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2018年1月15日 (月)

TOKYO BAKA EXPO 2017:犬神サアカス團単独公演『髑髏城』~私のディープ浅草 <その4>

 
またまた同じことを書いちゃうけど…何しろ時の経つのが早い!
1年に1回10月に開催しているこの『TOKYO BAKA EXPO』、アッという間にやって来ちゃう。
一番最初にお邪魔したのが2013年のことだから、今回で5回目。
アレから5年も経ってんのかよ~!
セッティングの時、「ヘタにギャラをもらうより米をもらった方がありがたい」なんて話をして盛り上がった時だ。
アータ、デヴィッド・ボウイじゃあるまいし、「5年」てひと口に言うけど、生まれたばかりの赤ちゃんが5歳になってんだぜ!?
コレはなんでもないか…。
95歳のお婆さんだったら100歳になってんだぜ!3ケタだぜ!
犬や猫の5歳ったら人間の36歳だぜ!
…ったく信じられないスピードですよ。
  
さて、2017年の『TOKYO BAKA EXPO』でも犬神サアカス團の単毒公演が企画された。
今回のタイトルは『髑髏城』。
例によって前半はコント・コーナーである。
The Whoの「Baba O'Riley」に包まれて「あぁルナティックシアター」の主宰、橋沢進一がステージに上がる。

10ん~、いつ聴いてもステキなお声…さすが我が後輩!
そう、この日は私の同窓生が私を含めて4人も集まる大同窓会なのだ。
ハイ、私が大先輩です。イヤイヤ、ただムダに年食ってるだけなんだけどね。

20v橋沢さんのご挨拶に続いて犬神サアカス團の4人が登場。
簡単な挨拶の後、今回のコントの説明がすぐに始まる。
これまで数回「いつ・誰が・どこで・ナニをした」というヤツが続いたので今回は趣向を変えようというワケ。
今回の内容は「火サスしりとり」だって。
どんなのかというと、普通のしりとりなんだけど、いかにも「火曜サスペンス劇場」のシーンのような答えを出さなければいけないワケ。
もちろん演技も交えてね。

30「寝込みをおそわれたようだ!」の「だ」。

40v「だから言ったじゃない!」の「い」。60「今だ!」の「だ」。

50v「ダダダダ、ダダダダ、ダ~ダ~(火サスのジングル)」
ウマい。
昔、お題が「ジ」の時、「♪ジャーン」と言って負けたヤツがいたけど、それはビートルズの「A Hard Days Night」のイントロだった。
写真と内容が合っていないけど、コレを2回ほどやって盛り上がったというワケ。

70…ということでライブのコーナーに突入~!
メンバーは一旦ステージを降りる。

80ステージに残ったのは…
ギター・アンプのMarshall JCM800 2203アンプ・ヘッドと2x12"スピーカー・キャビネット、1936。

90vベース・アンプのEDEN Terra Nova TN-501と4x10"スピーカー・キャビネット、D410XST。

100vそして、NATALのドラム・キット。
素材はアッシュ。フィニッシュはグレイ・スパークル。コンフィギュレーションは12"、16"、22"。

110メンバーが登場し、演奏が始まった!
今日は1曲目から「暗黒礼賛ロックンロール」。

12010月にリリースした最新作『新宿ゴーゴー』のリード・チューン。

130cd犬神凶子

140v犬神情次2号

150v犬神ジン

160v犬神明

170v続いては「花嫁」。
「♪火葬場の炎の中でふたり 灰になりましょう」とやる究極のラブソング。

180チョット前、横浜に墓参りに行った時に車を停めた近隣の火葬場の駐車場。その火葬場がスゴイところだったのを知ったのは偶然だった。
どういう風にスゴいのかは、ココにはチョット書きにくいので明兄さんに話しておくわ。

280v「暗黒礼賛ロックンロール」→「花嫁」の流れって、アレ?
こないだ犬フェスの時の和嶋さんたちの「死神ナパアム團」と同じじゃんか!
あ~、さてはパクったな~?

270_sg「改めまして、犬神サアカス團です!今年も1ヶ月公演に呼んで頂きました。このイベントも10年ぐらいかな~って感じ?
他のライブは楽しくなくなるぐらい楽園のライブは楽しいので、今日も全力で楽しんで欲しいと思います」

190凶子さんの挨拶に続いて『玉椿姫』から「虚像の誓い」。

200犬神の「天然の美」だね。
いいんよ、コレが。ノスタルジックで。
こういう曲が「帰ってこいよ!」。
情次兄さんのソロもバッチリ!
1936で十分だね。

210人気ナンバー「平成デモクラシー」。
こうしたドンガラガッタ節も最近のロックからは姿を消してしまった。

220_hdどうすんのこの曲。
もうすぐ元号変わっちゃうよ!
しかし、これだけ時の経つのが早いとすぐに「平成ノスタルジー」になっちゃうね。

230vさらに「ビバ!アメリカ」。
今日はヒット曲特集かいな?

240v_vaアメリカか…。アメリカねェ…。
昔ナンだってあんなに好きだったんだろう?
私の場合は映画だな。ハリウッド映画が大好きでアメリカに憧れた。
ところが、もうね、どんなにヒューマニズムあふれる感動的な映画でもハスに構えて観ちゃうんだよね…「どうせこの裏では世界中で戦争を起こして武器を売ってるんだろ!」って。
私は何とか「アメリカ病」を治したから、どうしてもこうなっちゃう。
炭酸飲料も絶対に飲まないし、ファスト・フードもまず食べない。
日本はまたアメリカで禁止されている農薬をそのアメリカから買うんだってね~。
スゴイなぁ日本って。アメリカのゴミ箱であり、貯金箱であり…。
そんなだから犬神の音楽が好きなんだよな。70年代のブリティッシュ・ハードロック・テイストでアメリカン・ロックの極北だから。

250v「今日初めて来た人いるのかい?楽園が初めてなの?犬神のライブは来てるの?新しいアルバムを出しても結局『地獄の子守唄』を聴いちゃんでしょ?
一番最初に買ったアルバムが結局好きなんだよね。それじゃあコッチが困るんだ!…なので最新の曲も演りたいと思います」
グッと雰囲気を変えて『黄金郷』から「エルドラード」。

260v_edジャケットを脱いでタンクトップになった明兄さん。
この曲って途中でマイナー・ブルースになるんだよね。今時マイナー・ブルースなんて他では聴けないよ~!
コルトレーンの「Mr.PC」なんてのは有名だけど、ジャズでも滅多に演らないんだから。

2_img_0123 次のセクションは『新宿ゴーゴー』コーナー。

320_ucクールなタイトル・チューン「新宿ゴーゴー」。

290v変形ブルース「昔みたいに」。

300v明兄さんのハイハットの16分音符でスタートするのは「栄光の日々」。
310vいいな~、70年代(前半)ロックのエキスたっぷりのサウンドだよ。
サビの展開がいいんだよね~。
そして、ギター・ソロの最後のピック・アップ・ソロが効果的だ。350v『新宿ゴーゴー』コーナー終わり~。CD買って~!

315vそして、最後のセクション。
まずは「運命のカルマ」。
前にも書いたけど、ホント、凶子姉さんの歌い方っていいよな~。
「♪巡り~」の「り」、「時を」の「き」、「絡み」の「ら」、「呪縛」の「く」…スっと出て来るところが実に気持ちいい。
絶対民謡に通ずるところがあるよ。
それもこの美しい声ありき、のことだけど。

330v続いても『黄金郷』から「生存狂騒曲」。

340大地を揺るがすスピード・チューン!

355vそして、本編の最後を飾ったのは「ロックンロールファイヤー」。

356vコレ演るの珍しいんじゃないの?

360今回も新旧混ぜ込んでのバラエティに富んだステージだったね~。
ところでどこが『髑髏城』なの?

370アンコールは「赤い蛇」。

390vやっぱこうしたロック・サウンドのギターはMarshallに限りますな…というか他のギター・アンプじゃできないでしょ。

400v小さな巨人、EDEN Terra Novaがジン兄さんのダイナミックかつ緻密なベースラインを忠実に炸裂させた。

2_img_0196そして、NATALはパワフルでドラマチックな明兄さんのドラミングを完璧に演出したぞ!
やっぱいいなNATAL。

420vいつも通り最後は橋沢さんのごあいさつで単毒公演は幕を下ろした。
またすぐ来ちゃうよ。
今年も楽しみだ。
  
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒公式家頁
    
あぁルナティックシアターの詳しい情報はコチラ⇒公式ウェブサイト

430vさて、「女殺火箸地獄」に端を発して、ここのところ毎回犬神さんのレポートの巻末にお邪魔している吉原研究のコーナー「私のディープ浅草」も4回目を迎える。
まぁ、色んなことを調べていると次から次へと知らないことが出て来て実におもしろい。
興味のある方は是非ご覧くだされ。
そうでない方はここでお開き。
  

-----------------------きりとりせん----------------------

吾妻橋西詰の交差点を過ぎて馬道まで来たよ。
写真の横の通りは言問通りだ。
横浜には「馬車道」なんてあるけどね、浅草は馬道。
かなり古い地名らしい。
馬道の由来は諸説あるが、その昔、浅草寺には馬場があって、よその僧侶が馬術の練習をしに来る時にココを通ったので、「馬道」と呼ぶようになったとか…ツマらんな。
私だったら志ん朝の説を採るね。
「付き馬」の枕だ。
それは、前回&今回とやっているように、吉原へ向かうにはやはり蔵前方面から歩いたり、駕籠(かご)で行ったりしていたのだが、その前の時代には馬を使ったそうだ。
それで、その馬が盛んにこの辺りを通ったため「馬道」という地名が付いた。
ま、理屈は同じだけど、坊さんの馬の練習と吉原通いとでは大分違う。
ところが、当時はお寺の坊さんも吉原に通っていたらしい。
これぞ「生臭」の極み…さすがに袈裟をつけて吉原の大門をくぐるワケにはいかなかったので、医者の格好をして行ったそうだ。
昔は医者もスキンヘッドだったからね。

10_2馬道の交差点を右に曲がり、言問通りを大川(隅田川)の方面に進むと、左側に出て来るのが「猿若町」の標識。
「猿若町」なんてナァいいね…。
今は「さるわかちょう」と呼んでいるが、昔は「さるわかまち」と読んだ。
町名の由来は歌舞伎役者の「初代中村勘三郎」から。
「猿若勘三郎」として知られた初代の中村勘三郎(1658年没)」は、歌舞伎役者であるだけでなく江戸で初めて常設の芝居小屋を作った人。
それがリスペクトされて、当時の人がこの地に「猿若町」と名付けた。

20_2現在の猿若町のメインストリート。
全く何の特徴もないごく普通のまっすぐな道路。強いて特徴を言えば「一方通行」ってことぐらいか?それぐらいナンでもない通り。

30_4ところが、200年とチョットさかのぼるとココはこんなだったらしい。
この通りに芝居小屋が3つあって大層にぎわっていた。
ステキだね~。
当時、歌舞伎は庶民の大きな楽しみのひとつだった。
しかし、芝居小屋は躯体が大きく、構造上、中が空洞で空気が通りやすいため、一旦火が付くと盛大に炎上してしまう。さらに図体が大きいので消火しにい構造物の最たるものだった。
モノの本を読むと、江戸時代、火事は最も恐れられた災害で、何かの節目には大きな火事が関係していることがわかるね。
そんな恐ろしい火事だからして、幕府は江戸における芝居小屋の数を3つあるいは4つに制限していた。
コレらは「江戸三座(四座)」と呼ばれ、銀座と築地の間ぐらいにあった木挽町(こびきちょう)に位置していた。
時は1841年となり、水野忠邦が「享保の改革」を施行してゼイタクや余興を慎むようになると、歌舞伎を廃絶しようとする動きまで現れた。芝居のチャラチャラした楽しそうな雰囲気が風紀を乱す!というワケね。
しかし、「マァ、忠さん、そこまでしなくとも…」ということで、江戸三座をサビれたロケーションに追いやって歌舞伎の公演を継続することになった。
そうすれば風紀が乱れないし、小屋が火事になっても辺鄙なところだからあ~んしん、というワケよ。
その移転先には選ばれたのがココ、浅草寺の裏手の猿若町だった。
失礼な!
吉原といい猿若町といい、浅草をイッタイ何だと思ってんだ!
とにかくそれ以降、3つの芝居小屋は「猿若三座」と呼ばれ、江戸末期にかけて隆盛を極めた。
本物を見てみたかったナァ。

40_2上の広重の絵を見ると、屋根の上に紺の四角い箱が乗っているのがわかるでしょう?
コレは「櫓(やぐら)」と言って、幕府に認められた芝居小屋の証とされた。だから3つしかない。
櫓にはその芝居小屋のロゴを入れて、そこに人が乗って呼び込みをするワケ。
今の東銀座の歌舞伎座にも正面の真ん中にシッカリ付いてる。ま、形だけだろうけど。(現在はついていない)
このロゴを入れるってのが何ともカッコいいんだな。

Kbkz 前回紹介した喜熨斗古登子さんの本を読むと、江戸の時代、芝居見物がどれほど大きな楽しみだったのかがわかる。
何しろ女子供は芝居と寄席しか娯楽がなかったんだから。
で、猿若町の通りに入ってすぐ左側にあるこの白い建物。
ココに猿若三座のうちのひとつ中村座があった。

R_img_0121緞帳ってあるでしょ?
ホールや大き目のライブハウスなんかにある舞台からブラ下がっている「幕」のことね。
歌舞伎ではアレを定式幕といって、芝居小屋ごとに色がキメられていた。
カッコいいよね~。オシャレだよね~。
そもそもこの定式幕の起こりもさっき出て来た中村座を作った初代中村勘三郎、つまり猿若勘三郎。幕府の御用船である『安宅丸(あたけまる)』が江戸に入港する際、得意の木遣りで櫓漕ぎの音頭を取って見事に巨船をコントロールした。
あんなノベーっとした木遣りで一体どうやって音頭を取ったのかが知りたい。
その見事なワザのご褒美として、幕府は安宅丸の帆布を勘三郎に下賜した。
その帆布、すなわち白い布に黒と柿色の布を組み合わせて作ったのが定式幕の起源とされている。
したがって、白を定式幕に使うことが許されたのは中村座だけだったという。
そんな話を聞くといかに幕府が芝居の管理にうるさかったかが窺い知れるね。
今でも「平成中村座」は公演の時この定式幕を使っているんよ。

55_2そのまま進むと左手に「テラサワ」というお店が現れる。
「テラサワ」といっても低音を発して暴れているワケではない。パン屋さんだ。
このお店は国産の小麦とバターにこだわっていて、調理パンが実においしいんだ~。
「バターにこだわる」というのは、自然界には存在しない、「食べるプラスティック」と言われているトランス脂肪酸、すなわちマーガリンを一切使用していないということ。

90v調理パンはどれもオススメ。
甘いモノ部門ではこのロールケーキ。
味が濃くて大変においしい。

100_3お店の向かいの駐車場の脇に設置してある3台の自動販売機。
何の変哲もない自販機だけど…

110裏からみると…ホラ、トリコロール。
フランスの国旗になってるの。
テラサワのおカミさんに教えてあげたらエラく喜んでくれました。
「やぱっりカメラマンは視点が違いますネェ~!」なんて言ってくれたけど、そんな大層なモノでは全くありません。

120_3調理パンとロールケーキを買って歩を進める。

70v_3ね、見学ツアーの人たちが歩いていたりするんよ。「江戸を歩く」ぐらいのグループかね?

80_4この付近でガイドさんが説明するのはココ。
碑が立ってるでしょ?

60_2「江戸猿若町市村座跡」とある通り、ココには市村座があった。

60v_3市村座の定式幕は「黒・萌黄(もえぎ)・柿色」。
三宅坂の国立劇場は市村座の定式幕が採用されているそうだ。

62さらにもう少し進むと右側に出てくるのが森田座の跡だ(守田座ともされている)。
この白いビルの場所。

130_3森田座の定式幕は「黒・柿色・萌黄」。
現在の歌舞伎座も森田座のスタイルを採用しているそうだ。
コレは明治維新後、森田座は新政府の指導に従い、小屋を新富町に移転して「新富座」を開く。
新富座の開場にあたっては、時代の変化に合わせて当時の様々な近代的なアイデアが盛り込まれた。
ところが、しばらくすると「歌舞伎座」なるものが出現し、新富座よりも新しい工夫が凝らされた。
「コイツぁ、ヤバい!」と踏んだ12代目(!)守田勘彌(かんや)なる新富座の親分が、中村座・市村座・千歳座と組んで「四座同盟」というグループを結成して、役者を囲い、歌舞伎座に出演できないようにしたりして対抗する。
そこまで、角を突き合わせてモメにモメたものの、歌舞伎座は守田勘彌を座頭に迎えることによって収集を図った。
まぁ、あからさまな裏切り行為なんだけど、色々と事情があったんだろうね。
その時、勘彌はチャッカリ森田座の定式幕を歌舞伎座に持ち込んで、歌舞伎座の定式幕として定着させてしまったのだそうだ。
キッタねぇ~!

2_2考えてみると、たった黒、緑、オレンジの線がタテに並んでいるだけなのに、我々はこの定式幕のデザインでごく自然に「歌舞伎」のイメージを思い浮かべてしまう。
そして、この意匠が世の中に結構神道していることを知る。
もっとも親しみを感じるのはコレではなかろうか?

63vでも、このお茶漬けのパッケージは全然歌舞伎じゃない。
まず線が横じゃん?
それに、これまで見てきたように、江戸三座の定式幕には赤だの黄色だのは全く使われていない。
してみると、この彩色に勘亭流のフォントと隈取りのイラストはあまりにも無責任ではなかろうか?
一方、こっちはいい線いっているよ。
「歌舞伎揚げ」というくらいなので、「黒・萌黄・柿色」の市村座スタイルになっている。
製造会社によると、日本の代表的な食べ物である煎餅と同じく代表的な芸能である歌舞伎を「同じ伝統的」なモノとして絡めたのだそうだ。
だからチャンと市村座の定式幕を調べたんだろうね。
しかし、このお煎餅は古いよ。私が子供のころからあるからね。50~60年のロング・セラーなのではないかしら?…と思って社史を調べてみると、「昭和32年に開発した」とあるから1957年のこと。
Miles Davisで言えば『Walkin'』や『Cookin'』がリリースされた年だ…といえばどれぐらい古いかがわかるだろう。
わかんないか?
恐るべし「歌舞伎揚げ」。
あと「横綱揚げ」も古いよね。

136浅草の東洋館の看板は「黒・柿色・萌黄」の森田座スタイル。
さっきも書いたように江戸時代の庶民の最大の娯楽は芝居(=歌舞伎)と寄席だったからね。
寄席に定式幕のデザインが施されるのは至極うなづける。

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上野の広小路亭という寄席の看板は向かって左が「黒・柿色・萌黄」の森田座式で右が「黒・萌黄・柿色」の市村座式だ。

R_2img_5521_4お、ココは市村座のパターンだ。

R_img_5534さて、「今、吉原のことを色々と調べていて、猿若三座にも興味がある」と先のパン屋のテラサワのご主人に話したところ、「それなら藤波さんを訪ねるといい」と教えてくれた。
「藤波」というのはこの通りにある「藤波小道具株式会社」という芝居の小道具を扱っている会社のこと。

150v_2まさか、どこの馬の骨かもわからないオッサンがいきなり入って来て「吉原や昔の猿若町の話を聞かせてくれ」なんてやったらツマみ出されるに決まっているので当然ご遠慮させて頂いたが、調べてみるとこの会社がスゴイことを知った。
創業は明治5年(1827年)。
歌舞伎の舞台で使用する小道具を扱うことを生業していたが、テレビの放送が始まると、最初の放送から全テレビ局の番組で必要とされる小道具を一手に納めていたという日本の小道具界の雄なのだ。

160_2コレも広重…「猿わか町夜の景」という作品。
いいね~、満月の明かりで人影ができてる。
櫓の位置からすると、上で紹介した絵とは反対のサイトなんだろね。

170v_2藤沢周平の短編に「猿若町月あかり」という短編がある。
金の無心に来た義理の甥っ子を、追い返すだけの話し。金を渡してもどうせ博打に使ってしまうのだろうから本人のためにならないと主人公はニベもなく断るが、悩んだ結果、甥っ子を追いかけていくばくかの金を渡す。
暗い夜道を追いかけていると、急に明るく、人通りが多くなるシーンがあるんだけど、それが猿若町のこの通りなんだな。
きっと藤沢周平も上の広重を見て話を思いついたんだろうね。
今では真っ暗だよ。
ところで、いいよね~、藤沢周平って。ついつい読んじゃう。
藤沢周平はもう1997年に亡くなっているが、昨年末、奥さんの小菅和子さんも86年の天寿を全うされた。(藤沢周平の本名は「小菅留治」という)
この和子さん、長いこと藤沢さんの原稿の誤字脱字のチェックやスケジュール管理をされていたのだそうだ。
どっかで聞いたことあるな…Marshall Blogと全く同じだ!
きっと和子さんは藤沢さんのファンで、『ミザリー』みたいに誰よりも先に藤沢作品を読むのを楽しみにしていたんだろうね。

Htg ウワ~、近所のお茶屋さんで久しぶりにこういうのを見た。
緑茶を炒ってほうじ茶を作るマシン。
昔はどのお茶屋さんの店先にもこの機械が置いてあった。
子供の頃、このニオイが苦手だったのでよく覚えている。
さっき萌黄色なんて言葉を出したけど、お茶の色は緑なのに、どうしてブラウンのことを「茶色」って言うんだろう?
それは…。
「茶染め」ってあるでしょ?昔はお茶の葉っぱは染めの材料として使われていた。アレ、茶色でしょ?だから「茶色」なんだって。
そもそも、昔は番茶のような茶色のお茶を飲んでいたのだそうだ。ややこしい。
しからばbrownの語源は何だろう?
…と調べてみると「bear」とルーツが同じらしい。
175靴屋が林立する花川戸を抜けて、大川(隅田川)に沿うようにして歩を進めると、左側に現れるのが「待乳山聖天(まつちやましょうてん)」だ。
浅草寺の支院のひとつで本名を「本龍院」といいう。

180_2池波正太郎の生家が近いということで、こんな碑が立てられている。
池波正太郎はジム・マーシャルと生年が同じなんだよね。1923年、大正12年、すなわち関東大震災があった年だ。

190_3せっかくなのでチョット境内に入るよ。

200_3提灯には大根のイラスト。

210_4そう、ココはお供えものが大根という珍しい神社なのだ。
「大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。
私たちはそのお下がり(おさがり)を頂くことによって、聖天様のお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来ます」ということなのだそうだ。
ところで、演技のヘタな役者のことを「大根役者」って言うじゃない?
アレ、諸説あるようだけど、林家正蔵(のちの彦六)が『中村仲蔵』という噺のマクラで説明しているのは、大根は食あたりを起こさない食べもの…つまり「当たらない」というワケ。
うまいこと言いますな。

220_2この神社はチョットした高台に建っているので、お年寄りや身体の不自由な方のために、社殿の裏にモノレールが設置されているのよ。

230_3ハイ、到着~。

240_2もちろん無料。

250_2待乳山聖天のほぼ隣。

260_3後ろはこんな感じ。
すぐ横が台東区立リバーサイドスポーツセンターというロケーション。

270_3もう1回景色を確かめておく。

280_3ココ、明治時代にはこうなってた。
この橋の下を通っているのが「山谷掘」という吉原へ続く運河だった。
この川と平行に走っていたのが「日本堤」。
吉原に行く人たちは、徒歩や駕籠なら日本堤を通って、また、水路だと柳橋から猪牙船(ちょきぶね)に乗って、大川をさかのぼり、この山谷掘を利用して吉原に向かった。
風流だね~。
ココに見える橋は今戸橋。
山谷堀の最下流の橋だが、いつ建造されたのかは不明。
でも江戸時代のことらしい。
この下を吉原通いの船が通った頃には「今戸橋 上より下を人通る」というぐらい船がガンガン行き来していたらしい。

290江戸時代はこんな感じ。広重の「真乳山」という絵。
なるほどチョット奥まったところに橋が架かっている。

My猪牙船というのは、こういうヤツ。なるほど猪の牙みたいな形をしてる。
細身の形をしていて、吃水が浅いため、操船が大変不安定だったそうだ。
で、この船から立小便ができるヤツはたいてい親から勘当されていたという。
つまり、そんな不安定な船の上から用を足せるほど猪牙船に慣れているということで、それは吉原通いで大変な放蕩をしていることに他ならないというワケ。
この絵では船頭さんが竿を突いて操船してるでしょ?
他に櫓(ろ)を使う方法があった。
ギーコギーコって漕ぐあの「櫓」ね。
この竿と櫓、どっちが難しいと思う?
「竿は三年、櫓は三月」といって、竿で船を操る方がはるかに難しいのだそうだ。

305この「竿は三年、櫓は三月」というのを桂文楽の「船徳」という噺で覚えた。
八代目桂文楽、黒門町の師匠。
黒門町というのは今でいうと御徒町のエリア。
私は落語だけは超ミーハーで、五代目古今亭志ん生がやっぱり一番好きなんだけど、文楽も負けないぐらい好き。
2人とも昭和の大名人で、ライバルだった。
ジャズ・ギターで言ったら志ん生はウェス・モンゴメリー、対する文楽はパット・マルティーノ。
文楽は同じ噺を演ると、ほんの数秒しか違わなかったという完璧主義者だったが、晩年、高座でセリフが出てこなくなり、絶句。
「勉強しなおして参ります」とお客さんにお詫びをして、噺の途中で高座を降り、その後、二度と高座に上がることはなかった。

306古今亭志ん生は奥さんが亡くなった時には涙を流さなかったが、間を上げずしてライバルの文楽が死んだ時は声を上げて大泣きしたという。
志ん生と文楽はこの先も出てくることになるのでココで触れておく。
何しろ志ん生は明治の吉原に入り浸っていたのだから。
 
ちなみに、今の桂文楽はペヤングです。
それと知ってると思うけど、志ん生はネジネジの中尾彬の義理のオジイちゃん。
志ん生の長男の金原亭馬生の娘が池波志乃。そのダンナさんがネジネジ。
307v今のこの欄干は大正15年に竣工した時のモノ。

2img_5539昭和62年に山谷堀を埋めた時にこの欄干だけ残したのだそうだ。

2img_5540 山谷堀の暗渠の上は公園になっている。

300しかし、100年以上前にはここを船が上り下りしていたとはね~。
見て見たかったな~。
堀の岸には船を取り扱う船宿というものがあって、船でやって来た人はそこでイッパイやったり、泊まることもできるし、そこで吉原に行くための着替えをすることもあったのだそうだ。
上に文楽の船徳の若旦那は勘当されて行きつけの船宿に転がり込んで、慣れない竿を使って船を操りお客さんをパニック状態に陥れるという爆笑噺だ。
ところでこの辺りは「今戸」というんだけど、「今戸の狐」というのはこの辺りを舞台にした噺だ。
「狐」違いが起こす大爆笑噺。
前半の言葉の説明がシッカリできていないとサゲ(落ち)がおもしろくも何ともない。
コントのアンジャッシュなんかはこういう噺を聞いて参考にしているのだろう。

310_2この山谷堀と並行して走っているのが日本堤。
「堤」というぐらいだから、昔はここは堤防だった。

380_3広重は「待乳山山谷堀夜景」という作品も残している。
日本堤を歩く女性。
向こう側に見える川のようなものが山谷堀だ。
…と思ったら、コレそうではなくて、川のようなものは大川、すなわち隅田川なのだそうだ。
なんだよ。
つまり、川向こうの向島から山谷堀の下流を見ているロケーションなのだそうだ。

375vこれも広重。
「よし原日本堤」という日本堤を俯瞰した絵。
上の女性はココを歩いていることになる。
駕籠が盛んに行き交っている。
予算に余裕のある人が駕籠や船を使って吉原を目指した。
一般人はひたすら徒歩だ。

Ntまた、山谷堀に戻って…ハイ、ここ!
前述のように山谷堀は暗渠になってしまっているが、昔の地名が残っていて、ココには「紙洗橋(かみあらいばし)」という橋がかかっていた。

320_4後ろはこんな景色。
スカイツリーがドンドン遠ざかってきた。

325現在「紙洗橋」という名称は交差点の名前になっている。
よく買う気もないクセに商品を見たり、店員に値段を訊いたりすることを「ひやかし」っていうでしょ?
「あ~、どうせひやかしの客だ」みたいな。
この言葉はココが発祥の地とされている。
昔は浅草和紙というのがあって、この辺りに紙を漉す業者が集まっていた。
和紙を作る時は、原料の木の皮を煮て、それを冷まさなければならない。
材料が冷えるまでの間、することがないので、職人たちは時間つぶしでココから吉原に出かけた。
当然、そんな職人には登楼する経済力などないので、見世の遊女をからかったりした。
つまり、紙を「冷やかし」ている間にそういうことをしたことからこの言葉が生まれたのだそうだ。

330_2もう少し行くとこの地方橋の交差点に当たる。
向かって右側の今は下水道局の施設になっているところあたりまでが山谷堀だった。

340_3ココでグルメ情報。
上の写真の交差点を背中に隅田川方面にチョット行く。清川分室通りと交わった角にこの「金太楼寿司」がある。
店名は「サービス売店」。

350_3見て、値段。
にぎりが1人前で550円だぜ。
地元に事務所を構える人から教えてもらって早速行ってみた。
ゼンゼン普通。量もタップリでお得感爆発。

360_2金太楼寿司は関東近郊に17店舗を展開している大正13年創業の老舗。このサービス売店のすぐ近くに本店があるのだがコッチは普通の寿司屋の値段。
そのココを教えてくれた地元の知り合いから聞いた話では、山谷の人たちにも寿司を召し上がって頂こうというボランティア的な考えでこの値段がついているらしい。
ちなみに金太楼寿司のウェブサイトではこのサービス売店を紹介していない。

370_3さあ、いよいよ吉原に到着!
歩いて来ても、船で来ても、最終的には日本堤から下って吉原に入っていく。
下の写真で言えば右から左へ移動することを示す。

390_3現在ではココの交差点が吉原大門(おおもん)となっているが、実際にはもう少し奥まったところに大門はあった。
実際に蔵前からココまで歩いてみたけど、マァ、スタスタ歩いて30分ぐらいか?
大した距離ではない。
吉原に行く連中はその30分がどうしようもないぐらいワクワクだったんだろうね。
舞浜の駅からディズニーランドの入場口に向って歩くようなものか?
私だったら駅から中古レコードに向かう時だ。

400_4<つづく>