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2017年11月29日 (水)

魔界ソニック(犬神サアカス團&魔将軍チャッキー)~私のディープ浅草 <その2>

  
うぇい、うぇい、うぇい、うぇい、うぇい…『魔界ソニック』だぜ~!

10v魔将軍チャッキーの号令のもと、「魔界から来た」っぽいバンドが結集する一大イベントがこの『魔界ソニック』。
『魔界ソニック』なんていい名前だな。
略して「マカソニ」。
そうそう、あのグラタンに入ってるヤツ…アレは「マカロニ」!
え?じゃ、あの「♪イエスタデイ~」の…それは「マッカートニー」!
ナンチャッテ。

20_2このイベントは過去にも開催されている。
その復活を祝って魔将軍宛に「祝いオバケ」が贈られていた。

30v_2地獄の装束…出演バンドのロゴをあしらったオリジナルTシャツも大好評だった。

40会場は渋谷のDESEOとその地下のCLUB KINOTO。
「きのと」は「乙」だね。
十干十二支の話をしようと一旦書いたけど、ナンダカンダで長くなっちゃうので消した。
で、今日のレポートは、まずその「KERBEROSステージ」と名付けられたKINOTOから。

「うぇい、うぇい、うぇい、うぇい、うぇい…」
あ!その声は魔将軍チャッキー!
会場の後方に姿を現した。
主催者のチャッキーはこの日大忙し。
上と下で全バンドのMCをこなしたのだ。
「ネェ……あ、イケね!知ってる人に声かけちゃった!Marshallの人だ!」…と、すぐ横でメモを取っていたウチの家内にチャッキーが話しかける場面で笑いを取っておいて…
「地獄の底から犬神サアカス團の登場です!」

50イベントの後半で登場した犬神サアカス團。
この日のハイライトのひとつ。

60犬神凶子

70v犬神情次2号

180v_2犬神ジン

80v_2犬神明

100v撮影は私、犬神シゲ…なんだけど、会場はもうパンパンもいいところで、シゲ爺さんが撮影する場所がない。
モノスゴイ熱気!暑い!!
どげんかせんと!ということで、ステージ上手のPAの前に脚立を立ててその上に乗った。
ところがそこはエアコンの真横。
それだけの熱気を冷ますエアコンだけに、冷風がビュービュー当たって寒いのナンノ!
左半身はアツアツ、右半身はヒエヒエで、何のこたぁない「ひとり大勝軒」みたいになっちゃって…。
この仕事をしていると、時々こういう目に遭うんですよ。
すぐ前にいらっしゃった女性のお客さんが「もっと前で撮る時には遠慮なく声をかけてくださいね!」なんて言ってくれた。
うれしいね~。
その節はお世話になりました。
そうそう、敬遠されているのかとばかり思い込んでいた犬神ファン、つまり犬っ子さんたちから、最近ポロポロとお声をかけて頂くようになりました。
うれしいな~。

90_21曲目は「夕焼け」。
これもスゴイ曲ですナァ。
聴いてすぐに連想したのは黒澤明の『赤ひげ』の狂女のくだり。
加山雄三扮する見習い医師、保本が気を許した隙に狂女の簪(かんざし)でノドをズブりとやられそうになるシーン。
狂女を演じたのは香川京子。
この香川京子が可愛いったらありゃしない!清楚で可憐で、まるで小菊のよう。
「私は狂ってなんかいないんです…」と保本に身の上話を持ち掛ける。
大店(おおだな)のお嬢さんで、子供の頃、番頭にイタズラをされたという。
「このことをバラしたら殺してしまうよ。明日もまたおいで…と言われて私コワくて、コワくて…」
コレに抗するべく、やがてそのお嬢さんは番頭のノドを簪(かんざし)で突いて殺してしまったという。
そんな気の毒な身の上話を聞いているうちに…。
ドンドン高まる緊張感と恐怖感。
またウマいのが、この狂女がどうやってその番頭を殺した手順を事前に他の者に語らせて伏線を張ってるんだな~。
観てるこっちはナニが起こりそうかわかっているだけにハラハラ感がハンパじゃない。
黒澤監督はこのシークエンスを1回もカットを入れず、5分半の長回しで撮った。
普通、映画というものは数十秒の細かいカットを編集でつなげて作り上げる。
そうではなく、このシークエンスのように数分間カメラを回しっぱなしにして役者に演技をさせるとモノスゴイ緊張が生まれるのよ。
しかし、役者の方はタマったものではない。
5分半って長いよ~。
チョットでもミスをしたらすべてやり直しだからね。
さて、あれほど愛らしかった少女は、気が触れだした途端、顔つきがガラリと変わる。
メイクをスッカリし直して、額には血管が浮き出、鋭いまなざしに黒澤明得意の手法である強烈なキャッチ・ライトが当てられる。
そこに佐藤勝の不気味なストリングスがかぶさる。
オオっと!

110vあぶなく全部書いてしまうところだった。
まだ『赤ひげ』をご覧になってない犬っこさん達のためでココで止めておこう。
ちなみに、『ロープ』という密室劇があるが、監督のアルフレッド・ヒッチコックはその作品を全編ワンカットで撮影した。
つまり史上初の1回もカットがない長編映画となるハズだったが、どうしてもフィルムを入れ替えざるを得ず、その間だけカットした格好となってしまった。

Rb女性が日本髪を飾る道具として、簪、笄、櫛などがあるが、この真ん中のヤツ読める?
竹かんむりに鳥居みたいなヤツ。
「笄」は「こうがい」と読む。
髪の毛をまとめる道具。
下の写真の左のヤツね。
この棒にクルリと髪を巻き付ける。
棒の両端に飾りを付けてファッション度をアップさせたりするワケ。
右は櫛。コレはおなじみ。
Kk簪もおなじみだろう。

Kzこの曲ではレンガが凶器になっているが、上に書いたように『赤ひげ』では「必殺仕事人」と同じく簪を用いた。
実際、簪は女性の護身ツールのひとつだったらしい。
  
ところで、護身といえば、江戸時代は電気はおろかガスもなかったので、提灯なくしては男でも夜間の外出は大変危険だった。
その危険な理由は辻強盗や追いはぎの類だけではなかった。
何だと思う?
犬だって。
狂暴な野良犬が多かったのだそうだ。それで時代劇なんかには出て来ないけど、町の重要なポイントにゲートを作って犬が自由に行き来できないようにしてあったらしい。
そんな物騒な環境だったので、夜間の女性のひとり歩きなどとても出来なかったらしい。
 
もうひとつ江戸の町でコワかったものに「鳥さし」というのがいた。
コレは鷹匠(たかじょう)に売るエサを取るために、先っちょに強力な餅がついた棒を持っていて、ココぞとばかりにそれを振り回す。
うまくいけばよいが、手先が狂うことがあって往来の人のアタマに餅がくっついちゃったりする。
そうなったら大変。
餅は簡単に取れないので、処理が大変だったそうだ。
そういう意味でこの「鳥さし」というのが恐れられていた。
でも、ちゃんと生活の知恵というモノがあって、この餅はからしの粉を付けると取ることができたらしい。
ああ、「鳥さし」食べたいナァ。
鳥インフルエンザ以降、生のササミが食べられなくなっちゃったからね。
湯がいて食うのと刺身とではゼンゼン違うから。
    
凶子姉さんのあいさつに続いて「一ツ目小僧」。
私は知らなかったが、コレも悲惨な話だよね~。
「人柱」なんかもそうだけど、この「生贄」の風習ってのは実に恐ろしい。

120続けて「虚像の誓い」。
150「楽しい時間はアッという間に過ぎてしまいます。あと2曲です!」
「エ~!」
確かにアッという間に過ぎて「エ~!」なんだけど、例の冷風にさらされた右半身が寒すぎる!
内心あと2曲で「た、助かった~」感はありましたな、今回は。
コレがフルレングスのコンサートだったら凍死して、犬神さんの新曲のネタになっちゃうところだった。
さて、曲はこの時まだリリースされていなかった『新宿ゴーゴー』から。
Cdリード・チューンの「暗黒礼賛論訓ロール」をブチかます!

140犬神さんのこういう歌謡曲と70年代ハードロックが溶け込んだようなサウンドは実にいいよね。
ハッキリ言って究極のハイブリッドだよ。
「ハイブリッド」とは「いいものといいものを合体させる」という意味だ。

160_2曲もさることながら、4人のキャラクターが存分に活かされているところもいいんだよね。
曲がいいからそうなるんだけどね。

170v_2しかし、皆さん何やら楽しそうに演奏してますナァ。

130_2やっぱりフェスは楽しいのね?

190v_2このひと月後には、犬神サアカス團主催のコピーバンド・コンテスト、『犬フェス』が開催された。
そのときのもようも近々レポートするのでお楽しみに!

200v「まだまだいくぞ~!」
最後の曲なのに…。
「赤い蛇」で大騒ぎして出番を終了した。
もっと見たいね。
  
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒公式家頁

210_2うぇい、うぇい、うぇい、うぇい、うぇい…『魔界ソニック』も大詰め!

220_2DESEOの「BLACK DRAGONステージ」で総合トリを演じたのは魔将軍チャッキー率いるUNITED MONSTERS!

230v_3このイベント、午後1時30分に始まって、今午後9時40分だからね。
もうかれこれ8時間!

240そんな大長尺のイベントにもかかわらず、疲れを一切見せずにパワー全開で出番に臨んだところなんざさすが魔将軍!

250_2このチームはバンドはなし。
バッキング・トラックに合わせて魔将軍が歌い、モンスターたちが舞い狂う!
コレが尋常でないパワーなのだ!

260_2魔将軍チャッキーならではの独特の世界観を徹底的にまき散らしてこの大イベントは幕を下ろしたのであった。

270v魔将軍チャッキーの詳しい情報はコチラ⇒UNITED MONSTERS Official Website

280_2  
さてさて、犬神サアカス團の「女火箸殺人地獄」に触発されて前回からスタートした「私のディープ浅草」シリーズ、今日はいよいよ吉原に足を踏み入れることにする。
興味のない人はココでサヨナラ。
興味をお持ちの方は、下で切り離して前回の分と合わせて保存していつでも読めるようにしておいてくださいな。

 
--------------------------きりとりせん------------------------


そもそもナンだって急に吉原の話題が出て来たのかというと、前回登場した「小口末吉事件」の主人公のひとり、矢作ヨネが大正時代の吉原に勤めに出ていたということに端を発している。
コレをお読みの方は「吉原(よしわら)」という所がどういう類の所かを恐らくはご存知であろう。
東京にお住まいでない方の中にはピンと来ない方も多くいらっしゃるかも知れないが、「吉原」は江戸時代に始まり、戦後の赤線地帯を経て昭和33年に廃止された日本最大の遊郭があったエリアだ。
私は年がら年中吉原に通っていましてね…なんていうとビックリされるかもしれないが、そちら方面自体には興味はない。
理由は簡単。
吉原の先、南千住にほど近い、いわゆる「山谷(さんや)」エリアに伊藤広規さんに教えて頂いた素晴らしい飲み屋があって、そこに行くには吉原エリアを突っ切って通って行く最も便利で早いのだ。
大分以前、はじめのうちは世界にふたつとないと思われる一種異様な光景にビビったものだが、近辺で最も安いガソリンスタンドがそばにあることも手伝って、今ではもうスッカリ慣れっこになってしまった。
そして、「小口末吉事件」のことを調べているうち、樋口一葉との関わりや、遊郭の歴史やしきたり等、イモづる式に興味をそそる話が出て来て、そのいつも通過しているエリアが巨大な好奇心の塊に変化してしまったというワケ。
言い換えればココには「江戸の粋」が詰まっていたということがわかったのだ。
そんなことを知ったらもう止まらない。
吉原に関する本を数冊買い込んで、カメラ片手に連日現場に赴いた。
調べれば調べるほど、次から次へと知らないことが出て来るので、現場に行くことを繰り返す必要があったのだ。
結果、今回のシリーズを書くために、この地域内の路地のほとんどすべてを自転車で走破することとなった。
さらに記事の構想を練っているウチに、吉原と私がこの世で一番好きなミュージシャンとの間にも縁があったことを思い出した。
それと落語だよね。
江戸落語には吉原が欠かせない。
…とはいっても、Marshall Blogは遊郭に関するブログではないので、キッカケとなった犬神さんのレポートの回に便乗して自分の気になった、あるいは興味のあることだけを付録的に記していきたいと思う。
では、はじまりはじまり~。
  
コレは台東区の日本堤にある「吉原大門」という交差点。
これで「よしわらおおもん」と読む。
落語ファンならよくご存じだろう。「明烏」のサゲに出て来ますな。
「だいもん」と読むのは浜松町。
ところが、このエリアには正式に「吉原」と名の付いている場所はないのね。
現在の地籍は「台東区千束4丁目付近」ということになる。

290まずはじめにナゼ「吉原」なるものが形成されたのか…。
背景を調べてみると、ソレ系の仕事は「人類最古の職業」と言われている通りで古くから「傾城屋(けいせいや)」と呼ばれる遊女屋が全国に点在していた。
江戸で言えば麹町、鎌倉河岸(今の神田)、京橋等、今となっては考えられない場所がそれに当たる。
「傾城」というのは「絶世の美女」という意味で、君主が絶世の美女に入れ上げ、国が傾いてしまうということに由来している。
さて、吉原…。
1603年に徳川家康が征夷大将軍になり、江戸城の建設が始まると、武士、職人、人足等が江戸に集中し、町はヤロウだらけになってしまった。
ヤダね~、そんな町は!考えただけでゾッとするわい。
そうなると当然、需要と供給のバランスを取るべく、西方からソレ系の女性が江戸に多くなだれ込み、傾城屋は空前絶後の大活況を呈した。
傾城屋たちは徒党を組んで公認の遊女町の建設を幕府に申し入れるが、却下される。
取りあえず問題が起こっていないのでヤ~ダよ、というのが却下の理由だった。
その後1617年、はじめの方にチラっと登場した庄司甚内が幕府公認の遊女町の利点を幕府に説くと、今度はコレを許可。
なんでやねん?
甚内は幕府のお目付けの下に運営される「公認の遊女町」の利点を一体どう説いたのか…。
それはこういうことである。
やはりその手の世界だけあって既存の傾城屋には悪質なモノも多かった。
例えば、客を遊女に夢中にさせて莫大な請求額に膨れ上がるまで放置しておき、強引に取り立てをする。客の方はといえば奉公をサボり、金を工面するために強盗や横領を働いてしまう。
つまり世の中が物騒になる。サラ金みたいなもんですな。
また、若い女性を誘拐してきて見世(店)で酷使する。
コレはヒドイ。
加えて、悪人は明かりに群がる夏の夜の虫のように、そうした場所に出入りすることが必定であろうから、犯罪者の取り締まりにも大変便利である…といったことを主張したのだった。
幕府としては、猛烈な速さで増え続ける人口から、コレを江戸の治安を維持するためのひとつの得策と考えたようだ。
かくして政府公認の遊女町が建設されることになったのだが、吉原は最初から現在の場所にあったワケではなく、オリジナルは人形町(現中央区)に作られた。
…というので、私も早速人形町へと飛んだ。
 
ココが人形町の交差点。
450年前、この辺りには葭(よし)や茅(かや)が生い茂る湿地帯だった。
近所に「茅場町」という地名が残っていることからもその様子がうかがえる。
「葭が生い茂る原っぱ」ということで、「葭」を縁起の良い「吉」に換えて「吉原」と名付けた。
一方、「葦(あし)」が群生していて「葦原」としたが、「葦」は「悪し」に通じるため「吉原」にしたという説もあるようだ。
そんな話を聞くと、毎朝毎晩、往復延べ5,000回以上自転車で通り過ぎたこのあたりが、長い歴史を培ったステキな光景に見えて来るから不思議だ。
…と言ってもそういったことを示唆する古いモノは何にもありはしないんだけどね。

10_3この辺りから写真の左側に広がる堀留町の辺りまでのエリアがそれに該当したらしい。
ココがね~。
この黒っぽいビルの地下の店でプロコル・ハルムの現ギタリストと夜中の2時ぐらいまで飲んだことあるわ。

20_3人形町の交差点にほど近いところにある「末廣神社」。

30_3幟(のぼり)に「元葭原総鎮守」と入っている。
人形町のオリジナルの吉原が「元吉原」。
それに対し、現在の吉原は「新吉原」ということになっている。

40vこの神社は吉原がココにあった当時、地主神(地主の神:その土地の神様)として信仰を集めていたというのだ。
つまり元吉原がココに存在していたという証左だ。
70_3今ではこんなにビルの間というロケーションだよ。
ディズニーの絵本にもあった「小さな家」みたいだね。

80v玉垣に目をやると…
「日山」というのはこの近くにある老舗の肉屋。
「芳味亭」は有名な洋食屋。
今半はおなじみの「人形町今半」。
「浅草今半」とは別。

50_3反対側の親柱には「新田新作」という名前が入っている。
字面は「新」だけど、何だか古いマンガに出て来そうな名前だ。
この方は明治37年生まれの実業家だそうだ。ウチの父方のバアさんと同じ生年だな。
17歳で上京して、終戦直後に裸一貫から「新田建設」を興して成功した。
戦災で焼失した明治座の復興に尽力し、明治座の社長に就任。
また、スポーツの復興にも務め、元関脇の力道山を引き取ってアメリカで1年間修業をさせたのだそうだ。
その後のプロレスブームの立役者となったとさ。

60v元吉原の周囲にはエリアを他と区別するための堀が四方にめぐらされていた。
もちろん遊女の逃亡を防ぐ目的もあったし、不審者を取り締まるのにも都合がよかったのだ。
また、元吉原は昼間しか営業していなかったのだそうだ。
下の写真もその堀の中にあったエリア。
元吉原ができた頃は、周囲に住む人がいなかったが、江戸の人口が爆発的に増えるにしたがい、人形町に辺りにも人家が建ち始め、幕府が治安の悪化を心配していた矢先に起こったのが1657年の「明暦の大火」。
江戸の大半を焼き尽くした、いわゆる「振袖火事」だ。
この大火事をキッカケに元吉原が移転した…とされているが、実はそうではなく、幕府はそれより先に吉原の移転を決定していたのだそうだ。
こうして元吉原は約40年という短い歴史を閉じた。

100_5久しぶりに自転車で人形町に来たので少し、寄り道脱線しましょかね。

110v人形町というのは吉原が引っ越した後も花街として大層栄えた。
昔は観劇と寄席しか娯楽がなかったので、この案内板にあるように、こうした芝居小屋が立ち並んでいたエリアは今から想像できないほどに賑やかだったのだ。
死んだ先代の円楽が寄席の復興を願って「若竹」という寄席を開いたのもここ人形町だった。

120_3甘酒横丁を突っ切った清洲橋通り沿いに「明治座」がある。
この通りを入ってしばらく行った左側に「久助」という焼き鳥屋があって、昼に出す「鳥もも重」が絶品だ。
付属の味噌汁の具がとろろ昆布なのもうれしい。
鯛焼きの「柳屋」も有名。

90_3「鬼平犯科帳」にも出て来る親子丼の「玉ひで」。
とうとう一回も入らなかったナ。

130_3その並びにある「小春軒」は好きだった。
揚げ物がメッチャおいしい洋食店。

140_2さすがに450年も経っていると元吉原の面影などナニひとつ町中に見い出すことはできないが、それでも空襲で焼け残った古い建造物が散見される。

150ココなんか蔵があっていい感じ。
となりのきしめんやは時々食べに行ったな。
私にはチョットおつゆがしょっぱいんだけどね。

160このピンク色の看板建築(後出)の建物もいい感じだ。

170ココは人形町の今半がある通り。
この辺りも元吉原エリア。

310_2今は「やきとん屋」になっちゃっているけど、以前は趣のあるうなぎ屋だった。

340_2コレなんかスゴイよね。
歯医者さんだよ。
今はもうやってないのかな?

320_2チョコチョコと残っているのが「銅板建築」の木造家屋。
コレらが実にいい。

350v_2こうした銅板で包んだ木材を使用した建物は戦前に建てられたモノ…つまり空襲の焼け残りだ。

360_2そして、こういう四角い正面のルックスの建築物を「看板建築」というのだそうだ。

370_2この辺りは実にいい具合に銅板建築を残しているんだよね。
「いい具合」というのは、銅板の部分をそのままにして、周りの箇所を改装しているということね。

380ただ今「銅板建築」で脱線中。
こうした建物は気にしながら街を見て回るとチョコチョコとあるものなのね。
下は下谷神社の周囲。
この辺りには件(くだん)がいたのか、空襲の被害から逃れた家屋が比較的多かったようだ。(「件」についてはコチラをご参照あれ)

450_2ココはどういうワケか1軒とびに銅板になっている。

500_2このお宅なんかスゴイよね。
メッチャかっこいい。

510こうした銅板を用いた建物は昭和3年に作られたモノが圧倒的に多いのだそうだ。
ナゼ銅で外壁を覆っているのかというと、察しの良い方はすぐにお分かりのことと思うが、火災対策だ。
大正12年(1923年)の関東大震災の教訓を得て、木と土と紙でできた日本家屋を火災から守ろうと不燃材である銅板を外壁に貼りめぐらしたというワケ。

520_2でも、そこは日本人のやること…ただ銅の板を張り付ける作業では終わらない。
手先の器用さを活かした地味な芸術性を忘れていないところが素晴らしい。
このお宅の細部に目をやると…

530施工箇所に合わせて様々な飾りが施されている。

540ココだけで3パターンが採用されているもんね。
おしゃれ~!

550_2戸袋には亀甲模様をつけることが多かったようだ。

560コレらの装飾はこういう銅を扱う店が請け負っていたのかしら?
ところで、皆さんもよくご存知の通り、「赤銅色」なんて表現があるぐらいで、銅ってのは元々赤っぽい色をしているでしょ?
つまり、こうした緑青が吹きまくっている緑色の壁面も80年前には赤銅色だったハズ。

390vこんな感じ?

400町中がこの色だったんだからステキだったろうな~。
昼間は太陽に照らされてそれこそ赤銅色に輝き…

410夜は街頭や屋内灯をロマンチックに反射する。

430この吾妻橋のたもとにある飲食店は、竣工してからまだ1年経ったか経ってない位だが、壁面をよく見るともうすでに茶色い斑点が浮き出ている。
コレ、このままの状態をキープするのは不可能なんだね。
そして、数十年の時を経て緑色に変身するワケだ。

440v神保町エリアにも銅板建築が残っているというので、某出版社にお邪魔した際、少し周囲を見て回ると、なるほど靖国通りからチョット入ったところにすぐ見つかった。

2img_5250我々が子供の頃は、「緑青」と呼ばれる銅が酸化して発生するこの緑色の錆が猛毒であることを教わった。
しかし、現在ではさほど毒性が強くないということが判明しているそうだ。
銅板はこうして緑青を蓄えることによって内部の腐食を防止しているのだそうだ。
ルックスもいいし、コレがホントの「ワビサビ」の世界?

2img_5252こうして街を見て回るとおもしろいものがイッパイありますナァ。
コレなんか看板建築の一種なんだろうけど、アールデコ風でもあり、和風でもあり…。

470v上野の池之端にある「上田邸」と呼ばれる建造物。
かつては旅館だったそう。
建てられたのは昭和4年のことで、当時は洋館が珍しく、見学者が後を絶たなかったそうだ。
この並びに森鴎外が「舞姫」を執筆したという「水月ホテル」という宿がある。
480vコレは神保町の古い建物。
こうしたタイルを外装に使った建物は終戦直後ぐらいに作られているものが多いようだ。

2img_5253さて、いよいよここからが本題。
今の吉原に話題を移す。
  
元吉原からの引っ越しが決まった時、移転先には2つの候補があったという。
ひとつはこの日本堤(にほんづつみ)。
もうひとつは現墨田区の本所のあたりだった。
本所は隅田川を渡らねばならず、当時は今のように橋がいくつもかかっていなかったため(その昔は千住大橋だけだった)不便極まりないことより日本堤が選ばれた。
もちろん、この辺りも当時は何もないただの原っぱだった。
太平洋戦争の前までは東洋一の歓楽街だった浅草も、江戸末期まではただの田圃だった。
290実は「吉原」という地籍は台東区にはない。
先述の通り、吉原があるのは「台東区千束4丁目」と「3丁目」だ。
googleの地図だと、下の赤く囲った部分。
今でも碁盤の目のような規則正しく通りが走っている。
コレで面積は20,700坪。
得意の東京ドームでいうと、約1.5個分。
最盛期には1万人ほどの人間がココに暮らしていたという。
色々な計算法や説があるようだが、アータ、当時の江戸の人口たるやせいぜい50万人だったというから、この1万人という数字は尋常ではない。
それだけ賑わっていたというワケ。

300_2コレは前回紹介した「樋口一葉記念館」から拝借した明治時代の地図。
こっちの方がわかりやすい。
青く囲ってあるのが吉原。
ナニがわかりやすいのかと言うと、周囲に比べて町の向きが斜めになってるでしょう?
コレは、遊女やお客さんが北枕にならないように配慮して、最初からこういうレイアウトにしたのだという。
実はコレは元吉原から引き継いでいる。
このエリアを江戸町一&二丁目、京町一&二丁目、角町といった区画に分けた。
コレも元吉原譲りだったが、その他に「揚屋(あげや)」と呼ばれる遊女と客の仲介業者を集めたその名も「揚屋町」というエリアを新設した。
おっそろしく整然とした区画整理がなされていたのだ。

P今回はココまで。
次回はドップリと吉原の世界に入り込むことにする。