【イギリス-ロック名所めぐり】vol.21~マリルボン周辺
今日の名所めぐりは、マリルボン地区のベイカー・ストリートから。
コレはジュビリー線の「ベイカー・ストリート」駅。この駅は他にベイカールー線、ハマースミス&シティ線等、五つもの路線が交差するロンドンの地下鉄の要所だ。
「ベイカー・ストリート」と聴いてピンとくる人はきっと根っからの推理小説ファンだろう。
そう、シャーロック・ホームズが住んでいたところだ。
…というワケで、駅には様々なシャーロック・ホームズのイメージが使われている。
ホームの壁ではシャーロック・ホームズ作品が紹介されている。
コレは「The Speckled Band」、つまり「まだらの紐」。
シャレてるね~。
あ、皆さん、シャーロック・ホームズはコナン・ドイルの架空の人物ですからね~。実在はしていませんよ~!
でも、この近くにはシャーロック・ホームズの家があって、博物館になっている。
地上に出るとこんな感じ。
ベイカー・ストリートはその道路を作ったウィリアム・ベイカーの名前から来ている。
入り口に、「マーキー」の時に紹介したWetherspoonというチェーン・パブがあって、大繁盛している。週末になると昼間っから信じられないぐらいの賑わいを見せている。
すんごいよ、中に入るとエールのニオイが充満していて、呼吸をしただけで飲んだ気になりそう!
ま、それはどうでもよくて、実はココ、他にモノスゴイ思い出がある場所なのよ。
あ、ちなみにこの駅舎のビルにはかつて「SFの父」といわれるハーバート・ジョージ・ウェルズ…すなわち『宇宙戦争』で有名なH.G.ウェルズが住み、ここで執筆活動をしていたんだと。
ダスティ・スプリングフィールドもベイカー・ストリートの住人だったそうだ。
まず、最初の思い出はこの両替所。
もう大分前のことになるが、地下鉄でサイフをスラれたことがあった。
その日は滞在の最終日で、夜の便で日本に帰ることになっていた。したがって、ヒースロー空港まで行くポンドが必要だ。
ところが、最終日だったため、残りのポンドをすべてスラれたサイフに入れていた。
面倒ではあったが日本円をいくらかスーツケースと一緒にホテルに預けてあったので、それを両替すれば空港まで行けるし、パスポートはゼンゼン無事だったので日本へ帰ることは何なくできそうだった。
ところが、ものすごく困ったことが起きた。
それはクレジット・カード。サイフには予備のカードも含めて三枚入っていた。
すぐに止めにかかるため一旦ホテルへ帰った。
幸いホテルで電話を貸してくれたので、よく使うカードの信販会社のロンドンの事務所に電話をしたところ一発で止めることができた。
ところが…最後のカードの信販会社がどうにもわからない。それは大手家電店のポイント・カードかなんかに信販機能がくっついているヤツで、勧められるままに「ホイホイ」と気軽につくったものだった。したがって、要で作ったカードでなかったためにただの一度も使ったことがなかった。
そのため、請求書なども見たことがなかったのでどこの信販会社が取り扱っているのがわからなかったのだ。
当然、管理している信販会社がわからなければカード機能を止めることはできない。
サァ、困った。
で、閃いたのが東京にいる我が家内。「そうだ!東京に電話して家内に調べてもらって止めよう!」
実にいいアイデアだった。
ホテルでお金を払うので国際電話をかけさせてもらうように頼むと、その電話では海外につながらないという。
「そんじゃ、どしたらいいの?!」と焦る私。こうしてるウチにカードが悪用されたらどうすんの!オマケに飛行機に乗り遅れたらどうすんの!
すると「ベイカー・ストリートまで行けばインターネット・カフェがあって、そこで国際電話がかけられる」ということだった。
ホテルは「フィンチリー・ロード」というジュビリー線で「ベイカー・ストリート」から北へ三駅ほど離れたところにあった。
「お~!それじゃすぐに行ってこよう!…チョット待てよ!だ~か~ら~、ポンドがスッカラカンなんだってば~!」とか言って騒いでいると、奥から若いアンちゃんが出て来て、「話は聞いた。コレを貸してあげるからすぐにベイカー・ストリートまで行ってくるといい。バスが便利だよ」…と1ポンド硬貨を渡してくれた。
うれしかったね。地獄にホトケ。
「すぐに帰ってきます!日本人ウソつかない!」とかなんとか言って、日本円を握りしめてバスに飛び乗った!
で、まず向かったのがこの両替所だったというワケ。
まずは両替して、そして飛び込んだのがインターネット・カフェ。
家に電話する。当然すぐに電話には出ない、東京は真夜中だからね。
いつもは一旦寝入ったら目を覚まさない家内がウマい具合に電話に出てくれた!
慌てて事情を話してカードを止めるようにお願いすることができた。
もちろん、すぐに踵を返してホテルに向かい、さっきのアンちゃんにキチッと3ポンドを返すことができた。
後日譚。
何でも、そのカードを止めるのに家内はものすごく苦労したらしい。カードのブランドは有名でも、それを取り扱っている信販会社がたくさんあり、私のカードがどの信販会社が振り出しているのかがわからなかったのだ。
で、どうしたかというと、真夜中に片っ端からそれらの信販会社に電話して探し当ててくれたのだ。
当然、そのカードはそのまま消滅して終わった。
皆さんも、あのクレジット機能つきのカードの取り扱いには十分注意しましょう。私はあれから一切作らないようにしている。
さて、ベイカー・ストリート駅を背に目の前のマリルボン・ストリートを左に進む。というかすぐ左隣がコレ。
だってサ…聞いてオドロけ!
入場料が一番安いチケットでも8,000円近くするんだゼ~!あのお得なロンドン・チケットも使えない。
でも、いつもすごい人出なのよ。
「Royal Academy of Music」。
日本語では「王立音楽院」とか「王立音楽アカデミー」という。
エルトン・ジョンの母校なのだ。
ま、学校の中は入れないけど、コチラは無料。付属のミュージアムだ。
1822年に創立した歴史あるこの学校にまつわる貴重な品々が一階に展示されている。
ギョっとしたのがコレ。
なんでFrank Zappa?
ココの生徒がZappaの作品をクラシック風にアレンジして演奏しているアルバム。Zappaにはこの手の作品が何枚もあるのでそう珍しい趣向のものではないが、当然ミュージアム・ショップでゲット。最後の一枚だった。
その下に見えるのはElton Johnのニューヨークはラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのコンサートのパス。
コチラは非売品。
ジュリアード音楽院とここアカデミーが後援したようだ。スゴイね、レジは。英米の音楽学校の最高峰が後援しちゃうんだから。
ナゼかKenny Wheeler関連の展示が…と思ったらこの人、この学校の「ジュニア・ジャズ」というコースの後援者だった。
Kenny Wheelerはカナダ出身のジャズ・トランぺッター。
1950年代にイギリスに渡り、タビー・ヘイズやロニー・スコットらと活動を共にした。
フリー・ジャズのフィールドでも活発に活動し、「Karyobin」という1968年のユニットではEvan ParkerやDerek Bailyらとグッチャグチャなフリーを演じている。
70年代にはフリーの巨匠、Anthony Blaxtonのグループの一員として活躍した。
また、Azimuthというボーカル、ピアノ、トランペットから成るトリオのフュージョン・グループで活動していた。
私もSonny Greenwichというカナダのギタリストとの共演盤を持っているが、何やら小難しいジャズを演奏していたナァ。
「Stella bu Starlight」の直筆譜面。
Wheelerは2014年に死去。
このミュージアム、ここからがスゴイ!
まずは三階に上がる。
いかにもレアそうなピアノがズラ~リ。
1920年製のスタインウェイ。コレがココの展示で最新のピアノなんだと!
こんなの見たことないもんね。
V&Aなど、ロンドンの他の博物館でも歴史的なピアノを展示しているところがあるが、ここは圧巻!
上品で美しいことこの上ない工芸品の数々は見ているだけでも楽しい。
コレなんか、ベートーベンに送られたピアノで、その後、リストに渡ったんだってよ。
今のところ、ストラティバリウスの最高落札額は2011年の16億円だって。
ニコロ・アマティはアントニオ・ストラティバリの師匠ね。
こういう楽器がゴロゴロしている。
しかし、イタリアってのはスゲエな~。
こんなものも展示している。
1831年のパガニーニのライブの告知ポスター。
その傍らにはパガニーニの肖像画が飾られている。
よくパガニーニは、古くはUli Jon Roth、さらにYngwie等の速弾き系のギタリストがネタに使っているけれど、パガニーニ自身も超絶技巧を誇ったバイオリニストだった。
病弱で顔色も悪く、暗号で記譜していたりする極端な秘密主義者で、周囲の人から気味悪がられていた。
ある演奏会でパガニーニがソロを弾いていると、運悪く弦が切れてしまった。それでも顔色ひとつ変えずに弾き続ける。ま、コレはクラシックの世界ではできる人は少なくないでしょう。
すると、他の弦が切れ、さらにまた他の弦が切れる。
とうとう四本の弦すべてが切れてしまったが、パガニーニは美しい音色でバイオリンを弾き続けていた…そんなバカな。
ミステリアスな雰囲気から、当時、そんな噂ばはしがあったらしい。
で、このポートレイトを見ると…。
ね、もう弦が一本しか残ってない!
でもヤッコさん、全然平気で弾き続けているようす。コレがホントの超絶技巧ってか?
一体誰がこの絵を描かせたのかね?考えてみると興味深い。
さらにマリルボン通りを進むと国鉄の「メリルボーン駅」に到達する。
ココはビートルズの最初の映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Days Night)』の撮影で使われたところ。
ファンに追いかけられて駅に駆け込むシーンだっていうんだけど、正直覚えていないナァ。13歳の時に一回観たきりだからナァ。
でも、列車の中のシーンは覚えている。ジョンが「I Should Have Known Better」を歌うところ。当時はこのタイトルの意味なんかサッパリわからなかったけど、今はわかる。仮定法過去完了だ。
ところで、今はこの映画のこと「ア・ハード・デイズ・ナイト」って普通に呼んでいるんだろうけど、当時はどうだったんだろうね?
「ネェ、ネェ、もう『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』観た?」なんて学校でやっていたのだろうか?聞いてみたい。
ベイカー・ストリート駅に戻って今度はマリルボン・ストリートを渡る。
ね、パブもシャーロック・ホームズ。
ロンドンの公衆トイレは比較的どこも清潔だがココはダントツだ。感動して写真を撮ってしまった。
拡大すると、「JOHN LENNON M.B.E. 1940-1980 GEORGE HARRISON M.B.E. 1943-2001 worked here」とプラークに刻まれている。
ま、場所的にはそういうこと。
ココ、1967年にオープンしたビートルズのAppleショップ(本当は「Apple Boutique」という名前だったがジョンがその名称をイヤがったらしい)があったところ。コンピュータ屋さんじゃないよ。
オープン当時はド派手でサイケなペイントが壁面に施されていたが、「見苦しい」と周囲から反対をうけ、真っ白に塗り替えられた。
この店、万引きが横行してたった8か月で閉店。最後は「もってけドロボー!」よろしく、商品をすべて無料で開放した。
ところが!
実は、その元のAppleショップあったビルは1795年に作られた大層古い建物だったので1974年に壊されてしまった。
したがって、今この写真にあるビルにAppleショップが入っていたワケではない。
だからよく見ると、ブルー・プラークもおかしい。
「ENGLISH HERITAGE」等、制定者のクレジットが入っていないのだ。勝手に作って付けちゃったんだね。
でも許す!ロンドンはロックの街なのだから!
「Excuse me!」…と、これらの写真を撮っていたら女性から声をかけられた。
私が大きなカメラを操っていたのを見ていたのだろう。
「あの~、このカメラ、うまく撮ることがどうしてもできないんです。何か設定がおかしいのでしょうか?」
オイオイ、アタシャ取説じゃござんせんよ…と見ると、そのカメラは以前使っていたのと同じ汎用のCキャノンの一眼レフ。
ま、困っている人は助けてあげなきゃね…イヤ、美人だったからかな?
よろこんで調べてあげた。
すると、設定が確かにメチャクチャだ!
基本的な操作方法を教えてあげて、実際に撮らせてみるとバッチリ写るようになった!
「キャ~!ありがとう!」とおおよろこび。
「それじゃ、お返しに私のカメラで数枚撮らせてもらえませんか?」と投げかけると「撮って、撮って!」と大騒ぎ。
そして、レンズを向けると。全く頼みもしないのに、ふたりはビシっとポーズを取ったんですよ。
それが自然でカッコいいんだ~。
コレなんかそう。普通レンズ見るじゃない?
そうはしない。
「ダブル・デッカーをバックに」というリクエストに応えた一枚。
撮った写真を見せると「キャ~!送って送って!」とまた大騒ぎ。
あ~、気分いいわ~。篠山紀信になった気分だわ~。
で、メールのアドレスを渡され、写真を送って差し上げた。
二人は中東からの観光客で、いかにもお金持ちそう。
「ヒヒヒ、こりゃお礼に油田の一枚(「油田」ってどうやって数えるんだ?)ぐらいは軽いナ…」と期待していたのだが…。
油田はムリだったけど、後日キチンとお礼のメールが届いた。
コレは正真正銘の正式プラーク。
ジョンがココに住んでいたことになってる。
ビートルズ・ファンならご存知だろうけど、実はココはリンゴの家だった。1965年にリンゴが買ってごく短期間住んでいた。
リンゴは引っ越したものの、このフラットを手放すことはせず、何人かの友人に貸し与えていた。
ポールはそのウチのひとりで、ここを簡易スタジオ(一階と地下のメゾネット・タイプだった)として利用し、「Eleanor Rigby」をここで制作したとか。
そして、ジョンが住むことになり、こうしてジョンの住いとして認識されるまでになってしまった。
ジョンとヨーコの素っ裸のジャケットで有名な『Unfinished Music No.1 : Two Virgins』ってのあるでしょ?
あのジャケット写真はココで撮影された。
この玄関をジョンやポールが通っていたのかと思うと感慨深いナ。
そして、ナントここにはChas Chandlerと一緒にJimi Hendrixが住んでいたこともあったという。
今にもJimiが「イエ~」とか言いながら出て来そう?「家」だけに。