Yasu&Tosh 生誕60周年ライヴクロニクル『生涯現役でいこみゃ~か』 vol.4~私の明治村 <前編>
ナンダ、ナンダ?
犬山城を出た後はグイグイと天気が良くなってきたぞ!
この日は完全に「雨」の予報だったんですけど…。
もちろん文句は言うまい。
今回の観光で一番楽しみにしていた「明治村」が晴れているんだからこの上なし!
案内板に導かれるまま山道を登って駐車場に直行し、その最寄り入り口から入村した。
正門ははるか下の方になる。
この駐車場のロケーションがね~…この時は知らなかったよ。
明治村に来たのはコレが初めてのことではなくて、前回書いた、例の社員旅行の時に訪れたことがあるの。
つまり34年ぶりの再訪。
だから犬山城同様、ゼンゼン覚えていない…というワケではない。
ところどころ覚えていて、長い間「また来たい」と思っていたんだ。
コレがこうして日比谷公園の向かいにあったなんてね~。
この建物がフランク・ロイド・ライトの設計であることはつとに有名だ。
1923年の竣工。つまりジム・マーシャルが生まれた年(大正12年)に工事が終わった。
コレすなわち関東大震災の年。
オープンの準備に大あらわだった時に地震が発生した。
植草甚一の本を読むと、植草さんは当時中学生で、都電(当時は市電かな?)に乗っていた。
地震の瞬間に電車が転覆したそうで、何が起こったのか全くわからなかったらしい。
そんな地震でも出来上がったばかりの帝国ホテルはビクともしなかった。
アメリカに戻っていたライトは、地震の2週間後に手紙でそれを知り、狂喜したそうだ。
しかし、見ての通りこの東京の貴重な土地のど真ん中を陣取っていた割には部屋数が270しかないために採算性が悪く、老朽化が著しく進んだことより1968年(昭和43年)に解体され、一部がこうして明治村に移築されて保管されている。
アールデコ調の装飾がそこら中に施してあってステキなことこの上ない。
中には帝国ホテルで使っていた食器なども飾られている。
このお皿のデザインはライトによるもの。
あくまでも「シンプル」だね。
ハイ、ココで脱線。
この脱線のために上のスプーンの写真を撮って来た。
「銀のスプーン」は英語で「silver spoon」。
出て来るでしょ、「アビィ・ロード」のアレに。
「♪She came in through the bathroom window, protected by the silver spoon」ってヤツね。
この曲はポールの実体験に基づいていて、風呂の窓から入ってきた女性の「空き巣」の歌なんでしょ?
だけど、それはリンダだという説もあるとか…。
「銀のスプーンに守られて」いるんだから相当な金持ちの女性のはず。
しからば旧姓イーストマンのリンダに違いない…と思ったことがあったけど、リンダはイーストマン・コダックのイーストマン家とは無関係なんだってね?
そう、「silver spoon」は金持ちの家を象徴していて「be born with a silver spoon in one's mouth(銀のスプーンを咥えて生まれる)」という風に使い、リッチな家庭の出身を意味する。
向こうの曲を聴いていると時々この表現に出くわす。
そして、この反対をやったのがThe Whoの「Substitue」…「恋のピンチヒッター」ね。
「♪I was born with a plastic spoon in my mouth」っていうところ。
ウチのことだわ。
銀なんてムリムリ!ウチはプラスティックのスプーンです。
そういえば最近が「プラッチック」っていう人を見かけなくなったね。
コレはチョコレ―トでできたスプーン。
トルコ製。
ホット・ミルクをコレでかき混ぜると、スプーンが溶けてホット・チョコレートになるんだって。
ホンマかいな?
アメ横で見つけて、この記事のために買って来た。
戻ってコレですよ。
ビリヤード台でも帝国ホテルの大浴場のそばにあったピンポン台でもないよ。
コレ、ポーツマス条約の時に実際に使われたテーブルだっていうんだよね。
ポーツマス条約というのは1905年(明治38年)にアメリカのセオドア・ルーズベルトの仲介で結ばれた日露戦争終結のための講和条約だよね。
交渉を全権委任されたのが、日本側は時の外務大臣、小村寿太郎。
ロシア側は調印直後にロシアの首相となるセルゲイ・ウィッテ。
下の絵がその調印式のようすで、ン~、絵の方が何となくテーブルが短いように見える感じはするけど、確かには似てはいる。
ホンモノかナァ?興奮するな~。
なんだって、こんなモノに興奮するかというと、ウチのひい爺ちゃんがこの席にいたとかいうワケではまったくなくて…
この吉村昭の小説を読んだからなのね。
ハッキリ言いましょうか?
ヤケクソに面白い。
もうチョット言うと、今の政治家は全員読むべき。
昔の政治家が大変に立派だったということがわかる。
この講和条約に臨んだ小村外務大臣は、途方もない苦労をして調印にこぎつける。
普通、日露戦争というと、「アジアの小国がヨーロッパの列強に勝利した誇るべき戦い」みたいなイメージが我々にはあるでしょ?
とんでもない。
ロシアはバルチック艦隊の到着が遅れて、チョット劣勢になってしまっただけで、「何なら2回戦をやってもいい」ぐらいのつもりだったらしい。
そうなったら間違いなく日本は滅亡していたらしい。
コレに先立つことたった14年、1891年に「大津事件」という滋賀の大津で津田三蔵という警官が来日中の時のロシアの皇太子ニコライを突然斬りつけるという暗殺未遂事件が発生した。
この時、日本政府はマジでロシアが仕返しで日本を滅亡させると心配したらしい。
そんな状態での交渉なもんだから当然小村は苦労しますわな。
でもとにかくガンバル。
結果、樺太の北部はゲットできず、かつ一銭もロシアから賠償金をふんだくることができなかった。
国内はマスコミがいいように掻き立てて、国民はスッカリ大勝だと思っているもんだから、小村は国賊扱いされてしまうんだな。
ヒドイ話よ。
この「勝ったつもり」になった戦争が、結果的に太平洋戦争に発展しちゃったんだから恐ろしい。
とにかくご一読をオススメします。
そして、そのバルチック艦隊の顛末を小説にしたのがコレ。
あ、私は戦争マニアとかいうワケではゼンゼンありませんよ。
ただ、戦争まわりのことは、機会があれば少しでも多くを学ぶように努めているつもりなのです。
「大津事件」はコレに詳しい。
コレも面白いよ。
今日は徹底して吉村昭を出しちゃう。
私のウンチクの多くは吉村昭の小説から拝借しているのです。
話を戻して…
ココに「このテーブルがポーツマス条約の調印に使用された」ことを証明する銘板が取り付けてあった。その銘板がコレ。
ようするにホンモノなのね。
コレはその時の写真。
上の絵の反対側から撮影してるね。
手前側の左から3人目が小村寿太郎。
村内をシャトル運行する乗り合いバス。
無料かと思ったら有料。まあ乗らないわね。
ところが、このバスにトリックがあることを最後の最後に知った。
コレ、何だと思う?
日本の司法制度確立期の明治19年に京都の宮津に建てられた裁判所の一部。
内部には人形を用いて当時の裁判の様子が描かれている。
裁判所なんてどこにでもあるわけじゃなく、明治9年には全国で23か所しか地方裁判所がなかったらしい。
私はですね、今から30年ぐらい前、関西電力の「宮津エネルギー研究所」という火力発電所の建設現場によく行ったんですよ。
宮津といえば舞鶴から天橋立を経て西進したロケーションでとても寂しいところだった。
にもかかわらず何で宮津に裁判所なんかあったんだろう?
トトロの「さつきちゃん」の家?
新潟の上越市に明治41年(1908年)に建てられたという写真館。
明治時代は正式な理化学の知識を持ち、それなりの修行を積んだ人でなければ写真館など開くことはできなかったらしい。
今のデジカメで猫も杓子も「にわかカメラマン」というのとはワケが違う、花形職業だった。
ま、私も猫や杓子の一部ですが…。
2階がスタジオになっている。
当時はストロボ等の人工の光源がなかったため、太陽の光がスタジオに入り込むように大きな天窓を設けたのだそうだ。
わかるワァ、この気持ち。
しかし、低感度のフィルムじゃ、冬の上越ではコレでもキツかっただろうナァ。
「明治五大監獄」っていうのがあるの知ってる?
私は知らなかった。
入ったこともないし。
千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の5つ。
下はそのウチの金沢監獄の正門で明治40年に作られた。
コレがその中央看守所という設備。
アータ、調べてビックリよ。
この金沢監獄はおろか、上の五大監獄はすべて山下啓次郎という人の設計。
山下啓次郎…知ってる?
なんと、ピアニストの山下洋輔の実のおジイさんだって!
そういえば以前テレビでそんなことをやってたような記憶がなきにしもあらずだわ。
そして、まだコレが金沢にあった頃、五木寛之がこの監獄の裏に住んでいたそうだ。(この設備が解体されたのは昭和46年)
中央看守所から5つの収監棟が伸びていて、下のような八角形の監視室から全てが見渡せるようになっている。
この監視室は網走刑務所のモノだそうだ。
網走刑務所か…開拓作業に従事する明治時代の北海道の刑務所を描いた小説も吉村昭は書いている。
コレはどちらかというと集治監が主役の話。
正直あんまり面白くなかったナ。
吉村昭の監獄モノの白眉といえば、実際に4度刑務所を脱走し「昭和の脱獄王」といわれた白鳥由栄を主人公にした『破獄』。
私は33年ぐらい前に『高熱隧道』についでこの『破獄』を読んで吉村昭のファンになった。
それから巣鴨プリズンを舞台にしたコレ。
もし吉村昭に興味を持った人がいても、ま、この2つは後にしましょう。
先に読んでもらいたいのはコレ。
シーボルトに師事した蘭医、高野長英の悲劇的な半生を描いた長編小説。
天保の改革の水野忠邦の部下、悪名高い鳥居耀蔵の「蛮社の獄」で伝馬町の牢獄に入れられた長英が脱獄して逃げに逃げる話。
コレは私の「吉村昭ベスト5」に入るね。
食事はコレ。
身体にいいよ~。
しかし考えてみると、牛丼やコンビニの弁当で格安に済ませてしまう現在の食生活と大差はないかもね。
イヤイヤ、摂取カロリーは低いし、MSGやトランス脂肪酸、化学保存料、合成着色料、人工甘味料などが含まれていないこの囚人の食事の方がはるかに身体にはヨカッタのかも知れないよ。
さ、我々も脱獄して外へ出よう。
この荘厳な洋館は明治40年に皇居の大手門内に建てられた「内閣文庫」の本館。
今の国公文書館の前身。
手前の電灯は皇居前の石橋に明治21年に設置されたモノ。
明治21年にガス燈として設置されたが、時代は電気に移行するタイミングで、最終的には電灯になったが、その安全性が確認されるまで5年も使われなかったんだって。
デザインがすごくイカしてる。
中にはこんなモノが展示されている。
全国の歴史的な建物の紙でできた模型。
ココのアトラクションはさっきのポーツマスみたいに、例え建物とは何の関係ないモノでも色んな展示をして見るものを飽きさせないようにしているところがエライね。
村内を見渡す。
ホントに気持ちいい~!
この辺りは「5丁目」というエリアでまだ見学コースが始まったばかりの地点。
お~、向こうの方に良さそうな建物が!
愛知の刈谷から移築された「菊の世酒造」の酒蔵。
1868年の建造だというから、明治元年だね。
デザインがカッコいい。
ナント、隅田川にかかる「明治五大橋」の一角、新大橋。
五大橋は他に上流から吾妻橋(ウンコビルのところね)、厩(うまや)、両国、新大橋、そして永代橋を指す。
ウエストミンスター、ウォータールー、ブラックフライアーズ、ロンドン、タワー…ロンドンに行くとテムズ川にかかる橋にいつも魅了されてしまうが、ナンノナンノ、隅田川も負けてない。
テムズ川の橋もそうなんだけど、デザインがそれぞれ全く異なるところが実にカッコいい。
また、それぞれの橋は大正末期から昭和の初頭に集中して建造あるいは改築されていて、関東大震災の惨劇の教訓を生かして設計された。
もうひとつ、その頃にこれらの橋の建造が集中しているのには理由があって、関東大震災の前年、大正11年のワシントン軍縮会議で列強より押し付けられた条項により、軍艦建造用の鉄が余ってしまった。
「ワリィ、軍艦作れねーわ。ココはひとつ我慢しちゃって!」というワケにもいかず、政府は鉄鋼会社から購買を約束した鉄を買って、それを消費するために隅田川の橋を造ったんだね。
これまた上流からいくと、白髭、言問、吾妻、駒形、厩、蔵前、両国、清洲橋、永代…要するに今隅田川に架かっている主要な橋は全部この時に作られた。
この新大橋と勝鬨橋は対象外。
昨日も吾妻橋と駒形橋を車で渡った。アホみたいに金をかけて作った大和や信濃は海の藻屑と化したが、橋はこうして今でも大活躍してるぞ!
もう少し新大橋と吉村昭の話を…。
ジム・マーシャルが生まれた1923年、つまり大正12年の9月1日の昼に関東大震災は発生した。
死者は10万とも14万人とも言われているが、吉村先生の本によると、そのうち3万人が両国の横網にあった陸軍被服廠(軍服を作る工場)で焼死したという。
多くの人が逃げ込んだ工場の敷地内に火が燃え移り、そこに強風が入り込んで、避難者もろともアッという間に全焼したという。
当時、女性は髪の毛に大量を整髪油を塗布していて、そこに火がついて頭が丸焼けになった女性が多かったらしい。
また、災害の被害を食い止めるには、携行する荷物をできる限り少なくするのが鉄則なのだそうだ。
何も持たないで逃げるのが一番。
コレは吉村昭の本によるところではないが、それでも東京大空襲の時にはアップライト・ピアノを運んで逃げた人もいたらしい。
さて、そうした被害が甚大になるのは橋の周りに多かった。
結局、荷物を多く持っていると、それだけ避難者の体積が大きくなり、動きも鈍く、橋上のスムースな通過を妨げることになり、実際に関東大震災の時にも橋で亡くなった人が多かった。 ところが!
この新大橋ではひとりの死者も出すことがなかったのだそうだ。
ナゼか?
この橋が架かる新大橋通りにある所管の久松警察署の職員がこのことを知ってか、橋の両端に待機して、荷物を持っている避難者の通行を一切遮断したのだそうだ。
そうして、隅田川の東詰めを目指す避難者をスムースに通過させて多くの命を救った。
後日、久松警察署は東京府かどこかから表彰されたのだそう。
新大橋の手前の池の反対側に移動したよ。
それでもまだ5丁目。
コレ、今日中に見終わるのかね?
この後東京まで帰らなきゃならないのよ!
京都の河原町三条にあった聖ザビエル天主堂。
名前の通り、フランシスコ・ザビエルを記念して明治23年に建造されたもの。
イギリスのドデカイ聖堂に慣れているせいか、マァ、正直それほど「ドワ~!」という感じにはならないけど…
それでもなかなかのモノ。
かつて取り付けてあったバラ窓も立派だ。
吉村先生には隠れキリシタンの長崎での処刑を描いた「磔」という短編もあるよ。
以上で『私の明治村』の<前編>は終わり。
さあ、コンサートもいよいよ後半。
ココから各バンドの持ち時間が5分ずつ伸びて20分になる。
まずはLOVE HUNTER。千田忠彦
千田さん、ステージの上から私を見つけてビックリしてたナァ。
彼は広島の人だけど、確か前回会ったのも名古屋でのことで、BOTTOM LINEだったような気がするぞ。
LOVE HUNTERは広島のWhitesnakeのコピー・バンド。
今日はその名古屋バージョンだ。
だから「nagoya LOVE HUNTER」。
曲は「Crying in the Rain」。
BLINDMANの松井さん、名古屋からご苦労さま…ってココ名古屋だった!
イヤ、東京で一緒になると、どうしてもそういうご挨拶をするもんだからつい!
私はWhitesnakeってゼンゼン接点を持たずにココまで来ちゃったんだけど、ピリリとしまったとてもいい演奏!
しかし、後半になってもこんなに濃い~チームが出て来て…トシさんもヤスさんも、ずいぶん音楽的に濃い60年を送って来られたのね~。
「どうですか?もうお一方…僕の大好きなアニキを!もうスッカリ出来上がっちゃってますけど…ミスター・アメリカ・タケ!」
曲は同じくWhitesnakeから「Walking in the Shadow of the Blues」。
タケさんがまたスゴい破壊力!
もうステージ狭しと縦横無尽に暴れまくる!
この辺りからドップリとハード・ロック・ゾーンに突入。
全く疲れを見せない還暦リズム隊…
と言いたいところだが、リハーサルからだからね~…大変ですよ!
あと4バンド!ガンバレ!
いよいよ大台の10バンドめ!
「やっと出番が来ました!」とさっきからステージを離れていた…
バンドはGypsies Heap。
コチラはユーライア・ヒープのコピー・バンド。
曲はまずは「July Morning」。
なつかしいナァ。
ACEさんが今までのトークでの仕事と区切りをつけるようにシンガーとしての凄まじいテンションを見せつける!このACEさんのステージさばき。
さすが!
トシさんとは二人羽織を披露。
ACEさんはギタリストでもあるからね。
「対自核」!
一体何年ぶりに聴いたことか!
やっぱり盛り上がるね。
…と言ってはおりますが、ワタクシ、ヒープもチョイと苦手で、加えてヘソ曲がりなもんだから『Firefly』が一番好きだったりするのです。
しかし、ACEさんの声はデヴィッド・バイロンのように伸びやかで聴いていてすごく気持ちがいいね。
20分で2曲。
70年代ハードロックの、つまりロックが一番カッコよかった時代のロックを堪能させてくれた。
ところで、Gypsies Heapは「Heep」じゃないのね。
以前Soft HeapというSoft MachineとNational Healthの元メンバーが集まったバンドがあったね。
「heap」というのは「堆積」とか「山」いう意味。
11番目に登場したのは今日のこのイベントの目玉のひとつSNIPER MKII。
事前に頂いた資料ではこのチームの表記が「SNIPER(BAD SCEME)」となっていた。
浅学にして存じ上げなかったのだが、「マーク2」と呼ばれているこの面々でのSNIPERの演奏は大変珍しいそうで、ココだけ枠が30分に拡大された。
正統派ジャパメタ・サウンドにBurneyの純潔ロック・ギター・サウンドがベストマッチする。
気を衒うことのないBurneyのギターはいつ聴いても折り目が正しくて気持ちがいい。
じゅんぺーさんは久しぶりのMarshall Blog登場だ。
金子さんのMarshall Blogへのご登場はコレが2回目。
そういえば、前回のご登場もBAD SCENEのギタリスト、杉山勝彦さんの還暦記念コンサートの時のことだった。
「35年前にBAD SCENEが名古屋に来たことを知っていますか?BAD SCENEで音源になっていない曲をトシと演ってみたくて…楽しみにしていてください!」
2曲目は1曲目同様SNIPERで「Turning Point」。
この曲でも金子さんのド迫力の歌いっぷりが炸裂!
その姿を目の当たりにすることができた喜んだお客さんも多いハズだ。
剛さんのキーボーズがバンド・サウンドを分厚くするのだ。
そして、3曲は金子さんがさっきMCで触れたBAD SCENEのナンバー。
「No where」という曲。
私の知らない曲だった。
11番目のパフォーマンスもまったくダレることなく終了。
演者も観客も集中力を欠かさずこの記念イベントの行く末を見守っている。
金子さんが前に置いていた譜面台。
最後に向きを変えてお客さんにお見せしたページ。