犬神サアカス團『情念ドロドロ<前編>』~私の谷中墓地 (その10)
犬神サアカス團の4月の単独公演のタイトルは『情念ドロドロ』だった。
「情念」なんて言葉は日常の生活で使ったことも聞いたこともないナァ。
言葉としての意味は「感情が刺激されて生ずる想念。抑えがたい愛憎の感情」だっていうから犬神サアカス團にはピッタリの単語じゃん?でも「情念」という言葉自体は中学生の時からなじみがあった。
なんとならばデイヴ・メイスン(当時「メイソン」)が1976年に発表した2枚組のライブ・アルバム『Certified Live』にナゼか『情念』という邦題がつけられていたからだ。
「certified」というのは「認定された」という意味なんだけど、それがナンで「情念」やねん?
このアルバムを販売していたレコード会社は「CBSソニー(当時)」だったんだけど、どうもこの会社はキテレツな、というか変に気を利かせた邦題をつけるのが得意だった。
有名なところではジェフ・ベックの『ギター殺人者の凱旋』っていうのがあったけど、コレはCBSソニーのせいではなかったんよ。
この世にも有名な作品のオリジナル・キャッチ・コピーが『The Return of Axe Murderer』で、それをただ直訳しただけだった。
「axe=斧」というのはジャズのスラングで「楽器」を意味したのね。
それなのに「世にもバカみたいな邦題」のような扱いを受けるようになってしまったCBSソニーの担当者も気の毒といえばお気の毒。
エアロスミスも悲惨だった。
「Sweet Emotion」が「やりたい気持ち」とか「Walk This Way」が「お説教」とかね。
あの頃…すなわち50年前は英語もロックも日本の一般消費者にはゼンゼン縁遠いモノだったので、映画のやり方に倣って曲のタイトルを日本語に置き換えて普及を図ろうとしていたのであろうね。
ところでデイヴ・メイスンって「♪フんんが~ッ」と唸る歌い方が特徴で、アレはまるで「都はるみ」のようだった。
だから「情念」なんて演歌調のタイトルにしたのか?
だとしたら当時の担当者のセンスに薄い座布団を1枚差し上げたいわ。でも、CBSソニーのレコードの装丁は好きだったナ。
帯や解説書がカラーで豪華だったり、ジャケットに使われている紙も上質だった。
他社の製品と値段は同じでもチョットしたお得感があったね。
その次は東芝EMIだったかな?
イヤだったのは日本フォノグラム。
ワーナーとポリドールとビクターがその中間ぐらいだったイメージか?
とにかくレコードを集めるのが楽しくて楽しくて仕方なかったわ。
お金があればそれこそドロドロの情念でレコードを買いまくったものでした。
ちなみに家内を除いて、プライベートの範囲で私を本当に夢中にさせた人は人生に3人しかいなくて、それは作家の吉村昭先生と黒澤明とフランク・ザッパだけだった。
CBSソニーはそのフランク・ザッパにも容赦しなかった。
『Shut Up 'n Play Yer Guitar』というアルバムにマンガの題名をモジった『ザ・ギタリスト・パ』という邦題が付けられていたのにも絶句したが、担当者にコワいモノが消え失せてしまったのか、その上を行ったのが『The Man from Utopia』というアルバムだった。
CBSソニーはこのアルバムに『ハエ・ハエ・カ・カ・カ・ザッパ・パ!』という邦題を付けたのだ。
もうひとつどうにも呆れてしまったのが『Ship Arriving Too Late to Save a Drowing Witch』という1982年のアルバム。
中学校の英語の授業で教わる「too...to~」構文の長いタイトルも悪いと言えば悪い。
しかし、CBSソニーはコレに『〇△▢』という邦題を与えたのだ。
まず読めない…「まるさんかくしかく」というらしい。
コレ、レコード屋へ行って店員にナンで言うの?
「ザッパの『まるさんかくしかく』ください」って頼むの?
そんなバカな!
以上、まだロックが一般大衆に入り込んでいない、ロックがお兄さんやお姉さんの愉しみだった時代の話でした。 さて、『情念ドロドロ』。
いつもの入場のSEが流れてステージに4人が姿を現す。
「皆さんこんばんは!犬神サアカス團です!
盛り上がっていくぜ~!」『情念ドロドロ』の1曲目は「ロックンロールを歌いきれ」。
いつも通り気風のいい歌いっぷりは犬神凶子。
初っ端からソリッドなギター・ソロを聴かせてくれるはONOCHIN。
そして続けて「花嫁」。
犬神明のドラムが疾駆して…
犬神敦のべースが唸りまくる!
ナンだよ、全然ドロドロじゃないじゃん?
スカっとしちゃったよ!「ありがとう!改めましてこんばんは、犬神サアカス團です。
今日は久々のワンマン。タイトルは『情念ドロドロ』です。
なんで『情念ドロドロ』というタイトルを付けたんでしょうか?
明兄さんに訊いてみたいと思います」「どうも犬神明です。
『情念ドロドロ』…我々の真骨頂じゃないですか。
どんなライブを演っても『情念ドロドロ』だと思うんですけど、今日は特に『情念ドロドロ』でいきたいナァ。
そんな気がしています」凶子姉さんから「明兄さんにもドロドロした部分ってありますか?」の問いに…
「ないな、オレは。全くないね…すべてがホワイトだね。
なんで笑ってる人がいるの?
でも、天然で悪気のないワガママなんだよね。
でもコレは治しようがない…天然だから。
そんな感じでこれからもガンバっていきたいと思いますので皆さんもドロドロするように」
すると、「天然は一番タチが悪いブラック」と判定されてしまった明兄さん。ココでいつもの啖呵。
「今宵お目にかけますは犬神一座の大サーカス
どうかひとつ最後まで
♪ジャン
最後まで
♪ジャン
最後まで
♪ジャン」「最後まで盛り上がっていくゼェ~!」
ん?コレは珍しい…この曲、私は初めてかも?
ONOCHINが弾くサバス調の不吉なリフ。 2000年の、ちょうど四半世紀前のアルバム『蛇神姫』から「血みどろ菩薩」。
フム、コレはかなりドロドロですな。
凶子姉さんのクリーンな声はこういうダークでヘヴィな曲に映えますな。
「対位法」の一種だな。ソロもドロドロ!
そんなドロドロのギター・サウンドを出しているのはMarshall。
今日はヘッドが「JCM2000 DSL100」、スピーカー・キャビネットはJCM800時代の「1960A」。それとオルガンのエフェクト音用に使っているのが「ORIGIN50C」。
そのまま続けて「鬼畜」。
ちょっとあまりにも関係なくて申し訳ないんだけど、でも「鬼畜」といえば「松本清張」でしょう、どうしたって。
松本清張って社会派推理小説作品のイメージが強いけれど、有名な『日本の黒い霧』とか『昭和史発掘』等のドキュメンタリー作品も多く、他にも『文豪』だとか『大奥婦道記』なんてのも書いている。
チョット固くて難しいけどその内容に興味は尽きない。
『大奥婦道記』の「江島生島事件」なんてのは今までの認識とは異なる内容で意外だったな。
で、そっち方面の作品の中に下の写真にある『東京の旅(光文社刊)』という、文字通り東京のガイドブックがあるんだけど、付箋の数が表しているようにコレがどうにもこうにもオモシロイ。
私は小沢昭一が薦めていたので読んでみたんだけど、東京に関する知りたいこと、知らなかったことがテンコ盛り。
私が持っている初版の文庫本の奥付には「昭和60年」の発行になっているけど、もう絶版になっているのかな?
どこかで見つけたらゼヒ手に取ってチェックしてみるといいですよ。「鬼畜」もミディアム・テンポのドロドロ・ナンバー。
明兄さんのヘヴィなビートが鬼畜感を醸し出す。明兄さんはいつも通りのNATAL。
歯切れが良いサウンドが特長のアッシュのシングル・タム・キット。
敦くんも明兄さんのグルーヴに乗っかって低音域でシッカリとキチクった!
「ありがとうございます。
今日のテーマは『情念ドロドロ』ですが、敦くんにもドロドロしたところがありますか?
『ブラック敦』はいますか?」「皆さん、こんばんは。
ドロドロはしないんですけど…ブラックというか…宇宙ですね。
『宇宙わたし』がいるので結構小さな頃からチョイチョイ意識が…。
チョット難しい話が理解できなくて『ナニ言ってるの?』になっちゃうかも知れないんです」「社会ってあるじゃないですか…『人間社会』。
そこから外側に外れて宇宙を考える。
人間とは?生とは?とか考えて『あ、わかんない!』と最後は結局自分の寿命とか命には限りあると知って…そこでアセるんですね。
やりたいことをもっとやらなきゃいけない…という形で今まで放浪してきました。
その旅も終わろうとしています」凶子姉さんが敦くんの話を受けて「意識が飛びそうな曲」と紹介したのは「マッチポンプ」。
明兄さんのハイハットでスイング・ビートを出しておいて。 ストラトキャスターに持ち替えたONOCHINがイントロのあのメロディを重ねる。
そして、凶子姉さんの情念がこもった歌声が響く。
凶子姉さんのドロドロを味わうゾーンの2曲目は「女囚のブルース」。
コイツぁ低音までドロドロしきってら!
「さぁ、勝手に私が黒いとか言っちゃた明兄さん。
兄さんの口からやっぱ言って…エヘヘ。
さっきのはシャレだから」「さっきのはシャレなのね?
ココでオレが言うのが本編なのね?
オレの黒いところは部分的にはかなりあると思うんだよね。
ヤッパリそれらを全部歌詞にブツけているね。
『犬神サアカス團』が成立するのは、やっぱりオレの黒いところが作品に反映されるからという気がしますね。
なのでドロドロですよ。
だから歌がなかったらやっていられないね。
そういうもんじゃないの?」ガラリと変わって続いては新しいヤツ。
犬神サアカス團の30周年を記念してリリースしたシングルの第2弾『天誅』収録の「不可思議な世界」。
お得意のジンタ風の1曲。「♪ホラ吹き、イカサマ、インチキ野郎、浅知恵、こそドロ、二枚舌」…いるいる、そういうの。
凶子姉さんのサビのパートの歌声が魅力の1曲。
ジンタってのはリズムが「ジンタッタ、ジンタッタ」と聞こえるから「ジンタ」っていうんだってネェ。
要するにワルツ。
そう言われてみると「美しき天然」もワルツだな…それ以外の曲は知らないけど。ONOCHINのドラマチックなソロも大きな聴きどころだ。
続いてもミディアム・テンポでジックリ聴かせる「恐山」。
コレも比較的取り上げられない1曲。
今日は珍しい曲が多いな…コレがドロドロの神髄か?恐山にあるお寺は「恐山菩提寺」といって、永平寺で20年の修行を積んだ後にそこの娘と結婚したという住職代理の本を読んでみた。
恐山には幽霊は出ないそうです…というか、一度たりとも見たことがないそうです。
そして、イタコの皆さんはそのお寺とは縁もゆかりもないとのこと。
勝手に集まって来るんだって。
中には怪しいイタコもいて、クレームにつながる恐れがあるのでお寺としては絶対にイタコたちには関わらないようにしているそうだ。元々恐山は古くから続く湯治場で、源泉かけ流しの湯は効能がスゴイらしい。
その分、辺りに漂う硫化水素も濃厚で、家電製品がアっという間に(寺だけに)オシャカになっちゃうんだって。
デジタル・カメラの被害が一番顕著で1週間もたないそうだよ。
よく誰もいないのに戸がガタガタいう…ラップ現象とかいうヤツね。
アレは恐山ではしょっちゅう起こるのだそうだ。
それは霊のせいではなくて、多量の硫化水素のせいで外部の気圧が室内の気圧と大きく異なり、それが空気を揺らして戸が音を立てるんだって。…と恐山の勉強をしたところで以下のドロドロは<後編>で!
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒公式ウェブサイト
<つづく>
☆☆☆私の谷中墓地(その10)☆☆☆
今年も谷中墓地の桜がとても美しゅうございました。ガイドブックに出ているんでしょうなぁ、外国からの観光客がウジャウジャ集まっていた。
桜の季節から2ヶ月経った今はこんな感じ。
青々としていて実に気持ちがいい。
やっぱり外国人がたくさん来ているわ。
特に墓を見て歩くワケでもなくて、アレでオモシロイのかネェ?
もっとも外国の人が興味を持ってココを見て歩けるようになるためには徹底した歴史の勉強が必要だろうな。
しかし、考えてみるとロンドンでもニューヨークでも街中にこんなにバカデカい墓地があるなんてことは考えられないからね。
外国の人はココを相当奇妙に感じているのではないかしらん?前回までこのメインストリートである「さくら通り」の左側、甲地区の奇数番地のエリアを見て来た。
トットと通りの右側の甲の偶数番地に移りたいんだけど、甲地区にひとつヌケを発見したので今日はまずそれから。それがコレ。
なかなか立派なお墓。墓石には「出羽海谷右衛門」とある。
ご存知の通り「出羽海」というのは年寄名跡のひとつで、この5代目の出羽海は現役時代「常陸山谷衛門(ひたちやまたにえもん)」という四股名で1903年(明治36年)に第19代の横綱に昇進した。
相撲を日本の「国技」に押し上げ、その品格や強さから「角聖」と呼ばれたそうだ。
「ちゃんこ鍋」や「後援会」の風習を始めたのもこの出羽海だった。
「タニマチ」の由来は以前「直木三十五賞」の解説をした時に書いたね。下が常陸山谷衛門。
こりゃ強そうだナァ~。
身長は175cmしかなかったらしいが、明治時代の男性の平均身長は158cmだったというから単純に計算すると、今なら189cm…デカイわ。
何しろ力が強くて「亀戸天神」にあった20貫の「力石」を軽々と持ち上げて見せたという。
アータ、「20貫」って75kgですからね。
それどころか、58貫の石も肩に担いだらしい。
コレはないだろう…だって218kgだゼ!ちょっとこの力持ち自慢を競うための「力石」について。
「力石」ったって「あしたのジョー」じゃないからね。
「ちからいし」ね。
ココは川越の総鎮守「久伊豆神社(ひさいず)」。
「クイズ神社」かと思って最初ビックリしたわ。この神社に「會田権四郎」という人が天保2年(1831年)に持ちあげた50貫目の力石が飾ってある。
コレで188kgだって。
となると、常陸山ならチョロそうだな。
ナニが言いたいのかというと、こうした力石って結構どこにでもあって…ココは浅草浅草寺の境内の本堂に向かって左にチョット行ったところ。
この辺りにはオモシロイものがたくさんあるのでジックリ見て歩くことをおススメする。
下の碑には「熊遊」と書いてある。
明治7年(1874年)に「熊治郎」という力自慢がこの石を持ち上げたんだって。
その重量たるや百貫!375kg!
ウッソだろ~。
それを記念してこの碑が建てられた。この碑を建てたのが有名な「新門辰五郎」。
「三社祭は新門の音頭で始まる」って言ってね。
今から約160年前、江戸幕府が倒れて新政府軍が江戸の町に攻め入るか?…という時、「勝海舟」と「西郷隆盛」の談判において「安房(勝海舟のこと)」はこう言って西郷どんを脅かした。
「そちらが江戸市中に攻め入るというのであれば、町民を船で市川へ避難させて、新門に申し付けて江戸の町を火の海にしてしまうぞ」みたいな。
カッコいい~!
その「新門」というのがこの「新門辰五郎」。
本職は鳶。
鳶は火消しの仕事をしていたので新門は「火事のプロ」だったんだね。この「熊遊の碑」の前には実際に使われた力石がいくつか横たわっている。
左下の60貫の石は三河島の誰かが持ちあげたようだ。コレにて左側は終わり。
今度は右側の甲地区の偶数番地に移る。下はさくら通りの中ほどにある駐在所。
お巡りさんの住まいになっている。
夜はどうなっているんだろうネェ?
セブンイレブンへは墓地を通り抜けていけばそう遠いことはないけど…私はムリだな。
でもココにお巡りさんが詰めているのを一度も見たことがない。
いつも誰もいない。
そんなだから交番の中に自由に出入りすることができる…というのは、中に墓地の地図が置いてあったりするワケ。
何年か前、その地図をもらおうと思って家内と中を覗いていたら、散歩中のかなりご高齢のおジイさんが「地図をもらったかい?ドンドン持ってっちゃいな」なんて話かけて来てくれた。
戦争から復員して来て谷中に移り住んだ…というそのおジイさんは大正13年の生まれだという。
関東大震災の翌年(1924年)だから今から101年前。
私は「アレ?するとデコちゃんと同じお歳ですね?」と言うと、そのおジイさんは少し考えて「高峰秀子さんか……『湯島の白梅』だね」とおっしゃった。
普通、高峰秀子の名前を聞いて出て来る映画の題名と言ったら『綴り方教室』とか『浮雲』とか『二十四の瞳』とかなんだけど…。
「湯島の白梅」というのは、泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』という小説の映画化作品なのね。我々は「市川雷蔵」主演ということで、たまたま『婦系図』という1962年の映画をチョット前に観ていた。
だからその時「エ?アレにデコちゃんなんて出ていないんだけどな…」と不思議に思ったが、そのおジイさんには言わないでおいた。
ま、お歳なので記憶がゴッチャになっているんだろう…ぐらいにその時は思った。
最近は私も人のことを言えないし…。…と思ったら!
この泉鏡花の小説は同名の『婦系図』で何度も映画化されていて、古くは田中絹代の主演で1934年。
1955年には衣笠川貞之助の監督で山本富士子が主演を務めた。
さらに1959年、次が私が観た雷蔵の1962年版。
他にも1942年にマキノ正博が長谷川一夫と山田五十鈴で撮った『婦系図』があってそれに高峰秀子が出演していたのだ!
おジイちゃんはその『婦系図』のことを言っていたというワケ。
恐れ入りました!この時のことが何年前だったか正確には思い出せないのだが、あのおジイちゃん、元気にされているかしらん。
この交番の前を通るたびに思い出す。
また会いたいナァ。
で、交番の向こうに見える顕彰碑。2つ並んでいてかなりのビッグ・サイズ。
向かって右側は(その8)の「佐藤尚中(さとうたかなか)」のとことでチラっと出て来た顕彰碑。
佐藤尚中は「順天堂」を創設した「佐藤泰然」の養子でシーボルトやポンぺのお弟子さんというスゴイお医者さん。ナゼもう1回引っ張り出したかというと、他の記事でやったんだけど、顕彰碑の楽しみ方についてココにも書いておこうかと…。
こうした顕彰碑には下の写真にあるように碑の上の方の四角く囲んだ部分があって、そこに「ナントカ先生の碑」とか「ダレダレ君の碑」のようにタイトルが入っている。
それはたいてい「篆書体(てんしょたい)」というフォントで刻まれているのでその部分は「篆額」と呼ばれ、少しガンバれば結構読むことができる。
そしてその下にはズラ~っと顕彰碑の主人公の業績が漢文で褒めたたえられている。
この文章を「撰文」というが、白文なのでまず普通の人には読むことはできまい。だからシカト。
昔は「漢文」というのは知性のバロメーターみたいなものだった。
それゆえ漢詩ができた夏目漱石はとても尊敬されたんだね。
撰文は日本語で書かれていることもあるので、読めるモノもあるにはあるが、まるで結婚披露宴の新郎新婦の紹介のようで決まってオモシロくない。
それではコレの一体ナニがオモシロイのかというと、左の写真の赤い四角で囲った部分のように撰文の後には必ず篆額と撰文を書いた人(必ず別の人)の名前が刻まれている。
ココには思いがけずスゴイ人の名前が挙がっていることが多く、それを見て歩くのが楽しいのだ。
それに碑に顔を近づけて訳知り顔で「フムフム」なんてやっているといかにも教養が高そうでカッコいいじゃん?
ま、実際には誰も気がついてくれないけどね。
それではこの佐藤尚中の場合はどうか?
コレは驚いたよ。
篆額を担当したのはこの顕彰碑が建てられた明治16年、陸軍大将兼左大臣にして有栖川宮家第九代当主であらるる「有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとひんのう)」であるぞ!
ひかえ、ひかえい!…なんてやりたくなっちゃうね。
撰文は「日下部東作」というやはり有名な書家。
そのお隣りさん。
私がココを見て歩いて来た限り、恐らく下の顕彰碑が一番大きいんじゃないかな?
誰の顕彰碑か気になるでしょ?篆額を見ると、「井上達也君」とある。
ナンダ?クラスに1人ぐらいはいそうな名前だな?
撰文は「重野安繹(しげのやすつぐ)」という薩摩藩出身の明治初期の漢学者。
一方、下の篆額を担当したのは上に出て来た日下部東作。
この人は3,000人もの門下生を抱え、生涯で1,000基の石碑を刻んだという。この月桂冠のロゴ・サインの文字は日下部先生の作品だそうだ。
道理でキレイな字だと思ったよ…ウソこけ!
井上達也さんというのはこの方です。
1881年に「済安堂医院」という病院を創立したお医者さん。
こうして見てみるとずいぶんとお顔が長くていらっしゃる。それがお茶の水駅の聖橋口を出てすぐのところにある全国的に有名な「井上眼科病院」となった。
達也先生は白内障手術の第一人者だった。
ナニせ独身の頃の夏目漱石も一時期ココに通っていて、待合室でスラっとした女性を見染めてしまったこともあった…じゃ目は普通に見えていたんだな。それより前、江戸の昔には「土生玄碩(はぶげんせき)」という眼科医がいた。
当時イギリスで開発された「穿瞳術」という世界でも最新の術式を誰にも教わらずにオリジナルの手法で編み出して「シーボルト」を大いに驚かせたという天才眼科医で、「ビッグ・ダディ」の異名を取る「第11代将軍徳川家斉」に招かれ、貧乏医者から幕府の奥医師にまで地位を高めた。
「アタシ、絶対失敗しませんから!」みたいな不遜なところもあったらしいが、莫大な数の白内障の患者を手掛け、集まる治療費を炭俵に放り込んで天井裏に安置しておいたところ、あまりの金銭の重量に耐えかねて天井が落ちた…というほどの大成功を収めた。
ところが、シーボルトが江戸に来た時、彼が持っていた「ベラドンナ」という瞳孔を開く薬がどうしても欲しくて、リクエストに応えて将軍家から下賜された葵の紋服と交換してしまった。
コレはマズイよ。
そして高橋景保らのシーボルト事件が勃発。
当然、シーボルトに渡した紋服のことも発覚してしまい玄碩はほとんどお家取り潰し。
不遇な晩年を過ごしたが、今際の際に「自分の生涯は悔いなきものであった」と言ったという。
立派!
もし、玄碩がシーボルト事件に巻き込まれなければ、お茶の水の井上眼科病院のデカいビルは建っていなかったかも知れないよ。 病院の入り口に設置されている胸像。
向かって右は井上達也の次男の「達二」。
あ~、奥さんは「角倉家(すみのくらけ)」の人か…あ、京都の角倉さんはまたこのコーナーが続いていればズッと後で出て来る予定です。
左は達二さんのお孫さんかな?「治郎」という方。
この家は全員が東京大学医学部出身で、全員が「目」の関係。井上眼科病院はこの胸像のある本院のビルのとなりの22階建ての高層ビル、「新御茶ノ水ビル」の18~20階にも入居していて、下に続く写真はそこから撮影したもの。
まずは…お茶の水駅と「聖橋」を見下ろしたところ。コチラは湯島聖堂。
隣りはニコライ堂。
順天堂大学に東京医科歯科大学。
今は「東京科学大学」か…名前が著しく軽くなったな。そして明治大学が見える駿河台方面。
こんな建物にしやがって。
私の時代は「記念館」だったからね。
改悪もいいところじゃん?この高層階にある院内には井上眼科病院の博物館があって、色んなモノを飾って自らの業績を称えている。
達也先生の卒業証書。
先生は東大医学部の眼科部会(そういうのがあるらしい)の初代会長だった。明治22年に公布された開業免許状…「東京府平民」ってのがスゴイな。
医者は平民だったのか。昔の辞書…
その他さまざまな著述物。
ナニせ物持ちがいい。
達也先生は「日露戦争」へ行ったんだネェ。
明治38年の10月といえば、二百三高地で知られる「旅順包囲戦」も、「三笠」らがバルチック艦隊と一戦を交えた「日本海海戦」も終わっているので大分後半だね。達二先生の明治時代のパスポート。
井上家は断捨離がお嫌いなのであろうか?
本当に物持ちがよろしい。
コレでいいのだ。他にも昔の治療具などがズラリを並んでいる。
ところが、コレらを見学している人はひとりもいない。
私だけ。
だって、ココに来ている人たちはみんな目が悪いんだもん。
こんな細かいモノは見たくないでしょう。ところでナンで私がココに入り込んでいるのかというと、実は昨年母がココで両目の白内障の手術をしたのです。
「目薬が多い!」とかいって怒っていたけど、ありがたいことにスッカリ完治したようだ。
その付き添いで何度も来ていた時に院内を見て回ったのだ。
もうスゴイよ、大きいし、システマチックだし。
何しろ日に40人もの白内障の手術をするのだそうです。コレも博物館に飾ってあった写真。
あの顕彰碑が建てられた時の記念写真。
1898年、明治31年のことだった。顕彰碑のすぐ裏にあるのがこのお墓。
立派ですナァ。
でもナント、肝心の井上達也さんはココに入っていないのだそうだ。
達二さんや治郎さんがココで眠っている。<つづく>
(一部敬称略 2025年4月27日 三軒茶屋HEAVEN'S DOORにて撮影)