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« 金光健司とNATAL ~ZENITHの魅力~ | メイン | 犬神サアカス團単独興行『あそびをせんとや』<後編>~私の谷中墓地(その2) »

2024年2月22日 (木)

犬神サアカス團単独興行『あそびをせんとや』<前編>~私の谷中墓地(その1)


昨年末の『犬神明生誕祭2023』に続く今年初めての犬神サアカス團の単独公演のタイトルは『あそびをせんとや』。
そう、私が育った「庶民的」と言えば聞こえが良いプアなエリアの学校には、家に風呂のない子や風呂なし共同トイレのアパートに暮らす子が少なからずいて、夕方外で遊び終わる頃になるとそうした家の子たちが「じゃ、夕ご飯食べたら銭湯でね!」と言いながら家に帰っていくのが羨ましかった。
生まれた時から家に風呂があった私はその仲間に入ることができなかった。
連中は野球かなんかをしてさんざん外で遊んだ後、銭湯に集まってまた楽しく遊ぶワケだ。
これが「遊びを銭湯や!」ということ…チガウか?
ま、このタイトルの文句の意味は考案者である明兄さんにMCの中で説明してもらうこととして…今年は犬神サアカス團の30周年イヤー。
その第1弾のライブがこの『あそびをせんとや』となる。10v犬神サアカス團の30周年。
めでたいネェ~。
犬神サアカス團がMarshall Blogに初めて登場したのは2013年11月25日のこと。
下の写真はその時の様子…『BAKA EXPO』のレポートだった。
今のMarshall Blogが始まったのは今から12年前の2012年10月のこと。
よって犬神さんは最初期からご協力頂いていると言ってもいいでしょう。502 そこで、Marshall Blogとしては犬神さんへの日頃の感謝の意味と30年という長きにわたる「ロックバカ活動」に畏敬の念を込めて、明兄さんのご賛同を得て連載記事を掲載させて頂くことにした。
巻末に乞うご期待。
Ic30それでは早速『あそびをせんとや』スタート!
  
場内にストラヴィンスキーの「火の鳥」が流れる中ステージに姿を現した犬神サアカス團の4人。
記念すべき30周年イヤー最初の曲は「地獄の子守唄」。
20犬神凶子30v犬神明40v犬神サアカス團の30年目もドラムスはNATAL(ナタール)!
お願いだから「ナタル」って言わないでね。50ONOCHIN60vもちろん30周年もONOCHINはMarshall。
ちゃんとアンプのインプットにケーブルをつないでいい音を出して頂きます。70v犬神敦80vそのまま続けて「鬼畜」。90_anONOCHINのワウ・ペダルを効かせたソロが曲調にとてもシックリくる。100チョット最近なかった展開で今回の

スタートした今回のライヴ。110「こんばんは、犬神サアカス團です。
明けましておめでとうございます。
なんと犬神サアカス團は今年で結成30年!
今日は30周年記念ライブの1回目です…なので元気よくいきたいと思います!」
110vそして、ルーティンの口上。
「今宵お目にかけますは犬神一座の大サアカス」
「♪ジャン!」
130v「どうかひとつ最後まで盛り上がっていくぜ~!」1203曲目は定番の「花嫁」。
140前回は「追い腹」や「心中」で脱線したんだっけね。
人を愛する喜びを知りました そう、それだけが生きがいなんです
凶子さんの科白を交えた迫真のパーフォーマンス。Img_9234_3 この美しくも物悲しいサビのメロディ。
やっぱり名曲だわ!120_hy続けて「あだうち」。
150_aduナゼかわからないんだけど、最近この曲のサビがやたらとアタマの中で鳴っているんだよね~。
それだけ耳に残る歌詞とメロディということにキマってる。
160宿敵を袈裟懸けに斬ってしまうかのような華麗なギター・ソロ。170v続く敦くんのベースのパートは相変わらずのトリハダもの。
いいね、この曲はどうにもカッコいい。180ONOCHINの弾くソリッドなリフは「桜散る中」。
やっぱりこういうギターはMarshallで弾かないと曲に意味が出て来ない。190v_scnコレは久しぶり。
「♪イェイイェイイェ」がすこぶる気持ちイイぞ!200伝統のブリティッシュ・ハードロック然としたドライビング・チューン。
犬神サアカス團の得意とするところだ。200vあのね、こういうギター・リフでスタートして、ストレートに突っ走って、適度にメロディアスで、ギター・ソロがあって…というスタイルのロックは今世界規模で絶滅の危機に瀕しているんだよ。
こうしたスタイルの音楽にシビれて育ったジイさまたちがいなくなった時が最期だ。
我々はひとつの「音楽」が消えて無くなる瞬間に立ち会っていると言っても決して言い過ぎではなかろう。
まぁ、あと5年ってところだろうナ…10年はとても無理だろう。
だからその手のロックを絶滅の危機から救うと思ってみんなで犬神サアカス團を応援しなきゃいかんゾ。210v「どうもありがとうございます。
今日のテーマは『あそびをせんとや』です。
どんな意味を込めてこのタイトルを付けたのか訊いて聞いてみたいと思います…明兄さん?」Img_9501 「犬神明です。
『あそびをせんとや』ネェ。
元々はそういう歌があったワケですよ」
220「平安の中期から鎌倉時代にかけて『今様(いまよう)』という宮廷で流行した歌謡がありましてね、その中で後白河天皇が『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ』という歌を詠んだワケですよ。
コレは子供が遊んでいて、その無邪気な姿を見ると本来人間は遊ぶために生まれて来たんじゃないか?と思った…という意味」
240v「そうしてみると色んな苦悩があったり、悲しいことや、辛いこともあるけど、本当はオレたちは遊ぶために生まれて来たんだよね?遊んでてもいいんだよね?…ってこと。
だから遊んでいてもいいんだよね?って言うと語弊がありますが、30周年だから遊ばせてもらおうかなと思い、今日のライブのタイトルとして『あそびをせんとや』としたワケです。
遊びをするために生まれてきたんだから、ちゃんと今年から遊ぼうよ!
そんなおおらかな気持ちで今年は1年間ガンバっていきたいと思いますのでよろしくお願いします!」
230v「ということで、今日は明兄さんが一生懸命考えてくれたセットリストを演っています。
みんな、立ったり座ったり、立ったり座ったり、自由に見て頂けたらな~と思います」

0r4a0173 ガラリと雰囲気を替えて2012年のアルバム『恐山』から「紅雀」。260_bsONOCHINのアルペジオをバックに悲しい歌を切々と歌い上げる。
「楽町」だなんて若い人にはわからないでしょう?
この曲って舞台設定が終戦直後だったのか。
今からちょうど50年前、敗戦から29年、当時の私は熱狂的な映画少年だったので毎週のようにラクチョウに映画を観に行っていたわ。
その後、ロックに夢中になってのハンター狂い…有楽町は私の「青春の街」なのだ。Img_9651 悲しい悲しいギター・ソロ。
持ち替えたギターの音色がまたバッチリと曲調にマッチした。280vってんでコレは明さんのご参考に…その頃の私の有楽町の思い出を綴った3編。
  ↓    ↓    ↓
【Shige Blog】I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その1>

その明兄さんが敦くんと徹底的に重苦しいグルーヴをクリエイトする。290_hk「♪焼け跡街に立つ紅雀 片言英語で春を売る」なんて文句が出て来るけど、こんな映画いいよ~。
日本映画史にその名を刻む名匠成瀬巳喜男監督の1955年の作品『浮雲』。
原作は林芙美子。
主演のデコちゃん、高峰秀子が気の毒でネェ。
そして、その相手の森雅之の悪いこと!
この人って『或る女』で有名な有島武郎の長男なんだよね。
犬神っぽい話しとしては、この有島武郎って軽井沢の別荘で不倫相手と心中したんだけど、遺体が発見されるまで1ケ月かかったためその有様は「暗黒礼賛ロックンロール」状態だったそうだ。10_ug 次に持って来たのは久しぶりの「一つ目小僧」。
310v歌詞と曲と編曲がビシっと決まるとこうなる…の見本。
凶子さんの歌声で演ずるところがまた効果バツグン。
7年もの長きにわたる凶作により東北地方では50万人が餓死したという「天明の飢饉」に関する本を読んでごらん。スゴイよ。300この曲で「山に捨てたオババが唸る」と凶子さんが歌っている。
「ひとつ…山に入ったら口をきいてはいけない」
「ひとつ…山に入ったら振り向いてはいけない」
…とお母さんを山に捨てに行く息子に村の長老たちが「姨捨」のルールを説明するシーンが1958年の木下恵介監督の『楢山節考』に出て来る。
今村昌平が1983年にリメイクした同作は主演のおりんを演じた坂本スミ子が前歯を4本抜いたことで話題になったが、絹代さんはその25年前にそのおりんの役を演じるためにやはり前歯を4本抜いた。
確か、その前年に役作りのために上下合わせて10本の歯を抜いた三國連太郎に四ツ谷だか新橋だかの歯科医院を紹介してもらった…とか。
また、トトロのカンタのお婆ちゃんの声を演った北林谷栄さん。
「メイぢゃ~ん!」てやるでしょ?
北林さんもとてもいい役者で、40歳代の時に『キクとイサム』という映画で70歳のお婆さんの役を演じるために歯を抜いたそうだ。
役者は歯を抜いてもまた生えてくるんだろうか?と思っちゃうわね。
抜くのはいいけど、一体その後何年もどうしていたんだろう?
今でも「役作りのために減量した」なんて話を耳にするけど、今は歯を抜くまで役作りをするような価値のある映画はなかろう。
なんならCGもあるし。
この1958年版の『楢山節考』は進取の気性に富む木下さんが歌舞伎のスタイルを取り入れて全編スタジオで撮影した作品だった
私は子供の頃に一度観たが、その作風がすごくキライで全く受け付けなかった。
ところが、耳順(60歳)を過ぎて観てみるとコレが実にいい!
私自身が絹代さんのファンになっていることもあるが、イヤだった歌舞伎仕立てが実にカッコいいのだ。
ちなみに原作を書いた深沢七郎はギタリストですからね。
井上ひさしがいうところの「ストリップ劇場界の東大大学院」だった「日劇ミュージックホール」でギターを弾いていたというのだから生半可な腕前ではなかろう。
井上さんが進行係を務めていた浅草の「フランス座」は東大なのだそうだ。Nbk 「どうもありがとうございます。
今年も引き続きベースは敦くんにサポートしてもらいます。
敦くんは『今年はオレのココを見てくれ!』というのがありますか?」320「皆さん、明けましておめでとうございます。
今年は辰年ということで…ボクは丑年なんですね。
辰と丑はどういう関係にあるのか?って言うと、マァ~あまり関係ないですね。
やっぱり辰ってカッコいいじゃないですか?
ボクも本当は辰年に生まれたら良かったと思うんですけど、あいにく干支は選べませんからね」
335v「ボクが生きてるってことをみんなが認識することで、ボクが初めて生きている証明になります。
人がひとりで生きていくっていうのはあり得ないんですね。
誰かに認めてもらって初めて生きてるって感じ!」
330コレも久しぶり「空の色は何色ですか」。340_sin凶子さんの歌声が映えるロッカ・バラード。
他に同類のレパートリーはあったかな?…ナゼかすごく犬神っぽさを感じる。350続いてONOCHINのギターが奏でるメロディがまごうことなき犬神サウンドを演出する「赤猫」。
360v_an考えてみると犬神サアカス團には「赤」関係のタイトルの曲が多いね。
やっぱり方向性としては「血」につながってるのかな?Img_9677 こうして新旧のレパートリーを巧みに組み合わせて30周年イヤー最初のステージの前半を終了した。380v今日は明兄さん考案のセットリストで進行しております。390v<後編>につづく

犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒公式ウェブサイト0r4a0102(一部敬称略 2024年2月11日 三軒茶屋HEAVEN'S DOORにて撮影)

☆☆☆私の谷中墓地(その1)☆☆☆

さて、ココからが冒頭で触れた犬神サアカス團の30周年を記念する特別連載のコーナー。
ナニをやるかと言うと…「墓」。
「墓」といっても「歴史雑学の勉強」です。
それがナンで犬神さんの記事なのか…だって他にくっつけるところないでしょう。
かつてはステージに卒塔婆を立てていたぐらいなんだから。
歴史に興味があれば、そこに登場する人に会ってみたいというのが人情というモノ。
ところがそんなことができるワケがない。
その点、「墓」というのはそうした人物たちに接することができる唯一の場所なんですよ。
そこで東京都が管理している「谷中霊園」に眠っている偉人・著名人の墓の紹介をライブ・レポートの巻末に連載して犬神サアカス團の30周年イヤーに花を添えよう…というワケ。
Ic30ところで、世の中にはそこら中の有名人のお墓を巡り歩くことを趣味にしている「墓マイラー」と呼ばれる人がいるんですってね?
この連載はそういうのとは違います。
墓は歴史に関する知識の宝庫ですからね。
谷中霊園に葬られている著名人にお願いしてご当人の周辺を探ってこの国の文化に関する知見を多方面にわたって広めてみようとしているのです。
飽きたり、メンドくさくなったり、ネタが尽きた時にはシレっとヤメちゃうかもしれませんのでその辺りもよろしく。0r4a0113さて、その谷中墓地。
正式な名称は「東京都谷中霊園」という。
東京都には規模が最も大きい「多摩霊園」の他、八柱、小平等いくつも公営の墓地があるが「三大」ということになると「青山」、「雑司ヶ谷」そして「谷中」ということになるらしい。
この3大霊園はどれも1874年、明治7年の9月の開園。
青山霊園は美濃郡上藩(みのぐじょうはん、4.8万石)の藩主であった青山家の下屋敷跡に造られた。
今の「青山」という地名はこの「青山家」から名付けられている。
やっぱり天下の青山墓地だけあってスゴイ人が葬られているね。
特に政治家の名前が目を惹く。
一方、雑司ヶ谷霊園は徳川吉光の鷹狩り用の鷹を飼育する「御鷹部屋」があった場所が元で、要するに昔はただのノッパラだったのだろう。
コチラは夏目漱石、小泉八雲、永井荷風の墓などがあって文人墨客御用達のイメージがあるな。
中浜万次郎、すなわち「ジョン万次郎」の墓もあるそうだ。
私にとってこの「雑司ヶ谷」という地名は今村昌平の『復讐するは我にあり』なんだよね。
緒形拳が「どちらにお住まいなんですか?」と加藤嘉扮する弁護士に尋ねると「雑司ヶ谷です」と答え、「あの辺はいいですね~」とやり取りする。
そしてその雑司ヶ谷のアパートを訪ねた緒形拳が加藤嘉を扼殺してタンスにその死体を隠す。
そんなシーンがあった。
私は高校生の時、そうして「雑司ヶ谷」という地名を覚えた。
しかし!
「霊園の王者」といえば(そんなんあるのか?)何と言っても「谷中」だろう。
谷中の墓地は明治政府が「江戸三大富くじ」で知られる名刹「天王寺(当時は感応寺)」の墓所を没収して造られ、園内に芝の増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺である寛永寺の墓所を擁しているからだ。
つまり元々お寺や墓所だったワケ。
ココにはもちろん政治家や文人墨客も多く眠っているが、園内を見て歩いた印象としては軍人あるいは元華族の墓が多いように思える。
東京ドームの2.2倍の面積に大小約7,000基の墓が並んでいる。
それだけ立派な人の墓が立ち並んでいるだけに一般の人はココに墓を建てることができないかというと今は全くそうではなくて、抽選に当たって料金さえ支払えば政治家や文人墨客でなくても、はたまた東京に所縁のない地方出身の人でも墓を建てることができる。
立派な墓石を目にすれば、昔はココに墓を建てることが大変であっろうことが容易に窺い知れるが、今では「ウチの墓は谷中ですから」と言ったところで特段ブランド力が強いなどということは言えないだろう。
抽選の倍率は約8倍とか言ってたかな?
園内には勧誘の幟をよく目にする。
ところで、そもそもナンで私が谷中墓地に目をつけたのかというと…ココは季節を問わず散歩に最適な場所なんですよ。
もちろん昼の日中しか来れないけどね。
  
下は谷中霊園の入り口のひとつ。
メインストリートとなる通りは突き当りにある天王寺への参道だ。10_2墓地と言えば花屋がつきもの。
入り口の脇には数件の花屋が並んでいる。
たとえばコチラ。
50_3石の表札が雰囲気を醸し出している「ふじむらや」さん。
60v_3その向かいには当然のごとく石材店も営業している。0r4a0005 池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出て来る「谷中・いろは茶屋」はこの辺りが舞台なのだそうだ。
天王寺の門前町としてにぎやかだったらしい。
10_oh 池波正太郎の生家は浅草の待乳山聖天のすぐ近くにあった。

Mtch待乳山聖天の横にはそのことを示す碑が立てられている。
池波さんは1923年の生まれだからジム・マーシャルと同じ歳だった。
大正12年、9月に関東大震災が発生した年だ。Si 池波さんの「谷中」といえば、「谷中・首ふり坂」というのも短い話ながらとてもヨカッタ。
この話の舞台も谷中霊園のすぐ近くだ。Yks 霊園の入り口付近にある花屋でひと際目を惹くのがこの「花重(はなじゅう)」。
創業は今から154年前の明治3年(1870年)だというからかなりの老舗。20_2昭和40年に三代目が渡米し、帰国後日本で「フラワーデザイン」なるものを広めたそうだ。
ある時、店の前を通りかかるとカフェが併設されていて驚いた。
周囲には飲食店が極端に少ないため、墓参客の休憩場所を当て込んだのだ。30 関澤石材店や花重の並び。
向かって左が「三原屋」、右が「おもだかや」。
ともにかなり年季の入った日本家屋ははじめ宿坊のようなモノかと思ったが、休憩所として営業しているのだそうだ。
墓参してくれたお客さんをおもてなしするところ。
一般人の生活の中に墓参りの習慣が根付いていた頃はきっと繁盛していたのであろう。40_2さて、いよいよ谷中霊園の中に入る。
ところでさっきから「谷中霊園」と「谷中墓地」という固有名詞を混同して使っているが、たとえ「谷中霊園」が正式な名称でも地元民としては「谷中墓地」の方がどうもシックリくるんだよね。
だから意味は同じ。
冒頭にも出て来た下の写真の通りは「さくら通り」と呼ばれている。
その名の通り道の両脇の木々はすべて桜だ。
春になると桜のトンネルができてそれはそれは美しい光景が眼前に広がる。
すぐ近くに「上野恩賜公園」という日本を代表する桜の名所があるがコチラは墓地。
さすがに満開の桜の下でドンチャン騒ぎをするバチ当たりもいないので、規模は上野に遠く及ばないが「桜を見る」ということであればとても適切な場所と言えよう。
写真は初夏のようす。75コレは冬のようす。
突き当りの坂を下るとJRの日暮里駅だ。
ココって「正門」みたいなモノが存在しなくて、色んなところから入ることができる。
恐らくあまりにも広いので四方八方から入園できるようにして来園者の利便性を高めているのだろう。
80_2入り口の左にある「花岡真節」という将軍家奥医師の碑。
日本の医学史で「はなおか」といえば世界で初めて全身麻酔を成功させた「華岡青洲」の名がまず出てくるのが普通であろう。
ところがドッコイ、コチラの花岡先生も将軍の侍医として14代家茂と15第慶喜を担当したエライお医者さん。
「長野出身」で「花岡」姓なのでテッキリ諏訪の人かと思ったらさにあらず。
諏訪は「花岡」さんと「岩波」さんと「高島」さんが多いのよ。
現に「岩波書店」の創始者である岩波茂雄も諏訪の出身だ。100v_2この花岡先生、調べてみるとスゴイよ。
Marshall Blogに何回かご登場頂いている松本良順というコレまたベラボーにエライお医者さんと一緒に長崎へ赴き、ポンぺやシーボルト(2回目の来日時)の薫陶を受けた。
そして長崎医学校、伊東玄朴らと西洋医学所、さらに東京医学校を設立した。
要するに今の東京大学医学部の前身ね。
そして、東京大学が設立されると初代の医学部長に就任し、医学部付属病院すなわち東大病院の初代病院長となった。
東大医学部ではドイツ人医師ベルツ先生の同僚だったそうだ。
東大医学部の歴史とベルツ先生については是非こちらをご覧頂きたい。
明兄さんは必見だ。
  ↓  ↓  ↓
【Shige Blog】草津よいとこ…その後マイッタ!<その1>~「ベルツ」ってナ二?

コレが花岡先生。
かなりイメージに食い違いがあるな。
私は吉村昭先生が著した松本良順や高松凌雲(この人のお墓も谷中墓地にある)、高木兼寛等に関する本を読んでいるんだけど、「花岡真節」という名前が出て来た記憶が全くないし、インターネットで得られる情報も極めて少ない。
でも、この板碑の巨大さはこの人の業績に見合ったサイズなのかも知れない。
10_shinsetsu この墓地には碑とは別に花岡先生の墓があったが、面倒を見る者が続かない…ということで数年前に墓じまいをして共同の永代供養墓に引っ越してしまったそうだ。
こんなにエライ人でもそうせざるを得なかったことに驚きを禁じ得ないね。
 
碑と同じ敷地内に立っているのが下の写真の右端の「青年松倉乾二之碑」。
この松倉さんについて調べたんだけど、どうしても情報を得ることができなかった。
チョットだけ近づくことができたのは、「日印貿易之犠牲者松倉乾二」という大正8年に上梓された本があって、その著者が花岡敏夫さん。
この方は東京大学の法学教授で花岡真節の養子なのだそうだ。
「日本とインドの貿易の犠牲者」?…ウ~ム、一体どういうことなんだろうか?実に気になるタイトルだ。
さくら通りをはさんでその花岡先生の向かい辺りにあるのが「高橋お伝」の墓…と言っても墓ではなく碑。
「おでん」といってもセブンイレブンはありませんよ。
「明治の毒婦」と異名を取った「高橋でん」のこと。
この石碑はお伝の三回忌の折に仮名垣魯文らが立てたモノ。110_2「明治の毒婦」なんて言っても、今の世の中にあってはゼンゼン大したことはない…というより同じ「毒」でもどちらかといえば気の毒の「毒」の人だったようだ。
不治の病に罹った最初の夫を看病するために自ら身体を売るまでしたが、その甲斐なく死別。
傷心のお伝がその後恋に落ちた相手が博打好きのろくでなし。
家は借金まみれになり、知人に借金を頼む。
お伝が美しいもんだから夫ソイツは夫婦を装ってお伝と一夜を共にする。
ところが翌朝ソイツが「金は貸さん」と言ったものだからお伝は逆上。
持っていたカミソリでノドをかっ切ったという次第。
下がそのお伝の残された写真とされているんだけど、この時代にこの器量となると相当な美人だったハズ。
お伝は市谷監獄に収監され、斬首された。
そのお伝の首を切り落としたのが八代目山田浅右衛門吉豊の弟、山田吉亮(よしふさ)だった。
処刑の時、お伝が暴れたため吉亮は職務を完遂するのに大変な苦労を強いられたという。130v_p さて、ココから大きく歴史脱線。
下は南千住の延命寺の境内にある「首切り地蔵」。
江戸の昔、この辺りには品川の鈴ヶ森と並ぶ「小塚原(こづかっぱら)」という刑場があって、明治初年に廃止されるまでに20万人が処刑されたという。
「20万人」ってどんだけ~?
だから、昔のタクシーは夜間にこの辺りには行ってくれなかったそうだ。140_2一方、こっちが「鈴ヶ森刑場」の跡。
鈴ヶ森に興味がある人はコチラをどうぞ。
明兄さんは必見だ。
  ↓   ↓   ↓
THE OMATSURIES 秋の大感謝祭 <後編>~私の品川富士と鈴ヶ森
145その延命寺の隣にある「三つ葉葵」のご紋を付けた寺が「回向院」。
「回向院」というのは両国にもあるけれど、そちらは1657年の「明暦の大火(=)振袖火事」の犠牲者を慰霊するための寺で、コチラの回向院は小塚原の受刑者たちを弔うための施設。
一昨年「赤猫」を解説する時にも出て来た。
1501771年、小塚原の受刑者を用いて行われた腑分け(解剖)がココで実施され、杉田玄白や前野良沢らがそれに立ち会った。
当時は人体の解剖が禁止されていたため玄白たちは直接死体に触れることができず、幕府役人に依頼して体内をまさぐってもらったそうだ。
「チョットそこ、肝臓引っ張り出してみれくれる?」なんてやったのであろう。160_3この回向院には小塚原で処刑された幕末の志士の墓がズラリと並んでいる。
例えばコレは「安政の大獄」で死罪となった福井藩士・橋本佐内の墓。屋根付き。170_2コレは「鴨崖(おうがい)」という号の人の墓。
実は頼幹三郎の墓。
井伊大老の失脚を企てたとして佐内同様「安政の大獄」で死刑。
180v_2そしてコレは吉田松陰の墓。240v_3墓碑は「松陰二十一回猛士墓」となっている。
コレは松陰の号で…あ、「松陰」なんて呼び捨てにしたら萩の人に怒られちゃうナ。
「吉田」の「吉」を分解すると「十一」と「口」、「田」を分解すると「十」と「口」。
11+1で21、「口」を2つ重ねて「回」…それで「二十一回」なワケ。250v_2吉田松陰は小塚原で処刑されたのではなく、小伝馬町の牢屋敷の処刑場で首を落とされた。
下は現在中央区立の「十思公園」になっている小伝馬町牢屋敷の跡地。
Img_6158この公園には「松陰先生終焉之地」という碑が立てられている。
松陰はココで斬首された後、小塚原に移送されて埋葬され、その後高杉晋作や伊藤博文がその遺体を掘り返し、長州藩主毛利家の別邸があった今の松陰神社の場所に亡骸を移した。Img_6169 さらにそれから萩に移送された。
下は萩にある吉田松陰の墓。
だから回向院には吉田松陰の遺骨は埋まっていない。260v関鉄之助と…190v_2斎藤監物は「桜田門外の変」の中心人物。
この2人の墓碑に「遺墳」ってあるでしょ?
この言葉は辞書に出ていない。
それで、ある機会に荒川区の図書館の書士に「遺墳」には骨が入っているのかどうかを尋ねてみた。
すると答えは「ノー」だった。
つまり一時的に遺体を埋葬することはあったかも知れないが、「墓とは異なるモノ」だそうだ。
一方、上に出て来た橋本佐内はココに埋葬されていて、だから屋根が付いている…という記述をどこかで読んだことがある。
昔は偉人の墓を複数作ってアチコチで墓参りができるようにする習慣があったらしい。
織田信長なんかは全国で15ヶ所以上あるらしいよ。
今風に言うなら「墓のカバー」か「墓のトリビュート」か?
200v_3スッカリ谷中ではなくなってしまったが、もう少しお付き合い願いたい。
コレは雲井龍雄の遺墳。
この人は米沢藩士でありながら新政府にその才を買われて重用された。
しかし新しい体制に反抗してやはり小伝馬町で斬首され小塚原で獄門とされた。
墓は谷中にある。210v_2コレは藤沢周平が著した雲井の伝記『雲奔る』。
読破するのに結構苦労した。220bさて、ココで脱線の本題。
そうして数えきれない罪人や政治犯が小塚原や小伝馬町の牢屋敷で斬首されたが、その業務を一手に引き受けていたのが山田浅右衛門(=朝右衛門)という人。
「人」というか「ブランド」?
1657年生まれの初代山田浅右衛門の山田貞武から1839年生まれの吉豊まで八代にわたって世襲された処刑人の屋号が「首切り朝」で知られる「山田浅右衛門」。
橋本佐内、吉田松陰、頼幹三郎の首は七代目の山田浅右衛門吉利が斬り落とした。
元々山田浅右衛門は、刑死者の遺体を使って将軍様の刀の切れ味を試す「御様御用(おためしごよう)」という仕事を仰せつかっていたが、どうせ斬るなら…と生きている罪人の首をも斬り落とすことになった。
この職務は独占状態だったので、上に出て来た人たちはいずれかの代の浅右衛門の手によって斬首されているハズ。
そして浅右衛門はその独占状態を利して大儲けをした。
それは薬。
浅右衛門は処刑後の罪人の遺体を自由にする権利を持っていて、その体内から肝臓などの内臓を取り出し、「山田丸」とか「人丹」とか称して万病に効くという薬を作って販売していたのだ。
そして下の写真。
山田浅右衛門は正式には八代目までとなっているが、その八代目吉豊の弟の「吉亮(よしふさ)」こそが最後の「山田浅右衛門」だった。
下の写真がその山田浅右衛門吉亮。
高橋お伝の首を切り落としたのはこの人だった。
川崎高津の経師屋を営んでいた知り合いに金の無心に来ては居候をしていった。
身なりはキチンとしていて必ず袴を着けていたが、虱だらけだったらしい。
居候をしている間、頼まれ仕事は何でも快く引き受け、とても温厚な様子であったが、その家の人が吉亮の袴の裾を踏んづけた時には「打ち首にするぞ!」と烈火のごとく怒り狂ったという。
そして、死期が近い人のことを正確に見極める能力を持っていたそうだ。
見た目、なかなかカッコよくね?
時代劇映画の撮影時のスナップ写真みたいだ。
明治13年に政府が死刑の方法を絞首刑に変更したことにより山田浅右衛門の使命は終了した。
270v_2さて、回向院。
まだスゴイ人のお墓がある。280コレは鼠小僧の墓。290v_2ひと際目立つこのデザインは「腕の喜三郎」。
江戸時代の侠客。
ある時、町でケンカに巻き込まれ、散々相手を痛めつけたものの、自分も腕を落とさんばかりの大ケガをおってしまった。
それでも平気で家に帰ったのはいいが、その腕が見苦しいからと言って、子分に銘じてノコギリで切り落とさせたというかなりダイナミックなキャラをお持ちの方。310v_2スゴイんだかバカなんだかサッパリわからないが、喜三郎の話は講談や歌舞伎に脚色された。320vそして「高橋お伝」の墓。
男を惑わす稀代の「毒婦」としてお伝は遺体から性器を切り取られ、ホルマリン漬けにして保管されたという。
この時、解剖の執刀をしたのが「日本演劇の父」とされる小山内薫のお父さんだった。
小山内薫は和田誠のお父さんの和田精、浅利慶太(この人のお墓も谷中)のお父さんの浅利鶴雄他の演劇人とともに「築地小劇場」を創設した人。
そして、いつしかそのお伝の身体の一部は731部隊の隊員、二木秀雄の手に渡ったという。
二木は敗戦後浅草の松屋デパートである展覧会を企画し、そのお伝の身体の一部を公開して大きな人気を集めたそうだ。
趣味悪いナァ。
300vある時、お伝の墓には花が供されていた。
一体誰が供えたのであろうか?

120v<つづく>
 

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