目黒鹿鳴館物語<その4>
鹿鳴館のアノ話
S:ところでこのホールだとか楽屋のフロアが地下にあると思っている人が多いですよね。
ココは地下ではない…廊下の窓を開けると地上ですもんね。
今は慣れましたけど、私も一番最初はココが地下だと思い込んでしまって、誰もいない時なんかはこの辺りが結構コワい感じがした。
お差し支えがなければそっち方面のお話を…噂では学生服を着た中学生の男の子が男子トイレに立っているとか…。
P:そっちの話?ゼンゼン大丈夫ですよ!
その手の取材はこれまで何度も受けていますから。
S:あ、そうだったんですか?さすが!
P:ボクも3回ぐらい「不思議な体験」をしているんですよ。
実はボクも中学生を見ているんです。
S:ヒエ~!
P:2階で照明をやっていた時のことです。
2階席は関係者しか入れませんが、それを知らないでライブをやっている最中に勝手に上がって来ちゃう人がいるんですよ。
カメラマンとかだったら放っておきますが、そうではなくて一般のお客さんが上がって来た時にはピンスポの担当者の肩を叩いて「降りてもらえ」って合図をするワケ。
ある時、照明をやっていたボクの視界に見知らぬ中学生の男の子が入って来たんです。
ホントに白いシャツに白いズボン、メガネをかけたボウズ頭の子がしゃがんでいるんですよ。
最初はそういう衣装を着た出演者かと思ったんですが、そんなのいないし。
一般のお客さんが入ってきたのかとばかり思ってピンスポのヤツに合図をしたらソイツはキョトンとしているんです。
「しょうがね~な~、出て行ってもらえ」ってその子の方を指したらもう跡形もなく姿を消していたんです。その間、1秒ですよ!
S:やっぱり…。そりゃ間違いないな。
P:まぁ、期待を裏切るようで申し訳ないんですが、以前にもインターネットの取材の申し入れがあったんですが、鹿鳴館は女性のお客さんも多いし、アイドルも出ていますでしょ?
彼女たちをコワ怖がらせてはマズイということで取材を断ったんです。
でもオモシロ半分ではなくて真剣な取材だから…と何度も頼み込んでくるので事前に原稿をチェックさせてもらうことを条件にOKしたんです。
そして「霊能者」という方がやって来たんですが、来てすぐに「ココにはいない」って言うんです。
「以前はいたかもしれないけど、移動して行った」…って。
その場所のトップの人やスタッフが強力なパワーを持っていると霊が居づらくなって移動して行っちゃうんですって。
S:「ペペさんパワー」ですね?
P:へへへ!
さっき3回経験したと言いましたが、他の2回も2階席だったんです。
でも全部コワくなかったんですよ。
よく聞く「ゾワゾワという感じ」が全くしなかった。
下からすごくキレイな手が上がって来て床をビチビチ叩くんですよ。
女の子が下から手を伸ばしたところで届く高さではないでしょ?
でも「ナンダ今のは?」という感じでゾッともナニもしませんでした。
S:私だったら飛び上がっちゃうナ。
P:でもね、スタジオをやっている時は終了時間を知らせるベルが勝手に鳴ったり、スタジオの中に誰かがいる気配がしたりで、予約が入っていない時の深夜ひとりの留守番はみんなイヤがっていましたよ。
さっき話したようにスタジオがあったところも地下ではないんですが、「地下だから」という思いこみでコワくなっちゃうということもあったようです。
S:私はココが地下ではないということが比較的すぐにわかりましたよ。
坂を下りて来る時に外の地形を見ていればわかる。
鹿鳴館の座敷わらし
P:でもはじめの頃はコワく感じることもありましたよ。
一番コワかったのはトイレからホールに上がる階段。
S:トイレ自体ではなくて階段ですか?
P:そう。ナンカ人の気配を感じたんですよね。
それとステージに上がる階段。
ご存知の通り、鹿鳴館に出ていてメジャーに行ったバンドがいくつかありますよね?
メジャー・デビューして武道館で演りました、ドームで演奏りました、という大出世したバンド。
そういうバンドの人たちがみんなこういうんですよ…「他の会場でもそこそこ緊張するけど、鹿鳴館のステージに上がる階段が一番緊張します」って。
S:楽屋の向こうの細い階段?
P:はい。そういう風に言っていたバンドがひとつやふたつではなくて、何十組もいるんですよ。
理由はわからないんですけど、とにかく緊張するんですって。
でも別の言い方をすると「初心に帰ることができる」って言うんですよ。
あの階段が最初の頃の気持ちに戻してくれるというワケです。
S:まさか幽霊のせいとは思っていないから!
P:そう、ハハハ!
だから鹿鳴館にいるのは「霊」ではなくて「魔物」なんじゃないか…イヤ、魔物というか「座敷わらし」みたいな?
それがいい意味の緊張をもたらして良い結果を生んでくれる。
S:座敷わらしを見ると幸運が訪れる…というヤツですね?
守護神がいるみたいな?
P:そうそうそうそう、そういう感じの方がつじつまが合う。
「悪霊」ではないと思えるのは、ウチでは事故が起きていないんですよ。
ま、イスがあったおかげで将棋倒しみたいな事故を防ぐことができた…ということもあるんですけどね。
「お祓いしてもらった方がいいよ」なんてことが全くなかったんです。
S:それはナニよりですよ!
************<コラム16:鹿鳴館を記録する>************
鹿鳴館のチョット手前のところ。
まっすぐ権之助坂を降りればすぐに右側に鹿鳴館。
右に曲がると道はグ~っと下がって行くかなり勾配のキツイ坂だ。
この辺りは昔どうなっていたのか?…と思って去年神田の「古本祭り」で買った自慢の古地図のソフトを引っ張り出してきて江戸時代後期のようすを調べてみた。
それが下の地図。
江戸の昔、鹿鳴館があった場所は「中下目黒村入会(いりあい)」というところだったようだ。
この坂の右側の今コンビニがある辺りから目黒駅寄りは「肥前島原藩 松平主殿頭忠精(まつだいらとのものかみただきよ)」の領地と記されている。
鹿鳴館とはゼンゼン関係ないけど、島原は元は天領で松倉家が入封したが、あまりにもキツい治世をして農民をイジメたせいで1637年、天草四郎時貞の元で暴動が発生した。
コレが有名な「島原の乱」。
「島原の乱」ってキリスト教を弾圧することによって発生した暴動だと思われる向きがあるけど、そうではなくて松倉の圧政に対する農民の反抗だったのよ。
「乱など起こさせおってこのバカが!」ということで松倉家は改易(平民に格下げ、武士への量刑としては切腹の手前)させられ、後に徳川スタッフの松平家が入封した(直系、ご三家、ご三卿以外の德川関係者はみんな「松平さん」)
さらに『江戸三百藩(人文社刊)』という本で調べてみると、島原藩は中屋敷を持っておらず、上屋敷は有楽町、下屋敷は三田にあった。
だからこの目黒はただの島原藩が所有している土地だけだったのだろう。
一方、「入会地(いりあいち)」というのは、まぐさや萱などの飼料の原料を作るための近隣の住民(農民)の共有スペース。
要するにこのあたり一面はスカ~ンと野ッ原と田圃だったのであろう。
浅草の観音様の背後ですら「僻地」と呼ばれていた時代だから、言っちゃ悪いけど「目黒村」ともなるともう江戸の西の地の果てだったに違いない。
下の地図で目黒駅のすぐ下に見えているJALのロゴのような家紋は播磨三日月藩、森家の上屋敷。
ロゴはカッコいいけど石高は1万5千石だから大したことはない…そんな地の果てに上屋敷があるぐらいだからね。
チョット坂を降りて左側に目をやる。
真ん中の黄色い非常階段が付いているビルが目黒鹿鳴館が入っている「ヤマザキビル」。表から見るよりズッと大きいと思わない?鹿鳴館の中に入って…ココは楽屋のスペース。
壁に窓が付いているでしょう?それを開けるとすぐにコンクリート壁が現れる。廊下の窓も同じ。
そう、インタビューに会ったようにココは地下ではなくて地上なの。
だって地下に窓がある建物なんてあるワケないでしょ?…と言っても楽屋には入らない一般の皆さんにはピンと来ないか?
言い換えると、皆さんがアタマを振って腕を振り上げてライブを楽しんでいるあのホールは地上2階にあるのです。
つまり目黒鹿鳴館は地下では全くないし、地下は存在すらしない。
このビルがあの坂の下のレベルに建てられているからこうなるんだね。
裏から見るとこのビルが大きく感じるのもそのせい。
タメになるね~。
この楽屋スペースが1階だから、そこから数えると道路に面している入り口は4階ぐらいになるのかな?
いまだにココが地下だと思っている人が多いようなので最後にこのことを明らかにした次第。廊下の入り口側。
ロビーから降りて来る階段の背面にトイレがある。
せっかくだからトイレも記録しておこう。ええい、ついでだ!コレが男子トイレ。
中学生の男の子をココで見たことがある…という噂はどうもデマだったようだ。
イヤ、「ペペさんパワー」が知らない間に退散させてしまったのであろう。
そのトイレの横からホールへとつながっている階段。ペペさんによると、ココに誰かがいるような感じがする…というのだ。
私も数えきれないぐらいこの階段を上り下りしたけど、サッパリわからなかったです。その階段から上がって来てこのドアを通ってホールに入る。廊下の反対側。
コレが楽屋スペースからステージに上がる階段。
前回KANちゃんも言っていたけど、出番直前のミュージシャンがココで大いに緊張するらしい。
ココも何度も行き来したけど、私は一度たりとも緊張したことがないわい。
昔はこんなようすだった。その階段を上がって、このドアを通ってステージに入る。するとステージからはこんな景色が広がる…というワケだ。
2階席は結構な高さだからね、ペペさんが言っていた通り、女の人の手が上がって来るなんてことは絶対にあり得ない。
やっぱりペペさんは貴重なモノを目にしたな。2階席へ上がる階段。
関係者以外は立ち入り禁止だ。
反対から見たところ。昔はこんな感じだった。照明のポジションから2階席を見る。
この辺りに中学生がしゃがんでいたんだネェ。2階からの舞台の風景。
こういう風に見える。
ステージは最後の目黒鹿鳴館の出番を待つばかりのCONCERTO MOONのセット。ところで、この鹿鳴館の内装について本シリーズの<その1>にご登場頂いたREACTIONのユキさんからオモシロイお話を伺った。
ユキさんは、REACTION解散後に加入したDEVILSも解散し、「第二の人生」よろしく職人3人を擁する内装業の会社を立ち上げた。
そして、2010年に目黒鹿鳴館の前の社長から仕事の依頼があり、叙々苑の脇の入り口から一番奥の楽屋まで、電気設備や壁面の塗装、床貼り、ステージの補修等々ホール内を除くすべての箇所の改装を一括でユキさんの会社が請け負うことになった。
だからホール以外の今の鹿鳴館の内装はすべてユキさんたちの手によるものなのだそうだ。
だからこの真っ黒い黒い壁の塗装もそう。「漆黒にして欲しい」というリクエストがあったのだそうだ。改装前、この奥の楽屋の床は土間コンクリートがムキ出になっていのだそうだ。それはヒドイな。
「キレイな部屋にして欲しい」というリクエストを受けてユキさんたちがコンクリートの上に床板を載せてこのような仕様になった。
ステージに上がる階段の壁の色にも当初は「漆黒」のリクエストが寄せられたが、本番で照明を落としてバンドがステージに上がる時、すべて黒い塗装にしてしまうと足元が見えず大変危険であるため、ユキさんのアドバイスでこの色が採用された。
実際に足を踏み外してひどい捻挫を負ってしまったバンドがあったのだ。
昔は底が高い靴を履いてステージに上がるバンドが多かったからね。かつてはツーバスを擁するような特大のドラム・キットを使用する時は既成のドラム・ライザーに乗り切らないため舞台に直置きしていた。
そこでエキストラのライザーを製作して面積を広げ、大型のドラム・キットでも載せられるようにしたのもユキさん。
ずいぶん器用な人だ。
何でもおジイちゃんが大工さんで子供のころから大工仕事のお手伝いをしたそうだ。
ウチは父も祖父も大工で、学生時代は私も小遣い欲しさにずいぶん手伝った…けど、私は全然ダメ。
でも、下地の釘を打つ速さはそこらのヤツには負けないぜ。
結果、今、鹿鳴館でツーバスのドラマーがライザーに乗ることができるはユキさんのおかげなのだ。
このエキストラのライザーはユキさん個人で製作したもので鹿鳴館に寄贈された。 それだけに<その1>のコメントにあるように、文字通り「鹿鳴館をともに作ってきた」という思いがあるそうだ。
下の写真は「ドヤ顔」のユキさん。
鹿鳴館伝説
S:(事務所内に飾ってあるポスターを指して)あの『鹿鳴館伝説』…アレは何年でしたっけ?
P:2010年と2012年…震災の年を挟んで2回やりました。
S:うれしかったでしょう?
P:そりゃうれしかったですよ!
S:出演者はどうやって決めたんですか?
P:純粋にボクが「鹿鳴館らしいイベントをやりたい」と言い出して、鹿鳴館に縁のあるジャパメタとヴィジュアル系の代表的なバンドを選んだんです。
普段だったら絶対に実現しない組み合わせもあって、ファンの間では「夢の共演」が実現したイベントだったんですよ。
S:それはイベントの醍醐味ですね。
P:JCBホール(現東京ドームシティホール)はスタンディングでキャパが3,000なんです。ま、初日のヴィジュアル系は入りがよくて1,500、2日目のジャパメタは1,000は入らないだろうな~、と読んでいたんです。
ところが、フタを開けてみると、初日が2,200、2日目は2,800ぐらい入ったんですよ。
ほぼほぼソールドアウトでした。
で、翌年にも開催しようと思ったんですが、結果的に震災でできなかったので、2年後の2012年に1日にまとめて開催したんです。
S:2回とも大成功してヨカッタですね!
P:まったく。
実は2020年には「40周年記念」のイベントをやろうと思ったんですが、コロナになっちゃったんです。
またメタル系とヴィジュアル系の2本立てという企画で、出演バンドにもオファーをして、会場も押さえてあったんですよ。
S:ウワァ、それは残念でしたね~。
************<コラム17:鹿鳴館を記録する>************
事務所内に飾られている『鹿鳴館伝説』のポスター。JCBホールの満員のお客さんと出演者との記念撮影。
ぺぺさん、うれしかったろうナァ。
************<コラム18:鹿鳴館の思い出>************
来年30周年を迎えるBLINDMANを率いてきたギタリストの中村達也。
達也さんも鹿鳴館の古参のウチのひとりだ。
中村達也
「初めて鹿鳴館のステージに立ったのは1987年。
それから37年の間ずっと継続的に出演していたわけではありませんが鹿鳴館はずっと大切な場所でした。
決して大きくはないけれど、ステージが高くてお客さんの顔が良く見える。
死ぬまで絶対に忘れない景色です。
そういえば、1989年の1月7日、昭和天皇が崩御された日にブッキングしていて、とにかく前例のないことだったので、当時のスタッフの方々がアチコチのライブハウスに連絡を取って営業するかしないかの検討していたのを思い出します(もちろんライブはキャンセルになりました)。
そして、新しい鹿鳴館にはボクらも出演したいし、若く新しい世代のバンドたちのためにも一日も早い再開を期待しています。
ペペさん、同じ齢どうしお互い身体に気を付けて頑張りましょうね!」
<BLINDMANは去る12月22日、目黒鹿鳴館の最後のステージを終えた。ショウのもようは後日Marshall Blogにてレポートします>
************<コラム19:鹿鳴館の思い出>************
PONさんも古い。
広島から上京してプロ・ドラマーとして初めて立ったステージが目黒鹿鳴館だったのだ。
山口PON昌人「かれこれ41年前、プロアーティストに憧れて上京した時、東京で初めて立ったステージが目黒鹿鳴館でした。
NOVELAやACTIONの曲を演奏するように頼まれてセッションに出ました。
慣れないメイクもされたりしてね!
それからはバンドを結成する度に必ずブッキングしてもらっていました。
そして遂に28歳の時にメジャーデビューしたのがFEEL SO BAD…その初ライブも鹿鳴館でした。
確かシークレットライブだった。
その後、活動の拠点を大阪に移して10年ほどご無沙汰だったんだけど、また東京に戻って2010年に結成したのがBLIND BIRDで、その初のワンマン・ライブも鹿鳴館で演りました。
様々なアーティストのサポートで数えきれないぐらい鹿鳴館の舞台に上がりました。その経験と仲間たちとの出会いで今の自分があると言っても過言じゃないと思います。
それと、常備のドラムスが現在エンドースしているNATALのメイプルのドラム・キットだったので常に安心して演奏できることがありがたかったですね。
機材を抱えて階段を上り下りしたこと、楽屋でバンド仲間や対バンの連中との大騒ぎ、SEが流れてドアを開けてステージへ入る瞬間などなどみんなと作った楽しいライブの思い出は一生忘れることがないでしょう。
新人スタッフで鹿鳴館に入って来た頃からペペさんには本当にお世話になりました。
目黒での鹿鳴館は一旦ピリオドになりますが、伝説はまだ終わらないはず。
楽しみにしてるし、これからもよろしく!
目黒鹿鳴館、本当にありがとう!そしてお疲れさまでした!」
<PONさんがメッセージの時に触れている2014年8月10日のBLIND BIRDの初のワンマンの時がコレ> <その時に撮ったPONさんの写真。NATALのスリー・バスドラム!>
************<コラム20:鹿鳴館の思い出>************
最後に目黒鹿鳴館に言葉を贈るのは島紀史。
ペペさんが「鹿鳴館ホーム」のバンドとして真っ先に頭に浮かべるというのがConcerto Moonだ。「関西に住んでいたボクにとって目黒鹿鳴館は憧れのヘヴィメタル/ハードロックの殿堂でした。
そんなボクが初めて鹿鳴館で演奏したのはCRYSTAL CLEARの時代でしたが、それはレーベル主催のライブだったので、上京してConcerto Moonを結成して、やっと自分たちの看板で出演出来た時はメチャクチャうれしかったです。
目黒鹿鳴館は簡単に出演できるライブハウスではなかったし、そこに出演できるバンドをやっているということに誇りを感じていました。
それ以来、目黒鹿鳴館をホームグラウンドと言えるバンドでいたいと思っていました。
一度、演奏中に会場のすべての電源が落ちてしまったことがあるのですが、その時はトラブルにアセるどころか、「自分は鹿鳴館の電源を落とすぐらいラウドなバンドをやっているんだ!」と思い、興奮してそこから演奏のテンションが何段階も上がった記憶があります。
ペペちゃん、目黒鹿鳴館を守り続けてくれてありがとうございます!
アナタがいなければ鹿鳴館はなくなってしまっていたかも知れない…と思っています。
新天地での鹿鳴館で演奏するのが待ち遠しいです。
場所は変わってもアナタがいればそこは「鹿鳴館」です。
相変わらずマニアックなメタル話をしてテンションを上げてからステージを踏むことが出来るのを楽しみにしています!
鹿鳴館はいつまでもボクの憧れの場所であり、ホームグラウンドです。
また電源が落ちるぐらいのラウドな演奏をしてビックリさせてやるぜ、鹿鳴館!」
<通常、Concerto Moonはステージの背面にバンド・ロゴが入ったバナーを掲げていた><下は去る12月14日の目黒鹿鳴館最後のConcerto Moonのステージ。
お気づきであろうか?
島さんはConcerto Moonのバナーを取り付けず、「鹿鳴館」のネオン・サインをあらわにして演奏したのだ。私はこのことに途中で気がついて、心を込めてシャッターを切ったわ><最終回につづく>
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