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2022年2月10日 (木)

【ギター・ヒーローズ】ジミー・ペイジの巻

 
Marshall本家のウェブサイトの『ギター・ヒーローズ』というページにジミー・ペイジが登場した。
「お、コリャいいや!」と思ってロクに読みもせず翻訳作業を始めたのはいいんだけど…。
ゴメン…。
正直大したことが書いていなかった。
途中で作業を止めようかと思ったけど、折角なのでジミー・ペイジにまつわるイギリスの写真を交えて記事を膨らませてみた(青字のところね)。
よろしかったら読んでみてチョーダイ!
 

【Guitar Heroes】

Jimmy Page

リフの王様にしてロックの革命家であるジミー・ペイジは他の歴史的なギタリスト同様、音楽の発展に大きな足跡を残した。
一体何が彼をそうした唯一の存在たらしめたのであろうか?

2page 
History <歴史>
1944年、西ロンドン生まれ。
ジミー・ペイジはサリーのエプソムという所で思春期を過ごした。
一家が引っ越した家の裏に放り出してあったギターが彼の最初のギターでエルヴィス・プレスリーの「Baby Let's Play House 」に触発され、12歳の時にギターを弾き始めた。
ジミーは少しレッスンを受けたものの、ほとんどは友達との情報交換や自分の耳で演奏技術を磨いた。
 
サリー(日本語ではサーリーとも表記される)はイングランド南東部の人口120万人ほどの行政区画(County=訳語なし。州とか郡とか県のようなモノ)。
ココすごくて、エリック・クラプトンとジェフ・ベックの出身地なのね。
ジェフは今でもサリーに住んでいて仕事があるたびにロンドンに来るまで出て来るとかつてのジェフのギターテクが私に話してくれたことがあった。

Img_1101 ギターを始めたごく初期にジミーはスキッフルに強く影響された音楽を地元の屋外でよく演奏していた。
ジミーは同時に科学の勉強にも熱心で、学校を卒業してガンの治療法に関する生物学的な研究に取り組もうとしていた。
実際に研究アシスタントの仕事を求めて遠くの地まで面接に赴いたりもした。
しかし、15歳の時には音楽のキャリアを積むために学校を離れることを決心し、ニール・クリスャンとザ・クルセイダーズのツアーに参加。またいくつかのレコーディングに参加した。
 
この頃、ジミーは腺熱(身体の各所のリンパ節がはれて高熱を出す病気。咽頭が赤くなり、物を飲みこむ時に強い痛みを感じる)を罹患してしまい、ツアーから離脱してその治療に専念しなければならなくなってしまった。
彼はサーリーの芸術学校に復学し、好きな美術に専念したものの、18か月後には健康を取り戻し、セッション・ミュージシャンとして音楽の世界に戻っていった。
そうしてジミーは60年代初頭、ザ・フー、ザ・キンクス、ザ・ローリング・ストーンズ、シャーリー・バッシー他、沢山のレコーディングに参加した。

Rpjp 同じ時期、ペイジはエリック・クラプトンの後任としてザ・ヤードバーズ加入の誘いを受けていたが、それを断りジェフ・ベックを推薦した。
その後、ポール・サミュエル・スミスがグループを去った後、ジミーはジェフと同時期にヤードバーズに籍を置いた。
しかし、ジミーにとって最も大きな出来事はツアーの日程を残したまま、1968年、極めて不安定な状態でバンドを離れたことであった。
そして、そのツアー日程を消化するために「ザ・ニュー・ヤードバーズ」というバンドを結成し、ロパート・プラント、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズらを雇った。後のレッド・ツェッペリンである。
 
ロンドン最大の繁華街ウエスト・エンドにある中華街、「ジェラード・ストリート」に入ってすぐ左。
Rh1968年8月、この中華料理店の地下でレッド・ツェッペリンの最初のリハーサルが行われた。
1曲目は「ブギウギ列車夜行便」だったらしい。すなわちジミー・ペイジが在籍していたヤードバーズの「Train Kept a Rollin'」。
恐らくはマーシャルを持ち込んだのだろう。
Rh2一方、コチラはイングランド北部、ニューカッスルの複合商業ビル。
「Led Zeppelin」としてイギリス国内で最初にライブをした「The Mayfair Ballroom(メイフェア・ボールルーム)」がかつてココにあった。
末期のThe Yardbirdsの契約を消化するために1968年10月4日、レッド・ツェッペリンの4人がココのステージに立った。
そして、この晩からバンド名を「Led Zeppelin」に変えた。
セットリストはすでにツェッペリンのモノだったという。
これを見た人がニューカッスルに1,500人ほどいたいたワケだ…うらやましい。

Img_6864 ジミー・ペイジのコンセプトは初めから明解で、それは「ブルース、ハードなロック、アコースティック音楽を混合して重厚なコーラスを加えたモノ」を標榜した音楽だった。
ジミーが作る特徴的なリフは、レッド・ツェッペリンをロック史上最も人気のあったバンドのひとつに君臨させた要素のひとつで、度重なるレコ発ツアーを効果的に絡めて発売したアルバムの数はおおよそ3億枚にのぼった。
そうしてジョン・ボーナムの死去によりバンドが解散する1980年まで快進撃を続けた。
 
ロンドンでも有数の高級住宅地サウス・ケンジントンにある「タワー・ハウス」という住居。
以前の持ち主はイギリスを代表する俳優リチャード・ハリスで、バンドで成功したジミー・ペイジは1972年にデヴィッド・ボウイと競って350千ポンドで購入した。
今の貨幣価値だと3,910千ポンド、現在の為替だと630百万円程度か。Img_0538 その後ジミーは、多発性硬化症治療の研究開発、ノードフ=ロビンス音楽治療(精神的、身体的、または発達障害のある子供のための療法)、『Live Aid』、ブラジル子供基金(ブラジルの恵まれない子供たちを救援するためのイギリスの慈善機関)といったチャリティ目的や個人的な機会で主に演奏を続けている。
 
 
Playing Style <演奏スタイル>
「Black Dog」、「Whole Lotta Love」、「Heartbreaker」等々、ジミー・ペイジは優れたリフの創作者として知られているが、彼の付くリフの多くはマイナー・ペンタトニックに基づいて作られている。
コレに彼が初期に影響を受けたスキッフルやブギのタイム感をミックスしているのだ。
 
また、ペイジはオルタネイト・チューニングのエキスパートでもある。「Moby Dick」のドロップD、「Kashmir」のDADGADなどの他にオープンGやオープンAを好んで使用した。


また「In My Time of Dying」ではスライドを効果的に取り入れた。
さらにステージではヴァイオリンやチェロの弓を使用したことはつとに有名だ。2bow ジミー・ペイジはスリー・ピースのバンド・サウンドを厚くするためにストリング・ベンダーも採用し、結果重厚なリズム・フィーリングを強調した。
カントリー以外では滅多に使われていなかったナット・ビハインド・ベンディングをソロやリフの中で使用した。
 
Gear Used <使用機材>
ジミー・ペイジの最初のギターは「Futurama Grazioso(フューチュラマ・グラオーソ)」で、その後さまざまなギターを手にして来た。
しかし、最も活躍したのは何と言ってもジョー・ウォルシュから入手した有名な'59年製ギブソン・レスポールで、レッド・ツェッペリンのほとんどのレコーディングやライブ・ステージで使用された。
  
ツェッペリンは1975年5月23~25日にかけて1万7千人収容の「Ear's Court Exhibition Centre(アールズ・コート・エキシビジョン・センター)」でバンド史上に残る大コンサートを開催した。
そこでも'59年のレスポールが大活躍した。

コレは「Victoria & Albert Museum(ヴィクトリア&アルバート博物館)」に展示されているその告知ポスター。

Img_2231コレがそのアールズ・コート。
写真は2009年に私が撮ったモノ。
Pink FloydもSladeもココで大コンサートを開催したが、ツェッペリンは上記の3回の他に17&18日に追加公演を設け、その時点でイギリス史上最大のショウを開催したバンドになった。
Img_0199_2二ューカッスル ⇒ キングス・クロス駅
マンチェスター/グラスゴー/バーミンガム/リバプール ⇒ ユーストン駅
カーディフ&スウォンジー/ブリストル ⇒ パディントン駅
ボーンマス/ブライトン ⇒ ウォータルー駅…後は地下鉄でアールズ・コートへ来てね!
 
何しろ「このコンサートを観よう!」とロンドン以外のイギリスの主要都市から臨時列車を走らせたというのだからスゴイ。
50年前の話ですよ。Img_2230ご丁寧に列車の時刻表まで告知している。
こうしてレッド・ツェッペリンは5回のショウで8万7千人を動員したという。
50年前の話ですからね!
Img_2234 そのアールズ・コート。
2年半前のようす。
あ~あ、無残にもこんなことになってしまった。
ツェッペリンもスレイドも幻と化した。
Img_9916_2
更地。

メッチャ広い。
住宅地になると聞いた。Img_9919_2 加えて「ジミー・ペイジのギター」と聞いて即座に頭に浮かぶのは、やはり'59年製のフェンダー・テレキャスターであろう。
ペイジ自らがボディに竜のペインティングを施したその名も「the Dragon」と呼ばれる1本だ。
このギターはヤードバーズ時代やツェッペリンのファースト・アルバムのレコーディングで使用された。
そして、忘れてはならないのがダブル・ネックのギブソンEDS-1275だ。

ロンドンの中心からチョット西の「ラドブローク・グローブ」というところにある「Sarm West Studio(サーム・ウエスト・スタジオ)」。
ココで「Black Dog」と「Stairway to Heaven」のレコーディングが行われた。
もちろんあのダブルネックもココに持ち込まれたワケだ。Img_0472アンプは、ライブ・ステージでは基本的にMarshall JMP Super Leadを使用していた。
一方セッション・ミュージシャンとして参加したスタジオ・ワークにおいてはサウンドの自由度を図り、信頼を置くMarshallの他にVOX、フェンダー、オレンジ、スープロ、ハイワット等の様々な機材を使用した。
エフェクターも様々で、「Sola Sound Pro MKII」、Tone Benderのファズ、MXRの「Phase 90」、 ダンロップの「Cry Baby」、マエストロの「Echoplex」等を愛用した。
 
私は2010年にロンドンで開催した『High Voltage』の時に楽屋村で一度だけジミー・ペイジをお見かけしたが、終始ニコニコしてとても感じのよさそうな方だった。
 
オリジナルの記事はコチラ⇒Marshall.com/Live for Music/Guitar Heroes

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