目黒鹿鳴館物語<その3>
大型トラブル発生!
S:それではヒドイ目に遭った話を聞かせてください。P:ヒドかった話ネェ…。
S:何やらたくさんありそうですね?
P:いっぱいありますよ~!
そうね~、アレはスゴかったナァ。
あるヴィジュアル系のバンドが仕切ったイベントでした。
S:一体ナニが起こったんですか?
P:はい、ヴィジュアル系のバンドだけを集めてやればよかったんですが、ナニを考えたのかハードコアのバンドと組み合わせた企画だったんです。
ハードコアの連中ってのはちょっとコワいワケですよ。
それで8バンドぐらいが集まってやるにはやったんです。
「やった」まではヨカッタんですが、ハードコアの連中にしてみるとヴィジュアル系なんてどうでもいいワケですよ。
ハードコアとヴィジュアル系が交互に出演して行って、このままナニも起こらなければいいナァ…なんて思っていたんですが、最後の最後に両方のバンドが出るセッションがあったんです。
それに出たハードコアのバンド・メンバーはわずかで、ヴィジュアル系のバンド・メンバーばっかりだったんですね。
その時演奏したのはセックス・ピストルズの「Anarchy in the UK」かなんかだったかな?
そうしたら2階にいたハードコアのファンの連中が「お前らナンだってパンクの曲なんか演ってんだ!」って怒り出してステージに向かって空き缶をガンガン投げ出したんです!
S:ハードコアの人たちはパンクが気に喰わないというワケですね?
P:でも、ビジュアル系のバンドの子たちはハードコアのバンドを恐れていたので、空き缶を投げられても反抗もナニもできなかったんです。
ところが、今度は1階にいたヴィジュアル系のファンの連中が「自分たちがヒイキにしているバンドに向かってナニをしてくれるんだ!」と怒り出して、2階席と1階席でお客さん同士のケンカが始まっちゃったんです!
S:ギャハハ!分断だ!
P:そう!そのケンカを止めるでもなくステージではそのまま
演奏が続いていたんですが、2階の連中がその場にあった長椅子を下の階へ放り投げたんです。
S:そんなムチャな!
P:ナニかに引っかかってズドンと直接下に落ちることはなかったので幸いケガ人は出なかったんですが、お客さんの1人が救急車を呼んじゃいましてネェ。
結局、救急車は来るし、警官は来るし、ライブは中断するし、マァ~、アレにはマイりましたよ。
禍福は糾える縄の如し
S:それは大変でしたネェ。天災は?…浸水とか。
P:そりゃありましたよ!
下水ではなかったんですが、上の階から水が漏れ出したんです。
場所がステージの上だったんですが、ビニールを張ってポタポタ垂れてくるのを防いでいたんですね。
漏れて来る水の量は多くないにしても段々ビニールに溜まっていっちゃうじゃないですか。
で、あるバンドのアンコールの時にシンガーが上向いた瞬間にビニールがハズれてジャッバ~とやっちゃった!
S:まるでドリフ状態じゃないですか!
P:まったく!
他にも上の階の配管工事がオソマツで、トイレのところから上に上がる階段の壁が全部崩れ落ちたなんてこともありましたよ。
この楽屋も隣の配管がおかしくなって水浸しになったことがありましたね。
その時は汚水だったのでクサくて大変でしたよ!
S:そういう意味では近所のお付き合いなんかもご苦労があったんじゃないですか?
P:さっきもチョット触れましたが、最初の頃は店の前のお客さんの行列でこの辺りの商店会の会長さんからら毎日クレームが入ったんですよ。
我々も菓子折りを持って近所のお店に挨拶をして回ったりしたんですが、ある時から鹿鳴館のロゴが入ったシャツやジャケットを着てこのあたりの清掃活動をするようにしたんです…毎日欠かさず。
見てくれている人はよく見てくれていて、そのうち商店会の会合で新しく店を出した人から鹿鳴館に対するクレームが出たりすると「アナタのお店の前を掃除してくれているのは鹿鳴館さんなんですよ!」と、かつて鹿鳴館にクレームを入れて来ていた皆さんが味方をしてくれるようになったんです。
S:やりましたね~!気持ちが通じた。
P:で、周辺のお店とはうまくいくようにはなったんですが、通行人からクレームが入ることもありましてネェ。
店の前の道も狭いので、通行人の邪魔にならないように気をつけてはいたんですが、一度お客さんとその筋の人がモメてしまったことがあって、その仲裁に入ったなんてこともありましたよ。
ズ~っと手首をつかんで話をするんですよ…コワかった。
ま、大人しく引き下がってくれましたけどね…。
**********<コラム11:鹿鳴館を記録する>**********
その問題のイベントの時、このような長椅子を下の階に向けてココから放り投げたのだという。
そんなことしちゃダメよ、ダメダメ。
しかし、ペペさんたちもビックリしただろうナァ。
「客どうしのケンカ」といえば、コレはこれまで何度も書いているけど、私は武道館のテッド・ニュージェントのコンサートの最中にアリーナ席で外国人の客と警備員が取っ組み合いのケンカをしたのを目にしたことがある。団体戦でスゴイ迫力だった。
でも、おかげさまでライブハウスで危険な目に遭ったことはなかったナァ。コレはステージの天井スラヴ。
先日のJill's ProjectのMCでDio Kenちゃんが「鹿鳴館のステージの天井は黒くない」ということを言っていたけどホントだわ。
打ちっぱなしのコンクリート。
ココから水が漏れていてドッパ~ンとなった。
見てみたかったナァ。
ステージ上に設置されている照明群。
第1回目のコメントでユキさんが触れていたが、この中にREACTONの時に設置された照明機材が残っているかな?楽屋エリアのようす。ノンちゃん、チョット失礼!
かつてはココにも汚水が入り込んでしまったことがあったという。楽屋用の部屋は奥にもうひとつあって、男女別、または喫煙/禁煙別で使い分けているバンドが多かった。
困ったお客さん
S:お客さんの中にも厄介な人がいたのでは?ゲロ吐いちゃうヤツとか。
P:ウ~ン、結構いましたネェ。
切ない話なんですけど印象に残っているのは…「たこ八郎」を思い浮かべてもらえばよいと思うのですが、ああいうパンチドランカーみたいな感じの人が、油まみれの汗臭い作業服を着てやって来るんですよ…週一ぐらいで。
S:ライブを観にくるんですか?
P:そう。メタルだろうがヴィジュアル系だろうが、そういうことはお構いなしで、3バンドぐらい出るイベントになると現れるんです。
でもナゼかワンマンの時には来ない。
とにかく酒と汗と油のニオイがスゴくてまったくしゃべらない。
で、受付でポケットから小銭を取り出してトレイの上にジャラジャラ置くんです。
5円玉とかも混ざっていて、それで何とかチャージを支払ってくれるんですよ。
当時の鹿鳴館はドリンクをやっていなかったのでチャージだけ支払ってもらう。
それで一番前の席に座って、ツマらないと思うと寝ちゃうんです。
ところが、寝ると小便をしちゃうんですよ!…寝小便ね。
反対に楽しくなると他の人たちと一緒になって「ワ~!」って騒ぐんですが、今度は周りのお客さんからクレームが来ちゃうんですよ…「あのオジさんがクサイ!」って。
まぁ、ナニかしちゃってからでは遅いということはわかっているんですが、痴漢をするワケでもないし、人のモノに手を出すワケでもないのでこちらからはどうすることもできない。
「あの人もライブハウスが好きで来てくれるみんなと同じお客さんなのでわかってあげて~」って周りのお客さんには納得してもらいました。
S:そのお客さんはその後どうなったんですか?
P:気がついたら来なくなっていましたね。
ナンカこっちも勝手にストーリーを作っちゃって…だって2,000円も出せば他でイッパイできるのに、仕事をしてクタクタになった後、ライブを見に来てくれるワケでしょ?
キレイごとを言うつもりはありませんが、鹿鳴館はそういう人の心の拠り所にもなっていたんだナァと思うんです。
あの人のことを思い出すととても切なくなるんですよ…今どうしてんのかナァ。
一番お客さんが入ったライブ
S:切なくなってしまったところで今度は景気よく行きましょう。
今までで一番客が入ったライブは誰でした?
P:(即座に)「Dancer」だと思います。解散ライブでは400以上入れましたからね。
S:エエエエエッ?400人もッ?! 一体どうやって?
藤本泰司さんがやっていたバンドですね?
P:そうです。420近く入れたのかな?
メジャーに行く前、インディーズ界隈ではかなり惜しまれつつ解散しちゃったんですよ。
アルバムもよく出来ていましたし、本当の正統派のメタルというか、ハードロックのバンドでした。
その解散ライブだったんです。
S:メタルに人が群がる時代だったんですね。
しかし、400って…。
P:前売りで300とか350とか出してソールドアウトしたんです。
もう入りきらないので今だったらもうそこで打ち切りにしますけど、ナンカ知らないけど当日券を出したんですね。
S:だってホールに入れなければお客さんだって観ることができないでしょう?
P:そうです。だからホールの扉を開けっぱなしにして、ロビーまで満員にしたんです。
S:ヒョエ~!
P:でもそれどころじゃなくて、階段にまで入ってもらって、お客さんは手すりの下からアタマを出して見てもらったんです…ま、見えませんけどね。
あの光景は忘れることができません。
S:その反対は?つまりお客さんがゼロとか。
P:ワンマンで20人以下とかいうバンドはありましたよ。
ボクはそのバンドがニガテでしてネェ。
ライブもムダに長くて、そのバンドが出る時には仕事に来るのがユーウツでしたね。
S:ペペさんでもそんなことがあるんですか?
それにしても鹿鳴館のワンマンで20人じゃいくらなんでも寂しいですね~!
**********<コラム12:鹿鳴館を記録する>**********
ホールの扉を開けてロビーを望む。反対にロビーからホール内を望む。
今はホールに誰もいないので見通すことができるけど、お客さんが入ってしまったらココからはナニも見えやしないって! この階段に座って首を手すりの間から出して逆方向を向いてホールの中を覗いたっていうんだけど…ますます見えるワケがない!
音だけなら家でレコード(この頃はもうCDかな?)を聴いているほうがよっぽどよかろうに!
姿は見えなくても、音を聴いて、一緒にその場にいる…ということだけで満足だったんだろうね。
「ファン」ってのはそういうもんなのね?
かく言う私も実は似たようなことをしたことがある。
1981年、キング・クリムゾンが初めて日本に来た時のこと…『Discipline』のレコ発ツアーね。
コンサートに行きたいものの小遣いが足りない。
でもどうしても観たい!
そこで思い立ち、家から自転車で5分の浅草国際劇場まで行って、中から漏れ聞こえて来る音だけを聴きに行くことにした。
外からだから、Dancerのファンより条件が悪いハズだった。
劇場の前で開演を待っていると、若い男性が近寄って来て、「スイマセン、友達が急に来れなくなってしまったんです。チケットをお持ちでないのであれば2,000円でこの余ったチケットを買い取ってもらえませんか?
どうせ売るのであればあの人たちに売るより、キング・クリムゾンが好きな人に買ってもらいたいんです」と、その男性は見るからに風体のよろしくないオジさんたちの方を指さした。
もちろんダフ屋の皆さんである。
ズボンのポケットに手をいれると千円札が3枚ぐらい入っていたので勿怪の幸いとばかりに即座に2枚の千円札を渡した。
チケットはS席で2階席の1番前だった。「コレで2,000円はラッキーすぎる!」と思ったことはココに書くまでもなかろう。
中学生の時からキング・クリムゾンが大好きだったので、そのコンサートは人生の中で忘れ得ない感動的なモノとなった。
前回、ペペさんが鹿鳴館でもダフ屋が出た話をされていたが、インターネットでコンサートのチケットを買い求めるようになった昨今、今でも「ダフ屋」って商売はあるのかね?
今は「転売ヤー」か?
皆さんきっと「昔はヨカッタなぁ」と思っていることでしょうナァ。
何でも昔はヨカッタよ。
鹿鳴館とMarshall
S:ところで、ペペさんが記憶している範囲で…Marshallは昔からズッと鹿鳴館のステージにあったんですか?
P:イエ、昔は鹿鳴館のステージには機材が備え付けられていなかったんです。
鹿鳴館は「オーディションが厳しい」って言われていて、ボクが1987年に入社して、その翌年からそのオーディションを担当したんです。
LUNA SEAを落としたのもボクなんです。
S:ギャハハ!ビートルズを失格にしたデッカのディック・ロウみたいですね?(Marshall Blog「ビートルズに勝った男」参照)
P:最終的には店長が合否をキメるんですけど、彼はライブをあんまり見ないんですよ。
それで「あのLUNA SEAってのどうだった?」って後で訊かれて「イヤ~、ダメですよ」なんてやっちゃった。
そんなんで「鹿鳴館は敷居が高い」なんて言われていたんです。
一方では、鹿鳴館には機材がないので自分たちの機材や機材車がないと出ることができない…ということもあったんですね。
今ではハコの機材を使ってライブをやることは普通になっていますが、鹿鳴館はそれを許さなかった…というか、機材を持っていなかったので許しようがなかったんです。
その内、ドラムスを持っていないバンドがだんだん増えて来てしまった。
あるいはドラム・キットは持っているけど、それを運搬する車がないというバンドですね。
それで「コリャ鹿鳴館も機材を置かないとダメだな…」ということになって来たんです。
S:そう言われてみると、あの頃って屋根裏でもロフトでも備え付けの機材を持っていたのかな?
少なくとも今みたいに「Marshallが常備してあった」というイメージは全くないな。
実際自分もMarshallを中古で買って持ち込んでいましたし…。
P:当時はほとんどなかったと思いますよ。
S:イギリスには機材を常備しているライブハウスもありましたけど、海外は基本的に機材は用意されていませんもんね。
P:そうですよね。
それで「鹿鳴館も機材を置こう」ということになって、誰が持ち主だかわからなかったドラム・キットを使ったり、ピーヴィーのベース・アンプを買い足したりしたんです。
当然ギター・アンプは最初からMarshallのスタックを2セット用意しました。
S:ありがとうございます!
それはザっと何年頃の話ですか?
P:1994、95年位かな~?
S:結構後になってからだったんですね?
それじゃお買い上げ頂いたのは「JCM900」だったのかな?
P:多分。
昔はココ(事務所の場所)でスタジオをやっていたんですが、そのMarshallは最初、そのスタジオ向けだったんです。
鹿鳴館のスタジオ
ココでインタビューの場所を事務所の中に移した。
S:今でも階段の壁に「ALL NIGHT STUDIO」という黒いサインが残っていますけど、アレはどういう風になっていたんですか?
P:この部屋(事務所)だけがスタジオだったんです。
かつてこのビルのオーナーだった人が経営していたんですが、ビルを手放すことになって、「この地下のスタジオも鹿鳴館が借りてくれないか」と言われて引き継いだんです。
S:ん?…ということは、上は鹿鳴館で下は別の人がスタジオをやっていたということなんですね?
P:そうそう。中がつながっていたのでチケットが取れない人気のあるバンドが出る時は、スタジオを借りて中から鹿鳴館に入ってライブを見た…なんてこともあったようです。
「今だから話すけど」と、後から聞いた話なんですが…。
S:それでその誘いに乗ってスタジオを引き継いで経営されたワケですか?
P:実はそれには乗り気ではなかったんですよ。
ところが第三者がそのスタジオを運営するということになると、共有部分が自由に使えなくなってしまう…そこで渋々借りたんですね。
それで「深夜料金1万円」なんてやっていたんですけど、シンバルの補充だけでもかなりコストがかさんでしまって「コリャ元が取れね~な」ということになった。
で、上の事務所が手狭になって来たこともあって、スタジオの経営からは撤退してココを事務所として使うことにしたんです。
************<コラム13:鹿鳴館の思い出>************
今回、目黒鹿鳴館の思い出を語って頂くのはNAKED MACHINEチームのふたり。
思い出してみるに、源ちゃんのことはかなり前から存じ上げていたが、2016年の4月に私が初めて5人組のNAKED MACHINEに接したのは目黒鹿鳴館だった。
下はその時のようす。
その後、メンバー・チェンジを経て、ペペさんおっしゃるところの「ホームにしているチームのひとつ」として鹿鳴館とは切っても切れない関係のバンドがNAKED MACHINE。
まずはリーダーでギタリストの源ちゃんから。
里村源多朗 「僕が初めて鹿鳴館に出演したのは割と遅く、1993年頃だったと思います。
その時、楽屋の横の事務所を覗くと、元Xのベーシスト沢田泰司さんが打ち合わせにいらしていて、Xファンだった当時のバンドのボーカルが驚いていた記憶があります。
それから10年後、まさか泰司さんと『音風』というバンドを結成するとはその時には夢にも思いませんでした。
2003年、鹿鳴館での音風の初ライブは超満員のソールドアウト。
フロアの扉は開きっぱなしでお客さんが溢れてた記憶があります。
現在NAKED MACHINEでは鹿鳴館RECORDSからCDをリリースさせて頂き大変お世話になっております。
そんな鹿鳴館ももうすぐ閉館、沢山の思い出をありがとうございました。
オーナーのぺぺさん、デンさん、シキちゃん、大変お世話になりました。
今後新たな地で『鹿鳴館』の歴史が始まることを期待しております」
************<コラム14:鹿鳴館の思い出>************
続いてはボーカルズのKANちゃん。
ペペさんと並ぶ「鹿鳴館の華」だけあって思い出は尽きないことでしょう。
KAN 「『目黒鹿鳴館』といえば!…私は小学生の頃からハードロックが好きで、中学時代は「将来バンドを始めたら絶対に毎月鹿鳴館で演奏するバンドマンになるんだ!」と思っていた憧れの聖地でした。
それから18歳位になってやっと鹿鳴館に出られるようになったのです。
その頃は今の楽屋と事務所の辺りはスタジオだったのですよ~!
で、階段の踊り場の横が事務所だったのですが、常連のバンドマンの先輩たちはその事務所から小さな窓をくぐり抜けて2階席に行くのです。
それがカッコよくて、いつかそれをするのが許される人になりたくて、初めてその窓から行き来できた時はうれしかったな~。
ペペちゃんがこれまで目黒鹿鳴館を支え、発展させ、そして動かしてきた功績はみんなの希望の証です。本当にスゴい!
ペペちゃんがアルバイトで鹿鳴館に来た時からアッあっという間に時が経ちましたが、今でも一緒に日々笑い、励まし合っている私の人生には無くてはならない大切な存在です。
そして忘れてはいけないのは、スタッフのデンさんとしきちゃん!
各バンドのステージ上での諸々を記憶していてくれて、毎回完璧な対応を施してくれました。
しきちゃんが、Marshallアンプをヒョイッと持ち上げた時は驚いた!
本当に安心して身をゆだねることができたことに感謝しています。
ところで、楽屋裏から舞台に上がる細い階段があるのですが、ライブが終わって高いブーツを履いたままその階段を降りる時、何回か落ちたことがありましたが、反対にあの階段を上がる時の緊張感はいつも変わらない「聖なる瞬間」でしたね。
長い間ずっと鹿鳴館に居ることができて本当にうれしかったです…『憧れていた場所』が『いつも居られる場所』になったのですから。
私の人生に目黒鹿鳴館が現れてくれたことに心から感謝します!
今はない歩道橋、打ち上げ後の蕎麦屋『与一』、エレベーターが無い搬出入、折り畳みのイス席…全部覚えておくよ~!
私はあのステージからの景色を忘れないでこれからも生きていきます。
ひとます、目黒の地でお疲れさまでした。
そして、次の鹿鳴館でもお世話になりますね!
そう、新たな『鹿鳴館』も楽しみでしかありません。
またずっとホームとして出られるようにNAKED MACHINEもがんばります。
これからも健康で一緒にワクワクして行こうね!
ありがとうペペちゃん、ありがとうスタッフのみんな!
これからもお支えします!」
<NAKED MACHINEは去る12月21日に最後の鹿鳴館での単独の公演を予定していたが、ドラマーの本間大嗣さんの椎間板ヘルニアが悪化し、やむなく内容を変更しての上演となった。
私も椎間板ヘルニアで塗炭の苦しみを味わった。本間さんが「稲妻のような激痛」と表現していたけど、ホント、アレは「苦痛のチャンピオン」としか思えないような苦しみだから!
最後にもう1度目黒鹿鳴館のステージに上がったNAKED MACHINEの姿を見てみたかったが、この判断は仕方のないところであろう。
代りに源ちゃんのソロ演奏と…> <メンバー3人によるトーク・ショウが上演された。
滅多に目にすることのできない出し物を観ようと大勢のファンが駆けつけて大いに盛り上がった(詳細は後日Marshall Blogでレポートします)。
新しい鹿鳴館のステージ上がったNAKED MACHINEの雄姿が待ち遠しい!>
************<コラム15:鹿鳴館を記録する>************
ロビーから…楽屋の階に降りる階段。
その壁にペペさんやkANちゃんが述べていたスタジオがあった痕跡が残っている。 廊下の突き当りの左、楽屋スペースの隣にある今は事務所として使っている部屋がかつてはそのスタジオだった。
部屋はこのひとつだけ。
スタジオを始めた時に導入したMarshallのハーフ・スタック2セットがコレ。
やはり「JCM900 4100」と「1960A」だった。 ちなみにペペさんが語っている「手狭になった上の事務所」とは踊り場の受付の右のところにある小部屋。
あ、しきちゃんが写ってる。
KANちゃんのメッセージにあったように、しきちゃんはいつもステージ周りの面倒をみている鹿鳴館の重要なスタッフのひとり。
新しいところへ行ってもよろしくね!今、そのかつての事務所はこんな具合。
そうだ!コレを見て思い出した。
鹿鳴館にはバーがなくて、昔はドリンクをやっていなかったわ。
この小部屋から…2階席のPA卓の後ろあたりにつながっていた。
コレがKANちゃんが憧れていたという2階席への抜け道。
実は、前のMarshallの社長を鹿鳴館に連れて来たことがあった。
その時、ちょうど音響設備を入れ替えたばかりで、今はなき鹿鳴館の前の社長が英語で直々にその新しい設備をウチの社長に説明してくれた。
その音響設備を操っているのがデンさん。
オマケ的に…。
PA卓と照明卓の配線。
2階席に上がって写真を撮る時にいつもコレが気になっていた。
ナゼかというと… このベトナムの街で目にした電線のようすを思わせてくれたから! <つづく>
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