【追悼】PANTAさんのこと
先週の金曜日の晩、PANTAさんの訃報に接して大変驚いた。
6月に夕刊フジのイベントに出演され、体調を取り戻されたのかとばかり思っていたので、その知らせは大きなショックだった。
ここ数年は疎遠になっていたものの、こと「ロック」に関してPANTAさんは私にとって特別な存在だった。
そんなPANTAさんを偲んでPANTAさんの思い出を綴って一筆執らせて頂く。
時折Marshall Blogで触れている通り、私は若い頃から観光地でも食べ物屋でも、大勢の人が群がるところがニガテで、エンターテインメントに関しても周囲の人たちが騒いでいるモノに興味を持つことは絶対と言っていいほどなかった。
要するに「アマノジャク」なのだが、私はいつでもマイナーなモノの味方だったし、その中にこそ純粋で優れたモノが潜んでいるという考えは今でも変わらない。
しかし、独占欲が強いのか、どんなに好きなモノでもそれが世間で知れ渡り、人が群がり出してメジャーになってしまうとスッカリ興味を失ってしまう。
「ロック」という音楽もまさにそうだった。
70年代中頃、まだ歌謡曲とロックの世界がハッキリと分かれていて、まだまだマイナーであった時代に私はロックを聴き始め、そして夢中になった。
その頃は「日本のロック」に全く興味がなく、100%洋楽しか聴いていなかった。
そんな高校1年生のある日、私の前に現れたのが現在も「三文役者」で活躍しているギタリスト、「ちぇり~」の愛称で知られる大竹亨さんだった。
この辺りのことは以前詳述しているので今記事では割愛するが、私は三文役者によって日本のロックに開眼した。
イヤ、大竹さんに『日本のロック』を教わったと言った方が適当か。
そして、三文役者を知るということは「PANTA」さんあるいは「頭脳警察」を知るということとイコールだった。
ナゼなら、三文役者のボーカルズの花之木哲さんがPANTAさんに歌詞を提供していたからだ。
大竹さんからPANTAさんや頭脳警察の話を聞き、SONYビルの下にあったハンターへ行って『ふざけるんじゃねえよ』を買った。
700円か800円だった。
聴いてビックリしたわ。
まだ「パンク」なんてのがない時代、「♪ふざけるんじゃねぇよ、殺られる前に殺るさ」なんて物騒な歌はそれまで聞いたことがなかったからね。
それもそのハズ、それまで聴いていたロックの歌詞は全て英語だったから。
今聴くと「前衛劇団モータープール」なんかはモロにザッパの「Brown Shoes Don't Make It」が下地になっていたりすることがよくわかるが、総じてそのサウンドはとても刺激的だった。 その直後だったような気がするが、当時のPANTAさんの最新アルバムだったPANTA & HALの『マラッカ』を買った。
プレグレッシブ・ロックやハードロックにドップリと浸かっていた私にはそのサウンドが少々アマアマに響いたが、どの曲も聴けば聴くほど味が出て来るとても魅力的なアルバムだった。
私は万に近い単位でレコ―ドやCDを買ってきたが、「一番回数多く聴いたアルバムは?」と問われたら何のためらいもなく「PANTA & HALの『マラッカ』」と答えておいて、「同じぐらいでザッパの『One Size Fits All』です」と付け加える。
ウチの母はこの鋤田正義さんが撮ったジャケットのPANTAさんを見て「パンダさんはハンサムだね~」と言っていたな。
「パンダじゃない、パ・ン・タ・」といくら教えても直ることはなかった。
大竹さんの口利きで、高校2年の頃より三文役者のお手伝いをさせて頂くようになった。
いわゆる「ボーヤ」だ。
当時、三文役者は月に1回のペースで渋谷屋根裏と新宿ロフトに出演していた。
ある時、PANTAさんが渋谷の屋根裏を訪れてくれて、そこで初めてホンモノにお会いした。
うれしかったネェ~。
下の写真は三文役者の写真を撮っていたサナさんから頂戴した。
43、44年前の写真。
サナさんは現在も三文役者のスタッフを務めていらっしゃって、元は熱心なPANTAさんファンだった。
今回SNSへの投稿で知ったのだが、サナさんがPANTAさんを初めて観たのはスージー・クアトロの前座で出演したソロの時の中野サンプラザだったという。
PANTAさんがスージー・クアトロの前座をされたというのは知らなかった!
PANTAさんは17、18歳の頃から「パンタ」と呼ばれ出したらしいが、この名前が大キライだったそうだ。
そのお名前の由来は、「昔パンタさんがパンタロンばかり履いていたから」…と、高校生の私に教えてくれたのもサナさんだった。
屋根裏の楽屋…知っている人は懐かしいでしょう?
ホールが4階で楽屋はそのひとつ上の階にあった。
ベランダに出ると目の前が西武デパートの裏の壁。
電話機のダイヤルに南京錠がかけられていて自由に使えないようになっていたのをよく覚えている。
当時はダイヤル式の電話が当たり前だったのよ。
(目かくしがないのは、左から大竹さん、私、哲さん、PANTAさん)
「スキスキ」と言っていながら、実は私はそれほどPANTAさんのステージを拝見する機会がなかった。
初めて観たのは新宿ロフトのPANTA & HALだった。
レンガ造りで上手側が高くなっていた昔のロフトね。
客席はギッチギチだった。
「最近もっともお客さんが集まるライブはPANTA &HALとRCサクセション」と屋根裏の人が言っていたのを覚えている。
このロフトの時のセットリストは『マラッカ』からの曲が中心で、「ネフードの風」がすごく印象に残っている。
「津軽海峡冬景色」風に「マラッカ」を演奏するサービスが差し込まれてしたりしてオモシロかったナ。
もうひとつ、よく覚えているのがアンコールの時のこと。
本編が終わってPANTAさんがステージに戻るとMCでこうおっしゃった。
「さっきどっかから『ネコ、ネコ』って声が聞こえて来てサ、はじめからアンコールを演るのがキマっているみたいでバツが悪いから、『ネコ』じゃなくて………『HALのテーマ』!」と曲を紹介して平井さんがあのファンク・ストラミングを弾き始めた。
まだ、「アンコール」が「アンコール」として機能していた時代よ。
それにしもこの「HALのテーマ」がカッコよかった!
こんなストラミングにブリティッシュ・ハード・ロック風のリフを重ねるなんて曲、世界的にも他にないんじゃないの?
そして、何やら聴いたことのない和音がゾロゾロと出て来た。
当時「HALのテーマ」は正式な音源でリリースされていなかったので、この時に初めて聴いたんだけどトリハダが出まくった。
ところで、この曲の「HAL」はバンドのことではなくて、『2001年宇宙の旅』に出て来るコンピュータ「HAL9000」のことなんだよね。
そして、「HAL」は「I・B・M」の3文字よりひとつ前のアルファベットを並べている…ということがつとに知られていて『マラッカ』のライナーノーツにもそう書かれているが、そうではなかった。
『2001年宇宙の旅』の原作者であるアーサー・クラークが自らこの説を否定している。
コレは余談。
そして、このロフトのライブの時、PANTA & HALが中野サンプラザでコンサートを開くことを発表して大きな歓声が送られた。
でも、上のサナさんのお話からいくと、PANTAさん時代は既にこの舞台に立たれていたんだネェ。
歴史を知るのはオモシロイなぁ。
とにかくみんなイスに座ってジ~ックリと音楽を聴いていた良い時代だったよ。 下はその時のPANTA & HALを観た新宿ロフトがあった場所…なのだが、もう街が変わっってしまってどこにあったのかが正確にはサッパリわからない。
あんなに何度も通ったのに! 1980年、アレは今で言う「レコ発ライブ」を控えていたのかな?
新しいアルバムは『1980X』。
渋谷の明治通り沿いに「ベガ・スタジオ」というプロ・バンド御用達のスタジオがあって、PANTA & HALも三文役者もココでリハーサルをしていた。
そこで哲さんからPANTAさんに口を利いて頂いて、リハーサルにお邪魔したことがあった。
緊張したよ~。
高校生の分際で私もよくも1人でノコノコと行ったもんだわ。
言っておきますけど、この時代、ライブハウスに通っている高校生なんてまずいなかったからね。
私は大竹さんのおかげでライブハウスに関しては早熟だった。
で、スタジオに入るなりPANTAさんが「キミ、三文役者を手伝っているんだってネェ」ととても気さくに話しかけてくださった。
スタジオの中にいらっしゃったのは、平井光一さん、浜田文夫さん、長尾行泰さん、そして中谷宏道さんからなるホンモノの『1980X』のレコーディング・メンバー。
「サ、サインしてください」と、当時発売されたばかりの『1980X』を差し出すと、PANTAさんはサササとジャケットにサインをしてくださり「毎度アリ!」とおっしゃった。
そして、「どの曲がヨカッタ?」と訊かれて、とっさに「ル、ル、ル、『ルイーズ』です」と答えてしまった。
コレにはチョット後悔した。
世界初の試験官ベビー、ルイーズ・ブラウンのファースト・ネームを冠したこの曲はシングル・カットもされて誰もが好むにキマっている曲だったから。
そうではなくて、「臨時ニュース」とか「Audi 80」とか「キック・ザ・シティ」とか通っぽい答えにすればヨカッタ。 コレがその「ルイーズ」と「ステファンの6つ子」をカップリングした両A面シングル。
周りの年上の皆さんがよく「ステファン、ステファン」と言っていたんだけど、その頃はまだ音源になっていなくて聴くことができなかった。
そして、このシングル盤で初めてこの曲を耳にすることができた。
名曲だよね~。
曲もいんだけど、コレも歌詞がすごくステキだと思うワケ…もっと丁寧に言うと、歌詞とメロディが奇跡的にうまく組み合わさっていると分析したいんですわ、私としては。
…というのは口に出して歌った時にすごく気持ちがいいのね。
もちろんそれに合った歌い手の声質と演奏も必要で、それらが完璧に組み合わさった時に「音楽の感動」というモノが生まれるワケですよ。
ビートルズの曲も同じ。
この日のリハーサル曲のひとつが「ナイフ」だった。
世にもカッコいいドラムスのイントロを文さんが叩き出すと、PANTAさんが「ホントにコレはすごいフレーズだよな~」と感心しておっしゃった。
それと、アルバムには入れたかった曲がもっとたくさんあって、30cmどころではなくて70cmぐらいのレコードにしたかった…ということをもお話しされていた。
CDが世に出て来る5年位前の話。
そうそう、思い出した…この時PANTAさんが話していたレコーディングの時のエピソード。
歌入れの時にミキシング・ルームの方に目をやるとディレクターの方が人差し指と親指で輪を作ってPANTAさんに見せた。
PANTAさんはナニを思ったか、その仕草を見て「ナニ、小銭を貸せってか?チッ、こっちは歌入れしている真っ最中だってのにナニ考えてんだ?オレだって100円ぐらいあるぞ(10円とおっしゃったかも知れない)」と、ポケットに手を入れて硬貨を探した。
そして、区切りのよいところでミキシング・ルームに行き、そのディレクターに小銭を渡すと怪訝そうなな顔をして「ナニこれ?」とPANTAさんに尋ねた。
PANTAさんが「だって小銭が要るんだろう?」と言うと、ディレクターが「そんなバカな!アレはOKって合図だったんだよ!」という話し。
みんなで大笑いした。
あと「トリック・スター」という言葉についても色々と語っていらっしゃったが、コレは私には理解できなかった。
このアルバムは両面が表ジャケットになっていて、便宜上裏面扱いされる面にはPANTAさんが単車に乗っている写真が採用された。
撮影はPANTAさんのジャケット写真をずっと撮られていた鋤田正義さん。 上に書いたようにPANTAさんは「パンタ」という名前がキライで、このアルバムを機に名前を変更しようとしていたらしい。
ところが、イタリアの単車メーカー「DUCATI(デュカティ)」が1979年に下のモデルをリリースした。
当時日本には2台しか入って来ておらず、そのウチの1台をこのジャケ写に適用した。
この単車のモデル名がナント「Pantah500」だった。
PANTAさんはコレでもう名前は変えられない…と思ったそうだ。 また、私は新宿ロフトで聴いた「HALのテーマ」がズット気になっていて、このリハーサルの時に平井さんにお願いしてコード進行を教えて頂いた。
持ち合わせのメモ用紙がなかったので、レコードを入れて行った石丸電気の紙袋の上部を破いて開き、テンション・コードの表記の仕方も意味も全くわからず、そこに平井さんが口にする「なんとかナインス」とか「なんとかサーティーンス」というコード名を書き連ねていった。
小節線も入れずにズラズラ書いて行ったので、それを見た平井さんが「そんなんでわかるの?」とビックリされていた。
ジャズをカジった今ならナンてことはないけど、この時は後で見てやっぱりわからなかったナ。
コード譜すら書けなかった頃の話…あのメモ、保存しておけばヨカッタなぁ。
平井さんは愛用のレスポールの裏面にキズが付くのを避けるために、ベルトのバックルをグイっと横にズラしていた。
コレがまたカッコよかった。
あの頃はギブソン、フェンダー、Marshallのニオイを嗅ぐことすらできない高級品だったからネェ。
それと、休憩の時に平井さんと長尾さんが1本のギターを2人で弾いて「裸にされた街」のイントロを奏でていらしたのも覚えている。
下が石丸電気レコード館の袋。
コレはビニールだが、昔は厚手の紙で作られていた。
ベガスタジオは喫煙OKで、中は凄いニオイだったっけナ。
当時のミュージシャンは「ハイライト」を吸っている人が多かった。
この黄色い袋の似顔絵はもちろん和田誠さんの仕事だけど、あの「ハイライト」のパッケージのデザインも和田さんなんだよね。 その後、80年代に入って時間が経過すると、猛烈なスピードでロックが普及し出し、ロック・ミュージシャンがより一般大衆に受け入れられやすい作品を発表するようになった。
いわゆる商業ロック時代の幕開けだ。
そんな時合の中、PANTAさんも「キッスは飽きない」という惹句を伴って『KISS』というアルバムをリリースした。
買ってはみたものの、残念ながらどうしても受け入れることができなかった。
私は同時に最早マイナーではなくなってしまったその時代のロックにも完全に興味を失い、急速にジャズに傾倒していった。
一方、家内はこのアルバムが好きで、友人を誘って中央大学の学祭に出演したPANTAさんを観に八王子まで足を延ばした。
ココだけの話、42年前に家内と初めて会った時、共通の2人の話題のひとつが「PANTAさん」と「頭脳警察」だった。
今でこそMarshall Blogのスクリプターを務めてもらっているが、家内は決してコアなロック・ファンではないので、私はその時、普通の若い(当時)女性がPANTAさんや頭脳警察を知っていることに大層驚いてしまった。
というのは、彼女の一番の親友が佐藤宜彦さんの大ファンだったから。
宜さんはPANTA& HALのオリジナル・メンバーだったので、その関係で「PANTA」や「頭脳警察」という名前を知っていたのだ。
だからPANTAさんは私ら夫婦の「恋のキューピッド」でもあったのだ。
それとコレとは話は別で、当然私も中大の学祭に誘われたが断った。『KISS』の裏ジャケ。
ハートだもん。
かつては「銃をとれ」とか「マルコムX」とか歌っていた人の作品とは思えなかった。
でもネ、コレを書きながら久しぶりにこのアルバムを聴いてみたけど…いいネェ。 でも、当時私がこのアルバムを受け入れることができなかった理由は、上に書いたように「頭脳警察のPANTAさん」が創った音楽が全く違う世界に行ってしまったからだった。
しからば私の認識していたPANTAさん、あるいは頭脳警察の音楽はどうだったのか?
私が高校の時は頭脳警察のファースト・アルバムとセカンド・アルバムを入手することが全く不可能だった。
そこでズッと年長の三文役者のPAを担当されていらした方にお願いしてファースト・アルバムをカセット・テープに録音して頂いた。
そして、聴いた。
「あ、あ、期末試験、中間試験、実地試験」に続いていきなり「♪ブルジョワジー諸君!われわれはァ~」でしょ?
「世界革命戦争宣言」ね…ビックリ仰天、「ナンじゃ、コリャ~!」だった。
あの頃はせいぜい「ノンポリ」なんていう言葉が残っていたぐらいで、70年代後半、学生運動はすでに皆無に等しかった。
しかし私は興味を持った。
完全に頭脳警察の影響である。
「興味があった」と言っても思想や活動では全くなく、大学進学を控えていた私とそう年齢の変わらない当時の若者が、ナゼああした活動にノメリ込んだのか?ということをモノスゴク不思議に思ったのだ。
「丸」だの「角」だの、思想については今でもサッパリわからないし、興味もない。
ちょうどその頃、角間隆さんというルポライターが書いた『赤い雪(読売新聞社刊)』という連合赤軍に関する本が上梓され夢中になって読んだ。
「オルグ」だとか「ブント」等の専門用語はこの本で知ったのだが、まぁ、この本にもかなりショックを受けたナァ。
「あさま山荘事件」が起こったのは私が小学校4年生の時(1972年)のことで、職人だった父が仕事にも行かず、朝から晩までテレビにカジりついて事件の行方を追っていたことが強く記憶に残っているものの、事件の背景は全く知らなかった。
あのどデカイ鉄球が出て来た時には興奮しちゃっても~大変だった。
そして、あさま山荘に立てこもる前の凄惨な仲間内のリンチ殺人事件。
自分と年のそう変わらない、もしくは年下の若者同士が「総括」という名の下で毎夜殺し合い、12人もの犠牲者を出したんだぞ。
「時代がアクティブだった」と言えば聞こえはよいが、色々と危険なことが起きる時代ではあった。
でも今、この国をこんな状態にしてしまった政府に対し、ナニも行動を起こさない国民の方がむしろ危険なのではないか?
PANTAさんがもっと若かったら一体どんな歌を作ってくれていたことだろう。
そうして、連合赤軍の事件に興味を持った17歳の私は親友の安藤くんを誘い、東京地裁で開かれた永田洋子の初公判を聞きに行った。
6時起き。
傍聴希望者が多く、抽選となることがわかっていたので一番乗りをすれば幾分有利かと思ったのだ。
もくろみ通り一番乗りで行列に並んだ。
下の写真は現在東京地裁が入っている合同庁舎。
私が行った時、地裁は日比谷公園に隣接していて公園内で列を作ったように記憶している。
時代的に公判の内容にそぐわない若者が列の先頭で並んでいるのを見つけた読売新聞の記者から取材を受けた。
「学生運動が存在しない現在、アナタ方のような若者がナゼ赤軍派に興味を持っているのか?」という質問だった。
その問いに…「大好きな頭脳警察の影響です。知ってますか?…頭脳警察。
PANTAとTOSHIという人がやっていたロックバンドなんです。
そこら辺の普通のバンドとはゼンゼン違うんです。
彼らの歌を聴いて、日本赤軍を知り、自分と同じぐらいの年齢の若者がナゼああした事件を引き起こしたかについて興味があるんです」と元気に返答をした。
テレビで放映されることはなかったと思う。
フト気がつくとその時、私たちのすぐ後ろにいた「裁判マニア」みたいなオッサンがジリジリと我々より前に出て来て、時間になると一番にクジを引きやがった。
野郎、慣れていたんだナァ。
そのオッサンは見事当たりクジを引き、周囲の人に深々と頭を下げて「ありがとうございます!おかげさまで当たりました!」と大きな声で挨拶したのには呆れ返ってしまった。
一方、我々は2人とも見事にハズレ!
仕方なしに我々は社会勉強のために他の公判を聞きに行った。
傍聴席に座って、被告も出廷していないダラけきった公判を聞いていると、岩下志麻が入ってきて私の隣に座った。
おそらく野村芳太郎の『疑惑』の弁護士役を演じるための勉強だったのであろう。
裁判マニアのオッサンのおかげで、結果ラッキーな1日になった。
それで満足したのか急速に私の学生運動への興味は失せた。
ところで、日本赤軍の最高幹部だった重信房子は明治大学の先輩で、私が大学に入った1981年頃は和泉校舎(明大前)の校門付近にあの独特な文字で書かれた檄文のパネルがたくさん掲げられていた。
時間が経ってもそんなところに重信房子臭を感じたことを覚えている。 上に書いた通り、洋楽一辺倒だった私が日本のロックを聴かなかった理由のひとつが「歌詞」だった。
「英語か?日本語か?」なんて歌詞についての論争をよくやっていた時代よ。
その点、PANTAさんの作品は、曲の魅力もさることながら、歌詞がすごく魅力的だった。
簡単に言って、PANTAさんと三文役者の曲は詞を聴いていて全く恥ずかしくなかったのだ。
あの頃のことを考えると、今、どんなタイプの音楽でも平気で日本語で歌っていることに驚きを禁じ得ない。
コレはすごい進化だとは思うが、一方ではそれが日本のロックをガラパゴス化してしまっていることは大きな皮肉といえまいか?
PANTAさんの曲には「アラビアン・ミディ」とか「レディ・シュライヤー」とか、他の歌には絶対に出て来そうにない言葉が出て来るでしょ?
コレがカッコよかった。
それと「ルイーズ」ではフランス語を、「フローライン」ではドイツ語を導入したりもしたのも新鮮だった。
加えて凄まじいまでのロマンチシズム。
「♪夜が疲れかけた時 鳥が夢をさがす時 銀のペンをイマージュに突き刺す
星が溢れすぎた街 時がこわれそうな街 それを今のテーマと見なそう」
どうよ!
コレは下の頭脳警察の4枚目『誕生』に収録されている「詩人の末路」という曲。
こんなこと誰が詠えるよ?
そういえば、「あなたの心の中に黒く色どられていない処があったらすぐ電話をして下さい」という曲もモロにザッパの「Brown Shoes Don't Make It」ですな。うれしいです。
それと「まるでランボー」。
「♪みっともないオレはまるでランボー…架空のオレはまるでシェイクスピア…」と、詩人、作家、画家、音楽家、女性の名前を列挙したことば遊びの1曲。
「アンヌ・ド・ブリュタール」なんて今でも誰だか知らんわ。
このアルバムの「ハイエナ」のPANTAさんの歌い方もメチャクチャかっこよかった。 そして、『悪たれ小僧』!
日本のロックの名盤中の名盤。
オープナーの「戦慄のプレリュード」から「あばよ東京」まで全ての曲がハイライト。
大竹さんがよくインストの「『真夜中のマリア』は名曲だ!と言っていたっけ。
私は「戦慄プレリュード」と「落ち葉のささやき」がすごく好きだった。
「サラブレッド」も「スホーイ」も「夜明けまで離さない」も好き…やっぱり全曲大好き! このアルバムでベースを弾いていらっしゃるのが、石井正夫さん。
私が大学1~2年の時、三文役者に迎えて頂き2年間正夫さんとご一緒させて頂いた。
2度ほど関西方面にツアーもした。
コレは8年前に哲さんのご厚意で三文役者のステージに呼んで頂いた時の写真。
20年ぶりに人前でギターを弾いたけど、緊張してメッタメタだったけど最高に楽しかった。
三文役者時代、私はいつも下手で正夫さんの隣だった。 更にこの時ステージに飛び入りしてくださったのが勝呂和夫さん。
『悪たれ小僧』でギターを弾いていらっしゃる方だ。
この時は本当にうれしかったナ~。
何しろ『悪たれ小僧』が好きだったから! こんな出会いを作ってくれた大竹さんには心の底から感謝している。 頭脳警察の後のPANTAさん。
ソロ第1作の『PANTAX'S WORLD』もよく聴いた。
「♪光の壁をすり抜けて オレはキミになる」か…なんてカッコいいんだろう!
哲さんは確かこのアルバムの「三文役者」と「EXCUSE YOU」の詞を書いていらっしゃるハズ。
先のサナさんによれば、スージー・クアトロの前座の時のPANTAさんのステージは「三文役者」でスタートしたらしい。
誰がバックを務めたんだろう?
観たかったナァ~。
どうして「ろくでなし野郎」が「赤い羽根」なのか、ナゼ「ギタリスト」が「ミシンを担いで」いるのか今もってわからないけど、瀧口修造もビックリの「言葉のミックスサラダ」ぶりがスゴイ「マーラーズ・パーラー」も大好きだった。
先述したロフトの時、歌い終わったPANTAさんが「ヨカッタ…今日は歌詞を間違えずに歌えた」とおっしゃった。
「やっぱり大変なんだナ…」と思ったわ。
ウチには今剛さんがHALに在籍していた時代のLo-Dプラザで録音したこの曲のライブ音源があるんだけど、信じられないぐらい今さんのギターがスゴイぜ。
他に「マラッカ」と「ロックもどき」と「HALのテーマ」を演奏しているんだけど、どれも素晴らしい。私の生涯の宝物。 1977年の『走れ熱いなら』は山岸潤史さんやジョニー吉長さんと組んだ快作で、哲さんは「ガラスの都会」や今でも三文役者で演奏している「あやつり人形」の他、「走れ熱いなら」や「追憶のスーパースター」の歌詞を提供していて、はじめの3曲は三文役者でもよく演奏していた。
高校の時に三文役者のコピーバンドをしていた私は島村楽器さんでのEAST WESTの予選で「ガラスの都会」を演奏したがあった。
このアルバム、ミュージック・マガジンで中村とうようさんがレコード評を寄せている。
少々長めに転用させて頂くと…
「日本語でロックを歌えるシンガーのひとりとして、ぼくはパンタを買っている。(中略)ソングライターであることと歌手であることがみごとに一体化していて、トータルに彼独自の演劇性をウタ(ママ)に構築している点でパンタは日本では非常に貴重な存在だ。むこうでドラマ性をもったロックのシンガー・ソングライターといえばデヴィッド・ボウイやルー・リードになるのかもしれないが、ボウイやリードの押しつけがましいヨーロッパ近代個人主義的意識がないだけ、パンタの方が偉大だと思っている(ミュージック・マガジン4月増刊号『中村とうよう 今月のレコード』より)
勝った…PANTAさんはデヴィッド・ボウイやルー・リードに勝っていたのだ!
とうよう先生は他の機会でもPANTAさんの作曲能力をすごく高く評価されていた。
そして、2枚組のライブ・アルバム『TOKYO NIGHT LIGHT』。
このアルバムに参加しているキーボーズの石田徹さんは一時期三文役者に在籍されていて、フェンダー・ローズ・ピアノを使われていた。
2階のキャバレーを通過して屋根裏がある4階までローズを持って上がるのがメチャクチャ大変だった。
あのビルにはエレベーターがなかったんだよね。
ロフトもそうだったけど、アソコは地下1階だったからまだマシだった。
今ではとてもできんわ!
このアルバムの音源が収録されたコンサートには行かなかったが、コレより前、前述した新宿ロフトで発表した時の中野サンプラザは観に行った。
メンバー紹介の時に「文ちゃん!」という掛け声がかかると、文さんがスネア・ドラムとバス・ドラムで「♪ダカドン!」とその声援に応えたのを覚えている。
後年、あの時のヤマハのドラム・キットは有名な海外のドラマーが使ったいたものだったと文さんからお聞きした。
比較的ジックリ聴かせるコンサートで、確かアンコールの「マーラーズ・パーラー」でドッカ~ンと盛り上がったような気がする。
それと上掲した『誕生』の「やけっぱちのルンバ」を演ってオールド・ファンを驚かせたんじゃなかったかな?
帰りに哲さんたちに「陸蒸気」という居酒屋に連れて行ってもらってごちそうになった(「陸蒸気」は今でもあるね)。
ロフトで一度PANTAさんが三文役者のステージに飛び入りで歌ってくれたことがあった。
ナニを演るかということになって、PANTAさんのご提案で「キャデラック」というブルースを演ることに決まった。
私の前でPANTAさんが「♪ウォウウォウウォウウォウ キャデラック!」と歌ってくれているのが信じられないぐらいうれしかった。
私はその後大学3年の時に三文役者から離れると同時にロックからも離れ、大学に戻ってジャズのオーケストラに加入し、就職して、結婚して、そして転職して楽器業界に入った。
2001年、厚生年金での『ROCK LEGENDS』という四人囃子とのダブルヘッドライナーで頭脳警察のPANTAさんを観た。
楽屋にもお邪魔したが、この時は岡井大二さんと廊下のイスに座っておしゃべりをしていたことしか覚えていないんだよナァ。
今ではお仕事を通じて大二さんと気安くさせて頂いているが、この時はすごく緊張した…だから他に何も覚えていないのかも。 その次にお会いしたのは2003年4月、日比谷野音でのことだった。
『NO WAR WORLD PEACE NOW CONCERT ~イラクの子供たちに医療援助を~』というイラクの子供たちの医療援助を目的としたチャリティ・イベントだった。
確かMarshallでサポートしたように記憶している。
朝から雨が降る4月とは思えないとても寒い日で、イラク戦争も終わっていて少々タイミングが悪く、お客さんの入りも大変に寂しかった。
後に「浅草ジンタ」と名前を変える「百怪の行列!」とVELVET PAWというチームがア・カペラので演った「歴史から飛び出せ」が印象に残った。
それからまた大分時間が経って…2008年1月。
Zappa Plays Zappaの横浜BLITZの公演の時の話。
コレには本当に驚いたよ。
上演中だったのだが。私は尿意をもよおしギリギリまでガマンしてトイレに駆け込んだ。
するとトイレの中に男性が1人いた。
その男性に目をやると…ナントPANTAさんだったのだ!
PANTAさんは私の顔をご覧になって「おお!ナンダ!こんなところでナニやってんの?」って、用件はキマってるでしょ!
用を済ませてから「『Uncle Meat』の曲は演りませんね~」なんて話をした。
『Uncle Meat』がPANTAさんのお気に入りのザッパのアルバムであることを知っていたからだ。 いつのことだったか、またナンの野音のイベントの時だったかは覚えていないが、音楽評論家の大野祥之さんが「Marshallのスタッフ」ということで、ご親切に野音にいらしていたPANTAさんに私をご紹介頂いたことがあった。
大野さんに連れられた私を見るなりPANTAさんは「ナンだ、牛澤じゃん。昔から知ってるよ!」とおっしゃった。
いつも呼び捨てなの…それがまたうれしいの。
私はこの「昔から知ってる」というPANTAさんのお言葉がすごくうれしかったのです。
「今度Marshallの壁を作ってくれよな!」なんておっしゃっていたこともあったけど、ついに実現しなかった。
ザッパつながりで…2011年の2月のイベントにご登場されたPANTAさんをキャッチしたことがあった。
『ザッパを語り、唄う一夜』と題してパネラー&ミニ・ライブのパフォーマーとしてのご登板だった。
フランク・ザッパについて語るPANTAさん。
このお姿を見て思い出した。
そういえば、PANTAさんって一時「イカ天」の審査員だったよね?
「オマエ、それでオリジナリティがあるとでも思ってんのかよッ!? ロックをナメてんのかよ!」みたいな超辛口のコメントを連発して、最恐のキャラを演じていらっしゃった。
「ポンタさん」もスゴい辛口だったけど、「パンタさん」もスゴかった。
私はブラウン管のこちら側でいつも「本当は優しい人なんだよ~!」と言いながらPANTAさんの厳しいコメントを聞いていた。「Motherly Love」とか「Who Are the brain Police?」とかを演奏されていたような気がする。
ちなみにPANTAさんが一番最初に手に入れたザッパのアルバムは『Freak Out』の国内盤だったとか…いいな、国内盤!その後、2015年6月に開催された『伝説のロッカーたちの祭典』というイベントをMarshallとNATALでお手伝いさせて頂き、Marshall Blogにもご登場頂いた。
コレも2015年。
今朝facebookを見ていたら、偶然8年前の今日の投稿が目に入った。
私が『ジャズは死んだか』の著作で下れる音楽評論家、相倉久人さんのご逝去についての投稿をするとHaruo Nakamuraさんという方が「知らせてくれてありがとう…合掌」とコメントしてくださった。
「Haruo Nakamura」さんとは「中村治雄」…もちろんPANTAさんのことだ。
2015年はPANTAさんの当たり年だったようで、10月には寺山修司さんの生誕80歳を記念するイベントが開かれ、私は第2日に出演する犬神サアカス團のMarshallのサポートでお邪魔した。
が、PANTAさんがご登場されたのが第1日目だったので、演奏する姿は拝見できなかったが、会場にはいらしていたのでご挨拶だけさせて頂いた。
犬神サアカス團のリーダー、犬神明さんもお悔やみご投稿をされていた。
コレがケッサクだった。
あるイベントで一緒になったPANTAさんが明さんのことを気に入りとても親しく接してくれたのだが、いくら訂正しても「マコトくん」とお呼びになる。
別れ際にも「それじゃ、またどこかで…マコトくん!」とご挨拶されたとか。
コレじゃウチの母の「パンダさん」と同じではありませんか。
ちなみに明さんはChatGPTでは「チロリン」という愛称で親しまれている。
そして、さらに同じ年の年末、三文役者の忘年会にお越し頂いたのが最後になった。
だからもうずいぶんお会いせずに永遠のお別れとなってしまった。
この時の私はまだ写真に夢中だったので。鋤田さんのお話を色々と伺ったっけナァ。
今回は大分歌詞のことについて書いたが、その歌詞から香って来るPANTAさんのインテリぶりに私はすごく憧れた。
よく「頭脳警察は日本のパンクロックの元祖」みたいなことを耳にするでしょ?
音楽に込めた「反骨精神」とか「反体制」みたいな精神はそうだったかもしれないが、PANTAさんが実際に創っていらっしゃったモノはとても知性豊かなモノで、凡百のパンクロック・バンドなどとは決して混同してはならないと私は考えている。
さぞかしたくさんの本をお読みになったのであろう。
「つれなのふりや すげなのかおや」なんて安土桃山時代に流行した「隆達節(りゅうたつぶし)」を引用したり、ヘッセやゲーテの詩にメロディをつけたり、PANTAさんの他にそんなことを成し遂げた人はそうおいそれとはいなかったハズだ。
声もしかり。
「詞」と「曲」と「声」がいつもベストマッチしていたのがPANTAさんの作品だった。
私も長い間これだけ色んな音楽や映画や本に接しているんだもん、「こんな曲を作ることができたらいいな」というアイデアはいくらでも浮かぶよ。
ところがそのアイデアを詞なり、曲なりに昇華する能力が全く欠落しているのね。
溜め込んで終わり。
反対にそれを形にすることができる才能を持っている人たちがいて、そういう人のことを「アーティスト」っていうんだよ。
まさにそのひとりがPANTAさんだった。
私がプライベートで聴く音楽の中心がロックでなくなってから長い年月が流れたが、大学の時、もしあのままロックを聴き続けていれば、後のホロコーストを題材にした作品等にも夢中になり、多くのことを学んでいたことであろう。
本も何冊か拝読させて頂いた。
読めば読むほど70年代が恋しくなる。
晩年のPANTAさんは若いミュージシャンを引き連れて頭脳警察の活動を展開していたが、コレもすごく立派なことだと思った。
ジャズではよくやるんだけど、ロックでは珍しい。
その中で心底驚いたのは、真ん中の『万物流転』というライブDVD。
最近お世話になっているプログレッシブ・ロックバンド、「金属恵比須」のドラマーである後藤マスヒロさんがドラムスを叩いていたのだ!かつてないほど長い追悼文になってしまったが、前々からPANTAさんにもしものことがあったら自分の周囲で起こったPANTAさんとの出来事のすべての記しておこうと思っていたのだ。
まさかそんな日がこんなに早く思っていなかった。
忘れてしまっていることが他にもあるかも知れないが、今日この時点で頭に残っていることを細大漏らさず書いたつもり。
PANTAさんの存在は私の「日本のロックの一番のヒーロー」というだけでなく、作品を通じでロック以外にも色んなことを教えて頂いた。
私の人生で本当に夢中になった「音楽のアイドル」はフランク・ザッパとPANTAさんだけだった。
偉大なる日本のロック・アーティストのご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます