Like Father, Like Son ~ 父の思い出
五月の下旬、父が81歳で永眠し、先週四十九日の法要も無事に済ませた。
この場をお借りしまして、お心遣いを頂戴しました皆様に心から御礼申し上げます。
父が息を引き取った時、私はイギリスにいたものだから今わの際に立ち会うことが出来なかった。
芸人でも公人でもない自分が、まさか肉親の臨終に接することが出来ないなんてことはついぞ考えたことがなかったが、却ってよかったとも思っている。
ドラマよろしく目の前で「ご臨終です」なんてやられた日には号泣してしまって思いっきり正体を失いかねなかったからね。
何しろMarshallの近くのホテルで妹から訃報メールを受け取って、それを見ただけで「ガ~っ」っとひと泣きしちゃったぐらいだから…。
それでも、聞こう翌日からお通夜、告別式と時差ボケしているヒマもないぐらいの忙しさだった。
生まれてこの方、ズ~っと心配のかけ通しだった。
本当に親孝行なんて何ひとつできなかったナァ。
「親孝行した」と、こっちの論理で自分を納得させるならば、孫の顔を二種類見せることができたのと、最後まで父と仲良くしていたことぐらいかしらん?
父は明るく、人を笑わしたり、おどかしたりすることが大好きなオッチョコチョイなキャラクターだった。だから、棺の中の彼を見ても息を引き取ったことが信じられず、しんみりしているところに突然ガバッと起き出して、「ギャハハ、驚いたかッ?!」とやりそうな気がしてならなかった。
でも、その亡骸は氷のように冷たく、ピクリともしなかった。
「お父さんはどういう人でしたか?」と人から尋ねられたら、何の迷いもなく、「とてもやさしい人でした」と答える。
今日はそんな父のことを書かせて頂く。
これまでMarshall BlogにはMarshallに関わった方々の訃報を何度も掲載してきた。
もちろん私の父はギタリストでもなければ、楽器業に携わっていたワケでもない。せいぜいJim Marshallに一度会ったことはあるぐらいだ(正確にはJimを「見た」だ)。
だからMarshall Blogに採り上げられる所以はまったくない。
彼は浅草生まれの大工で、音楽とはまったく縁のない仕事をしていた。
強引に結びつければ、下の写真の若い頃の父のヘアスタイルを見ると、ちょっと「ロケンロー」になっているからだ…というのはもちろん冗談。
戦時中は仙台に集団疎開し、戦後の混乱期には学校にもロクに行かれず、幼い頃から玄翁(トンカチのこと)や鍛冶屋(釘抜きのこと)を握り、同じく大工だった祖父の仕事を手伝わされて過ごしたため、十分な教育を受けることが何ひとつできなかった。
しかし、父は(私から見れば…)かなりの博学だった。
知識はすべて書物から得たと昔よく言っていたが、彼は日本文学はもちろん、シェイクスピア、ディケンズ、ヘミングウェイ、スタインベック、スタンダール、ドストエフスキー等の海外文学まで精読していた。
囲碁や将棋にも詳しく、ゴルフやスキーも今みたいに一般化する大分以前からたしなんでいた。
…なんて書くと、いかにも優秀な「スーパー・インテリ大工」のように見えるが、全然そんなことはなくて、チョット一杯引っ掛ければデレデレになってしまう一介の職人だった。
また、昔はそんな人がゴロゴロしていたものだった。
しかし、父には誰にも負けない分野があった。
それは「映画」だ。
特に洋画に関しては膨大な知識を持っていた。アレで文章のひとつも書けて、滑舌よくしゃべることができれば、簡単に映画評論家になれていたかもしれない。実際に雑誌の企画で淀川長治や小森和子と旅行に行ったこともあったらしい。
私はその父の薫陶を受けて、かなり小さい頃から映画に夢中になった。
中学に入るとその興味が音楽に移行し、ギターを弾き始めた。
そして時は流れに流れて、今はMarshallのために額に汗し、Marshall Blogを書き続け、幸せなことに読者の皆様から大きな支持を頂戴している。
つまり、父がいなければ映画に興味を持たなかったかもしれないし、音楽を好きになることもなかったかも知れない。
すなわち、Marshall Blogもこの世にあり得なかったかもしれない…。
そうであれば父もMarshallに関係していることになるのではないか…と私流に感謝の気持ちを込めて考えたのである。
そういうことで、今日は紙幅をお借りして思い出を交えながら映画の話しをして、Marshall Blogの源流である父にトリビュートさせて頂きたいと思う。
家内にも話したことのない話しばかりだ。どうでもいいような話しだからだ。
しかし、私の中ではそのどうでもいい話しが連綿と生き続けていて、一生忘れることができない父の思い出になっているのだ。
お時間のある方は是非お付き合い頂きたい。映画好きの方のもゼヒご一読願えれば幸甚である。
タイトルの「Like father, like son」とは「この親にしてこの子あり」を意味するイギリスのことわざだ。
では…
<Beep!(開演ベルの音)>
さて、下の写真は浅草の父の実家の前で昭和39年ぐらいに撮られたもの。50年前の写真だ。
すでにfacebookに乗せたことがあるので、それをご覧になられた方多くいらっしゃると思うが、この当時、まだ東洋の一大繁華街であった浅草でもまだ地面が舗装されていなかった。
後ろは私の父と母。前に立っている利発そうで可愛らしい男の子が私である。
この後、このガキが迷惑と心配と金を親にかけっぱなしにするなんてことは、写真の中の二人はつゆ知らない様子だ。
昭和39年、1964年、東京オリンピックが開催した年。
年表を調べると、経済的、政治的、文化的にものすごくたくさんの発展的な出来事が起こっている年だ。
終戦から約20年、イケイケドンドンで戦後日本の一番いい時代だったんだろうね。
さて、ここに父の薫陶を受けた証しがある。
三冊のファイル・ブック。
本当はもっとあったのだが、引っ越しのドサクサでこれだけになってしまった。
強引なのは百も承知。でもこれらを紹介することを父への追悼のひとつとしたい。
これらが積りに積もってMarshall Blogになっているのだから…。
ファイルブックの中身は映画のチラシだ。
私が小学校高学年から中学1年生の時に集めたもの。リアル・タイムでゲットしたものもあれば、後追いでコレクションに加わったものもあって、すべてホンモノである…といってもたかがチラシ、金銭的には何の価値もなかろうが、思い出がいっぱい詰まっている私には値千金の宝物なのだ。
ところで、昔は子供の数も多く、怪獣映画がすごく盛んだった。
ゴジラやガメラは言うに及ばず、ギララ、ガッパ、『恐竜グワンジ』…あと忘れたけど、そういう怪獣物は母が連れて行ってくれた。ケロヨンもよく観に行った。
当然ビデオなんかない時代だからね、映画館でしかそれらの動く怪獣を見ることができない。
父と一緒に映画館で映画を観た最古の記憶は多分『ポセイドン・アドベンチャー』だ。
錦糸町の江東リッツだったように記憶している。
それから今は無きテアトル東京で観た『パピヨン』。コレなんか親戚一同で行ったわ。
一番印象に残っているのは、小学生の時に観た『七人の侍』だ。
モノスゴイ雨の日で、ヘタをすると映画の中の野武士との決闘シーンより映画館の外の方が土砂降りだったに違いない。
映画館はまたしてもテアトル東京で、父はナニを勘違いしたか、道を間違えてしまい開演時間に間に合わなくなてしまった。
ほうほうの体で映画館にたどり着いた時は全身ずぶ濡れだった。
『七人の侍』の公開が久しぶりだったのか、あの広い館内はスシ詰め状態で、まだ小さかった私は立ち見することもできなかった。
すると父は「アソコへ行っちゃえ!」と舞台を指さした。
テアトル東京は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていて、よじ登ることなくステージにあがることができたのだ。
そこにも大勢のお客さんが座っていて、軽く頭を下げて仲間に入れてもらった。つまりあの大スクリーンから2~3mの距離で三時間半の映画を観たのだ。
それでも子供ながらに「なんておもしろい映画なんだ!」と夢中になって映画の中に入り込んだナァ。今観てもそうなんだけど。
父が亡くなる数か月前、私の家に来た時、DVDで『七人の侍』を一緒に観た。すると、「あの時はすごい雨だったナァ…」と、ポツリポツリと40年前のことを静かに口にしていた。この時、「父にさよならする日もそう遠くないな」…と感じた。
その後に『隠し砦の三悪人』も観たのだが、彼はあまり集中している様子ではなかった。
すぐに疲れてしまい寝てしまうのだ。
『赤ひげ』もすすめたのだが、「アレは長いからイイや」と遠慮していた。この数か月後、自分が『赤ひげ』の中の藤原鎌足扮する六助のようになってしまったのだ。
結果、『七人の侍』が父の最後の映画になった。
下は珍しいA4サイズのチラシ。1967年の『特攻大作戦(The Dirty Dozen)』。チラシはやはり映画好きで年上のいとこからもらった。
ロバート・アルドリッチ監督、リーマービン、アーネスト・ボーグナイン、チャールズ・ブロンソン、ジョン・カサベテス、テリー・サバラス、ジョージ・ケネディ、ロバート・ライアン、ドナルド・サザーランド…ク~、タマらんぜ!男のニオイしかしない映画。メチャクチャおもしろかった。
映画も監督も俳優も全部父から教わった。
もうハリウッドはこういう映画を作ることはできなくなってしまった。『ミッションなんとか』の軽く数百倍は面白い。
『シャレード』を初めて観たのはテレビでだった。小学校四年ぐらいだったのかナァ?やはり父のすすめだった。「そうか!切手か!」なんてそのトリックに感心したりして…。
父は『ベン・ハー』がとても好きだったな。ジュダ・ベン・ハーよりもメッサーラの方がカッコいいぐらいのことを言っていたのを覚えている。
『アラビアのロレンス』も父から勧められた。
我々の世代はこういう映画をすでに「名画」として観るワケだが、父は「新作」として観てるからね。それはそれは新鮮だったと思う。
よくオマー・シャリフがラクダに乗って向こうの方から近づいてくる最初のシーンのことを話していた。
そのオマー・シャリフも数日前に亡くなった。享年83歳だったそうだが、ナント、ウチの父よりたった2歳上なだけだった!片やベドウィン族の親分、こっちは浅草の職人。父もアラビアに生まれていたらモスクのひと棟も建てていたかもしれない。
『エデンの東』の話しも良くしていたナァ、というのもジェイムス・ディーンの役どころと自分の立場が重なると考えるらしいのだ。次男坊の悩みだ。
「親は長男ばかり可愛がるが、本当に親や家のことを考えているのは次男なんだ」って。
父は自分の家族には最高にやさしく接してくれたが、自分はあまり家族愛に恵まれない境遇だった。
『風と共に去りぬ』も恐らく十回以上は観ているのではないだろうか?「金はあるし、カッコいいし、アシュレーよりレッド・バトラーの方がゼンゼンいいのにな?」と観るたびに言っていた。
しかし、昔のアメリカ映画は本当にスゴかったね~。音楽もよかった。(『ロレンス』はイギリス映画。ちなみにヴィヴィアン・リーはイギリス人。ヘップバーンも元はイギリス国籍でベルギーで生まれ育った)
この辺りは珍しいのではないかと思ってピックアップしてみた。
ほとんどピーター・オトゥールしか出て来ない異色戦争映画『マーフィの戦い』、本当にネズミが恐ろしい『ウイラード』、設定が巧妙な『さらば荒野』なんてのを父から教わった。
どれも最高におもしろくて夢中になって観た。
『マッド・ボンバー』のチラシなんて珍しいでしょ?チャック・コナーズもネヴィル・ブランドもよかった!
『おかしな夫婦』は原題が『The Out of Towners』というニール・サイモン脚本の喜劇。ジャック・レモンとサンディデニスの主演。メチャクチャおもしろいよ。
30年後にスティーブ・マーチンとゴールディ・ホーン主演で、『アウト・オブ・タウナーズ』というタイトルでリメイクされた。私はスティーブ・マーチンが苦手なんだけど、コレは案外よかった。「モンティ・パイソン」や「フォルティ・タワーズ」のジョン・クリースも出てる。
『ゴッドファーザー』も大好きだった。ただし『パートIII』のことはクソミソに攻撃していた。
ご多分にもれずニーノ・ロータのテーマ曲にやられたクチでよく鼻歌を歌っていた。
自分ではジェイムス・カーンかアル・パチーノ気取りだったかもしれないが、実際はジョン・カザールだったりして…イヤイヤ、私にとって父はいつまでもドン・ビトー・コルレオーネなのです。
やっぱりコッポラってスゴイ。また観たくなってきた!
彼、『007』は最後の最後まで全部観てるんじゃないかしら…。
車をアストン・マーチンにすることはなかったけど、ボンドのことはすごく好きだったハズだ。
私よりチョット年上の方々がLed ZeppelinやDeep Purpleをリアル・タイムで体験したように、父はもこのシリーズも最初からリアル・タイムで観ているハズだ。
そりゃ、『ロシアより愛をこめて』なんて出てきた時に観りゃおもしろくてタマらんわナァ。よくあの列車の中のロバート・ショウとの決闘のシーンの話しをしていた。あのロバート・ショウは本当にカッコよかったもんね!
一方、サンダーボール作戦」なんて言葉を父の口から聞いたことはなかった。でも観てるハズ。
さて、このチラシ、ちょっとよく見てみて。
『ドクター・ノォ』と『サンダーボール作戦』のショーン・コネリーの写真が何と使い回しなの!なんでこんなことしたのだろうか?!
ボンドのピストルはワルサーPPK。PPKとは「Polizeipistole Kriminal(警察用拳銃刑事版)」のこと。「Polizei」はドイツ語のポリスね。何年か前、タクシーにスーツケースを忘れてフランクフルトのPolizeiに大変お世話になった。
アレ?よく見ると『死ぬのは奴らだ』と『黄金銃を持つ男』のロジャー・ムーアも同じだ!ロゴみたいなもんか?
そういえば『黄金銃』のクリストファー・リーも先ごろ亡くなった。
私が「ポール・マッカートニー」という名前をハッキリと認識したのは、「ビートルズのポール」ではなく、「『死ぬのは奴らだ』の主題歌の人」だった。
原題の『Live and Let Die』は「Live and Let Live」ということわざのパロディ。「自分も生きて、他人を生かす」という「共存共栄」を意味するが、ここでは「自分は生きて他は死なせる」と物騒な意味に変えている。
10ccは、この後さらにひねって『Live and Let Live』というライブ・アルバムを発表した。
昔はCGなんてないから特撮映画は珍しがられたし、良く出来ている作品は人気も高かった。
このシンドバッドのシリーズとか『アルゴ探検隊の大冒険』とか『ミクロの決死圏』とかその特殊効果に驚いたものだった。
このあたりも全部父から教わった。
ちなみに海外では「シンドバッド」のことは「シンバッド」と発音する。
『燃えよドラゴン』も父が新宿へ観に連れて行ってくれた。
映画館から出てきた時にはふたりともすっかりブルース・リー気分で、道を歩きながら「アチャ~!」なんてやったものだ。
根っからのアメリカ映画信奉者の父は、ブルース・リーをカッコいいと思いながらも『燃えよドラゴン』以外作品はまったく観なかったのではないかと思う。あるいは、チョットは観たけど受け付けなかったのではないか?
「キョンシー」なんて絶対に観なかった。でもジャッキー・チェンはヨカッタみたいだ。
ヨカッタよね~『フレンチ・コネクション』。
ジーン・ハックマンのポパイもヨカッタけどロイ・シャイダーがまたいいんだ。
音楽はDon Ellis。
『2』の頃になると私はひとりで映画館に通っていたので、もう父と映画を観に行くことはなかった。『2』は日比谷映画で観たな。ポパイが麻薬中毒にされて監視役のババアに時計を取られるシーンがナゼかショッキングだった。
しかし、ジーン・ハックマンっていい役者だった…ってまだご存命なのね!『俺たちに明日はない』ではあんな役だったのに…ドンドンすごい仕事をするようになった。
『盗聴』なんて今でも観てる。
あ~、『ダーティ・ハリー』も夢中になって観てたな。ただし、一作目だけ。でもそれは正解。
『2』は小学生の時、親戚のオバサンに新宿のミラノ座へ連れて行ってもらった。映画は面白いとは思わなかったが、帰りにそのオバサンが映画館で即売していたMGCの「44マグナム6インチ」のモデルガンを買ってくれた。うれしかったナァ。
それからしばらくの間モデルガンにハマった。
それで勉強がおろそかになり、父が罰としてモデルガンをどこかに隠したことがあった。没収だ。
返して欲しくば勉強をしろ…ってなことになったのであろう。
珍しくしっかり勉強をして、約束通りテストで良い点を取って許してもらったのかな?
「モデルガンを返して欲しい」と父に詰め寄ると、一枚の紙を私に渡した。
そこには「勉強が~」から始まり、何やらしかつめらしいことが何行か書いてあった。
「わかったから返してくれ!」と詰め寄ると、父は「その文章をよく読んでみろ。特に最初の字を!」と答えた。
言われるままにジーっと最初の文字だけに目をやると、「勉強」の「べ」から始まり、後は覚えていないが…それらの最初の文字をタテに連ねて読むと「べつどのした」となった。
私の大切なモデルガンがベッドの下から出て来た。
そんなことをする父だった。
古さからいけば最初の『特攻大作戦』の方がレアかもしれないが、恐らく私のコレクションの中で最も珍しいのはコレじゃないかしら?『ボルサリーノ』。二種類揃ってるし。
『ボルサリーノ』は1970年の日本公開。『2』は日比谷映画で観た。
父はジャン・ポール・ベルモンドが好きでね、『リオの男』とか『カトマンズの男』とかを紹介してくれた。アレもおもしろかった。
それで私もベルモンドが好きになると、どこからかポスターを買って来てくれたことがあった。
当然大工仕事はお手の物だから、手作りでパネルを作って来て、そのポスターを貼ろうということになった。
そんなもんうまくいくハズもなく、案の定、ノリの水分でデコデコになってしまった。憐れベルモンドはイッキにゴミと化した。
そういえば、昔は木造の家の建築現場ってのがあちこちにあって、子供たちがその廃材に久ぐを打ってパチンコ(スマート・ボールかな?)だの手製の船だのを作って遊ぶことがあった。
私もその船を自分で作ったことがあった。船といってもただ五角形に切った薄めの板に船室に見立てた小さな木端を釘で打ち付けたような取るに足らない代物だ。
ところが、それを見た父が「そんなんじゃダメだ」と仕事場で立派な船を作ってくれた。うれしかったんだけど、さすがにプロらしく、正目の檜から切り出した木材の表面をノミで掘り出して、側にカンナをかけた、「木曽の土産」とでも言えそうな流麗な船仕上がりだった。イヤな予感がした。
さっそく家のフロに水を張ってその船を浮かべてみたら…見事に転覆して沈没していった。
こんなことって結構覚えているもんだわ。
『さらば友よ』は観ていない。
コレ、1974年の1月31日にテレビ放映しているハズ。どうして覚えているかというと、死ぬほど観たかったんだけど、親に早く寝るようにいわれて泣く泣く布団に入ったんよ。次の日は2月1日で、ある私立中学校の入学試験日だったの。
それを受験するもんだから、前日の夜更かしは厳禁だったというワケ。
結果は不合格。
それなら観ておけばヨカッタ。
そして、いまだに観ていない。
アラン・ドロンも人気あったよね~。久しぶりに『レッド・サン』なんて観たいな。ドロンもまだご存命だ。
チャップリンの話しはほとんどしたことがない。どうもあまり好きではなかったようだ。
少なくとも『キッド』は自分の子供の頃を思い出すとか言ってイヤがっていた。別にウチの父は孤児じゃないんだけど…。
反対にマルクス兄弟が大好きだった。
私もその影響でDVDのボックスセットを買った。『A Night at the Opera』とか『A Day at the Races』とかね。Queenファンはコチラをご覧あれ。
そのせいか私もチャップリン映画はほとんど観ていない。でも、ナゼか自然とチラシだけは集まった。多分、私が中学一年生ぐらいの時にチャップリンのリバイバル・ブームがあって、映画館へ行くたびにチラシだけ持って帰って来ていたんだと思う。
今こそジックリ観たい。
やっぱり単純で明るい人だったといえるのだろう。父はハリウッド映画とそれに準ずる娯楽映画以外は一切観なかった。
ベルイマンとかブニュエルとかフェリーニとか、いわゆる芸術映画を徹底的に忌避していたね。
私もそういうのは苦手で、『去年マリエンバートで』とか『8 1/2』とか、観るには観たけどサッパリよさがわからなかった。
そんなしかめっ面して観る小難しい映画よりも、ビリー・ワイルダーやヒッチコックや初期のスピルバーグを心から愛でていた。ワイルダーのお気に入りは『第17捕虜収容所』と『お熱いのがお好き』と『サンセット大通り』だった。
思い出したらキリがないな、ハンフリー・ボガードもお気に入りで、『黄金(原題は『The Tresure of Sierra Madre』)』とか『サハラ戦車隊』とか『脱出』、『アフリカの女王』、『必死の逃亡者』もすすめてくれた。全部破天荒におもしろかった。特にジョン・ニューストンの『黄金』はスピルバーグのお気に入りでもある文句のつけようがない傑作だと思う。
おかげで私も難しい映画は苦手。音楽はダンゼン難しい方が好きなんだけど。
でもチラシはチョット様子が違っていて、こんなサタジット・レイなんかも集めてみた。映画は観たことない。
…と、とにかく色々と教えてもらったな。
父は落語にも造詣が深く、「生きている志ん生を見た」というのが自慢のひとつだった。
仕事中は現場でラジオを聞くのが常で、ラジカセのある現場ではテープを持参して落語をよく聴いていた。
私も父によろこんでもらおうと思って、図書館でレコードを借りて来てはカセット・テープにダビングして差し入れあげた。
すると、「お、可楽か?」、「三木助だな?」と片っ端から演者を言い当てていた。
若手では志ん生の息子、志ん朝と談志は別格だった。それと、「小金治がちゃんと古典をやっていればナァ」と嘆いていたナァ。
なぜコレを覚えているかというと私にとってのDavid Sanbornだったから。「Sanbornがちゃんとビバップを演奏してればナァ」という嘆きと同じだったからだ。
私も小づかい銭欲しさに中学の頃から父の仕事をよく手伝っていたので、その仕事現場で落語に馴染み、興味を持った。
浅草で仕事を手伝って、取っ払いで5,000円もらってそのまま秋葉原の石丸電気へ行って、少しお金を足して『Yessongs』を買ったことを昨日のことのように覚えている。
それと、よく柳家三亀松のテープを買い込んで聴いていたな。他にも虎三をはじめとした浪曲や相撲甚句なども好んで聴いていた。
あの浪曲ってのは「ひとりミュージカル」で、よく聴いていると結構おもしろいよ。
私のミュージカル好きも父親譲りなのだ。
私はというと、映画だけでなく映画音楽にも深く興味を持ち、月一回のNHK FMの関光男の映画音楽の番組を丹念にエアチェックしていたりしたが、The Beatlesを知ってから徐々に音楽単体に興味が移って行った。
あの頃に映画で知った音楽で今でも聴いているものも結構ある。
例えば『ルシアンの青春』のDjango Reinhardtや『好奇心』のCharlie Parkerなどがそうだ。
他にも『スティング』に使われたScott Joplinのラグタイムもそう。ま、今はそう聴かないけどね。『スティング』はミュージック・テープをお茶の水の駅の横の小さいレコード屋で買った。
その他、ずいぶんポピュラー音楽が使われた映画が当時からあった。ポランスキーの『マクベス』なんでThird Ear Bandだもんね。『ビリー・ザ・キッド』はBob Dylan。Bee GeesやSimon& Garfunkelについては説明不要だろう。
こういう映画が私を音楽の世界に這い込むキッカケを作ってくれた。すなわち父からの流れだ。
上にも書いた通り、父には「生きている志ん生を見た」というのが大きな自慢だったが、他にもうひとつ自慢があって、晩年まで私にその話しをしていた。これは以前、Marshall Blogに書いたことがあったように記憶している。
それは、『絶壁の彼方に』という1950年のイギリス映画を観ている…ということだった。
私はこの映画を『たかが映画じゃないか(←コレはヒッチコックの有名な言葉、明日解説します)』という和田誠と山田宏一の対談集で知った。何しろヤケクソにおもしろいらしいのだ。
この話を父にすると、「エ、何?『絶壁の彼方』?シドニー・ギリアットのか?ダグラス・フェアバンクス・ジュニアな!ジャック・ホーキンスも出てたよ。あれは本当におもしろかった。アッレ~?もしかしてキミ観てないの?あんなおもしろいのに!何で観ないの?」…なんて猛烈に私をからかうのである。しかも、毎回会う度にである。
そんな愉快な人だった。
こっちも悔しいので、あの手この手でビデオを探した。VHSがかつてあったようだが、モノは見つからなかった。
ま、死ぬまでに一回ぐらいは観ることができるだろう。楽しみはキープしておこう。
今日ここで触れた以外にも、一体どれだけの情報を私に授けてくれたことだろう。映画に限った話しではない。
忘れていたけど、父は写真がウマかったらしい。何だかのコンテストで優勝したことがあるとか言っていたが、賞状はおろか作品も見たことはなかったし、写真の話しなんかしたことなかった。
でも、後年私が「写真の仕事をしている」と告げると「ホホウ、僕の才能が遺伝したのかな?」とか言っていた。ホンマか?
こうして落ち着いてくると、結構色んな事が自然に思い出されて来てツライ。いくつになっても肉親を失うのは寂しいものだね。
私が幼い頃ふたりで行ったスキーのこと、交通事故で入院した時のこと、カップヌードルが発売になって大興奮で買って帰って来た夜のこととか、半分に切ったグレープフルーツに間違えて塩を乗せて食べさせてしまったこと(飛び上がっていた)、中三で入院した時、私が読みたいと言ったLed Zeppelinの本をお茶の水じゅうを探してゲットしてきてくれたこと、マーシャル祭りを観に来てくれたこと…もう、いつもしてもらってばっかりだった!
怒られたこともホンの数回あったけど、父といると笑いが絶えることがないのが普通だった。ずいぶん笑わされてもらったし、こっちもたくさん笑わせた。
お父さん、本当にどうもありがとう。
こうして考えてみると、私は完全にお父さんのクローンだわ。まったく出来の悪いクローン。
すなわちLike father, like son。
もう一回お父さんとイッパイやりながら映画の話しをしたいよ…。
続けられる限りMarshall Blogは続けるぜ!
さようなら、お父さん。
あ、お盆だからすぐ帰って来るか…。
それなら大好きな浅草でユックリしていけばいいよ。
★ ★ ★ ★
本稿に関連し、明日はMusic Jacket Galleryで『サウンドトラック盤特集』を掲載します。
お楽しみに!
(敬称略)