曾我泰久 ソロ活動35周年記念ライヴ~NOW HERE I AM <前編>
曾我泰久のソロ活動の「周年」を記念するライブ『NOW HERE I AM』。
32周年記念の時にも触れたけど、「Now here I am」というのは「私は今ここにいる」とか「(約束していた場所に)来ました」という意味の決まり文句。
コレの「now」と「here」をひとつにすると「nowhere」になって「Nowhere I am」、すなわち「私はどこにもいない」と反対の意味になっちゃう。
オモシロいでしょう?
ヤッチンはビートルズが大好きだから「Nowhere Man」ならOKか?
Marshall Blogではこれまで『NOW HERE I AM』の25周年、30周年、そして前回32周年をレポートさせて頂いている。
そして、今回は35周年!
35、35…何か書きたいナァ。
と思いついたのが…作家の「直木三十五」!
ドンズバじゃん!
そう、あの「直木賞」の「直木」さん。
この人、本名は「植木」さんといって「植」という字を分解して「直木」という名字をペンネームにした。
もちろん下の「三十五」もペンネームで、私は昔「みそご」と読むものかとばかり思っていたが「さんじゅうご」が正解。
以前は他のペンネームを名乗っていたが、31歳の時に「直木三十一」に改名し、「三十二」、「三十三」と毎年名前の数字を増やしていく予定だったが、菊池寛に「そんなことはヤメろ」と言われて断念した。
最も姓名判断上で不吉とされるゾロ目の「三十三」と「惨死」に通じる「三十四」は使わなかった。
大変な貧乏生活を送った人だったが、昭和のはじめに押しも押されぬ流行作家に上り詰めた。
今では「文春砲」の「週刊文春」の方がスッカリおなじみになってしまったが、本流の「文藝春秋」を創刊したのは『恩讐の彼方に』とか『真珠夫人』の有名作を書いた上に出て来た「菊池寛」。
高松へ行くと「菊池寛通り」なんてのがあるよね。
で、菊池寛は「芥川龍之介」の大の仲良しで、直木ともとても親く、実際に文藝春秋への寄稿数もこの2人はトップクラスだった。
また直木はたくさんのアイデアを菊池に授けて文藝春秋の内容のレベルアップさせた。
そこで文藝春秋誌に多大なる貢献を果たした恩返しに菊池寛が2人の名前を冠した文学賞を昭和10年(1935年)に創設した。
春秋年2回、優れた純文学作品に与えられる「芥川龍之介賞」と大衆小説に与えられる「直木三十五賞」がそれ。
でも私はもちろんのこと、周囲に「直木三十五の小説を読んだことがある」という人に会ったことがないんだよね。
私はかなり頻繁にブックオフへ行く方だけど、ただの一度も商品を目にしたことがない。
そこで仕方なく直木の甥が書いた下の伝記本を読んでみた。
オモシロかった。
「家賃は払わない主義」とか「正妻と妾を一緒に住まわす」とか、例外に漏れず直木もかなり変なヤツだったようだが、不思議と周囲の連中から好かれていたそうだ。
しかしね、ミュージシャンには「変なヤツが多い」なんて話をよく聞くけど、ゼンゼン普通な方ですよ。
美術の方がよっぽど変なヤツが多いと思うし、棋士や政治家なんかもかなりヤバい。
でも、何と言っても「変なヤツのチャンピオン」は作家先生だ。
特に「文豪」と呼ばれる類の先生方は漏れなくおかしい。
きっと頭が良すぎちゃうんだろうね。
作家先生の奇行を挙げていたらとてもキリがないのでココでは触れないが、これで「35」という数字がとても身近になったでしょう?…なるワケないか。あ、そうだ!
「大の里関」が8年ぶりの日本人横綱にキマったそうでヨカッタですな。
きっとタニマチの皆さんも喜んでいらっしゃることでしょう。
ところで、大阪出身の直木三十五は幼少の頃、蒲柳の質で母方の叔父の親友だった医者によくかかっていた。
その医者は「薄恕一(すすきじょいち)」といって、『赤ひげ』の「新出去定(にいできょじょう)」先生よろしく、貧しい人からは少なく、裕福な人からはカッチリと診察料を取るような正義感だった。
加えて大の相撲好きで、熱心に力士を経済的に援助していたため、相撲関係者たちはいつの間にか薄先生のことを「タニマチ」と呼ぶようになった。
理由はもちろん、薄先生の病院が(今でいう)大阪市中央区谷町6丁目にあったから。
ちなみに上の本を書いた「植村鞆音(ともね)」のお父さんは三十五の弟で「清二」さんといった。その名付け親は薄先生だった。
ということで会場の「渋谷duo MUSIC EXCHANGE」にNow here I am。
会場に寄せられた祝い花の数々。コチラはファンの皆さまから。
会場内の屋台村に並んだヤッチン・グッズ。
コレは「ティシュケース付きオリジナルポーチ」。
パッと見た時、茶色いヤツが目に入って、どら焼きを売っているのかと思ってビックリしちゃった!そして、「Yatchinミニぬいぐるみ」。
コリャかわいいわ。似ているし!定刻通りにショウはスタート。
ステージに上がった5人がまず演奏したのは「Just summer for You」。 曾我泰久
実川茂
荒川泰(とおる)
斎藤まこと
衛藤浩一
まずはギターを提げずに登場したヤッチン。
テンポを速めてサンバ・パーカッションを加えたいつもとは異なるアレンジ。続けて「流されて」。
これまたいつものハードなヤツとは似ても似つかないダンサブルな編曲でビックリ!
元々がこんな感じなのかしらん? そしていよいよスタンドからマイクを取りハズして珍しいヤッチンのハンド・マイク姿!
コレはいつも通りの「Stepin' out」だけどテンポ速し!「♪Step in! Step up! Don't stop!」
マイクを向けられて早くもお客さんの大合唱!冒頭3曲、ヤッチンは歌に集中して1990年に発表した最初のソロ・アルバム『Yasuhisa Soga vol.1』からの3曲を披露した。
アッと言う間に会場が熱気にあふれ返った。「皆さま、こんばんは!ようこそいらっしゃいました。
今日は4月の1日…年度始めでお忙しい中、そしてこの寒く冷たい雨の降る中、お越し頂きまして本当にありがとうございます。
今日、私…めでたく独立35周年を迎えることができました!
せっかくの35周年のお祝いなので、ファースト・ソロライブのスタイルを踏襲してギターを持たずに、しかもハンドマイクで歌うという暴挙に出てしまいました。
こういうことは何十年もやっていないんですよ!
でもせっかくの35周年ですから皆さまにあの時のことを何か思い出してもらいたいと思ってやってみました。
楽しんで頂けましたか?」「35年ですよ!
あの大きな事務所を飛び出して…大体の方は大手のプロダクションかどこかの事務所に所属するんですが、私はバックもなければナンのつながりもない中、1人で飛び出しました。
そして35年、皆さまと共に歩んでまいりました。
なんかこの35年ってボクの中では…皆さまの中でもそうだと思うんですけど…非常に重みがあると言いますか、みんなで積み上げて来た35年だったということを今日強く感じております。
本当にありがとうございます。
しかも今日はその私のソロ活動の初期を支えてくれていたメンバーが集まってくれました。
今日は平日なので、メンバーさんのスケジューが空いているかな?と心配したんですが…空いてました。
相当前から言っていたからね」ココでヤッチンがコメントを交えながらこの日のバンドのメンバーをひとりずつ紹介した。
まずはソロ活動の1年目か2年目からのお付き合いの斎藤さん。
「お久しぶりでございます。
1年目からでしたね…春にはツアーに出て、3、4年くらいご一緒しました」
この日は15年ぶりぐらいの共演だったそうだ。結構出入りがあったキーボーズのパート。
初期から中期までを釣りが大好きな荒川さんがヤッチンを支えた。
「最近は釣りはやってないんです。
自動巻きのリールを買ったのはいいんですけど、歳で針や糸が見えなくてセットできないんです!」ドラムスは毎度おなじみ衛藤さん。
衛藤さんは1990年、ヤッチンのソロ活動の最初からドラムスでサポートをしていた。
だから衛藤さんも35周年。
「お元気ですか?おめでとうございます!
今後ともひとつよろしくお願い致します。
決してお邪魔はしないから…おそばに置いてほしいのよ!」
ヤッチンと衛藤さんはこのコンサートの後、「珍道中」で活動を共にしている。お付き合いが一番古い実川さん。
ヤッチンがジャニーズ事務所に入った時にはもうフォーリーブスのバックでギターを弾いていらした。
そしてヤッチンがトシちゃんのバックでギターを弾いてる時には実川さんとツインギターだったという。
2人はお住まいが近く、ヤッチンは実川さんから音楽を教わったり、オリジナル曲のデモ・テープを一緒に作ったりしていた。
そんな関係なのでヤッチンとしては、この日実川さんにどうしても出演して欲しかったが、長い間人前に出ていないことを理由に断られてしまった。
そこでプッシュ。そしてOK。
「どうも…実川という変わった苗字なんで『じっちゃん』と呼んでください。
今もあの時のテープがほぼ全部ウチにあるよ。
スミマセン…今日は30何年ぶりのステージなんです。
ヤッチンの音楽のマニピュレーターをやってからというもの、カラオケ制作とかそっち方面に行っちゃった。
もうステージなんて…腰が痛くて!」
セットリストにはメンバーひとりひとりをフィーチュアした曲が組み込まれた。「今日はこの素敵なメンバーでお送りしようと思います!」
次のセクションでは2枚目の『Soga』から2曲を取り上げた。
まずは衛藤さんのドラムスから。ココでギターを提げたヤッチン。
いつものコンサート通りの「Carry on」。
今日もヤッチンは当然Marshall。
ヤッチンの背後のMarshallは、人気の「STUDIOシリーズ」から「SN20H」と「SC20H」、スピーカー・キャビネットは「SC212」。
興味のない人にはどれも同じに見えることでしょう。
よく見てもらうと、ホ~ラ、違うでしょ?
下はここのところステージで愛用している「SC20H」。
でも今日のヤッチンは上段の「SN20H」を使用した。
「N」は「Nine-hundred」の頭文字。
Marshallが1990年に発売した「JCM900」シリーズの人気モデルの小型版が「SN20H」。
「ヘェ~」って驚くのはまだ早い!…誰も驚いてないか?
実はこの時、まだこの商品が日本には入って来ていなくて、この日、我が国において初めて公の場で使われたのです。
つまりヤッチンが「日本で最初にこのモデルを使った人」になる。
ヤッチンの愛器との相性もバツグンによく、試した途端お気に召してこのステージで早速使って頂くことになった。
実際にこのアンプ、すごくよく出来ているのです。すぐそばには「Yatchinミニぬいぐるみ」の姿が!
そのまま続けて「Stand alone」。
この曲もいつものコンサートでおなじみの1曲。
でもこうして違うバンドで聴かせてもらうとまた違った味わいがあるというものだ。ギター・ソロ。
ウ~ム、やっぱりいい音だわ!
たとえ20Wでも太くヌケの良いサウンドは真空管アンプならではのモノ。「ありがとうございます。
イヤ~、最近のライブでも歌っている曲でもこうしてこのメンバーで時系列で演っていくと不思議なものでその当時のことがフワッ~と浮かんでくるんだよね。
いい曲が多いネ。
さぁ~今日はソロ・ライブなのでソロの曲しか演らない…かな?
続きましてはチョット時系列から離れてしまうんですが…事務所にいた時からやっていたミュージカルの仕事がソロを始めた頃に非常に多くなっていきました。
ライブは今みたいに月1回なんてあり得なくて、年に1回なんていう時もあったりしたんです。
でも、ミュージカルでボクのファンになってくれた方もいらっしゃると思うんです。
そうしてる間に音楽業界の方もだいぶ変わって来てしまいました」「メジャーでCDを出さないとダメなのかな?なんて思っている時にボクは頑なに自主制作という形を推し進めて来たんです。
その時にデモ・テープをいっぱい作りました。
それでそれをCDにして出したらどうか?ということになったんですが、『そりゃないでしょ。だってデモ・テープはデモ・テープなんだから。
人間は1番最初に聴いた曲の印象が強いので未完成の音のままの印象が残ってしまいますよ』とボクは考えたんです。
ところが当時のプロデューサーの方が『後々、自分の思い通りのアレンジで好きなミュージシャンを起用してレコーディングし直したらどうですか?』と提案してくれたんです。
二段構えですよね。
それで『そんなことをやっている人もいないのでオモシロイかも?』と思って始めたのが『Super Rare Trax』というワケでございます」「当時は、デモ・テープを作る時間も結構あったので、割とサクサクとCDを出すことができていたんです。
ところがここ最近はパソコンを新しくしたり、音楽制作ソフトを新しくしていたりしたらホントにね…今、迷子。
音は素晴らしいんです。
たくさん良い音が入っているんだけど、それを聴くだけでものすごく時間がかかっちゃうワケ。
今、まだ探検中でございます。
近いウチにデモ・テープを作って『Super Rare Trax』をお届けしたいと思っておりますので楽しみにしていてください」今説明があった1998年の『Super Rare Trax vol.1』」の中から「It's alright」。
コレは初めて聴いた。
歌詞がスゴイ!…ゼンゼン「Alright」じゃない!実川さんがボトルネックを披露。
指にガラスの筒をハメてニュウニュウやるヤツね。
昔の人は本物のガラスのビンをクビのところでチョン切って自分たちで作っていた。
この奏法の名手だったデュアン・オールマンは「Coricidin(コリシディン)」という風邪薬のビンを愛用していたそうな。ヤッチンの「♪It's alright」の歌声がアーシーな感じですごくいいね~。
ヤッチンのサザン・ロック。そして実川さんのボトルネックが唸る!
ヤッチンの歌とのコンビネーションが実に聴いていて気持ちイイ!『Super Rare Trax vol.2』から「愛を育てよう」。
いつも通りの「愛を育てよう」。
みんなで手を左右にフリフリ。「実ちゃんのギター、カッコよかったでしょ?
最近はこのボトルネックを使っているミュージシャンってなかなか見ないですね。
続きまして、ボクは芸能生活51年になりますが、その中の大きなトピックスと言えば自分でミュージカルを企画したことです。
原案、音楽、主演をやったことが自分の中で大きな思い出になっています。
以前にも話したと思いますが、『やってみたいな』というアイディアが頭の中にイッパイあったんですね。
その中で、タイムスリップしてビートルズに会えたらうれしいな…と言う思いで『ジョーカー』という企画を考えていました」「その時タマタマ新宿の飲み屋さんかな?…本当に隣にいた方が某局の舞台製作をやっていらっしゃる方だった。
そうとは知らず意気投合して話しが盛り上がって、実はこんなことやりたいと思ってるんですって言ったら『それおもしろいねぇ。企画書を書いてくれる?』って言われたんですね。
企画書なんてそれまで一度も書いたことなかったんですが『お金のことなんか心配しなくていいからやりたいこと全部書いて!』って言われた。
そりゃもう頭の中がグルグル回るでしょう?
それでやりたいことを整理して、書いて…結局、そのテレビ局の人とは仕事が出来なかったんですが、そこから回り巡って中村龍史先生にお願いすることになったんです。
実際にその舞台をやりました。
その当時はまだ高校生の役をやっていたんですが、今じゃ紗幕を落さないと!
その思い出深い『ジョーカーズ』の曲をココでお届けします」久しぶりに歌ったという『Super Rare Trax vol.4 HIMAWARI』収録の「On the beach」。
いいな~、マージ―・ビート(風)!
ビートルズを愛するヤッチンならではのサウンドと言えようぞ。20年近く前に行ったリバプールのマージ―川。
日本では「リバプール・サウンド」と呼ばれるこの辺り出身のバンドが作った音楽が「マージ―・ビート(Merseybeat)」。
ジェリ―&ザ・ペースメイカーズとか、ハーマンズ・ハーミッツとか、挙げだしたらキリがないけど、この60年代前半のイギリスのロックは実によろしいナァ。
いわゆる最初の「ブリティッシュ・インヴェイジョン」というヤツ。
それと最近「たまらなくいいな」と思っているのは日本の唱歌。
信じられないい魅力的なメロディがゴロゴロしている。 また衛藤さんが叩き出す軽快なビートが曲にとてもよくマッチするだわ~。
続いても同じアルバムからマージ―・ビート調の「神様チャンスを」。
コレは時々取り上げられる1曲。荒川さんが奏でる低音域のピアノの間奏がまた雰囲気満点!
曾我泰久の詳しい情報はコチラ⇒soga21.com
<つづく>