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2024年12月25日 (水)

目黒鹿鳴館物語<その2>

 
目黒鹿鳴館入社

S:ナニはともあれ念願の音楽関係の仕事に就けてヨカッタですね。
S41a0005_1_2P:ハイ。でもマァ、色々とこき使われましたよ。
今で言うパワハラみたいなことも普通にありましたし。
でも、そうして一生懸命やっていたのでバイトから社員に格上げしてくれたんです。
それで「音響をやってもらう」って…。
S:社員になるとPA担当になるんですか?
P:そう。でも仕事の最初はピンスポの担当から始まるんです。
アルバイトは照明までしか担当させてもらえなかったんですよ。
ところが、「PA」と言われてもボクは音響の学校を出ているワケでもないのでどうやっていいのかサッパリわからない。
すると店長が「ああ~大丈夫、大丈夫!後ろで見てオレのを盗めばいいんだから」と言われて1、2週間やったんです。
ナニひとつ教わらないで「ハイ、後はその人のセンスだから。最初は後ろに付いていてあげる」で終わり。
結局ナニも盗めなかったんですよ!
S:アレは見ているだけは絶対わからないと思いますよ。
慣れている人は作業も速いし。
P:そうなんですよ!どれぐらいの音を出せばよいのかなんて全然わからない。
しかもボクは19歳ぐらいで、出演者はみんな年上じゃないですか?
もうコワかったんですが、昔はボクも長髪で痩せていて皆さんに可愛がってもらいましてね…特にガーS41a0020_1ル・バンドの皆さんとか「ペペちゃん、ペペちゃん」なんて言ってもらっちゃって…で、そのガールズ・バンドの人がミュージシャンの彼氏に「ペペちゃんを可愛がってあげて!」なんてやってくれるワケです。
S:実際、ペペさんはカワイイですからね、目が。
P:アハハハハ!
S:しかし、それからはズッ~~~と鹿鳴館?
P:そうです…1987年からズッと。
S:スゴイですね。私なんかMarshall社は3つめの勤め先ですからね。
P:ナンカあんまり働いているという感覚がないんですよ。
そりゃ仕事に対して悔しい思いや辛い経験もしましたが、好きなことなので…というか、コレをやりに田舎から出て来たので今までアっという間でしたよ。
S:以前はよくペペさんがデカい紙パックのコーヒー牛乳を片手にピンスポを動かしているのを目にしましたが、アレにはそんな職歴が背後にあったんですね?私はペペさんの照明が大好きでしたよ!
だって「コンサート」というモノをよくご存知だもん。
P:アハハハハハハハ!
 
***********<コラム4:鹿鳴館を記録する>************
真ん中が昔のぺぺさん。
ピントが合ってないこともあるが、この写真を見て私は真剣に「アレ?西田敏行が来たんですか?」とペペさんに訊いてしまった。
「イヤ、それがオレです」って。S41a0165昔の鹿鳴館の入り口。
マリーンのポスターが時代を感じさせるナァ。
え?もしかして鹿鳴館に出演していたの?
コレは『サマー・ナイト』というアルバムのポスターでリリースは1982年だそうです。
そんな時分に撮った写真だとしたらコレは鹿鳴館がオープンしてから2年後のモノだ。
S41a0151 
ペペさんの下積み時代
S:そんな状態で一番最初に音響を担当したバンドって誰だったんですか?
P:「Magician’s Birthday」という当時30歳ぐらいのハードロックのバンドでした。
S:ユーライア・ヒープが好きだったのかな?
P:それが時間を守らないバンドでしてネェ。持ち時間が40分とか45分なのに平気で1時間を越したりするんですよ!
S41a0009_1当時は音出しが9時までだったんです。
6時から始めて、転換も含めて1時間ずつ3バンド演奏して終わりが9時。
ところがそのバンドが時間をオーバーするもんだから9時に終わらずに大騒ぎ。
すると先輩たちが「山口!オマエがチャンと言わないからダメなんだよ!」って言うんですよ。
相手はかなり年上でしたからね、「エエエエ?オレが言うんスか?」ってなもんです。
こういうことはブッキングの担当者の仕事なんですけど、しょうがないから「あの~、時間を守ってもらいたいんですけど」って言いに行ったんですよ。
そしたら「へへへ、迷惑をかけるつもりはないんだけどね~…ノッちゃうとね~、止まらないんだよね~」とか言われて困ったことがありました。S41a0047_1_2
でも当時はそういうバンドがたくさんいましたよ。「自由」と言えば自由な時代だった。
S:ルールを無視するのがロックだゼ!みたいな?
好きな仕事とはいえ、そういうご苦労は絶えなかった?
P:まぁ、色々ありましたネェ。
当時は今と違って「出待ち、入り待ち」がスゴくて、店の前なんかもうグッチャグチャになっていたんですよ。
すると近所のゲームセンターの人とかがもう怒鳴り込んで来ましてね。
こっちは隣近所に迷惑をかけるワケにはいきませんから、店の前にいる女の子たちに「移動してくれ」って頼むんですが、彼女たちも意地になっちゃってテコでも動いてくれない。
困りましてね…で、考えたのがその日のライブが終わってから、出演したミュージシャンがステージに落としたピックをかき集めてその子たちに「コレをあげるからどっかヨソへ行って!」ってやったんです。
そんなことをしているウチに向こうもボクに親しくしてくれるようになって、「ペペちゃんが怒られちゃうからアッチへ行こう!」なんて協力してくれるようになったんです。アレはアレでいい経験でしたよ。
S:それはウマいことを考えましたね~。

***********<コラム5:鹿鳴館を記録する>************
鹿鳴館が入っているヤマザキビル。Img_2753お店の前の歩道の幅員は普通で特に狭いワケではないが、ココに若いヤツらがひしめき合って通行の邪魔をしていれば近隣の人はハラが立って当然だわナァ。
ペペさんも大変だったと思う。
Img_2211 
ジャパメタについて
P:ボクが鹿鳴館に入った1987年は、時代的にはジャパメタ・ブームのピークだったです…まだ「X」が出て来る前ね。
S:ペペさん、途中でちょっとゴメンなさい。
私は1980年に入った頃からロックとはゼンゼン異なる音楽に夢中になっていたものですから、「ジャパメタ」なるモノを全く通っていないんですよ…それでMarshallか?って怒られちゃいそうですけど、70年代の洋楽なら人後に落ちることはまずありませんから!
で、「Xが出て来る前」ということになると、「ジャパメタ・ブーム」というのは一体ダレが火をつけたということになるんですか?EARTHSHAKERとかの世代?S41a0013_1_2
P:イヤイヤ、シェイカーは「第2世代」ですよね。
言ってみればBOW WOWとか、LOUDNESSが「第1世代」。
それからEARTH SHAKER、ANTHEM、44MAGNUM、ACTION、BLIZARDとかの「第2世代」につながるワケです。
で、「第3世代」がREACTIONとか、PRESENCEとかDEAD ENDとかの世代になるんだと思います。
それが1987年ぐらいになると、そうしたバンドが次々にメジャー・デビューをして大きな会場でライブをやるようになった。
その後にもバンドは出て来ましたが、ブームは段々終焉に向かい出した。
その頃にXが出て来たんですよ。
S:へぇ~、そういう感じだったんですか?
P:はい。正確に言うとXは「出て来た」のではなくて元々別のメンバーで存在していてチョット他のバンドとは違う感じだったんです。
当時のジャパメタよりもスラッシュ・メタルみたいにもっと激しい感じって言えばいいのかな?…すごくハデでね。
で、メンバーの何人かはすでに別のバンドで鹿鳴館に出ていたこともあってXも出るようになった。
S:なるほど…。
 
ライブハウスは危ない?
P:当時はライブハウスも黎明期というか、今とは違って親に「ライブハウス行ってきます!」って言えないような怪しい場所だったんですよね。
S:そうだったと思います。
私は高校生だった70年代の後半から屋根裏とかロフトに通っていましたが、確かにライブハウスはコワいイメージでしたよ。当時は店内でタバコもゼンゼンOKでしたしね。
P:そうそう、ヴィジュアル系も市民権を得るようになって、Xの頃から「ライブハウスというモノはそういう怪しい場所ではない」という風に変わったんですね。
テレビなんかにもライブハウスが出て来るようになったし。
で、その時代にライブハウスに通っていた人たちが親になっていますからね。
今ではライブハウスもそんなに煙たがられることがなくなったワケです。
S:ライブハウス周辺でブラブラしているお兄さん、お姉さんがまたコワかった。
いつ行ってもそこにいる人たちが何人かいた。
P:はい。この辺の高校なんて「鹿鳴館の前を通ってはいけません」という校則があったぐらいなんですよ!マジで。
目黒駅に行くのに鹿鳴館のところはワザワザ道路の反対側へ渡って通過するという規則なんですよ!S41a0019_1
P&S:ギャハハハハ!(大爆笑!)
P:それでも「行ってみたいナァ」って子がいるので先生がこのあたりをパトロールしていましたよ。
だから制服なんかでは絶対に行かれない。
埼玉とかからは制服で来ている子がいましたけどね…この辺の学校の生徒はムリ。
S:昔はライブハウスに高校生なんてまずいないのが普通でした。
そもそもロックを聴いている子が少数派でしたから。
だから私はどこへ行っても必ず一番年下でした。
それがいつの間にかどこへ行っても最年長になっちゃいましたよ!
P:そうでしょ?ボクも鹿鳴館に入った頃は一番年下でした。
お客さんに年下がホンの少しいたかな?
S:そうして若い子が鹿鳴館にも来るようになってなんかトラブルがあったりしました?
P:忘れもしませんよ。見るからに中学生の子が近所の居酒屋で酔いつぶれていたことがあったんですよ。
あの頃は居酒屋もかなりいい加減でしたけど、打ち上げの時なんかバンドもファンも居酒屋へ行って一緒になってメチャクチャやっちゃうんですよ。
おかげでバンドマンはこの辺りの居酒屋に出入り禁止になっていましたからね。
長髪にしているだけで出入りが許されない。
S:ま、ご苦労はあってもそのジャパメタの第3世代が来て、ものすごく盛り上がったというのは「とても良い思い出」ということですよね?
P:そうですね。

***********<コラム6:鹿鳴館を記録する>************
近くの高校生たちは道路の反対側に渡り、こんな景色を見て目黒駅へ向かっていたのであろうか?
そういえば昔、ココに歩道橋があったよね?Img_2751 「あ~あ、学校帰りに入ってみたいナァ、鹿鳴館」Img_2760_2 この高校生の話って実は他人ごとではなくて、今から約30年前、初めてニューヨークへ行った時、あまり治安がよくないと聞かされていた「バワリー・ストリート」というところをビクビクしながら歩いていると、「ドォォォォン、ドォォォォン」という不吉な低音が聞こえて来た。
何事かと思ったらそこにニューヨーク・パンクの殿堂の「CBGB」があった。
もうコワくてね、目黒の高校生のように店の前を通らずにワザワザ通りを渡ってCBGBを遠巻きにしながら通過した。
ペペさんの話をお聞きしてこの時のことを思い出してしまった。Cbgb2 で、こうして通りの反対側に来て初めて気がついたんだけど、コレ以前は「筑前屋」とかいう焼きとん屋が上に入っていたんですかね?
いつのことかナァ。かすかに覚えているような…覚えていないような。
その後に叙々苑が入ったのかな?
Img_2759  
Xの思い出
S:いわゆる「鹿鳴館が育てた」的な代表的なバンドというと?
P:「育てた」というワケではありませんが、鹿鳴館をホームグランドにしていてテレビに出るようになったバンドということで言えば、X、LUNA SEA、GLAY。S41a0066_1
Xは違いますが、他は鹿鳴館のオーディションから入っていますのでね。
S:私が高校生の頃はライブハウスに出るだけでも大変だった。
P:そうです。Xはベースの沢田泰司さんがボクが入る前の鹿鳴館の店長の高校の後輩だったんです。
その店長がXのツアー・マネージャー兼PAをやっていたので鹿鳴館がホームグランドになったんです。
で、1988年にメジャー・デビューして「紅白歌合戦」にも出るようになったんですが、当時、鹿鳴館では大みそかに「オールナイト・メタル・パーティ」というのをやっていたんです。
それでXの連中がNHKホールの後、必ず鹿鳴館に来てくれていたんです。
お客さんもそれを知っているもんだからNHKホールから全部流れて来ちゃう!
だって、こんな小さなライブハウスなのにダフ屋が出ていたんですよ!S41a0089_1S:ヒエエエエ!ダフ屋が?! 実際に演奏もするんですか?
P:タマにメンバーがステージに上がることはあっても演奏はしませんでした。
紅白も終わったし、後輩のバンドがたくさん出ているし、朝までやっているしで、自分たちも混ざってワイワイ楽しみに来ていたんです。
メチャクチャになっていましたけどオモシロかった!
アレには「ライブハウスの本質」を見たような気がしましたよ。
バンドのメンバーが楽しんでいるところを見てお客さんが楽しむ…みたいな。
S:そのイベントに出て今でも活動しているバンドはいますか?
P:東京ヤンキースとMUCCぐらいかな?
GLAYは出ませんでしたけど、LUNA SEAは一度出たことがありました。
S:しからば、今、鹿鳴館をホームグラウンドにしてくれている現役のロックのバンドとなると誰が思い浮かびますか?
P:CONCERTO MOON、BLINDMAN、岡垣さんのイベント…ズッ~と現役で「鹿鳴館がホーム」ということになると、一番最初に名前が出て来るのはやっぱりCONCERTO MOONかな?
あと高橋ヨシロウさんのバンドもそうですね。
S:それほど古くないにしてもNAKED MACHINEも?
P:もちろんです。
 
***********<コラム7:鹿鳴館の思い出>***********
「鹿鳴館の思い出」の第2回目はまず、ペペさんが「鹿鳴館をホームにしているバンド」のひとつに挙げていた岡垣さんの登場。
 
岡垣"JILL"正志0r4a0603「1984年にTERRA ROSAで初めて東京に遠征した時の会場が目黒鹿鳴館でした。
権之助坂に機材車を停車してその看板を目にした時『これがあの有名な目黒鹿鳴館か!東京進出頑張ろう!』と意気込んだのが40年前。
それ以来、初の全国ツアー、メジャー・デビューライブ、レコ発ライブ、そして解散ライブと、関東ではTERRA ROSAの節目の時には目黒鹿鳴館でライブを行うのが慣例となりました。
TERRA ROSAが解散した後も梅ちゃん祭、マンドレ祭、パープディープル、レインボー伝説などのセッション・イベントに出演したり、Metal総進撃、様式美大作戦といった自主企画イベントを目黒鹿鳴館で開催させて頂いてきました。
その慣れ親しんだステージの上から今年の11月に見た景色は40年前と変わらずとても素敵で、その時『この風景を見るのもコレで最後なんだな…』と思ってちょっとセンチメンタルになりましたね。
そして、鹿鳴館といえば本当に温かいスタッフの皆さん!
特別な安堵感があって、毎回『いつもの感じでお願いしま~す』で伝わる空気感の素晴らしさ。
ライブ中にブレーカーが落ちて停電状態になっても1度も不安になったことがありませんでした。
自分にとってそんな特別なホーム感がある目黒鹿鳴館が大好きでした。
エレベーターがない鹿鳴館では道路から2階分の階段を下りて人力でホールに機材を運ぶ必要があって、キーボードやアンプやスピーカー等、重くて大きな機材が多い私にとってはそれがかなりの力仕事で体力的にも精神的にも鍛えられた気がします。
1991年のTERRA ROSAのライブ・レコーディングでは48chオープンリール・レコーダーを持ち込んだのですが、人力ではその長い階段を降ろすことができなかったので電動昇降装置で搬入してもらい『こういう方法もあるのか!』と感動したのを覚えています。
派手さを求めて照明を追加したり、特効のCO2ボンベを複数持ち込んで会場を煙まみれにしたり、好き勝手をやらせてもらって舞台裏の面白さも知ることができました。
本当にタメになった『目黒鹿鳴館の日々』でした。
このライブハウスがなければ関西人である私にとって恐らく『目黒』という場所を頻繁に訪れる機会はなかったハズです。
関東でのライブの拠点として活動させて頂けたこと、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
最後になりますが、ぺぺさん、長きに渡り本当にお世話になりました!
思えば自分と同じく『Deep Purple好き』、『Rainbow好き』ということもあって、様式美イベントをいつも気持ちよく開催させて頂き感謝しております!
また新天地でも同じスタッフの皆さんと一緒にステージを作っていきたいと心から思っております。
今後もお世話になるつもりですので引き続きよろしくお願いいたします!」
 
<昔の鹿鳴館の入り口には出演バンドの情報が張り出されていた。
いいね~、すべて手書き!

その真ん中…TERRA ROSAの出演を告知している。
よく見ると「Final Concert」と題されていて「解散」の文字が見えるではないか。
コレは文字通り1991年の12月に開かれた解散コンサートの告知。
岡垣さんのコメントにある48チャンネルのレコーディング機材が持ち込まれたのはこの時>

S41a0154_2<そしてこのライブアルバム『Live・・・Final Class Day』が誕生した。
ジャケットに使われている写真を見ると、すべて2階席から撮ったモノだね?
きっと1階はパンパンで撮影するスペースがまったくなかったのであろう>
91_12_21<2024年11月9日、『様式美大作戦2024』のこのJill's Projectのステージが岡垣さんの最後の目黒鹿鳴館での演奏となった>0r4a0727 
***********<コラム8:鹿鳴館を記録する>************
では、鹿鳴館の入り口の様子を記録しておこう。
歩道に向かってつけられている電飾の看板。Img_2213かつて入り口の右側には焼肉の「叙々苑」が入っていた。Img_9829このネオンサインが上の岡垣さんのところに掲載した写真と同じモノだとすると…もう33年は使っていることになる。
Img_2214鹿鳴館に入る。
岡垣さんがオルガンやレスリー・スピーカーの搬入に苦労した箇所の始まりがココ。Img_9832 踊り場に受け付けがあって…Img_9834 更に階段を降りる。Img_1814_1_2昔はこんな感じだった。S41a0158そして、ロビーに降りてくる。S41a0161コレは今のようす。Img_1811_1 踊り場のショウ・ケースには目黒鹿鳴館のステージに立った皆さんのサイン入り色紙やドラム・ヘッドが所狭しと飾られている。
鹿鳴館の財産のひとつだ。Img_1813_1 
***********<コラム9:鹿鳴館の思い出>************
岡垣さんのTERRA ROSAでデビューを果たした三宅庸介さんからもメッセージを頂戴した。
三宅さんにもまた並みならぬ鹿鳴館への思い入れがおありなのだ。
 
三宅庸介
S41a0066「初めての鹿鳴館に出演したのはTERRA ROSA加入後の1987年6月のことだったと思います。
それは初めての東京でのライブでもありました。
TERRA ROSA在籍時は、イベントが開催されるホール以外で東京で演奏する場所は鹿鳴館ばかりで、あの音や景色は今でも特別な思い出になっています。
その後、他のバンドでも出演させてもらいとても感謝しています。
一度、2000年頃だったかな?…あるイベントに大谷令文さんと一緒に出演させてもらったことがあって、彼がデヴィッド・ボウイの『Lady Stardust』をギターで見事にカヴァーされていたことをよく覚えています。
それから、いつだったか打ち上げの後、ナゼか令文さんと”CRAZY"COOL-JOEさんと3人で話し込んでいい感じになってしまったことがありました。
するとぺぺちゃんが『朝まで鹿鳴館で飲んでていいですよ!』と、お店を開けておいてくれたんです。
ビックリするぐらいの量のお酒を買い込んで、3人で鹿鳴館のフロアの真ん中に寝そべったりしながら翌日の昼まで飲み明かしたこともありました…懐かしいですね。
初めて出演した時は20歳…そして先日、57歳で自身のバンドであるStrange,Beautiful and Loudで出演させてもらったのが最後の鹿鳴館のステージとなりました。
それもTERRA ROSAゆかりのイベントで。
個人的に色々なことがあった1年だったこともあって、たくさんの記憶と想いが交錯してしまいサウンドチェックの時に涙が溢れて止まらなかった。
音がとても良いあのステージ上で本番でも涙を流しながら自作曲の『petal』を弾いたことはきっと忘れることはないでしょう。
そういえば、TERRA ROSAで初めて出演したとき、ちょうどぺぺちゃんも鹿鳴館に入ったばかりの新人さんだったことを記憶してます。
歳も近いこともあってずっとよくしてもらいました。
ありがとうございました。ひとまずお疲れさまでした…感謝。
鹿鳴館は関西出身の者にとっては最後まである種の『緊張感』のある場所でした。
加えて、ステージ上でも、客席フロアでも、2階席でも音がとても良い見栄えのする特別な場所でもありました。
ステージからの景色は決して忘れません。
『鹿鳴館』というハコ、ぺぺちゃん、そして長年にわたってお世話になったスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。
これからもよろしくお願いします」

<2024年7月14日、三宅さんはTERRA ROSAのメンバーとして、鹿鳴館では最後となる岡垣さんとの共演を果たした>008a0391 <そしてコレが三宅さんの最後の鹿鳴館のステージの姿。
バンドは自信のStrange,Beautiful and Loud。
2024年11月9日、岡垣さんが主催した『様式美大作戦2024』のひと幕だった>

0r4a0168 
***********<コラム10:鹿鳴館の思い出>************
Jill's Projectで岡垣さんの、そしてStrange,Beautiful and Loudで三宅さんの最後の鹿鳴館をサポートしたのが金光さん。
金光さんも古くからの鹿鳴館のステージの常連だ。
「鹿鳴館の金光健司」というと、個人的には声優シンガーのバックを務めたステージもとても印象に残っている。
 
金光健司S41a0618「上京する前、関西で在籍していたJERUSALEM (エルサレム) というバンドのステージが個人的には初めての鹿鳴館でした。
おそらく1985年頃...ジャパメタシーンのド真ん中にあるその聖地にいつも勇気と刺激をもらい、ヘコまされ、励まされ、そして『お客さんの前で演奏する』ということがいかなる意味を持つのか…その全てを教わった場所が鹿鳴館です。

昔はどのバンドも自分のドラム・キットをフルで持ち込んでごっそりと転換するのが普通のやり方でした。
自分の楽器は自分の『武器』ですからね。
近年ではライブハウスに常設してあるキットを使い回しするのが一般的になったため、どんな状態のキットが常設されているのかはドラマーにとって非常に重要なポイントになります。
それゆえ後年、鹿鳴館にNATALのキットが常備されたことはとても嬉しく思いましたね。
これから新たに鹿鳴館でステージに立つドラマーにとっても武器になること間違いなしです。

鹿鳴館の思い出に話を戻します。
自分としてはペペちゃんの成長を昔から見守ってきたようでいたんですが、実はその何倍もこちらが見守ってもらって来たんだな…と感じることが多々あります。
これからもたくさんのアーティストを見守ってあげてくださいね。
鹿鳴館からは人生の宝物をたくさん与えてもらいました。
どんなに時が経っても憧れの場所であり、帰ると心が落ち着く場所でもありました。
もちろん寂しさはありますが、それ以上に今後の期待が大きい…そんな鹿鳴館の新たな門出を祝いたいと思います」11_0r4a1063 <つづく>

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200 (一部敬称略 ※写真提供:ぺぺさん)