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2023年7月 4日 (火)

私のサンプラザ

 
気が付いてみると、2018年10月に公開したTHE GOOD-BYEの記事の冒頭に「中野サンプラザが2024年に解体される」ということを記していた。
この時から随分時間が経ってしまっていて「中野サンプラザが閉館する」ということなどスッカリ忘れてしまっていた。
ヘタをすれば、まだまだ存続するものかと思っていた。
そうしたところ…4日前、テレビのニュースが「明日が中野サンプラザ最後の日」と盛んに報じ出してビックリしてしまった。
「やっぱりなくなっちゃうのか~」と少しばかり感傷的な気分になってしまったのは、中野サンプラザは青春時代のロックの思い出が詰め込まれた私の人生の要所だったから。
当時、来日アーティストの東京のコンサート会場というと、日本武道館、新宿厚生年金会館大ホール、中野サンプラザホール、渋谷公会堂、タマ~に後楽園ホールや日本青年館といったところが定番だった。
私の場合は中野サンプラザに一番足繁く通った。
東京公演を厚生年金で開催するアーティストは、中野サンプラザでもコンサートを開くことが常だったが、そういう時、私は迷わずサンプラザのチケットを求めた。
理由は駅から近いから。
厚生年金会館ホールって新宿駅から遠かったでしょ?アレ、結構シンドかった。
その点、サンプラは中野の駅前だからね。
帰り道に酔っ払いが大挙している新宿の雑踏を歩くのも好きではなかった。
私は当時新小岩に住んでいて、東中野にある学校に通っていた。
あの頃、コンサートが始まるのは大抵6:30で、まさか学生服のままコンサートに行くワケにもいかないし(禁止されていたかも知れない)、3:30頃に学校が終わると急いで家に帰り、再び中野まで出かけて行った。
若いからできたんだネェ…今じゃとてもムリだわ。定期券もあったしね。
イヤ、それよりもナニよりも、あの頃はロックに夢中で、「中野⇔新小岩2往復」なんて屁でもなかった。
何しろ自分が「この世で一番ロックやギターが好きな人間」と信じて疑わなかったからね。
今日はそんな中野サンプラザの思い出を綴る。10_2オープンは1973年だったのか…。
やっぱりあの三角の出で立ちは印象的だったよね。
今にしてみると、あの意匠は近隣の日照権を守るための「セットバック設計」だったりして…と思って調べてみたら、どうやら本当にそういう説があるらしい。
 
入り口のようす。
階段を下りたところに当日券売り場があった。
そこでチケットを買ったことは一度もなかったけど、売ったことがあった…それは後ほど。20_2この階段を上がって行く時にはいつもワクワクしたものだった。30ホール内のようす。
キャパは2,200席。
こうして見ると、「アソコに座って観たナ…あ、アソコにも座ったわ」なんて思い出すね。40 
ココで初めて観た海外アーティストって誰だったんだろう?と思って調べてみると…。
どうやら中学3年生の時に1人で観に来たブライアン・フェリーのようなんだよね。
1977年のアルバム『In Your Mind』の発売記念ツアーだった。
後に私はなるべくコンサートのプログラムを買うようにしていたが、この時はナゼか買わなかった。
きっとその時の持ち合わせでは買うことができなかったのであろう…中3だからね。
当時はRoxy Musicが大好きで、フィル・マンザネラ、アンディ・マッケイ、ポール・トンプソンといったRoxy組に加え、ベースが『Viva!』のジョン・ウェットンという豪華な布陣がとてもうれしかった。
そして、もう1人ギターがクリス・スぺディングだった。
あの頃「3大ギタリスト」といえば、日本では「クラプトン、ベック、ペイジ」と相場がキマっていた。ところが、「イギリスではクリス・スぺディングが入ってくる」とまことしやかに言われた時期があった。
不思議なことにスぺディングがそのウチの1人に数えられた場合、クラプトン、ベック、ペイジの誰が「3大」から抜け落ちるのかを知っているヤツはいなかった。
それもそのハズ、イギリスには「3大ギタリスト」なんてモノはない…ということを知ったのは大分後のことだった。
 
コンサートはもちろんブライアン・フェリーのソロのレパートリーが中心で、身をクネクネさせながらご当地ソングの「Tokyo Joe」を歌っていたのが印象的だった。
Roxyの曲も「Both Ends Burning」か「Love is the Drug」、「Do the Strand」あたりを演った気がするがコレは幻かもしれない。
Roxyは『Viva!』の後、活動を停止していたが、1979年に『Manifest』を発表して来日。
期待を胸に武道館へ観に行ったが超ガッカリだった。
1時間ぐらいしか演らなかったような記憶がある。
その後の一般的な人気を博したRoxy Musicの音楽には一切興味が湧かなかった。
60cd 
1978年5月のリック・ダンコはクラスメイトの小笠原くんと行った。
高校1年生の時のことで、ナゼ観に行く気になったのかはサッパリ覚えていない。
当時はプログレッシブ・ロックに夢中で、The Bandの音楽なんて全く知らなかった。
おそらく、本当にロックに貪欲で「何でもいいから観ておこう」という勢いがあったのであろう。
学校で「今度リック・ダンコを観に行く」と言うと、周囲の連中はこぞって「エエ?肉団子ッ?」と訊き返して来たものだった。
開演前、プログラムに目をやる。
そこには「リック、お願いだ!『同じことさ』を聴かせて!」と題した小倉エージさんの文が寄せられていて、「それってそんなにいい曲なのかよ!」と開演を待ち遠しく思ったものだった。
それぐらいナニも知らなかった。
ところが…、プログラムの表2対向にあるように、冒頭にはジェイ・ファーガソンというヤツが出て来た。
その人が出演することも全く知らなかった。
 
70
コレが…始まってみると全曲初めて聴いたにもかかわらず、も~メチャクチャ良くてね~。
ま、時効ということで書いてしまうと、ファーガソンの終演後、「カッパ」を持って小笠原くんと2人でトイレに駆け込んだ。74cd「カッパ」というのは我々の勝手な呼び名で、かつてSONYが生産していた光文社の「カッパサイズの本」と同じ大きさのカセットテープ・レコーダーのこと。
ほぼ新書判の大きさね。
ウォークマン・シリーズが世の中に出て来る前のことで、当時はコレが一番小さなカセットテープの録音機器だった。
その「カッパ」はお金持ちだった小笠原くんの所有物で、彼はそのファーガソンの演奏を録音していたのだ。
それで、たった今観たパフォーマンスがあまりに素晴らしかったので、チャンと録音できているか否かをトイレに駆け込んで確認したというワケ。
まだ子供だったんだね。
その後、小笠原くんが買った上のジェイ・ファーガソンのレコードを聴かせてもらったけど、あの素晴らしいライブはいずこへ?…私はもう全く受け付けなかったナ。
ところで、下のマーシャ・クラッカワーさんの本はなかなかヨカッタですよ。
私、時々彼女のNHKの英会話教室の番組を見ていてファンだったのです。
英会話の方はいまだに「あと一歩」だけどよ。74k さて、リック・ダンコ。
「前座がこんなに素晴らしかったら本編のリック・ダンコはどうするんだろうね?大丈夫なのかしらん?」という2人の心配をヨソにリックのステージが始まった。
コレはリックの初のソロ・アルバム『Rock Danko』のプロモーション・ツアーだった。
確か少しでもお小遣いの減りを食い止めるために、国内盤ではなくこのアルバムの輸入盤を石丸電気のレコード館で買ってコンサートに臨んだように思う。
だから演奏したウチの数曲は知っていた。
73cd
上のプログラムによると、来日したメンバーは以下の通り。
ひとりぐらいThe Bandのメンバーがいてもよさそうなモノだが…今もって誰ひとり知らん。
ところが、その演奏はも~最高! 
ファーガソンをはるかに超えた筆舌し難いほどの素晴らしさだった。
大いに感動した。
小倉エージさんのリクエストに応えて「It Makes no Deifference」も歌ったハズ。
少し前までのジェイ・ファーガソンの興奮はどこへやら、小笠原くんと「やっぱり前座とは格が違うナ!」と勝手な感想を述べあった。
リック・ダンコはこの21年後に亡くなった。
0r4a0013
こういうコンサート会場で配られるチラシも保存しておくといいね。
『生聞』か…行っておけばヨカッタなぁ。
この時は憂歌団なんて全く興味なかったもんナァ。
それにしても入場料が1,200円とは!
リック・ダンコは多分3,000円だったと思う。
75f 
コレは本当に行っておいてよかったコンサートのウチのひとつ。
1978年7月のリトル・フィート。
S席のチケットだったが、2階の1番前だった。3,000円。
私は『Time Loves a Hero』から聴き始めたんだけど、トマトのライブ盤をタップリ聴いてね~、ローウェル・ジョージが「Fat Man in the Bathtub」を歌い出した時はトリハダが止まらなかった。
「こんなに思い入れこんでいるバンドがみられるなんて今年最大のショック!」とチャンと「ら」を入れてプログラムにご寄稿されているのは鈴木慶一さん。

80来日メンバーはこの通り。
生きているローウェル・ジョージやロイ・ブキャナンを見ることが出来たのは私のロック人生の中でラッキーな出来事だったな。
ビル・ペインがギンギンにエレピを弾いていた印象がある。

85メンバーがひとりずついなくなって、最後にベースがひとり残ってしまい「お呼びでない?…コリャまた失礼しました~」と本編の最後を締めくくった演出がとてもオモシロかった。86ところで、この頃どうやってチケットを買っていたのかというと…。
以前はチケットの発売日に南青山のウドーさんの事務所に朝早くから並んだりしていたのだが、ある時、有楽町の交通会館の1階にプレイガイドがあるのを発見した。
「プレイガイド」ってのはもう死語だな。

87現在はジュース屋になっているこの場所にかつてプレイガイドがあった。
こういうのを「穴場」というのだろう。
チケットの発売日の朝に来れば、サンプラザ規模の会場のハジッコの席であれば、前から2列目ぐらいの席を余裕で入手できることを発見したのだ。
各プレイガイドの割り当てが決まっているのか、2列目の真ん中とか、最前列というのは一度も買えたことがなかったが…。88 
このプレイガイドの真価を発揮したのは1978年にウィッシュボーン・アッシュが3度目の来日を果たした時であった。
その頃、我々はウィッシュボーン・アッシュのコピー・バンドをやっていて、「みんなで中野サンプラザへ観に行こう!」ということになったが、ステージに近い良い席のチケットをいくつも連続で確保することは難しい。
そこで、「オレに任せておけ!」と、チケットの発売日に上のプレイガイドを訪れた。
いくつ確保したのかは忘れてしまったが、見事に真ん中の前から7列目の席をズラリと確保することに成功した。
あんな人数でコンサートに行ったのはアレきりだし、あれほど声を出して騒いだコンサートもアレ一度きりだった。
私はコンサートで声を上げたり、身体を動かしたりするのが今でも恥ずかしくて仕方ないのだ。
プログラムには「この3度目のステージで完全に甦る!」とあるが、何で甦ったのか?
アッシュはデレク・ローレンスという人がプロデュースした『因果律(ナンというヤボなタイトル!原題は'No Smoke Without Fire'…ナゼ素直に'火のないところに煙は立たぬ'としないのだ?!)』というアルバムを来日前にリリースしていた。
このデレク・ローレンスというのはデビュー作から『Argus』までのアッシュが一番アッシュらしかった時期のアルバムをプロデュースした人で、その人が帰って来たので往年のウィッシュボーン・アッシュ・サウンドが期待できる…ということだったのだ。
また、山本恭司さんも「さぁ、いよいよ僕等の目の前でギター合戦が始まるぞ!!」と題した文章をご寄稿されている。
ギターという楽器が主役のひとつだった、ロックにとってシアワセな時代だった。

 90_3我々が観に行った1978年11月10日 の演奏の一部がライブ・アルバムになったこともうれしかった。
「King Will Come」とか「Blowin' Free」とか演っちゃうもんだからいいように盛り上がった。
アレだけ騒いだんだから少しぐらい自分たちの声が収録されているかと思ったら全く入ってないね。
大騒ぎする一方、YouTubeどころかビデオすら出回っていない時代、「ああ、こうやって弾いているのか~」なんてギタリストの指の動きを追うのに真剣だったな。

ウィッシュボーン・アッシュは後年お家が分裂していくつかのチームに分かれてしまったが、私はどういうワケか、サンプラでこのウィッシュボーン・アッシュを、アンディ・パウエルのウィッシュボーン・アッシュをチッタ川崎で、テッド・ターナーのウィッシュボーン・アッシュをロンドンのヴィクトリア・パークでと、合計3通りのアッシュを観ることができた。

100この時から大分時間が経ってローリー・ワイズフィールドは意外なところで見た…イヤ、聴いた。
それはロンドンのドミニオン・シアターの『We Will Rock You』を観に行った時のこと。110_2そこでギターを弾いていたのだ。
ベースはニール・マーレイだった…らしい。
「らしい」というのは、劇バンなので客席からは演奏している姿は見えないのだ。
ギターのダブル・キャストを務めたのはかつてMarshallのデモンストレーターをしていたフィル・ヒルボーンだったのにも驚いた。
120 
この時分に中野サンプラザで観たコンサートはどれも印象深いモノであったが、大変に悔しい思いをしたこともあった。
それは10ccの2度目の来日…幻の来日。
1978年の『Bloody Tourists』のレコ発ツアーで来日することが決定し、私は例のプレイガイドで上手ハジの前から2列目の席のチケットを確保していた。
大好きな10cc、コンサートの日が来るのを首を長くして待っていたのだが、直前になってエリック・スチュアートが交通事故かナニかで頭部に重傷を負い、来日できなくなってしまった。
コレには泣いた。
結局、10ccを観たのはこの時から20年以上の時を経た原宿のアストロ・ホールでのこと。
でも「2.5cc」だった…つまりオリジナルメンバーはグレアム・グールドマンだけだったのだ。
それでもうれしかった。
何しろ演奏した曲すべて一緒に歌うことができた稀有なコンサートだったのだから!
私の人生でそういうコンサートがもうひとつだけある…それはZappa Plays Zappa。
そして4年前、反対にこっちの方から10ccに会いに行った。
 
その時の様子はコチラ⇒【イギリス-ロック名所めぐり】vol.43 ~ 10ccに会いに行く <前編>

125cd 
フランク・マリノも中野サンプラザで観た…と、言いたいところだけど、後楽園ホールで観た。
中野サンプラザの公演も例によって前から2列目のチケットを確保していたのだが、公演日が期末試験の直前で、それを知った父親が激怒し「コンサートなんかに行っている場合か!券を処分して勉強しろ!」と、厳命が下ったのだ。
それで仕方なく、コンサートの当日にサンプラザまで行って、当日券売り場に並んでいる人に声をかけた。
私が持っているチケットが「前から2列目」だと知ると、その人は涙を流してよろこんだ。
もちろん、額面通りの3,000円でお譲りしたのだが、今考えて見ると、チケットをさばきにその現場へ行っちゃっているんだからそのまま観てくればヨカッタんだな。
コンサートを観ないで帰って来て勉強したところで点数が上がるワケがないもん。
ま、気持ちの問題か…。
中間試験や期末試験の日程には何度か泣かされたな…確か厚生年金で観たジェネシスもそうだった。

 

130

トッドは1976年の初来日の直後に好きになって、「そのコンサートに行っておけばヨカッタ!」と臍を噛む思いをした。
それから3年、1979年4月、トッドはユートピアで2度目の来日を果たした。
確かコレも小笠原くんと行ったような気がする。
「Love in Action」の長いブレイクや、トッドがドラムスを叩きウィルコックスがフロントに出て来て歌った「Gangrene」など楽しかったナ。
セットリストはニュー・アルバムからだけでなく「Hiroshima」や「Love of the Common Man」、「Hello It's Me」や「I Saw the Light」等も演奏するヒット曲集のサービスぶり。
サックスを吹いたり、鼻からマイクを出して見せるアクション等、トッドも大熱演だった。
私もこれまでずいぶん色々なショウを見てきたけど、この時のトッドのコンサートは、自信を持って「我がロック・コンサート・ベスト3」にランクインする素晴らしいモノだった。
コレもサンプラザだったんだナァ。

140

UFOは『Lights Out』からリアルタイムで聴き始めた。
そりゃ私だってマイケル・シェンカー好きでしたよ。
そりゃ観てみたいと思いましたよ。
高校生だったからね~。
そしたらUFOが来日するっていうじゃないの!1979年の6月のこと。
うれしかったね~…ところが好事魔多し。
来日前に脱退しやがんの。
代わりに来たギタリストがポール・チャップマン。
「チャップリン」の間違いじゃね~のか?なんてロック好きの友達は言っていたな。
ローンスターね。
で、コンサートへ行った。
この時も前から2列目で池田くんと一緒だった。
池田くんとは渋谷公会堂へナザレスを観に行ったナァ。アレもすごくヨカッタ。
もちろんコレがチャップリンじゃなくてシェンカーだったらどんなにいいか…とは思ったけど、チャップマンもとても堅実なプレイで決して悪くなかった。
ちなみにこの「Chapman(チャップマン)」というのは、アメリカ人からすると、ものすごくイギリスっぽい名前なんだってよ。
そして、この時から31年後にロンドンで再びUFOを観た。
ギターはヴィニー・ムーアでやっぱりシェンカーではなかった。
  160

…と思ったら、災い転じて福となす。
このチラシを見て狂喜乱舞した。
曰く、「元UFOの名ギタリスト、マイケル・シェンカーがくる!」
曰く、「マイケル・シェンカーのフライングVがスコーピオンズで火を吹く!」
いよいよシェンカーか~?!
  
ところが、フライングVが火を吹くことはなかった。
だって…結局シェンカーは来なかったんだもん。170この来日は『Lovedrive』のプロモーション・ツアーで、まったくその名前を耳にしたことのないマシアス・ジャブスというギタリストがやって来た。185cd『Lovedrive』のレパートリーに往年の人気曲を取り混ぜたショウの内容はほぼ納得のいくモノだった。
ルドルフ・シェンカーの逆立ちも見ることができたし。
ただ、「All Night Long」や「The Sail of Charon」等、ウリの曲を演奏することがなかったのは残念だった。
ホルスト・ブッフホルツのピックをもらって来たがいつのまにかどこかへ行ってしまったナ。
UFOもスコーピオンズも3,000円だった。


180
コレがこの時のメンバー。
シェンカーにはとてもガッカリしたが、ルドルフ・シェンカーの雑誌インタビューだったように記憶しているが、「どうしてマシアスをウリの後任に選んだのか?」という問いに「マシアスのことはバンドのローディをしていたのでズッと前から知っていたんだ。ところが彼があんなにスゴいギターを弾くなんて全く知らなくてね」と答えていた。
その頃私は今も元気に活動している三文役者というバンドを手伝っていて(いわゆる「ボーヤ」)、この話を聞いて希望に燃えたモノだった。
後年、このことを故ジーノ・ロートに話したことがあった。
「そうなんだよ!」という返事が返って来るかと思ったら彼に表情がにわかに変わり…
「マシアスがローディだった?…シゲ、そんな話を一体どこで聞いたんだい?
そんな!マシアスがバンドのローディだったなんて…そんな!」
とかなり驚いた様子で、こっちの方が驚いた。
「イヤ、雑誌のインタビューで読んだだけだよ」と答えたものの、ジーノは納得がいかない様子で「マシアスは素晴らしいギタリストで、スコーピオンズのローディだったことなんて一度もないよ!
ああ、こんな話をマシアスが聞いたらナント言うことだろう!」
私がしたインタビューではないので謝るワケにもいかないし、想定外の展開に往生したことがあった。
誰があのインタビューを出したんだ?
元をたどればマイケルのせいだ!
とにかく、私は終生マイケル・シェンカーを観ることはできないと思う。

190こんなチラシもはさまっていた。
ジョン・ロードが加入してのホワイトスネイクの武道館、3,800円だって。
最近の外タレの大きなコンサートの料金ってのはもはや狂気だね。
その料金の高騰の原因のひとつはCDが売れないからだ…という。
買ってやりゃいいじゃねーか!
いいかい、音楽家というのはコンサートをこなすのも大事な仕事だけど、一番の仕事は「音楽を作る」ことなんだよ。
コピーはアマチュアの特権だ。
プロは断じてコピーを演るべきではない。
身を削って「自分たちだけの音楽」を創る…「音楽家」というのはそういう職業なのだ。
そして、「創れば形にする」のが「人間の業」ってモノですよ。
そうやって作ったCDを「コレでまたカッコいい音楽を作ってください!」と願いを込めて買ってやるだよ。
サブスクだかヌケサクだか知らんが、「誰が音楽をタダにした?」なんて騒ぐ前に本当に音楽が好きな人はそうしたモノを完全にボイコットするがいい。
まぁ、熱心に聴いている人はチャンとCDを買っているとは思うけどサ。
私もSpotifyをやっているけど、飽くまでも資料として使っているだけ。
鑑賞には一切使っていない。「音楽を聴く」時にはCDを使っている。
ドームやアリーナで演っている連中のことは放っておけばいい。
それはそれで経済を回してくれているんだからありがたい。
そうではないグラスルーツのミュージシャンが音楽で喰えるように助けてやろうよ!…と言いたいワケよ。
だから言ってやった。
200f
海外アーティストのコンサートだけでなく、「ポプコン」の地区決勝大会や「EAST WEST」の決勝大会を観に行ったこともあった。
それから20年近く経って、まさか「EAST WEST」の名付け親と一緒にお仕事をさせて頂くようになるとは思わなかったけどね。
何でも「EAST WEST」とは、その方が通っていた英会話教室の名前だったとか…。
私が観に行った時のEAST WESTの決勝大会はウシャコダがゲストで登場した。
ステージの上下(かみしも)に立った菅野さんと中村さんが相手をめがけ、空中高く放り投げてギターを交換した時にはスッカリ興奮してしまった。
ウシャコダ大好きだった。205 
今の仕事に就いてからというモノ、職務以外で中野サンプラザに赴くことはほぼ皆無となった。
210要するにMarshallの仕事だ。
コレはコレでとても楽しかった。220サンプラのMarshallの仕事で一番印象に残っているのは、2008年3月に開催された『JAPAN HEAVY METAL FANTASY 関西なぐり込みギグ 2008』というMARINO、EARTHESHAKER、44 MAGNUMが出演したイベントかな?Kng この手のイベントには欠かすことのできないMarshallの壁が手配されておらず、ちょうど現場に居合わせた私がその場で倉庫に連絡してMarshallを配達させたのだ。
残念ながら開場時間に少しだけ間に合わず、入場し出したお客さんの見ている前でMarshallを積んだ。
私もカレコレ色んなMarshallの現場を経験してきたが、コレは最初で最後だと思う。
そんな貴重な体験をさせてもらったのも中野サンプラザだった。221コレも大変印象的だった。
「ジャニス・ジョプリンが現在も歌っていたら…」的なコンセプトに基づいて企画されたトリビュート・コンサート。230ジャニスを演じたのは金子マリさんと夏木マリさんのダブル・マリ。
モリさんやナルチョさん他のMarshallのお世話をさせて頂いた。
この頃の大二さんは残念ながらまだNATALではなかった。240もちろん外タレのMarshallのお世話も何度もさせて頂いた。
ウリの時は客席が何ともゴージャスだったっけ。
令文さん、ルークさん、中間さん、三宅さん、ノンちゃん、Syuちゃん他、日本を代表する腕利きギタリストが1列に並んだサマはなかなかの景色だった。
ゲストでステージに上がったマーティが、終演後楽屋で「『In Trance』だよ『In Trance』!まさか演るとは思わなかった!」と大興奮していたのを覚えている。250v この時ウリが使用したMarshall。
ウリとはこの時以前にフランクフルトで何度も顔を合わせていたので、この機材の件で事前に幾度となく連絡を取り合っていた。
ウリは「あの素晴らしい音響の中野サンプラザでまた演奏できるのは最高にうれしい!」と言っていた。260Marshall Blogの取材も何度もさせて頂いた。
中野サンプラザの楽屋でデヴィッド・カヴァーデイルに肩を揉まれる自分などついぞ想像したことがなかったゾ!270ダグも本当に親切にしてくれた。280サトリアーニも素晴らしかった。
感動したのは、ジョーのマネージャー。
この業界に入って初めて付いたバンドがハンブル・パイだったって言うんだよね。
スゲエなぁ。290忘れていたんだけど、Megadethも中野サンプラザでご一緒させて頂いたわ。
当時のベーシスト、デヴィッド・エレフソンが私が担当していたブランドのベースを使っていて、それで押し掛けたんだったかな?
とてもナイスガイで、カワイイお嬢ちゃんの写真を見せてくれた。
220cd「業務以外の用で中野サンプラザに行くことはなかった」と書いたが、一度だけ純粋な「客」として席に座ったことがあった。
2011年のデイヴ・メイスンにご招待して頂いたのだ。
メイスンは私が中学校3年生だった1977年に来日していて、やはり中野サンプラザでコンサートを開催したことは知っていた。
『情念』なんてヘンなアルバム・タイトルだナァと思っていた。
このコンサートでは、ニガテだったあの都はるみのようなメイスン特有のウナリ節が影をひそめ、とてもいい感じだった。
265もちろん国内の我がMarshallアーティストの皆さんのお手伝いもさせて頂いた。
Starmarieのsun-go☆さん。
この時の写真は我ながら気に入っている。300THE GOOD-BYE35周年記念の時のヤッチン。
いつも楽しかったナァ。310音楽に限らず、映画でも演劇でもプログラムを買っておくというのはとても良いことだね。
私は上に挙げたコンサートの半券を大事に保存していたんだけど、引っ越しの時に父が誤って処分してしまいましてね…全てパァ。
でもプログラムは残った。
結局記憶って、どんなに印象的なことでも残っているようで残っていないんだよね。
子供の写真やビデオがいい例で、小さかった時のことを思い出すのは、ビデオで撮影して後で見たことばっかりだったりする。
そういう意味ではプログラムというのはとても良質な記憶媒体のように思う。
買った時は高くてバカバカしいと思いましたよ。
だって3,000円の入場料に対して1,000円ぐらいしていたんだから!
でも半券ではチト寂しい。
買って保存しておいて本当にヨカッタと思う。
  
それにしても「あって当たり前」のモノがなくなるってのは、ヤッパリすごく寂しいことだね。
我が青春が少しずつ削り取られて行くようだ。
そして、かつて「ロック」と呼ばれていた音楽がますます遠のき、消え行って行くような感覚に陥るのである。
しかし、返す返すも思うのは…「東京生まれ」でヨカッタ!330次の施設の中には7,000キャパのホールが造られるとか…。
これまでは2,200。
やはりキャパが2,000だった厚生年金会館ホールもとっくの昔に姿を消し、そうした大規模のホールが現れるということは、ますます音楽の一極集中化が進むということか…。
だって7,000人集めるなんて大変なことだからね。
もちろんそれなりのマーケティングはしたんでしょうけど、そんなに規模が大きいとビッグ・ネームしか使えなくなっちゃう。
一方では自分たちだけのいい音楽をクリエイトしているグラスルーツのバンドは小さなライブハウスを埋めることにも苦慮している。
当然、経済というモノは服飾でもエンターテインメントでもひたすら流行を追い求めるミーちゃんやハーちゃんが回してくれていて、私のようなアマノジャクはその方々に感謝しなければならないのだが、芸術やエンターテインメントというモノは「アレもあるけど、コレもある」という状態にしておかないと間違いなく破滅の一途をたどることになると思うのだ。
中野サンプラザはそんな役割を充分の果たしてくれたのではあるまいか?
 
色々な思い出をありがとう、中野サンプラザ!340v 

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