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2014年6月 1日 (日)

Big Jim Sullivan逝く

2012年10月5日 Shige Blog初出

イギリスでもっとも早い時期から、膨大な数のセッション・ワークをこなしてきたファースト・コール・ギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンが10月2日、永眠した。

Bjs

Big Jim Sullivanは1941年、ロンドン西部のアクスブリッジ(Uxbridge)の生まれ。熱心なマーシャル・ファンの方ならおなじみの地名だ。

IMG_8118

何故なら、この通りにあったジム・マーシャルの楽器店からマーシャルの第1号機が生み出されたからだ。

この通りの両側にジム・マーシャルの第1号店と第2号店があった。そして、ピートやリッチー、クラプトンらが毎日のようにここに遊びに来ていたのだ。その中の一人がBig Jimで、ピートらとともにジム・マーシャルへ新しいタイプのギター・アンプのアイデアを伝え、開発に取り組みキッカケを作ったのだ。

Jimのお店の詳しい情報はコチラ⇒【イギリス‐ロック名所めぐり vol.2】 マーシャルの生まれ故郷<後編>

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Big Jimは1958年からセッション・ワークをはじめ、リッチー・ブラックモアのギターの先生でもあった。

共演したアーティストの名前を上げればそのままイギリスの軽音楽史がつづれそうなラインナップだ。ビリー・フューリー、ヘレン・シャピロ、シラ・ブラック、ダスティ・スプリングフィールド、トム・ジョーンズ、シャーリー・バッシ―…。

イギリスで初めてワウ・ペダルを使ってレコーディングしたのもこの人で、1962年のアレクシス・コーナーのアルバムでは、ジミー・ペイジからファズを借り、これまたイギリスで初めてファズ・サウンドをレコーディングしたという。

さらに、ザ・ウォーカー・ブラザーズ、ドノヴァン、デヴィッド・ボウイ、エンゲルベルト・フンパーディンク、ロング・ジョン・ボールドリー(エルトン・ジョンの「ジョン」はこの人から取っている)、マーマレイド、スモール・フェイセズ、ザ・トレモロズ、ジョージ・ハリソン等とのレコーディングでプレイした。

加えて、キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』の序曲を手掛けたり、『Tommy』のオーケストラ・バージョンのアレンジ、ザッパの『200 Motels』にまで参加している。

一体どれだけスゴイのよ?!

とてもイイ感じの動画があった。

 

ここで演奏されているのはガーシュインの『Porgy & Bess』から「It Ain't Necessarily So」とボサノバの定番「The Shadows of Your Smile(いそしぎ)」のメドレー。

バキンバキンとしたタッチが、ジョー・パスやウェスあたりのソロ・ギターと異なりいかにもイギリス人らしい印象を受ける。

音楽を作って来た世代の本物の音楽人がまたひとりこの世からいなくなってしまった。

こころからご冥福をお祈り申し上げます。

2014年4月23日 (水)

マーシャルだより 2014~その1

久しぶりのMarshall。
Receptionと呼ばれているおなじみの玄関。

10正面にはHer Royal Highness、アン王女(Princess Royal)が来場された際に制作したJVM410のフルスタックが飾られている。

20v知らなかったんだけど、このアン王女、今からちょうど40年前、バッキンガム宮殿の近くで誘拐されそうになったことがあったそうだ。
誘拐犯はアン王女たちが乗るリムジンを停車させ、お付きの人を銃で撃ち、アン王女に「200万ポンドが欲しいので2~3日一緒に来てください」と頼んだ。
この当時の200万ポンドは今の1300万ポンドに値するそうで、邦貨に換算すると23億円ぐらい?アホか…?
するとアン王女は暴漢に向って「私は200万ポンドなんて持っていません。どこへも行きません!」と気丈に断ったという。
アン王女は反対側から車を降り、暴漢を誘導。通行人がその暴漢の後頭部を殴打し、アン王女を安全な場所へ移動させたというんだからスゴイ。
このドキュメンタリーをBBCでしきりにやってましたわ。

30スタックの傍らにはスタックの序幕式の写真が飾られている。
この時の模様はコチラ⇒【英王室アルバム】Her Royal Highnessがお見えになりました!

40これは一緒に飾られている王室から送られたMarshall社社長、Jonathan Elleryに宛てた感謝状。

43v1階の右奥にはJimの思い出コーナーが…。

45Jimが愛飲していたハバナ産の葉巻。

50大英帝国勲章。OBE(Order of British Empire)。
コレってJimmy Pageももらってんるんだって。David Beckhamもそう。
叙勲するとその勲章のタイトルを名前の最後にくっつけることが許される。

60これは私のコレクションからなんだけど、2002年当時のJimのサイン。

Jm_img_0095そして、コチラは2004年のサイン。名前の後ろに「OBE」が付いている。2003年にOBEを叙勲したからだ…そういうこと。

Jm_img_0093 これはご存知ハリウッドのGuitar CenterのROCK WALKのCertification。
詳しくはコチラをご覧頂きたい⇒マーブロ聖林へ行く<中編>

65vレセプションに飾ってある特注のNATAL。

70しゃれこうべづくし。

80「しゃれこうべ」ってヘンな言葉だよな。元々は「されこうべ」と言っていたらしい。「曝首」と書く。「こうべ」ってのは頭のことじゃん。つまり「曝(さら)したクビ」という意味で、ただのガイコツとは異なり、さらし者になったり野原に転がってるガイコツという意味があるそうだ。

90裏ヘッドには血痕が!よーやるわ~。

100v向こうの人ってこの手のデザイン好きだよね~。

110バッターもガイコツだらけ!

120

130

140階段を挟んだ向かって左サイドはEDEN。こっちはおとなしい。

150v2階はおなじみのミュージアム。

160このあたりは紹介してるね?
Zakk Wylde

170Paul Weller

180Lemmy

190もいっちょZakk

200こちらはJimの親友だったBert Weedonの1923C。
Bert Weedonについてはコチラをご参照されたい⇒【号外】バート・ウィードン逝く!

210ギター・コレクション。少し増えたかな?

230これは社長室の壁に飾ってあるQueenの人気ミュージカル『We Will Rock You』のデザインを模した感謝状。贈り主はMarshallの工場が位置するMiton keynesにあるWillenというホスピス。
Marshallはこのホスピスのスポンサーを務めている。
チョット見にくいが銀のペンで施されたサインはBrain Mayのもの。

240vうれしかったのはコレ。
社長室の書類キャビネットの上なんだけど、この2本のミニチュア・ギター…白いのはEARTHSHAKERのSHARAさんから、奥の黒っぽいのはSHOW-YAのsun-goさんから…去年社長が東京に来た時に催されたMarshallアーティストが集うパーティでプレゼントされたもの。うれしいな~、自分がプレゼントしたワケじゃないけど…。大切に飾ってある。

250これは3月13~16日に北ウェールズで開催されたHammerfestというメタル系のフェスティバルのプログラム。
誰が出てるのかって?
自慢じゃないけど、ひとバンドも知らん。

Img_0097 でもMarshallがスポンサーを務めていて、広告が出てるのさ。
Marshallじゃん…

270NATALじゃん…

280それとEDEN。
気合入ってます!

290行くたびにチョコチョコと色んなものを発見して楽しい。

300vNATALドラムは高田馬場バズーカスタジオでお試しになれます。バーチ、メイプル、そしてアッシュのキットの他、各種スネアドラムも用意しています。
おかげさまでNATALが設置されている部屋のご指定もたくさん頂き、高い評価を頂戴ております。
詳しくはコチラ⇒バズーカスタジオ公式ウェブサイト

そして、日本初のNATALイベントが今週の金曜日(25日)に開催されます!是非お越しください!
詳しくはコチラ⇒ナタール・ドラムをサワール。そんな企画でゴザール。Ne_poster
<その2>につづく

2014年3月11日 (火)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その7

AC/DC

P:ウェンブリーのステージにAC/DCを観に行った時はスゴかったですよ。コンサートの後、マネージャーに連れられてバンドのメンバーにあいさつに行ったのですが、廊下がマーシャルだらけになっ

Pw_img_7793_2ていました。アソコの廊下は狭いんですよ。

S:そうそう、やたらと細くて長いんですよね!アソコにマーシャルが並んだら相当狭い! 
P:その通り。バンドの連中は話してみるとすごく親切な人達でした。
S:実はAC/DCのバック・ステージを数年前に東京で見せてもらいました。すごくラッキーだったと思います。バック・ステージを見ることができた数少ない日本人のひとりだったかもしれない。ゲストは完全にシャットアウトされていたので。
「マーシャルの方ですか? それではどうぞ!」と快くバック・ステージに招き入れてくれ、ツアー・マネージャーが付きっきり案内してくれました。
P:それは素晴らしい!
S:ちなみに、ステージの真下は見られました? あそこには1959のタワーがいくつかありましたでしょ?
P:はい、そうですね。
S:マルコムのピックもお土産にいただきました。アンガスのはもらえませんでしたが…(笑)。
P:1枚だって何もないよりずっといいですよ!

Wembley Arenaの狭い廊下はコチラ⇒【50 YEARS OF LOUD LIVE】当日リハーサル~その1

プログレッシブ・ロック

S:ハハハ!ところで、あなたはロック・ファンですか?
P:ロックといっても、私はオールド・スクールです。
S:エルヴィスとか?
P:いえいえ。エマーソン、レイク&パーマー、ジェスロ・タル…プログレッシヴ・ロックが好きです。
S:私と同じですね!
P::私はそういった音楽を聴いて育ちました。ヘンドリックスも同様です。でも、モダン・ロックはマァ良いのですが、音が大き過ぎます。
私のCDのコレクションには、ザ・ナイスに関連するものしべてが網羅されています。結局はキース・エマーソンということなのですね。ザ・ナイスから始まり、すべての時代のLPを持っています。(注:イギリスにはELPファンが想像以上に多い)
後は、あまり有名ではないバンド…。

Pw_img_7777S:例えば?
P:トゥモロウという名前のバンドがいました。
S:スティーヴ・ハウの?
P:そうです。そういう感じのバンドたちです。
現代のバンドも悪くなないのですが、私の好みではないんです。アイアン・メイデンは紹介されて聴きました。一緒に仕事をしたので、バンド・メンバーのサインが入った腕時計ももらいました。しかし、彼らのCDは持っていません。AC/DCは1枚しか持ってないな…。でも、彼らを観に行くのは楽しい。ライヴというのは素晴らしいものです。
初めて姪を連れて…38歳になるので若いとはいえませんが…ジェスロ・タルのコンサートに行きました。彼女はクラシック音楽が好きで、タルを一度も見たことはなく、学校でフルートやピアノの先生をしていました。ロックというジャンルには馴染みがなかったんです。
そこで彼女を連れてジェスロ・タルのコンサートに行きましたが、彼らの演奏に圧倒されて「素晴らしかった!」と言っていました。他のことはさておき、イアン・アンダーソンはフルートを吹きますでしょ? S:1本足で。
P:そうそう。最近の話では、彼の頭はハゲ上がってしまったということでした。昔は金髪だったのですが…。
S:髪のことは私の前で言わないでください!
P:ハハハ!イエイエ、そういうことじゃないですよ!とにかく、そういうスタイルが私の好きな音楽です。その他にはそんなに好きなバンドはいません。年のせいだと思います。プログレで育ったんだと思います。
S:プログレは英国人の間では大きな存在ですね?
P:はい。

ゲイリー・ムーア

S:今回50周年のコンサートがありますが、出演するすべててのギタリストがアメリカの出身です。もしゲイリー・ムーアが生きていたら、出演してくれたと思いますか?
P:もちろんです。彼とは2~3度話をしたことがあります。私の経験からして気難しそうでした。しかし、彼はマーシャルが大好きでした。それは純粋かつ単純なことで、彼の欲しいものをマーシャルが提供してくれるから、マーシャルが好きだった。最後までずっと、それだけでした。彼に関する面白い話がありますよ。
S:何ですか?
P:バーミンガムでゲイリーがプレイしていた時のことなんですが、その時、私の息子が大学に通っていました。そこで息子は「ゲイリーを観に行きたいんだけど、チケットが手に入らないかな?」と言いました。
そこで私は2枚…実際は3枚ですが…のチケットを手に入れました。一緒に観に行ったのですが、その時ゲイリーはブルースだけをプレイしていました。素晴らしかったです。コンサートは最高でした。
ところが、アンコールの2曲目では“DSL”の調子が悪くなってしまいました。
しかし、あんなに素晴らしいプレイはこれまでの人生の中で観たことがありませんでしたよ。

Pw_img_77841960の上にDSLの50W、つまりDSL50を置いて、となりにフェンダーのTwinもつないであったのですが、ステージの反対側にはDSL 50がもう1台設置してあり、使ってはいませんでしたが、照明が当たっていました。つまりステージの両側にDSL 50が置いてあったのです。
そして、ゲイリーは調子の悪くなったDSL50の電源をオフにして、反対側のアンプの電源を入れ、プラグ・インしました。
それからたった15秒かそこらで、元通りノリノリでプレイし始めました。アンコールの最後で2~3曲が止まってしまったんですが、みんな拍手喝采でした。
ギグの後、片づけをしているステージの上でギター・テクのグラハム・リリーと話をしていた時、若者2~3人が我々のところに近寄ってきて「ゲイリーのピックはありますか?」と訊いてきました。
グラハムはその若者にゲイリーのピックを1枚渡しながら、「明日このピックがebayに載っているのを見たくないよ!」と言っていました。
若者は「やった!すごい!」と大喜びで立ち去りました。
そして、私はその壊れたアンプを持って帰って修理して、次のギグの時までに送っておくことをグラハムに約束し、「Gary Moore」とフロント・パネルに書かれたDSL50を肩に担いで…50Wヘッドは軽いですから…グラハムと別れました。
すると、さっきピックを手に入れた若者がホールの外にいて大きな声でもらったピックを友達に自慢していました。
そして、ゲイリーのアンプを肩に担いでいる私の姿が目に入った途端、彼は絶句してしまったのです。その時の彼らの顔ときたら!すごく面白かったです。
S:まさかさっきのオジサンがマーシャルの人だったとは?!…みたいな?

マノウォー

P:ハハハ!
アメリカのヘヴィ・メタル・バンドのマノウォーが、今は何と呼ばれているか知りませんがハマースミス・オデオンでライヴを行なっていました(今はHMV Hammersmith Apollo)。3000席はある開場です。そこに行ったのですが、リーダーのベーシストがステージ上で1600Wの電力を消費していました。
S:(笑)
P:キャビネットが32台。18インチが16台…ベースですからね。4×10インチが16台。それで1600Wを使っていたんです。
リード・ギタリストはスタックが3台。3300WのPAがありました。私達は耳をちゃんと保護してはいましたが、もう痛くて大変でした。ですから長居はできませんでした。スラッシュ・メタルでもあるので…ベーシストはたくさんペダルを持っていて、ゲイン・ペダルを踏むんですが、通常の爆音がさらに爆音になり、もうバカげているとしか思えない音量でした。もっとゲインを上げるとどんどんラウドになっていきます。人生最大の爆音ライヴでした。全く存在感がなかった。音楽の存在感はありましたよ。ただただうるさかったんです。
でも、ケータリングは最高でした。ツアー時には大抵会場内に飲食出来る場所が用意されていますが、本当においしかったです。
S:そっち?!(笑) 

ジム・マーシャル

S:ジムの思い出を話していただいていいですか? 何か印象的なお話はありませんか?
P:もちろんありますよ。
たとえば…1977年に私がマーシャルで働き始めた日から一週間が経ったぐらいの時のことです。工場内にスピーカーや抵抗などが保管されている倉庫がありました。その頃の工場の従業員の平均年齢は22~23歳ぐらいで若い戦力が中心だったと思います。最初にその倉庫の管理を担当したんです

Pw_img_7820私はトランスをその倉庫に取りに行ったんですね。場内では色んな従業員に出くわしますから当然挨拶をして歩きます。
そしてカヴァリング作業の場所を通りがかりました。倉庫へは、カヴァリングの工程のところを通らなければ行かれなかったんです。その時、私はそこにいる若い人に「あのカヴァリングで働いてるジジイは誰?」と尋ねました。すると「え?あれがこの会社のオーナーだよ!」という返事が帰ってきました。
S:(笑)
P: おかしなことに、私の面接はその1週間前、当時のマネージング・ディレクターのマイク・ヒルによって行なわれたのですが、場所はジムのオフィスでした。ジムはデスクの端っこで何かの作業をしており、私はマイクと共にジムとは反対の方を向いて座っていたのです。私は就職の面接だったのでとても緊張して周りがあまり目に入らなかったんですね。
とにかく、ハッキリと見た最初のジムの姿は彼がカヴァリングの作業をしている時だったのです。
S:ウワ!私も見たかったな!ジムが社長室で帳簿をチェックしている姿は何回か拝見したことはあります。
P:はい。おそらく5~6年はその倉庫の仕事をしていました。ある時、ジムの秘書から電話をもらいました。「12時にオフィスに来てもらえませんか」と言うので、「アレ? 何かしでかしちゃったかな?」と思って行ってみたところ、ジムに来客があって、技術的な質問を受けることになっていました。そこで助っ人が欲しいということだったのです。
ジムの部屋に行くと秘書が「間もなくリムジンが到着します」と言うのです。どういう事だろう?と思っていると、ジムと昼食を一緒にすることになったのでした。それからレストランに出かけ、席について、お客さんから技術的な質問をされるたびに私が返答しました。ジムはワインを注文しました。ご存知かもしれませんが、ジムは赤ワインが好きでした。「すみません、胃もたれするのでワインは飲めないんですが…」と言いましたが「そうかい、じゃあグラス1杯ぐらいなら」するとボトルが1本運ばれて来ました。「私のおごりなんだから、飲んでもらうよ」と言われました。
S:ハハハ、ジムはすすめ上手でしたもんね。
P:結局、仕事に戻る頃にはもうヘベレケ…。
S:(笑)私も同じような経験があります!
P:私はもう寝る事しか頭にありませんでしたよ!
まあ本当に…彼は素晴らしい人だなと思いました。そして1ヵ月後、また同じオファーが来ました。3度ぐらいやっていると、段々ジムがボスだということが実感できるようになってきました。「ミスター・マーシャル」です。
ある日「よければ『マーシャルさん』じゃなくて『ジム』と呼んでくれ。君次第だが…」とジムに言われました。
そこでまたレストランに行った時から、彼を『ジム』と呼ぶことになりました。その方が適切だと思ったので…。
しばらくすると友達と呼べるような関係になりました。ジムはそれまでの自分のことについて話をしてくれたりしました。
他の人にも話していることですが、アンプに関する話や物事がどうして起こったか、そしてヘンドリックスみたいな人達との会話なども教えてくれました。話していてとても楽しかったです。トラブルに巻き込まれた人がいると…例えば忠誠心に関わるようなことがあると、ちょっと気まずい…気まずいというか、緊張して話しづらくなりますが、彼はそういうことはありませんでした。
私に対して怒っていたことがあったかどうかは知りませんが、彼とは一度も問題を起こしたことはありませんでした。私は尊敬するに値する人として扱われたんだと思います。私もジムのことをいつも良い人だなと思っていました。私もとても良くしてもらいました。
S:本当の「親分」だったんですね?
P:その通り。彼は常に私を酔っぱらわせようとしていました。最後に会った時でさえも!3年前に容態が深刻になる前のことですが…あ、2年前ですね。レストランにいて…毎年もらうウィスキーがあるのですが、これまでに1本も開けたことがありませんでした。初めてもらった1994年から、フル・セットでずっととってあります。それで私は94年と95年のウィスキーをジムのところに持って行きました。ジムはその両方にサインをしてくれました。
それからランチに行ったのですが、そのウィスキーの話しになり、「あのウィスキー、本当には飲んだことがないの?」とジムに訊かれて「本当にないんですよ」と答えました。すると他の誰かが「開けて飲めばいいじゃん!」と言ったのです。
するとジムが私の方に振り返り、「イヤイヤ、フィル、開けないで取って置いておきなさい。私がさっきサインをしておいたんだから!値段がついて高く売れるぞ!」と言うんです。
「そういう理由でもらったんじゃないですよ?」と大盛り上がりになりました。
結局、そのウィスキーを出してきて、チョコっと口にしましたが、なかなか良かったです。ジムにはそういうユーモアのセンスがありました。

つづく

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重友紀さん)

2014年2月24日 (月)

#LIVEFORMUSIC~Marshallのあるライフスタイル

マーブロ開いてビックリした?

操作ミスで実は昨日ホンノ少しの間、このスタイルでアップされちゃったんだけど、見られちゃったかな…?
新しいMarshall Blog…いかがかしら?

先日、本国イギリスのMarshallのウェブサイトが大幅にイメージを一新したことをお伝えした
以前の梅村デザイン研究所のバナーが大好きだったので、ちょっと戸惑ったが、Marshall Amplificationの公式ブログとして、その新しいMarshallのイメージにのっとってリニューアルしたというワケ。
素晴らしい作品を提供して頂いた下町のヒプノシス、梅村昇史さんにはこの場をお借りして感謝の気持ちをお送りしたい。

さて、ちょっとこの動画をご覧いただきたい。

ね~?! イメージ変わったでしょう?
もう世界中のMarshall関係の露出がこの新しいイメージを取り入れている。

こちらは新しいHandwiredシリーズの仲間の1962HW、Bluesbreakerのハンドワイアード・バージョンのデモンストレーション。
こうした動画の作り方も大幅に変わった。

クリスも変わったな~。初めて彼に会ったのはもう10年以上前のこと。Marshallの工場で開催されたイギリス中の楽器店の担当者を集めた商品説明会の時にデモンストレーターとして登場した時だった。
クリスは20歳になったか、ならないかぐらいの時分で、髪はフサフサとソバージュにしていた。
『50 YEARS OF LOUD LIVE』でも重要な役回りを演じていたことは以前レポートした

ところで、私がMarshallという名前を知ったのは1974年位のことか…。Marshallがスタートしてちょうど干支がひと回りした頃だ。
そして初めて三段積み(ここは敢えて「フル・スタック」とはいわない)を実際に見たのは秋葉原の「朝日無線」だったろうか?
初めてMarshallのスタック(JMP時代の1959と1960AX)を手に入れてから34年。
そして、Marshallの仕事に携わってカレコレ16年。
さらに正式にイギリスのMarshallのスタッフになって約2年。
外から、中から、ずいぶん長いことMarshallに接して来た。

過去のMarshallの視覚的なイメージはといえば、黒、金、銀、ガイコツ、ライオン…ってとこか?
実際に展示会などでブースを設営する時は、黒を基調に銀のトラスを使用すべし…という指定がかかったこともあった。
とことんへヴィ・メタルのイメージだったのよ。

それがですよ…動画を見てビックリでしょ?
まるでパソコンやらスニーカーやらのPRイメージみたいじゃん?
ギターでコレをやるならまだわかる。現実的に海外では「生活の中に音楽&ギターありき」的路線でPRをし続けている有名アコギ・ブランドもある。

ギターならともかく、Marshallはギター・アンプでこの路線を打ち出した。
コレはね~、メッチャすごいことだと思うのですよ。

創業から50年を経過し、今ではNATAL(ナタール)とEDENも加わった。他にもヘッドホンやブックシェルフ・スピーカー等のオーディオ機器、海外では冷蔵庫の発売等、「Marshall」のスクリプト・ロゴをまとった関連製品も定着してきた。

先述した初めてMarshallの実物を目にした時は、ショウウィンドウの中にガッチリしまわれていてニオイをかぐことすらできなったMarshallが、今や生活の中に溶け込んでいるのである。
これはロックが生活の中に染み込んだということに他ならず、50年にわたってロックの発展に貢献して来たMarshallのひとつの業績ということが言えるだろう。

3brands先の動画にJim Marshallの姿はもうない。
明らかにMarshallは51年目以降の新しいステップを踏んでいるのだ。
しかし、Jimの精神はMarshallに生き続けている。
やはり、MarshallはMarshallなのだ。

これからもMarshall、そしてMarshall Blogを何卒よろしくお願いします。
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2014年2月13日 (木)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その6

マーシャルへの信頼
P:成功したのは1つの事柄だけではありませんでした。すなわち、アンプは当時誰も得られなかった

Pw_img_7798サウンドを出す事に成功しました。そして、そのシンプルでストレートな構造ゆえ、信頼性がありました。
そのアンプはアーティストたちが欲がっていたものを与えたのです。
ザ・フーがアンプを持って、ジムに「2、3台、明日までに修理して欲しいんだけど…」とショップにやって来ます。
それを「分かりました、明日までにやっておきます」と預かる。そして修理をやっておきます。こういうことがマーシャルをお客さんに所有させるチャンスを広げて行ったのです。
S:信頼性ということですか。
P:はい。

古いアンプ話しいろいろ
P:2010年でしたか…、早いものですね。我々が最初に製作した20台のアンプのうちのひとつが持ち込まれました。
本物かどうか確認したいとのことでした。そこでプラグ・インしてみたのですが、50年近く経ってもまだちゃんと動きました。もちろん、時が経つにつれていくつか部品は交換されていましたが…真空管は何度変わったか分かりません。しかし、コンデンサーやトランスなどのパーツはすべてオリジナルのままでした。問題なく動きましたよ!
持ち主も1ヵ月に1度はプレイしていたようです。
地元のクラブなどで友人とジャムっていたのですが、ある日誰かから「どこで手に入れたの?」と訊かれて、「わからないけど、すごく古いアンプでしょ!」と答えたのですが、その友人に「コレは相当価値のあるものだよ」と言われてここに持って来たそうです。
S:それはまたノンビリした話しですね。さぞ音も良かったんでしょうね。
P:はい。それでその彼はそれを売ってしまったそうです。

ディープ・パープル
S:ディープ・パープルがマーシャルのデモンストレーション・コンサートで演奏したことがあるそうです

Pw_img_7789_2が、本当ですか?
P:はい。確認したわけではありませんが、その話は聞きました。
S:ドラム・キット以外はすべてマーシャルの機材を使ったとか…。
P:はい。
S:いつ頃、どのように行なわれたんでしょう?
P:わかりません。特定しにくいです。かなり昔のことなので。
それはジムが一番知っていたと思います。残念ながらもう尋ねることも出来ませんが…。しかし、当時ディープ・パープルはまた新しく出て来たバンドという感じでした。今のように大規模な人気はありませんでしたよ。
もちろんその後どんどん大きくなっていきましたが…。ザ・フーもそうです。でもやっぱり可能性は感じさせましたね。マーシャルをたくさん使っていました。
S:アーティストに関して、あなただけが知っている面白いエピソードは他にもありますか?

アンガス・ヤング
P:そうですね、おもしろいと思った話は…この工場に移って来た時のことなんですが…。80年代初期のことです。バンドがやって来て新製品を試奏したんです。最終段階のところでの試奏でした。その頃はまだシアター(Marshallの工場内にある劇場。今ではそこで爆音が出せるようになっている)がありませんでした。
アンガスがやってきた時なんですが、彼に6セットのスタックを作ったんです。総計600Wのヘッドに4×12インチ・キャビが12台です。
工場の前の道の向かいにはB&Q(イギリスの日曜大工用品販売店。ヨーロッパ最大、世界大3位のDIYショップ)があるんですが、彼らが私に向かって文句を言うんです。「やかましい!」と言って。
そこでマネージャーが丁寧に、ボリュームをさげるようにアンガスに伝えました。爆音すぎて怒られちゃった!
S:ハハハ!アソコまで聴こえるとはすごい!

★      ★      ★      ★      ★
どっかにないかな~と思って昔の写真をヒックリ返したら何とか見つかった!
左の2階建ての白っぽい建物がMarshallの本社。
そして、Dnbigh Road(デンビー・ロード)という道路を隔てた写真右端、オレンジ色に「B」っぽい文字が見えるでしょ?これがフィルの言っている「B&Q」。
アンガスのギターは場内からココまで聴こえて、かつうるさかったというのだ。

よく、Grand Funk Railroadの演奏が後楽園ホールから池袋まで聴こえたなんていう話しを聴くけど、これは完全にガセらしい。本当にしておきたいエピソードだけどね。
でも、このアンガスの話しはマジらしい。
しかも。アンガスはコンサートではなくて、ただのMarshallの試奏だからね。試し弾きでこの爆音ではタマらん!

B_q これがシアターの内部。突き当りがステージなっている。
この空間を利用して、イギリスをツアーするMarshallのバンドのリハーサルに貸したりすることもある。
2010年のZakk Wyldeのツアーの時などは、リハーサルの最終日にMarshallの従業員をシアターに招待して演奏を披露していた。
その他、大勢が出席する会議でも使われるのだが、火の気がなくて夏でも寒い。そんな時でも半袖のTシャルのヤツいるもんね。私なんぞすっかりセーターよ。
そんな私の姿を見て、「シゲ、どうした?! 風邪でも引いたか?」とヨーロッパの人たちは心配してくれる。イエイエ、DNAが違うんですよ、寒い国から来た人達とは!
ホント、日本って「暑い国」の仲間なんだよ。
Gm_img_8322★      ★      ★      ★      ★

ゲイリー・ムーア
P:ゲイリー・ムーアがシアターを使っていた時のことも覚えています。何だったか覚えていませんが、何かを試奏していました。とにかく何かを弾いていました。曲の最後になって彼はバンドのメンバーを振り返り、「今の所は書いておかなくちゃな」と言ったんです。
あの場で曲が出来たようで、ああいう状態で曲を作るようなミュージシャンはそんなに多くはないでしょう。
彼が振り返って「書いておかなくちゃならない」と言った時、すごく良い気分でしたね。
S:確かに…。

古いアンプ話しいろいろ2
P:古い機材の話はたくさんあります。ロック・バンドだけではありません。3~4年前、…なんといったらいいんでしょうね、教会の牧師のような人だったんですが、この人は1963年にHanewell(ジムの

Pw_img_7800_2店のこと)でJTM45のPAを購入していました。それを教会に設置し、ずっと使い続けてきました。結婚式、お葬式、クワイアの練習といった用途でした。2008年ぐらいの事だったと思いますが、彼はここ2~3年で音質と音量が劣化して来たと感じていたそうです。
S:ずっと使って来たから…。
P:はい。そこで、「古いマーシャルを使っているのですが、どうしたら良いか分かりません」と、私達のところへ尋ねてきました。
「持って来て下されば修理しますよ」と伝えたところ、果たしてそのアンプを持っていらっしゃったのです。
買ってから一度も手をつけていないそうで、1963年に購入されたものですが、教会に設置されたきり2008年になってここに持ち込まれるまで誰もメンテをしていませんでした。
内部には1インチのほこりがたまり、真空管は1963年当時のままのオリジナル。
S:ハハハ!
P:はい、そこでパワー管を新しい物に交換しました。完璧に動きましたよ。
「コレ、これからどうしたらいいですか? オークションに出して売った方が良い? それとももう捨てた方がいいでしょうか?」と訊かれたので「いえ、売って下さい。ネットのオークションに出したらいかがですか?」と言いました。
そうして彼はそのJTM45を持ち帰ったのですが、1ヵ月ほどして再び連絡がありました。
S:彼はどうしたんですか?
P:結局あのアンプを売ったそうです。その売ったお金で教会には新しいPAのセットが導入でき、建物の修理基金に大枚充てたそうです。かなり高額で売れたようですよ!
S:へえー。
P:バンドということで考えれば、昔はよくバンドのメンバーがよく来ていましたが、最近はめっきりローディが持ってくるようになりましたね。ほとんどローディが持参しますね。
S:今は工場にシアターが出来たので、試奏などはそこで行なっています。でも昔、1977年に私が働き始めた頃は、彼らは直接工場内に遊びに来ていました。工場の中でアンプを弾いていましたよ。
つまり今より多分、もっとバンド・メンバーとの距離が近く感じられました。
しかし、私がいつも驚いていたのは、素晴らしいギタリストがとてもシャイだということです。ステージ上で見るように派手だと思いがちですが、1対1で向き合ってみるととてもシャイなんです。
S:一般的にドラマーとは全然違いますね?
P:P:全く違います。彼らはどこにいても目立ちたがり屋ですからね!

イアン・ギラン
P:あとは何だったか…ディープ・パープルでしょうか。リード・シンガーの名前はなんでしたっけ。
S:どの時代ですか? ロード・エヴァンス? イアン・ギラン?

Pw_img_7784P:イアン・ギラン。彼は凄い紳士です。イアン・ギランに関する話があります。
ミュージアムには2台のPAキャビネットがあるんですが、これはディープ・パープルの所有品です。今から数年前、イアンが奥さんや娘さんと一緒にここを訪れました。もちろんイアンはジムと知り合いで、ジムの所に来たんです。
S:昔の仕事仲間ですもんね。
P:はい。そして、私は奥さんと娘さんを連れてちょっとした工場見学をしていました。それが終了してエントランスに戻りました。
エントランスの二階はミュージアムです。
終わって階段を上がるとミュージアムです。そこでおしゃべりをしていると、イアンとジムがやって来ました。イアンが2台のキャビネットの前でしばらく立ち止まり、「これは…私のだ」と言いました。
「どういうことだい?」…ジムは「このキャビネットをディープ・パープルのためだけに作ったんだよ」と言いました。
S:何しろデモ・バンドですもんね!
P:あおう。特定のスペックで特徴のある見た目になっています。するとイアンは「これは盗品だ!」と言うんですよ!1970年ぐらいのモノだったか、詳しい時は覚えていませんが。
「どこで手に入れたですか?」とイアンに訊かれたので顛末を話しました。
 その6ヵ月前、ある青年が工場にやってきました。彼のおじいさんが亡くなったので、遺品を片付けに行ったら、裏庭の小屋の中にコレが置いてあったというのです。そこで返した方がいいのではと思い、ここに持って来たというのです。
私達もどうしていいかわからず、歴史も、作られた年代も、大体のことは特定出来るし、誰にあてた物なのかも大体分かります。
しかし、25年も前の物が突然現れてもね…。
S:それは驚きますよね。
P:イアンもかなり衝撃を受けた様子で、「どこで見つけたんだろう!」と知りたがっていましたが、「分かりません…」と言うしかありませんでした。
でもこうして2台は出て来たんです。失くしたり、盗まれたり…そういう事はよくあります。
たくさんのバンドが失くして、いろんな人が見つけてきます。なぜなら古い物は金銭的な価値が高いから。扱いにはちょっと注意した方がいいと思いますけどね!あとは…何が知りたいですか?

★        ★        ★        ★        ★

Marshall本社のエントランス。2階部分がミュージアムになっている。

Gm_img_7851これがミュージアム。
以前はガラス張りになっていたが、今ではそれが取り払われオープンな雰囲気になった。
50周年記念コンサートの前日、Jonathan ElleryのBBCのインタビューもここで収録された。

Mb_img_7943_2そして、この赤いキャビが当該のIanが所有していたとされるキャビネット。ガッチリとコレクションに組み込まれている。

Mb_img_8009 つづく

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重友紀さん)

2014年2月10日 (月)

I Remember Gary~ゲイリー・ムーアのこと

今日のタイトル…「思い出」ったって別にGary Mooreとサシでイッパイやったワケでもなければ、親しく話したワケでもない。エラそうにすんません。

ただ、ここのところ命日(2月6日)だったり、フィギュア・スケートで「Parisienne Walkways」が使われたりで、ファンの間で盛り上がっていたようなので、マーブロも一枚噛ませていただこうという趣向だ。
まったく大した話題ではない上に既出の話しが主で恐縮だが、これをいい機会ととらえ、片鱗とはいえ、Marshallとして偉大なプレイヤーのことを記録し、後世のファンに「伝承」しておこうと思い立ったのだ。

★        ★        ★        ★        ★  

そもそもGary Mooreの名前が一般的になったのはいつの頃だろう。
私が彼の名を知ったのはこのColossum IIの『War Dance』がリリースされた時だった。1977年の作品だから日本で発売されたのは1978年になるのかな?
当時はまだ「ギャリー・ムーア」と表記されていた。しばらくすると表記が「ギャリー」じゃなくて「ゲイリー」になった。「ま、ゲイリーが正しいんだろうな…」と思った。

ところが、はるか時間が経ってマーシャルの連中と付き合うようになって知ったのは、イギリス人はGaryを「ゲイリー」ではなくて「ギャリー」、イヤ どちらかというと「ギヤリー」と発音するということだった
。Mooreは「ムーア」ではなくて「モーァ」。ほとんど「ア」は発音しない。もう少し正確にカタカナ表記をするならば、「ムォーア」と発音する。

ここで脱線。
マーブロで時々書いているけど、日本の英語教育はものすごい英米チャンポンか、アメリカ寄りなんだよね。
2、3日前にもテレビのクイズ・バラエティで、「英語でトイレのことを『toilet』とはいいません。『toilet』とは便器のことです」…とかやっていた。
アノね、イギリス人はゼンゼン言いますよ、トイレのことを「toilet」って。テレビの中での正解は「bath room」となっていた。
私も最初イギリスへ行ってトイレのありかを尋ねる時に「bath room」という言葉を使っていた。もちろんこれでバッチリ通じる。でも最近では何となくそれが恥ずかしくなってしまい、「toilet」という言葉を使うようにしている。「郷に入れば郷にしたがう」し、元々英語はイギリスの言葉だからね。
番組でも「アメリカでは…」と断りを入れてくれればいいのにね。

さて、Gary。このレコードでスッカリ好きになってしまった私はもっと他のプレイも聴きたくなってSkid Rowのレコードを探したが、当時は手に入らなかった。
その後、『Back on the Street』で狂喜。1979年にThin Lizzyに加入していとうれし。『Black Rose』はよー聴いた。
でもここで終わり。その後、ブルース系になるまでは、正直まったく聴かなかったな~。
でも好きなギタリストだった。

Cdそして2010年。21年ぶりにGaryが来日した。
これがその時のステージのもよう。会場は水道橋の(当時)JCBホール。
ベースのPete Reesという人もMarshallで、ご覧のようにVBA400とVBC810のスタックを2台使っていた。

10これがゲイリーのマーシャル(下の写真。正真正銘、市販の普通の1959SLPだ。言い換えれば楽器店で普通に手に入る1959SLPと同じ。改造も何もしていない。
ただし、電圧はイギリスと同じ230Vで使用している。

この時、ギターテクのGrahamが私に訊いてきた。「シゲ、ナゴ~ヤってところの電気の周波数は50Hzかい?それとも60Hz?」
「日本は西のエリアは60Hzなんだ。名古屋も60Hzだよ。」
するとGrahamはこう答えた。
「やっぱりね。すぐにわかった。ココ(東京)と音がゼンゼン違うんだよ!」
「どっちがいいの?」
「ここさ!50Hzじゃないとダメなんだ」
と教えてくれた。

先日blurのところでも登場したJeff Beckのギター・テクのSteveは昔、「60Hzで使用すると倍音が乏しくなる」と言っていた。
が、ゲイリーのギターテクの表現では「低域 (less bassy)が薄くなる」ということだった。

そして、キャビネットは、見た目は1960BXだが、スピーカーはVintage30 に交換されている。言い換えれば1960BXのビンテージルックス・バージョン。

20インプットはとにかく左上のトレブル・ブースト・チャンネルだけ。男だ!
セッティングは PRESENCEが2、MIDDLEが8程度、それ以外はLOUDNESS 1も含めてすべて 9あたり。
1959弾きのベテラン・ギタリストの方々ならおわかりでしょうが、普通はとてもこんなセッティングじゃ弾けないよね?

実はこの時、Garyが持ってきた1959SLPの調子が悪くなってしまい、修理をしたのだ。
修理後、JCBホールに戻しに行く前に、直っているかどうかを当然チェックした。せっかくなので実際のGaryのセッティングを自分のレス・ポールで鳴らしてみた。
ま、Garyと同じ音が出ると思うほど自惚れちゃござんせんが、死んだわ、耳。
狭い場所で弾いたせいもあったが、同じ音が出るどころか暴れまくっちゃってまったく弾けなかった!どこをどう弾いても瞬時にしてフィードバックよ!

もうコ レぐらいの音量になると、出す音と同じくらい消してる音に気を遣わねばならないという感じ。「ギターの技術はミュートにあり」を実感したのであった…。
コレね、イギリスでやるともうとても弾けないよ。電圧が高い分、高域が張りだして来てよほどのテクニックがない限りムリ。少なくとも私なんぞは恥ずかしくて弾けん!

Img_0256b 足元のようす。予想以上にリバーブが深めにかけられていた。アレ、ショートディレイもかかっていたのかな?
使用していたのは現行の1959SLPなのでセンド&リターンが搭載されているが、エフェクターはギターとアンプの間につないでいた。古式ゆかしい使い方。

30この日のセットリスト。翌日の国際フォーラムも同じだった。1時間半のステージ。

40使用していたピックは市販のティアドロップ型のエキストラ・ヘビィという厚めのものだった。
Grahamに色々と見せてもらったが、「あんなんもあった、こんなんもあっ た」と案外ピックには神経質ではないようだった。
某メーカーのものが気に入っているのだが、柔らかいつくりになってしまったので現在使用中のエキストラ・ へビィのものに換えたとか…。
市販のピックじゃしょうがないので、Grahamにお願いして2007年のツアー時のピックを頂戴した。

50右手を見てると、ロングトーンで1弦をヒットする時なんか、ピッキングはアップばっかりだった。
そして、あのビブラート。チリメンじゃなくて振幅の大きなビブラート。好きだな~。

とにかく硬くて厚いピックがお好み。
弦はメインが0.10~0.52のセット。もっとプレーンに太いゲージを使っている先入観があったけど、そうでもなかったね。反対にボトムがへヴィだった。曲によっては0.09のセットも使用していたということだ。

60そ のGary、まぁ~音デカかったな。
下の写真を見て欲しい。少しマーシャルが下手側に振ってあるのがわかるだろうか?
JCBホールではミキ サー卓が真ん中じゃなくて少々上手側にセットされていた。これはGaryのギターの音が卓を直撃しないようにという配慮なのだ。
したがって下手の前の方のお客さんはもう完全に「マーシャル浴」だった。
ギターの音が大きいとよく「ギターの音しか聴こえない!」と大ゲサなことえを言うが、この時は本当にそうだった。
職権を濫用し、数曲でGary真ん前でMarshall音を聴いてみたけど、ウソ偽りなくドラムや 他の楽器の音が全く聴こえなかった。
耳から入った爆音が頭蓋骨を揺さぶって脳味噌を共振させてしまうのか、弾いている音以外の音が聴こえて来ちゃうんだから!
とにかくデカかった!ド ラムがアテぶりに見えたもんね。こんなにデカイ音、武道館で観たテッド・ニュージェント以来か?!(今にして思うとアレも大したことなかったのかもしれない)
でも、いい音だったナァ。
また、ギターのボリュームを絞った時のクリーン~クランチがたまらなくいいんだ~。
そして、ボリュームをアップしてのロング・トーン!ホント、Marshallの素晴らしさをトコトン教えてもらったような気になった。
Img_0269そしてそれから3カ月後、ロンドンでGaryを観た。
High Voltage というロックフェスティバルでGaryはブルースではなくハードロックを演っていた。
4月の来日時、「来年またハードロックのフォーマットで来日するかもしれない」という話しが漏れ聞こえていた。
このHigh Voltageの時は、それより少し先にGaryのハードロックを見せてもらった…ぐらいにしか考えていなかった。
この時もGrahamに会って「ヤア、ヤア」ということになり、「また東京で会えるかもしれないね!」なんて話していたのだが、この時は2人ともまさかあんなことになろうとは思っていなかった。
でも、これが私が見た最後のGaryの姿だった。

2011年2月6日、Robert William Gary Moore、スペインにて客死。

70さて、ここは生前のGaryが住んでいたイギリスはBrighton。
にぎやかなショッピングストリートを抜けたところにある楽器屋。
Garyは何か気になる楽器を見つけると、必ずここへ来て試したという。外壁に飾ってあるLes PaulはGary Mooreをイメージしているのかな?
(Brightonについては『名所めぐり』で後日取り上げる)

80そしてMarshallは、偉大なるMarshallプレイヤーにGaryに敬意と追悼の意を表し、このフルスタックを制作した。

90vプラークには「In fond memory of a dear friend GARY MOORE 1952 - 2011」と記されている。
Marshallは偉大なプレイヤーを失った。とりわけ、『50 YEARS OF LOUD LIVE』に出演できなかったことは今でも悔やまれる。
ウェンブリーのステージのGaryを思う存分撮りたかった…。

100「Gary Mooreの人気は本国と日本だけだ。アメリカじゃ誰も知らない」という話しを昔よく聴いた。ちょっと調べてみて驚いた。その話しが本当のようだったからだ。

本人名義のアルバムとしては『Still Got the Blues』が83位とトップ100に入っているだけで、他はすべて100位以下か圏外。
なんでアメリカ人にはウケなかったんだろう。アメリカ人にはこのギターのカッコよさがわからなかったんだろうな~。
ヨーロッパではやはり本国イギリスとスウェーデンで人気が高かったようだ。

そんな事とは関係なく、Garyのギターの音色は永遠に我々日本人の心に生き続けるであろう。
Still Got Gary!

120v

(機材写真:2010年4月28日 水道橋JCBホールにて撮影)

2013年11月14日 (木)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その5

改造について

P:改造や変更に関しては、よくメールなどで問い合わせが届きます。高音や低音のレスポンスを変えるとか。それは出来ないとアドバイスするのですが…。

Pw_img_7776_2特に新しいアンプが出ると、変な質問がよく届きます。新しいAFTのおかげで、EL34や6550等、自分の好きな真空管に入れ替えることが出来るようになりました。ボタンを押すとバイアスが調整されるワケです。
すると、「1959でもこれは出来るんですか?」と訊いてくるわけです。AFTをこの回路から取り外して、JTM45や1959や2203に入れれば、もうバイアス調整をしなくてもいいんじゃないかと思うらしいのです。
S:(笑)私も大分年を取りました。ギターを弾き始めた35年ぐらい前はそういった真空管の違いなど世の中ではそう問題にしていなかったように記憶しています。今すごく強く思うことは、良い音を出したいなら、真空管の違いを気にする前にもっとギターの練習すればよい…ということ。
P:まったく同感ですね。
S:でも、現在は技術的情報があふれていますよね?そういった環境はあなた方のお仕事の妨げになるものですか?
P:問題の一部は、「興味」ということだと思います。みんな1959をはじめとした好みのアンプを手に入れます。そしてインターネットで検索して、フォーラムか何かで「私はバイアス調整をして42mAから45mAに変えました。すると音がより温かみを増すようになりました」というような書き込みを読むわけです。
「これのパワー管をKT66に変えられませんか」とか。「もしEL34を外してEL84を入れたら、100Wが40Wのアンプになりますか?」とか訊かれることもあります。「どうやるんですか?」とね。
S:(笑)イギリスでもそうなんですか?

インターネットの落とし穴

P:はい。そういうこと事は出来ないんだというと、ビックリされるんです。インターネットを読んだだけで何でもできると思われてしまうんですね。
そこは現代のサービスに関する問題のひとつですね。インターネットで見聞きしたものが事実だと思われる傾向にある。本当のことももちろんたくさん書かれてはいますよ。

Pw_img_7788S:情報の選択が重要ですよね。
P:30~35年前なら…あなたがギターをプレイし始めた頃は、真空管アンプがあればパワー管をここにチェックしに来て終わりでした。
今は何と言うか、超高級スポーツカーみたいになっています。昔の車なら、買って乗ったらおしまいでした。手入れをせずに怠けていた故障は簡単に直せますが、最近はそれは簡単にいかないんです。
かなりちゃんと手を入れなければなりません。これまでよりもいろいろなことが製造の段階で関わってきていますから。
ですから、少なくとも現代のアンプはちゃんと今のモデルにマッチする真空管を使うべきです。
古い真空管をJVM に入れたりしたらアンプを損傷してしまうかもしれません。だから使う前にバイアス調整が必要なんです。
そこが以前と変わった所で、インターネットでは「マーシャルにはどんな真空管も搭載出来る。自動バイアスになったから」とか言われるんですよ。そこまで凄いアンプではありません。
まあ、サイズ的に搭載はできますが、バイアスが自動で変更出来る製品はごくわずかです。今後は増えるかもしれません。
しかし、それでも完璧にそういった機能が証明されたわけではありません。そこで、少なくともマッチしている真空管を買うことをお勧めします。
でも、長年かけて集めた4つの真空管があって、「初期のEL34なら良いでしょ?」と言う人は必ずいます。でも、上手く行かないと思います。
S:きっとお金持ちのお客さんなんですね?!
P:はい。私は固定観念をよしとしませんが、こういうことをしたがる人は大抵真空管にお金をつぎ込めるような余裕のある人です。でも、彼らはネットで情報を仕入れてきます。
S:RCAとかテレフンケンとか?
P:そうです。GECとか。「こっちの方が音が良い」と。最近のアンプは昔と比べてかなり構造が複雑になりました。 JTM45は30個ぐらいのパーツから出来ていましたが、JVM 410には500ものパーツが使われています。先ほども話しましたが、4台のアンプが中に入っているわけですからね。真空管以外にも重要な要素がいろいろ詰まって複雑なんです。

アーティストの機材

S:あなたが担当された特定のアーティストはいらっしゃいますか?
P:いえ。そういう形で働いてはいません。今でも工場にやってくるバンドはあります。例えばアイアン・メイデン。彼らはメンバーがそれぞれ異なったマーシャルのモデルを使っています。マーシャル用のテクニシャンがいて、その人が担当します。ステージの袖には、400Wのパワー・アンプを入れたフラ

Pw_img_7797イト・ケースがおいてあて、JMP-1とJFX-1が4台ずつ設置され、すべてプラグ・インされています。これらは予備の機材なので、ショウの途中で誰かの機材が壊れたら、即座につなぎ変えられます。そういうセッティングは私達で行ないます。
バンド関連でよくありがちなのは、2年ぐらい間そのバンドの姿を見なくなってツアーに出ること事が決まったとする。すると機材のすべてが工場にやってきます。ここで全部をチェックしたりします。
AC/DCが前回のツアーに出た時、彼らは新しく14台のキャビネットを購入しました。別にすべてを同時に鳴らす訳ではありません。いくつかは使い、いくつかは保管しておきます。彼らには専属のテクニシャンがいましたが、ツアーに出るとなると点検の為に多くが送り返されてきました。
長年見ている中で確実に変わってきた点があるのですが、最近は、スタジオやリハーサル・ルームからアンプが持ち込まれることが多いです。定期的に点検を行なっている所も数件あります。ある男性も定期的にやってくるのですが、レコーディングやリハーサル・ルームに35台のマーシャルを所有していて、それらを交代でチェックしたい。そこで、2~3ヵ月に1度、数台ずつ持って来て、点検を依頼します。それで数日後にまた引き取りに来るのなどということをしています。
S:緊急事態なんてことも?
P:バンドの機材の場合は緊急事態の事が多いです。地元のバンドだったり…国際的には知られていませんが、ここイギリスやヨーロッパでは名前のあるバンドなどが、ツアーに出る前にアンプの調子が悪くなった時に出来るだけマーシャルに近い場所を介して、よくやってきます。こういう事は結構多いです。バンドがアンプを山ほど積み込んだバンやツアー・バスでやってきます。そしてそのアンプをチェックして問題を解決します。よくありますよ。

Marshallを育てたのは誰?

S:マーシャルが1962年に“JTM45”を発表したのはセンセーショナルでした。それからマーシャルは世界的に有名な会社になりましたが、その成功に繋がった人物は誰だと思いますか? ジミ・ヘン

Pw_img_7802ドリックス? エリック・クラプトン? ジェフ・ベックやジミー・ペイジなど、いろいろいますが…。
P:そうやってワクを限定するよりも物事を大きく見た方がいいと思います。ジムが私に聞かせてくれたところでは、店の奥でジムはヘンドリックスやクラプトンなど、お店にやって来た人とお茶を飲みながら、彼らが探し求めている音を出せずに苦心しているという話を聞いていました。
そこで、そうした話をもとにしてジムが「彼らが求めている音を出すアンプを作らなくては」と奮い立ち、あのモデルが出来たことはあなたならよくご存じでしょう?
S:もちろんですとも!
P:ヘンドリックスも使っている、クラプトンも使っている、ザ・フーも使っている。バンドというバンドがみんな使っていて、その機材から彼らの欲かった音が出ていた。
他のバンドも彼らと同じような音を欲しがりました。みんな古いアンプではそういう音が出せないということに気づいた時、マーシャルを使うバンドが増え始めたワケです。
S:もう社会的な現象だったワケですね?
P:そうとも言えるでしょう。
もうひとつは、信頼性が高い事でした。ライブハウスに行くとクラプトンがその何かの箱を使ってギターを弾いているのが見えます。あなたはその音がとても気に入ったとします。でもあなたはホワイトスネイクのようなバンドを始める。そしてショップにやってきて、「素晴らしいアンプです。でも、低音は十分出てるんでしょうか?」と尋ねる。
最初の2~3年はそうした要求に合わせて製品をカスタマイズしていたようなものでした。先程も触れましたが…。そういったことも効果的だったと言えましょう。
S:お客さんの要望に細かく応えるということですね?
P:そういうことです。
しかし、一番大きかったのは結局は「口コミ」でしょう。
あなたがバンドでプレイしていたら、「いいなあ、どうやってそんな音をギターから出してるんだ?」

Pw_img_7793「マーシャルだよ」「マーシャルって何? 聞いた事ないよ」。
そうすると「ハンウェルで買ったんだ、あそこはスゴイよ。自分の好きなようにカスタマイズしてくれる」とバンドの間で広めてくれる。
そこでショップに行き、1台購入する。
多分成功のポイントは、ジムが顧客に欲しい物を欲しいタイミングで提供していたという事もありました。
始まった時は商業的な成功などは全く考えておらず、ちょっとした小遣い稼ぎになればいいな、という程度のものでした。それに、ジムはお金よりも友情をとるタイプの人でした。
だから、アンプを買いに来るからミュージシャン達と仲良くしていたのではなく、友達だから仲良くしていたのです。
1960年代、ロンドン市内には大きな音楽シーンがありました。ですから、お金を作ろうとして「こうした方がいいな」と思う事ができる下地があったのも良かったんです。
結果、ローズ・モーリスと契約したのは良い事でした。
S:一般的にはローズ・モーリスとの契約はジムの最大の失敗と認識されていますよね?
P:はい。しかし、ローズ・モーリスの力が会社に発展をもたらしました。彼らの方が規模が大きかったからです。
S:ああ、そういう見かたも出来るんですね?
P:ご存知の通り、最初は本当にショップの裏にあるガレージで製品を組み立てていました。
そこから現在のミルトン・キーンズに移りました。アンプを作るスペースが十分になかったし、顧客からの要求に応えられなくなってきたからです。
だからジムはローズ・モーリスと契約し、ここに大きな工場を購入し、ブレッチリーに移り住みました。当時はロンドンから移り住むと報奨金が出たんです。
S:え~?! 「出て行け奨励金(Kicked Out Reward)ですか?」
P:ハハハ!そこからイモヅル式にマーシャルは成長していきました。

つづく

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重友紀さん)

2013年8月 9日 (金)

友、隣国より来る(Marshallスタッフ紹介)

昨日はとても楽しかった~。
MatthewというMarshallの香港のスタッフとイッパイやった。前回会ったのはWembleyでのことだから約1年ぶりの再会だ。

ずいぶんしゃべったナァ~。新商品のこと(秘密でゴメンね)、お互いの国の慣習のこと、最近の日中の対立のこと、歴史や政治のこと…。
ものすごくおもしろかった。
イギリスの仲間と一緒になるとブリティッシュ・ロックの話しか、「ヘンリー8世の奥さんを順番に言えるか?」だとか「あのMonty Pythonは見たか?」なんて話しになるのが常で、これはこれで大変おもしろいのだが、こうして同じ地域に住む(いまや)隣国の友人と意見を交換するのは大変刺激になる。ま、彼も1997年まではイギリス人だったワケだが…。

Matthewは東京を大変気に入ってくれているようだった。「とにもかくにも便利!」、「何でもある!」、「清潔!」、「香港より湿気が少ないくて涼しい!」等々いいことずくめで、ともすると何かと悪く言われる東京の生活を見直す機会にもなった。私は元より東京大好きだけどね。

以前、やはりR&DのSatiago Alverezが東京に来た時、「圧倒的に英語の標識が少ない!」と不便がっていたが、Matthewは完全にノー・プロブレム。だって漢字が読めるからね。そういう意味でも大変に親しみやすいようだ。

それから驚いたのは、「夫婦別姓」。彼の家族の名前を英語名と漢字で書いてもらったのだが、やることがとても丁寧なMatthewは自分の名前からフルネームで書き始めた。
その紙を見るとナント、奥さんだけ名字が違うのよ!
コレ当たり前なんですってね?「え、日本では結婚すると女性は旦那さんの名字になっちゃうの?」なんて反対に驚かれたりして!
この話を家内にすると「アラ、みんな知ってるわよ!」などど呆れられてしまった。

MatthewのMarshallでの仕事はメカニカル・エンジニア。同じ開発チームでも、回路を設計する人、基板を設計する人、デザインをする人等に細かく分かれていて、彼は商品の特性を考慮して、シャシの構造やケーシングの設計等、ま、感覚的に言えばハード面の制作を担当している。
他のスタッフ同様、とにかくいい商品を作ることに熱心な人だ。ちなみのMarshall Blogを愛読してくれている。
新商品の話しをしている時、夢中になって説明する彼の姿を見て私はMarshallの輝かしい将来を確信した。

Matthew2

2013年6月13日 (木)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その4

アーティストこぼれ話

S:アーティストに話題を移しましょう。

たくさんの人たちが興味を持っていると思うので。特にロックのジャンルだけでも。実際、あなたはアーティストのケアをされた事はありますか?

P:ありますよ。80年代に工場でアーティストのサポートを受け付け始めました。ディーラーだけではなく対象を広げたのです。それからアーティストが昔のように再び訪れるようになりました。アーティストの大きさによるのですが…、ま、人気と言った方が良いでしPw_img_7801
ょうか…。アーティストが来る場合とローディーが来る場合があります。
でも、ここにアーティストが直接来ることは当然あります。アンプを準備して、通常のおもてなしをして。
このあたりの話は1日中でも続けられますが、ずいぶん前の話で…アイアン・メイデンは3台のバスでやってきたことがあります。1台はバンド用、2台目はクルー用。そして3台目はビール用です。

S:ええっ?ビール?

P:本当です。3台目のバスはビールでいっぱいなものですから人が乗れないんです!
S:ギャハハ!

P:小規模なバンド…「地元のバンド」と言ったらいいでしょうか。「地元」というのは「イギリス」という意味ですよ。そういうバンドは、小さなバンに乗ってやってきます。前の座席にメンバー3人が乗っていて、後部座席は機材の山。その一番上にマットレスを敷いて、足1つ分の高さしかない所にもう2人が寝ています。その状態で地元をツアーして廻るんです。
S:それはキツイ!(笑)
このお話は12年前にあなたからお聞きしましたが、AC/DCが600台のキャビネットを持っていたんでしたっけ?

P:はいはい。そんな話をしましたね。AC/DCは手に入れたものは絶対に手放さないんです。それで、アンガスとマルコムは…特にアンガスはかなり慎重な性格で、私がこれまでに話をした中でも最もサウンドにこだわるギタリストのうちのひとりです。いつも同じ機材で同じサウンドを得ようとする。多くのギタリストがそうですが、彼も例外ではありません。
S:ギタリストとしては誰もが望むことですよね?
P:当然です。そこで彼らがやっているのはロッカーのようなもので、ひとつはこの国に、そしてアメリカに1ヵ所、オーストラリアに1ヵ所。それぞれのロッカーに2~300台ずつキャビネットを保管しているんだそうです。

S:(笑)あの時あなたからお聞きした話では、「良いコンディションのマーシャルを探す人を専門に雇っていた」とか?

Pw_img_7780
P:はい。たぶんロード・マネージャーだったと思います。ツアーをしていない時に色んな国に出向いて小さいヘッドなんかを探すんです。おもしろそうなマーシャルがあったら買って帰る。そしてアンガスとマルコムが気に入るかどうか試させるんです。
新しいのもありますが、古いマーシャルも持っています。
マルコムは実際に“JTM45/100”を使用しています。オリジナルの方ですよ。音が気に入ったから。
S:オリジナルのJTM45/100!?
P:そう。それから、ビッグ・バンド…この国では比較的有名な、トム・ロビンソン・バンドがあります。彼らもここへ来ました。

S:「2-4-6-8…」
P:そう!「2-4-6-8 Motorway」ですね。そうです。トム・ロビンソンとリード・ギタリストが来たのですが、50Wのリード・ギター用の小さなマーシャルを買いに来ました。1987年のことです。
S:あの曲、もうそんなに前か…。
P:そして、私が面倒をみました。他のバンドとまったく同じように対応していたんですが、「あなた方が有名になってナンバーワンになったら、また戻って来てください!」と伝えたんです。それから3週間後、「2-4-6-8 Motorway」が見事ナンバーワンになりました。
S:日本でもヒットしましたよ。
P:やっぱり?そして彼らはまたここに帰ってきてくれました。彼らが使ったのは小さな50Wのヘッドだけで、マーシャルのキャビネットにつなげて使ったのです。その音を大変気に入ってくれました。
こうしたサービスの後で比較的有名になりました。お金も少し稼いだことでしょう。いまだにここに戻ってきてくれます。
いわゆる有名になった才能ある人達の中で、もう長年見かけていない人達もいます。誰もみんな違いはありません。みんな良い人達ばかりです。
誰とは言いませんが、1人か2人は若干エゴのある人もいますが、ほとんどの人はすごく凄く良い人たちで、我々のしている仕事に感謝してくれています。
S:それはうれしいことですね。

ステイタス・クォー

P:もう数年経ちますが、ステイタス・クォー(注)が…。

S:フランシス・ロッシ…。

P:はい。彼らはすべての機材を…。
S:白くする。
P:はい!そのせいで販売した製品が数年に1回は工場に戻ってくるんです。要するに白いから汚れやすいんですね。
私が全部担当してやり直しました。ハモンド・オルガンも含めて。ほとんどの機材はマーシャルで、ステージ上のすべてものを白くしたいんです。
我々は今は改造にはまったく対応していませんが、昔はこんなことをしていたんです。…というのは、彼らはステージにヘッドと4×12”のキャビネットをふたつ…アングルドとストレートを積んで並べます。そのキャビネットのひとつにはスピーカーが入っていますが、もう1台にはスポット・ライトが入っていました。だから、オフになっていると見た目は普通のキャビネットと変わりません。しかしショーが始まった途端、キャビネットから照明が飛び出すという仕組みです。それを私達でやりました。昔はそうしたリクエストの誰かれなく、分け隔てなく対応していました。

S:クォーの白いマーシャルはずいぶん前からのことですか?

P:はい。もともとはグレーでした。白に変えた理由を彼らのローディーたちに尋ねたことがあるのですが、白くしておけば、照明が当たった時、赤が当たれば赤いマーシャルに、青が当たれば青いマーシャルに変わるんです。要するに、オブジェクターのスクリーンのようなものです。見た目もいいですよ。ステージが1色に染まりますからね。ライトの色が変わるたびにいっぺんにステージの色が変わるんですから。

S:ハハハ!いいアイデアですね。おもしろい!
一方では対応不可能な申し出はありませんでしたか? ミュージシャンのエゴか何かから…。

P:ある事はあります。特別な物を欲しがる人はいます。でもそれは大抵、製造上の問題からできないものが多いんです。
Pw_img_7792
昔はよくあったんですが、バンドがやってきて、もっとベースやトレブルが出るようにしてくれと言われる。だからコンデンサーを外してやったりしたんですが、今はそれができません。日本に送られるのか、それともメキシコ行きなのか、はたまたロシア向けなのか、すべての国にそれぞれ固有の規律があります。だから商品は常に一定にしておかなければなりません。そういう理由もあって今はそういうことに全く対応しないんです。
しかし、バンドから特別な要求をもらうことはあります。奇妙なものもあります。6台のアンプをつなげてくれと言われたことがあります。でも、プラグ・インするギターは1本だけ。ステイタス・クォーがこれをやっていました。彼らの場合は、バンドのギター・テクが対応したのですが、1台目にギターをプラグ・インする。そのアウトからある箱に信号を送ります。そこで信号を5~6、7つに分配して残りのアンプに送る。そうやって対応しました。

S:要するにパラレル・ボックスですね。

P:その通り。ノイズはまったくなかったですね。
そのようなことをやりたいとよく言われますが、改造を要することは「できません」と断っています。
S:わかります。
P:奇妙だなと思った質問をもらった事があります。あるローディが…ローディじゃなかったかな?4×12”のキャビネットの配線をあるバンド用にリワイアしたいというんです。マーシャルが使っているハンダを使いたくないというんです。音に影響を及ぼすと思っていたらしいんです。

S:(笑)

P:シゲ、本当の話しですよ!それから、とある紳士がこんなリクエストをしてきたこともありました。マーシャルのコンボのキャビネットの足は大体20mmぐらいの高さなんですが、それを16mmにして欲しいと言うんです。その4mmの違いで低音のレスポンスが変わると思ったそうです。

S:へえー(笑)。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

(注)ステイタス・クォー(Status Quo)はギターのフランシス・ロッシとベースのアラン・ランカスターが中心になって1962年に結成されたイギリスの国民的バンド。日本でいえば、バンド版北島三郎とでもいおうか。昨秋もO2アリーナで20,000人の観衆を前にコンサートを開催した

最新では2010年にヒットを記録しており、51年の活動期間に60曲以上をチャートに送り込み(イギリスのバンドで最多)、うち22曲がベスト10に食い込んでいる。

1991年には、マーブロにも時折出てくるBPI(British Phonographic Industry)が主宰するイギリスのグラミー賞と言われるThe Brit Awardを獲得した。

考えてみると、クォーもマーシャルと同じ歳だ。

日本には1975年9月に初来日。オープニング・アクトは「めんたんぴん」だった。観たかったな~。

このカテゴリーでこうしてグダグダとバンドの解説をするのははじめてのこと。イギリスではこれほど地位の高いクォーが、日本ではほとんど忘れかけられたマイナーな存在になっていることが悲しくて記してみた。

私は決してクォーの熱心なファンではないが、こうして彼らの演奏を見てみると、やっぱり「皆さん、こういうの忘れちゃってませんか!?」と世間に問うてみたくなるのである。ネブワースでのライブ。白い2203とフレットクロスなしの白い1960の壁!是非ご覧あれ!

ザッカザッカと至福のブギ・ロック。タマリません!もういっちょ!この合唱は一体?!

うわべだけでなく、国民が世代を超えて自分たちのロックを愛しきっている感じがしますな。見ていてとても気持ちがいい!

ネブワース、コンサートの時ではないが、一度訪れたことがあったが、夢を見ているかのように美しかった。

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重友紀さん)

つづく

2013年5月27日 (月)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その3

モデル・ナンバーについて

S:今、モデル・ナンバーがたくさん出てきましたが、これらの番号の付け方を教えていただけますか? 当時、誰が番号を決めていたんですか? そして、どういう風に付けられたのでしょう?

P:一番最初、1962年頃はJTM45があり、その後、カタログ番号はローズ・モーリスによって付けられていました。 Pw_img_7778_2

S:ローズ・モーリスが?

P:はい。それからジムがアーティスト・ディストリビュートに関する契約を交わした後、モデル・ナンバーを考え出しました。それからカタログをまとめ始めました。私達には何ら関係ないところで彼らが勝手に始めたことなんです。
S:へぇ~。
P:特にJCM800は複雑です。シリーズが始まった時、出て来た時に順番で製品番号を付けました。それと4210みたいな番号は、4がコンボ、2は2チャンネル…みたいな。
…とか、2210は2が頭だからヘッド、2チャンネル、100W…。
(注:1981年にJCM800を発表した時にはローズ・モーリスはソール・エージェントではないため、JCM800のモデル・ナンバーはマーシャル自身によってつけられている。また、JCM800のモデル・ナンバーは1959と1960のように連番で無機的につけられたモデル[2203、2204や4210、4211、4212]と上のように桁に意味を持たせてロジカルにつけられたモデル・ナンバー[2205、2210]、さらにただヘッドのモデル・ナンバーをスライドさせているモノ[4103、4104(当然連番となる)]等が混在している。コンボはモデル・ナンバーから正体をロジカルに類推することは不可能)

S:(笑)

P:どうですか(笑)。そのうちみんな把握出来るようになりました。JCM900が出て来た時、4100…これは分かりやすいですね。4はリヴァーブを意味します。で、100Wの100。 4500はリヴァーブ搭載の50W。 2100はマスター・ボリュームのバージョンの100Wです。
例えば、4104なんていうモデルを作るのであれば(実在していない)リバーブ搭載で、100W、1×12”になります。4102はリバーブ搭載の100W、2×12”。

S:(笑)数字のクイズみたいですね。

P:はい。もちろん、DSLやTSLが出てからはそごくわかりやすくなりました。その頃には数字と一緒に記号を使えばいい事に気づきましたからね。番号だけの時よりもずっとハッキリしています。それでDSLがDual Super Lead、TSLはTriple Super Lead。JVMはJim Victoria Marshall。410はJVM 410。4チャンネルに100Wです。

S:では、1962なんて番号もローズ・モーリスが付けたのですか?

P:はい、そのあたりはすべてです。

S:えー? では1987や1959もですか?

P:はい。それでカタログを作りました。私達にはまったく関係ありませんでした。

S:では、「ユニットなんとか」も同じですか? Unit17、Unit 3…。

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P:はい。今は1959を100WとSuper Leadでくっつけていますが、数字を見ても何の事だか分からないものでした。かろうじて4100まできて何となく意味が分かる感じでした。でもハッキリしたものではありません。まあ、これを作った理由は間違えを防ぐためのもので、製品番号は何も意味していません。
BMWを例にすると、“318”というモデルがあったとします。するとこれは3シリーズだな、と分かる。そして、1800ccのエンジンが入っていると思うでしょう。でも、違う。3はシリーズではあるけど、エンジンは1900ccです。それで319にするとなんだか変なので、318にした…そういう感じで、私たち似たようなことをやっていました。誰かが思いついたんです。でも、DSLやTSLにした事で分かりやすくなりました。

S:しかし、型番を覚えているということはマニアの象徴でもあり、ロマンを持てることでもあります。

P:それはそうですね。
よくマーシャルのモデルを番号順にまとめたりしている人を見かけますが、それはまったく意味のないこと。シリーズで一緒にまとめておくことが大切なのです。
ためしに先頭の番号に戻ってみましょう。一番若い番号は1912です。でも2064なんていうモデルは1960年代の頃のものです。このように番号でならべてもただややこしくなるだけなんです。

1959の謎

S:ありがとうございます。実は個人的な質問があるのですが…。

P:どうぞ、構いませんよ。

S:ジミ・ヘンドリックスのシグネチュア・モデルなんですが…。

P:Super Leadですね。ハンドワイアードの。

S:Super 100。これは1959と呼んでいいのですか?

P:はい。

S:では、マスター・ヴォリュームなしの100モデルは1959という事ですか?

S:つまり、1959の定義は…。

P:入力が4つ。

S:そして100W?

P:はい。

S:一方、4インプットで50Wは…。

P:1987です。ですから、私達は番号のことなんか考えていませんでした。番号は全然意味がありません。これらが作られた時…ヘンドリックスのモデルですが…1つの回路基板しか使いませんでした。リードにもベースにも、PAにもオルガンにも、みんな全く同じ回路基板を使っていたのです。その上に乗せる部品が異なるだけでした。パワー段も同じ。フィードバックは要望によって少し異なりますが…。

S:コンデンサーや抵抗もそうですよね。

P:はい。

S:そして、JTM 45/100。これは初の100Wのマーシャルですが、これを1959と呼んでも良いのでしょうか?

P:はい。実際に1959と呼ばれていました。要するにそれが、1959が生まれた時なんです。パワー段は50Wのアウトプット・トランスがふたつ。メイン・トランスも実際には100Wでは80Wぐらいでした。それで、JTM 45/100が与えられたモデル名がでした。しかし、実際には最初の1959シリーズが作られた事になります。

S:なるほど。この型番には結構惑わされていました。歴史をこの目で見ていませんので、私なんかの感覚では、JTM45/100、Pw_img_7794
Super100等が1959とは異なる特別なカテゴリーに入るものだと思っていました。

P:JTM45/100は他と全く違う物だと言えます。これまでに作ったどの製品とも、またこれから先に作る製品とも異なる物です。理由はトランスが2つ付いているからなんですが、アルミ素材のシャーシを使った最後のモデルでもありました。アルミは強度があまり高くないことに気づいたんですね。
当時は100Wのアンプ用のアウトプット・トランスが簡単に手に入りませんでした。ですから、当時の技術を使ってトランスを作ったんです。つまり、2台のJTM45が同じ1つの箱の中に入っているモデルです。だからJTM45/100という名前がついたのです。

しかし、厳密に言えば最初に1959という型番が使われたモデルです。本当に厳密に言うなら、1965年、最初に100Wのアンプを製作した時…本物の100Wです…それ用のオリジナルのトランスを搭載しました。アウトプット用のトランスがひとつとメインのトランスがひとつです。それが初めて1959と呼ばれた時で、JTM45/100のことではありません。ですから、1964年の後半頃に最初のJTM45/100が出来て、1965年に最初の100Wモデルが出来て…。、両方とも1959と呼ばれています。誰に話しても、JTM45/100、それから1959、もしくは両方とも1959と呼ばれたりします。厳密には型番は1959です。リイシューした時にJTM45/100と呼んだのです。

S:やっと証明されました。ありがとうございます。

P:いえいえ。

S:さて、続けてもいいですか?

P:どうぞどうぞ。

この後、話題がガラリと変わるので、いつもより短いですが、キリのよいところで終了します。次回もお楽しみに!

つづく

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重重友紀さん)

2013年5月14日 (火)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その2

最も魅力的なモデル

S:あなたはマーシャル社の中でも最長のキャリアをお持ちですよね?

P:エレクトロニクスの分野ではそうですね。

S:そこで、今日はあなたからマーシャルのウラ話や普段は語られることのないエピソードなどをたくさんおうかがいしたいと思います。

P:わかりました。

S:ではまず…過去の機種について、あなた個人の観点で構いませんのでお答えください。あなたが最も魅力的に感じたモデルは何でしょう? 音質面からでも、見た目でも、最も印象的だったモデルは? 個人的に思い入れが大きいものでも結構です。

P:たくさんありますが、最も思い入れがあるのは近年の物ですね。近年といっても過去25年間ぐらいの事ですが、それはトランジスPw_img_7787
タ・モデルになります。最初のValvestateシリーズですね。とりわけその中の8080でしょうか。これは80Wの1×12”のコンボでした。
S:名器と呼ばれたモデルですね?
P:はい。でも最初は「あーあ、トランジスタ・アンプか…」と世間からいわれたシリーズです。Marshallは真空管アンプで有名なメーカーでしたからね。しかし、あのシリーズこそマーケットに大きなインパクトを与えた製品なんですよ。私達にとっても同様です。
S:なるほど…。
P:8080はとても音がよく、信頼性も高かったので何千台と生産しました。音がよかっただけでなく、的確なタイミングでマーケットに投入できた。つまり、消費者がちょうど欲しがっていたものをタイミングよくリリースしたのです。
S:なるほど。新商品を投入するタイミングはとても大切ですよね。
P:その通り。当時、真空管アンプの価格は6~700ポンドでしたが、8080は約200ポンドでした。マーケットにとっても我々にとっても良い製品だったんです。
一方、単体のモデルから選ぶのであれば、4210が最も印象に残るモデルになるでしょう。JCM800シリーズの1×12”のスプリット・チャンネルのコンボです。

S:コンボ・バージョンの2210か2205という事でしたっけ?

P:2210は100W、2205は50Wのヘッドですね。4210は2205のコンボ・バージョンで70年代後半に出てくるはずの物でした。そこでJCM800の中の1×12”コンボでは一番最初にリリースされました。
それがマーシャル社の最初のモデルであるJTM45に次ぐ革命を起こしました。なにしろJCM800シリーズは会社にとって2番目のマイルストーンとなりましたからね。
S:エリザベス女王から賞ももらいましたもんね。
P:はい。具体的にもっと詳しく説明しましょうか?

S:お願いします。

P:4210は非常にシンプルなアンプで2チャンネル仕様です。ひとつはクリーン寄りですが、クリーンではなくオーヴァードライヴ。ODほどダーティではありませんが…。背面にはエフェクト・ループを搭載しています。リヴァーブもあり、オンオフが出来ます。小さなコンボですが通常の50Wスタック並のパワーとパンチがあります。

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EL34が2本。それにECC83を5本搭載しています。プリ・アンプに3本、リヴァーブに1本、位相反転に1本。

S:もちろん知ってはいますが一度も弾いたことないな…。

P:試す価値は十分にありますよ。生産終了からもう22年も経っているのに、今でも「また生産しないのですか」と訊かれることがしょっちゅうあるんです。
S:そうですか。
P:JCM800 2203はリイシューを出しました。ですからシリーズでリイシューされるのではないかと注目が集まっています。
S:日本でも2203はいまだに人気がありますよ。
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P:JCM800は1981年に生産がはじまり、1990年に生産終了になりました。
生産されているシリーズが終了して、次のシリーズが紹介されるまでに平均して6~8年なんですね。会社の方針や市場でのポジションも変わるんです。

S:日本ではほとんどの人が忘れているかもしれません、JCM800のコンボは…。本当にリイシューされたらいかがですか?

P:ええ、するべきだと思います。出来ますよ。

S:(小声で)限定生産でもいいので。

P:(笑)はい、その方が効果的ですね。コンボだけではなくて、ヘッドもやるといい。50Wのヘッド。中身はコンボと全く同じ仕様のヘッド・ヴァージョンです。
S:いいですね。
P:当時、非常に評価が高かったので、(もしリイシューが実現したら)みんなが試奏するでしょうね。20年経った今でも、「生産されないのか?」と訊かれるモデルはそんなにあるもんじゃありません。「他の新製品を出すよりも、そっちを優先した方がいいんじゃないですか」とね。

マーケットへの投入

S:他には?

P:私がここにいる間にとても気に入っている製品が2つありました。
同時に上手くいかなかった製品も2~3ありました。理由はただひとつ、市場を見誤ったことでした。その商品が収まるべき場所に収めることができなかった。商品を明確に定義づけられなかったのです。クリーンなマーケットに向けるのか、ヘヴィ・メタルやスラッシュ・メタルの方に向けるのか。そういう指向が特定されないものがあったんです。これはいつでも難しいことなんです。その点、4210はブルース、ジャズからヘヴィ・ロック、何にでも使えました。それとは反対にどのジャンルにもまったく当てはまらないモデルがあるんです。

S:でも、機能が多彩すぎてしまうモデルもある。

P:そうです。12個以上つまみがあるものは、多すぎだと思っています。

S:(笑)

P:「正しいことをしようとしろ」と言っているのではなく、「やりすぎないようにしろ」と言っているんです。
S:昔の人はアンプから欲しい音を得ようとする時、いちいちコントロールをいじったり改造したりするより、自分の指で音を作っていたと思います。

P:はい。1つの箱にいくつもアンプを入れるような必要はありません。例えば“JVM”でも、4チャンネルで12種類のサウンドがありますが、2チャンネルしか使わない人達がいるのを知っています。クリーンと何か他の物。それ以外はみんなペダルです。そんなものですよ。その方が簡単に切り替え出来ますからね。
だから…私は機能が多彩なアンプを使うには年をとっていますが…たくさんの人が言うように、12個以上つまみがあると難しすぎると思います。
もちろんそこに市場があるから存在する製品ですが、購入者のほとんどが、意図された設計通りに使わないのが普通なのです。つまりいくらチャンネルを増やしても、すべてのチャンネルを使わない傾向にあります。非常に多彩なアンプでフェンダーのクリーンからスラッシュ・メタルまで使えるのに。使わないんですよ。

S:マーシャルはマーシャルですから。それで十分ですよね。

P:そうです。フェンダーのクリーンで弾く人とスラッシュ・メタルを弾く人は同じではありません。どちらか一方だけを弾くものです。でも、JVMはチャンネルがたくさんあってもとても良いアンプですよ。

奇妙なモデル

S:同感です。それから…その一方で、どの製品が一番奇妙な存在感を持っているとお思いですか? 他のどの製品とも異なるものは?

P:良い意味で? 悪い意味で?

S:両方です。お思いになっていることを何でも…。

P:チョット考えさせて下さい…(間)…一番奇妙だったのは、発表してからも全く良い評価を得られなかったのがStudio 15…4001で
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した。小さな15Wの製品で、今のClass 5みたいな感じですね。しかしあれは15Wで、パワー管には6V6が2本入っていました。ギグ用のアンプとして使う事が出来、ジェスロ・タルのマーティン・バレが使っていました。
彼は6台を同時に使っていました。2台はクリーン用、2台はオーバードライブ、そして残りの2台はエフェクト用です。素晴らしかったですよ。あまりラウドではないけど、ミキサー卓に直接つなぐ事が出来ました。
しかし問題は、あまりにもクリーンで繊細すぎたので、100Wのパワー・アンプにつなげなければまともに動きませんでした。真空管が良いとか悪いとかではないんです。ただ、アンプがとても繊細だったので、設定が難しかったんですね。
市場に出てからも長い時間をかけて売っていました。2~3年は売れましたが、思ったような所まで行きませんでした。
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しかしその一方で、大体同じ時期に“SE-100”というユニットを生産しました。ラック型で…。

S:ジェフ・ベックも使っているモデルですね。

P:はい。これもまた、「どうだろうか」と思いながら市場に出しましたが、結果的には周りから「また作らないんですか」と訊かれる製品になりました。なぜならシンプルで使いやすかった。スピーカーなしで直接ギターをつぐことができたし、スピーカーを使う時は25Wや30Wに変換する事も出来ました。れっきとしたパワー・ブレーカーではありませんでしたが、エミュレーションの方は、アンプを取り外してミキサーに信号を送ることができ素晴らしい製品でした。評価も高かった。

S:マイキングの位置を変えたり…

P:そう!あれも、もう作って20年ぐらいになりますが、いまだに尋ねてくる人がいます。ちょっと前までは中古で300ポンドぐらいで買えましたが、今は7~800ポンドに上がっています。みんなが気に入っているから。スタジオにも良いし、ライヴでも非常に重宝するんです。

もうひとつは…これもよく評価され、しかもこれまでに作ったものと比べてちょっと変わっていたのがJMP-1でした。MIDI搭載のプリ・

アンプで…クールですよね。プリ管を2本搭載していましたが、飾りだと思っていた人が結構いたんですよ!もちろん音をウォーム・アップさせる為に実際に使用されていたものです。サウンドのエミュレートは素晴らしいものでした。これはMIDIプリ・アンプですが、ベース、トレブルなど何でも変更して保存出来たという点がそれまでとは大きく異なる点でした。評価も高く、他の商品の平均的な寿命が6~8年であるのに対して、JMP-1は12年も生産され続けました。今でも人気があります。ただ私達が作れなくなってしまっただけです。パーツやユニットの問題がありましてね。

S:お客さんからも、JMP-1を復刻してほしいという声を聞かれると思いますが…。

P:もちろんです。「JMP-2は作れないのですか?」とかね。「中身は変えないで、よりモダンな感じにしてください」とか…。
S:ああ、気持ちはわかりますね。
P:人々がJMP-1を気に入ってくれたのは、とてもシンプルだったからです。本体の中でたくさんのパラメータを変えられますがベースやトレブル、ミドルなどを変えたり、ゲインを増やしたり減らしたりするぐらいです。アタック、ディレイといった音に関するあらゆるパラメータを変える事は出来ません。凄くシンプルなユニットですが、私達にとっては革命でした。これまで真剣に踏み込んで行かなかった領域に入ったのです。
今はほとんどの製品に何らかの形でデジタル信号が使われています。リヴァーブだけということもあるし、それからMGシリーズにようにすべてがデジタルでコントロールされているものもあります。形が違うんですよ。モダンな手法だと言えるかもしれません。悪いとは言っていませんよ。ただ、これが現代のやり方なんです。

最も成功したモデル

S:過去の製品についての質問を続けさせてください。個人的には、どの製品が最も成功したと思われますか?

P:様々な角度からの見方があります。持続性…どのぐらい長い期間生産されていたかということならJTM45でしょう。設立当初かPw_img_7804
ら現在までいまだに作り続けられているモデルですからね。

しかし一番ポピュラーなのはマスター・ヴォリュームを搭載した2203と2204でしょう。1970年代の半ばに出てきましたが、何かの理由で生産がいったん止まってしまった時を除き、ずっと生産され続けている一番有名な製品です。考えてみると、DSL、TSL、そして今作っているJVM、すべてにマスター・ボリュームが付いています。みんな2203や2204の設計を受けて作られたものです。
でも、あなたの質問にもしひとつだけ答えるならJTM45でしょうね。50年にわたって生産され続けていますから。生産していない時期もちょくちょくありましたが、基本的には50年です。さらに、人気という事でいえば、多分…。

S:DSL?

P:DSL。ウン。JTM45 ほど長い間は生産されてはいませんが、市場に的確なタイミングで参入してきました。スラッシュ・メタル用のアンプではないし、クリーンなアンプでもありません。「マーシャルのアンプ」です。ちょっと聞き飽きた表現かもしれませんが、これがマーシャルを有名にした音です。JTM45はなかなか買われません。クリーンが弾けないから。
S:良い答えですね(笑)。

P:ありがとうございます(笑)。

S:では、一番短命に終わったのは?

P:そう来ると思って今ちょっと考えていました。調べてみましょう…(間)…“Powercell”というコンボでしょうか。JCM800のシリーズで基本的には1×15"。リード、100Wのコンボです。

S:パワー何ですって?

P:Powercell(パワーセル)。こう呼ばれた理由は、搭載したスピーカーがセレッションのPowercellという名前だったからです。2年も経たないうちに生産終了してしまいました。多分全部で2~300台しか生産されなかったと思います。箱の大きさの割にパワフルすぎたのがマズかったかと…15インチのスピーカーが1発で、パワー段はストレートに100Wです。通常のJCM800のパワー部と変わらないんですから。音が箱っぽかった。

S:箱っぽい?(笑)

P:まさにその通り。鼻をつままれたような感じで、コントロール部でどういじってもそこを変える事が出来ませんでした。

S:(笑)

P:4×12"に繋げば素晴らしい音になりました。しかしコンボしか作りませんでした。だから、長続きしませんでしたね。

S:どんなヤツかなぁ?

P:テストもしたんですよ。ここにも1台あったんですが…。でもテストしただけでした。これは2バージョン作ったんです。1つは1×15"、もうひとつは1×12"。まず1×15"をやってみて、次に1×12"にして箱っぽさをなくそうと試みましたが、上手くいきませんでした。全く同じ音が出ました。低音が出るわけでもないんです。ただ、箱の音がするんです。 とにかくあれはもったいない製品でした。Pw_img_7799
スゴく良いものになるはずだったんです。でも、あれがここ50年作ってきた中で一番短命に終わってしまいました。
上部にコントロールがあって。ちょっと1959みたいですね、入力が4つあって…ボリューム、ベース、ミドル、トレブル、プレゼンス。それからマスター・ボリュームも搭載していました。だから、1959と2203の中間だといえます。

S:いい感じですよね~!

P:いい感じです。完全に新しいモデルでした。それまでは回路は…JCM800…つまり2210や2205みたいに、同じ回路を使って真空管の数を増やしたり減らしたりしていました。それで50Wや100Wモデルを作っていたんです。これは全く新しい回路を使いました。
これが回路の写真です。

S:ヒューズの数が凄いですね(笑)。

P:そうですね。問題があったわけじゃないんです。ただ音があまり良くなかった。というか理想の音を得られませんでした。

S:アンプとキャビネットの組み合わせが悪かったという事ですか?

P:はい。新しいアンプ、新しいキャビネット…。小さめに作って、地元のパブやクラブで弾けるようにしたんです。サイズは大きくないけれどパンチがある。

S:キャビネットがパワーを十分に受けきれなかったんでしょうね。

P:さすが!まったくその通りです。1978年から1979年の間に作られました。

S:短い!(笑)モデル・ナンバーは何番でした?

P:2150です。このシリーズの中で、実は他にも1年しかもたなかった製品があります。、Powercellが1977年の後半にスタートして1979年に中止された時に作られていました。、Club&Countryと呼ばれているモデルです。

S:それは知っています。

P:これも凄く良かったんですよ。とてもよく動きます。

S:茶色いのがマズかった…?

P:はい。それと、タイミングが良くなかったのか、あまり売れませんでした。誰かの決断で…外部の人間だったか内部だったかは覚えていませんが、とにかく生産中止になりました。

ビッグ・ダディ

S:あれは確かJCM800のファミリーですよね。

P:もちろんです、みんな同じファミリーですよ。JCM800というとマスター・ボリュームのことを思い浮かべる人がほとんどですが、確Pw_img_7778
かJCM800という名前の下には25種類の製品があります。

S:25も? それは一大家族ですね。

P:はい、2203と2204があって… 。

S:お父さんとお母さんですね(笑)。

P:はい、まさに(笑)。4010、4104、4103、そして4”×12"とマスター・ボリューム、そしてつい先ほどお話した2150、2140、2145、それから4001…あの小さなStudio 15です。それから4203…これはハイブリッド。3203はハイブリッドの30Wヘッド・ヴァージョン。だから、たくさんあります。

S:考えてみるとJCM800シリーズって本当に大家族ですよね~!

P:ええ、単独のアンプ・ファミリーの中では一番大きいんじゃないでしょうか。なぜならいろいろ々な製品が生産されていた時期でした。私達にとってブームの時期だったんです。作れば作るほど売れ、人気が出ました。

つづく

(一部敬称略 2012年9月 英Marshall社にて撮影・収録 ※協力:ヤングギター編集部、平井毅さん&蔵重友紀さん)

2013年4月11日 (木)

Speak of the Devil ~ ビックリしたな~モウ!

ウェイン・ショーターの人気盤に「Speak No Evil」というのがあるでしょ?あれは「見ざる、聞かざる、言わざる」という意味。で、似たようなルックスの英語のことわざに「Speak of the Devil」がある。

これは日本で言うところの「ウワサをすれば影」という意味。今日はそんなお話し。

ところで、ロンドンの街を歩いていると色々なところで丸くて青い銘鈑を見かける。

こういうヤツね。

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これらは「Blue Plaque(ブルー・プラーク)」と呼ばれ、ロンドン市内にある名所旧跡…というより主に著名人・文化人・政治家等の住居後を記すためのもの。「Plaque」というのは「飾り板」と訳されるようで、1960の左下やよくアニバーサリー・モデルや限定品にくっついてる金色のプレートを「プラーク」と呼んでいる。

実際、この言葉は「そこに住んでいた人物の記念額」とそのものズバリの意味もあるらしい。まさにロンドンのこれがそのまま単語の意味になっちゃったのかな?

私はこのロンドン市街地のブルー・プラークを探して歩くのがすごくおもしろくて、Charing Cross RoadのFoylesでこんな本まで買ってしまった。

ブルー・プラークの設置場所とその人のプロフィールが記してあるガイド・ブックだ。

20h

この本を買ったのは、『ロック名所めぐり』のネタになりそうなロック・ミュージシャンの知られざるブルー・プラークのありかを知りたかったからに他ならない。

本にはプラークの登場人物の職業別索引がついていて、買うやいなや 「Composers, Conductors & Musician」をチェックした。ナンディ、全然ロック・ミュージシャン少ないでやんの。 それも前から知ってるヤツ…。

たとえば…。

ジミ・ヘンドリックスが住んでいたフラット。ジミはチャス・チャンドラーとつるんでこの他にもいくつかのロンドン市内のフラットに住んでいた。今度ロンドンに行く機会があった時にそれらを徹底的に調べてみようかと思っている。「名所めぐり」でジックリとジミ・ヘンドリックス特集を編んでみようかと思っているんですわ。

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「キース・ムーンがここで演奏しました」。Marquee後についているプラーク。Marqueeも「名所めぐり」でジックリやります。

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ジョン・レノン。これしか書いてない。どこについているかはこれまた「名所めぐり」で触れます。

ね、気がつきましたか?この偉大なる3人の「アーティスト」…どこにも「Artist」って書いてないでしょう?いかに日本語の「アーティスト」という言葉が誤用されているのかがわかる。

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さて、このブルー・プラーク、一番最初につけられたのは19世紀のことだったらしい。ところが、おそらく放ったらかしにしておいたらみんなジャンジャン似たようなものを勝手に作っちゃったんじゃないかね?1986年にはEnglish Heritageというイギリス政府関連の団体これの管理を始めたが、現在は経済的な理由で活動が止まっている。ナンダ、案外だらしねーな。

ということでプラークにも色々なタイプが見受けられる。これがまたおもしろい。

これなんかはかなり古そう。17世紀の詩人・小説家、ジョン・ドライデン。

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この写真ではわかりにくいが、これなんか壁に埋まっちゃってる。絶対ハズさない!という意思表示かね?Robert Walpoleはイギリスの最初の総理大臣。メッチャ偉い人みたい。

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これなんか勝手に公式なブルー・プラークに似せて作っちゃったクチじゃないの?St. Martin's Theatreについているもの。アガサ・クリスティの「世界で一番ロングランの劇『The Mousetrap(邦題:ねずみとり)』の50周年記念イベントが2002年11月にここで開催された」というプラーク。1954年の初演以来、20,000回を軽く超える上演回数に上っている。

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2枚抜き!

ここで出た「Artist」。このマーカス・ストーンというのは画家ですな。「Artist」という言葉は主に美術に使われるようだ。AKB48は画家ではない。

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こんなタイプもある。ジュリアス・ベネディクトはドイツの作曲家。知らねー。

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こうして海外の著名人のプラークもジャンジャン出てくる。もっともジミも外国人だもんね。

これはケネディが住んでいたアパート。

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その隣にはアメリカ5大財閥の一角の祖、ジョン・ピアポント・モーガンが住んでいた。

モーガンは美術品コレクターとしても有名で、マンハッタンに行くとこの人の自宅を図書館&美術館にした「J. P. Morgan Libraly & Art Museum」という美術館がある。これおススメです。本のコレクションに圧倒されること間違いない。

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街を歩いているとブルーに限らず、もう色んなのが出てくるよ。

これは以前Shige Blogで紹介した「類人猿作戦」に関するプラーク。

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建物自体にはバンバンつけられる。これはChalk Farmにある操車場を改装した有名なライブハウスというか劇場Roundhouse。 これもそのうち「名所めぐり」で紹介します。

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茶色いのもある。『The War of the Worlds(宇宙戦争)』で有名なH.G Wellsのプラーク。

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さらに、プラークはロンドン市内にとどまらず、他の都市でも盛んに貼っつけられている。

これはニューキャッスルの「The Tyne Bridges」。これもいつか紹介したタイン川にかかる美しい橋たちのプラーク。

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これもニューキャッスルにて。鳥類学者のThomas Bewick。

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これはShige Blogの「イギリス紀行」に出てきたサウスシールズの旧市庁舎につけられたもの。

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世界的な作家、Catherine Cooksonのプラーク。これもサウス・シールズで見つけた。

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…と、イギリスではこのプラーク事業が盛んなワケ。ここまでが前置きです。思いっきりふくらました。

さて、ところ変わってここはロンドン西部のHanwellという街。

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マーシャル・ファンにはすっかりおなじみの地名だろう。

すでに『イギリス-ロック名所めぐり』の第2回目でも紹介している。

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Uxbridge Roadは街の目抜き通りだ。

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その通りの76番地にあるのがこの床屋さん。そう、1960年にジム・マーシャルがドラム・ショップを開店した場所。すなわちMarshall発祥の地だ。

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で、現地に取材に赴いた私が思ったことをマー本『Marshall Chronicle(シンコーミュージック・エンタテイメント社刊)』の11ページのコラムにこう書き記した。

「ここがJTM45の故郷であり、マーシャル・アンプ発祥の地なのだ。いつの日かこれらの建物にプルー・プラーク(中略)が掛かれば嬉しいと思う。そのプラークにはこう表示されるはずだ。

ENGLISH HERITAGE

Dr. JIm Marshall OBE

1923-2012

Founder of Marshall Amplification opened his first shop and laboratory here in 1960」

いいですか?

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驚いたことに、ナント!このプラークが実現しちゃったのだ!

これを実現させたのは「The Hanewell Hootie」というコミュニティで、地元のパブを会場にした自由参加のロック・フェスティバルがメインの活動。「この街に音楽を取り戻そう!なんてったってここはマーシャル発祥の地なのだから」的な思想を元にしている。

その活動の象徴として街の時計台にこのプラークが設置されたそうだ。

見て、このプラークの文句。ちょっと書き出してみると…

「Hanwell High Street

Jim Marshall OBE

1923 - 2012

Founder of Marshall Amplification sold his first guitaramp here in 1962

76 Urxbridge Road」

「初めてお店を出した年」か「初めてアンプを売った年」かどっちが重要なのかはわからないが、当たり前にしてもあまりにも似ているので驚いた。

『Marshall Chronicle』が出たのが2012年の12月10日。このプラークが除幕されたのが2013年4月6日。マー本の方がはるかに早い。明らかにマー本読んだな…。

…というのは冗談だが、考えていたことがスッポン!と実現しちゃったもんだからビックリしたわ。

そこで「ウワサをすれば影」と題してこのおめでたい話題をお届することにした。

ビックリしたな~モウ!

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2013年4月 5日 (金)

Dr. Jim Marshall OBE一周忌

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本当に早いものでジムが天に召してから今日でちょうど1年。

あれから2度ほどもうジムのいない工場に行ったけど、いまだに元気にしているような気がしてならない。ジム・マーシャルがあそこにいて当たり前の感覚がぬぐえないのだ。

しかし、あれから1年も経ってしまったんだ。

1周期ということで、Shige Blogに掲載したジムの思い出を読み返した。やっぱりさびしいものだ。

ありがとうジム・マーシャル <前編>~I Remember Jim !

ありがとうジム・マーシャル <中編>~I Remember JIm ! 2

ありがとうジム・マーシャル <後編>~I Remember JIm ! 3

もうひとつ、驚きを隠せないのは、文中に出てくる元マーシャルの社員、スティーヴ・イェルディングも昨年9月に急逝し、この世にいないということだ。その事実に寂しさを倍増させられた。

Rrest in Peace

2013年4月 1日 (月)

フィル・ウェルズ・インタビュー~その1

マーシャルに関することを何でも記せるカテゴリーをひとつ設けておこうかと思って…。珍グッズの紹介だのこぼれ話、ウラ話…マーシャルに関することな~んでも。ま、あとでゴチャゴチャになってまたカテゴリーを細分化するかもしれないけど、とにかく入れ物だけは作っておくことにした。

で、タイトルをどうしようかとチョット悩んだが、「年代記」とか「記録」とか「~新聞」とかいう意味を持つ「クロニクル」にした。もちろん、マー本のタイトルも意識してる。

「Marshall Chronicle」の最初の記事はマーシャルの歴史に関する内容だ。

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マーシャル社の創立50周年の記念して昨年の12月に上梓された『Marshall Chronicle』。この日本で初めてのマーシャルの本の制作にあたり、企画、取材、写真、文章と多くの作業を担当させていただいたことは都度このマーブロでも触れてきたが、長年マーシャルに関わってきたものとしてこの上ないシアワセであった。

マーシャルの歴史や目前に迫っていた「創立50周年記念コンサート」のレポートあたりを掲載することは、はじめから決定していてスンナリと作業に入ることができたし(入ったのはいいけど、出るのは大変だった!)、それなりの仕上がりになったと思う。

それとは別に、この本への参画のオファーがあった瞬間からどうしても取り組みたいと思っていた企画がいくつかあった。

たとえば「The History of Father of Loud」の中のコラム、「マーシャルの故郷を訪ねて」などは以前から温めていたアイデアで、チャンス到来!取材するのも執筆するのも最高に楽しい作業であった。

「マーシャル座談会」も同様。パネラーの皆さんにご参集いただいたついでにマーブロについて語っていただいたのは我ながらいいアイデアだった!

それと、もうひとつどうしても実現させたいアイデアがあった。それは、「The History of Father of Loud」とは異なるマーシャル社の内面史…なんて書くと大ゲサだがキャリアの長いマーシャルの社員の口から直に昔の話を聴くという企画であった。

「マーシャルの歴史」というと、必ず「ジム・マーシャルの歴史」ということになってしまう。これはこれで破天荒にオモシロイ歴史物語になることは『Marshall Chronicle』の中の拙著「The History of Father of Loud」のページをご参照いただきたいのだが、そうではなく、ジム・マーシャルの成功物語を陰で支えた人からウラ的な話が聴きたかったのだ。

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話し手の候補は決めてあった。5月にケン・ブランに初めてお会いし、とてもお元気だったのでケンにお願いしよう…などということは思わなかった。さすがにそれは図々しすぎる。そこで、気安く話しができる技術畑の最古参であるフィル・ウェルズ氏にお願いすることにした。

フィルとはもう10年以上の付き合いなので何でも気軽に質問することができる。2日ほど前に時間を取ってもらうようにお願いしたところ「何でも協力するよ!」と快諾してくれた。

当日、工場の近くのスーパーTESCOでサンドイッチを買って腹を膨らませた後、フィルのオフィスにもぐり込んだ。せいぜい1時間か1時間半程度話しができれば上出来かと考えていたが、午後1時に始まり、最後に外へ出て写真を撮った時には4時半になっていた。

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当然、そんな長尺なインタビューすべてを本に掲載するワケにはいかず、『Marshall Chronicle』上には編集者の懸命な作業により2ページにまとめてもらった。しかし、掲載しきれなった箇所にも興味深い話は尽きないワケで、このままフィルの話を消滅させてしまうのは、マーシャル・ファンやロック・ファンの皆さんにはあまりにも残酷であると考えた。ま、自分だけの愉しみにしておいてもよかったんだけどね~。

さらに、おそらくマーシャル社にも残っていない、また、残らないであろうそれらの逸話を何らかの形にして記録しておきたかった。フィルが会社を去り、今から10年、20年経った頃、もはやこのインタビューで言及された話を知る者はおらず、また、記録にも残っていないという事態を想定したのだ。

マーシャル社のスタッフが知らないような話を、東の島国の音楽好きが知っている…なんてのも面白いとおもってサ。何年後かにはこのインタビューが英訳されてイギリスのマーシャル社の資料のひとつに収まることだってあり得るかもしれない。

マーシャルに興味のない人には極めて退屈なものになろうが、マーシャル好きには実に興味深い内容になるであろう。何しろマーシャルについて書かれたどこの歴史書をひっくり返しても出てこない話ばかりなのだから…。

本企画の掲載を快く承諾してくださったヤングギター編集部の平井毅さん、気が遠くなるような量のフィルと私の会話を文字に起こしてくれた同誌編集部の蔵重友紀さんにこの場をお借りして心から御礼申し上げる次第である。

そして長時間にわたったインタビューに快く応えてくれたフィル・ウェルズ氏に深く御礼申し上げる。

では…

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70年代のマーシャル工場

Shige(以下S):マーシャルに入社されたのはいつですか?

Phil Wells(以下P):1977年です。

S:35年前という事ですね。その時の工場はどんな様子でしたか?

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P:もっと小規模なものでした。すべての製造ラインがくっついていて、多分今の1/4ぐらいの規模だったと思います。昔から変わっていないのは、エンジニアリングと最終仕上げ部門が分かれていることです。
当時は全員が複数の業務を掛け持ちすることが奨励されていました。そこで、私は検品部門にいましたが、組み立てもやっていました。木材のケースやシャーシを作っていたんです。みんなですべての仕事をちょっとずつやっていましたね。与えられた仕事をやっておしまいではなく、他の仕事も手伝って全体を作り上げていくような状況でした。

Pw_img_7775 それが始まりです。1977年の事でした。
ジムは朝のうち製造の現場で働いていました。アンプのカバリングの作業を担当していたんです。毎日ではありませんが、週に2~3回ぐらいでしょうか。午後にはマネジメント業務にあたっていました。でも、1人で現場で仕事をしている所を見かけたことがあります。その仕事は主にカバリングですが、仕上げにも関わっていました。


S:では、ジムにはカバリングのスキルがあったんですね。(注:ケースにカバリングを貼る作業は全工程中もっともスキルを必要とする作業と言われている)

P:最近のアンプに担当者の名前が入っているのはそれが理由です。今はステッカーですが、昔はサインでした。ジムがみんなにサインをさせるようにしたんです。理由は、「カバリングの貼り付けの状態が悪い」とジムは責められていました。誰かがカバリングの状態が悪いと注意を受けると、「イエ、それはジムがやったんです」とジムのせいにすることができるでしょ。「もう誰の咎めも受けない。全員でサインすべきだ」ということになりました。それは現在でも受け継がれています。今はステッカーに変わっていますが。

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S:実際に、キャビネットの中にジムのサインのある商品がありますよね。

P:そうですね、主に4×12”のキャビネットが多いようです。もしそういうモデルを見かけたら、今となっては倍の値段を付けても売れると思いますよ。

S:あなたが入社した1977年は世界的に大ヒットしたJCM800シリーズの発売前ですね。マスター・ボリュームが搭載されたのは1975年でした?

P: 1974年の後半から1975年にかけてです。1975年に生産ラインに入りました。

S:1977年にはどのモデルが最新だったんですか?

P:最新モデルというのはありませんでした。私が始めた時は、マスター・ボリューム、リード(1959の類)、ベース(1992の類)、それからトランジスタ・ユニットを主に作っていました。当時は質の高いトランジスタ製品がよく売れていたんです。製品の1/3がトランジスタのモデルだったような気がします。小型の30Wコンボなどがそうです。30Wのマスター・ヴォリューム付きコンボの2199というモデルがすごく人気がありました(注:2199 Master Lead。1976年から1980年まで製造されていた)。この他にPA機器もやっていましたね。小さな8チャンネルのPAミキサーなどです。1977年ごろのことですね。

S:いつPA機器の取り扱いを辞めたのでしょうか?

Pw_img_7781 P:その8チャンネルのPAミキサーを辞めたのは1970年代後半から1980年代です。その後に別のミキサーを作りました。PA400といって、これは1990年代まで生産していました。世界中に出荷されたわけではありませんでしたね。イギリス国内には出回りましたが、そんなに多くは輸出されなかったハズです。しかしあれは結構な数を生産しましたよ。
2125は8チャンネルのミキサーです。これは1970年代に生産終了しました(注:8チャンネルのパワード・ミキサー。1977年から1980年まで製造された)。

S:ありがとうございます。ところで、あなたはリペアも担当されていましたよね?

P:その通りです。

S:最初から?

P:いえ、始めはリペアと新製品のテストの係りでした。ジムと当時のマネージング・ディレクター、マイク・ヒルがアフターサービス部門を開くことに決めたんです。それが1982年のことだったと思います。

S:それまではアフタサービスの部門というものはなかったんですか?
P:もちろんアフターサービスはしていましたが、部門としてはありませんでした。そして、アフターサービスを受けられるのは購入者なら誰でも良いことにしました。普通のお客さんからプロ・バンドのメンバーまで、どんな人でもです。プロの機材はずっとケアしていたのですが、それだけでなく、アンプを修理して欲しい人は誰でも持ち込んでサービスを受けられるようにしました。
それを2~3年ぐらい続け、1990年代にさしかかるあたりまで、アフターサービスに関わっていました。電話などで直接お客様へも応対していました。
また、工場見学のツアー案内も務めていました。マーシャルの人気が上がったので、サービス部門をより強化する事になったんです。
S:私が初めてここを訪れた時、工場を案内してくれたのはフィル、あなたでした。
P:そうでしたね!覚えていますよ!
ここ数年は、アーカイヴの仕事をしています。古いアンプと新しいアンプをくっつける…古い物に限らないのですが、会社として電子的に記録を付けています。どういう意味かというと回路図のことです。1962年から1992年までの間は、回路図がまったく保管されていませんでした。なぜかは分かりません。
S:エ?いつからいつまでとおっしゃいました?

P:1962年から1992年までです…30年ですね。「そこのスキマを埋めろ」と。

S:それは大変な作業だ!

P:はい。

スキマを埋める

S:具体的にはどのように作業を進めているのですか?

P:まず、アンプのリストを作成しました。これを始めたのは何年も前のことです。顧客と話す際に必要だったので個人的に作っていました。自分のアンプがいつ作られたのか知りたい人がいますからね。
製造年、または作られてから何年経っているかとか…。それを個人的にやっていたんです。それから会社の命で本格的に取り組むことになりました。アフターサービスの仕事も続けながらです。
そして、400項目にも及ぶリストが出来ました。今では700項目になっています。

今でもメールや直接工場に持ち込まれる製品の中にはかつて見たことのなかった物を目にすることがあります。したがって、そのリストは日々拡大していますし、もちろん知識も深まっていっています。変わったアンプが来ると写真を撮り、回路図を書き、プリント基板があれば型番を見て、ハンド・ワイアードなら配線を確認します。
ネジには何が使われているのか、ということもチェックし、すべてを記録しておきます。というわけで、今では、例えば1973年製のアンプがあれば、それがどのようにして出来たのかをお話することが出来ます。まだすべての情報を把握したわけではないので、あいまいな部分もありますが…。しかし常に情報量は膨れがっています。

S:しかし、ケン・ブランとダドリー・クレイヴンはJTM45を製作する時、回路図を書いたんですよね?

Pw_img_7783 P:はい。

S:それをなくしちゃったってことですか?

P:簡単に言えばそういうことです。ケン・ブランがダドリー・クレイヴンを雇い、第1号のアンプの回路を設計させました。それがJTM45です。もともとの回路図はなくなりました。どこへ行ったのか、なくなったのか、誰も知りません。古いものですから、手で紙に描いていたわけです。それをコピーして渡すわけですが、コピーするということはもう1枚同じ物を手描きするということになります。1960年代ですから複写機のような物はありませんでしたからね。もちろんコンピュータもありませんでした。(注:どんな方法にせよオリジナルの回路図をバックアップすることが出来ていなかったということ)

50から80通りのJTM45

他に起こったことといえば、回路に常に変更が加えられていました。つまり、お客さんはジムの店に行ってJTM45を注文します。
購入して家に持ち帰り、しばらくしてまたそれを持って来て、「良いアンプなんだけど、もうちょっと中域を下げてくれませんか」とか言うわけです。そこでショップは中域を下げ、高域と低域が出るように修正します。その人のために調整してあげていたんです。つまり、リクエストがあればお客さんの音の好みに合わせてひとつひとつ回路を変更していたわけです。ここのコンデンサーを外して…などなど。
だからその間にいろいろテストをして、「この音だったら良いな」というものがあれば、その仕様を次のアンプに取り入れて製作します。そういうことがあったわけです。
ちょっとした変化…たとえばコンデンサーの値の違いとか、コントロール・ポットの変更とか、2~3の値の違いなどはよくあることでした。コンデンサーだって経年変化が起きているものもありますし、起きていないものもあります。
要するにまだ設計が確固たるものになっていなかったんです。
まず何かひとつ作って、もちろんそれはおよそ正しいものなのですが、年月をかけてそれが変化していったんですね。
今日では工場での生産ですから、基本的に仕様が決められています。不意にやってきて「ここを変えてくれ」などというリクエストにはまったく対応していません。
1970年代の始め頃までは要望を聞いていましたし、少しずつ変更が加えられていました。それはプロだけでなく、アンプを購入した人なら誰でも変更してもらうことが出来たんです。何ひとつ記録には残されていません。ほとんどはジムと話していて分かった事や、実際に修正が加えられたアンプを見て分かった微妙な違いなどでした。その違いというのは、それはそれは膨大なヴァリエーションがありました。本当に微妙な違いのものもあります。抵抗が何個か変わった程度のね。

S:当時の個体を比べては重箱のスミをつつくような議論を重ねていますが、それっておかしなことなんですね。

Pw_img_7803_2 P:そうです。「オリジナルのJTM45の音が欲しい」と言う人がいますが、「どれを指しているんですか?」となります。

先週のものも今週のものも仕様が異なったんです。出だしの機種から違いがあるんです。スタッフは週ごとに変わるような勢いで、変更を加えてはお客さんに善し悪しの判断をしてもらったんです。トーンの微妙な変化をお客さんに聴いてもらうんです。「良いね!でも低域が足りないなあ」とか「高域が欲しい」とか「音が切れるのが早い」とか「遅い」とか意見を言い合うのです。

それで彼らは、今度はケン・ブランやダドリー・クレイヴンに話して、ケン達なら何が出来るかを聞いてみる。

別にすべての要望を飲んで変更したわけではありません。アンプの改善に必要ではない物もありましたから。しかし、改造された仕様をお客さんは喜んでくれました。具体的な数字は確認しなければ分かりませんが…JTM45には50~80のヴァリエーションがあるようです。

S:ハハハ!(笑)

P:すごく単純な変更もあります。配線が変わっただけで影響を与えた物もあるんです。配線された場所のせいでジージー鳴っていたのがきれいになくなる事もあります。

S:とても面白い話ですね。

ちょっと初回は短めにしておいた。つづく。

(一部敬称略 2012年9月 英マーシャル社にて撮影・収録)