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2022年10月27日 (木)

【Music Jacket Gallery】日本のロック特集 <中編>

  
ジャズを聴き始めた頃はレコードのガイドブックを買い込んだりしたけれど、もうずいぶん前からそうした音楽の案内書や評論の類を読むことがなくなった。
さんざん音楽を聴いてきて、一番信用できるのは自分の耳や感性だということがよくわかったのだ…と言うのはカッコよすぎるか?
ダメだね…「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」だもんね。
で、例外的かつ自発的にその類の文章を読んで楽しんでいるのは植草甚一、中山康樹、そして中村とうよう(以下「とうよう先生」)のお三方の著書。
とりわけ私はとうよう先生の書く内容や筆致が大好きで、書籍はもちろんのこと、先生が携わっている音源の類も見つけた時には確保するようにしている。0r4a0233 その著作の中で特に好きで何度も読んでいるのがニューミュージックマガジン(現ミュージックマガジン)に毎月掲載されていた「とうようズトーク」というエッセイの1970年の1月から1989年の4月までを集めた『地球のでこぼこ』という2冊の単行本。
双方500ページに及ぶマッシブな本なんだけど、毎日1エピソードずつ読んでいるとすぐ終わってしまう。
初期は音楽に関する話題が多いのだが、次第に政治に関する内容が多くなっていく。
コレが滅法勉強になる。
そして、今の政治が50年近く前とナニひとつ変わっていないことに驚かざるを得ないどころか、もはや笑える。
2252sその『地球のでこぼこ』の第1集に、ニューミュージックマガジンの1970年5月号に掲載された「日本のロック」と題された文章が収録されている。
その中に今回のこの記事に関係する大変興味深いことが書いてあるのを発見した。
今もミュージックマガジンでやっているのかどうかは存じ上げないが、当時ニューミュージックマガジン誌では「NMMレコード賞」と銘打って、評論家諸氏が前年度に発表されたレコード作品に優劣をつけるコンペティションをやっていた。
その中に「日本のロック」というカテゴリーがあって1970年4月号でその結果が発表された。
その集計結果は…
1位: 私を断罪せよ/ 岡林信康
2位: エイプリル・フール/エイプリル・フール
3位: かっこいいことはなんてかっこ悪いことなんだろう/早川義夫
4位: ぼくのそばにおいでよ/加藤 和彦
5位: サリー&シロー/岸部おさみ、岸部サリー
コレはさすがに植村さんの意図ではなく偶然のことだとは思うが、ナント!今回<前編>に登場したアルバムが2枚も入っているでないの~!
ところが、当該のエッセイの中でとうよう先生がこの集計結果を受けて「日本のロック界そのものが抱えている問題を充分に考える必要がある」とおっしゃっているのだ。
先生がこのランキングのナニを問題視しているかと言うと、ロック・グループのアルバムが1枚もランクインせず、フォーク系のアルバムばかりが選ばれているということ。
そして「選ばれたアルバムがロックバンドのアルバムにない魅力を持っているところに日本のロックの問題点がある」と洞察していらしゃる。
つまり当時の日本のロックには、本来のロックが持っている魅力に欠けている…というご指摘だ。
「日本の多くのバンドが海外の音楽のコピーにとどまっているアルバム」を制作していることを不満とし、「自分の曲を作ろうと最大の努力をしていることも、日本語がロックのビートに乗りにくいことも、よく知っている。だが、難問を克服して、なんとか日本のロックのオリジナリティを作り出していかなくてはならない」と続けていらっしゃる。(『地球のでこぼこI(話の特集社刊)』より抜粋)
 
この時から52年…日本のロックはどう変わったのか?
私が書きだすとキリがなくなってしまうので、自分で考えてみてチョーダイ。
私の洞察は最後の方の「友川カズキ」さんのところに簡単に記すことにします。
160s

260s
さて、私の楽しい苦行は続く!
次のセクションは大滝詠一コーナー。
しつこいようだけど、はっぴいえんど関連を全く通って来なかったので聴いたことがあるのは1枚だけしかないの。390それはコレ。
2年前ぐらいに「もう要らないから…」と家内の高校時代の友人が大量に送ってくれたヒップホップのレコードの中にこのCDが紛れ込んでいた。
生まれて初めて聴いた。
「ダ・ドゥ…」が出てきてドキっとしたりして…。
別にキラってはいないんだけど、「食わずギライをして損してた!」と、後悔するほどの好みのタイプの音楽ではない。
私にはどうもビーチ・ボーイズを乗っ取ってしまったロイ・ウッドに聞こえてしまって仕方がない。
『Mustard』の頃にすごく雰囲気が似てると思うんですよ。
でもなかなかいいもんですナァ。
アートワークはWORKSHOP MU!!。
しかし、「大瀧」を「ナイアガラ」としたのはヨカッタ。395s私なんか「大滝」ときたら「すべり」しか出て来ないもんね。
船橋ヘルスセンターの「大滝すべり」ね。
昔は長生きしたい人たちがこぞって船橋へ向かったものだった。
そういえば谷津遊園とかあったナ…確かヘリコプターの遊覧飛行をやっていて、とても乗ってみたかったけど、一度も乗らしてもらえなかった。Os_2 次のセクション。Xx『東京ワッショイ』は<前編>で触れたので、今回はジャケットの裏面を出しておこう。
右端の「空飛ぶ円盤」は四人囃子へのスペシャル・サンクス?410s今から27年前に初めてニューヨークのMoMAに行った時、「日本人の作品はないかな?」と探していると、真っ先に目に飛び込んできたのが横尾さんの作品だった。
横尾忠則ってスゲエな…と思ったわ。
横尾さんのもっとスゴいのは、Creamとかジミヘンを見ているんだよね。
あまりの音がデカさに気持ちが悪くなってしまったとか…Marshallの仕業ですね、それは。
この辺のことは以前に「ゾッキ本」のところで書いたか…。9moma 1976年、近田春夫とハルヲフォンのファースト・アルバム。
中学生の時、近田さんがやっているバンドの名前が「ハルヲフォン」だということを知ってみんなで笑った記憶がある。
もちろん、その時は遠藤実の「ミノルフォン」なんてレーベルのことは全く知らなかった。
考えてみると、近田さんの音楽で知っているのは「きりきり舞い」と「星くず兄弟の伝説」とジューシー・フルーツのプロデュースぐらいだったので、いい機会だと思い記事を書くに当たってこのアルバムを聴いてみた。
コレも生まれて初めて。
(…間…)
ん?タイトルもオープナーもリッチー・ヴァレンス…ナンでなんだろう?
でも、いいわ~。
ロックはコレでいい。
入る店、入る店、どこもドロドロの豚骨スープのラーメン屋ばかりの中、チャーシューにナルト、シナチクに刻みネギが乗った鶏ガラスープの醤油ラーメンに出会ったようだ。
小難しいこと一切抜き。
「ガンバレ」でもなきゃ「ありがとう」でもない。
このアルバムの中にあるモノこそが「ロック本来の楽しさ」なのではあるまいか?と思ってしまった。
ジャケットは和製モンロー?…ナニを意味しているのかわからないけどいい雰囲気だナァ。
近田さんご自身の発言によると、意識したのはT-Rexで、スタジオ技術をフルに活用したライブでは再現不可能な人工的なロックンロールを目指したそう。
今となってはそうは聞こえないナァ。
当時はゼンゼン売れなかったそうだが、いつか評価されると信じていたとか。
そしていい加減にチャンと評価してくれないと怒るゾ…とおっしゃっている。
私もこういうアルバムが評価されて日本のロックも正気を取り戻してもらいたいところだけど、ずいぶんと明後日の方向へ行っちゃったからナァ。
近田さんには銀座で「パラチンケン」でも召し上がって溜飲を下げて頂くしかないナ。
420sちなみに…私は中学1年生の時に有楽町のスバル座で観たデ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』が大好きだったので、近田さんが「ジューシー・フルーツ」やご自身の「BEEF」というバンド名をこの映画から引用していたことを当時から知っていた。
9pop
あがた森魚の1974年の作品『噫無情(ああむじょう)』。
ジャケットのデザインは羽良多平吉。
あがたさんの音楽も1秒足りとも接したことはなかったが、このジャケットは知っていた。
これまたせっかくの機会なのでこのアルバムを聴いてみた。
金を払っているとはいえ、こういう時のSpotifyは本当にありがたい。
「蒲田行進曲'74」…コレは松竹の蒲田撮影所の所歌。
…と言っても、撮影所は1936年(昭和11年)に閉鎖しているのでかなり前の話。
松竹蒲田は日本初の本格的トーキー映画(『マダムと女房』)を制作し、成瀬巳喜男や小津安二郎、田中絹代や高峰秀子を輩出した。
デコちゃん(高峰秀子のこと。ウチでは最大の親しみを勝手に込めて「デコちゃん」と呼んでいる)はこの松竹蒲田で子役のオーディションに合格し、はじめの頃は鶯谷の家から山手線(当時は「やまてせん」)で蒲田駅まで通っていたが、多忙を極め蒲田へ引っ越した…と自伝の『私の渡世日記(文春文庫刊)』に書いてあった。
ところが、蒲田の撮影所の周辺には町工場が多く、撮影中のノイズ対策を解決するために撮影所は大船に移転した。
その大船撮影所も2000年に閉鎖。
ナンでだか知ってる?
渥美清が亡くなって「寅さん」が作れなくなっちゃったから。
寅さんなしではペイできなかった。
このアルバム、他は特に…ウワ!緑魔子なんかも参加しているのね?
こういうのが好きな人にはタマらないアルバムなんだろう。
  
このジャケットはルノアールあたりの絵画のように見えるけどそうではない。430sマッジ・ベラミー(Madge Bellamy)という1920年代に活躍したアメリカの女優さんのポートレイトに彩色を施したもの。Mbコレも1976年か…矢野顕子のデビュー・アルバム『JAPANESE GIRL』。
<前編>の岡林さんのところで出て来た友人の安藤くんこのアルバムが発表されてすぐに買ったので私もリアルタイムで聴かせてもらった。
もちろんLittle Featなんて全く知らない頃の話ね。
まぁ、コレにはビックリしたね。
「こんな変な声で歌う音楽がこの世にあるのかよ!」と思った。
曲も民謡や雅楽みたいだし、「へこりぷたぁ」って一体なんだ?…ってな具合。
当時の私はハードロックを中心に洋楽一辺倒だったので、こうした「和のテイスト」は全く受け付けなかった。
今回46年ぶりに聴いてみたんだけど…どの曲もメチャクチャかっこいいナァ。
こうして「個性」が売り物だった時代があったんだよ。
「American Side」と銘打ったレコードのA面でバックを務めているのはLittle Feat。
ナニ!矢野さんの才能に驚いてローウェル・ジョージが「ギャラは要りません」と言ったんだって?
ホンマかいな?!
ジャケットもとてもいい。
ウワッ!アート・ディレクションとして八木康夫の名前がクレジットされている!
「日本郵便」のクレジットの位置に「日本少女」と入っているのもいい。
この切手に使われているフォントは篆書体(てんしょたい)というらしい。
よく板碑に使われているよね。
左下の「21」はナニか?
矢野さんは1955年のお生まれなので、このアルバムをリリースしたのが21歳の時。
きっとソレだろう。
21歳!?…昔の人は立派だナァ。440sウワ!コレも1976年だった!
Charのデビュー・アルバム。
このアルバムって山内テツの『ききょう』と同時にリリースされていつも広告が一緒になっていたのを覚えている。
「FacesやFreeに在籍していた日本人ベーシスト」というプロフィールが気になって、私は『ききょう』を買った。
ほとんど聴かずに新井くんに売っちゃったっけ。
結局、Charさんのこのアルバムは一度も買うことがなかったナァ。
Charさんが一般の人にも知られるようになった頃、自分のバンドを引き連れて「平凡」だか「明星」に登場していた。
もちろん私はその手の芸能雑誌など買ったことが一度もないので、誰かが学校に持って来たのを偶然目にしたのだろう。
そのCharさんの出ているページには大きな文字で「歌謡界へ殴り込みだ!」と書いてあった。
まだロックと歌謡曲がハッキリと別れていた時代の話。
Charさん、殴り込んだ後、しばらくしてにコッチへ戻って来ちゃったけどね。
450s次…ココも聴いたことがあるアルバムが1枚しかないナァ。
困ったナァ…もう書くことがないのよ。
でも書くゾ!
4601975年の憂歌団のデビュー・アルバム。
木村さんと内田さんもこの時21歳だったんだって!
1974年の『一触即発』の大二さんと森さんも1974年の発表時に21歳。
一体どうなってたんだよ?!…って実は簡単な話で、聴いている音楽が今と全く違うからなんだよね。
昔の人はオリジナルのロックを聴いていたから。
それに、昔は30歳を過ぎて売れないバンドなんてやっていると、世間から白い目で見られたからね。
今なんか30歳ってまだ「若手」だもんね。
年金の受給年齢も年々伸びるワケだよ。
このファーストアルバムは今般初めて聴いた。
でも高校生の頃『"生聞"59分!』は一時期ホントによく聴いた。
このアルバムに収録されている「おそうじオバチャン」が放送禁止になっているという話を聞いて学校のロック好きの連中と一体どこが放送コードに抵触しているのか?…なんてことが話題になった。
みんなの意見は「♪アソコの部分の透けてんの」ではなかろうか?ということになったが、誰かが「♪アタシのパンツは父ちゃんのパンツ」の個所がマズイ…という情報をどこからか聞きつけて来た。
全くどうでもいい話なんだけど、まだまだ年端の行かない連中にはロックが「危険で怪しい音楽」だった時代だから、こんなことがオモシロくて仕方なかった。
そもそも本当に放送禁止になっていたのかも確認できていなかったんだけどね。
一列に並んだバンド・メンバーの写真をあしらった何の変哲もないジャケットだけど、時代を感じるナァ~。
しかもコレで21歳かよ!470s憂歌団は2回観たな。
最初に観たのは1978年のアルバム『四面楚歌』のレコ発コンサートではなかったか?
何とならば、そのアルバムのリードチューンの「夜明けのララバイ」のシングル盤を買っているから。
会場は芝の郵便貯金ホールだった。
「エレクトリック憂歌団」なんてコーナーがはさまれていて、木村さんがあの声で「ロッケンロ~!」と絶叫していたのを覚えている。
それから大分経って、就職して大阪に赴任している時、東京から来たミュージシャンの友人に誘われて新御堂沿いのライブハウスに観に行った。
何て言う店だったかな?…「何とかホース」とか「ロイヤル何とか」みたいな?
「地元で演奏する憂歌団を一度観ておくべき」と考えて誘いに乗ったのだが、最高にヨカッタな。
お客さんが演者と同じぐらいのポジションでね。
やっぱり大阪はお客さんがこんなだから、こういうバンドが出て来るんだな…ととても感心した。
しかし、このシングル盤のジャケット…今見ると子供じゃん。
メンバーの皆さん、まだ24歳ぐらい。0r4a0168_2「SKY DOG BLUES BAND」…知らないナァ。
「どんな音楽を演っているんですか?」なんて尋ねる必要のないバンド名だ。
「トラゾー」というバンド名で浪曲を演っているようなモノだろう。
1975年に札幌で結成し、1976年に発表したセカンド・アルバムだそう。
コレも76年か…。
YouTubeで音を聴いてみると…アレ?…まったくオールマン、オールマンしていないじゃん?
普通の昔の日本のロック。
タイトルの「北27条西4丁目」という場所を地図で調べてみると、札幌駅を背中に北へしばらく行った左側のエリアのようだ。
ストリートビューでその近辺の様子を確かめてみると、繁華街からチョット外れた雰囲気の普通の街。メンバーがココに住んでいたのであろうか?
はたまた行きつけの飲み屋でもあったのであろうか?
上の憂歌団にジャケットの雰囲気が似ているナ…当時はこういうテイストが流行っていたのか?480s1976年、カルメンマキ&OZの『閉ざされた町』。
マキOZもひと通り聴いたけど、夢中になることはなかったのよ。
でもこのタイトル曲の歌詞!
「♪川原の土手の腐った猫」と「♪無理に笑う極楽鳥」という文句がものスゴク印象的だった。
それにしても今でもスゴイ人気だよね。490s今では交通の便が発達し、どこを拠点にしていようともバンドが全国を演奏して歩くということが全く珍しくなくなった。
その結果、「〇〇のバンド」とかいう意識がなくなったような気がする。
「小松のめんたんぴん」とか「松戸のウシャコダ」とか、「博多のサンハウス」とか、「キャバレー・フロム・大阪」とか、そういうヤツね。
それで「名古屋のバンド」ということになると、昔は「センチメンタル・シティ・ロマンス」の名前が真っ先に頭に浮かんだものだった。
その後は私の場合は「なぞなぞ商会」だった。
で、今回センチメンタル・シティ・ロマンスを初めてジックリと聴かせてもらった…いいネェ。
みんなアメリカがヨカッタんだネェ。
おおよそ私が個人的に好んで聴くタイプの音楽ではないけれど、「名古屋」どころか「日本」のロックを代表するサウンドだと思う。
このアルバムは1979年リリースのライブ盤。
も~、ジャケットがセンチのサウンドを的確に表現しているではあるまいか!500sその中心人物の中野督夫さんも昨年の7月惜しまれつつ他界してしまった。
私は一度だけ松阪の中野重夫さんの還暦を祝うイベントでご一緒させて頂いたことがあった。
「ダリ中野」とか呼ばれていらっしゃるのを知って吹き出してしまったが、ものすごく快活な方で、私のカメラをみつけては「写真撮って~!」なんて、実に楽しい思いをさせて頂いた。
そのイベントの様子はコチラ
  ↓   ↓   ↓
ワテは60からだす!!:中野重夫の還暦を祝う <その3>~私のお伊勢さま (後編)

7502 1985年の内田裕也のアルバム『No More Comics』。
もちろんタイトルは頭脳警察の1972年のセカンド・アルバムに収録されている「コミック雑誌はいらない」。
このジャケ写が当時話題になったことを覚えている。
裕也さんが服を着たままニューヨークのハドソン川に飛び込んで撮影した。
この時のようすがPARCOのテレビCMに使われていたという言うんだけど、ものの見事にそれを見た記憶にない。
私はテレビをそう見る方ではないが、ロック関係の方がテレビCMに出ることなど当時はまずなかったので、目にしていれば何らかの記憶があっても良いハズなのだ。
しばらくその理由を考えて答えを思いついた。
見ていないのだ。
ナゼななら1985~1987年にかけて昔の仕事で北陸の富山に赴任していたから。
PARCOがない富山ではそのCMが流されていなかったのだ…としか思えない。
いい写真だよね。
裕也さんの視線と手の位置、水しぶき、そしてクライスラービルの遠望。
コレ、レンズがかなり水面に近いでしょう?
ボートからカメラを持った腕を水面すれすれまで降ろして、かなり早めの速度でシャッターを切ったんだろうね。510s裕也さんも1度Marshall Blogにご登場頂いた。
この時も楽しかったな。
Marshall Blogも10年(総計14年)もやっていると、色々なことがあるものよ。

マサヤン天国ロック生誕60祭 ~HeavenS MASAYAN ConnectioN LIVE 2013~<後編>

50v裕也さんの音楽には全く詳しくないので、ココは「コミック雑誌なんかいらない」でチョット脱線させて頂く。
この曲が収録されている頭脳警察のセカンド・アルバムの1曲目には「マラブンタ・バレー」という曲が入っている。
スゴイ歌詞なんだけど、「マラブンタ」と言う言葉は出て来ない。
以前からコレについて一度書きたかった。
9zk2 話は飛んで1954年のチャールトン・ヘストン主演のアメリカ映画『黒い絨毯』…原題は「The Naked Jungle」という。
小学校の時に父にススメられてテレビで放映された時に観た。
オモシロくて夢中になった。
「黒い絨毯」というのは「アリの大群」のこと。
虫のアリね。
コレがただのアリじゃなくて、恐ろしい「人喰いアリ」なワケ。
で、コイツが異常繁殖して地面がまるで黒い絨毯を敷き詰めたようになっちゃう。
このアリの名前が「マラブンタ」だった。
下のポスターにも「MARABUNTA」って出てるでしょ?
どうやってやっつけるのかは忘れてしまったナ…また観たいな。
パンタさんの曲のタイトルがこの映画に由来しているかどうかは存じ上げないけどね。
Nj
そこで話はもう1回飛んで今度は映画の『ウッドストック』。
会場に続々と集まって来る数えきれないほどの若者を目にして驚いたフィルモアのビル・グラハムが主催者のひとりのマイケル・ラング相手におしゃべりをするシーン。
「ソイツらに油をかけて火をつけるんだ」
確か、そんなことを言う。
コレ、若者の大群を『黒い絨毯』の「マラブンタ」に例えて『黒い絨毯』のことを話している…と私は中学2年生の時に初めて『ウッドストック』を観た時からそう思っていた。
コレをどこかで一度書きたいと思っていたのでスッキリしました。
ご静読ありがとうございました。
Billmichaelさぁ!植村さんには申し訳ありませんでしたが、ここまでゴマカシごまかしやって来ました今回のMJG。
いよいよ最後の展示棚でございます!
まずは上段いってみよう!520聴いたことはないけれど、昔から知っていた久保田真琴と夕焼け楽団の1973年のアルバム『サンセット・ギャング』。
ナゼ知っていたのかというと、ひとえにこのジャケットのおかげ。
ジャケットの力ってのはスゴイもんですな。
もちろん中身はゴジラとも伊福部昭とは何の関係もないマ~ッタリしたウォームなサウンドがタップリ詰め込まれている。

530sもう1枚、久保田さん。
コレも目を惹くジャケット。
ひと目見て八木康夫さんのイラストとわかる。
1977年の『ディキシー・フィーバー』。
もちろん聴いたことはなかったけど、2曲知ってた。
「キャプテンバナナ」と「カウボーイだった頃」という曲。
ナンで知っていたんだろう?…有名だからか?
私はこうしたタイプの音楽を全く通ってこなかったため、用語がわからなくてうまく説明できないんだけど、とにかくこうした「憧れのアメリカ」的な音楽も完全に消滅してしまったナァ。540s久保田さんには一度だけお会いしたことがあった。
アコースティック・ギター関連の仕事をしている時で久保田さんはお土産に自著を携えていらっしゃた。
「良かったら読んでみて!」と、アコースティック・ギターの担当者にお渡し頂いたのは『世界の音を訪ねる』と題した岩波新書初のCDつき書籍だった。
この本は2006年に上梓されているので、その頃にお会いしたのだろう。
私も民族音楽が好きなので、その辺りのお話をさせて頂いたように記憶している。
スゴイね、岩波新書から本を出すなんて。
岩波書店は上梓した書籍を絶版にしないことを是としていて、出版物の権利を手放さなず、リクエストがあればいつでも印刷できる体制を採っている…と聞いた。
つまり久保田さんの本は、岩波書店が続く限り存在し続けることになる。
それだけの良著と認められたワケ。
他にクラシック以外の音楽に関する書籍として岩波新書から、穐吉敏子の『ジャズと生きる』や一番最初の写真にも写っているとうよう先生の『ポピュラー音楽の世紀』などが上梓されているよ。
もちろん双方間違いのない良著です。
それでも数日前、岩波書店が『岩波ジュニア新書』を2冊ほど絶版にした…というニュースを目にして驚いた。
ナンだよ、絶版にするのかよ!…と思ったら、その2冊には無断転用の個所があり、著作権の侵害をしているとのことだった。
さすが岩波!…さすが諏訪の出身!(私は諏訪の出身ではありません)。長野の諏訪には「岩波」姓が多いのだ。

Iwa_2
喜納昌吉とチャンプルーズを武道館で一度だけ観たことがあった。
FM東京かなんか主催の無料のコンサートで、ハガキを送って応募したところ当選してしまったのだ。
サザンオールスターズとか、井上陽水とかも出演したんじゃなかったっけかな?
そんなメンツに混ざって喜納昌吉&チャンプルーズが登場した。
あの当時はまだ沖縄の民謡が今みたいにポピュラーではなかったが、ものスゴク盛り上がったんじゃなかったかな?
喜納さんのMCが全く聞き取れなかったことを覚えている。
言葉が全く違うからね。
沖縄の音楽を一般に知らしめることに多大な成果をもたらしたチャンプルーズってスゴイと思う。
もしかしたら違うコンサートだったのかも知れないが、長谷川きよしも出演して「悲しい兵隊」という曲を歌った。
「なんていい曲なんだ!」と大感激したわ。550sチームの存在は知っているものの、こちらさんも音楽は全く存じ上げない。
1973年、はちみつぱいの『センチメンタル通り』。
ジャケットの写真は西蒲田で撮影したモノだとか。
手前で冷蔵庫に寄りかかっているのはあがた森魚さん。
560s'はちみつぱい'は知らなくてもベースの和田博巳さんとお仕事をご一緒させて頂いたことがあった。
2006年、「Stereo Sound」というオーディオ誌の別冊の「Beat Sound」という音楽の話題を中心とした雑誌でのこと。
いいオーディオ装置で聴くジミ・ヘンドリックスのギターの音と、中野重夫さんがMarshallで弾く生のギターの音を比較してみよう…というムチャ企画だった。
でもオモシロかった。9bsこの時の取材がキッカケで、私のレコード・コレクションを同誌に紹介させて欲しいというオファーを受け、図々しくもお受けしてしまった。
私のコレクションなんて!…今となっては全く汗顔の至りである。
ま、「貧乏な人でもこうして音楽を楽しんでいる」ということのサンプルだったのだろう。Bs2当時はこんな感じでコレクションを整理していた。
コレは家にお越し頂いたプロカメラマンが撮った写真。
当時はカメラの心得など全くなかったので「プロはウマく撮るもんだナァ~」と感心したものだった。
この撮影の後、CDはこの3倍以上程度にまで膨らんだが、今では見事に買わなくなってしまった。Roomこのアルバムも日本の音楽史に残る顔をしている。
1977年のプリズムのファースト・アルバム。
和田アキラさんには一度だけMarshallのイベントにご出演して頂いたことがあった。
その時のことも含めてアキラさんの思い出を認めておいたのでご興味のある方にはコチラをご覧頂きたい。
  ↓  ↓  ↓
和田アキラさんのこと

570s1979年のSHEENA & THE ROKKETSのデビュー・アルバム『SHEENA & THE ROKKETS #1』。
私は『真空パック』を買って、新宿ロフトに観に行って、それからこのアルバムを買った。580sSHEENA &THE ROKKETSはかつて何度もMarshall Blogにご登場頂いていて、ココに書きたいような思い出はやはりすべてココに書いてしまったので、ご興味のある方はゼヒご覧頂きたい。
   ↓    ↓    ↓
【SHEENA & THE ROKKETS 35周年記念特別企画】鮎川さんとMarshallとわたし

90_2そして、シーナさんがお亡くなりになったことはかなり大きなショックだった。
その時のこともココに記しておいた。
    ↓ ↓ ↓
シーナさんのこと

ご生前のシーナさんが、私が野音で撮った下の写真をとてもお気に召していらしたというお話を鮎川さんからお聞きした時は涙がこぼれた。300v さぁ、「日本のロック特集」もいよいよ最後のセクション!
今回は本当に苦労した…。
書きたいことが山ほどあって話題を取捨選択するのもかなりツラいが、書けることがない時の方が断然苦労が多いな、ウン。600友川さんってチョット前まで時々テレビに出てたよね?
今は「カズキ」さんとカタカナ表記にされていらっしゃる。
私が友川さんのことを知ったのは高校生の時だった。
その頃は「かずき」さんだった。
三文役者のベースで『悪たれ小僧』の頃の頭脳警察に在籍していた石井正夫さんが友川さんのバックを務めていたのだ。
でも、当時は友川さんの音楽を耳にするチャンスはなく、ずっと後になってから「トドを殺すな」かなんかを耳にした。
驚いたよね。
今、この記事を書くに当たってまた聴いているんだけど、凄まじいまでの個性に恐れ入るばかり。
秋田弁でガナリ立てる声にとにかく圧倒される。
世の中にこういうことができる人がいることが不思議な感じさえする。
残念ながら生のステージに接したことはないんだよな~。
一度直に体験してみたい音楽の最右翼である。 
ちあきなおみ「夜へ急ぐ人」もスゴかった。
このアルバムは1978年、『俺の裡(うち)で鳴り止まない詩(もの)』という中原中也の詩に友川さんが曲を付け、寺山一家からJ.A.シーザーがアレンジを施したという「アングラを愛でる」人にとっては夢のような作品。
このモノクロの友川さんのドアップの写真がいい。
しかし、こういう音楽を作る人もスッカリいなくなってしまったネェ。
時折犬神サアカス團の皆さんが口にはするけれど、「アングラ」なんてのも絶滅危惧単語に近いだろう。
でも、ロックということになると、結局は海外のロックに日本語の歌詞を載せ替えるだけで、本当に日本のポピュラー音楽のオリジナリティというモノは友川さんのような音楽にあるのではないだろうか?
友川さんはフォークのスタイルでオリジナリティを爆発させているが、最終的には日本人にはコレしかないような気がする。
610s
ところで、私は「千曲川旅情の歌」の冒頭を暗誦できるぐらいで、「詩を嗜む」などというインテリな趣味は持ち合わせていない。
瀧口修造という人はマジでスゴイと思ったけどね。
だから中也も「汚れちまった悲しみに」とか、「茶色い戦争がありました」とか、「思えば遠くへ来たもんだ」とかぐらいしか知らない。
でも、このアー写のおかげで顔だけは知ってる。
こんなカワイイ感じなのに、この人、すさまじい酒乱だったんだってね。Nc それで思い出すのが「種田山頭火より上」と言われている自由律俳句の天才、尾崎放哉。
 咳をしても一人
とか…
 入れ物がない手でうける
とか
 足のうら洗へば白くなる

とか…知ってるでしょ?
こんなカワイらしい目をしているけど、この人も酒を飲むとどうにも手の付けられない酒乱だった。
他の人が出来ないことをする人はヤッパリ何かあるもんですよ。
放哉、好きでしてね…近い将来Shige Blogの方で記事を編む予定にしています。Oh_2 最後~!
タモリで〆ます。
1976年、私が中学2年生の時に東京12チャンネルで『モンティ・パイソン』が始まってね、結構衝撃的だった。
放送の翌日にはクラスメイトとみんなで広川太一郎のマネをしたりしちゃったりなんかして。
この番組で我々にもうひとつ大きな衝撃を与えたのは番組の最後に出て来る、髪をオールバックに固めてサングラスをかけたスキッ歯の男だった。
その男が演じるのは今まで誰も見たことがない芸で、姓も名も別のない「タモリ」という芸名も斬新だった。
最初は「よくこんなのがテレビに出て来るな」と思ったが、すぐにタモリのコーナーが本編と並ぶ大きな楽しみとなった。
そして、「タモリ」の名が世間に知れ渡るまでそう時間がかからなかったように覚えている。
そうして人気が出だすとレコードまでリリースするようになった。
コレは1981年のサード・アルバム『タモリー戦後日本歌謡史ー』。
戦後のヒット曲のパロディ集。
結構な労作だ。
ところが著作権上の問題が発生し、初回プレス分の3万5000枚だけを売り切って廃盤となったらしい。
そして、いまでもCD化されていないようだ。620s私、ナゼかこのアルバムを持っているんだよね。
どこでどうやって知ったのかは覚えていないんだけど、とにかく何かで知って「とにかく買わなきゃ!」とすぐに地元のレコード屋に買いに行ったような気がする。
ま、そう聴いてはいないし特段オモシロい内容でもないけど、「買っておいてヨカッタ感」はあるな。

0r4a0131これにて平面陳列のコーナーは終わり…フゥ~。
私の思い出で選出したアルバムで記事を構成しているせいか、1976年あたりのアルバムがメチャクチャ多くなっちゃったね。
でも、とうよう先生が憂えていた「日本のロック」のオリジナリティは、1972年ぐらいから充実し出し、1976年あたりで頂点に達したと認識してもそう間違ってはいないのではなかろうか?
…なんて思いました。
この頃のアルバムは総じてジャケットもカッコよかった。
 
<後編>は恒例の「立体展示」編。今回は「私の日本のロックの愛聴盤」から始めたいと思っています。

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