D_Drive~4つの「D」
今日は久しぶりにクイズから…。
問題:「一口坂」と書いて何と読むでしょう?
答え:「いもあらいざか」と読みます。
もうなくなっちゃったど、市ヶ谷駅と靖国神社の中間ぐらいに「一口坂スタジオ」という有名なレコーディング・スタジオがあったでしょ?
このスタジオは「ひとくちざか」って呼ばれていたけど、この「一口」は正しくは「いもあらい」と読む…なんて言うといかにも以前から知っていたようだけど、知らなかった。
今の若い人は知らないだろうけど、我々が幼い頃は「ほうそう」とか「しゅとう」とか呼ばれるワクチン接種をさせられた。
「疱瘡(ほうそう)」というのは「天然痘」のことで、昔は「イモ」と言われていた。
罹患したらまず命が助からない恐ろしい伝染病と恐れられていたが、当時の治療法といえば、神仏に願をかけて水で洗い流すのが一般的だった。
この疱瘡という死の病は、「疱瘡伸」という文字通りの疫病神がいて、それを祀った神社のそばにある坂を「芋洗坂」と呼んだ。
六本木のアマンドの裏にも「芋洗坂」ってあるでしょ。アレも同じ。
まずコレが「いもあらい」の由来。
しからば、ナゼ「一口」を「いもあらい」と読むか…。
オリジナルは京都。
諸説あるらしいが、三方を川に囲まれていた地区があって、出入り口は西側に一箇所しかなかった。それで「一口」という地名が当てられるようになった。
そして、病気が村に入り込まないように、そのひとつしかない村の出入り口に神様が祀られた。
コレはよくある話。
ところで、神社でお参りをする前に口をゆすいで手を洗うでしょう?あの水は飲んじゃダメなのよ。
あの「洗う」という行為は「祈る」という意味なんだって。
それで、病気、すなわち「イモ」の村への侵入を防ぐために「あらう=祈る」というところから「いもあらい」という読みが当てられるようになった…。
コレが「一口=いもあらい」の由来。
さて、ココからが脱線。
牛から採取した病原菌で天然痘のワクチンを開発したのはイギリスのジェンナーという人。
コレ、昔は学校で教わったよね?
だから私はこの「ジェンナー」という名前を小学生の時から知っていた。
子供を膝の上に乗せて、オジさんがその子に注射をしている挿絵があって、「我が子に天然痘ワクチンを注射するジェンナー」というキャプションが付いていたハズ。ヒデエことをするオヤジだな…と思ったものだ。
要するに逆『華岡青洲の妻』みたいなもんですな。
いわゆる「種痘」。
このジェンナーの開発した原理を利用したワクチンを我々も接種していたワケですよ。
日本にこのワクチンが入って来たのは江戸時代の話。
誰がその痘苗を持って来たかと言うと、漂流してロシアに抑留していた漁師だったっていうんだよね。
もちろん、「芋洗い」で治癒を望む江戸時代の民衆に牛が持っていた病原菌を摂取させるなんてことが受け入れられるワケない。
「モロコ」と言って、牛乳すら飲むことが異常だった時代だからね。
さて、この種痘というキテレツな医療行為がどうやって当時の日本人の生活に入り込んで行ったのか…。
その辺りの物語を吉村昭(出た!)が『花渡る海』と『雪の花』という2編に著しているので、興味のある人は読んでみるがいい。
私はメッチャおもしろかった。
その後、1980年にWHOが絶滅宣言をして、天然痘は地球上からなくなったことになっている。
疱瘡の「瘡」とは「かさ」ということね。
「瘡かきの病」なんていうと、昔は「梅毒」のこと指した。江戸時代は梅毒が当たり前の病気だった。
コレはまた別のところでやります…犬神さんのところね。
「瘡」に似た字で「瘧(ぎゃく)」というのがある。
「瘧」というのは、マラリアのこと。
マラリアを治す医者のことを江戸の昔には「瘧師(ぎゃくし)」と言った。
以前入った大戸屋のウエイトレスさんの胸に付けていた名札に「瘧師」さんとあって、こっちはビックリ仰天!
その女性は富山の方だそう…珍名好きの私としては、尋ねずにはおけなかったのだ。
一体ナンの話だ?
神田だ、神田。
ココからが今日のお話のスタートです。
Marshall Blogに幾度となく書いてきたが、私は昔の町名を改訂することは本当に悪行だと思っているのね。
たとえば「吉原」を「千束四丁目」にするとか、「東なんとか」とか「西なんとか」とか…ああいうヤツ。
で、神田というエリアは、昔からの町の名前がたくさん残っていてカッコいいのよ。
紺屋町、練塀町、多町(たちょう)、猿楽町、司町、鍛冶町…なんてね。
でも「神田」という単独の地名がないんだよね。コレがまたおもしろいじゃないか。
そのかわり、1947年に神田区と麹町区が合併した時に、旧神田区の地名すべてのアタマに「神田」とつけた。
神田紺屋町、神田練塀町ってな具合ね。
きっと江戸の中の江戸である「神田」という名前が誇りだったんだろうね。
いつか『私の秋葉原』でやったけど、江戸時代までさかのぼらなくたって、神田須田町なんてのはかつては東洋でも一、二を争う賑やかな街だったワケだからね。
一番はどこかって?
そりゃ「浅草」にキマってるじゃねーか!ヤボなことは訊くない、ベラボーめ!
そして、神田淡路町。
淡路町は、江戸時代は武家地で近くに鈴木淡路守の屋敷があったことから名づけられた「淡路坂」が名前の由来になっている。
その淡路坂の別名が「一口坂(いもあらいざか)」なんだね~。
ココで話がアタマにもどる。
この構成力がMarshall Blogの魅力よ。まるで『生きる』みたいな黒澤映画を観ているみたいでしょ?
下はその淡路町にある「Studio Bpm Kanda」というスタジオ。
このビルには地ビールのお店が入っているようだね。
ナゼかは知らないけど、この辺りってブリュワリーを擁して地ビールを飲ませるお店が多いんだよね。スゴイよ~、今のスタジオってオシャレだよね~。
楽器屋さんに付属しているスタジオはまだしも、昔は強烈なスタジオ屋さんってのがゴロゴロしていたからね。
駅から遠くて機材は最低限、壁は落書きだらけ、なんてのはザラだった。
こっちも血気盛んな高校生だったので、アンサンブルもへったくれもなくて、とにかく爆音で楽器を鳴らしたい。
そんなだからボーカルズの歌声がシッカリ聞こえてくるスタジオなんてまずなかった。
でも、ギターを長いことやっていて、あの頃が一番楽しかったような気もするな。
1970年代後半の話。
それから40年経つとこうなる。
見てよ!このスタジオさん。
オサレなレストランと見紛うような待合室の雰囲気!
まずはワインとチーズから…みたいな?
淡路町という土地柄、学生の集客を期待されていたらしいが、会社帰りのサラリーマンがフラっと寄って楽器の練習をしていくことが多いのだそう。
それも従来型の「ギターやドラムの爆音練習」ということではなくて、ピアノやサックスの練習に利用される方が多いと聞いた。
うれしかったのはコレ。
ORIGIN50Hがレンタル機材で常備されているの。
音の評判がすごくいいのだそうだ。
そんなオシャレなスタジオにナニをしに来たのかと言うと…動画撮影の取材。
背中は昔よくお世話になったカメラマンの方。
Marshallの販促品を身に付けたIn FlamesのBjörn Gelotteの写真を撮りに、赤坂のホテルのBjörnの部屋に2人でお邪魔したこともあったっけ。
超久しぶりの再会でうれしかった。
今日はD_Driveのギター・チームが愛用するESP社のハイエンド・モデルを試奏する動画の撮影なのだ。
「ホレ、Yukiちゃん、見てみぃ。ココこんなんなっとるやんけ」
「ホンマや!ごっつぅキッレイやナァ~」
「ホレ、Seijiはん、コレかてせやがな。木ィや、木ィ」。
※実際のYukiちゃんはこんなに関西弁がキツぅあらへんで。
関西弁って一文字の単語を伸ばして発音するでしょ?
「木」は「き」でいいのに「きィ」って。
「絵」は「えェ」。
「蚊」は「かァ」。
「子」は「こォ」…みたいな。
コレは一体どうした音便変化なんだろう?「長母音化」とでもいうのかしらん?
やっぱりリズムなんだろうね。
標準語より関西弁の方がはるかに英語っぽいのだ。
お、撮影が始まった!
今時の携帯電話の内蔵ビデオカメラの性能はバツグンだからね。
もう動画撮影はコレでバッチリ!…ウソですよ~!
Yukiちゃんも同様。
結局、最終的に音を出しているのはギター・アンプだからね。いつもの安定した機材じゃないと、ギターのサウンドの違いがハッキリわからないし、良さも評価しにくい。
YukiちゃんもいつものJCM2000 TSL100と1960A。
デジマートの記事はコチラ。
「D_Drive」と「Digimart」…「D」が3つも入ったこの企画。
でもね、「D_Drive」には更にもうひとつの「D」があるの。
それは「Decade」の「D」。
「decade」というのは「10年間」という意味。
この年明けから、すでにその記念ライブを開催し始めているが、2019年はD_Driveの「10周年イヤー」なのだ!
最近ココへ来て、実力も知名度も評判もグイグイ上げて来たD_Drive。
「ギターの上にも10年」…今年は大きな飛躍を期待している。