちゃったのよ…」とホンの少しだけ寂しそうな口調で答えていた。
その愛器の後、電気ミシンを買ってはみたが、全く気に入らず、結局ミシンからは遠ざかってしまったとのこと。
やはり、足でペダルを踏みながら感覚的に操作できないといい裁縫仕事が出来ないのだそうだ。
まさか今頃、自分がMarshall Blogに登場しているだなんて夢にも思っていまい。
下の写真は50年以上前の母。
本当は車全体をフレーミングした横組みの写真で、今は亡き父が撮った。
まだオートフォーカスも自動露出もない時代の写真だが、ピントもキチンと送れているし、露出もすこぶる適正だ。
ウチの父は写真を勉強したワケではないが、母のポートレートをナニかのコンテストに送って賞を獲ったことがあったと言っていた。
カメラに凝ったという話しは父が生きている間、ただの一度も聞いたことがなかったが、あれだけの映画狂だけに写真は好きだったようだ。
こんなことまで親子ってのは似るものか…。
もちろん母が抱えている可愛い子はワタシ。

1_4cmm さて、話を松本に戻す。
南部公園の表札の裏には碑文が刻まれていた。

120読みにくいといけないので、文字起こしをしておくと…
「マツモク工業株式会社は約30年間この地でギターを生産してきたが、1987年2月、工場を閉鎖し解散した。
当時の職場を末永く偲ぶため、これを建立する

平成3年3月20日 同社有志162名」(読点並びに句読点の使い、算用数字への変換は筆者)

130マァ、1987年といえば私が長野に赴任して来る年の前年だからそう古い話ではない…と言いたいところだが、オイオイあれからもう30年も経ってんのかよ…フザけんなよ!早すぎるわ。
私が中学2年の時に初めて手にした6万円のストラトキャスターのコピー・モデルもココで作られていたのかな?…なんて思い出しつつこの碑文を読んだらジ~ンと来ちゃってサ。
ココで作られたギターの多くをMarshallが鳴らしたに違いない。

135冒頭に書いたようにホントに変な記事になっちゃった。
最後にひとつ…マツモク工業はギターの販売が不振で解散したのではなく、むしろギター製造の部門は業績がヨカッタらしい。
親会社のシンガー日鋼の意向を受けてスコンと解散してしまったとのこと。
その親会社もすでに2000年に解散している。

150(一部敬称略 2018年4月 南松本にて撮影)

2017年12月 4日 (月)

さよならマット・ユマノフ!~私のニューヨーク

 
実際には既に金曜日の時点で12月に入っちゃってるんだけど、改めて時の早さに驚きますナァ。
2017年ももう終わりだもん。
モダン・ジャズ・ピアノの開祖として知られるバド・パウエルに『Jazz Giant』というアルバムがある。
『ジャズの名盤』に数え上げられることもあって、私も20代の頃はよく聴いたものだった。
このアルバムの1曲目に「Tempus Fugue-It」という曲が収められている。
凄まじくドライブするマイナーのバップ・チューン。
録音は1949年。
穐吉敏子もソロ・アルバムで取り上げているが、ピアニストの他にもマイルス・デイヴィスの演奏なんかも有名だ。
それだけカッコいい曲…マイルスはカッコいいこと以外は絶対やらないから。
で、そのタイトル。
コレはチョットしたシャレになってる。
クラシックが好きな人は「Fugue」が「フーガ」であることはすぐ読み解けると思う。
元は「Tempus Fugit(テンパス・フュージット)」というラテン語(ラテン語では「テンプス・フギト」と字面通り読むらしい)。
意味は「光陰矢の如し」。
英語で言えば「Time flies like an arrow」…と教えるのは日本の学校。
ネイティブの人はこんなこと言わない。
「Time flies!」だ。
そんな「Tempus Fugue-It」のテンポのようにブッ早い時の流れの中で世の中がガンガン変わり、それによって色んなことが起こる。
良いことももちろんあるけれど、音楽業界に目をやるとITテクノロジーの進化でソフトもハードもズタズタにされているように見える。
CDの開発までで止めておけばヨカッタんですよ。
そして…。  
コレはちょっとショックだったナァ…。

T_3img_5346 マンハッタンはグリニッジ・ヴィレッジにある老舗の楽器店、「Matt Umanov(マット・ユマノフ、「ウーマノヴ」が正しい発音かな?)」が昨日閉店した。
リペア部門は今後も継続するらしいが、かつてはボブ・ディランも通ったという1965年開店のニューヨークの名物楽器店のひとつがなくなってしまうのはとても寂しいことだ。
いつも「ロンドン、ロンドン」と騒いでいるのは、色んなことを知るにつれて、若い時あれほど憧れていたアメリカが「チョット、チョットチョット」の国であると思うようになった背景もあるんだけど、ニューヨークだけは別。
今でも、いつでも行きたい街であることに変わりはない。
この楽器店のことをからめてタマにはニューヨークの思い出なぞを…。

10私が初めてニューヨークに行ったのは1995年のことだから、22年も前のことになる。
ナニをしに行ったのかというと、デヘヘ、遊びに…。
ジャズとミュージカルと美術館の旅だ。

15まだ、前の前の会社に勤めていた時のことで、その会社のニューヨーク支店の方々に大層お世話になった。
コレは3rdアヴェニューにあるその会社の事務所で撮った一枚。
ね~、窓からクライスラー・ビルが見えるんだよ。
東京じゃどうガンバってもスカイツリーが関の山だもんな~。
以前はパーク・アヴェニューにあるあの有名なパンナム・ビル(現メットライフ・ビル)に事務所を構えていたが、アホほど家賃が高いとかで何年か前にこの3rdアヴェニューに引っ越してきていた。
残念!
この頃のマンハッタンは、128丁目以北や8thアヴェニュー以西、そしてアルファベット・アヴェニュー以外であれば安全と聞いていたが、駐在の方から「先週も1stアヴェニューで追いはぎがあったんだよ」という話を聞されてビックリした。
その方は、移動の際にはどんなに近距離でもタクシーを使うとのこと。
「だって、相手は銃を持ってるんですよ。ズドンで終わりですから」と言っていたのがとても印象的だった。
そんなことを聞かされてはいたものの、着いたその日の晩にひとりでグリニッジ・ヴィレッジのブルーノートに繰り出し、パット・マルティーノとジョー・ロヴァーノのダブルヘッドライナー・ショウを観た。
久しぶりの海外旅行で興奮していたのか、身体はクタクタのハズなのに全く眠くならなかった。
次の日も、またその次の日も夜になると目が冴えて、寝付いたかと思うとすぐに目が覚めてしまう。
この時、人生で初めて時差ボケのツラさを知った
しかし、この頃は毛があったな~。
今は「お怪我(毛が)なくてヨカッタ」ってか?「大山」じゃねぇ「ミューヨーク」詣りしてんだよ。

17vちょうどこの時、フランク・ザッパのベスト盤がリリースされた時で、HMVの店頭にザッパの顔がズラリと並んでいてうれしかった。
やっぱり日本のレコード店をはワケが違うのよ。
昼は美術館や名所めぐり、夜はミュージカルやコンサートを観て、それからヴィレッジのライブハウスにジャズを聴きに行くということを繰り返した。
そう、丸っきり『踊るニューヨーク』のフランク・シナトラ状態だった。
楽しかったな~。
でも、このために1年近く前から、ニューヨークに関する本や映画に目を通し、丹念に下調べをした。
行く頃には郵便配達ができるぐらいの知識を蓄えていたんよ。
ところが!
英語にはかなり難渋した。
ナメていたのね。
向こうに行ってすぐに気がついたのは、現地の連中は「英語ができないヤツは相手にしない」ということだった。
とにかく現地の皆さんの態度が冷たい。
英語を解さないヤツは人間じゃない…というワケで、日本に来ている外人と違ってやたらと愛想が悪い。
反対に気がついたことは、「コレ、英語ができたらこの何倍も楽しいんじゃないの?」ということだった。
そして、その場で英語を勉強し直そうと決心したのであった。

16とにかくガッカリしたのは楽器屋だった。
ニューヨークにはロンドンのデンマーク・ストリートやお茶ノ水のようなところが西48丁目にあって、サム・アッシュやマニーズのような店がズラリと軒を連ねていた。
この頃はまだギターに夢中で、希望に胸を膨らませてイの一番に訪れたのだが、ゼンゼン期待はずれだった。
チョット程度のいいストラトキャスターを見つけると日本製だったり、汚いワリには値段が破天荒に高かったり…。
「ダメだ、コリャ…」とキッパリと諦め、事前に調べておいたグリニッジ・ヴィレッジにある楽器店に期待をかけた。
その店がマット・ユマノフだった。
 
グリニッジ・ヴィレッジに行って11時の開店を待って店に飛び込んだ。
その時のことが「旅日記」に記してある。
アタシャ、元来こういうことをするのが好きでしてね。
昔からマーシャル・ブログをやっているようなもんでさ。
でも、こうして書いておくと絶対に忘れてしまうような些細なことも後に思い出すことができてすごく楽しいね。
ナニナニ…フムフム…なるほど、この頃はホントに一生懸命ギターをやっていたんだな~。
長野市のパブでハコバンをやってたからね。
ギョエ!途中でヤバいことが書いてある!
ま、この時はマーシャルに勤めるなんてことは夢にも思っていなかったのでご愛敬ね。

50上のメモにあるように、お店ではウィットという日本人の奥さんがいる若い店員が相手をしてくれた。
日本語なんてゼンゼンできないのよ。
にもかかわらずアンケートに答えてくれっていうワケ。
質問は「どうしてこの店に来たのか」ということなんだけど、もちろんこっちは英語で説明なんてできるワケがない。
何とか知っている単語で「日本にいる時に、前もって調べて来た」と伝えたいのだが、どうもうまくいかない。
すると彼は「Come across?  Come acorss?」ってしきりに訊いてくるんだよね。
何とかして私の答えを「I came acorss your store」にしたいようなのだが、何しろコッチは「come across」の意味がわからない。
面倒だから「ハイハイ、『かむあくろす』って答えればいいんでしょ」と心で思い、最終的に「Yes」と答えた。
彼は「ほおらね!」と言わんばかりにニコリとしてくれたが、コレは「タマタマ出くわした」という意味で、私の本意ではなかった…ということが大分後になってわかった。
おかげで「come across」は一生忘れない英語表現のひとつに昇格した。
  
ところでマクドナルドをはじめとした海外のファストフード店って有色人種の店員ばかりでやたら不愛想じゃない?
ロンドンなんかはそうでもないけど、ニューヨークはヒドイというか、もはやコワイというか。
小声で注文などしようもんなら「ハアアアア?」と、まるでテレビドラマに出てくる殺人事件の取調べの刑事のような迫力で攻めて来やがる。
で、「Here or to go?」なんて眼光鋭くドスのきいた声で聴かれると完全にビビってしまって、そこで食べて行くつもりだったのに、つい「トトト、トゥ、ゴウ」と答えてしまったりして。
それでワザワザ袋に入れてくれたハンバーガーを店内で食べる時の後めたさと恐ろしさね。
その店員の視線から死角の席に座って隠れて食べたりして…。
さすがに今はこんなことはないけど、以前は「コーヒー」を頼んで普通に「コーラ」が出て来たこともあった。
「コ」しか聞いていない。確認もしない。
もちろん何の文句も言わずにそのコーラをおいしく頂戴しました…とさ。
やっぱり日本が一番いいわ。

40で、その時買ったレス・ポールがコレ。
セス・ラバーが巻いたピックアップが乗ってるんだって。
翌年、イリジウムに行った時、レス・ポールご本人にこのギターの写真を見せたところ、「ああ、キレイなギターだね~」と言ってくれた。

20vね、「MATT UMANOV GUITARS」というステッカーが貼ってあるでしょ?
私がこのギターを買ったようすを見ていて他の店員がやたらと「いい買い物だ!」みたいなことをうれしそうに言っている。
私も実際気に入って買ったものなのでそう言ってもらえると悪い気がしない。
しかし、よくよく聞いてみると、このレスポールはその店員の委託品だったの。
道理でホメるワケだわ。
コレに立派なリユニオン・ブルースのケースが付いていた。
 
結局、48丁目の楽器店よりは魅力的な品ぞろえではあったが、それでもヒックリ返って驚くようなモノがズラリと並んでいるようなことはなかった。
ところが…。
途中でトイレに行きたくなって貸してもらうように頼んだ。
「ああ、どうぞ。アッチだよ」と店に裏に連れて行ってもらった。
すると、そこには大きなガラスのショウ・ケースが置いてあって、あるわあるわ!
中に収まっていたのは、ビンテージのL5、L7、L6S、ピッカピカのTal FarlowやJohnny SmithやBarney Kessel…この時はフルアコしか興味がなかったのでフェンダー系のギターは記憶にないが、きっとスゴイものがあったのだろう。
そういうことです。

30翌年、リターンマッチをやった。
再度ニューヨークを訪れたのだ。
この時に備えて1年間、ミッチリ英語の勉強をした。
朝から晩までやった。
まず「出る単」の内容を1冊頭に入れて、NHKの英会話のプログラムは初級からビジネス英語まですべて録音。買って来た教本と首っ引きで取り組んだ。
ブックオフで良さそうな英語関連の書籍を見つけると片っ端から買い込んだ。
営業でひとりで車に乗っている時はズ~っと英語のテープをかけて耳を鍛えた。
英字新聞のスクラップもやった。
当時は長野に住んでいたのだが、家内が近くに住んでいる外人を探して来て個人レッスンをしてもらった。
ま、コレだけやっても所詮は付け焼刃。
とても完璧というワケにはいかなかったが、それでも英語の勉強が楽しくなったし、さほど英語がコワくなくなった。
ポイントは語彙と文法ということもわかった。
そして、もうひとつ。
よく「アタシって~、外人の言ってることは~、だいたいわかるんだけど~、しゃべれないんだよね~、ウケる~」みたな話を耳にするが、コレは絶対ウソ。
「わかっている」ような気になっているだけ。
話している相手の英語が聴き取れる能力がある人は、しゃべることもできるって!
ナゼかというと、スピーキングというモノは、しゃべる時に適切な単語が見つからないことはあるにしても「ナニを相手に伝えたいか」を見失うことはない。自分が言いたいことなんだから。
それに相手は世界中のヘタクソな英語に慣れているので、何とかそのヘタな英語を理解してくれようと歩み寄ってくれるのが普通だ。
つまり助け船を出してくれる。
中にはものすごく勘のいいのがいて、60%ぐらいしか英語で説明できていないのに120%以上理解するヤツがいるんだよね。
一方、外国語を聞きとるのは本当に大変なことだ。
ナゼなら、ナニが出て来るかわからないし、頼れるのは自分の聴き取り能力だけだから。
聞いたことのない単語が出てきたら、もう理解のしようがないでしょ?
「辞書を引かなくても単語の意味がわかるようになる」なんて言うけど、コレもウソ。
「意味が分からなくでもごまかせるようになる」だけの話。
もちろん何度も相手に訊き返すことも構わないのだが、人によっては3回目はNGになることもある。
だからまず気を付けるべきは、少なくとも肯定文か疑問文の区別をつけられないとかなり恥をかくことになる。
「What....」と訊かれて「Yes」と答えたところ、「'What'に'Yes'の答えはない!」と注意されている人を目の前で見たこともある。
  
「『聞く』は『言う』よりムズカシイ」、すなわち、「攻撃は最大の防御なり」…ということもわかって意気揚々と再度ニューヨークに乗り込んだのであった。
その結果…恥ずかしがらずに色々な局面でこちらから積極的に話をすると、なるほど前回とは大違い。
どこでもみんなニコニコしてとても親身になって応対してくれるではないか!
とてもうれしかったね~。
そして、再度マット・ユマノフを訪れた。
今回はオーナーのマットに会うことを前提にお土産を持参した。
海苔だ。
首尾よくマットに会ってそのお土産を渡したところ大いによろこんでくれて、お店の黒いオリジナルTシャツをお返しにとプレゼントしてくれた。
さっそく昨年私の面倒をみてくれたウィットに面会を申し入れると既に辞めてしまったという。
代わりに私の応対をしてくれたのは…アレッ?!
去年もお店で会った私のレスポールの前の持ち主じゃないの!
彼の名前をズィークといった。
向こうも私のことを覚えてくれていて「ヨォ!どうだい、オレのレスポールの調子は?」ってなもん。
「オレのレスポール」だっての。キミのじゃない。
「今回はどうするんだい?」と訊かれて、「安いSGかテレキャスターがあれば買って行こうかと思っているんだ」…コレぐらいのことはもう英語でラクラク言える。
予算を告げると、さすがにSGはムリだという。
じゃ、ということで下のテレキャスターのアメリカン・スタンダードを買うことにした。
約60,000円だった。

60vおしゃべりをしている時に当時私が大好きだったピックをズィークに見せた。
「ジョン・スコフィールドだね?」と、すぐさま言い当てた。
「でもね、本物はこのサインが金色なんだよ」と付け加え、「彼はこの店に来るの?」と私が尋ねると、「ウン、時々来るよ」と答えた。
本場やな~。
そうしている合間も店内の電話がジャンジャン鳴る。
すると、電話を取り次いだ店員が呼び出された人に受話器を渡しながら「ジョン!ギブソンから!」とか「フェンダーからだぞ、ポール!」とか言うワケよ。
MarshallからSkypeがかかってくる今なら何とも思わないけど、当時はコレがメッチャカッコよくてね~。
本場ならではの光景でしょう。
日本だと「〇×楽器さんから」とか「△□商会からお電話です」ということになる。

70その後、数年して私は楽器業界に転職し、楽器の輸入販売の仕事に就いた。
さっそく何か最新の海外のヒット商品を輸入できないものか?と考えた私はズィークに連絡を取ってみた。
メールなんてまだ普及していない時代だったのでファックスだ。
自分が楽器業界に転職したことと、彼が持っていたレスポールを愛用していることを伝え、「今、ニューヨークで最も流行しているグッズを教えてくれ」と頼んでみた。
すると、すぐに返事が来た。
「It makes me happy that my Les Paul is being enjoyed by a fine guitar player」だって。
もちろん社交辞令である。
そして、1998年当時、ニューヨークで猛烈に流行しているアイテムとして…

T_img_5319このホンモノのタバコの空き箱で作ったアンプを紹介してくれた。
すぐに買って送ってもらったが、その会社で取り扱うことはなかった。
コレ、どこ行っちゃったかな?
  
コレが最後のマット・ユマノフとの交流だった。
この後、一度だけNAMMの直前にニューヨークに行ったが、マット・ユマノフを訪ねることはなかった。
代わりにすごい光景を目にした。
その日は信じられないほどの大雪で、人っ子ひとりいないタイムズスクエアを目撃したのだ!
写真を撮っておけばヨカッタな~。
後で知ったことなのだが、実はそれは雪のせいだけではなくて、スーパー・ボウルの試合が重なっていたからだったらしい。
冬季にニューヨークを訪れたのは初めてのことだったので、『真夜中のカウボーイ』のあの道路から吹き出る湯気を見て興奮したっけ。

80vそれから数年して、ギターセンターがニューヨークに進出したことにより48丁目の楽器店街は壊滅状態に陥ったと聞いた。
その情報を耳にした時、マット・ユマノフがヴィレッジにあってヨカッタと思った。
そして、そのギターセンターも経営が苦しいという話を最近耳にした。
通販の隆盛である。
「実際に弾いて試さないでギターを買うのかね~」なんて台詞をもう日本でもスッカリ聞かなくなった。
アメリカはシアーズをはじめとして元々通販の盛んな国なので、ひとたびギターが通販で普通に流通し出せば小売店はひとたまりもないのであろう。
そして、とうとうマット・ユマノフも斃れた。
少し前にスタテン島のマンドリン・ブラザーズも終わったとか…。
さらに世界でも一、二を争うギター・メーカーも今や苦しい経営を強いられているとウェブサイトのニュースが報じていた。
あと数年したらギターを楽しむ人がこの世からいなくなってしまうのではなかろうか?
冒頭でも触れたが、この原因はもちろん流通の変化によるものではなく、ITの普及により音楽が無料になってしまったことが根本的な原因だろう。
おかげで音楽の質が低下して、ギター・ヒーローもいなくなってしまった。
一体どこまで変わっていくのやら…。
日本でこの現象を歓迎しているのはTシャツ屋とチェキ屋、それに今治の方々か…。
そういえば、私がニューヨークに行った時にはワールド・トレード・センターがあったんだよな~。
  
最後に得意の「三大」でこの記事を〆てみると…。
「自分の人生を変えた三大出来事」は…まず、家内に出会ったこと。
それからジャズを知ったこと。ココから音楽の愉しみが飛躍的に広がった。
そして、英語を覚えたこと…と言っても、まだまだゼンゼン使い物にはならないが、結論としてこうしてMarshallで働き、毎日のように英語を使っているのは驚き以外の何物でもない。
それもこれも、この2度のニューヨークの旅があったからなのだ。
Tempus Fugit…今日はちょっとセンチな気分でマット・ユマノフの個人的な思い出をつづらせて頂いた。
   
ちなみに、1回目の渡航にはカメラだけ。
そして2回目の時はビデオを持って行った。
もちろん私のことなので、微に入り細に穿ちテープを回したが、帰って来て1度はそのビデオを見たが以降2度と見ることはなかった。
ビデオはテレビなりパソコンの前で構える必要があるし、どうしても一定の時間がかかってしまう。規格もすぐに変わっちゃうし。
動きもしなければ音も出ないけど、写真はこうして気軽に引っ張り出して好きなところだけ見れるのがいいし、思い出を書き込んでおくこともできる。
2回目も写真にしておけばヨカッタ…と少々後悔している。
やっぱり私は写真派だ。

90

2017年9月 5日 (火)

【訃報】 ウォルター・ベッカーのこと

  
Steely DanのWalter Beckerが3日に亡くなったそうだ。
67歳。
昨今では「早死に」の部類に入るだろう。
死因は今のところ不明。
  
Steely DanもWalter BeckerもおおよそMarshallに関係なさそうだが、素晴らしい音楽を作った業績に対しエッセイ的に一筆寄せることをお許し頂きたい…というか、こんな時でなければMarshallのブログでSteely Danについて書くことなんてないだろうし…。  
早い話、Steely Danが好きだったのよ。
普段から、やれ「イギリス」だ、やれ「ロンドン」だと騒いでいることからもわかるように、私は根っからのブリティッシュ・ロック派で、いつの頃からかアメリカのロックをあまり聴かなくなってしまった。
ま、局地戦ではSteve MillerやLittle Featのような例外もたくさんあるけど、アメリカン・ハードですらAerosmithを除いてはチョット苦手なんだよな~。Grand FunkもKissも夢中になったことがない。Blue Oyster CultとAlice Cooperぐらい?
アメリカのロックを「アメリカン・ロック」たらしめる、さわやかなウエスト・コースト・ミュージックとかアーシーな南部のロック、さらにカントリーやブルースがかった音楽をもはや自主的に聴くことがないんだよね。(といいつつ、つい先日Black Oak Arkansasを聴いて、あんまりカッコいいんでウナってしまったけど)
しかし、Frank ZappaやTodd Rundgrenは例外中の例外でゼンゼン別物。一生好き。
そして、もうひとつの大きな例外がSteely Danなのです。
  
Steely Danを初めて知ったのは1976年のことだったと思う。
記憶違いだったらゴメンなさいよ。当時、東芝EMIって下のような洋楽のレコードを紹介する小冊子を時折出していた…と思う。
下のヤツはもしかしたら1976年に出たビートルズの『Rock'n'Roll Music』というコンピ―レーション・アルバムのオマケだったのかも知れない。
私はこのアルバムを一度も買ったことはなかったんだけど、ナゼかこの小冊子だけは持ってたな。
ところで、この頃って、ビートルズが解散してからまだ5、6年しか経ってない頃だったんだよね。
今はナニ…ビートルズが解散して47年が経ったの?
ビートルズのメンバーの名前が言えない若者が普通…なんてのもムリのないことなのかも知らんね。
47年…道理で私もどこへいっても最年長になるワケだよ。
さて小冊子…当時はレコード会社もロックを広めるために必死だったんだろうね。定期かはたまた不定期かはわからないけれど、こういうモノを作ってロックの普及に努めていたワケだ。
あんまり一生懸命やりすぎたせいか40年経ったらこの頃のロックがスカッリどっかへ行っちゃった。

20vで、この頃中学2年生だった私は何かの拍子に、このひとつ前の紺の表紙の小冊子を手に入れて、しょっちゅう中身のチェックをしていた。
ロックの知識を吸収しようとして夢中だったのね。
そして、そこに出ていたのがSteely Danで、確か『Ketty Lied(うそつきケティ)』が新譜として紹介されていたのだと思う。
その紹介文には下の1973年の『Countdown to Ecstasy』の裏ジャケの写真が使われていた。
で、この写真で印象に残ったのが、ちょっとイッちゃってる感じのDonald Fagenではなくて、ご立派なヒゲがステキなJeff Baxterでもなくて、はたまたコワモテのDanny Diasでもなくて、一番奥にサングラスをかけて座っているWalter Beckerだった。
何でかって?
この頃はWalterがSteely Danなるバンドの中心人物などということはツユ知らず、「ウワ~、意地の悪そうなオジさんだな~」という猛烈に強力な印象を受けてしまったのだ。
だって、今この写真をパッと見てもひとりだけ変でしょう?
コレで紙袋を持っていたら「宅八郎」だよ(古いか?)。

10当時はまだロックを聴き始めた頃だったので、Steely Danに興味が湧くワケもなく、ビートルズを卒業すると、私はToddを経てZappaやRoxy Musicをはじめとしたブリティッシュ・ロックの道を突き進んだのであった。
2度目にSteely Danに接近したのは『Aja』が出た時だった。
2年後の高校1年の時だったかな?
池袋に新しくできた楽器店でアルバイトをしているヤツがクラスにいて(ど~こだ?)、バイト先の年上の人に教わって来たんだろうね…ソイツはハード・ロックやプログレッシブ・ロックに夢中になっている我々に向かって小バカにした口ぶりで「お前らも『エイジャ』いいぞ~」なんて言っていた。
やかましい!こっちがナニを聴いたって「えいじゃないか!」…ナンチャッテ。
そんなことがあったので、どうもSteely Danは長い間苦手にしていた。友達ギライによる聴かずギライ。
40cdで、Steely Danを本格的に聴くようになったのは、私の場合、実は高校を卒業してからなのですよ…恥ずかしながら。
それも一番大きなキッカケは今の家内と話を合わせるためだったの。
まだ、18歳の時よ。
「私、Steely Danが好きなの…」なんて言われた日には「ダメダメ、そんなの!男は黙ってFrank Zappa!」なんてことも言えない。フラれるのがコワいから。
ま、Steely Danも完全に知らないワケでもないし…ということで家内が持っていたカセット・テープをこと細かに聴き出してブっ飛んだ。
「ナンダ、こんなことをやっていたの?」
当時、すなわち1980年に入りたての頃は、パンク/ニューウェイブ、テクノ、フュージョン等の嵐が吹きすさび、時の音楽に興味を失っていたことに加え、従来型のハード・ロックやプログレッシブ・ロックにも飽きが来ていたので、私は何か自分にとっての新しいタイプの音楽を摸索していたんだね。
そして、完全にシビれてしまったのが、『The Royal Scam』の1曲目、「Kid Charlemagne」のLarry Carltonのソロ。
彼はコレをアドリブで弾いたと言っているけど、いまだに信じられん。
人間、こんなことが即興でできるハズがない。
このアルバムはSteely Danのハードな面が出ていて好きだった。
Rick Derringerがこんなにギターがウマいんだということも知ったし…。

30cdそれで改心して(?)、『Gaucho』までのすべてのアルバムを即時中古で買い揃え、聴き漁った。
まずは「Do it Again」で名高い『Can't Buy a Thrill』。
「Reelin' in the Years」のDenny Diasのソロにもシビれたな~。
5曲目の「Only a Fool World Say That」で、曲が終わったところで「ムッフフ、止めて、ホント、ホントに」と言っているように聞こえるのは私だけか?
最後の「Turn That Heartbeat Over Again」も名曲。
このアルバムにもVictor Fledmanが参加しているのか…。
FeldmanはMiles Davisの愛奏協でおなじみの「Seven Steps to Heaven」の作曲者。お父さんもジャズ・ミュージシャンで、有名なロンドンの「100 Club」のオーナーだった。

50cdこの頃はまだCDが出て来る前でね、『Gaucho』は数寄屋橋のハンターで買ったのを覚えている。
コレの「Third World Man」のCarltonのソロもスゴイよね。
Larry Carltonはかつて自分の代表的な仕事をメドレーにして自分のコンサートのレパートリーにしていたが、「Theme from Hill Street Blues」や「Put it Where you Want it」の他に、「Kid Charlemagne」や「Don't Take Alive」を加えていた。
ホ~ラ、やっぱりアドリブじゃないんじゃないの?1101975年の『Katy Lied』。
「Rose Darling」「Daddy Don't Live in That NYC no More」、「Everyone's Gone to the Mivies」、「Your Gold Teeth II」、「Chain Lightning」…名曲そろいの傑作だと思う。
特に「Doctor Wu」のPhil Woodsのソロが好きだった。
そういえば日本でもおなじみになったんだか、なじまなかったんだか知らないが、「Black Friday」なんてブギも入っていた。
この『うそつきケイティ』という邦題はなかなか良いセンスだと思ってる。
ところで、このアルバムのジャケットがなぜバッタだか知ってる?
コレ、実はバッタではなくて「Katydid」というキリギリスの仲間なんだって。イギリスでは「Bush Cricket」というらしい。
それでアメリカではこの虫が鳴くと「katy did, Katy didn't(ケイティ・ディド、ケイティ・ディドゥント)」と聞こえるんだって。虫の名前としては「ツクツクボーシ」みたいなもんだね。
で、さっきの「Doctor Wu」。
「Katy tried」と「Katy lies」という歌詞が出て来る。
この虫をその歌詞に引っ掛けたんだって。

80cd下はCDになってから初めて聴いた1970年代初頭に吹き込まれた未発表音源集。
一時アメリカの音楽界では「Steely Dannish」という言葉があったらしい。
この音源集での録音や演奏は原始的なものだが、この頃には既にそのSteely Dannishなサウンドが完成していることに驚く。
「Don't Take Me Alive」とほとんど同じ曲もあったりするぐらい。
プロデューサーのGary Katzはコレらの原石を磨き上げたワケね。
「プロデュース」という仕事がいかに重要かということを思い知るわ。(誰か私にナニかプロデュースさせて!)
このアルバムで上の『Can't Buy a Thrill』に入っている「Brooklyn」や、その後の『Pretzel Logic』に収録された「Parker's Band」の原型を聴くことができる。

60下がその1974年の『Pretzel Logic』。
ジャケットがいいね~。
しかし、邦題がひどかった…「さわやか革命」。ナンだそりゃ?「サワデー」かぁ?それとも「消臭力」かぁ?
プレッツェルってニューヨークに行って初めて食べたんだけど、驚いたナ。
アレ、上にかかっている粒々って砂糖かと思っていたら塩だったんだもん!
  
ココでもう一度「Parker's Band」。
タイトルにある「Parker」とはもちろんモダン・ジャズの巨人、Charlie Parkerのこと。
彼のオリジナル・ブルース、「Parker's Mood」に引っ掛けたのかな?
オットット…今ココでParkerで脱線しようものなら、それこそキリがなくなってしまうことは必至なので、要点だけ書く。
このSteely Danの曲は、Charlie Parkerの音楽の素晴らしさについて歌っているんだけど、歌詞が実におもしろい。
冒頭の「Savoy presents a new saxophone sensation(サヴォイが新しく紹介するとんでもないサックスの新人スター)」とある。
「Savoy」というのは「Now's the Time」や「Confirmation」や「Koko」などのParkerスタンダードを世に出した1940年代のニューアークのジャズのレコード・レーベル。
皆さんはJacoの愛奏曲としてご存知であろう「Donna Lee」もParkerがMiles Davisと一緒に吹き込んでこのレーベルからリリースした。
「Savoy」なんて固有名詞を入れるところが何ともカッコいい。日本のロックの歌詞には見ることのできない手法。
そして、実はこの部分には伏線がある。
1954年2月にニューヨークのBirdlandというジャズ・クラブで録音された、「ハードバップ時代の幕開け」とされる『A Night at Birdland』というArt Blakeyの名ライブ盤がある。
「Birdland」という店の名前もCharlie Parkerの「Yardbird」というアダ名から付けられたのだが(Clapton、Beck、PageのThe YardbirdsもCharlie Parkerゆずりだ)、このクラブにはPee Wee Marquetteという小人の有名な専属司会者がいた。
この司会者がそのライブ盤に収録されているパフォーマンスの中で、当時デビューしたての天才トランぺッター、Clliford Brownを「A new trumpet sensation、Clliford Brown!」と紹介しているるワケ。
「trumpet sensation」と「saxophone sensation」…ジャズ・マニアのDonaldとWalterはコレを知っていてそういう歌詞にしたにちがいない。
いいナァ~、こういう楽屋落ちは大好きだ。
もうチョット書かせて!
この「Parker's Band」の歌詞の中にはこういう一節も出て来る。
「♪You'll be grooving high or relaxing at a kind of riddle」…ジャズ・ファンなら絶対にニヤリとしちゃう。
この一節にはふたつ仕掛けが仕込んであって、前半の「grooving high」というのはDizzy Gillespieが書いたCharlie Parkerの愛奏曲の「Groovin' High」から持ってきている。
もうひとつがおもしろい。
「relaxing at a kind of riddle」…「riddle」は「ナゾナゾ」ね。つまり「ナゾナゾのようなものでリラックス」という意味。
これだけではおもしろくもなんともないし、そもそも意味がわからん。
実はココは言葉遊びになっていて、Donaldは「a kind of riddle(アカインダバリロル)」を強引に「カマリロ」って歌っている。
そうすると、この一節の後半は「♪リラキシンアットカーマリロ~」となる。
アメリカン・イングリッシュだから実現できる芸当。
クイーンズ・イングリッシュではこんな発音は許されません。
この「Relaxin' at Camarillo」というのはParkerが作った有名な「C」のブルースのタイトルなのです。
恐らくDonaldとWalterは「どう歌ったら『カマリロ』に聴こえると思う?」なんてさんざん考えたんじゃないかしら?
カマリロというのはカリフォルニアにあった精神病院の名前で、Parkerは6ヶ月間ココに収容されて治療を受けた。
ナゼ、精神病院に入れられたのかはまた今度…キリがなくなっちゃうから。
そして、この辺りの言葉遊びこそが「riddle」、すなわちロック・リスナーに向けた「なぞなぞ」だったんじゃないかしら?

70cd私はこの「Relaxin' at Camarillo」が大スキで、伊藤広規さんのライブ・アルバム『Relaxin' at IWAKI ALIOS』でアイデアを借用させて頂いた。

Ri それと、『Pretzel Logic』の1曲目の大ヒット曲、「Rikki Don't Lose That Number(リキの電話番号)」のイントロはHorace Silverの「Song for my Father」の完全パクリ。
コレは偶然にも最近Marshall Blogで触れたばかりだ。

350 Steely Danが2000年に『Two Against Nature』で復活した後、『Everything Must Go』も聴いた。
往年のクリエイティビティには叶わないかもしれないが、音楽としては十分にカッコよろしく、Steely Dannishを貫いていると思った。
でも、私にとって復活後のSteely Danで最もご利益があったのは、Drew Zinggというサポート・ギタリストを知ったことだったかな。
Marshallじゃないけどね。
120もう『Aja』あたりになると誰でも知っているでしょうから、今回ココでは詳しく触れなかった。
その代わり、ヘソ曲がり的にこんなヤツを…。
Marian McPartlandというベテラン女流ピアニストがパーソナリティを務めて1978~2011年まで続いた『Piano Jazz』というラジオ番組に、Steely Danの2人とベースのJay LeonhartとドラムのKeith Carlockが出演した時の音源。
ピアノ談義とジャム・セッションという内容で、Bill EvansやElvis Costello版もあるようだ。
ま、ジャズに興味がなければ例えSteely Danファンであっても、そうおもしろい内容ではないかも知れないが、私はこの2人のジャズへの傾倒ぶりがよくわかっておもしろかった。
取り分け、Duke Ellingtonへの敬愛ぶりには興味をそそられる。実際、『Pretzel Logic』では「East St. Louis Toodle-Oo」というエリントンの古い曲を取り上げているもんね。
どうして今、私がエリントンに興味を持っているのかというと、長年アメリカで活躍しているジャズ・ギタリストが書いた本を最近読んで、それに感化されたからなの。
その本によると、アメリカでは「ジャズ」は「マイルス・デイヴィス」でもなく「ジョン・コルトレーン」でもなく「デューク・エリントン」を指すというのだ。
もちろん日本でも「デューク・エリントンは数々の名曲を残したジャズの偉人」とされているが、アメリカでの地位とは雲泥の差があるようなのだ。
だから、「エリントニアン(Ellingtonian)」などという言葉があるワケ。
「エリントニアン」というのはデューク・エリントン・オーケストラで演奏することができる数少ない優れたミュージシャンを指す名誉ある言葉。
どうなんだろう?
アメリカ在住のミュージシャンの数とエリントン・オーケストラの席数を考慮すると、エリントニアンになれるチャンスたるや、大相撲の横綱になるぐらいの確立なのではないだろうか?(無責任な推測)
ということは日本の総理大臣になるよりムズかしいということだ。
ま、ココでエリントニアンの名前をズラズラと上げるのはいともたやすいことだが、知識をひけらかしているようでイヤらしいのでヤメておこう、ヒヒヒ。
しかもジャズだけでなく、ありとあらゆるアメリカのポップ・ミュージックはデューク・エリントンの影響を受けているというというのだ。
あの有名なJames Brownのガウン芸も元はエリントンなんだって。
つまりは、このSteely Danもエリントン傘下ということになるのだろう。
私も好きで30枚以上のエリントンのLPやCDを持っているが、そういう風に彼の音楽を聴いたことはなかった。
どんなに情報が氾濫していても、本当の情報が伝わってこないことが多い…ということを思い知る。

90Mrian McPartlandはOBEも叙勲しているイギリス人でJimmy McMartlandというアメリカ人トランぺッターと結婚してアメリカに帰化した。
私はほとんど知らないのだが、下のイギリス人ピアニストふたりによるコンピレーション・アルバムはナゼかLPとCDの両方を持っている。
収録されている私の好きな曲「It Might as Well be Spring(春のごとく)」なんかを聴くと、Marianはいかにも上品で面倒見のよさそうなピアノをお弾きになっていらっしゃる。
ちなみにこのMarianも前掲のSavoyからアルバムをいくつかリリースしている。
もうひとりのピアニストはGeorge Shearing。
有名な「バードランドの子守唄」の作者であり、そのプレイング・スタイルはHerbie HanckやChick Coreaといったモダン・ピアニストに多大な影響を与えているらしい。
私は聴いてもよくわからないが、好きなピアニストのひとり。

100ナゼかSteely Danのスコアもこんなに家にあった。
ナンダ、結局大スキなんじゃん!…と言われれば「Yes」ですよ。

2_img_0184しからば、Steeley Danのどのアルバムが一番好きか?と訊かれたら…コレかな?
1973年のセカンド・アルバム『Countdown to Ecstasy』。
やっぱり「My Old School」は泣ける!
他にも、マァ、よくもこんなにいい曲を作ることができるものだ、と感心せざるを得ない。
昔の人はエラかった!

130…とスッカリ、私的なSteely Dan録になってしまったが、恐らくみなさんが触れたり、書いたりしないような内容で故人を偲んだつもり。
ジャズの話題をからめたのは私の弔意(condolence)だ。
私は『Nightfly』も『Kamakiriad』もDonald Fagenのソロってどうもシックリこなかった。
やっぱりWalter Beckerという相棒がいてからこそのSteely Dannishサウンドだったのだろう。
ギタリストとしては、活動中に出した音の数の合計はYngwie Masmsteenが弾く1曲の音数よい少ないかもしれない。
でも、どれもヨカッタよね。
彼の弾くギターこそ「ツボを得たプレイ」というのだろう。
ロック界はまた大きな才能を失ったことと、この先Steely Danの新しい音楽は永久に聴くことができないということだけは確かだ。
謹んでお悔やみ申し上げます。

2017年7月31日 (月)

岡井大二の青梅はAMAZINGだった!~私の青梅

  

今日の話題はコレ。

20vそう、梅。
同じ梅でも今日登場するのは下の写真の方。
上の梅と下の梅、色以外にどういう風に違うかわかる?
上の黄色い梅はもう熟していて、これから自家製梅干しになる。
梅と塩を広口のビンに入れて重石で漬け込んでやる。色や香りをつけるためにシソを入れることが多いが、ウチは入れない。
頃合いを見計らって漬かった梅を取り出して、しばらくの期間天日干しをする。
ビンの中に残った梅から出た水分は「梅酢」といって「グワシ!」とやる。
それは「楳図」か!
梅酢は除菌作用があって、昔はうがい薬や咳止めとして珍重されたらしい。
他に、漬物に使ったりして何のムダも出さない。昔の人は本当に賢い。
今ではその梅酢を原料に「梅ドレッシング」を作ったりもするそうだ。
取り出した梅は事務所の前の日の当たるところに置いておいて、雨が降ってきたら取り込むのが私の仕事。
Marshall AmplificationのAsia & Oceania Region Managerが製造に関わった梅干しだ…酸っぱさもしょっぱさも超ラウドだぜ!
かなり久しぶりに作るんだけど、化学調味料や添加物を一切入れない梅干しはすごくおいしいんだ。
海外では使用が厳しく禁止されているアミノ酸(グルタミン酸)が入っている食品をできる限り摂らないようにしているしね。
下の青い梅は梅酒になる。
おいしいもんね~、自家製の梅酒は!
もちろん化学系添加物は一切入らない。
実に完成が楽しみだ。
今日の舞台はこの青い方の梅。
つまり青梅ね。

10v_2

私が青梅に足を踏み入れたのは、人生でコレが初めてのこと。
東京の東の住人にとってはかなりの距離。
八王子のチョット先ぐらいに考えていたらトンデモナイのね?
お、目的地が見えてきた。

30ココが目的地。
民家ですな。
同じ「ハウス」でも、ライブハウスはMarshall Blogに数え切れないほど登場しているけど、もしかしたら普通の「ハウス」が舞台になるのはコレがはじめてのことかも知れない。

40コチラは榎本さんのお住まい。
もしくは、ご芳名の下にある通り「studio AMAZING」。

50ご新居で…結構なお住まいですな~。

60風通しのよいベランダでくつろいでいるのは、岡井大二とおなじみのギタリスト、関雅樹

70実は榎本さんは、ドラムスの録音ができるプロフェッショナル・クォリティのスタジオを自宅に作ってしまったのだ!
関ちゃんの手配で大二さんがお見えになり、そのスタジオでレコーディングをしたというワケ。
100v_2自宅のスタジオに「岡井大二」が現れるなんてまさにAMAZING!
セッティングに余念がない大二さん。

90録音に使用したキットはNATALのバーチ。
実際に大二さんがステージで何度か使っているモノだ。

80

セットを終えて軽くウォーミング・アップ。

120え、大二さんが使っているスネア?
気がついちゃった?
さすがお目が高い!
コレはNATALのStave Snare。
シェルが桶状になっている。
大二さんが叩くとスゴイんだわ!
宇宙の果てまで音が届きそうに抜けまくる!

130大二さんは案外慎重にセッティングをするが、自分の出したい音がシッカリと頭の中にあって、また楽器のツボを心得ているので時間はかからない。
一発でキメちゃう。

110

準備万端。
ヘッドホンをつけてイザ本番!

140スゴイ集中力!
コワいぐらいだ。
レンズを向けている私のことなど全く気にしない。

150ミキサー室でも関ちゃんが大二さんのプレイに集中している。
そう、コレは関ちゃんがアレンジとギターを担当した女性歌手の伴奏のレコーディングなのだ。

160まずは一回録ってみて…

170お~っと、関ディレクターがマイク位置の修正に飛び出してきた~!

180もう一回。

190v大二さんのドラミングはいつ見てもサウンド、フレーズともにこの上なく気持ちがいい。
それだけではなく、曲のコンセプトに合わせて当意即妙にプレイを変えて、音楽に当てハメていくクリエイティビティが何とも素晴らしい。
50年以上の音楽キャリアを誇る「歩くポップ・ミュージック辞典」みたいな人だからね、チョコチョコっとロックを聴いてツーバスを無遠慮に踏みまくる若者とは格も、ケタも、音楽への取り組み方も全く違う。
加えて大二さんのスゴイところは、今の若い人たちのロックもチャンと聴いているということだ。
オマケにいつまでもパワフルなのだからケチのつけようがない。

210カメラを持っていつまでもチャラチャラしていても目障りなだけなので、私は早々に現場を失礼させて頂いた。
大二さん、がんばって~!
  
このstudio AMAZING、今のところまだウェブサイトも広告も展開していない状態だけど一般開放している。
ご興味のある方は下記のアドレスへメールでお問い合わせください。
  
studio AMAZINGへのお問い合わせは⇒studio.amazing46@gmail.com

200さて、スタジオを後にして私はというと、青梅の街に散策へと繰り出した。
マーブロ名物「ワガママ観光ガイド」ね。
せっかく(ウチから)遠いところまで行くんだから、とウェブサイトで下調べをしておいた。
「古い映画の看板がたくさん飾っている街」…そうか、アレって青梅だったのか!と実は楽しみにして来たのよ。
それと、榎本さんからも情報を頂いて、まずは裏手の山の上にあるこの「青梅鉄道公園」に立ち寄った。

220私は鉄道には興味がないので中には入らなかったんだけど、こうして屋外に展示してある機関車などを眺めることができる。
「デゴイチ」ね。
一時期蒸気機関車ブームってのがあったよね。
こんなデカい鉄のカタマリが湯気で動くんだからスゴイよな~。
ちなみに蒸気機関を発明したジョージ・スティーブンソンはイギリスのノーサンバーランドの出身だ。
私がなんでこのノーサンバーランドを知っているのかというと、近くまで行ったことがあるから。
「Northumberland」と綴るんだけど、一発で読めなくて、当時Marshallに勤めていたエンジニアのスティーヴに笑われたので、かえって読み方だけは一発で覚えた。
ノーサンバーランドはニューキャッスルのチョット北に位置するイングランド最北の地域。
脱線。
ニューキャッスルのチョット南にサンダーランドというところがあるんだけど、熱心なロックファンの間ではFreeのライブ・アルバム『Free Live!』がこの街にあったホールとロンドンの南のクロイドンで収録されていることが知られている…かどうかは知らない。
で、2、3日前の東京新聞の夕刊に出ていたのがイギリスの特派員の方の話。
新聞社の海外特派員だから当然「英語の達人」なワケ。
ところがサンダーランドに取材に行って腰を抜かしてしまったという。
ナント、英語がゼンゼンわからなかったんだって。
ナゼかというと、訛りが強いことに加え、単語からしてロンドンなんかで使われている英語と全然違っていたのだそうだ。
津軽弁みたいなもんだね。
私もロンドンで乞食の英語がわからなくてホテルの人に標準英語に通訳してもらったことがあったが、それの比ではないようだ。
二ューキャッスル出身の人は「ジョーディ」と呼ばれていて、やはり訛りが強い英語を話すが、ブッ速いだけで、私にはそれほどキテレツなモノには聞こえなかった。
  
イギリス北部の珍道中はコチラ。
興味のある人はおヒマな時にどうぞ!
【イギリス-ロック名所めぐり vol.6】 サウス・シールズ(South Shields)
【イギリス - ロック名所めぐり vol.13】 Newcastle(ニューキャッスル)はよいところ
Shige Blog】イギリス紀行2012 その10~ニューキャッスル
【Shige Blog】イギリス紀行2012 その12~サウス・シールズ

230E10形式タンク蒸気機関車。

240vクモハ40054系。
私がかなり小さい頃、総武線ってこんなヤツが走っていたような記憶があるな。何しろ茶色だった。
「ク」は運転台つき。
「モ」は中間電動車。
「ハ」は普通車。
「4」は交直流。
「0」は通勤型あるいは近郊型の車両。
…とか意味があるんだよね。
昔の仕事で必要だったことがあって、ホ~ンのチョットだけ勉強したけど、「ム」しか覚えてない。
「ム」は無蓋車のこと。
要するに砂利なんかを積む屋根のついていない車両のことだね。

250山から下りて来て街の駐車場へ。

260おお~、さっそく!
『夕日のガンマン』って原題は『For a Few Dollars More』っていうのか…。
駐車場の係りのオバちゃんがまたヤケクソにいい人で色々と情報を提供してくれた。
何でも八王子から青梅にお嫁に来たというのだが、「青梅の方がゼンゼン好き!」とおっしゃっていた。

270駐車場の前のレコード屋さん。280vこっちは『シェーン』だよ。
西部劇が好きなのかな?
以前にも書いたことがあったけど、アラン・ラッド扮するシェーンって、ジャック・パランスとの決闘に勝って少年に別れを告げて去っていくでしょ?その後どうなったか知ってる?って話。
コレはサミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーの『交渉人』という映画の受け売りなんだけど、馬に乗ったシェーンが最後のシーンでどう見えるか…。
ご自分で確認してみてくだされ。
私は興味があったので、レンタルしてきて確認したわ。
かなりショックを受けたよ。子供の時に観たときと違う結末がそこにあったから。
しかし「詩情をたたえ秀麗とそびえ立つ名作西部劇の最高峰!」なんて固いコピーだな~。
昔はコレでよかった。

290西部劇だけじゃない。
『シェーン』の上は『ベニイ・グッドマン物語』。
「ベニイ」だからね…「犬神サアカス團」みたいだ。
もちろん観てるけど、私は『グレン・ミラー物語』の方が好き。
でも、コレ、そういえばベニー・グッドマンのお相手役を演じたのはドナ・リードなんだよね。
ジューン・アリソンよりドナ・リードの方が断然いいな。
「グッドマン」とは名ばかりで、結構根性が悪い人だったという話を聞いたことがある。
ちなみに、「チャーリー・クリスチャン」っていう名前を聞いたことがあるでしょ?
ジャズにおいては伴奏楽器だったギターをソロ楽器として使用して見せた大イノベーター。
今、メタルの皆さんがピロピロやっていられのも、もしかしたらチャーリー・クリスチャンがいてくれたからかも知れない。
そのチャーリー・クリスチャンはベニー・グッドマン楽団で有名になった。
この1930年あたりのジャズを「スウィング・ジャズ」という。
その後、1940年代に入って別のチャーリーが出現し、ジャズのすべてを変えてしまう。
チャーリー・パーカーが中心となって巻き起こした「ビ・バップ」のムーブメントだ。
ココからのジャズを「モダン・ジャズ」と呼ぶ。
300さて、街に繰り出すぞ~!

310おお~、そこら中にあるわ、あるわ!
また西部劇。

320フリッツ・ラングの『メトロポリス』ね。1927年に作られたSF映画。
コレ、大学の時かな?リバイバルで上映されていたけど観なかったな。
私にはBe Bop Deluxeで十分です。

330
コレのことね。
ライブ・アルバムの『Live! in the Air Age』。
高校の頃、よく聴いたわ~。
Bill Nelsonは結構好きだったが、今聴くとギター歪ませすぎでしょう?

1_bbd 邦画もちょくちょく混ざってる。
名作の誉れ高い小津映画だけど、私は苦手。
コレだったかな~?『晩春』っていうヤツだったかな~?
小津作品レギュラーの笠智衆の恩師が東野英治郎で、婚期を逃したその娘が杉村春子というキャストがすさまじかった。
だってみんな同じ年ぐらいでしょう?
…と思って調べてみると、笠智衆が1904年(明治37年)で年長。恩師ゆえズッと年上であるはずの東野英治郎が何と年下で1907年。
その娘役の杉村春子が1906年という強引な配役。
黒澤明だったら絶対にこういうことをしないだろう。リアリズムが一発で消し飛んでしまうからだ。
確か飛行機の中で他に観るモノがなかったんだよな。
ま、悪くはなかったけど、オコチャマな私には向かんわ。

335vん、コレはウマい!

345 傘屋さんに『雨に唄えば』だもん。
以前、水天宮に一階が傘屋さんで、その二階の喫茶店が「シェルブール」っていうのがあったけど、こういうのはよろしいね。
こないだデビ―・レイノルズがお嬢さんのレーア姫(キャリー・フィッシャー)とほぼ同時に亡くなったのには驚いたね。

340青梅駅。
改装中だった。
ソロソロお腹が空いてきたので、駅前に行けば何か食べ物屋があるだろうと思ったが、モス・バーガーが目に入るだけで目立ったお店はなし。
ココまで来てモスというのも芸がないので他を探すことにした。
ま、通りを歩いていればそのうち何かウマいもの屋に出くわすだろう…とタカをくくってしまったのが大きな間違いだった。

350駅前の八百屋さん。
「八百梅」なんていい名前だね。
ちゃんと「おうめ」って入ってるもん。

355vしかし…あまりにも人がいなさすぎる。
こんな光景を見たのは信州の飯山以来かも知れない。
そして、商店のほとんどがシャッターを下ろしている。
商店街が休みの日なのかな?

360あ、そうか!
ココ東京だったんだ。
あんまりノンビリしているもんだから忘れてた。
都議選の宣伝カーで小池さんの顔を目にして自分が東京都内にいることを実感した。
この森村さんという方は現職を破って当選したんだね。
政治のことには触れないでおくけど。

570そこかしこに出て来る映画の看板!
『百万長者と結婚する方法』ね。
マリリン・モンローにローレン・バコール、それにベティ・グレイブル…スゴイ時代だよな。
まだアメリカが、ハリウッドがヨカッタ時代の映画だ。

370コレは…「油屋」ってぐらいだから燃料屋さんだね。

380油だから『モダン・タイムス』。
コレもウマい!

390v薬屋さんには『Gone with the Wind』。
「風邪と共に去りぬ」…か。

395vコレは「青梅市民会館」。
50年の歴史を持っていたが、過日閉館した。
さっきの駐車場のオバちゃんはこのことを大層寂しがっていた。
今、青梅で最もにぎやかなのは、「まちの駅」という地元の特産物を販売しているお店で、何でもバスで乗り付けて来る団体客もいるとのこと。

396お、『グレン・ミラー物語』が出て来たよ。
またジャズの話で恐縮だけど、時代的に仕方ない。
「Moonlight Serenade」とか「String of Pearl」とか「Tuxedo Junction」とか、音楽好きの人なら世代を問わずグレン・ミラーの曲を聴いたことのない人はいまい。
この映画では飛行機の格納庫で演奏される(と思うのだが…)代表曲のひとつ「Chattanooga Choo Choo」は世界最初のゴールド・ディスクを獲得した。
それほど人気があった。
グレンミラー楽団にはその他にも「In the Mood」とか「Pensilvania 65000」なんていうヒット曲があるんだけど、ブルースなんだよ。
正確に言うと「ブルース形式」。
やっぱり日本とは音楽の環境とか下地が全然違うんだよね。
音楽の消費者の耳が肥えていたんだね。
これまで日本で一般の人までが口ずさむようなブルース形式の曲があっただろうか?
ソバ屋の出前までが歌ったという「Moanin'」がソレっぽいが、ブルースではない。
ちなみに、「Moanin'」を歌いながら出前をしているソバ屋を見たことがある人はいないらしい。
     
私はこの映画を何回観たかわからないけど、すべてのシーンが丁寧に、かつ可愛いらしく作られていてすごく好きなんだな。
特にリード・トランぺッターがリハーサル中にソロを終えてイスに座る時に譜面台に楽器をぶつけて唇を切ってしまうシーンがある。
トランぺッターにとって唇はサックスでいうところのマウスピースと同じ。
したがって唇を切ってしまったら吹くことができない。
主旋律を奏でるリード・トランぺッターが演奏できないとなるとバンドは成り立たない。
ところが公演は明日。
さぁ、どうするグレン!
…と、グレンは部屋にひとり閉じこもって五線紙を前にアレンジをし直す。
このシーンがアホほどカッコいい。
この映画の一番の見どころと言ってもいい。
ピアノで音を確かめながらベース・ラインの四分音符をキレイに五線紙に書きつけていく。
実はコレ、薄~く下書きがしてあって、キレイに書けるようになっているんだけどね。
そうして、仕上がったアレンジというのが、クラリネットが主旋律をオクターブ上で奏でるという手法。
コレを「Killer Diller Sound」といった。
「Killer Diller」というのは当時のスラングで「メッチャかっこいいもの」みたいな意味だったらしい。
こうして、グレンは予てからの「何か自分だけの新しいオリジナル・サウンドを確立したい」という夢をかなえ、大ヒットを飛ばしていく。
ああ、また観たくなってきた。
そのグレン・ミラーも第二次大戦中、戦地の慰問に赴く飛行機に乗ったまま行方不明になってしまった。
しかしですよ、いつも思うのは、日本軍がほぼ餓死状態の白兵戦を強いられている一方、アメリカはジャズのビッグ・バンドが戦地や基地を回って兵隊さんの応援をしていたんだからねェ。
余裕だよ。
最後に…「茶色の小瓶」っていう曲があるでしょう?
この映画でもその愛らしいメロディがラスト・シーンに効果的に使われていて観る者の涙を誘う。
で、この曲は19世紀のアメリカ人音楽家の作品なんだけど、元はアルコール中毒の夫妻の歌なんだって。
知らなかった!
 
『荒野の決闘』の原題は「My Darling Clementine」。
日本では「♪雪よ岩よ 我らが宿り」の「雪山賛歌」でおなじみね。 

400vまた小津に西部劇。

410草履屋さんは『哀愁』に『道』か…。
『哀愁』は後で出て来る。
  
「ザンパノが来たよ!」
ジュリエッタ・マシーナ演じるチョイと足りないジェルソミーナが子供ながらに憐れでね、『道』は小学校の時に観たきりだ。
『禁じられた遊び』とか、ああいう貧乏くさい映画がキライなのよ。
でもザンパノを演じたアンソニー・クインはすごく好きな役者。
『アラビアのロレンス』でハウェイタット族の首長、アウダを演じた時はカッコよかった。
他の部族はラクダなのに颯爽と馬に乗ってね。
戦争に翻弄されるドイツ軍の捕虜を演じた『25時』という戦争映画はすごくヨカッタ。
アレはまた観たいナァ。

420ビットリオ・デ・シーカか…このあたりはチト苦手だな。

430「キスする時は鼻が邪魔にならないのね?」…知ったことか!
『誰のために鐘はなる』ね。
それにしてもハラが減った。
誰かのためにラーメン屋のひとつぐらいあってもいいだろうに。

440『第三の男』は中学の時に岩波ホールに観に行ったっけ。

450イギリス映画かと思っていたらアメリカ映画だった『哀愁』。
『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ、すなわちビビアン・リーはイギリス人で、アメリカの男性は「イギリスにはこんな美人がいるのか!」とブッたまげたという…ということは以前にも書いている。
実は『哀愁』はMarshall Blogでは既に何回か登場している。
というのもこの作品の原題が『The Waterloo Bridge』だから。
テムズ川にかかる大きな橋の名前だ。

460コレがそのWaterloo Bridge。

1_img_0440上から見るとこんな感じ。

6a0163044657d3970d0167692e87da97_2 ま、『哀愁』というより、なんといってもThe Kinksの必殺の名曲「Waterloo Sunset」の方が今やシックリくるか。
「テリーとジュリーは毎週金曜日の夕方にウォータールー駅で落ち合ってデートをしているけど、ボクはめんどくさがり屋だから、テムズ川に沈む美しいウォータールーの夕日を部屋から窓越しに眺めているのがパラダイスなのさ」だとさ。

1_img_0441

中にはかなりアブなそうな看板も混ざっている。
上で紹介している映画の看板は、青梅の街に映画館があった頃、実際にその映画看板を手掛けていた久保板観さんの手によるもの。
1993年に開催された『青梅宿アートフェスティバル』というイベントで約20年ぶりに久保さんが映画看板を制作したのがキッカケとなったのだそうだ。
以来、街興しの一環として久保さんの描く映画看板で町を飾り続けている。
制作には明星大学造形芸術学部の学生も商店街とのコラボで看板づくりに参加しているのだそうだ。
経費も莫大なものになるのであろう、それぞれがかなり汚れてしまっているのだけはチョット残念に思った。

470vバスの停留所には当然『バス停留所』!

480v中はネコだらけ。

490青梅は「ネコの町」でもあったんだね。
でも小津。

500気が付くとそこらじゅうネコが主役の映画の看板がかかってる!
さっき紹介した『シェーン』のコピーが『ニャーン』では「猫をたたえる名作最高峰」になってる。
そういえばネコが主役の映画ってあるかな?
『ハリーとトント』ぐらい?
アレはいい作品だったね。

510v私が子供の頃に飼っていたネコは時々どこからか芋虫を持って帰って来て、それを見つけた母がいつも飛び上がっていたな。
ちなみに私はニョディー・フォスターと生年が一緒で誕生日が一日違いなのよ。

520まぁ、『ニャジラ』は出やすいだろうな。

530こんな電話ボックスとオブジェも。
その向こうは『怪猫二十面相』と『第三の猫』。

535vこんなのもあったよ。
カレーライスを食べているのか…マジでハラ減ったな~。
朝かなり早い時間に高速のPAで食べたきりだもんね。
タマがうらやましい。
でも、見事に食べ物屋がないんだよな~。

540看板の方はもう何でもアリだ。
『Bone with the Cat』だって。
どういうことなんだろう?

550v『用心棒』は『用心猫』にすればよかったのに…。
ちゃんとピストルを持った卯之助猫まで描かれているのがうれしいね。
「空腹はつらいよ」!

560しかし、このネコづくし、東京の東では谷中が有名だけど、押しは青梅の方が断然強いね。
私はネコにナンの興味もないんだけど、facebookなんかを見ているとネコ人気の高いことよ。
皆さんがよろこぶかな?と思って並べてみた。

575青梅にはまだフィーチュアしているモノがあるよ。
それは「昭和」。
アッコちゃんが案内してくれる。
『ひみつのアッコちゃん』で思い出すのはウチの家内。
アレ?コレ以前に書いたかな?
小学校低学年の時の図工の授業で、「母の日にちなんでお母さんの絵を描きましょう」というお題が先生から出された。
すると、ある友達が実に巧みにアッコちゃんの絵を描いた。
ウチの家内は素直なもんだから、その子のお母さんが本当にアッコちゃんみたいにカワイくて、すごくうらやましく思ったらしい。
そんなバカな…。
先生はそれを見てその友達に「ウソを書いてはイケません!」と叱ったという。
ところが、その子はガンとして描き直さなかった。
後日、ウチの家内がその子の家に遊びに行った時、とうとうそのお母さんと対面した。
そこで家内は腰を抜かして驚いた。
ナ、ナント、その友達のお母さんは本当にアッコちゃんソックリだったというのだ!
テレビなどでアッコちゃんが出て来るとウチでは必ずこの話になる。
家内もよっぽどビックリしたのだろう。
ラミパス、ラミパス、ルルルルル。

580世間ではやたらと「昭和の香り」だとか「昭和の雰囲気」とかいう表現を使うけど、一体どういうのが「昭和」なんだ?と私なんかは不思議に思うワケよ。
元号が変わればすぐに文化が変わるワケないんだからさ。
「古臭い」のが「昭和」なのか?
でも、コレを見ると…失敬ながら「昭和の香り」がするわ~。
典型的な金物屋さんのルックスだね。
今はみんなホームセンターへ行っちゃうんだろうけど、昔はこういう金物屋とか荒物屋っていうのが大抵街にあった。

590「染物と洗張」のお店。
コレは昭和だわ。
「洗い張り」って知ってる?
昔、多くの人が普通に着物を着ていた時代の着物の洗濯方法ね。
着物をいったんほどいて、水洗いをし、針の付いた竹ひごや張り板にピンと張り、糊付けしてシワを伸ばしながら乾かしていく方法がそれ…って、私は知りませんでした!
着物ってスゴイよね。
昔の人の知恵や昔のモノっていうのは本当によくできている。
ムダがないんだよ。
冒頭の梅干しだってそうだったでしょ?
600v昔はポストはみんなコレだった。

610vこういう路地はいいね。
「障子紙、千代紙 その他 和紙各種取り揃えています」
千代紙なんて今使う子供いるのかな?

615vこの路地なんか未舗装だよ!
昔はこんなの全く珍しくなかった。
突き当りは蔵だね。
蔵は東京の真ん中にはほとんど残っていない。
誰かさんが焼夷弾を落として全部燃やしちゃった。

630vね、歩いていると時折こうして蔵を見つけるのよ。

640
この二階のデザインはステキだナァ。
でも、いくらステキでもハラの足しにならんわ。
ハラ減った~。
下はカフェなんだけど、もうそんなんじゃガマンできません。
ガッツリ何かを食べないと!

620vこの手の建物がたくさん並んでいる。
千葉の佐原や栃木市の街並みにはかなわないけど、かなり古い建物が残っていてうれしいにゃ~。

650この家なんかスゴイよ。

660文化庁が認めるところの国の有形文化財だもの。
  
さっきの話、「昭和」と「平成」を区別するとしたら、インターネットと携帯電話が「なかった時代」と「ある時代」ということじゃないかな…なんて最近思うんだよね。
もちろん、この違いには利便性やら犯罪やら、色んなものが絡んでくる。
私はそうした機器の出現によってヘンテコな犯罪が増えるよりも、少しぐらい不便だって平和な方がいいいいと思うんだけどね。
だって、元々は携帯電話なんかなくたって何ひとつ困ることはなかったんだから!
でもMarshall Blogはできなかったね。
そうした場合、私は今ナニをやっていたのだろうか?

670こういうのがすごく好きでしてね~、見ていて全く飽きないんだけど、もうハラ減ってガマンできん!
時計を見るともう三時じゃねーか!
誰か助けてくれ~!

680…と苦しんでいたら、お~!「かつ」の文字が目に飛び込んで来た!
やった、天の助けだ。
トンカツだ、トンカツだ、トンカツだ!
ナニ食べようかな~。ヒレか、ロースか、ミックスか!
もうこうなりゃいくらでも払う。
エビフライも付けちゃおうかな~。タルタルソースはかけないようにしてもらわないとイカンぞ。
嗚呼、ここまでガマンした甲斐があった。
ごはんとキャベツがおかわり無料だといいな~。
食うぞ~!

690…と思ったら…。
オイオイオイオイオイオイオイ、「がまかつ」って…。
「釣り針」じゃねーか!
オレは魚じゃね~ッ!
ガックシ。
こうなりゃ「四六のガマ」のカツでもいいんだけど…。

700やれやれ、「青菜に塩」状態でどうしようかと思ってトボトボ歩いていたら、途中に鶏肉屋みたいな店があったのを思い出して行ってみた。
「シカゴチキン」か…そういえば、studio AMAZINGに来ていた人がウマい鶏を食わす店がある…とおっしゃっていたな。
でも、あまりに小さい店なのでよく見落として通り過ぎてしまう…とか。
…ということを思い出した。
チョットのぞき込んでみると、鶏のモモの素揚げみたいのが数本陳列ケースに入っていた。
もう大分前に揚げたモノなんだろう。
きっと冷たくてカチンカチンに違いない。
しかし、こっちはもう本当にお腹と背中がくっつきそうな程のハラの減りようだ。
この先いくら歩いてもナニもないのはわかっている。
そこで、思い切ってそのモモを食べることにした。
薄暗い店内に向かって「このモモ1本くださ~い」と声をかけると、恐ろしく元気のないおジイさんが出て来た。
大病をされたのだろうか…食べた後のモモ肉の骨のように痩せきっている。
ありがとうございます」…と言ったのだろうか?…500円玉を一枚渡してモモ肉と引き換えた際、あまりの小声で聞き取れなかった。

710v白い紙袋に入ったモモを受け取ると、コレが意外にあたたかい…どころか熱い。
予想に反して、ナント揚げたてだったのだ。
要するにモモ肉のから揚げだ。
さっそくかぶり付いてみると…コレが本当に気を失いそうになるぐらいウマかったのだ!
塩が効いていて香ばしく揚った肉はこの上なくジューシーで、通行人の目も気にせず、道端でむさぼるようにして食べてしまった。
イヤ~、おいしかった。
極度な空腹であったことを差し引いても、もしかしたら今年食べたモノの中で一番おいしかったかもしれない。
困ったのは食べた後の骨。
あたりにゴミ箱がないのだ。
次に入る博物館に骨をそのまま持って行って「捨ててください」とお願いしたら、「鶏肉屋に返して来い」と言う。
その指示にしたがって鶏肉屋に引き返し、さっきのおじいさんに骨の処分をお願いしたら快く引き取ってくれた。
「そうだ!」と思って、あまりにもウマかったモモ肉のお礼をそのおじいさんに向かって言った。
「オジさん、メチャクチャおいしかったよ!ありがとう!」
おじいさんは少しだけほほ笑んで何かを口にしたが、その言葉は小声すぎてやはり聞き取れなかった。
コレならまた食べに来てもいいな…と思ったほどだったのだが、店先に近々閉店する旨の張り紙がしてあった。
もったいない。
シカゴチキンのおジイさん、お疲れさまでした!

720骨の処分を断られたのがこの博物館。
立派な土蔵造りのこの建物は元は医院だったらしい。

730平成15年秋にオープンした赤塚不二夫の記念館。
赤塚不二夫自身や親戚は青梅に縁はない。
赤塚さんは新潟で過ごした青春時代に映画館看板の仕事をしていたことがあって、その符合を得てココに開館させたそうだ。

740私の世代は、「おそ松くん」にはチョット早いんだけど、「バカボン」、「ア太郎」、「アッコちゃん」はドンズバ。
「バカボン」は少年マガジンで、残りのふたつはテレビで見ていた。

760館内は一階に作品にまつわるディスプレイがセットされている。

770「レレレのおじさん」の声をテレビで初めて聞いた時って感動しなかった?
ホントにあんな声だったのかな?

780v展示を見ていると、『もーれつア太郎』関連の展示が思いのほか多いことに気付く。
ニャロメとかココロのボスとか脇役がシッカリしてたからね。

790「イヤミ」なんて実にいい名前だね。
そうそう、名作ってのはまず登場人物の名前がいいんだよ。
「シェー!!」はゴジラもやってたもんな。

800v中学の時かな?
約40年前、東京12チャンネルの「モンティ・パイソン」の余りの時間にタモリが出て来た時は驚いた。
こんなのあんの~?みたいな。
タモリが赤塚不二夫の家に居候していた話は有名だ。

810このア太郎のソノシート持ってたよ!
なつかしいな~。
このテーマソング、作曲がいずみたくで、父が感心していたのを覚えている。

820二階はときわ荘の再現や原画が豊富に展示されている。
原画は撮影禁止。
どれもスゴクきれいなのには驚いた。
赤塚不二夫のマンガって、背景が真っ白なコマがやたら多いんだよね。アレは背景を書くのが面倒だったのかな?
私はそうは夢中になったことはないが、スゴク尊敬している。
手塚治虫をビートルズに例えるなら、赤塚不二夫はジミ・ヘンドリックスだと思っている。
そのココロは「誰もやらないことをやった」というオリジナリティへの畏敬の念だ。
今、アニメも音楽も赤塚不二夫ほどにクリエイティブなスタイルを作り上げる人はいまい。

830青梅赤塚不二夫会館のとなりが…

840『昭和レトロ商品博物館』だ。
文字通り昭和に活躍した様々な商品が陳列されている…というんだけど、チョットこわかった。
だって、こちとら昭和の中頃の生まれだからして、そうした人様からは「レトロ」と扱われているアイテムが全然当たり前のモノに感じられるかも知れないじゃん?
それでも忘れていたものがたくさんあって面白かった。

850ハッハ~!
「こうだった、こうだった!」というようなモノがズラリ。

860目に留まったのがコレ。
「昆虫採集セット」ってのはいくつも買ったな~。
考えてみれば残酷な話で、コレのおかげで犠牲になったセミはかなりの数に上るぞ。
この赤だの青だのの怪しい液体。「防腐剤」とかなんとか言ってたけど、一体何が入っていたんだろうか?
そういえば、コウモリって東京では全く見なくなったね。
昔は夕方になるとチラチラと空を飛んでいたんだけどね。
  
それとこの定規のセット!
新しいデザインの入れ物で発売されると毎回欲しくなっちゃってサ。
私はだらしないもんで、分度器とか三角定規とかたいてい何かを失くしてしまって、「セット」になっている期間はいつも短かった。
そういえば、分度器なんてもう何年も使ってないな。

880鉛筆削りなんてものがこの世にあることを忘れていたよ。
このチェックライターも見なくなったね~。

870コレは輸入薬品か。
デザインがカッコいい。

890「ポン」ね、ポン。
若い人は信じられないだろうけど、我々はこの牛乳のフタでずいぶん遊んだよ。
どうやって遊ぶのかというと、自分のポンと相手のポンを二枚重ねて、ヒックリ返した手の人差し指の爪でポンの端を上から押し込むようにしてはじく。
うまくやればポンがひっくり返る。
これを相手と交互に繰り返す。
二枚目をひっくり返した選手は手のひらを広げてその二枚のポンにタッチする。
タッチできれば勝ちで、相手のポンをゲットすることができる。
タッチできなければまた最初から始める。
みんなそれぞれ簡単にはヒックリ返されない強いポンを持っていて、負けが続くとソイツを出して来て勝負をかける。
要するに、フタの端が反り返っていなければなかなかヒックリ返らないワケ。
…ってんで、「修行」とか言って、フタの端を踏んづけてペッチャンコにしたりしてね。
ナンでこんなコトがおもしろかったんだろうな。
でも少なくとも「何とかDS」や携帯電話よりは健康的で経済的だ。
今になって考えてみると、コレってもしかしたら乳製品会社の販売促進策だったんじゃないのかね?
「ドンドン牛乳を飲んでフタを集めましょう」みたいな。
今、ポンどころか牛乳ビン自体見かけないもんね。

900今私にとっての「ポン」はもっぱらこちらのお方!

910vゴミ箱。
こんなものが懐かしく思えるようになるとはナァ。
小さいね。
使い捨ての現在、これじゃ小さくてとても間に合うまい。

920ウワ~!
コレ、大キライだった!
「吸入器」っていうんだっけ?
風邪を引くとコレをやらされてね~。
何やらクスリを温めて蒸気にして、それを吸ってノドに送り込む。
それほどやった記憶はないんだけど、ナゼかその薬の味は覚えてるぞ。
クスリを飲み込むワケでなし、ズッと口をあけっぱなしにしているもんだからビチャビチャになっちゃってね。
アレ、果たして効果のほどはどうだったかな?
でも何となく真空管に共通項を見出せる感じの前時代的なデザインがカッコいいな。

930少し離れたところにあるのが『昭和幻燈館』。
「幻燈」なんて死語だよね。
『青梅赤塚不二夫会館』、『昭和レトロ商品博物館』とこの『昭和幻燈館』、それぞれ入館料を取るんだけど、3館共通券というのがあって、800円で全部回れるようになってる。

940ホラここにもネコ。

950ココは「レトロ」の別館で2015年に展示を新しくして生まれ変わったのだそうだ。
入って右側に展示しているのが青梅の街のジオラマ。
コレは駅前の夜景。

960コレはネコの街だけど、昔はこんな雰囲気だったのかしらん?

970昔の映画館って立派だったんだよね。
アールデコ調の建物が多く、ロンドンなんかは今でも営業している映画館があるよ。
浅草はもう何もなくなっちゃった。

980その他、「Q工房」という墨絵画家の有田ひろみさんとぬいぐるみ製作家のちゃぼさんの作品が展示されている。

990モチーフはネコ。
愛猫家にはタマらないんじゃないの?ネコだけに。

1000イヤ~、結構歩いたな。
ま、結果おいしいものも食べたし、久しぶりに激古い映画も思い出したし、充実の一日だった。
駐車場に戻って来ると、さっきとは違う年配の女性が係りをしていて、また少し話し込んだ。
昔は青梅もにぎやかだった…なんて話から、「この先を左に曲がった路地には映画館が三軒もあったんですよ」と聞いて驚いた。
そこを通りかかった時にそれっぽい雰囲気が全くなかったので、ワザワザ見に行ってみた。
それが下の写真。
信じられん!
でも、私が小さい頃はそこらの商店街の中に平気で映画館があったもんですよ。
駅前のデパートの中に映画館が三つも入っていたりとかね。

1010そして、最初に戻って…大二さんのドラム。
やっぱり好きだ~。
三日前にクレイジーケンバンドの小野瀬さんと四人囃子の曲だけを演奏するライブに行ってきたけど、最高だった。
やっぱり、大二さんは四人囃子の曲を演奏している時が一番楽しそうだな。
そのドラミングは本当に歌を歌っているようなのだ。
私もずいぶんたくさんのドラマーを見て来たけど、こんなに音楽を感じさせるドラマーって他にいないと思うんだよね。
若いドラマーはゼヒ参考にして欲しいと思うよ。
あ、ドラムはNATALね。
  
ところで今日の記事、期せずしてMarshall Blog史上最多の写真掲載数となった。

1_img_0330

1965年創業のNATAL(ナタール)はMarshallのドラム・ブランドです。

M_natal_square
★NATALの詳しい情報はコチラ⇒NATAL Drums Official Web Site(英語版)
★NATAL製品は全国有名楽器店にてお求めください。
★NATALドラムは高田馬場バズーカスタジオでお試しになれます。バーチ、メイプル、そしてアッシュのキットの他、各種スネアドラムも用意しています。ドラマーの方、「NATALの部屋」ご指名でお出かけください。
詳しくはコチラ⇒バズーカスタジオ公式ウェブサイト

  
(一部敬称略 2017年6月20日 青梅にて撮影)



2017年5月31日 (水)

CROSSWINDの未発表ライブ音源とLo-Dプラザの思い出

よくMarshall Blogに書いていることだが、「虫の知らせ」的な現象がやたらと身の回りで起こる。
別段困ることは何もないのだが、あんまり手の込んだヤツになるとさすがにうす気味悪くなる。
コレがラッキーな知らせだったら大いにありがたいのだが、そういうのはほとんどやって来ないね。
何かがキッカケで普段はまったく興味がない宝くじを買ったら大当たりしちゃった!…「ああ、アレは虫の知らせだったんだね~」みたいなヤツ。
来いよ、虫!
寄ってくるのはハエか蚊ばっかりじゃんか!
イヤ、知らず知らずのウチに「ラッキー虫の知らせ」も受けているのかも知れなくて、それに気が付いていないだけなのかもしれない。
また、人間はどちらかというとアンラッキーな事象に「虫の知らせ」を当てはめたがる習性があるのかも知れない。
今日の話はラッキーな部類に入るだろう。
それはこういうことだ。
私はよくジャズのピアノ・トリオを聴くのだが、好きなピアニストのひとりにKenny Barronという人がいる。
先日中古CD屋で目に留まったBilly Cobhamがリーダー名義のピアノ・トリオ盤『The Art of Three』に参加しているピアニストがKenny Barronだったので早速買ってみた。ベースはRon Carter。
コレが存外によくて、時々CD棚から引っ張り出しては聴いている。
で、数日前もこのCDを聴いていたのだが、その日は何となくBilly Conhamのドラミングがすごく気になった。
バックをやっている時は、何とも言えない硬質なスウィング感がとても気持ち良いのだが、ひとたびソロになると、やかましいというか、落ち着かないというか、場所違いというか、「コブさん、今演ってんのマハビシュヌではありませんよ!」と横から耳打ちしたくなるような感じ?
ま、それもこの人ならではのスタイルなんだけどね。
そこから、ますます気になり出して他のBilly CobhamのCDに乗り換えた。  

A3_2耳タコの「Stratus」を聴くのが辛いので、ファースト・ソロ・アルバムであるところの『Spectrum』は今回敬遠させていただいて、メッチャ久しぶりに2枚目のソロ・アルバムなんぞを聴いてみた。普段はまず聴くことのないアルバムだ。
その翌日のことだった。
ある友人から連絡があり、故小川銀次さんのバンド、CROSSWINDの未発表音源をクラウドファウンディングで制作することになったというのだ。
チョット、ビックリでしょ!
なぜなら、Billy Cobhamの2枚目のソロアルバムのタイトルが『Crosswinds』だからだ。

Cw2その新譜の音源というのは、かつて有楽町にあったLo-Dプラザでのライブ演奏を収録したものだ。
Lo-Dプラザは過去何回かMarshall Blogに登場しているので、熱心なマーブロ読者(そんなのいるのか?ありがたいことにいるんです!)は実際に行ったことはないにしても、名前を耳にしたことがあるかも知れない。
今日はそのLo-Dプラザのお話から。
チっ!こんなことになるなら今までチビチビ書くんじゃなかったよ…ということで、もう一回ちゃんとおさらいしておこう。
なんとならば、その連絡をくれた友人というのは、このLo-Dプラザでエンジニアをされていた方なのだ。
  
何か月か前に「ポタフェス」というポータブル・オーディオの展示会のレポートを掲載したでしょ?
なんとマァ、音楽やギター・アンプだけでなく、オーディオ機器のスタイルもデジタル・テクノロジーの革命を経て、すっかり変わり果ててしまったことに私は驚いてしまったワケだけど、40年ぐらい前は音楽を聴く時はチャンとしたオーディオ装置、いわゆる「ステレオ」で鑑賞するのが普通だった。
それがウォークマンの登場以来、アレよアレよと小型化が進んで、今では何もかも「こんなに小っちゃくなっちゃった!」状態になってしまったのはある意味残念なことだと思っている。
私も初代のウォークマンを手に入れて以来、40年近くの間その手のポータブル・オーディオの恩恵を受けているので、決して悪く言うつもりはないのだが、せめて家で音楽を聴く時は大きなスピーカーを鳴らす正式な再生装置を使うべきだと思っている。
時代が変わったといえばそれまでなのだが、昔はオーディオ機器もひとつのステイタスだったんだろうね。居間にステレオがあるのが当たり前の時代。だから50年ぐらい前のステレオは家具調だった。
こんなヤツ。
この電話器!ウチもコレだった。
でも、何もステレオの上に電話器を置くことはないと思うのだが…。
ウチは違ったけど、昔は玄関に電話器が設置してあった家をよく見かけた。アレはどういう理由からだったんだろう?

Cst そういう時代だったので、各家電メーカーがそれぞれ独自のオーディオ機器ブランドを持っていた。
コレも以前にも書いたけどね。忘れていませんよ。
三菱はダイアトーン(スリー・ダイヤだからね。岩崎弥太郎のステレオだ)
松下はテクニクス(当時は「松下電工」だった。雷門の提灯をありがとう!)
東芝はオーレックス(東芝にもそんな時代があった。毎年武道館でジャズ・フェスまでやってたんだから!)
サンヨーはオットー(親亀コケすぎ。三洋電気もろともなくなってしまった)
シャープはオプトニカ(ココも目の付けどころがちょっとマズかったか?)
…ってな具合。
DENONは「デンオン」と読んだし、KENWOODはTRIOという名前だった。
TRIOなんてレコードもやっていて、一時ECMを配給していたもんだから私が持っている『Travels』ぐらいまでのPat Methenyの初期のLPは全部トリオ・レコード製よ。
そして、日立。
日立のオーディオ機器ブランドは「Lo-D(ローディ)」という名前だった。
すごいよね、発電所のタービンやジェネレーターやエキサイターを作るメーカーがステレオのブランドを持っていたんだから。
こうした高速回転する重量のある発電機器を設置する時には「グラウト材」という特殊なセメントを使うんだ。
どうする?「セメント」で脱線する?それとも「発電所」?いくらでもできるよ。
でも、今日はやめておこう。
さて、Lo-D。
名前の由来は「Low Distortion」なのだそう。
ASTORIA CLASSICみたいなもんだね。ASTORIA CUSTOMは当たらない。
それで、各メーカーはそうしたオーディオ機器のデモンストレーションをするために、大都市にショウ・ルームを展開したんだね。
SONYビルなんてのはそれの親玉みたいなもんだ。
で、日立は有楽町のフードセンター(現銀座インズ)という高速道路の高架下に「Lo-Dプラザ」というショウルームを設置したというワケ。
コレがいつ始まったのかはわからないんだけど、クラスメイトの安藤君に教わって私が初めて行ったのは1976年ぐらいのことだったと思う。
私は最初映画キチガイだったので、有楽町にはなじみがあり、とても行きやすかったのだ。
ずいぶん通ったよ。
当時は土曜日にも学校があったので、日曜日になると毎週有楽町に足を向けた。
ナゼかというと、Lo-Dプラザには、オーディオ機器の視聴用に無料で聴けるレコードがたくさんあったからなのだ。
当時はLPレコードが一枚2,500円。
2,500円といえば子供にとっては大金だ。
大人になった今でも大金なのが情けなくもあり、不思議でもあり…。
当然YouTubeなんてあるワケがないので、今みたいに聴きたい音楽を無料で聴くなんてことは一切できなかった。
「もっと色んなレコードを聴きたい!」という欲望はもちろん激烈に強かったが、「不便」だと思ったことは一度もなかったし、音楽はお金を出して手に入れることに何の違和感もなかった。今でもそれが当り前だと思っている。
時代はまだCDが一般化するより十年も前の話で、「レンタル・レコード」なんていうのが登場するのはそれから四年ぐらい後のことだ。
だから、Lo-Dプラザに行って、レコードをそこで借りて、まったく買う気のないオーディオ機器を試すふりをして、次に買うべきレコードの下調べやロックの勉強をしたワケだ。
今にしてみると、何に興味を持って聴きに行っていたのかはほとんど覚えていないのだが、一枚だけハッキリと記憶しているのはサディスティック・ミカ・バンドの『ライブ・イン・ロンドン』だったが、何回か貸してもらって聴いたものの結局LPは買わずじまいだったな。
そうやって買った一枚のLPを大事に大事に何回も聴いたものだった。
不幸にして買ったLPが気に食わない内容だったとしても、ひたすら聴き込んで強引にお気に入りにした。
Cld
Lo-Dプラザにはスピーカーから盛大に音を出して聴く小部屋があって、日曜日はいつも満室で順番待ちだった。
一方、ヘッドホンを使って聴く装置が何台も並んでいて、私はいつもこっちだった。
他にもラジカセ等の小型オーディオ機器をディスプレイするコーナーや高級オーディオを体験するリスニング・ルームがあったのを覚えている。
…と、こんな説明をするより、その友人から写真をお借しりて、ココでお見せすればどんな様子だったかが一目瞭然なのだが、奇妙なことに写真がまったく残っていないらしいのだ。
今ならチョチョイとスマホで撮って残しておくところだろうが、昔は写真一枚撮るにしても、カメラを持って行って、撮影して、写真屋にフィルムを持って行って現像してもらわねばならなかったのだから大事だ。だからそう簡単に写真に残しておくなんてことなどできなかったんだね。
  
チョット脱線になるが、このLo-Dプラザの奥に「モーニング・サン」という輸入&中古レコード屋があった。
今はもう見る影もないが、昔は数寄屋橋の西銀座デパートとSONYビルの地下にハンターがあって、レコード好きにとっては有楽町も捨てたモノではなかった。
数寄屋橋のハンターは私が学校を出て就職した頃でもまだ残っていたな…と言っても1985~1986年ぐらいの話だからもう30年も経ってるか。
下の写真は数寄屋橋のハンターがあった場所。
私は14歳か15歳の時にココで生まれて初めて中古レコードというものを買った。ELPの『Tarkus』だった。
昔はこんなにきれいな内装ではなかった。

C2img_2499 ハンターは規模を拡大し、上の写真から50mほど離れた場所にもう一軒店を構えた。
そこで手に入れたのが下のTony Williams Lifetimeの『Energency!』。
大学の頃、どうしてもコレが手に入らなくてネェ。聴きたくて、聴きたくて…まんじりともしない日々を送っていた。
それがある日、その新しい方のハンターで発見したのだ。
まだカウンターの中にあって、値札も付いていない状態だったのだが、頼み込んで何とか売ってもらった。
当時は万単位のプレミアが付いていたやに聞いていたが、1,400円だった。
「へへへ、コレだから中古レコードはやめられまへんナァ」とか何とか言いながら家に持ち帰ったのではなかろうか?
で、聴いてガックシ。期待しずぎちゃったんだね。
今ではCDで簡単に手に入るが、コレはまだCDが世に現れる前の話。

C0r4a5836 まだ脱線中ね。
さて、そのLo-Dプラザの奥にあった「モーニング・サン」というレコード屋、いつまで営業していたんだろうか?
気が付いてみるとなくなっていて、洋品店になったのかな?
それでも二枚ほどその店でレコードを買ったことがあった。
一枚はコレ。
King Crimsonの『Earthbound』。
やっぱり15、16歳の時だった。
コレも以前に書いたことがあったが、当時このアルバムは音質が劣悪ということで国内盤が制作されておらず、聴くためには輸入盤を手に入れるしかなかった。
どうしても聴きたくて、Lo-Dプラザに行ったついでに、多分このお店で探したんだろうね。
店員さんが「ボク、何を探してるの?」…ま、本当に「ボク」と呼ばれたのかどうかは定かではないんだけど、とにかく店員さんに話しかけられて、「あ、キング・クリムゾンの『アースバウンド』です」と答えると、「あ~、今ないな~。イギリスから取り寄せてあげるよ!」と言うではないの。
「イ、イギリスから!?」とかなりビビった。
だって、コストがどれだけかかるかわからないじゃない?…と心配していたら「値段は普通のレコードと同じ」だというのでお願いすることにした。
すると今度は「やっぱりIsland盤がいいんでしょ?」と来た。
「あ、あいらんどぉ?」
こっちはロックを聴き始めて数年の15、16歳の子供だ。何のことかサッパリわからなかったが、「ええ、マァ…」と答えておいた。
そして、数か月後に「入荷した」という連絡を受けて手に入れたのが下のIsland盤の『Earthbound』。
2,000円だった。消費税などない時代のお話し。
Cimg_0096

もう一枚はKevin Ayers他の『JUNE1,1974』。
コレも聴きたかったのだが、当時国内盤は廃盤になっていてどうにも手に入らなかった。
それで、もう勝手がわかっていたので、コレは「モーニング・サン」にこちらからお願いしたような記憶がある。
私はこのアルバムでPeter Ollie Halsallという素晴らしいギタリストを知った。やはり15、16歳の頃。
世間的には決して貴重品というワケではあるまいがそれぞれ青春の思い出のアイテムとして今でも大切に保管してある。
私の青春はロックだったから。

Cimg_0097

話をLo-Dプラザに戻す。
そのオーディオ機器ブランドの戦国時代、Lo-Dプラザが他のブランドのショウルームと大きく異なっていたのは、今でいう「ライブ・スペース」があって、歌謡曲からロックまで広範囲なジャンルにわたるアーティストが頻繁に出演していたことだろう。
当時私は国内のアーティストにほとんど興味がなかったので、満員になっているそのスペースを横目に見て、「ああ、また今日も誰か出ているのか…」程度のものだった。
それよりも自分の聴きたいレコードの方が優先だった。
当時はこんなプログラムを発行していたそうなのだが、見事に記憶がない。
「ヤングと音楽のふれあう広場」だもんね。
「ヤング」か…。
名実ともに「ヤング」もずいぶん遠くなったもんだ。
人間、ヤングよりオールドの時期の方がはるかに長いということを知るのは、オールドになってからなんだよな~。
右は1981年8月の発行。表紙の人…有名な方なのかな?こんな二重アゴの写真、今なら絶対NGでしょう。ノンビリしてたナァ。
左の人が肩からブラ下げているのは日立製のウォークマンか?
ヤケにデカいな。
あ!今気が付いた!
このお姉さんが右手をかけている白い複数の板!
このケースにレコード・ジャケットが入っていたの。
コレをめくっていって気に入ったレコードを探す。ケースには番号が付いていて、その番号を受け付けのお姉さんに伝えると当該のレコードを出して来てくれる…というシステムだった。
Cpg
さらにLo-Dプラザがスゴかったのは、抽選で当たった10人のお客さんに16チャンネルのミキサーが設置された客席に座ってもらい、目の前の生の演奏をマルチで録音させていたのだ。(ミキサーを8チャンネルで使う時は20名)
録音媒体はカセット・テープ。
当然、そこで売っている日立Maxellのモノを使用する。
私は高校の時にコレを二度ほどやらせて頂いた。
ひとつはPANTA&HAL。
実はこの時は生の演奏ではなくて、卓に8チャンネル分の音源が送られてきて、それをミキシングして、その場で2チャンネルにトラックダウンするというものだった。
正確な演奏日時はわからないが、まだ『マラッカ』をリリースする前だったのだろうか?「マラッカ」の歌詞がレコードとは異なっている。
まだ今さんがHALにいた頃で、卒倒もののすさまじいギター・ソロを聴かせてくれている。
特に「マーラーズ・パーラー」のオブリガードは人間ワザとは思えないほどの出来で、ずいぶんコピーさせて頂いた。
もう一回はBAD SCENEだった。
この時は本当の生の演奏で、3曲演奏した後、BAD SCENEに銀次さんがジョインして更に3曲を演奏した。
どの曲も銀次さんらしいプレイにあふれていて、とりわけ「Rising Dream」のソロはあまりにも素晴らしい。Maj7thのアルペジオがクロマチックで上がっていくアイデアがカッコよくてね、コレも高校の時にコピーさせて頂いた。
下がその時のカセット・テープ。
アレ?富士フィルムのテープだね。
ったく、エチケットを知らねーな、若いヤツは!って、私ですわ。
とにかく大切な宝物のひとつ。
しかし不思議なのは、実施日が異なるのにどうして同じテープに音源が収まっているんだろう?
二回分を考慮して初めから90分テープを用意していたワケはないので、「PANTA&HALのテープにまだ空きがあったな…」とワザワザ家から持って行ったのだろうか?
あの頃はカセット・テープだってそう安くはなかったからね。

50

これでLo-Dプラザがわかった。
そして、今回のCROSSWINDの未発表音源は、1981年9月13日、1982年1月30日と5月15日にLo-Dプラザに出演した時のモノが収録されているのだそうだ。
私の友人がその音源を蔵出しし、ナント35年ぶりに陽の目を見ることになる。
下はLo-Dプラザのステージで演奏するCROSSWIND。
こんなだったかな~。もっと広い感じがしたんだけど。
そうそう、各ミキサー卓に「録音中」っていうサインがついていたな。

Ccw4 下の写真は渋谷の屋根裏ね。
しかし、こうしてみると屋根裏もいい加減小さかったな~。
でも、そんな感じはまったくしなかった。
私は高校二年の時にこのステージで銀次さんを観たことがあった。
RCサクセションで活動していた時のことだ。
大ブレイク寸前で、当時屋根裏でもっとも集客力の大きい二大バンドのウチのひとつだっただけに息もできないほどの超満員だった。
もうひとつの人気バンドはPANTA& HALだった。

Yu_2

持っているクラスメイトにカセットに録音してもらってよく聴いていたので、私はCROSSWINDのレコードはとうとう買わずじまいだった。
銀次さんのギターが殺人的にカッコよくてね~。
2001年の『マーシャル祭り2』にご出演頂いたのも、その時分のあこがれ感によるものだった。
結局大分後になってCDを買い込んだ。
「フュージョン」と形容するにはあまりにもハードなサウンで、当時の日本のロック・シーンでは他に類を見ないバンドだった。
日本人ばなれしていてジャケットもいいよね。真ん中のセカンド・アルバムなんてまるでフランスのAngeのアルバム・ジャケットのようだ。

60そして、今回のアルバムは今はやりのクラウド・ファンディングでの制作となる。
クラウドファンディングっていうのも私のような古い人間から見るとナンカ違和感のカタマリなんだよね~。
この手法について深い知識を持ち合わせているワケではないので大言は控えるべきだが、要するに「カンパ」っていうことなんでしょ?
私なんかが思うには、本当にいい音楽なら、やっぱりレコード会社が率先して作るべきだと思うんですよ。
そんなにね、誰も彼もが音楽をやったって、いいモノができる可能性なんか万にひとつもありゃせんって。
コレね、音楽だけじゃなくて、今の世の中何でも同じで、食べ物なんかもそうなんだけど、いいモノを教えないからドンドンおかしなモノばかりになってるんだよ。
それで、そのおかしなものばかりの中でラクして商売をしようとするから、ますます状況が悪くなっているんだと思う。
音楽に関して言うと、傍で見ていて今の若い人は本当に憐れだと思いますよ。
いい音楽を厳選して、レコード会社がコッテリと金をかけていいモノを作るだよ。
とにかくミュージシャンがタオルやシャツやチェキを売らなければ生活できないような状況を打破してやらないと!
「ミュージシャン」という職業は自分たちだけのいい音楽を作ってそれを形にすることなんだから。
断じてタオルやシャツを作って売るのが仕事ではない。
ま、古いと思ってもらって結構。
とにかくコンピュータの利便性が「無償」を武器に、「風情」どころか「芸術」までも壊滅的な状態に追い込んだことを人類はよく見つめ直すことですな。
私は「CD」というフィジカルな製品がある限り、それを支持します。
お、ナニが言いたかったかというと、小川銀次のような不世出のギタリストが作った音楽をナニが悲しくてカンパで形にしなきゃならないのか?ってことよ。
久しぶりに毒づいてみたけど、逆らったところで時代の趨勢にかなうワケがないこともわかってる。
結果、形はどうあれCROSSWINDの新しい音源が世の中に出て来ることは大歓迎であることは間違いない。
私は内容を耳にしているワケではないが、この時点で既にひとつ言いたいのは、「若い人」、特にひとりでもの若いギタリストやギターの勉強をしている人たちに聴いてもらいたいということだ。
銀次さんのギターを通じて「オリジナリティ」という言葉の意味を自分なりに分析してもらいたいと思う。
Cwc
さて、そのクラウドファンディングの案内がこの動画だ。
6月2日から出資者を募るそうだ。
興味のある人はゼヒご参加あれ。

今年の8月で三回忌を迎える銀次さん。
このプロジェクトがその三回忌に合わせた動きであることは言うまでもない。
また、「CROSSWIND」という唯一無二のバンドの名前を後世に残すことを目的にもしている。
さらに、経費を差し引いた売上金はすべて銀次さんの奥様のご遺族に贈られるとのことだ。
  
今日は過去の記事と内容が重複してしまうので銀次さん自身のことについてはほとんど触れなかった。
代わりに銀次さんの思い出や関連情報を掲載した過去のMarshall Blogの記事を紹介しておく。
★【訃報】 小川銀次さんのこと

★Ginji Lives!~小川銀次、新譜をリリース!

10v_2※今日のバナーは、銀次さんが2001年の『マーシャル祭り2』にご出演された際、JCM2000 DSL50をステレオでお使いになられたことより現行のDSL100の図柄を採用しました。

(Marshall並びにMarshall Blogは記事内のクラウドファンディング事業には関わってはおりません。ご質問他、いかなるトラブルも関知いたしませんこと予めご了承ください)

2017年4月12日 (水)

チケットは楽し。青いのキライ。

何かを集めたくなるのは基本的に男性特有の習性なんだってね。
まったくそういう「収集」に興味のない人も見かけるけど、私の周りの皆さん、すなわちミュージシャンとか音楽ファンの方々は間違いなく何かを集めている。
もちろんCDとか、レコードとか、ミュージシャン・グッズとかいうアイテムが対象ですな。
私も集めて並べるのが大スキ。
買って、集めて、並べて…意味がわかんな~い、なんていう若い人もいるかもしれないが、「意味なんかない!」。
ただ好きなのだ。
でもね、ホントにこの「何かを集める」ってのは金と時間がかかる。
一番の問題は入れ物と置き場所なんだよね。
段ボールに入れてしまって積み上げていたら面白くも何ともないし、並べて置けば場所を取るし…。
モノに固執せず、何の未練もなくポイポイと処分できちゃう人がうらやましくて仕方ない。
しかし!
我々収集族は、コレクションに大きな楽しみがあることを知っている。
ひとつはもちろん「収集」するという楽しみ。繰り返すが「収納」という苦しみも付きまとう。
もうひとつは「思い出」なのよ。
「心はかたちを求め かたちは心をすゝめる」…コレはマーブロに時々出てくる近所の仏壇屋のキャッチ・コピーだが、ま、そういうこと。
何か形に残しておくと、それにまつわる思い出が残りやすい。
よく海外の映画で家族が残した「形見」を大切にしているシーンが出てくるでしょう。
例えば『パルプ・フィクション』にクリストファー・ウォーケンが戦争で捕虜になった時、おじいさんの形見の懐中時計を没収されないように肛門に入れて守り通したというシーンが出てくる。
このクリストファー・ウォーケンの表情が最高に面白くとても印象深いシーンだった。
我々は近親者を亡くすと墓に収めて、成仏を願い、盆暮れ等に墓参りをして故人を偲ぶ。
しかし、西洋の人たちはコレをやらないんだよね。
少なくともイギリス人はよほどのことがない限り墓参りしないと聞いた。
ではいつ墓参りに行くのか?と尋ねたところ、思い立った時に自由に花を持って墓地に赴き、墓前にぬかずくとのことだった。
その代わり、彼らは故人の形見や写真を肌身離さず、あるいは家の目立つところに置いておいて、いつでも大切な人のこと想いだせるようにしている…というワケ。
何でこんな話になった?!
あ、そうだ「思い出」だ。
つまり、コレクションのひとつひとつには思い出が詰まっていて、それを見たり手にしたりすることで郷愁に浸ることができるのね。
もちろんすべてのアイテムに思い出が込められているということはないけれど、中学時代に買ったLPなんかを手にするとその当時の色んなことを思い出すよ、私は。
その「思い出させアイテム」の重鎮のひとつにコンサート・チケットの半券がある。
集めている人は決してすくなくないハズだ。
最近、facebookでかなり昔のコンサートの半券の写真を投稿されている方を見かけるが、すごくうらやましい。
というのは、私も1976年のRitchie Blackmore's Rainbowの武道館公演の半券を振り出しに、中学&高校時代にお小遣いをはたいて見に行った外タレのコンサートのそれをすべてコレクションしていたのだが、大学に上がった時にした引っ越しの際、父が誤って全部捨ててしまったのですわ。
ウチの父は私と正反対でナニひとつ集めるということをしない人だったから。
とても残念だったけど、悔やんでも仕方ない…。
ということで、キッパリ諦めたけど、知らないうちにまたこんなに集まってしまった。
仕事の関係でご招待頂いたコンサートのチケットの半券。
チャンと保存してるのです。
「意味わかんな~い」って?意味なんかない!(←松川さん、コレ重宝してます)
コンサートに取材に行ってチケットを用意して頂くのは稀なことで、バックステージ・パスを発行して頂くのが普通。それでもすぐにこんなに集まってしまう。
だから、バックステージパスのコレクションたるや、コレの10倍ぐらいになるかもしれない。イヤ、もっとか?段ボール箱ひとつパンパンになってる。
  
今回のコレを機にチラチラとチケットをチェックすると、やっぱり色んなことを思い出すナァ。
今もバリバリに活躍されているバンド、解散したバンド、どうしているのかサッパリわからないバンド…悲喜こもごもですナァ。

10

中にはこんなのもあるんよ。
ロンドンで観た『Mary Popins』。

20コレはイギリスの国鉄のチケット。
「RETURN」とは「往復」という意味。片道は「SINGLE」という。

30おなじみのロンドンの地下鉄のチケット。
2011年6月27日はラッシュアワーを除いて自由に乗り回すことができるというヤツ。
ZONEが6までの最強のヤツだから、おそらく在英最後の日だったのだろう。つまりコレでヒースローまで地下鉄で行ったということ。

20r4a0278 チャーチル博物館。

40コレは見にくいけど、サンディエゴで観たDave Matthews Bandのチケット。
比較的に厚い紙に銀色の文字を使っている豪華版。
Dave Matthews Bandは一時アメリカで一、二を争う人気バンドだったけど、日本ではウケなかったネェ。
私もまったく苦手だった。
このバンドのドラマー、Carter Beaufordってのメッチャすごかったけど今ナニをやっているんだろう?

50コレはイギリスで観たElton Johnのコンサート。
「& His Band」となっているが、ベースのDee Murrayは亡くなっているので仕方がないが、ギターにDavey Johnstone、ドラムにNigel Olssonという全盛期のメンバーが登場してうれしかった。
Special Guestは、一時日本のテレビCMにも出ていたイケメンのチェロのデュオだった。

60上のように、日本でも昔はチケットにアーティストの写真やロゴがあしらってあって、コレクションするのにふさしいモノだった。
私は行かなかったが、Rod Stewardtのチケットなんかは豪華なデザインで学校で話題になっていたな。
プレイガイドに並んだりしなくても、今はコンビニなんかで発券できて便利かもしれないけど、あの必要事項だけが記された字だけのチケットは面白くも何ともないよね。
コレクションのしがいがない。
やっぱり「利便性は風情を殺す」んだよ。
そこへ行くと、さすが永ちゃん!
カッコいいじゃないの!

70そう思っていた私は、2000年に開催した『マーシャル祭り』では記念にきちんとチケットを作って皆さんの思い出として残してもらおうと思ったんだよね。
ただ作るのでは面白くないので、横型にしてMarshallのヘッドをそこにあしらった。
それがエスカレートして、二回目と三回目のチケットは三段積のデザインのチケットをもぎると半券が二段積みになるようにした。
コレらのコンサートにお越しいただいた方がその二段積の半券を保存してくれているかどうかはわからないけど、そんな思いを込めたデザインだった。
ところが、肝心の一回目の『マーシャル祭り』のチケットっていうのがゼンゼン見当たらないのだ。
集め好きの私がどうしたことか、一枚もキープしていないのだ。
そしたら!

80出てきたんですわ~。
もう17年も前のヤツ。
私のところから出てきたワケではなくて、先ごろの大二さんのインタビューの時にご協力頂いた四人囃子研究家の灘井さんがコレを保管していてくださったのだ。
すなわち灘井さんもMarshall祭りをご覧になられていたのですな。縁って不思議だな~。
この時はMarshallの主力ラインナップのひとつであるValvestateが代替わりをする大きな転換期だった。
ジムもまだピンピンしていて、コンサートの本番だけでなく、楽器店の方々をお招きした「Valvestate2000 AVTシリーズの発表会」でも元気に挨拶をしてくれた。
そうか、こんなデザインだったっけ。
まだTSLだったんだね~。
フロント・パネルのフレット・クロスの部分に「Marshall祭り」のロゴをピッタリに収めてくれとデザイナーに頼んだ記憶があるわ。
なつかしいな~。
この頃の経験があってMarshall GALAを開いたのです。
次回のGALAではオリジナルのチケットを作りたくなるね、こんなの見ると。
作らないけど。

90こんなチケットはゴメンだね。
頼みもしないのにナゼか思い出したようにコイツがやってくるんだな~。

35 (チケット写真提供」灘井敏彦さん  ありがとうございました!)

2017年3月30日 (木)

パソコンが壊れた!

昨日はMarshall Blogの更新をお休みさせて頂ました。
今日もお休みします。
理由はメインで使っているパソコンが壊れて動かなくなってしまったから。
こうなりゃ覚悟を決めて、たまには記事のことを全く考えずに写真の整理でもするか…と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
じゃ、遅れ遅れになっている英語版のMarshall Blogの英訳でもするか… と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
仕方ない、今日はYouTubeで何かエグイ動画でも探してみようか…と思ったけど、当然それもできない。
しからば、インターネット・ラジオでも聴きながらレコードの整理でもするか…と思ったら、そうか、パソコンが動かないんだっけ!
じゃ、Marshallの月報でも書くか…あ~、EXCEL使えないんだった!
なんだよ~、パソコンがないと何もできないじゃん!
  

実際には外で仕事をする時のためのノート・パソコンが1台あるんだけど、コレは外出時に寸暇を惜しんでマーブロの記事を書き進めるためのもので、インターネットにつないで文字を打つぐらいの機能にしか耐えられない。
つまり写真の取り扱いが大変困難なので、とてもこのノート・パソコンだけでMarshall Blogの記事を制作するなんてことはできない。
もっと高価で高機能のノート・パソコンを買えばいいんだけど、すぐ壊れちゃうんだもん。
去年、国産のノート・パソコン2台に「煮え湯」を飲まされた。
1台は保証が切れた途端ハードディスクが壊れ、メーカーに問い合わせたところ、10万円で買ったものを5万円出して修理しろと言う。
電話口の女性に罪はないが、怒り心頭、怒鳴り散らしたことは言うまでもない。
それからしばらくしたらもう1台のノート・パソコンのディスプレイに黒い影が出始め、ほどなくして全面がまっ黒になってしまった。
それも10万円内外で買ったもので、5年の延長保険に申し込んでいたので、意気揚々と買ったお店へ修理に出しに行った。
すると、ディスプレイの修理は保険の対象外で、修理に12万円かかると言うのだ。
「ハァ?10万円で買ったものに12万円の修理代をかける?」
私は窓口で尋ねた。
「このパソコンのメーカーさんの人たちは、割り算はチョット無理にしても、引き算ぐらいはできますよね~。10から12を引く…答えがマイナスになる計算は習っていないのかナァ?」
もう怒鳴ることもできなかった。
この2台、同じメーカーの商品である。超メジャーな国内ブランドだ。
もちろん、今では「私的不買運動対象銘柄」の筆頭に燦然と輝いている。
  
こんなことがあったので、少なくともノート・パソコンは安いものをとっかえひっかえ買い換えたほうが得だ…という結論に達した。
それで、「インターネットにつながって文字さえ打てればよし」という代物をサブのパソコンに従えている…というワケ。
  
さて、メインの方、ここのところ、電源を入れると何となく反応が鈍いな…というイヤな予感がしていた。
すると、一昨日の夕方、案の定立ち上がらなくなって、「Your PC needs to be repaired」なんてサインが出てきてしまった。
もう手も足も出ませんな。
昔の電化製品と違って、いったんトラブルが発生すると、もうどうしてよいのかわからんのよ。
で、早速メーカーに問い合わせて色々とチェックをしてもらった。
しかし、あの中国の人たち、若干不明瞭な発音や不自然な表現が混ざるものの、実にうまく日本語を話しますわナァ。
あれ、一体どうなってるの?
まさかあの手の仕事をするに当たってゼロから日本語を勉強しているワケじゃないよねェ?
ま、こんなことは初めてではなくて、いつも色々と試した挙句、「修理に出してください」という結論だったので、「とっとと修理を受け付けてチョーダイよ」と叫びたい気持ちが大きかった。
でも、一生懸命電話の向こうで「ああしてくれ」、「こうしてくれ」とやっているもんだから付き合ってみることにした。
パソコンの自己診断の結果、「ハードウェアに故障はない」という結論。OSを再インストールすれば元に戻る可能性が高い…という。
当然、PC内のデータはすべてスッ飛んでしまう。
もちろんそれは大変困るが、チョット前から不穏な動きを感じ取り、万が一に備え、復旧に時間がかかりそうなデータを外付けのハードディスクに避難させておいたため、再インストールの可能性にかけてみた。
翌日、再インストールの専門家みたいな人から電話がかかってきて作業に当たった。
OSのリカバリー・ディスクというのが見当たらず、作業はOSのソフトをダウンロードすることから始まった。
お昼休みをはさんで朝10時から午後2時過ぎまでかかりっきり!
アレ、大変な仕事ですよ。
果たしてそんなに根を詰めて取り組んで直るのか…直ったんですわ。
それで今、これを書いてる。
よくアプリケーションのアップデートが勝手にされるでしょ?故障のひとつの原因として、アレがOSにダメージを与えることがあるんだって。
  
大切なデータは避難していたといっても、イザまっさらな状態から元の通りの仕事ができる状態に戻すのは結構大変な作業で、まだMarshall Blogの記事が書けるレベルまで復旧できていない。
それでも来週にはどうしてもタイムリーにアップしなければならない案件があるので今日中に何とかして、明日から再開するようにしたいと思っている。
  
こういうことが起こるたびに『火の鳥』を思い出すわ。
あのコンピューター同士がケンカして核戦争になっちゃうヤツ。
私なんかコンピューターからもっと遠い存在だと思っていたんだけど、ドップリだもんね。
冒頭に書いた通り、コンピューターがなければ何の仕事もできやしない!
30年チョット前、社会に出た時、事務所でワープロに近づく人なんていなかったんだけどナァ。
なんか10インチぐらいのでっかいフロッピーディスクが事務所にゴロゴロしていた。
コピーは「青焼きを使いましょう!」なんて言っててね。(昔は設計図は絶対に青焼きだった。普通のコピー機だと内部にレンズが使われているため、複製するときに誤差が生じ、縮尺が狂い図面の意味をなさなくなってしまうのだ)
机の上にPCがひとり1台なんていう光景は想像したこともなかった。
EXCELなんてものもなかったので、表計算は完全に人力よ!
自分で言うのもナンだけど、私は比較的字がうまい方なので、書類の美しさには定評があった。すべて手書きだったからね。
契約書等の重要な書類には和文タイプが活躍していたな。
それから本当に数年の間に手書きの書類は姿を消し、表からは計算間違いが一切なくなった。
仕事がすべてパソコンの中に入ってしまった。
そして、いつの間にか音楽もパソコンの中に入ってしまい、SNSなるものを通じ、人は一日中携帯電話から離れられなくなった。
ナンだよコレ?!
手塚治虫が生きていたらコレをどう表現していたかね?
…といいつつ、私もパソコンに向かい明日からのMarshall Blogの準備に勤しむのであった。
   
また明日からもよろしくお願いします!


  

2017年2月 1日 (水)

【訃報】 さよならジョン・ウェットン

中学から高校の頃、好きだったJohn Wetton。

     
先日、チョットRoxy Musicの調べごとをしていたらファースト・アルバムのLPからこんなものが出て来た。
1974年秋のコンサート・プログラム。
中学生の頃、どこかで私が買ったものだ。
中身はメンバーの紹介だけで、コンサートのことには一切触れていないため、どこで使われたものかはわからないが、イギリスの住所を記したファンクラブの案内が書いてあるのでイギリスでのコンサートなのだろう。
前座はJess Rodenだった。
数年前にはここにSadisic Mika Bandが紹介されていたハズだ。
9_img_3342
そのメンバー紹介の最後のページ。
『Viva! Roxy Music』にもJohn Wettonのクレジットがあるが、他にBryanの『Another Time, Another Place』への参加等、Roxy人脈とは関係が深かったようだ。

9_img_3341_2

下は1975年のRoxyのアメリカ・ツアーの海賊盤。
この「Re-Make/Re-Model」のベースがスゴイ!
昔の海賊盤にしては音がすこぶるよく、昔はよく聴いたものだが、残念ながらベーシストのクレジットがない。
何か所かの録音なので、わからなくなってしまったのかもあしれないが、この「Re-Make/Re-Model」は間違いなくJohn Wettonだろう。
カッコよすぎるもん。

9_img_3339
初めて本物のJohn Wettonを見たのは1977年6月、中野サンプラザでのこと。
Bryan Ferryのバンドで来日した時だ。
先に触れた通りRoxy Musicのつながりでメンバーに選ばれたのであろう。
ギターはChris Spedding。
他にPhil ManzaneraやAndy McKayやPaul Thompsonがバンドにいて、Roxy Musicが好きだった私は、『Viva!』を出した後活動を停止していたRoxy Musicの変形が見れるとあって大喜びしたものだった。
しかも、ベースは大好きなKing CrimsonのJohn Wetton!
二階席だったけどすごくうれしかった。
この時はひたすらベーシストに徹していたっけ。


その後、Uriah Heepに入った時は「金の亡者」ぐらいのことを言われて気の毒だった。

Bryan Ferry での来日から2年、またJohn Wettonを観た。
場所は日本青年館、U.K.での来日だった。
中学の頃からAlan Holdsworthが好きだったので、U.K.がトリオ編成になってしまいとても残念だったが、コンサートを観てビックリの連続だった。
まずは毎朝電車で一緒になるカワイ子ちゃんが会場に来ていたこと。
そして、Trry Bozzioのドラム・ソロ。
コレはホントにスゴかった。
もうその頃にはFrank Zappaを聴いていて、『Bongo Fury』はすでに耳にしていたものの、そこはまだ子供のこと、ギターばっかりでドラムにあまり意識がなかったのでこのソロには腰を抜かすほど驚いた。
Jack DeJohnetteとSantanaの誰か(多分77年の来日時)と並んで、今のところの私の人生の中のドラム・ソロ・ベスト3に入ってる。
Littel cuteなTerry Ted Bpzzioのソロと同じぐらい驚いたのがJohn Wettonのベース・ソロだった。
もうフレーズがどんなだったかは覚えていないが、何やら右手の指すべてを使ってバリバリ弾いていたように記憶している。

Uk
Gordon Haskellは70歳でまだ元気なようだが、King CrimsonはGreg Lake、Boz Burrell、John Wettonと70年代に活躍したベーシストを軒並み失ってしまったことになる。
   
ベース・プレイもさることながら、やっぱりあの男性的な声と、チョット変わった発音が魅力的だった。
ああいう歌い手ってホントに少なくなった。
パンクやテクノ、ニュー・ウェイブを経て80年代に入ると、素っ頓狂な声を出すボーカルズばっかりになってしまい、ロックのカッコよさのひとつが完全に葬られてしまった。
  
そんな80年代に登場したAsiaには完璧なまでに興味が湧かなかった。
自分自身がジャズに興味が移っていった時期と言うこともあったが、Steve HoweにCarl PalmerにJohn Wettonといった大好きなプログレの立役者が集まったバンドだったにも関わらず、商業主義丸出しのポップ・ミュージックには何の刺激も感じなかったのだ。
だから80年代は私にとってはロックの「暗黒時代」なのだ。
  
2010年にロンドンのフェスティバルにAsiaが出演していたが、観る気はまったく起こらなかった。
楽屋村では、Carl PalmerはAsiaでは演りたがっているが、その時一度限り再結成したELPでの演奏は乗り気ではないようだ…という噂が流れていた。
「なんでやねん!」と思った。
Asiaのおかげで、John Wettonとはスッカリ疎遠になってしまっていたので、今回あまりショックが大きくなくて助かった。
facebookなどでは「AsiaのJohn Wettonが逝ってしまった」と騒いでいるが、私にはそんな感覚はツユほどもない。
Asiaファンには失礼かもしれないが、私が思うにはKing Crimsonで見せたクリエイティビティこそがJohnの偉業であり遺産なのだ。

Sundown dazzling day
Gold through my eyes
But my eyes turned within
Only see
Starless and bible black
私の心にひたすら流れているのは、「Starless」の悲しく美しい旋律。
ロックの偉大なイノベーターの逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

2015年8月 4日 (火)

【訃報】 小川銀次さんのこと

小川銀次さんが天に召された…。
昨日の朝、銀次さんに近しい方がfacebookで報じていて仰天。どうしても信じられなくて、その方に電話をして確認したほどだった。
残念ながらその方の投稿の内容に誤りはないようであった。
58歳…。
天才ギタリストとのお別れの時があまりにも早く来てしまった。

10v_2ご多分に漏れず、私も銀次さんのことを知ったのはRCサクセションでの活動からだった。
高校2年生の時だから1979年かな?
渋谷の屋根裏にRCサクセションを観に行った。
当時、入手できるRCの音源は『シングル・マン』だけで、確かコレも一般には流通しておらず、青山のパイドパイパー・ハウスで限定的に入手できたのではなかったか?
どう考えても当時パイドパイパー・ハウスに行った記憶がないのだが、とにかく『シングル・マン』は持っていた。誰かに頼んでついてに買って来てもらったのかもしれない。
実を言うと、このアルバムを聴き込んだ覚えがなく、後に有名になった「スロー・バラード」ぐらいしかなじみがない。
それでも屋根裏にRCを観に行ったのは、銀次さんを見たかったからだったのかも知れない。
しかし、RC以前に銀次さんを知るルートは無かったようにも思えるし、この辺りの記憶はあいまいだ。
多分、どこかでRCを観て、それから屋根裏に行ったんだろうね。


RCサクセションはブレイクする直前で、当時、屋根裏で最も動員力が強かったのがPANTA&HALとRCサクセションと言われていた。店員さんが話していたのだから間違いない。
屋根裏は通常イス席で、大きなテーブルが据え置かれていたが、RCの時にはイスもテーブルも全部取っ払い、客席後方にひな壇が設置された。
私はそのひな壇の最上段から小川銀次が上手に立つRCサクセションのステージを観た。
当時にしては規格外の長さだったが、最初から最後まですさまじい熱演でアッという間だった。
コンサートに騒ぎに来るだけの感がある今とはまるで様相が異なり、お客さんも一生懸命音楽を聴いていた。
もちろん期待していた銀次さんのプレイは最高だった。
コーラスをギンギンにかけた独特のトーンが実にカッコよかった。あの後、CE-1を買ったのは100%銀次さんの影響だ。
あの手の音楽のバンドにケタ違いのテクニカル・プレイヤーを参加させたアイデアも素晴らしかったよね。

20時期はほぼ同じだったと思うが、有楽町にあった日立のオーディオのショウルームLo-DプラザにBAD SCENEと銀次さんが出演するというので喜んで観に行った。
Lo-DプラザのことはコチラのBAD SCENE関連の記事に詳述したのでここでは詳しく触れないが、幸運にもBAD SCENEと銀次さんの共演を高音質で記録しておくことができた。
下がその時のカセットテープ…私の宝物だ。
この中でBAD SCENEは銀次さんへ捧げた「銀次」というオリジナル曲を演奏している。
銀次さんは最後の3曲に参加しており、超絶技巧を披露。
BAD SCENEの代表曲でもあるこの時の「ライジング・ドリーム」は銀次さんのソロもコピーして高校の仲間と人前で演奏したこともあった。

25それから大幅に時代は下り、2001年。
二度目の『マーシャル祭り』に銀次さんに出演して頂いた。
30
私は上に書いた通りだったので、銀次さんに接するのがうれしくうれしくて…。
40
打ち合わせと称して何回かイッパイご一緒させて頂いた。
銀次さんは大のFrank Zappa好きで、ジャズにも造詣が深く、いつも話がハズんだ。
何かの雑誌で知ったのだが、銀次さんはZappaが1976年に来日した際に、浅草国際劇場でのリハーサルをご覧になったという。
「どうやって入ったんですか?」と尋ねると、「ン?あのね、円谷監督の息子だって言ったんだよ。ホラ、ザッパは怪獣映画好きじゃん?」…スゴい。銀次さんによるとそのリハーサルもスゴかったらしい。
また、銀次さんは独自のギターの練習法を編み出したという話しをされていた。スケール練習の類なのだが、何でも順列組み合わせで120万通りのパターンがあるとのことで、世の中に発表したくても内容量が多すぎて取り扱えないのが悩みだ…とも。
レコード2万枚、創刊号からのギターマガジンのコレクション、数々のマニアックなバンドやギタリストの話し…銀次さんのお話しをうかがうのが毎回とても楽しかった。何かの話しを振ると、内容を何倍にも濃くして返してくれるのだ。

それで、この『マーシャル祭り2』。

81750002 このイベントは、基本的によく知られている曲を出演者に演奏して頂くことを主旨としていた。
「Zappaに世間一般によく知らられた曲があるのか?」と問われればそれまでだが、銀次さんにはFrank Zappaの曲を選んで頂くことを期待していた。
81750013
ところが「オレは他人の曲は演らない」とキッパリおっしゃって「その代り…」と自作の「ザッパがおしえてくれた事」というスローテンポの曲を選ばれた。
他に「いたちごっこ」という曲を矢堀孝一さんと演奏した。
銀次さんはこの時、JCM2000 DSL50をステレオで鳴らしたい…とリクエストされ、ご希望に答えたのだが、それがあまりにもすさまじい音だった。

81750031 このイベントでは、櫻井哲夫さんにベースをお願いしたのだが、お忙しくて曲をさらっている時間がないため、私がほとんどすべてのベースの譜面を書き起こし櫻井さんにお渡しした。
で、この銀次さんの曲は2コードぐらいを延々と繰り返し、銀次さんがすさまじいインプロヴィゼーションを乗せるというZappaでいえば「Black Napkins」的な曲。
それだけなら問題はないのだが、エンディングに4小節ぐらいのキメがあって、この部分の音を取るのに徹夜を強いられてしまった。
何せ銀次さんがどう弾いているのがわからくて何百回と聴き返した。こっちも意地だ。徹夜してナントカ譜面に収めた。

81750028 このことを後日銀次さんに白状すると「お~、そうか、そりゃそうだよ。あの部分だけでギターを10回以上重ねたんだもん!」なんて、平然といつもの笑顔でおっしゃっていた。
銀次さんはいつも笑顔だった。
それと、とてもおしゃれでカラフルなスニーカーをはいて、いつも清潔にしていらっしゃった。

コレはその時に銀次さんが取り組んでいた12枚組シリーズの『Private Diary』のサンプル盤。本当は本体が欲しかったんだけど…。
銀次さんが直に私に手渡ししてくれたもの。今でも大切にしている。
「12枚同時リリースでギネス狙ってるんだよ」ともおっしゃっていたっけ。

50この2001年の『マーシャル祭り2』では終演後、とんでもないことを起こしてしまった。
このイベントは、何から何までほぼ私ひとりで段取りを組んでいたのだが、さすがに当日になると色んな所にアラが出てしまい、銀次さんに失礼なことをしてしまったのだ、
もちろん、あこがれの銀次さんに面と向かって失礼なことを言ったワケでもしたワケでもないのだが、結果的に気分を害することをしてしまったのだ。
はじめは冗談かと思っていたら、本気で怒っていらして、いくら謝っても許してもらえず地獄の思いだった。
ところが一晩明けるとケロっとされていて、いつもの「銀次スマイル」で「おう、悪いけど荷物運ぶの手伝ってくれる~?」なんて昨晩のことなどナニひとつ覚えていらっしゃらないようだった。
あれほどホッとしたことも珍しいわ。

81750038

『マーシャル祭り』の後はあまりお会いする機会がなかった。久ぶりにお会いしたのは2005年の5月、渋谷公会堂のJethro Tullのコンサートの時だった。
会場の前で関係者受付が開くのを待っていると、「オ~イ、うしざ~く~ん!」と遠くからお声をかけて頂いた。
こういうことって覚えているもんだナァ。
すごくうれしかったのだろう、銀次さんがワザワザお声をかけてくださるなんて…。
だって、屋根裏で見た時にはニオイすらかぐことができない存在だったのだから。

もちろんCrosswindも好きだった。
実際の演奏を観る機会がなかったのが悔やまれる。
今にして思うのは、Crosswindというバンド名はBilly Cobhamからのインスピレーションなのかな?
もうこんなグループは出て来ないだろうナァ。

60

CDに入っているライナー・ノーツ。あまりに字が小さいのでたまたまお会いした銀次さんにこのこと尋ねると…「いいんだよ。字が大きかったら読めちゃうじゃん?」とおっしゃっていた。

70

このライブ盤の自筆ライナーではそのことに触れていらっしゃって笑える。
ちなみにこのライブ・アルバムもLo-Dプラザで録音されていて、ドラムはそうる透だ。

80

今はなき六本木のピットインに銀次さんのバンドを観に行った時、一部の演奏が終わると銀次さんは客席でものすごく大きな声で、「あ~!弾けてネェ!全然弾けてネェ!」と自分に怒りをブツけていた。会場にいたお客さんはみんな飛び上がってビックリしていた。

55v最後に銀次さんとご一緒させてもらったのももうずいぶん前のことだ。
2008年に『北野ロック教習所』というビートたけし関連のテレビ番組に中野重夫が出演した時、銀次さんも出演されていて同時に取材させて頂いた。
銀次さんの向こうに見えているMarshallはシゲさんのSuper100JHだ。

100

銀次さんは「The Orchestra」と称したひとりバンドで登場された。機材を駆使し、アコースティック・ギターを歪ませたりして、今までついぞ聞いたことのないようなギター・サウンドをクリエイトしていた。

90vこの時、珍しく一曲歌われたんだよね。銀次さんの歌はこの時初めて聴いた。

130v

銀次さんは特に目の覚めるような速弾きをするとかいうことではなかったが、十分にテクニカルなギターを弾いた。
ギターと相談して、誰もやらないような弾き方で、自分だけの言葉を自分だけの声で歌っていたのだ。

110v時にハードに、そして時にメランコリックに…ギターに入り込んでいるのか、ギターが銀次さんに乗り移っているのか…とにかくギターと一心同体で「音楽」を作っていた。
コレだけは間違いない。

115銀次さんのオリジナル曲はタイトルのほとんどが日本語だった。
「ナントカ of カントカ」なんてタイトルは見たことがない。
ココにもこだわりがあったのだろう。
銀次さんは英語もご堪能だったから、辞書で調べた英単語を並べてカッコだけつけているようなタイトルを自分の子供に付けるのをイヤがったのではないであろうか?
イッパイやりながらホンノ少しだけ英語の話しをしたこともあった。もう題材は覚えていないが、何かを英語で表現するとどうなるか…みたいな話だったんだけど、銀次さんがものすごくセンスのいい訳をされていた。
それでも「俺が世界に出た時はオマエを通訳で雇うからな…」なんて言ってくれた。もちろんイッパイやってる時だよ。

120銀次さんの名刺も持ってる。
名刺の右上には「12.10.7.」と頂いた日付が記してある。2012年かと思ったけど、コレ、平成12年だ。すなわち2000年。
肩書が”The Guitar"となっている。
ホント、その通りだと思う。ひとつしかないから「The」がついているのだ。
銀次さんにだけしか弾けないギター。
ギターを弾くために生まれて来た男。
銀次さん自身がギターだったのだ。
日本のギター界は計り知れない音楽的財産を失ったことに気づき、大いに困るべきだ。

Img_1668_2
銀次さんが少なくない音源を残してくれたおかげで、我々は未来永劫銀次さんの音楽を楽しむことができる。
しかし、音や映像は残せたとしても人となりを知るためのエピソードや言葉はなかなか残すことがムズカシイ。
しばらくの間はハッキリと覚えていても、時間が経つにつれてどうしても記憶が薄らいでいってしまうものだ。
そこで、短期間とはいえ、銀次さんと一緒に過ごすことができた私なりの思い出をココに残して銀次債に哀悼の気持ち捧げた次第である。
140v
銀次さん、お疲れさまでした。
素晴らしい音楽と唯一無二のギターをありがとうございました。

心からご冥福をお祈り申し上げます。


さようなら…小川"The Guitar"銀次!

81750039 (一部敬称略 ※写真協力:55 Station入谷店)

2015年7月13日 (月)

Like Father, Like Son ~ 父の思い出

五月の下旬、父が81歳で永眠し、先週四十九日の法要も無事に済ませた。
この場をお借りしまして、お心遣いを頂戴しました皆様に心から御礼申し上げます。

父が息を引き取った時、私はイギリスにいたものだから今わの際に立ち会うことが出来なかった。
芸人でも公人でもない自分が、まさか肉親の臨終に接することが出来ないなんてことはついぞ考えたことがなかったが、却ってよかったとも思っている。
ドラマよろしく目の前で「ご臨終です」なんてやられた日には号泣してしまって思いっきり正体を失いかねなかったからね。
何しろMarshallの近くのホテルで妹から訃報メールを受け取って、それを見ただけで「ガ~っ」っとひと泣きしちゃったぐらいだから…。
それでも、聞こう翌日からお通夜、告別式と時差ボケしているヒマもないぐらいの忙しさだった。


生まれてこの方、ズ~っと心配のかけ通しだった。
本当に親孝行なんて何ひとつできなかったナァ。
「親孝行した」と、こっちの論理で自分を納得させるならば、孫の顔を二種類見せることができたのと、最後まで父と仲良くしていたことぐらいかしらん?

父は明るく、人を笑わしたり、おどかしたりすることが大好きなオッチョコチョイなキャラクターだった。だから、棺の中の彼を見ても息を引き取ったことが信じられず、しんみりしているところに突然ガバッと起き出して、「ギャハハ、驚いたかッ?!」とやりそうな気がしてならなかった。
でも、その亡骸は氷のように冷たく、ピクリともしなかった。
「お父さんはどういう人でしたか?」と人から尋ねられたら、何の迷いもなく、「とてもやさしい人でした」と答える。
今日はそんな父のことを書かせて頂く。

これまでMarshall BlogにはMarshallに関わった方々の訃報を何度も掲載してきた。
もちろん私の父はギタリストでもなければ、楽器業に携わっていたワケでもない。せいぜいJim Marshallに一度会ったことはあるぐらいだ(正確にはJimを「見た」だ)。
だからMarshall Blogに採り上げられる所以はまったくない。
彼は浅草生まれの大工で、音楽とはまったく縁のない仕事をしていた。
強引に結びつければ、下の写真の若い頃の父のヘアスタイルを見ると、ちょっと「ロケンロー」になっているからだ…というのはもちろん冗談。

戦時中は仙台に集団疎開し、戦後の混乱期には学校にもロクに行かれず、幼い頃から玄翁(トンカチのこと)や鍛冶屋(釘抜きのこと)を握り、同じく大工だった祖父の仕事を手伝わされて過ごしたため、十分な教育を受けることが何ひとつできなかった。
しかし、父は(私から見れば…)かなりの博学だった。
知識はすべて書物から得たと昔よく言っていたが、彼は日本文学はもちろん、シェイクスピア、ディケンズ、ヘミングウェイ、スタインベック、スタンダール、ドストエフスキー等の海外文学まで精読していた。
囲碁や将棋にも詳しく、ゴルフやスキーも今みたいに一般化する大分以前からたしなんでいた。
…なんて書くと、いかにも優秀な「スーパー・インテリ大工」のように見えるが、全然そんなことはなくて、チョット一杯引っ掛ければデレデレになってしまう一介の職人だった。
また、昔はそんな人がゴロゴロしていたものだった。
しかし、父には誰にも負けない分野があった。
それは「映画」だ。
特に洋画に関しては膨大な知識を持っていた。アレで文章のひとつも書けて、滑舌よくしゃべることができれば、簡単に映画評論家になれていたかもしれない。実際に雑誌の企画で淀川長治や小森和子と旅行に行ったこともあったらしい。

私はその父の薫陶を受けて、かなり小さい頃から映画に夢中になった。
中学に入るとその興味が音楽に移行し、ギターを弾き始めた。
そして時は流れに流れて、今はMarshallのために額に汗し、Marshall Blogを書き続け、幸せなことに読者の皆様から大きな支持を頂戴している。
つまり、父がいなければ映画に興味を持たなかったかもしれないし、音楽を好きになることもなかったかも知れない。
すなわち、Marshall Blogもこの世にあり得なかったかもしれない…。
そうであれば父もMarshallに関係していることになるのではないか…と私流に感謝の気持ちを込めて考えたのである。

そういうことで、今日は紙幅をお借りして思い出を交えながら映画の話しをして、Marshall Blogの源流である父にトリビュートさせて頂きたいと思う。
家内にも話したことのない話しばかりだ。どうでもいいような話しだからだ。
しかし、私の中ではそのどうでもいい話しが連綿と生き続けていて、一生忘れることができない父の思い出になっているのだ。
お時間のある方は是非お付き合い頂きたい。映画好きの方のもゼヒご一読願えれば幸甚である。
タイトルの「Like father, like son」とは「この親にしてこの子あり」を意味するイギリスのことわざだ。
では…

<Beep!(開演ベルの音)>

さて、下の写真は浅草の父の実家の前で昭和39年ぐらいに撮られたもの。50年前の写真だ。
すでにfacebookに乗せたことがあるので、それをご覧になられた方多くいらっしゃると思うが、この当時、まだ東洋の一大繁華街であった浅草でもまだ地面が舗装されていなかった。
後ろは私の父と母。前に立っている利発そうで可愛らしい男の子が私である。
この後、このガキが迷惑と心配と金を親にかけっぱなしにするなんてことは、写真の中の二人はつゆ知らない様子だ。
昭和39年、1964年、東京オリンピックが開催した年。
年表を調べると、経済的、政治的、文化的にものすごくたくさんの発展的な出来事が起こっている年だ。
終戦から約20年、イケイケドンドンで戦後日本の一番いい時代だったんだろうね。

D_dad2さて、ここに父の薫陶を受けた証しがある。
三冊のファイル・ブック。
本当はもっとあったのだが、引っ越しのドサクサでこれだけになってしまった。
強引なのは百も承知。でもこれらを紹介することを父への追悼のひとつとしたい。
これらが積りに積もってMarshall Blogになっているのだから…。

10ファイルブックの中身は映画のチラシだ。
私が小学校高学年から中学1年生の時に集めたもの。リアル・タイムでゲットしたものもあれば、後追いでコレクションに加わったものもあって、すべてホンモノである…といってもたかがチラシ、金銭的には何の価値もなかろうが、思い出がいっぱい詰まっている私には値千金の宝物なのだ。

20ところで、昔は子供の数も多く、怪獣映画がすごく盛んだった。
ゴジラやガメラは言うに及ばず、ギララ、ガッパ、『恐竜グワンジ』…あと忘れたけど、そういう怪獣物は母が連れて行ってくれた。ケロヨンもよく観に行った。
当然ビデオなんかない時代だからね、映画館でしかそれらの動く怪獣を見ることができない。
父と一緒に映画館で映画を観た最古の記憶は多分『ポセイドン・アドベンチャー』だ。
錦糸町の江東リッツだったように記憶している。
それから今は無きテアトル東京で観た『パピヨン』。コレなんか親戚一同で行ったわ。

一番印象に残っているのは、小学生の時に観た『七人の侍』だ。
モノスゴイ雨の日で、ヘタをすると映画の中の野武士との決闘シーンより映画館の外の方が土砂降りだったに違いない。
映画館はまたしてもテアトル東京で、父はナニを勘違いしたか、道を間違えてしまい開演時間に間に合わなくなてしまった。
ほうほうの体で映画館にたどり着いた時は全身ずぶ濡れだった。
『七人の侍』の公開が久しぶりだったのか、あの広い館内はスシ詰め状態で、まだ小さかった私は立ち見することもできなかった。
すると父は「アソコへ行っちゃえ!」と舞台を指さした。
テアトル東京は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていて、よじ登ることなくステージにあがることができたのだ。
そこにも大勢のお客さんが座っていて、軽く頭を下げて仲間に入れてもらった。つまりあの大スクリーンから2~3mの距離で三時間半の映画を観たのだ。
それでも子供ながらに「なんておもしろい映画なんだ!」と夢中になって映画の中に入り込んだナァ。今観てもそうなんだけど。
父が亡くなる数か月前、私の家に来た時、DVDで『七人の侍』を一緒に観た。すると、「あの時はすごい雨だったナァ…」と、ポツリポツリと40年前のことを静かに口にしていた。この時、「父にさよならする日もそう遠くないな」…と感じた。
その後に『隠し砦の三悪人』も観たのだが、彼はあまり集中している様子ではなかった。
すぐに疲れてしまい寝てしまうのだ。
『赤ひげ』もすすめたのだが、「アレは長いからイイや」と遠慮していた。この数か月後、自分が『赤ひげ』の中の藤原鎌足扮する六助のようになってしまったのだ。
結果、『七人の侍』が父の最後の映画になった。

下は珍しいA4サイズのチラシ。1967年の『特攻大作戦(The Dirty Dozen)』。チラシはやはり映画好きで年上のいとこからもらった。
ロバート・アルドリッチ監督、リーマービン、アーネスト・ボーグナイン、チャールズ・ブロンソン、ジョン・カサベテス、テリー・サバラス、ジョージ・ケネディ、ロバート・ライアン、ドナルド・サザーランド…ク~、タマらんぜ!男のニオイしかしない映画。メチャクチャおもしろかった。
映画も監督も俳優も全部父から教わった。
もうハリウッドはこういう映画を作ることはできなくなってしまった。『ミッションなんとか』の軽く数百倍は面白い。

30『シャレード』を初めて観たのはテレビでだった。小学校四年ぐらいだったのかナァ?やはり父のすすめだった。「そうか!切手か!」なんてそのトリックに感心したりして…。


父は『ベン・ハー』がとても好きだったな。ジュダ・ベン・ハーよりもメッサーラの方がカッコいいぐらいのことを言っていたのを覚えている。


『アラビアのロレンス』も父から勧められた。
我々の世代はこういう映画をすでに「名画」として観るワケだが、父は「新作」として観てるからね。それはそれは新鮮だったと思う。
よくオマー・シャリフがラクダに乗って向こうの方から近づいてくる最初のシーンのことを話していた。
そのオマー・シャリフも数日前に亡くなった。享年83歳だったそうだが、ナント、ウチの父よりたった2歳上なだけだった!片やベドウィン族の親分、こっちは浅草の職人。父もアラビアに生まれていたらモスクのひと棟も建てていたかもしれない。


『エデンの東』の話しも良くしていたナァ、というのもジェイムス・ディーンの役どころと自分の立場が重なると考えるらしいのだ。次男坊の悩みだ。
「親は長男ばかり可愛がるが、本当に親や家のことを考えているのは次男なんだ」って。
父は自分の家族には最高にやさしく接してくれたが、自分はあまり家族愛に恵まれない境遇だった。


『風と共に去りぬ』も恐らく十回以上は観ているのではないだろうか?「金はあるし、カッコいいし、アシュレーよりレッド・バトラーの方がゼンゼンいいのにな?」と観るたびに言っていた。
しかし、昔のアメリカ映画は本当にスゴかったね~。音楽もよかった。(『ロレンス』はイギリス映画。ちなみにヴィヴィアン・リーはイギリス人。ヘップバーンも元はイギリス国籍でベルギーで生まれ育った)

40この辺りは珍しいのではないかと思ってピックアップしてみた。

ほとんどピーター・オトゥールしか出て来ない異色戦争映画『マーフィの戦い』、本当にネズミが恐ろしい『ウイラード』、設定が巧妙な『さらば荒野』なんてのを父から教わった。
どれも最高におもしろくて夢中になって観た。


『マッド・ボンバー』のチラシなんて珍しいでしょ?チャック・コナーズもネヴィル・ブランドもよかった!
『おかしな夫婦』は原題が『The Out of Towners』というニール・サイモン脚本の喜劇。ジャック・レモンとサンディデニスの主演。メチャクチャおもしろいよ。
30年後にスティーブ・マーチンとゴールディ・ホーン主演で、『アウト・オブ・タウナーズ』というタイトルでリメイクされた。私はスティーブ・マーチンが苦手なんだけど、コレは案外よかった。「モンティ・パイソン」や「フォルティ・タワーズ」のジョン・クリースも出てる。

50『ゴッドファーザー』も大好きだった。ただし『パートIII』のことはクソミソに攻撃していた。
ご多分にもれずニーノ・ロータのテーマ曲にやられたクチでよく鼻歌を歌っていた。
自分ではジェイムス・カーンかアル・パチーノ気取りだったかもしれないが、実際はジョン・カザールだったりして…イヤイヤ、私にとって父はいつまでもドン・ビトー・コルレオーネなのです。
やっぱりコッポラってスゴイ。また観たくなってきた!

60彼、『007』は最後の最後まで全部観てるんじゃないかしら…。
車をアストン・マーチンにすることはなかったけど、ボンドのことはすごく好きだったハズだ。
私よりチョット年上の方々がLed ZeppelinやDeep Purpleをリアル・タイムで体験したように、父はもこのシリーズも最初からリアル・タイムで観ているハズだ。
そりゃ、『ロシアより愛をこめて』なんて出てきた時に観りゃおもしろくてタマらんわナァ。よくあの列車の中のロバート・ショウとの決闘のシーンの話しをしていた。あのロバート・ショウは本当にカッコよかったもんね!
一方、サンダーボール作戦」なんて言葉を父の口から聞いたことはなかった。でも観てるハズ。

さて、このチラシ、ちょっとよく見てみて。
『ドクター・ノォ』と『サンダーボール作戦』のショーン・コネリーの写真が何と使い回しなの!なんでこんなことしたのだろうか?! 
ボンドのピストルはワルサーPPK。PPKとは「Polizeipistole Kriminal(警察用拳銃刑事版)」のこと。「Polizei」はドイツ語のポリスね。何年か前、タクシーにスーツケースを忘れてフランクフルトのPolizeiに大変お世話になった。

アレ?よく見ると『死ぬのは奴らだ』と『黄金銃を持つ男』のロジャー・ムーアも同じだ!ロゴみたいなもんか?
そういえば『黄金銃』のクリストファー・リーも先ごろ亡くなった。
私が「ポール・マッカートニー」という名前をハッキリと認識したのは、「ビートルズのポール」ではなく、「『死ぬのは奴らだ』の主題歌の人」だった。
原題の『Live and Let Die』は「Live and Let Live」ということわざのパロディ。「自分も生きて、他人を生かす」という「共存共栄」を意味するが、ここでは「自分は生きて他は死なせる」と物騒な意味に変えている。
10ccは、この後さらにひねって『Live and Let Live』というライブ・アルバムを発表した。

70昔はCGなんてないから特撮映画は珍しがられたし、良く出来ている作品は人気も高かった。
このシンドバッドのシリーズとか『アルゴ探検隊の大冒険』とか『ミクロの決死圏』とかその特殊効果に驚いたものだった。
このあたりも全部父から教わった。
ちなみに海外では「シンドバッド」のことは「シンバッド」と発音する。

80『燃えよドラゴン』も父が新宿へ観に連れて行ってくれた。
映画館から出てきた時にはふたりともすっかりブルース・リー気分で、道を歩きながら「アチャ~!」なんてやったものだ。
根っからのアメリカ映画信奉者の父は、ブルース・リーをカッコいいと思いながらも『燃えよドラゴン』以外作品はまったく観なかったのではないかと思う。あるいは、チョットは観たけど受け付けなかったのではないか?
「キョンシー」なんて絶対に観なかった。でもジャッキー・チェンはヨカッタみたいだ。

90ヨカッタよね~『フレンチ・コネクション』。
ジーン・ハックマンのポパイもヨカッタけどロイ・シャイダーがまたいいんだ。
音楽はDon Ellis。
『2』の頃になると私はひとりで映画館に通っていたので、もう父と映画を観に行くことはなかった。『2』は日比谷映画で観たな。ポパイが麻薬中毒にされて監視役のババアに時計を取られるシーンがナゼかショッキングだった。
しかし、ジーン・ハックマンっていい役者だった…ってまだご存命なのね!『俺たちに明日はない』ではあんな役だったのに…ドンドンすごい仕事をするようになった。
『盗聴』なんて今でも観てる。

100あ~、『ダーティ・ハリー』も夢中になって観てたな。ただし、一作目だけ。でもそれは正解。

『2』は小学生の時、親戚のオバサンに新宿のミラノ座へ連れて行ってもらった。映画は面白いとは思わなかったが、帰りにそのオバサンが映画館で即売していたMGCの「44マグナム6インチ」のモデルガンを買ってくれた。うれしかったナァ。
それからしばらくの間モデルガンにハマった。
それで勉強がおろそかになり、父が罰としてモデルガンをどこかに隠したことがあった。没収だ。
返して欲しくば勉強をしろ…ってなことになったのであろう。
珍しくしっかり勉強をして、約束通りテストで良い点を取って許してもらったのかな?
「モデルガンを返して欲しい」と父に詰め寄ると、一枚の紙を私に渡した。
そこには「勉強が~」から始まり、何やらしかつめらしいことが何行か書いてあった。
「わかったから返してくれ!」と詰め寄ると、父は「その文章をよく読んでみろ。特に最初の字を!」と答えた。
言われるままにジーっと最初の文字だけに目をやると、「勉強」の「べ」から始まり、後は覚えていないが…それらの最初の文字をタテに連ねて読むと「べつどのした」となった。
私の大切なモデルガンがベッドの下から出て来た。
そんなことをする父だった。

110古さからいけば最初の『特攻大作戦』の方がレアかもしれないが、恐らく私のコレクションの中で最も珍しいのはコレじゃないかしら?『ボルサリーノ』。二種類揃ってるし。
『ボルサリーノ』は1970年の日本公開。『2』は日比谷映画で観た。
父はジャン・ポール・ベルモンドが好きでね、『リオの男』とか『カトマンズの男』とかを紹介してくれた。アレもおもしろかった。
それで私もベルモンドが好きになると、どこからかポスターを買って来てくれたことがあった。
当然大工仕事はお手の物だから、手作りでパネルを作って来て、そのポスターを貼ろうということになった。
そんなもんうまくいくハズもなく、案の定、ノリの水分でデコデコになってしまった。憐れベルモンドはイッキにゴミと化した。
そういえば、昔は木造の家の建築現場ってのがあちこちにあって、子供たちがその廃材に久ぐを打ってパチンコ(スマート・ボールかな?)だの手製の船だのを作って遊ぶことがあった。
私もその船を自分で作ったことがあった。船といってもただ五角形に切った薄めの板に船室に見立てた小さな木端を釘で打ち付けたような取るに足らない代物だ。
ところが、それを見た父が「そんなんじゃダメだ」と仕事場で立派な船を作ってくれた。うれしかったんだけど、さすがにプロらしく、正目の檜から切り出した木材の表面をノミで掘り出して、側にカンナをかけた、「木曽の土産」とでも言えそうな流麗な船仕上がりだった。イヤな予感がした。
さっそく家のフロに水を張ってその船を浮かべてみたら…見事に転覆して沈没していった。
こんなことって結構覚えているもんだわ。

120『さらば友よ』は観ていない。
コレ、1974年の1月31日にテレビ放映しているハズ。どうして覚えているかというと、死ぬほど観たかったんだけど、親に早く寝るようにいわれて泣く泣く布団に入ったんよ。次の日は2月1日で、ある私立中学校の入学試験日だったの。
それを受験するもんだから、前日の夜更かしは厳禁だったというワケ。
結果は不合格。
それなら観ておけばヨカッタ。
そして、いまだに観ていない。
アラン・ドロンも人気あったよね~。久しぶりに『レッド・サン』なんて観たいな。ドロンもまだご存命だ。

140

チャップリンの話しはほとんどしたことがない。どうもあまり好きではなかったようだ。
少なくとも『キッド』は自分の子供の頃を思い出すとか言ってイヤがっていた。別にウチの父は孤児じゃないんだけど…。
反対にマルクス兄弟が大好きだった。
私もその影響でDVDのボックスセットを買った。『A Night at the Opera』とか『A Day at the Races』とかね。Queenファンはコチラをご覧あれ。

そのせいか私もチャップリン映画はほとんど観ていない。でも、ナゼか自然とチラシだけは集まった。多分、私が中学一年生ぐらいの時にチャップリンのリバイバル・ブームがあって、映画館へ行くたびにチラシだけ持って帰って来ていたんだと思う。
今こそジックリ観たい。

160

やっぱり単純で明るい人だったといえるのだろう。父はハリウッド映画とそれに準ずる娯楽映画以外は一切観なかった。
ベルイマンとかブニュエルとかフェリーニとか、いわゆる芸術映画を徹底的に忌避していたね。
私もそういうのは苦手で、『去年マリエンバートで』とか『8 1/2』とか、観るには観たけどサッパリよさがわからなかった。
そんなしかめっ面して観る小難しい映画よりも、ビリー・ワイルダーやヒッチコックや初期のスピルバーグを心から愛でていた。ワイルダーのお気に入りは『第17捕虜収容所』と『お熱いのがお好き』と『サンセット大通り』だった。
思い出したらキリがないな、ハンフリー・ボガードもお気に入りで、『黄金(原題は『The Tresure of Sierra Madre』)』とか『サハラ戦車隊』とか『脱出』、『アフリカの女王』、『必死の逃亡者』もすすめてくれた。全部破天荒におもしろかった。特にジョン・ニューストンの『黄金』はスピルバーグのお気に入りでもある文句のつけようがない傑作だと思う。

おかげで私も難しい映画は苦手。音楽はダンゼン難しい方が好きなんだけど。
でもチラシはチョット様子が違っていて、こんなサタジット・レイなんかも集めてみた。映画は観たことない。

180

…と、とにかく色々と教えてもらったな。
父は落語にも造詣が深く、「生きている志ん生を見た」というのが自慢のひとつだった。
仕事中は現場でラジオを聞くのが常で、ラジカセのある現場ではテープを持参して落語をよく聴いていた。
私も父によろこんでもらおうと思って、図書館でレコードを借りて来てはカセット・テープにダビングして差し入れあげた。
すると、「お、可楽か?」、「三木助だな?」と片っ端から演者を言い当てていた。
若手では志ん生の息子、志ん朝と談志は別格だった。それと、「小金治がちゃんと古典をやっていればナァ」と嘆いていたナァ。
なぜコレを覚えているかというと私にとってのDavid Sanbornだったから。「Sanbornがちゃんとビバップを演奏してればナァ」という嘆きと同じだったからだ。


私も小づかい銭欲しさに中学の頃から父の仕事をよく手伝っていたので、その仕事現場で落語に馴染み、興味を持った。
浅草で仕事を手伝って、取っ払いで5,000円もらってそのまま秋葉原の石丸電気へ行って、少しお金を足して『Yessongs』を買ったことを昨日のことのように覚えている。
それと、よく柳家三亀松のテープを買い込んで聴いていたな。他にも虎三をはじめとした浪曲や相撲甚句なども好んで聴いていた。
あの浪曲ってのは「ひとりミュージカル」で、よく聴いていると結構おもしろいよ。
私のミュージカル好きも父親譲りなのだ。

私はというと、映画だけでなく映画音楽にも深く興味を持ち、月一回のNHK FMの関光男の映画音楽の番組を丹念にエアチェックしていたりしたが、The Beatlesを知ってから徐々に音楽単体に興味が移って行った。
あの頃に映画で知った音楽で今でも聴いているものも結構ある。
例えば『ルシアンの青春』のDjango Reinhardtや『好奇心』のCharlie Parkerなどがそうだ。

200

他にも『スティング』に使われたScott Joplinのラグタイムもそう。ま、今はそう聴かないけどね。『スティング』はミュージック・テープをお茶の水の駅の横の小さいレコード屋で買った。
その他、ずいぶんポピュラー音楽が使われた映画が当時からあった。ポランスキーの『マクベス』なんでThird Ear Bandだもんね。『ビリー・ザ・キッド』はBob Dylan。Bee GeesやSimon& Garfunkelについては説明不要だろう。
こういう映画が私を音楽の世界に這い込むキッカケを作ってくれた。すなわち父からの流れだ。

130上にも書いた通り、父には「生きている志ん生を見た」というのが大きな自慢だったが、他にもうひとつ自慢があって、晩年まで私にその話しをしていた。これは以前、Marshall Blogに書いたことがあったように記憶している。
それは、『絶壁の彼方に』という1950年のイギリス映画を観ている…ということだった。
私はこの映画を『たかが映画じゃないか(←コレはヒッチコックの有名な言葉、明日解説します)』という和田誠と山田宏一の対談集で知った。何しろヤケクソにおもしろいらしいのだ。
この話を父にすると、「エ、何?『絶壁の彼方』?シドニー・ギリアットのか?ダグラス・フェアバンクス・ジュニアな!ジャック・ホーキンスも出てたよ。あれは本当におもしろかった。アッレ~?もしかしてキミ観てないの?あんなおもしろいのに!何で観ないの?」…なんて猛烈に私をからかうのである。しかも、毎回会う度にである。
そんな愉快な人だった。
こっちも悔しいので、あの手この手でビデオを探した。VHSがかつてあったようだが、モノは見つからなかった。
ま、死ぬまでに一回ぐらいは観ることができるだろう。楽しみはキープしておこう。

今日ここで触れた以外にも、一体どれだけの情報を私に授けてくれたことだろう。映画に限った話しではない。
忘れていたけど、父は写真がウマかったらしい。何だかのコンテストで優勝したことがあるとか言っていたが、賞状はおろか作品も見たことはなかったし、写真の話しなんかしたことなかった。
でも、後年私が「写真の仕事をしている」と告げると「ホホウ、僕の才能が遺伝したのかな?」とか言っていた。ホンマか?

こうして落ち着いてくると、結構色んな事が自然に思い出されて来てツライ。いくつになっても肉親を失うのは寂しいものだね。
私が幼い頃ふたりで行ったスキーのこと、交通事故で入院した時のこと、カップヌードルが発売になって大興奮で買って帰って来た夜のこととか、半分に切ったグレープフルーツに間違えて塩を乗せて食べさせてしまったこと(飛び上がっていた)、中三で入院した時、私が読みたいと言ったLed Zeppelinの本をお茶の水じゅうを探してゲットしてきてくれたこと、マーシャル祭りを観に来てくれたこと…もう、いつもしてもらってばっかりだった!
怒られたこともホンの数回あったけど、父といると笑いが絶えることがないのが普通だった。ずいぶん笑わされてもらったし、こっちもたくさん笑わせた。

お父さん、本当にどうもありがとう。
こうして考えてみると、私は完全にお父さんのクローンだわ。まったく出来の悪いクローン。
すなわちLike father, like son。
もう一回お父さんとイッパイやりながら映画の話しをしたいよ…。
続けられる限りMarshall Blogは続けるぜ!
さようなら、お父さん。
あ、お盆だからすぐ帰って来るか…。
それなら大好きな浅草でユックリしていけばいいよ。


  ★     ★     ★    ★


本稿に関連し、明日はMusic Jacket Galleryで『サウンドトラック盤特集』を掲載します。
お楽しみに!

(敬称略)

2015年3月26日 (木)

三文役者なわたし <前編>

まさかね~。
まさか、こんな日が来るとは思わなかったよ。
人間、生きていると本当に驚くべきことが起こる。そして、つくづく思い返したのは歳を取るのも決して悪いことばかりではないということだ。
「時間の経過が与えてくれる感動」とでも言おうか…歳を取っていくと若いうちには絶対に味わうことのできない大きな感動に遭遇できることがあるということがわかった。
長い間生きてる分、もちろん苦労も多いワケだが…。

ずっと以前はMarshall Blogに私的なことを書くのをなるべく控えてきたが、最近はそうでもなくて、私が若い頃に体験した音楽をはじめとしたあらゆるエンターテインメントについて触れて、忘れ去られようとしているよき時代を伝承しようと努めている。
決してジジイの自慢話しでも思い出話しではないつもりなのだ。

しかし、今日はタップリ公私混同させて頂いて、私的な思い出話しを書かせて頂きたい。タマにはいいでしょ?
いわゆる「カミング・アウト」ってヤツ?

私はゲームの類は一切やらないが、それでも高校1年ぐらいの時は夢中になったものである。
スペースインベーダーの登場だ。
あのブームは本当にスゴかった。ゲームセンターがそこら中にポコポコと現れ、どこも賑わいを見せていた。
その時住んでいた東京の東のはずれも例外ではなく、ごく普通の商店街にもゲームセンターがある日出現し、さっそく入ってみた。
それは何の飾りもないただの部屋にズラリとテーブル型のゲーム機が設置してあるだけのお店だった。例えて言うなら温泉場の射的場をさらに簡素にした感じか?
奥には長髪でヒゲをはやしたお兄さんが店番をしている。
フトその奥を見やると、ピックガードにヘビ革を貼った国産のストラトキャスター・モデルが壁に立てかけてある。
そのお兄さんはチョット怖い感じだったので勇気を出してこう訊いてみた…「お兄さん、ギターやってるんですか?」
するとお兄さんは実にやさしく、「やってるってほどじゃないんだ。あ、このギター?コレは僕の友達のギターだよ」と答えてくれた。
何でもその友達の方と住み込みでゲームセンターで働いているとのこと。その時はその友達がいなかったので、店番をしている日を教えてもらってインベーダーを1~2ゲーム楽しんでその場を離れた。

数日後、その友達がいるという日にゲームセンターに再び出向くと、店の奥には先日とは違う兄さんが座っていた。長髪で色白でチョー細身の人だった。何日も太陽の光に当たっていないのは明らかだった。
やはりストラトはその人の持ち物で、名前を大竹亨さんといい、私より4つほど年が上だった。
ナニを話したのか、後の細かいことは忘れてしまったが、とにかくすごく気が合ってたちまち仲良くして頂いた。正確には可愛がって頂いたということになろうか?

その頃の私は洋楽一辺倒で、学校で最もロックに詳しい一人である自信はあったが、国内のロックは全くと言っていいほど聴いていなかったので無知に等しい状態だった。
1978年頃、大竹さんはすでにプロとして渋谷屋根裏や新宿ロフトに出演していて、日本のロックについて色んなことを教えてくれた。

この真ん中の青い看板のお店がそのゲームセンターだった。
今はお好み焼き屋さんになっている。
10
時折Marshall Blogに書いているが、その当時は自分たちで音源を作って販売するなんて構想は無いに等しく、自分たちの音源を世に出すにはレコード会社に認められてレコードを出すしかなかった。
こんなことはホントに奇跡のような話で、ライブハウスに出演できるだけでもバンドにとってはひとつの大きな大きなステップだった時代だ。
今みたいにスターバックスよりライブハウスの方が多いのではないか?というような時代ではないからね。
加えて、ミュージシャンたちも洋楽の黄金期のエキスをタップリと吸収したロックの権化のような連中ばかりで、楽器の演奏技術は高くて当たり前。どれだけ人と違うことをやるかに心血を注いでいるオリジナリティあふれる連中ばかりだった。


話しは反れるが、そんな連中でも持っている機材といえば、極めて貧弱なもので、ギターは国産が普通で、MarshallやFenderやGibsonが当たり前のような今とは全然ワケが違った。
しかし、みんないい音を出していたよ。腕は一流、機材はなにせ全部アナログのホンマもんのロック機材だからね。
今でもいいMarshallの音を出している人に出くわすと思わず、「昔、屋根裏やロフトで聞いた音だ…」と形容してしまう。

そんなライブハウスに出ている人がこんな場末のゲームセンターにいることも信じがたいことであったが、4つ年上の大竹さんにはロックに関する色んなことをたくさん教えて頂いた。

大竹さんがギターを弾いていたバンドは「三文役者」といった。
彼の影響で日本のロックに大きな魅力を発見した私は、三文役者のライブのテープを借りて聴き、いっぺんに好きになった。曲のよさがハンパじゃなかったのだ!

「それなら今度の屋根裏に遊びにおいでよ」と大竹さんはライブに誘ってくれたのだが、当時はライブハウスに行く高校1年生などは周囲にまったくおらず、親に相談して許可を得て渋谷に行った記憶がある。親は当然心配していた。
行ってみると、さほど大きくないスペースにホールと同じような大音響で演奏する様に腰を抜かしたが、とても楽しかった。
当時三文役者は屋根裏と新宿のロフトに月替わりで出演している感じで、すっかり魅せられた私は毎月そのどちらかに友達を連れて遊びに行くようになった。
そうこうしているうちに「ボウヤ」として三文役者のライブに出入りさせてもらえるようになった。
何せ金のない高校生の時分だったのでうれしかった。
イヤ、何よりも好きなバンドのメンバーの傍にいられて、ギターのチューニングをしたり、弦を張り替えたり…こんなことが最高にうれしく楽しかった。
自分が高校の友達と組んでいたバンドも完全に三文役者のコピーバンドになってしまった。当時のレパートリーなら今でも弾ける。

この人が大竹亨さん。
20v
その後、ほどなくして大竹さんはゲームセンターのアルバイトを辞め引っ越してしまったが、付き合いは当然続いた。
コレは引っ越す前に記念に…とお願いして作ってもらったサイン入り色紙…のようなもの。
大竹さんは手先が大変に器用でこの程度のステンシルはいつも簡単に作ることができるのだ。
しかし…「女学生」だって…死語だな。
50
この色紙と一緒にこんなのが出てきた。下敷き。今下敷きなんて持っている子なんているのかな?
時代を表すアイテムとして本文とは関係ないが掲載しておこう。
こういう時代だ。若いってはヤッパリいいな。野村さんワッケ~!
60
ある時、スゴイことが起こった。
大竹さんではない方のギターの人が高熱を出して屋根裏に出れそうもないので、私に代演してくれというのである。コピーバンドやっていたので全曲弾けたからね。
コレはうれしかったナァ。
高校生の分際で当時のライブハウスに出ることなど、昨日デビューしたバンドがいきなり武道館に出るようなものだ(←今なら十分あり得るか?…)。
この話しをもらって、家に帰った時、寝ていた両親を叩き起こして報告したことを覚えている。
結局、そのギターの人は無理を押して出演されたので、私の出番は2曲となったが、あの感動は一生忘れんよ。
今を時めく国民的バンドがまだ屋根裏の昼の部に出てた頃の話しだからね。
このロフトの創設者、平野悠さんの著書『ライブハウス「ロフト」青春期(講談社刊)』にも、スケジュールのページにRCサクセションやカシオペアやシーナ&ロケッツと並んで「三文役者」の名前が出ている。

S_img_0029 その後、私は大学に入り大竹さんの友人が手放すというMarshallを手に入れた。JMPの1959と1960AXだった。
コレがおっそろしく音がデカくて、とうとう歪んだところを聞いたことがないうちに手放した。
私は国産のストラトとOD-1、CE-1、それにSpace Echoをつないで1959を使うのが好きだった。
そして、時を同じくして、大竹さんではない方のギターの方が三文役者をお辞めになるのを受け、バンド参加の誘いを頂戴した。
これも当然うれしかった。まだ18の時だ。私はプロのギタリストになりたかったのだ!

当時メンバーの入れ替えを機に「三文役者」もボーカルの哲さんをフィーチュアしたバンド名に変えようということになり、一時期「哲&ATOMS」と名乗っていた。口にすればわかる通り、「鉄腕アトム」に聞こえるというのが由来。
しばらくしてまた「三文役者」に戻ったが、私は18~19歳の2年間お世話になった。
その間、毎月屋根裏かロフトに出演し、吉祥寺に新しいライブハウスが出来たというのでシルバー・エレファントにも何回か出たかな?埼玉大学や慶応大学医学部の学祭に出てビートたけしの前座をやったこともあった。
二度ほど関西方面へツアーにも出かけた。名古屋のElectric Lady Land(もちろん昔の方ね)、京都のフレンチマーケットや磔磔、大阪の寺田町にあったスタジオあひる、千日前にあった夢屋などに出演した。
当時はインターネットなど当然なく、宣伝することすらままならないので、見知らぬ土地で集客なんかできるワケがない。動員は予想通り苦しい展開となったが、個人的には「ツアーする」ということが実にカッコよく思えてウキウキだった。
京都で肩をハチに刺されてストラップが付けられなくなったり、大阪では大好きななぞなぞ商会と対バンしたり、ELLや磔磔のような名門のライブハウスのステージに上がれたり、と思い出に尽きない楽旅となった。

その後、徐々にロック熱が冷めてきたり、自分の才能のなさを思い知ったり…と将来への不安も大きくなり、学校へ戻る決心をして、無理を承知でバンドを退団させて頂いた。
時代はパンク/ニューウェーヴのムーブメントを経て80年代に入っていて、ロックは急速にポップ化の道をたどり、大衆におもねる姿勢を示したことに幻滅を感じたことも大きな理由だった。
以降私の音楽の嗜好の中心はジャズに移行した。

後悔はまったくない。
こうして縁の下の力持ちとしてミュージシャンをサポートしたり、写真を撮ったり、文章を書いたりして、文句を言いながら側面的に音楽の魅力を伝える方が性に合っている。
だいたいね、ミュージシャンになる第一の条件は…食べ物に好き嫌いが全くなく、どこでもすぐに平気で寝ることができて、世間のことには少し鈍感なぐらいでなければとても持たん!私には音楽的才能の欠落の前にそうした難関もあったのだ。
そして、バンドを辞めた後は、学業に専念し(コレはウソ。とにかく大学を卒業しただけ)、ジャズのビッグバンドでギターを弾いた。
その関係でバンドを辞めた後もブラスのアレンジをして、ビッグバンドの管楽器の連中と一緒に新宿ロフトに出させてもらったことが一回あった。あれも楽しかった。
その後、就職して地方に赴任してしまったため完全に大竹さんとも哲さんとも疎遠になってしまった。

こんな青春を過ごしてきて、振り返ってみるに、今の斯界の音楽の状況があまりにもイビツな恰好をしていることに驚きを感じ得ない。
それに同感する諸兄も多いのではなかろうか?
最近、この三文役者が活躍していた時代のご同輩たちが集まり、次々と音楽活動を再開している傾向がある。
ドンドンやるがいい。大人が聴けるロックを演るのだ!
ロックは若者のモノであると同時に元来大人のものだったのだから!大人のロックはもうジジイが演るしかない!
そんなムーブメントが感じられる中、とうとうやらかしてしまったのだ。
いい大人が最後の悪あがきを見せてくれるというのだ。
三文役者の復活である。

そこで、Marshall Blogはその三文役者のワンマン・ライブを公私混同で2本立てでお送りするワケだが、その前に少しだけこのバンドの説明をしておきたいと思う。

三文役者はPANTAさんの芝居の仲間であった花之木哲という人のバンドだ。
哲さんが曲を作り、歌っている。
優れた作詞家でもある哲さんは、PANTAさんの『PANTAX'S WORLD』の中の「三文役者」と「EXCUSE YOU」という曲の詩を提供している。
もちろん、この「三文役者」という曲がバンド名にスライドしていることは言うまでもない。ちなみにこのレコーディングではCharさんがギターを弾いている。
大分前にこのことをCharさんに言ったら「オマエ、何でそんなの知ってんだ!」と笑っていらした。さすがCharさん、日本人離れした分厚いギターがカッコいい。

30さらに『走れ熱いなら』では「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」、「追憶のスーパースター」等の詩を提供。
「三文役者」、「ガラスの都会」、「あやつり人形」、「走れ熱いなら」あたりは私もよく演奏させてもらった。
そんな関係で、一度新宿ロフトの時にPANTAさんが飛び入りで出演してくれたことがあって、ファンだった私は興奮しまくった。
「Cadillac」というブルースだった。The Kinksの「Cadillac」ではない。
ちなみにこのジャケット写真、双方鋤田正義さんの撮影。この後の『マラッカ』も『1980X』もそう。PANTAさんの写真はいつも鋤田さんだ。

40そしてコレは三文役者の12"シングル。LPサイズ、45回転の4曲入り。当時はまだ珍しかった自主制作盤だ。
新宿ロフトの昼間を借り切って録音機材を持ち込み一発録音した。
コレが思い出せない…。高校生だった私は一部始終を見ているのだが、日曜日だったのかな?昼間に録音したことは間違いない。それとも平日で学校を休んで行ったのかな?
…と思ってインターネットで調べてみたら、案の定日曜日だった。

「三文役者」、「北斗星」、「サド書簡」、そして当時新曲だった「東京デストロイシティ」の4曲が収められている。

80その中から出てきたのがこの「ロッキンf」誌1980年5月号の記事のコピーを使った宣材物。このレコードについて書かれている。
どれどれ…
「彼らには3原則がある…
1. ファンには絶対に手を出すな。破れば即クビである。
2. ステージの前及びステージ上での禁酒禁煙。
3. 時間厳守。
ま、そういうバンドだった。

70

そしてこれは名曲「怒雨降り」と「風」を収録した10"シングル。
これは目黒のスタジオで録ったような…。これも私が高校の時。
夜中の録音で、終了後、大竹さんの家に泊めてもらってそこから直接学校へ行った。
この後にも音源を制作しているが、ここでは自分に特にかかわりの深い作品を紹介した。我がセイシュンなのだ!

90そんな思い出がたくさん詰まった三文役者。
とうとう我々の前に再び姿を現したのだ!

…といってもコレが初めてではなくてPANTAさんといっしょに昨年の暮れにも舞台に上がっていたのだが、私はインフルエンザで行けなかったのよ。
これまただいぶ前の話しだが、頭脳警察のトシさんが「哲がまた三文やるって言ってたよ」とおっしゃっていた。
その時から、ずいぶん時間が経ってしまって、はたしてコレがそうなのかはわからないが、とにかく哲さんが帰ってきたのだ!
120
この人が花之木哲。
実は私の結婚式にもご参列頂いている!
100v
ベースは石井正夫。
130_2正夫さんは三文役者のオリジナルメンバーというより創設者のひとり。
元頭脳警察のメンバーで日本のロック史に残る必殺的超スーパーウルトラ名盤『悪たれ小僧』のレコーディング・メンバーでもある。
アタシャ、このアルバム、高校の時に大竹さんから教わって聴いて好きでネェ。今でも聴いてる。
そのレコーディングメンバーの正夫さんと一緒に演奏できるってんでものすごくうれしかった。
ちなみにこの日、同じくレコーディング・メンバーの勝呂和夫さんも会場にいらしていて正夫さんにご紹介頂いた。
すごく腰の低い方で、この方があの狂気の「戦慄のプレリュード」や「真夜中のマリア」なんかを弾かれていたとはチョット信じがたかったが、とにかくうれしかった~!

140cdドラムはさとっちょ。
さとっちょは元是夢(ゼム)というバンドのメンバー。
このバンド名に聞き覚えのある方もいらっしゃるだろう。昔、某楽器メーカーの広告に出ていたバンドだ。
「俺たち浦和のツェッペリンじゃなく、世界の是夢になりたいんだ」
これが広告のキャッチ・コピーだった。
是夢というバンドも凝った曲作りが魅力的ですごくいいバンドだった。

150vそして大竹亨。いわゆる「ちぇり~」。
ヘタすると私をこの世界に引きずり込んだ犯人。
コレがまた不思議で、何でまた大竹さんと再会したかというと、SHOW-YAのsun-goさんのおかげだったのよ!
最後に会ったのは22歳ぐらいの時だから30年ぶりの再会だ。ゼンゼン変わっていない!
ステージ・ネームは「ちぇり~」ということになっているけど、私はいまだに「大竹さん」と呼んでいる。
だって子供の時に知り合った大竹さんは、私にとっては永久に「大竹さん」なんだもん。今更とても恥かしくて「ちぇり~」とは呼べん!

110

G→D→B…何回弾いたことか…。オープニングは当然「三文役者」!

160「♪待ち続ける朝の光…歌い続ける人の愛…演じ続ける三文オペラ」…一生忘れないわ。

170v大竹さん、昔はMUSIC MANのコンボを使っていたんだけど…

180今日は1962 Bluesbreaker。

190ああ~、哲さんの声だ!
ナンカ30年前よりパワーが増してる感じ!

2002曲目は「あやつり人形」。
PANTAさんはコレをレゲエで演ったが、三文役者はストレートな8ビートでヘヴィに聴かせる。

210また正夫さんのベースが堅実かつ剛健でいいんだ~。ベースらいしいベース。低音以外は何もいらない!って感じ。
昔はね、1992SUPER BASSを使ってたんだよ。ステージの上で私の1959と並べていたんだ。

230v「♪あやつり人形さ、人間なんて…」
しっかしいい曲だナァ。
300
さとっちょのヘヴィなビートがバッチリとマッチする。是夢のころからカッコいいドラムだな~って思ってた。

250ここでビックリするMCが…。
次の曲は「聖羅」というロッカバラード。昔からある曲で、ずっとバンド・アレンジで演奏してきたが、『主役だけじゃつまらない』というアルバムの中で哲さんはピアノをバックに録音した。
今回のコンサートではそれを再現すべく、ピアノを弾いた「タコ」こと高島田裕之というキーボード・プレイヤーを呼ぼうとしたが、それはかなわなかった。
私も最後期に一緒に演奏させてもらっていたので、久しぶりに会いたかったが、この哲さんのMCでもう二度とお会いできないことを知った。
このコンサートの数日前に亡くなったというのである。
タコさんは底抜けに明るい人で、腕も確か。後にマキさんのバンドでも活躍したと聞いた。
この場をお借りしてご冥福をお祈り申し上げます。

260この「聖羅」という曲は昔「おまえ」というタイトルだったのかな?

240v

古式ゆかしいロッカバラードの典型のような曲。そう、ロックのバラードはコレでいい。
情感豊かに絞り出すように熱唱する哲さんの姿が印象的だ。
310v
第一部最後。
「今日は特別よ!」と私に言っていた哲さんが最後に選んだのは「コルト63」。
270v
うれしいわ~。
哲さんが自作ミュージカルのために作った曲のひとつ。
この楽しく、ハードな曲が大好きだった。

290元々この曲のタイトルは「コルト●●」の●●にその時の年を入れることになっていた。
一番古いところで記憶に残っているのは「コルト'77」ぐらいかナァ。つまり40年以上前の曲ということだ。
今年は1963年でも2063年でもない。
「63」とは哲さんの齢というワケだ。若い!
ホント、身体を悪くされたと聞いていたが何のことはない、昔よりよっぽどパワー・アップしているし、声もよく出ている。何よりも歌がうまくなった!(失敬!)
昔から根性とエネルギーが服を着ているような人だった。

330その鉄人を支える鉄壁のバンド陣!

340シンプルにしてタイト。

350vハードにしてロマンチック!ああ、やっぱりいいナァ、三文役者!
320v
…と、コレだけ読んだらMarshall Blogをご愛読頂いている方は三文役者を見たくなったでしょう?
4月18日、新宿URGAに出演するので是非この日本のロックの生きる化石のようなバンドを体験してもらいたい。

三文役者の詳しい情報はコチラ⇒三文役者オフィシャルサイト

360v【特報!!】
チョット、これはスゴイよ!
大人のフジロックかサマソニか、はたまたHigh Voltageか?!
外道、頭脳警察、めんたんぴん、THE 卍、そして三文役者が一堂に会するスペシャル・コンサートが決定した。
おやじニンマリ。
6月28日、場所は新宿のスペースゼロ。
ここは2000年にJim Marshallを呼んで「マーシャル祭り」を開催した会場だ。
ん~、運命を感じるネェ~!

June あ~、今日はタップリ書いた!
<後編>はもっとサッパリいきます!

(一部敬称略 2015年2月21日 荻窪ルースターズ・ノースサイドにて撮影)