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イギリス‐ロック名所めぐり Feed

2013年6月10日 (月)

【イギリス-ロック名所めぐり vol.8】 ロンドン・ロック秘宝館?

「アレ?こんなのあんの?!」

Piccadillyで偶然にパンフレットを見つけてしまったのだ。

BRITAIN'S MUSEUM OF POPULAR MUSIC…ま、イギリス・ポピュラー音楽博物館ですな。

危ないんだよな~、こういうの…。チープな香りがプンプンする。

迷いに迷った結果行ってみることにした。どんなものであろうが、「名所めぐり」の名を掲げている以上、一応は訪れておかねばなるまい。

また、安くないのよ…。£13だから今の為替レートで言えばだいたい2,000円。

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ま、これがよく温泉地や高速の入口で見かける(イメージ)「○○秘宝館」のような類であっても、O2アリーナを取材すればいいや…と思って行くことに決めた。

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O2アリーナ自体の設備についてはすでにShige Blogでレポートしているので、コチラをご覧になっていただくとして…。

入口までの壁にはショウに熱狂する観客の写真に音楽史の重要な出来事をコラージュした年表がディスプレイされている。「ビートルズ、デビュー」とか「ウッドストック」とか…。不思議だったのは、レッド・ツェッペリンの名前が出るのは「『フィジカル・グラフィティ』発表」というとこだけなのよね。そんなに重要なの?

かつて「Classic Rock」というイギリスの雑誌の「ブリティッシュ・ロックのNo.1アルバムは何か?」というアンケートで『IV』が選ばれてたんだけどね…。
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O2アリーナは現在ロンドンで一番大きな屋内競技場だ。次にツェッペリンで有名なアールズ・コート・コンベンション・センター、次いでマーシャルが50周年記念コンサートを開催したウェンブリー・アリーという順番になるそう。

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これがアリーナへの入口。

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アリーナの外の回廊にはミュージアムの看板がたくさん設置されている。興奮するような、しないような…。イカンイカン、期待は絶対に禁物だぜよ。

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到着。メッチャ立派。
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チケットを買うと、このクレジット・カードみたいなものがもらえる。

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ランヤードも別売りで用意されているが、そんなものはいらん。自前のMarshallのランヤードをひっ付けるとこんな感じ。

このカードは展示品の音声ガイドのリモコン(っていうのかな?)になっていて、各展示についている印にこのカードをかざすと解説が始まるというワケ。これがなくても解説は聴けるので、ま、記念品みたいなものですな。

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さて、肝心の内容というと…これがなかなか面白かった。もちろん、期待のバーを極限まで下げていたことがかなり効果的だったのだが…。

恥ずかしながら、それでも2時間半も見てしまった!

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館内は完全に撮影禁止なので、文字でしか内容を伝えられないのがチト残念。

展示品はロック前夜のスキッフル時代からズラ~っと歴史順に並べられていて、それぞれのアイテムに解説が付けられている。

どんなものがあるのかというと…

●The Whoの有名なMarqueeの告知ポスター。もちろんホンモノ。

●見たこともないThe Beatles関連グッズ。おもちゃだの服だの。

●The Yardbirds、Jim McCartyのドラムヘッド。

●Marqueeのチラシ。

●Moody Blues、Justin Haywardのシタール。

●Fairport Convention、Dave Swarbrickのヴァイオリン。

●Jimi Hendrixの衣装。

●1969年のワイト島のプログラム。

●「I Feel Fine」の歌詞を記したメモ。

●Dusty SpringfieldやCilla Blackの衣装。

●The Zombiesの名盤『Odessey and Oracle』のオリジナルのアートワーク。

●Jethro Tull、Ian Andersonのフルートとギター。「Locomotive Breath」の歌詞のメモ。

●Steve MarriottのJTM45/100!

● Roxy MusicやSladeの衣装。

●The Rolling Stones関連グッズ。

●David Bowieの衣装いろいろ。これはスゴイ。

●Woodstockの時のRogerの衣装。あのピラピラね。ホンモノかいな?

●Nick Masonのドラムセット(イギリスでは「Drum Kit」という)。

●Elton Johnのサングラス。

●Fredie Marquryの衣装やBrian Mayの6pence plectrum。

●Mark Bolanのギターや衣装。

●The Sweet、Andy ScottのES335(「Blockbuster」や「Ballroom Blitz」のレコーディングで使ったとか)

●Ritchie Blackmoreの335(ノンちゃん、どうよ!)

メタル関連では;

●Rob Halfordの衣装。

●Ozzy関連グッズ。

パンク/ニューウェイヴ関連のグッズも山ほど飾られていたけど割愛。

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こうしたメモラビリアは3階に展示されていて、2階は特別展になっている。

私が訪れてた時はヨリによってレゲエだった。レゲエだよ、レゲエ。ああ、これがプログレ展とかだったらなァ。

それでもBob Marlyなんかのカッコいい写真がズラリと並べられていて、ま、それなりに楽しめた…かな?

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スター・グッズの他にも歴代のオーディオ機器の展示なんかもあって、これはおもしろかったナ。

でもね、実は私がもっとも楽しんだのはスターのグッズでもオーディオ機器でも、ましてやレゲエでもなく、イギリスのロックに関する展示だった。

これはバカでかいイギリス全土の電飾の地図がデーンと場内に据えられていて、自分のカーソルをツラツラと地図上のある地点に移動すると、その場所にゆかりのあるミュージシャンやロック史に残る出来事が示される。

普段からブリティッシュ・ロックの層の厚さに興味を持っている私にはこれがおもしろくておもしろくて!長い時間これで楽しんでしまったというワケ。

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結果的には£13分は楽しんだかな?あ、特におススメはしません。止めもしません。

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帰途North Greenwich駅で見かけたポスター。Status Quoのコンサートのポスター。サポートアクトはBonnie Tyler。

すごいでしょう、ステイタス・クォー!「Quofestive」、クォー祭りですぜ!さすがイギリスの国民的バンド!O2アリーナで演っちゃう。白いフル・スタックでパイル・ドライバーかましてくれい!(クォーが白いマーシャルを使う理由はまたどこかで…)
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つづく

2013年5月16日 (木)

【イギリス-ロック名所めぐり vol.7】 ソーホー周辺 その2

海外に出ると、とにかくすぐに日本の食べ物が恋しくなる。昔はこんなことなかったんだけどナァ~。どこまでいっても肉、肉、肉.

油っこいもの大歓迎!ステーキなら何枚でも食べられた。

それがね~、今では「ああ、刺身が食べたい…」なんて思うようになっちゃって…。大分若い頃と食べ物の嗜好が変わってきた。逆流性ナントカが怖くて大食い、早食い、脂っこいモノの過剰摂取にも注意が必要になった。

こうなるといよいよ困るのが海外での食事。ビールはウマイけど、サンドイッチが辛くて辛くて…。ピザはもとよりあまり好きじゃないし…。そうかといってチキンとポテトばかり食べてもいられない。いよいよ和食が恋しくなってどうにもならなくなってきた旅の半ばに食べるハンバーガーのシンドさといったら筆舌し難いものがある。

私だけの嗜好かもしれないが、摂取できなくて一番苦しくなるのがダシとコシのある麺と炊き立ての米だ。お茶もそうだが、イギリスは紅茶があるからさほど困ることはない。緑茶も紅茶もウーロン茶もどうせもとは同じ葉っぱだ。

しかし、ダシ・麺・米にはほとほと困る。

そういう時に圧倒的に助かるのが中華料理だ。ロンドンにもニューヨークにもサンフランシスコにもチャイナタウンがあって、おいしいものが安く食べられる。ロンドンは高いか…でも同じ料金を払って食べる味の濃い現地の和食よりは納得がいく。

それにどこにでもあるから助かるってものだ。7~8年前にWembleyで食べたチャーハンなんかとてもおいしかった。

で、同じくどこにでもあるのがインド料理。おいしいところはメッチャおいしいでねぇ。そこで、じゃどっちを食べようか…ということになる。

アレって法律で定められているのかどうかは知らないけど、イギリスのレストランってどんなところでも必ず店の入り口に値段を明記したメニューが置いてある。当然それをチェックして店を決めることになるワケだが、中華と印度を比べると1~2割インド料理の方が高い。もちろん同じものが置いてあるわけではないので感覚的なものなのだが、このあたりを工場の友達に尋ねると、思った通りインド料理の方が高級なんだそうだ。日本だと中華の方が高級という感じがするんだけどな…。

ということでロンドンに行くとたいては1~2回、チャイナタウンに来てワンタンメンを食べることになる。

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ロンドンの中華街はShaftesbury AvenueをはさんだSohoの反対側、Leiceter Squeareとの間ぐらいに位置している。横浜の中華街とは比べ物にならないくらい小さいが、いつも賑やかでその中華街的雰囲気(当たり前!)はロンドンにいることを忘れさせてくれる。

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Wardour Streetから左に折れて中華街に入ってすぐの左側のビル。

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ナント、1968年8月、この中華料理店の地下でレッド・ツェッペリンの最初のリハーサルが行われたというのだ。最初に取り上げた曲はThe Yardbirdsの「Train Kept a Rollin'」だったという。ご存知の通り、Led Zeppelinは当初New Yardbirdsと名乗ったぐらいだからね。マーシャルを持ち込んだのかな?

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ここにあの4人がネェ…。

こういうところが本当にオモシロイ。つまり、なんてことないロンドンの街かどにそんな話が残っている。興味のない人にとってはバカバカしいと思うだろうが、こちとらそうはいかない!こうした話は何だって感動しちゃう。

日本でもよく「何でこんなとこ写真撮ってんの?!」っていう外国からの観光客がいるでしょ。ガソリンスタンドとかタワーの駐車場とか(ちなみに駐車場のビルはあってもタワーの駐車場はイギリスでまったく見たことがない)…アレとまったく同じ。しかもこっちは興奮しているもんだから夢中になって熱を込めてシャッター切っちゃうじゃない?その姿はすごく不思議だと思うよね。

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Marshallを使わなかったバンドの代表はThe Beatlesだろう。続いてThe Rolling Stones。個人的にビートルズは好きだからこの「名所めぐり」にも頻出する。だってビートルズだもん!

反面、ストーンズは個人的にまったくと言っていいほど聴かないので残念ながら取り上げられることはない。ファンのみなさん、ごめんなさい。でのここでひとつだけ…。

上の中華街を抜けてすぐ右に曲がったところにあるこの建物。今はバート週末には簡単なライブハウスになるこの「Ku」というお店はローリング・ストーンズが初めてリハーサルをやったパブだったところだそう。そんだけ~。

 

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さて、ここはソーホー・スクエア。ロンドンには町の真ん中にこうした公園がゴロゴロしている。これはとってもいいよね。みんな草の上に座ってお弁当を食べたり、ゴロリと寝転んだり…うらやましい。
公園の外の正面に茶色の建物がある。二階がガラスになってるビルだ。

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コレがその建物。「mpl」というのは「McCartney Productions Limited 」の略。ポール・マッカートニー卿関連の出版物を管理する会社だ。

ロンドンとニューヨークに拠点がある個人所有の音楽出版社としては世界最大のものだ。
Apple社とアラン・クラインから距離を置くためにポールが1970年に設立した。最終的にはポールはAppleレーベルに1975年まで籍を置いたため、結局mpl名義で最初にリリースしたアルバムはWingsの『Venus and Mars』となった。

この会社は多数の音楽著作権を管理しており、ポール自身の作品はもとより、ポールらしくBuddy Holly、Carl Perkinsらのロックンロールもの、Harold ArlenやJerry Hermanらのブロードウェイの作曲家たちの作品を網羅。アル・ジョルソンで有名な「Rock-a-Bye Your Baby with a Dixie Melody(私はSummy Davis Jr.のバージョンが大好き)」や有名な「Blue Swade Shoes」の著作権もmplが持っている。
ビートルズ関連では「Love Me Do」、「P.S. I Love You」、「Please Please Me」や「Ask Me Why」などの曲がカタログに掲載されている。

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ちょっと失礼して…。壁にズラリとゴールド・ディスクが飾られている。 儲かってんだろうナァ~。

Hal Leonard(←このリンク先、加筆したので見てみてね!)という北米最大の音楽出版社がある。ここにBradという仲良しがいて、彼とニューヨークの話をしていて色々とニューヨークにまつわる歌を口ずさんでいると、「ア、それウチ」、「それもウチだ」っていちいち主張していたのが面白かった。「ウチ」というのはこの場合Hal Leonard社がその曲の著作権を管理しているという意味だ。Bradはマーブロに何回も出てきているChad Smithの実兄。ニューヨークの歌の数々はMel Tormeの『Sunday in New York』から引用した。

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しっかし、天気が悪いのう。

次に行ってみるのはmplからすぐのレコーディング・スタジオ。この先にあるハズ…。

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コレ。ここはかつて「Trident Studios(トライデント・スタジオ)」といって、数々のブリティッシュ・ロックの名作が録音された場所なのだ。

今は撮影スタジオになってるのかな?

このスタジオは1967年にNorman とBarryのSheffield兄弟によって設立された。ここには独自に開発したTrident  A Range Consoleというマルチトラックの録音機器が備え付けられており、音楽的なEQ機能を持つこのコンソールが大変な評判を呼んだ。

何でも68年の開業時にはManfred Mannが「My Name is Jack(The Kinksの「Village Green Preservation Society」のちょっと似ているなかなかの佳曲)」という曲をここで吹き込んで大きな宣伝効果をもたらしたという。

このManfred Mannもよくわからんよね~。日本ではまったく人気がないけど、イギリスではスゴイ人気。私は後年結構好きになり、Earth Bandを含めて何枚もCDを持っているけど、毒もクセもないワリには何となく病みつきになるバンドだ。解せないのはカバー曲でバカスカとヒットチャートに食い込んでくるところなんだよね。例えば「Blinded by the Light」。これはBruce Springsteenの曲でしょ?Manfred Mann's Earth Bandは完全に別曲にアレンジしてる。ま、好みにもよるけど、私なんか完全にEarth Bandの方がいいと思う。こういうところで人気があるのかな?

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The Beatlesの『White Album』や「Hey Jude」、Elton Johnの「Candle in the Wind」、David Bowieの『The Rise and Fall of Ziggy Stardust(ジギー・スターダスト)』など数えきれない名盤、名曲がここで録音された。

ま、名前を挙げだしたらキリがないが、他にも…The Bee Gees、Carly Simon、Joan Armatrading、Joe Cocker、 Kiss、Lou Reed、Peter Gabriel、The Rolling Stones、Thin Lizzy、Tina Turner、T-Rex、Yesなどなど。結構アメリカのミュージシャンも多い。それにしてもゴイス。

このスタジオには100年前につくられたドイツの名器、C.Bechstein(ベヒシュタイン:「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるスタインウェイやベーゼンドルファーと並ぶ世界3大ピアノ・ブランドの一角)のハンドメイドのコンサート・サイズ・ピアノが備え付けてあり、「Hey Jude」やEltonの「Your Song(僕の歌は君の歌)」に使われた。その後、このピアノは弦を張り替えた途端音が硬くなってしまい、使われなくなってしまった。あ~あ~モッタイないね。しかし、この2曲が同じピアノで吹き込まれているというのはまた感動ですナ~。今の若い人たちにはわかんなだろうナァ~、この感動。かわいそうだナァ~。
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また、ここのスタジオは、イギリスで始めてドルビー・システムを使い、まだ、Abbey Road Studioが4トラックのレコーディング・デッキを使用していた時にすでに8トラックのそれを導入していた。

この8トラック・デッキは「Hey Jude」の他、『White Album』の「Dear Prudens」、「Honey Pie」、「Savoy Truffle」や「Martha My Dear」、さらに『Abbey Road』収録の「I Want You」のベーシック・トラックが、そして、Eric Claptonも参加してのJohn Lennonの「Cold Turky」が吹き込まれた。これまたゴイス。

私は2006年にタバコをやめました。工場に行った時にやめた。当時まだ円が桁違いに安くて、ただでさえ高いイギリスのタバコが縁に換算すると1箱1,500円近くしていたのでバカバカしくてとても買う気にならず、「やめた」というより「やめざるを得なかった」というのが正しい。

それほどヘヴィ・スモーカーでなかった私でも初めの頃はその禁断症状に大いに悩まされたね。目はチカチカ、指先ジンジン。少しでもラクになろうとやたらと深呼吸をしていると、ちょうど食事で一緒になったDoug Ardrichも「シゲ、具合でも悪いのか?」と心配してくれる。

Marshallの友人もそれを見て、「どうしたの?調子でも悪いの?」と心配してくれる。「実はタバコをやめたんだ」と告げるとみんな口をそろえて「オー、コールド・ターキーか?!」と言うではないか!その瞬間、あの世にもカッコいいイントロをクラプトンが弾く姿が目に浮かび、禁断症状の苦しみも和らいだのだった。「オレ、コールド・ターキーなのか~!カッコいいな~」って。もちろんあの歌詞ほど禁断症状はヒドくないよ。

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さて、もう少し。さらにTrident Studioは繁忙を極めた。当時のApple Recordのアーティストが大量にこちらに流れて来たのだ。Billy Preston、Mary Hopkin、James Taylorなどなど、George Harrisonの『All Things Must Pass』もここでレコーディングされた。

また、ポールは自分が使わない時に将来有望と見込んだバンドを呼んできて自由にスタジオを使わせた。その有望なバンドこそQueenだった。

他にも出てくる出てくる、70年代初頭にこのスタジオを使用したアーティストは他にもFrank Zappa、Rolling Stones、Free、Lindisfrne、Mahavishunu Orchestra、Jeff Beckがいた。

また、Charismaもお得意さんのひとつで、Genesisはここで『Trespass(侵入)』、『Nursery Cryme(怪奇骨董音楽箱)』、『A Trick of the Tail』を制作。さらにVan Der Graaf Generatorやその重鎮、Peter Hammillもこのスタジオでレコーディングしたのだ。

加えてRick Wakemanはこのスタジオでハウス・プレイヤーとして働いていて、ものすごい数のレコーディングでピアノを弾いているらしい。David Bowieの「Life on Mars?」や「Changes」はそれらのうちのふたつ。
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残念がらBrian MayはMarshallプレイヤーではないが、Jimがなくなった時には弔辞を寄せてくれていた。そのお返しと言ってはなんだが、最後にQueenの話しをひとつ。

Sheffield兄弟は初期のQueenのブレイクに一役買っている。兄弟はQueenに最新機器とオペレーション・スタッフを自由に使わせるという契約を結び、プロデューサーやエンジニアも紹介した。まだQuennがまったく無名の頃の話し。

アルバムが完成すると、Sheffield兄弟はそれを発売するレコード会社探しに苦心惨憺してしまう。他のバンドとは異なり、当時はまだQueenの音楽があまりにも風変わりでレコード会社は契約することを恐れたのであった。

そして、とうとう兄弟は「Trident」というレーベルを立ち上げ、Queenのデビュー・アルバムをリリースしたのであった。結果、アルバムはヒットし、QueenはEMIと契約して『クイーンII』をリリースした。Queenは本国イギリスよりも早く日本で火のついたバンドだ。

つまり、シェフィールド兄弟と我々の支持がなかったら「Bohemian Rhapspdy」も「Brighton Rock」も「Killer Queen」も聴くことができなかったのかも知れないのだ。ま、若い人にはわからんか…気の毒に。

しかし、この細い道をそういう人たちが歩いていたのかと思うと…やっぱりロンドンはゴイス!

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つづく

2013年4月16日 (火)

【イギリス-ロック名所めぐり vol.6】 サウス・シールズ(South Shields)

筆者の勉強不足により 政治や経済の話題を取り上げないようにしているマーシャル・ブログだが、今日はホンノ少しばかりそのあたりを…。

今日は他の記事を掲載するつもりであったが、先週サッチャーが元英首相が逝去したことにより急遽予定を変更して、ウィンストン・チャーチルと並んでイギリスの政治史に名を残すこの有名なイギリスの宰相の話をする。な~んて、そこはマーブロのこと、カタイお話は一切なし。現場からおもしろい話が舞い込んできたのでそれを紹介したいと思っているのだ。

記事としては、「ロック名所めぐり」。サウス・シールズ(South Shields)を紹介する。サッチャーとロック?何の関係もないけど結びつけちゃうよ~!

さて、サッチャー。日本のマスコミが彼女の業績を「英国病と呼ばれる長年の不況から経済の立て直しに成功したが、貧富の格差を広げ、不支持を唱える人も多い」とか喧伝しているぐらいで、実際にはそう身近な存在ではないというのが今の普通の日本人の感覚だろう。日本ではもう過去の人だ。

「Margaret Thatcher」というのが彼女の名前。ちょっと前まで「サッチャー」のつづりは「S」から始まるものだと思っていた。恥ずかしい…。「T」で始まるんですね。あのメリル・ストリープ主演の伝記映画がもう少しマシだったらもうちょっと私の意識も違っていたかも…?アレは実にヒドイつくりだった。

サッチャーが亡くなり、このことをやたら見かけたり、聞いたりしているうちに思い出した。それは、弊社のスティーヴ・ドーソン(Steve Dawson)のことだ。

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スティーヴのことはマーブロやマー本ですでにおなじみの方も多いことであろう。もとアニマルズのギタリストで、プロ・ギタリストとしての経験を活かし、現在は弊社のR&Dのスタッフとして、VintageModernやJTM45/100等のビンテージ系モデルの開発に携わっている。

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マー本のインタビューにもあるように、スティーヴはブリティッシュ・ロックに造詣が深く、日本では絶対に得ることのできない情報を与えてくれる私のブリティッシュ・ロックの師匠のような存在で(何せ本場仕込み!)、年齢もやや近いことからとても仲良くしている。

彼は彼で地球の裏側でマーシャル・ブログを毎日必ずチェックしてくれているマーブロ・ファンのひとりで、今日の登場もよろこんでいることと思う。何しろこれから彼の生まれ育った街、サウス・シールズを紹介するのだから…。Shige Blogですでに一部を紹介しており、若干内容が重複することをご容赦願いたい。

さて、スティーヴの住むサウス・シールズ(South Shields)はイングランド北部最大の都市、ニューキャッスル(Newcastle upon Tyne)からタイン川沿いに河口に向かって電車で20分ほ行ったところだ。

近くにあるサンダーランド(Sunderland)という街がある。ここは実は我々には馴染みのある場所だ。Freeの『LIVE!』に収録されている「All RIght Now」と「The Hunter」がこの街にあった劇場で録音されているからだ。その劇場は残念ながらもう取り壊されてしまったが…。このアルバムの残りの曲はロンドンからブライトン(Brighton)に行く途中にあるクロイドン(Croydon)にある劇場で録音されている。これは「ブライトン」の回でまた登場することになる。

Free
この北海に面する美しい港町、サウス・シールズはかつて炭鉱と造船で繁栄を誇った街だった。

『エイリアン』、『ブレードランナー』、『テルマ&ルイーズ』、『グラディエーター』などの大ヒット作を撮ったリドリー・スコット(Ridley Scott)やモンティ・パイソン(Monty Python's Flying Circus)の中心人物、エリック・アイドル(Eric Idle)もサウス・シールズの出身だったりなんかしちゃったりする(広川太一郎風に)。

余談だが、リドリー・スコットはロンドンに家を持っていて、そのハウスキーパーのひとりが日本人だった。その人の著書『イギリス人はおかしい』によると、このリドリー・スコットという人は一日に何度も掃除をして、階段の真鍮の手すりはいつでも指紋ひとつあってはならないという異常なまでの神経質で潔癖症なのだそうだ。だからあんなに緻密な映画を作ることができるんだね~。

そして、エリック・アイドル。モンティ・パイソンが東京12チャンネルで放映されていたのは私が中学生の頃。36年前かな?「オカマの恐竜」っていうアダ名のヤツがクラスにいたナァ。モンティ・パイソン、本当に面白かったナァ。少しはイギリスの文化を勉強した今ならもっと楽しめるだろうな。

さて、エリック・アイドルの持ち歌に「Always Look on the Bright Side of Life」というモンティ・パイソンの映画『Life of Brian』の挿入歌がある。

「Look on the Bright Side」というのは映画や歌でも時折見かける表現で、「明るい面を見ようよ」…要するに「くよくよしないでポジティブに行こうぜ!」という意味。

磔刑、つまり、はりつけに処せられたエリック・アイドルが、同じく十字架にはりつけられた主人公に向かって「口笛ふいて明るく行こうぜ!」と歌いかけると、やがて20数名の受刑者全員が首を揺らせて(みんなはりつけになっているため自由に動く身体の部分が首しかない)みんなで楽しく合唱してしまうというこの映画のラスト・シーンに使われた曲だ。このシーンは当然、宗教上の理由で大きな問題になったらしい。また、驚いたことにこれがディズニーの『ピノキオ(Pinnochio)』の挿入歌「困ったときには口笛を(Give a Little Whistle)」のパロディかつアンサー・ソングだっていうんだよね。よ~やるわ!

この曲は朝のワイドショウのお天気コーナーのBGMで使われているので聞いたことのある方も多いだろう。映画は1976年の公開だが、後にサッカーを通じてリバイバル・ヒットとなった。去年のロンドン・オリンピックの閉会式にもエリックが登場してこの曲を歌い、会場にいた観客数万人が合唱したほどイギリスでは有名な曲で、にわかには信じがたいが、葬式の時にも歌われることがあるらしい。

スゴイのは1982年、フォークランド紛争の時だ。アルゼンチン軍の攻撃を受けた駆逐艦シェフィールドが沈みゆく中、乗組員たちは救助を待つ間、この歌を歌って励まし合ったという。また、湾岸戦争の時も、イギリスの空軍パイロットたちが出撃前に、やはりこの歌を歌ったのだそうだ。

「Always Look~」を聴いたことのある人なら、なぜ私がこうした事象をおもしろがっているかがおわかりになると思うが、この曲はおおよそ、そうした深刻なシーンにふさわしくない軽快でコミカルな歌だからだ。

ビートルズの曲を除いてイギリスで有名な歌といえば「God Save the Queen(イギリス国家)」、「Pomp and Circumstance(エルガーの『威風堂々』)」、「Jerusalem(エルサレム:ELPが演ってるアレね)」、「Greensleeves(民謡)」らがすぐに思い浮かぶが、もしかしたら「Akways Look on the Bright Side of Life」が次点につけているのかもしれない。

余談以上。

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話もどって…面倒かもしれないが、この記事を読み進めるためにこの動画をチェックしていただきたい。何もすべてご覧いただく必要はない。チョットでいいから見て欲しい。1950年代のサウス・シールズのようすである。

そしてこれが現在のサウス・シールズのようすだ。

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これは平日の夕方5時ぐらいに撮影したもの。街一番の繁華街だ。ご覧の通り人影がまったく見えない。

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街から誰もいなくなっちゃうSF映画があったじゃない?まるであんな感じ。でも、これはCGでもなんでもない。本当にひっそりとしていてゴースト・タウンのようだ。

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ナント、この通りは先ほどご覧いただいた動画に出てくる通りなのだ。あのトロリー・バスが行き交う、群衆であふれたにぎやかな通りの現在がコレなのだ。

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繁華街に近いこのWetoe Roadも…

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ここも…誰もいない。左に見えるのはスティーヴの後ろ姿。今、この通りにいるのはスティーヴと私だけ…。

この数日前、サウス・シールズのパブで2人でイッパイやった時、私が「サウス・シールズはとてもよいところだね!」と切り出すと、スティーヴは「かつてはもっとよい街だったんだよ!」と答え、徐々にマーガレット・サッチャーについて語り出した。このサウス・シールズをゴースト・タウンにしてしまったのは彼女のせいだ…と。

サッチャーの徹底した産業の合理化、弱者切り捨て施策でサウス・シールズの産業は壊滅した。炭鉱は閉鎖し、造船工場、鉄工所はすべて廃業してしまったのだ。

ま、街の凋落ぶりは、かつては東洋一の歓楽街であった浅草のようなものだが、先の動画を見てしまうとさすがに驚きは隠せない。ドラスティックな政策の恩恵を受け、大儲けした人もたくさんいる一方、イギリス各地では今でもそのサッチャーが敷いた政策に苦しめられている人が多いという。

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そして、サッチャーの逝去。

そうした反サッチャーを唱える人たちは、今、「Ding Dong the Witch is Dead」をみんなで声高らかに歌っているらしい。

ご存知の方も多いと思うが、この曲は1939年の映画『オズの魔法使い』の挿入歌だ。竜巻に舞い上げられた主人公ドロシーの家が西だか東だかの魔女の上に落下して息の根を止めてしまう。すると、その魔女の悪政(?)に苦しめられていたその国のマンチキン(Munchicken)という小人の住民が「魔女が死んだ!」と大よろこびしながら、この歌を歌うのだ。

不謹慎かもしれないが、この話をサウス・シールズの親友から聴いて、イギリス人独特のブラックなセンスに笑ってしまった!この辺りは日本人にはできない、イヤ、したくても慎んでしまう行動であろう。

先週末にはトラファルガー広場に800人もの反サッチャーを掲げる人たちが集まって、サッチャーの死をよろこぶお祝いが開かれたという。

ちなみにElton Johnの「Good Bye Yellow Brick Road」は『オズの魔法使い』からインスピレーションを受けて作られた曲だ。

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そして、もうひとつ笑っちゃったのがコレ。

サッチャーの葬儀は国葬ではないが、それに準ずる大がかりなもので、その費用は800万ポンドにも上るという。ナント12億5千万円にも上る巨費だ。で、この莫大な費用をどうやって調達するのかというと、当然税金によってである。つまり、国民が自腹を切って頼みもしないお葬式の費用を払うというワケだ。反サッチャー派の人たちはこう言っているという。

「チッ!アイツ、死んでまで俺たちに請求書を突き付けてきやがった!」

確かに払わされる反対派の連中には怒り心頭な話になるだろうな…。

この緑の看板は楽器店。潰れている。

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さて、さてさて、キューブリックの『フル・メタル・ジャケット』、ヒッチの『サイコ』よろしく、ここでガラリとストーリーが変わるよ~!後半はロックの名所をめぐっちゃうよ。

エ、そんなひなびた街にロックの名所なんかあんのかよ?と思うでしょ。あるんですよ。ちょっとだけ…でも最高にオモシロイ!

それはですね、この(現在はさいはての)港町に、ジミ・ヘンドリックスが来ているのだ!

下の写真はSouth Shieldsの博物館。一番大きな展示はやはりこの街が生んだ世界的な女流ベスト・セラー作家、キャサリン・クックソン(Catherine Cookson)関連のものだが…

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こんな展示もある。

「知っていましたか?」「ロックのスーパースター、ジミ・ヘンドリックスはサウス・シールズで演奏しました」

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「1967年2月9日、ジミ・ヘンドリックスは一晩だけシールズのセラー・クラブ(Cellar Club)で演奏しました。ヒット・チャートの5位まで上った『Hey Joe』を引っ提げて北部各地を一度ずつ演奏して回りました。観客は生涯忘れられない経験をしましたのです。人気のスターが歯でギターを弾き、トレードマークのサウンドで会場を満たしたのです」とある。(「Hey Joe」についてはいつかまたもっと詳しく…)

当時、マネージャーであったチャス・チャンドラー(Chas Chandler:元アニマルズのベーシスト)がニューキャッスルの出身だったため、この地方への巡業が敢行された。

ニューキャッスルから離れたこの港町にジミ・ヘンドリックスが来たのは、サッチャー登場前にはいかにこの街が栄えていたかの証明でもあろう。ここで前半の動画が生きてくるのね。

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同じ感じでもうひとり紹介されているのはモハメド・アリ。1977年にサウス・シールズと近隣のジャロウという街を訪れた。

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冒頭のスティーヴの写真はスティーヴのオフィスで撮影したもの。つまり、マーシャルのサウス・シールズ駐在研究所だ。そのすぐ隣のビルにあるのがコレ。

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これがオリジナルのセラー・クラブ(Cellar Club)。「Cellar」といのは「地下貯蔵庫」という意味。エアロスミスの『Rocks』の「Rats in the cellar」とかワイン・セラーとかの「セラー」だ。

オープンしたのは1956年。「Cellar Jazz Club」というジャズのハコだった。1956年といえば、マイルスがマラソン・セッションを敢行し、ロリンズが『Saxophone Colossus』を、ミンガスが『Pithecanthropus Erectus(直立猿人)』を、モンクが『Brilliant Corners』を発表し、穐吉敏子がバークレーに留学した年だ。

いかに大英帝国とはいえ、当時、これらの最先端のニューヨークのジャズがリアル・タイムに伝播したとは考えにくいが、ハード・バップ盛んなりし頃、このジャズ・クラブも相当なにぎわいを見せていたようだ。

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何しろ、週七日、毎日ライブがあったそうだ。

今では普通の家の地下室になっている。

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次のサウス・シールズの「ロック名所」はコレ。場所ではなくて人。つまり、スティーヴ・ドーソンというギタリスト。家にお邪魔して撮らせてもらった。

彼は愛用のストラトキャスターをこのケースに入れて、The Animalsのギタリストとしてエリック・バードンやジム・ロッドフォードらと世界中を回った。SaxonにもSteve Dawsonという人がいたようだが別人。

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現にスティーヴは、『We Sold Our Soul for Rock'n'Roll』というイングランド北東部のロックシーンの歴史を編んだドキュメンタリーDVDに当時のこの地域のロック・シーンの生き証人として登場している。

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そして、スティーヴがギター・ケースとともに寝室のクローゼットから取り出して見せてくれたのがコレ。

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「Lovetone」のエフェクター・コレクションだ。

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この他にもまだコレクションしている。日本ではどうか知らないが、イギリスでは大変に入手困難なアイテムだそうだ。几帳面なスティーヴはキチンと外箱とともに保管している。

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さて、今日のハイライト!

この四角いおもしろくもなんともない三階建ての建物。ここの最上階にセラー・クラブの2号店(New Cellar Club)があった。1967年2月1日の水曜日、ここでジミ・ヘンドリックス、ノエル・レディング、ミッチ・ミッチェルが演奏したのだ。

エクスペリエンスはニューキャッスルを中心としたタイン川近郊の地区(Tyneside)で何回か演奏したが、このサウスシールズのギグがシリーズの初日だった。

The Bondという地元のバンドがサポート・バンドとして登場した。普通、サポート・バンドは前座としてメイン・アクトの前に演奏するのが常識であるが、この時は何とエクスペリエンスが先に演奏したという。理由はエクスペリエンスの到着が大幅に遅れてしまったため、The Bondはエクスペリエンスの演奏が終わるまで自分たちの機材のセットをさせてもらえなかったというのだ。

このThe Bondのメンバーの記憶では、やはりとてもバタバタしていて、サインをもらう時間すらなく何の曲が演奏されたのかも覚えていないという。

エクスペリエンスは当時人気が出だした時分で、最初のシングル、「Hey Joe」がヒット・チャートをにぎわしていた。月曜日にはBBCで「Hey Joe」、「Rock Me Baby」、「Foxy Lady」を演奏・録音し、火曜日にはサヴィル・シアター(そのうち「名所めぐり」で紹介します。一時ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが所有していたシャフツベリーの劇場)で「Hey Joe」のPVを当て振りで撮影し、水曜日の朝、その晩のギグのためにロンドンから400km離れたサウス・シールズに向かったという。

そりゃ疲れて遅刻もするわナァ。いかにジミ・ヘンドリックスが急速にスターダムをのし上がっていったかを感じさせるエピソードではなかろうか?

ちなみにこの時、ジミはニューキャッスルのチャスの実家に泊まったという話だ。この時、チャスはロンドンに電話をして「Hey Joe」がチャートの7位まで上がっていることを確認していた。スゴイ勢いだったんだろうね。

ところが、エクスペリエンスのこの時のステージは惨憺たるものだったようだ。演奏を始めるや否や、ジミはアンプを飛ばしてしまい、即座にノエルのアンプにプラグインして弾き続けた。ノエルはとっさにその場にあったThe Bondのギタリストのアンプを使ったが、何しろ5W程度の出力しかなく、始終ベースの音が歪みひどいサウンドになってしまった。

スタッフがタイミングを見計らって、今度はノエルのベースをボーカル用にPAにつなぎ、ボーカルのマイクをノエルが使った5Wのアンプに突き刺した。おかげでブレイク以外の箇所でジミの歌はまったく聴こえなかったという。

うまい具合に地元の数々のバンドの面倒をみていた男がその場に居合わせたため、その男からジミのマーシャルを修理するためのヒューズを分けてもらい、代替のアンプを借りた。(この男はのちにディープ・パープルやレインボウのツアー・マネージャーを務めた)

あまりの演奏のすごさか、音の悪さか、音のデカさに驚いたか、何を演奏したか正確に覚えている関係者がいないようだが、オープニングは何しろ「Foxy Lady」だったようだ。

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この時撮られた写真を見るとフル・スタックの用意をしてはいるようだが、ステージの天井が低いためか、ヘッドがキャビネットの上に乗っていない。それともちょうど修理をするためのヘッドを下ろしている間に撮られたのかもしれない。

この田舎の小さな小さなライブハウスで演奏したたった2年後の8月、ジミは40万人を集めた世界最大級のロック・フェスティバルに最も高額なギャラでトリを務めた。ウッドストックである。(ジミの出番の時は3万人ぐらいに減っていたが…)

そして、ウッドストックに出演した翌年、ロンドンのロニー・スコッツにエリック・バードンのステージに飛び入りした翌日、ノッティング・ヒル・ゲイトからほど近いサマルカンド・ホテルで嘔吐物を喉に詰まらせて窒息し、救急車でセント・マリー・アボッツ病院に運ばれたが間に合わなかった。

このニュー・セラー・クラブには何とクリームも出演しているという。他にもアレックス・ハーヴェイ(Alex Harvey)、ファミリー(Family)、 チッキン・シャック(Chicken Shack)、 ロリー・ギャラガー(Rory Gallagher)、ティム・ハーディン(Tim Harding)、Paul Jones(Manfred Mann)などもここで演奏した記録が残っている。

ジミがギターを歯で弾いた因縁だろうか、現在この建物は歯科医院になっている。

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土曜日の夜。

多くのパブでライブ演奏が開かれる。

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このサウス・シールズでもアチコチでバンドが演奏している。 見ての通り超満員。

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Led Zeppelin、The Who、演奏される曲はほとんどがブリティッシュ・ロックの名曲。彼らの音楽だ。演奏に合わせてエールのパイントグラスを片手にお客さんがいっしょに歌う。みんな英語ウマイからね。演奏も上等だ。

これはサウス・シールズに限った光景ではない。こういう場面を目の当たりにすると、ロックが本当に身近にあることを感じざるを得ない。日本のロック事情とは完全に別世界であることを認識した。

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ここも昔は大変なにぎわいだったんだろうナァ~。

また行きたいな、サウス・シールズ!

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つづく

2013年4月 5日 (金)

【イギリス-ロック名所めぐり vol.5】 ソーホー周辺 その1

前々回に紹介したPiccadilly CircusからShaftesbury Avenueに入ってちょっと行ったところを左に曲がればSohoだ。

あ、このシリーズで使っている写真には10年ぐらい前のものも含まれているし、同じ個所を複数の写真を用いて紹介している場合、それぞれの撮影時期に大きな隔たりがあったりすることを予め断っておく。「なんだよ、来てみりゃマーブロの写真と違うじゃねーかよ~」なんてことも起こり得るので要注意。昔撮ったクォリティが格段に低い写真も混ざっている。

この下の写真も結構前のもので、これまた以前に書いたように左のビルの広告は今と全然違う。

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この辺りがSoho。ニューヨークのロウワー・マンハッタンにもSohoというエリアがあるが、あれはHouston Street(ハウストン・ストリート:ヒューストンとは読まない)の南、つまり「South of Houston」、略して「Soho」という意味。だから「Noho」というのもある。当然これは「North of Houston」の意味だ。「西荻」みたいなもんやね。

一方こっちのSohoは「ソーホー!」というハンティングの掛け声から名づけられたという。16世紀にはこの辺りが狩場になっていたという記録があるようだ。他に「タリーホー!」という掛け声もあるんだそう。

劇場やパブが建ち並び、夕方になると観光客や仕事帰りのサラリーマンが通りを占拠するWest Endでももっともにぎやかな場所だ。

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その中に一角にこのお店がある。

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「Boulevard Bar & Dining Room」というレストランになっているが、入り口横の柱にグリーンのプラークが取り付けてある。

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ナニナニ、「2i's Coffee Bar(1956~1970年)があった場所 : イギリスのロックンロールとポピュラー音楽産業発祥の地」とある。ドエ~、そんな重要なお店なのかしらん?

「2i's Coffee Bar」はこの地下にあって、持ち主が2人のイラン人だったため、「2」と「i」を採り名づけられた。その後、ポール・リンカーンというオーストラリア人のプロレスラー&プロモーターの手に渡った。
そして、ライブ演奏をここで始めたのだ。まだスキッフルの時代。イギリスのロックの前身の音楽だ。

クリフ・リチャード、ハンク・マーヴィン、スクリーミング・ロード・サッチ、ポール・ガッド(後のゲイリー・グリッター。この人、日本では比較的なじみが薄いが、イギリスではグラム・ロックの元祖として大層名高い)等、他にもたくさん歴史的な人たちの名前が挙げられるが、浅学にしてちょっとわからないが、イギリス・ポピュラー音楽の始祖たちがこの店から輩出され、ブリティッシュ・ロックンロールの黎明期を支えたというワケだ。
ビッグ・ジム・サリヴァンも出ていた。ビッグ・ジムは先ごろ亡くなられたが、ジム・マーシャルのお店に来てアンプのアイデアをジムに伝えたギタリストのひとり。イギリスのトップ・スタジオ・ミュージシャンだった。さらに、ナゼかリッチー・ブラックモアの名前も挙がっていて、どうやらこの店に出ていたようだ。ロード・サッチと一緒かな?

ロード・サッチもジムと仲がよかった。ジムの家に行くと車に山と積まれたマーシャルとともにロード・サッチが写っている写真が壁に飾ってある。してみると、ジムもこの店に来たことがあるに違いないね。それから、ミッキー・モストの名前も確認できる。

すごいのは、ヤードバーズやレッド・ツェッペリンのマネージャーとして、そして「音楽業界でもっとも無慈悲で口やかましいマネージャー」として有名なピーター・グラントは音楽業界に入る前にここで用心棒をしていたという。この人もいろいろと調べてみるとおもしろい話がゴロゴロ出てくる。それはまたいつか別の機会に…。
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それにしてもピーター・グラントのような2m近い強面の男がこの店の前に立っていたら…チョット入りづらいゼ、実際。

今、「2i's Coffee Bar」があった地下はただのロビーになっている。

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さて、「2i's Coffee Bar」からほど近いFirth Street。ここにイギリスで一番有名なジャズ・クラブがある。「Ronnie Scott's」だ。

下の写真は2008年夏、Joe Bonamassaを招いてClass5の発表会をやった時のもの。左側の黒い部分がRonnie Scott's。

表に出ているのは開場を待つマーシャルのディストリビューターやイギリスの大手楽器店の人たち。

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これはロニー・スコッツの真ん前にあるビル。開場を待っている間にブルー・プラークが付いていることに気付いた。

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「1764~1765年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトがここに住み、演奏し、作曲した」だって。ホンマかいな?

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ようやく店内に入る。食事ができるようにガッチリとテーブルやボックス席が作りつけてあるが、キャパは200席ぐらいあるのかしらん?結構ゴージャスな雰囲気。

店内の壁にはバードやらガレスピーやらコルトレーンやらマイルスやらのジャズ・ジャイアンツのカッコいい写真がところ狭しと飾ってあるが、これにダマされてはいけない。てっきりこの店で撮影された写真家と思いきや、全然違うところで撮ったものもたくさん混ざっていた。でも、すべてここで撮影されたのではないか?という荘厳な雰囲気がこの店にはある。

食事にはチキン・ソテーが供されたがおいしかった。

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ところで、このクラブ、1959年の開店以来、イギリスに来たアメリカの著名なジャズ・ミュージシャンはほとんど出演しているといっても過言ではない。名前を挙げればキリがないし、他の話題で紙幅を割きたいので割愛する。

ロック関係ではThe Whoが「Tommy」のプレミア公演を1969年に開催した。

また1970年9月17日、Eric Burdon & The Warのステージに飛び入り参加して「Tobacco Road」と「Mother Earth」の2曲を演奏して、翌日ジミ・ヘンドリックスは帰らぬ人となった。

上の写真のステージ(写真右手のロゴの前がステージ)に43年前にジミが立っていたのだ。将来、単独でジミにまつわる名所を特集するつもり。

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それだけ有名なクラブとだけあって数多くのライブ・レコーディングも行われてきた。

ロック・ファンにとっては最近のジェフ・ベックがもっともなじみ深いだろう。

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珍しいところではウェス。Wes Montgomeryは極端な飛行機ギライで故郷のインディアナポリスから出たがらなかったが、一度だけ(間違っていたらごめんなさい)ヨーロッパに楽旅に出た瞬間をとらえたライブ盤のウチの一枚がこれ。

残念ながらあまりおもしろくない。疲れが出ていたのか、元気が感じられず、どうも閃きに欠けるのだ。…と思っていたが、今もう一回聴き直してみると悪くないな。でもこれよりも10日前に収録されたJohnny Griffinも参加しているパリのライブの方がはるかにカッコいい。バック・バンドが気に入らなかったのかな?でも、このロニーのライブ盤でベース弾いているのは後にMahavishunu Orchestraに参加するRick Lairdなんだぜ。

CDの最後にウェスのインタビューが収録されていて、「曲の練習はするけど、楽器の練習はしない」とかしゃべっているんだけど、これがすさまじい訛り!ギターの音やら演奏は大分耳にしてきたけど、ウェスのしゃべりはそう聴けるもんじゃない。

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ちょっとここから脱線します。

私はBlue NoteやPrestige等のコッテリとした黒人のジャズももちろん好きなんだけど、アッサリとした白人のジャズも好きでしてね。特にこのTubby Hayesなんてのはすごくいい。アッサリといってもバリバリ吹いてるけどね。この2枚もロニー・スコッツでのライブ盤。メッチャ好き。

ちなみにここでピアノを弾いているのは後にPhil Woods & European Jazz Machineに参加するGordon Beck。Allan Holdsworthとデュオ作品を残している人。イギリスを代表するジャズ・ピアニストだ。

このロニー・スコッツで名を上げたジャズ・サキソフォニストにDick Morrissey(ディック・モリッシー)がいる。イギリスのサックスというとディックつながりでDick Heckstall-Smithと混同してしまいそうになるが、こちらはAlexis Corner、Graham Bond、John Mayall、Collosseumといったドロッドロ系の人。

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ディック・モリッシーはイギリスのChicagoと言われたIFに参加していた。

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というと、ペラペラとバンドの横でオブリガード的にサックスを吹いているだけの人という感じがしないでもないがトンデモナイ。さすがロニー・スコッツで鍛えられただけのことはあって、この1961年の初リーダー・アルバムではロリンズもマッツァオのハードなブロウを聴かせてくれる。しかし、なんだって線路の上を歩いてるんだ?ベースの人がかわいそうじゃないの!

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脱線ついでに…。IFの初代ギタリストはTerry Smithという人で、この人も「ジャズ以外は知らない」という根っからのジャズマン。ほんならIFなんかやらなきゃいいじゃねーか…とも思いたくなるが、腕はピカいち。私は2枚しかリーダー・アルバムを持っていないが、両方おススメだ。第一級のギター・ジャズに仕上がっている。

こTerry Simithが抜けた後に加入したギタリストは、かつてマーシャルのデモンストレーターを務めていたおなじみGeoff Whitehornだ。

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少し戻って…。

Brand Xのライブ・アルバム『Live Stock』のうち、数曲がロニーで録音されている。「-ish」と「Isis Mourning」がそう。他の曲もHammermith OdeonやMarqueeといった、いかにもこのガイドに出てきそうな有名なハコで録音されている。

このライブ・アルバムのドラムはJaco Pastoriusの盟友のKenwood Denard。The Manhattan Transferが初来日した際、Jack WilkinsやAlex Blakeらとバック務めた。

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また脱線…。

Brand X好きでさ~。日本はファンも多いと思うんだけど、コレご存知?Sarah Pillowとかいう女性シンガーのアルバム2枚なんだけど、バックをBrand Xがやってるの。中東風の変わった曲が並んでいるけど、Brand X丸出しでなかなかにカッコいい。特にGoodsallがスゴイ。

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…と脱線がつづいたけど、ロンドンの音楽名所のひとつがこのRonnie Scott'sということね。

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さて、Sohoにはパブやら劇場以外にもゾロリと風俗の店が並んでいる。でも、歌舞伎町みたいに客引きが虎視眈々と客を狙っている風ではない。多分条例か何かで厳しく統制されているのだろう。入口にフェロモン丸出しのお姉さんが立っていてウィンクを連射してくるところもあるが近寄らなければ害はない。

そんなエリアを抜けてOxford Streetに向けてBerwick Streetを進む。ここはおもしろいよ。私が「おもしろい」というのは中古レコード屋がある…ということだ。モノは汚いしそう安くもないので、ほとんど買ったことはないが実にいい雰囲気なのだ。

そのBerwick Streetをジャンジャンと進み、そして振り返る。

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こんな感じ。

ま~、アタシには関係ないんだけどね。イヤ、弟さんがマーシャルか…。

この写真を正方形にトリミングしてみると…

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こうなる。

好きな人にはタマラナイ…

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Oasisの「Morning Glory?」のジャケを撮影した場所だ。
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裏ジャケのようす。

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実際はこんな感じ。

エ? 「シゲさん、いつからOasisなんて聴くようになった。ヤキが回ったの」かって?よせやい、コレのためにワザワザCDを買いに行ったのさ!でも聴いてみたらなかなかいいもんだで。そうえば「ヤキが回った」っていう言葉、最近耳にしなくなったな。

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さらにこのあたりをブラついていて発見したのがコレ。ピザ屋。イエイエ、もう海外で食べるピザはツライ。しばらく海外にいて、本当に食べるものがなくなってきて、お米が恋しくて…そんなタイミングでピザやハンバーガーを食べてごらん。涙が止まらないよ。

んなことはどうでもいいんだっけ。このピザ屋、看板にある通りナゼかジャズのライブハウスになってる。「Pizza Express Jazz Club」という。

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どれどれ、誰が出てるんのかな?と思ってスケジュールを見てビックリ仰天!ナント、元Soft MachineやDaryl Way's Wolfのギタリスト、John Etheridgeが出てるやんけ!これには驚いたわ~。いつも通り、見たかったけどスケジュール合わずのパターンで泣く泣くあきらめた。

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そして数年後。また出くわしちゃったんですよ。

ナントその時のライブがCDになってた!ドラムはJohn Marshallだったんだな~。やっぱり見たかったな~、と即買い。

私はCDを買う時は「いくらまで」と単価の上限を決めて厳しくそれを守っている。さもないと身上潰れちゃうから。どうしても欲しい盤は、既定の金額のものが現れるまで何年でも待つ。

しかし、あまりにも二度と出会わなさそうなエグイ盤はルールを破って規定より上の金額のものでもゲットする。この辺りは40年近いキャリアに頼らざるを得ない。結構当たる。で、この盤もそれに該当すると信じて規定金額以上の値段で買った。

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ね、クレジットに出てるでしょ?「ピザ屋」って。

肝心の内容は…つまらんかった!

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つづく

2013年3月 1日 (金)

【イギリス-ロック名所めぐり vol.4】 オックスフォード・サーカス周辺

前回紹介したピカデリー・サーカスに負けるとも劣らないにぎわいを見せるオックスフォード・サーカス(Oxford Circus)周辺。

オックスフォード・ストリートとリージェント・ストリートの交差点にはOxford Circus駅がある。この駅は1900年の開業だそうだ。オックスフォード・ストリートは元々は大学でおなじみのオックスフォードへと導く道だった。

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オックスフォード・ストリートの両脇にはビッシリと商業施設が並び、四六時中たくさんの人でゴッタ返している。これ、スリの天下なんだろうな。

Pickpocketの話は別の回でまた詳しく…。

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これは例のエリザベス女王の「Diamond Jubilee」の時のオックスフォード・ストリートのようす。

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どこもかしこもユニオン・ジャック!

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このFoot Lockerというのは、アメリカ資本のスポーツ・ウェア&シューズの小売店。
ここはHMVの第1号店があったところだ。ってんで2000年4月に設置されたブルー・プラークがついている。

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これによると、「ここはHMVの第1号店があった場所です。HMVは1921年7月、エドワード・エルガー卿(あのエルガーね。イギリス人はエルガー大好き。何かといえば「威風堂々」なの)によって開店されました。その後、HMVは100年近くにわたり、人々に「音楽を買う」というこうとを形式づけたのです。

1962年にはビートルズの経歴においてとても大きな役割を果たしました。店内のレコーディング・スタジオで78回転のデモンストレーション盤が制作され、このことがビートルズとEMIの長きにわたる契約につながったのです」

そして、このブルー・プラークの除幕はジョージ・マーチンが執り行った。

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HMVはオックスフォード・ストリートの向かいに移転していたが、今年この店も閉じてしまった。オックスフォード・ストリートにはトッテナム・コート・ロード近くに大きなヴァージンンの店もあったが、それもとっくになくなってしまい、この通りからは音楽は消え失せてしまった。天国でエルガーが「配信なんてやめんかい!」ってきっと怒ってるよ!

このHMVで『This is Spinal Tap』の2枚組DVDを買ったっけな。

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HMVにかかっていたHIGH VOLTAGE FESTIVALの広告。2010年夏のことだ。このフェスティヴァルについても以前マーシャル・ブログでレポートしたが、もう消滅しているので、近い将来書き直して採録したいと思っている。だって、私の人生でもっとも幸せなロック・コンサートだったんだもん!

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こんなかわいい地名も!

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オックスフォード・ストリートをトッテナム・コート・ロード方面に向かう。左手に赤い看板が見えるでしょう。

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有名な100CLUB。

クラブの名前ぐらいは昔から知ってたけど、イヤ~、世の中本当にたくさん知らないことってたくさんあるもんだ。調べていて驚いた!ここは番地が100 Oxford Street!だから「100Club」というのだ…なんて単純なことではない。

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このライブハウスはもともとロバート・フェルドマンという人が始めた「フェルドマン・スウィング・クラブ」といったそうな。

で、驚いたのはここから…このロバート・フェルドマンの子供の内のひとりが有名なジャズ・ピアニスト&ドラマーのビクター・フェルドマンだっていうんですからね~。ジャズ界ではとても有名な人。ロック界でわかりやすくいうとスティーリー・ダンの『Aja』でピアノやらヴァイブを弾いている人ですな。こんな洒落たアルバムも出してる。何しろ、このアルバム、ベースがスコット・ラファロですからね。人気盤ですわ。…とジャズの話はこの辺でやめておこう。

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スケジュール表。見たけど知ってるのはいなかったナァ。パンク好きの人たちにはタマらないのかな?

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お邪魔しま~す。

その後、オーナーも替わり1970年代にはパンク・ロック・バンドの活躍の場となり1976年には世界で最初の「インターナショナル・パンク・ロック・フェスティバル」なんてのが開催された。

もちろんパンクだけでなく、ストーンズがシークレット・ギグをやったこともあるし、何年か前に行った時にはアリス・クーパーも出演していた。見たかったんだけど、ダメ、全然ソールドアウト。キャパは350名だそう。

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今度はオックスフォード・ストリートにそってボンド・ストリートを過ぎたあたりを右に入る。しばらく行くとこのWallace Collectionというスンゲェ国立美術館がある。これはShige Blogで紹介したので見てチョーダイ!見応えのある素晴らしい美術館だ。

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その隣にあるのがこの建物。現在はBoston Consulting Groupという会社になってる。ま、外観からこれが何たるか当てられる人は少ないだろう。

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この建物のかつての持ち主はEMIだった。この建物の中の階段でビートルズの赤盤&青盤のジャケット写真が撮られたのだ。まさか中には入れないからね。外観でガマンしてね!

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オックスフォード・ストリートのまわりはイギリスでも一二を争う繁華街だけあって、この他にもロックの名所がゴロゴロしている。形を変えて何度もお送りしていくとになると思う。
 

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2013年2月22日 (金)

【イギリス‐ロック名所めぐり vol.3】 ピカデリー・サーカス周辺

昨年のイギリスはエリザベス女王の在位60周年を祝う「Diamond Junilee」やロンドン・オリンピック、マーシャル創業50周年記念(コレは我々だけか…)等ビッグな行事が目白押しだった。

私はちょうど「Diamond Junilee」のさなかにイギリスにいて、ヒドイ目にもいい目にもあったことはシゲ・ブログでレポートした通り。

で、そうした行事にからんで日本のテレビでもやたらと露出の多かったロンドン。そして、「ロンドン」というと決まって画面に映し出されるのがここピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)だ。

「Coca Cola」のネオンサインに交じって「SANYO」や「TDK」等の日本企業のロゴがデカデカと喧伝されている光景はおなじみだろう。最近は韓国の企業のネオンサインが富に増え、世界の経済勢力図が激しく変化したことを痛感する。(下の写真は数年前のもの。1988年から居座り続けたSANYOロゴは2011年に韓国Hyundai Motorsにとって代られた)

この「Coca Cola」の場所に2002年、「Imagine all the people living life in peace」というサインが掲げられた。これは今年80歳のなられたヨーコ・オノのアイデアによるもので、3,500万円(当時)の費用が投じられたらしい。

さて、このピカデリー、現地の人は「ピキャディリ」と発音するのだが、「ピ」と「ディ」に強くアクセントを置く。「山谷山谷」とアップダウンの激しい単語で初めて聞いた時には思わず吹き出してしまったことを覚えている。

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ピカデリー・サーカスのシンボル、「エロスの像」…と言われているがこの像は正しくはアフロディーテ(ヴァンゲリスが在籍したギリシャのアフロディテス・チャイルドのアルバム『666』は名盤)の子供、エロスさんの弟のアンテロースなんだそうだ。アンテロースは「返愛の神」で相互愛や同士愛の象徴だって。

ま、何しろ観光客が一日中群がってパチパチ写真を撮ってにぎわっている。

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ピカデリー・サーカスはロンドンいちの繁華街ウエスト・エンド(West End of London)のパブリック・スペースで、いくつもの大きな通りが結集するジャンクションでもある。ウエスト・エンドのオフィス賃貸料は世界で2番目に高いそうだ。1番は我々のところ?それともニューヨークかな?

「サーカス(circus)」というのはラテン語で「円(circle)」という意味。それでは「ピカデリー」というケッタイな名前の由来は?

17世紀に仕立て屋のロバート・ベイカーというおじちゃんが「ピカディルス(Piccadills)」とか「ピカディリス(Piccadillies)」というバラエティに富んだ襟の付いた服で一山当て、その儲けたお金でこのあたりに「Pickadel Hall」やら「Pickadilly Hall」という劇場を造った。それがそのままこのエリアの地名として残ったのだ…って。

エロスからリージェント通りとピカデリー通りを望む。はじめてここに来た時はタワー・レコードもヴァージンもあったけど、もう跡形もない

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この二股の向かって左の通りがシャフツベリー・アヴェニュー(Shaftesbury Avenue)。多くの劇場が密集しているエリアだ。この辺りは東京でいえば渋谷の駅前のようで、何しろ交通量が多い。以前大型の観光バス2台で、マーシャルの社員全員でこのあたりに繰り出したことがあったが、道端にバスを止めた途端、運転手が気が狂ったように「早く降りろ!早く降りろ!」と絶叫していたっけ。ちょっと停車しているだけでトンデモないことになってしまうのだ。

昔は「○○ピカデリー」という映画館があった。たとえば「丸の内ピカデリー」。今の有楽町のマリオンの場所にあった日劇の裏の松竹系の大型封切館で「エクソシスト」から「ET」までずいぶん通った。ちなみにその向かいは朝日新聞の本社で、あんな場所に印刷所があって、日劇の裏はいつもインクのにおいがプンプンしていた。私は新しい本の匂いが好きで、クンクン嗅いで回ったワケではないが、映画館もあり、カントリー・ラーメンもあり、好きなエリアだった。

この映画館「ピカデリー」の名前はこの劇場街の集まるロンドンのピカデリーから名づけられたのだろう。で、ちょっと調べてみると、この「丸の内ピカデリー」の「ピカデリー」は戦後、進駐軍が「ピカデリー劇場」と命名したことの名残なのだそうだ。

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現在でも続く「Les Miserables」の公演。10年以上前はチャリング・クロスのパレス劇場でかかっていたが、さすがに人気も衰え、それよりも小ぶりなQueens Theatreで上演されている。

私は17~18年近く前にこれをブロードウエイで観た。ビクトル・ユーゴーなんて子供のころに読んでいるワケもなく、ジャン・バルジャンの名前と「民衆の歌 - Do You Hear the People Sing?」以外、何の予備知識も持たず観たのね。当時こっちゃ英語なんかまったくわかりゃせんから(今も?)、曲だけを聞いて楽しむつもりだったワケだが、何しろまわりの女性が観ながらやたらとシクシク泣いていて、ヤケに湿っぽい印象が強い。他方、何しろ曲が素晴らしくて、その足でCDを買いに行った。

開演前に横に座っていた小さい子供たちがテナルディエの「The Master of the House」を合唱していたには驚いたな。やっぱり日本とはケタ違いに子供のころから聴く音楽の幅が広いと思った。

このミュージカル、作曲はクロード・ミッシェル・シェーンベルクといって、この人のおじいちゃんのお兄さんにあたる人が「浄められた夜」でおなじみのアルノルト・シェーンベルクだ。

映画が盛り上がってるからミュージカルもリバイバル・ヒットするかもね。

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さて、このピカデリー・サーカスから歩いて2~3分ほどのところにある通りがこれ、「サヴィル・ロウ」。サヴィル・ロウ→サヴィロウ→セヴィロウ→背広になったのは有名な話。要するに我々がスーツを指すときに使う言葉「背広」の語源となった通りの名前だ。

このSavileというのは第三バーリントン伯爵の奥さん、ドロシー・サヴィルにちなんで名づけられた。

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(下の写真の通りはSavile Rowの突き当りの建物で、違う通りに立っているのだが、あまりにも立派な出で立ちなので撮影した)この通りは、昔は服の仕立て屋さんがずらりと並んでいた。外から見た限りではそう多くのテイラーが存在しているようには見えないが、「ギーヴス&ホウクス(Gieves & Hawkes)」という超老舗が残っている。

昔はオーダー・メイドの服しか扱っていなかったが、時代も変わり、現在は既製品も多く販売している。しかし、こうした服屋の真骨頂は何といっても採寸からすべて手作りで仕立ててもらう「ビスポーク(Bespoke)」と呼ばれる完全オーダーメイドなのだ…なんてエラそうに言っていると、「おまえ、ビスポークで作ったことあんのかよ?!」なんて叱られそうだが、私はマーシャルのシャツとストレッチのGパンで満足です。だって、こんなところでスーツなんか仕立てたら40万円ぐらいになるでしょ。っていうので、実際には半オーダーメイドのものに人気が集まっているそう。

この「ビスポーク」という言葉は「Be」と「Spoke」からなる造語で、「話しかけられる」という意味。つまり、スーツを作るときに「あーでもない」、「こーでもない」とジャンジャン注文を聞く職業…というわけね。イギリスの英語はおもしろい。

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これはSavile Row。この通りにスゴイものがある。

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それがコレ。ビートルズのAppleの元本社社屋だ。

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ここの屋上で1969年1月30日、有名な「Roof Top Concert」が開かれ、「Get Back」、「Don't Let me Down」、「I've Got a Feeling」、「One After 909」、「Dig a Pony」などが演奏され、一部がアルバム『Let It Be』に収録され、ほかの一部も『Anthology 3』に収められている。

この企画はそもそもバンドを元の状態に戻そうとして「原点回帰」、つまりライブ演奏をするというポールの提案から始まったらしいが、その演奏場所の候補として、Chalk Farmにある有名なRoundhouse(そのうちこのコーナーに出てきます)の名が挙がっていたらしい。それ見たかったナァ。

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映画『Let It Be』では、ジョージ・ハリソンが車から降りてファンの目を避けるようにして急ぎ足で降りていく階段。地階にはレコーディング・スタジオがあった。

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この写真はごく最近撮ったものだが、入口を工事していた。

演奏が行われたのは極寒の1月。気温は2℃だったという。映画の中では「ただでビートルズの演奏が聴けて得した!」なんていうおじさんもいたけど、確かにこんな街中でバンドの演奏されたら周りはビックリするわね。

コンサートは警官が割り込んできてコンサートを中止させて終了となるが、この警官の乱入も予め決められていた演出だった…という説もあるようだ。ジョンの有名な「I hope we passed the audituon」なんてギャグも決められていたのかね?

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そして、ピカデリー・サーカスからウェストミンスターに向かってリージェント・ストリートを下ると(写真では奥がピカデリー・サーカス)…

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この建物に出くわす。これは元BBC Paris StudioまたはParis Theatreがあった建物。

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ビートルズの『Live at the BBC』のスリーヴの4人の後ろに見える建物がそれだ。

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4人はここを歩いたワケね。

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この劇場は元来は映画館であったが、BBCがRadio 2 やRadio 4用のコメディ番組の収録のために劇場に改造した。同時に数えきれないほどの名バンドもこのステージに立ち、BBC Radio 1の看板DJ、ジョン・ピールの番組でそのすさまじい演奏がオンエアされ、また、少なからずの音源がStrange Fruitという自身のレーベルから『Peel Session』としてCDになった。ツェッペリンの『BBC Session』の音源もここで収録されている。

キャパは400にも満たず、ステージの高さも30cmほどしかなかったために、出演者と観客の距離感が非常に短く、それも功を奏し多くの名演を生んだ。そして、このParis Theatreは1995年まで使用され、Peel Sessionはジョン・ピールが亡くなる2004年まで続いた。

The Beatles、 Pink Floyd、Jeff Beck、King Crimson、Genesis、Slade、Deep Purple、Queen、Fleetwood Mac、Status Quo、Hawkwind、AC/DC等、挙げだしたらまったくキリがないが、イギリスの新進気鋭(当時)のバンドを中心に世界中の優れたアーティストが出演した。

ここで今日触れておきたいのはSoft Machice。このカンタベリーの雄も『The Peel Sessions』名義のライブアルバムを発表している。このライブ・アルバムには参加していないが、ロバート・ワイアットらとバンドを結成したケヴィン・エアーズ(Kevin Ayers)が18日に亡くなった。私は特にケヴィンのファンではないが、案外アルバムは揃っている…というのはケヴィンのお抱えのギタリスト、ピーター”オリー”ハルソール(Peter "Ollie" Halsall)が大好きだからだ。ピーターも大分前に鬼籍に入ってしまった。こうなると、九段会館のコンサートは是が非でも行くべきだった…。この場をお借りして哀悼の意を表します。

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ピカデリー・サーカスからチャリング・クロス・ロード(Charing Cross Road)に出てテムズ川方面に下るとトラファルガー広場(Trafalgar Square)に出る。サッカー・ファンの方は、ワールドカップのパブリック・ヴューイングの会場としておなじみであろう。

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広場に面しているのはナショナル・ギャラリー(National Gallery)。やモネやルノアール、ドガ、セザンヌ等の印象派のから、ゴッホ(ちなみにゴッホの英語発音は「ゴッ」で「ホ」は発音しない)やゴーギャン、スーラ等の新印象派の見ごたえのある作品がズラリと並ぶ。宗教画も豊富にてロハ。

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この広場は1805年のトラファルガー海戦の勝利を記念して造られた。広場の中央にあるモニュメントの先っチョに乗っかっているのはこの海戦を勝利に導いたホレイショ・ネルソン提督だ。ナポレオン率いるフランス軍をやっつけちゃったのね。

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ロック・ファンで「提督(admiral)」といえばSir. Paul McCartney MBEの「Uncle Albert/Admiral Halsey」と相場が決まってら。ホンマかッ?! 

で、ナショナル・ギャラリーの隣りにはナショナル・ポートレイト・ギャラリー(National Portrait Gallery)という肖像画だけを展示している美術館がある。

ここにはポール・マッカートニーのポートレイトが飾ってある。ロック大国のイギリスだけにミュージシャンの肖像画がたくさんあるかと思うと期待外れで、ポールのほかにはBlurのポップアートのポートレイトがあるだけ。チョットここは強引ですな。

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さて、また場所を変えて… ピカデリー・サーカスを背にリージェント通り(Regent Street) を西にちょっと行ったところ。

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リージェント通り沿いの表のビルをくぐるとこんなところに出る。ここはロック・ファンならだれでも見たことのある場所のハズなんだが、言われなければまずここがどこかはわかるまい。

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David Bowieの『Zigy Stardust』のジャケットを撮影した場所なのだ。

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こっちの方がわかりやすいかな?こちらは最近撮影したもの。

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裏ジャケは電話ボックスのボウイ。

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その電話ボックスもまだある。

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こちらは最近撮った写真。残念ながら電話ボックスが見えなくなってる。

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この通りは今は高級そうなイタリア料理のレストランが何軒か並んでいる。

ここで世紀の名盤のジャケットが撮影されたことなど誰も知らずに今日もたくさんの人たちがスパゲッティをすすっている。

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つづく

(一部敬称略)

2013年2月12日 (火)

【イギリス‐ロック名所めぐり vol.2】 マーシャルの生まれ故郷<後編>

ジムの生家を訪ねた後は、いよいよマーシャル・アンプが1962年に産声を上げた場所、Uxbridge(アクスブリッジ)を訪れることにしよう。

まずは、White Cityの駅まで戻る。

Uxbridgeの最寄りの駅はBritish Railway(イギリスの国鉄。地上を走っている)のHanewellだ。この駅を通る路線のロンドンの始発駅(Terminal Station)はPaddington(パディントン)。ターミナル駅だけあって5つもの線がPaddington駅を通っているが、White City駅の属するCentral線は通っていない。そこで、Paddington駅に停まるCity & Hammersmith線とCircle線のWood Lane駅まであるくことにする…ったってすぐ近くだ。

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途中、右手にBBCのドデカイ設備がある。これ本社社屋なのかな?中学生の頃『モンティ・パイソン』には夢中になった。

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Wood Lane駅のホームからHammersmith方面をのぞむとパラボラ・アンテナがゾロリと見える。
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London Paddington駅。駅のようすはシゲ・ブログをご参照いただきたい。

日本の鉄道はイギリスのそれをお手本にしているワケだが、もはや日本の鉄道網の方がはるかに進歩してしまっている。JRと地下鉄の乗り入れなどはその一例で、本家イギリスも研究しているという話しを聞いたことがある。

その日本のシステムに比べてイギリスの国鉄が旧態依然としているのを感じるのはこのターミナル駅たちだ。ま、これも風情があっていいのだが、実際には不便なことが多い。ターミナル駅というのは文字通り、その路線を終結(Terminal)させる駅のこと。簡単に言えば終点だ。

東京も東海道は東京駅、東北方面は上野駅、中央本線は新宿駅とターミナル駅がないワケではないが、ターミナル駅から直接自由に乗り換えて他の方面に行けるため、「ターミナル感」が乏しい。ちなみに、私が子供の頃は、房総方面の路線のターミナル駅は両国だった。

イギリスの国鉄は、マーシャルのあるブレッチリー(Bletchley)からロンドンのターミナル、ユーストン(London Euston)駅に着けばそれで終わり。エジンバラから出て来てロンドンのターミナル、キングス・クロス(London King's Cross)駅につけばそれで終わり。カンタベリーから帰って来てヴィクトリア(London Victoria)駅に着けばそれで終わり。そのターミナル間を移動する場合には地下鉄等の交通機関を使わなければならない。ま、東京も同じなんだけど、感覚が違うんだよなァ。

ああ、こんなこと書いているとまたロンドンへ行きたくなっちゃう!

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で、目的地のハンウェル(Hanwell)駅は、パディントンからヒースロー空港方面行きの各駅停車しか停まらない小さな駅だ。パディントンから15~20分ぐらい。イギリス国鉄はものすごく飛ばすんよ。

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古式ゆかしい駅名の看板。

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これは「Hanwell」というiPodなんかをつなげて鳴らす家庭用パワード・スピーカー。

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もちろん、このマーシャルの発祥地であるHanwellにちなんで名づけられている。お、この手はGraceだな?

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まぁ、なんとノンビリとした駅舎だろう…。

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駅員の詰め所と待合室。

 

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ナント!待合室には暖炉が!もう使ってはいないんでしょうけどね…。

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ホームから地上に降りる階段。
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外に通じる廊下。こんなの撮るつもりじゃなかったんだけど、あまりの雰囲気につい…。地下ダンジョンへの道かと思った!
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駅舎じたいはレンガ造りのクラシックな建物だ。
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テッキリ無人駅かと思ったらインド風の駅員さんが改札で切符をチェックしていた。
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この互い違いの矢印はイギリスの国鉄のシンボル・マークだ。
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駅前のようす。
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何もない…。総武線でいえば小岩とか平井あたりの感じだろうか…。もっとも小岩も亀戸も駅前はものすごくにぎやかだけどね。

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あたりは完全な住宅街。電車で20分乗るか乗らないかぐらいで、あのウエスト・エンドの喧騒とはまるっきり趣を異にするこれほどまでに閑静な住宅街になってしまう。

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町中に必ずある古い教会。

このハンウェルにはHanwell Community Centreという公民館のような施設があって、1969年ごろにはThe Whoが『Tommy』を中心にしたセットリストのツアーのリハーサルをそこで行っており、ピートが挿入歌「Sally Simpson」を歌っている写真が残っている。その頃はもうマーシャル使ってないけどね。

また、同じころDeep Purpleもそこで『In Rock』用の曲をつくり、リハーサルをした。Ian Paiceの回想によると、この施設はいつもあいていて、安くて、かつメンバーがその頃住んでいた家が近かったらしい。ロジャー・グローバーによれば、「その頃あの辺で爆音が出せるのはHanwell Community Centreぐらいだった」 「Speed King」も「Child in Time」も「Hard Lovin' Man」もここハンウェルから生まれたのだった。

さらに、Uriah Heepもここで結成されたという(Nigel Olssonってヒープにいたのね?知らなかった!)。Deep PurpleとUriah Heepが隣りどうしの部屋で同時に練習をしたこともあっというのだからすごい!

もうひとつ。Led Zeppelinは『I』のレパートリーを中心にプログラムされた4回目の全英ツアーのリハーサルをHanwell Community Centreで行った。1969年のことである。

失敗したナァ~。こんなの前から知っていたら訪ねてきたのにナァ。次回ロンドンに行ったときに取材してきます。下の写真はただの古い教会でHanwell Community Centreとは何の関係もありません…。

でもね、ロンドンのこういうところが大好きなんだよね~。狭いところにブリティッシュ・ロックのいろんな話しがひしめきあってる。アメリカじゃこうはいかんからね。

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駅から10分ちょっと歩いたろうか…。アクスブリッジ・ロードにブチ当たる。「Uxbridge」の語源は「Wixanという種族の橋」で、その「Wixan」が展示で「Ux」となった。Wixanというのはアングロ・サクソン人の祖先で7世紀にはその存在が確認されている。これはまだ全然いい方で、ロンドンのはずれあたりに行くとローマ時代の名残の地名というのがあって、ここでは即座に例を引くことはできないが、まったくどう読むかわからないような場所がある。ちょうど、京都や奈良に難読の地名多いのと似ている。
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これが駅から来てアクスブリッジ・ロードに当たり、ちょっと右に折れたところ。「果たしてジムの店の後は見つかるのだろうか」…ちょっと興奮!

この通り、結構な交通量で、通りも両側に様々なお店が連なってなかなかにぎやかなところだ。

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通りを少し行く。

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ジムの元あったお店の番地は「76」と「93」だ。ロンドンの街で目的地を探すのは実はとても簡単だ、すべての建物に番号(番地)が付いているので、通りさえ間違わなければ、その番号にアプローチしていくだけでよい。

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「93」!これだ!

これはジムのお店の第2号店があったところ。1号店では手狭になり、1961年に引っ越した先だ。ここでピート・タウンゼンドとともJTM45の開発に取り組んだのだ!

好きな人は行ってごらんなさい。興奮するよ~。

そして、この店舗の奥ではジムがせっせとキャビネットを作っていたという。
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2号店「J&T Marshall」の開店当時の写真。これ、たぶん当時はこの通りもものすごくにぎやかだったに違いない。まったく治安が悪いという感じはしないが、この辺りは明らかに斜陽ムードが漂っているもんね。

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そして、通りを渡る。これはすぐにわかった。

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Uxbridge Road76、ジムが1960年、37歳の時に初めて出したお店「Jim Marshall & Son」があった場所だ。今はもう完全に床屋さんだ。それにしても超ド級の狭さ!

本当にここにクラプトンやピートやリッチーが来てたんかいな?と疑いたくなるほど狭い!これ、楽器を展示したらお客さんほとんど入れないんじゃないの?

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ここのショウウィンドウに置いてあったドラム・セットをミッチ・ミッチェルがいたずらをし、それがジムとの出会いになり、ジミ・ヘンドリックスが1959のフル・スタックを3セット買うことにつながっていったワケだ。ジミが訪れたのはこちらではなく、向かいの2号店だ。

またまた大興奮!

ここは2号店が開店した後、小売り部門を閉め、ダッドリー・クレイブンやケン・ブランの研究室になった。
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これはジムのお店の一番最初のカタログとされているもの。

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この写真の上から3行目。太字で住所が記してある。「76 UXBRIDGE ROAD, HANWELL」…

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つまりここだ。
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反対側から「J&T Marshall」のあった場所をのぞむ。

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マー本にも書いたけど、この場所には、ジムの業績をたたえ、ロンドンの名所旧跡を案内するBlue Plaque(ブルー・プラーク)を掲げるべきだと思う。

ところで、この「Marshall Chronicle」は写真の90%ぐらいとたくさんの文章、企画、解説、監修を担当させていただいたが、実は歴史のところと、このハンウェル探訪のところが一番やっていて楽しかったのよ。

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ここをジミやリッチーやピートが歩いていたのかと思うとアータ、興奮しまっせ~。床屋のオッサン、そこんとこわかってんのかな~?たのんますよ~、ホントに。

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この【イギリス‐ロック名所めぐり】はもちろんこれからドンドン続けていくが、これを元に旅行会社の方で「ロンドン・ロック・ツアー」みたいな企画できないかね?もちろんマーシャルの工場見学つきね。あ、ガイドはやらせてもらいますよ!

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つづく

2013年1月11日 (金)

【イギリス‐ロック名所めぐり vol.1】 マーシャルの生まれ故郷<前編>

父の強い影響で幼い頃から洋画を観てきた。父はもっぱら派手な娯楽映画が好みで、ワイダだの、ブニュエルだの、ベルイマンだの、いわゆる「芸術的」といわれる小難しい映画が苦手だが(というより、理解できないためまったく観ない。私も同じ)、古いハリウッド映画に関しては無限大の知識を有し、今でも私の大師匠である。

母は本人にはまったくその要素がないものの、姉ふたりがアメリカ人と結婚しており、60年代の私の家には電話帳のようなSearsの通販のカタログが転がっていたりした(ちなみにSearsは19世紀からカタログ販売をしている)。そのカタログには女性の下着からピストルまで掲載してあって子供ながらに驚いたことを今でも覚えている。

私は映画音楽から音楽に傾倒し、中学に入った頃からロックに目覚めた。そして、当然レッド・ツェッペリンやディープ・パープルに代表されるブリティッシュ・ロックに夢中になった。

今でもそうだが、アメリカン・ロックよりブリティッシュ・ロックをはるかに好んで聞いてきた。特にプログレッシブ・ロックが好きだったのは大きな理由のひとつであろう。反面、C&Wっぽいものが苦手なのと、ドゥービーのようなスッカ~ンと明るいタイプのロックがどうも性に合わないのだ。ジャズはメッチャ大好きだけどね。一番好きなミュージシャンはフランク・ザッパだが、彼の音楽をアメリカン・ロックでくくる人はいないだろう。

それでも不思議とイギリスに行ってみたいという願望はなかった。ずっとアメリカに憧れて来たし、新婚旅行で初めて訪れたアメリカや数回のニューヨークへのジャズとミュージカルの旅は興奮の連続だった。

ところが…だ。今から約10年前、はじめてイギリスに行った途端、Yes, fall in love!になってしまった。

この時受けた感動は、「イギリスに来た!」というより、「マーシャルに来た!」ということの方がはるかに大きかったのだと思う。この時のことをシゲ・ブログに書いた。(今、リンクを貼るので久しぶりにその文章を読み返したところ止まらなくなっちゃって…アホらしくも自分の書いた文章に感動してしまった!)

それにロンドンへ訪れると、ブリティッシュ・ロックへの憧憬が一気に燃え上がってしまってどうにもタマらない。ビートルズ、ツェッペリン、ベック、パープル、イエス、クリムゾン…みんなみんなこの国から出て来たんだ~…と感じた瞬間、星条旗が吹っ飛んだ!もうこうなるとジミヘンすらイギリス人扱いよ。

我が日本に比べ、人口1/2、国土2/3の同じ小さな島国の若者がどうしてロックの世界的覇権を握りえたのか…の興味もありましてね。いろいろ見て回りたくなった。

何といってもブリティッシュ・ロックのゆかりの地はロンドンに集中していて、東京のように地下鉄やバスで街中の行き来が自由ときてる。もっとも東京がロンドンをマネたのだから当然だ。NYCを除いて、車がなければ何もできないアメリカとは大違い。このことも大いに魅力に感じた。

どうしてもみなさんにこの魅力を伝えたい!と始めたのが今はなき「ロンドン・ロック名所めぐり」だった。おかげさまで大好評を頂戴した。あれからずいぶんと時間も経過し、新しい情報も大分たまってきた。そして、今回からこのマーシャル自身のブログでスケール・アップして再登場させるのであ~る。   

ところで、このシリーズのタイトル…ものすごく悩んだ。以前はロンドンのロックにまつわる名所を紹介しようと「ロンドン・ロック名所めぐり」としていたが、幾ばくかの年月を経てわかったことはロンドン以外にもイギリスにはたくさんのロックの名所があって、それを無視することができないということだった。

そこで、シリーズ名を『UKロック名所めぐり』とし、紹介する範囲を広げようとした。だが、待てよ…、「UKロック」になっちゃってるな…ということに気がついた。「UKロック」と言う言葉は好きではない。ならば…ということで素直に日本人らしく「イギリス-ロック名所めぐり」にすることとした。略して「色目(イロめ)」だ。「イギリス・ロック」と間を中黒(・)でつなぐのも変なのでハイフン(-)でつないでみた。

余談だが、「ギョエテとはオレのことかとゲーテいい」という言葉がある。これはゲーテの綴りが「Goethe」と奇怪であるため、様々な日本語表記が充てられ、本来「グーテ」と「ゴーテ」の中間ぐらいの発音が、遠く「ギョエテ」まで及んでしまい、当のゲーテが驚いたというギャグ。その表記のバリエーションは何と45通りもあったという。

ついこのゲーテの話しを思い出してしまうのが「イギリス」という言葉。我々が「グレート・ブリテンおよび北部アイルランド連合王国」を指す時に普通に使っているこの名称…実はほとんどすべてのイギリス人は、この極東の島国に住むブリティッシュ・ロック好きの民族が自分の国を勝手に「イギリス」と呼んでいることを知らない。ご存知の通り、「イギリス」という言葉はポルトガル語の「Inglez」が語源とされている日本語なのだ。

我々が彼らの国を「イギリス」と呼んでいることを当のイギリス人に伝えると存外にビックリされる。かつては世界を征服した一等国の自負を持つ彼らの国が、耳にしたこともないキテレツな名前で呼ばれているからだ。おもしろいよ。我々にとってみれば「イギリス」は「イギリス」だもんね!

え、「イギリスもいいけど食べ物は大丈夫なのかって?」ダメダメ。バックパッカーに近い状態の貧乏旅行で訪れなければならない以上、コレだけはあきらめるしかない。せいぜいポテト・フライの味を楽しむこった!(マーシャルの連中、読んでないだろうナ…)でも、あのおいしいエールがあるけんね。

極力このシリーズではロック名所に関することに限って記すように努め、食べ物や風土に関する紀行文的なものは、都度案内をするので副教材的にシゲ・ブログをご参照いただきたい。ただし、シゲ・ブログで触れていない古い内容については、マーシャル・ブログに再録させていただくことにする。

ロック好きの方がイギリスへ行くチャンスをゲットした時、「そうだ、マーブロの『イロめ』見ておこう!」なんてことになったらうれしい限り。

さぁ、ロックバカオヤジのいやらしい自慢と知ったかぶり、執拗なボヤキに空虚な懐古趣味を乗せてイザ、ブリティッシュ・ロックの聖地へ!

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ひっさしぶりにVirgin乗った~。向こうの人って戦闘機もそうだけど、飛行機のこの先っちょにイラストを入れるでしょ?これを「ノーズ・アート(Nose Art)」と呼ぶそうだ。

さて、ここまで書いて、記念すべき第1回目の話題をどこにしようかと悩みに悩んでしまった。

普通であればロンドンの中心地、ピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)あたりから歩を進めるべきかもしれないが、ここはマーシャル・ブログ。マーシャルのブログだ。マーシャルの発祥地をまず紹介しないでどうする?という考えに至った。

今、世に出ているロンドンのガイドブックすべてをひっくり返しても、このマーシャルの発祥地を観光名所として掲載しているものはあるまい。そりゃそうだ。しかし、我々ロック・ファンには訪れておいても損はないところ。

…ということもあって、12月12日に出来した日本で初めてのマーシャル本『Marshall Chronicle』のP10~11にコラムとして簡単に記しておいたのだ。本当はもっともっと詳しく書きたかったが、紙幅が限られているのでアソコではサラリと紹介させていただいた。

そして今ココで、『イギリス-ロック名所めぐり』の最初の記事としてマーシャルの故郷を訪ねるのだ!

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マー本と多少ダブル箇所もあるけどご容赦あれ。

まずは、ジムの生家を訪ねることにする。住所はジムの半生記『The Father of Loud』に出ている。

マーブロではいつも音楽配信を敵に回すようなことを言っているが、こういう時は正直ITの恩恵に感謝せずにいられない。Googleでその住所を入れて出てきた地図をグリグリいじりまわせば最寄りの地下鉄の駅など瞬時にしてわかるのだから。

そして、突き止めた最寄りの駅は地下鉄セントラル(Central)線の「ホワイト・シティ(WhiteCity)駅」。何となくこの名前を聴くとスティーヴィ―・ワンダーの「Living for the City」を思い出してしまう。この駅は1908年に開業している。同じ年に竣工したスポーツ・スタジアムや付帯設備が純白だったことよりこの名前が付けられたらしい。

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マー本にも記した通り、ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントの『ノッティング・ヒル・ゲイト(Notting Hill Gate)』から2つ西に行っただけなのだが、街の雰囲気はガラリと変わる。例えていうと、そうだな…錦糸町から亀戸へ移った感じかな?

何となくジムの出身地はロンドンの中心から大分離れているという印象があったのだがゼ~ンゼン。確かにウエスト・エンド(West End)やシティ(The City)のようににぎやかではないが、もしこれが東京であれば通勤が超ラッキーという距離だ。

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駅前にあるTelevision CentreというBBCの施設。

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こちらもBBCの施設だ。ドデカい送迎バスで従業員を送迎していた。

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ウッド・レーン(Wood Lane)という通りを駅から7、8分ほども歩いたろうか…。ウエスト・ウェイ(West Way)A40という幹線道路を渡るとあたりはヴィクトリアン・ハウスが立ち並ぶ住宅街となる。

さらに歩を進めて右側に現れたのがこの「ザ・パヴィリオン(The Pavilion)」というパブ。「ムム、見覚え、聞き覚えがあるゾ」とシャッターを切る。

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このパブはジムが幼少の頃、毎週日曜日、教会の帰りに親戚と寄ったという店だ。

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ジムはここでジュースを飲みながら店内で奏でられる生演奏に接した。もちろんジャズである。これがジムの最初の音楽体験だったという。

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このパブを右に曲がり、しばらく行き、「ラティマー・ロード(Latimer Road)」をさらに右に曲がるとこの「スネアズゲイト・ストリート(Snarsgate Street)」にあたる。

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ストリートといっても長さ100mにも満たない袋小路だ。

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その入り口からすぐの左側の建物。

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ここが後のDr. Jim Marshall OBEの生家だ。ジムは1923年(大正12年)の生まれ。

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ジムは5歳から12歳をすぎるまでの幼少期を病院で過ごすことになるので、実際にはそう長い間ここで暮らしたワケではない。
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しかし、ここの家に生まれたジム少年がロック・ギターに不可欠なマーシャル・アンプを作ったのかと思うと非常に感慨深いではないか。
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マーシャル家はこの後、そう遠くはない場所に引っ越す。詳細はマー本に譲るが、その引っ越し先からほど遠くない場所にドラム・ショップを開くことになる。1960年のことだ。

そのロケーションであったからこそ、ピート・タウンゼンドやリッチー・ブラックモア、ビッグ・ジム・サリバンが、そしてエリック・クラプトンが店にやって来、ジムにアンプ製作の依頼をしたのだ。もし、この生家がマンチェスターやバーミンガムであったらマーシャルはこの世に現れることがなかったと想像してよかろう。

つまりはこの家こそがマーシャル・アンプの、そして、ハード・ロックの原点といっても差し支えないのである。ロマンチックだナァ~。

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つづく