犬神サアカス團『人生に意味があるなら<前編>』~私の谷中墓地(その8)
昨年末、明兄さんのお誕生日をお祝いする単独公演があったのだが、体調を崩してしまいお邪魔することができなかった。
インフルエンザ等の流行り病ではなかったもののセキが出てセキが出て、も~、苦しかったのナンノって!
そんな状態でライブハウスに行くのも皆さんのご迷惑になると思い、涙を飲んで家で大人しくしていたというワケ。
ということで今日はそのひとつ前、11月末に開催した単独興行『人生に意味があるなら』のレポートをお送りする。 この単独興行の当日に発売することを事前に告知してあったのが、新曲のために準備した新しいグッズの「天誅ペンライト」。
コレが実物。
羽が生えたように売れまくっていたよ~。今回のステージのようす。
バックドロップが「カンフーパンダちゃん」から「最上等ロック」に戻った。
ん?ナンカいつもより犬神家の「通夜/葬儀会場」の案内が多いんじゃない?ステージ上手にはONOCHINのMarshall。
今回は「JCM2000 DSL100」と「1960A」。
オルガンのエフェクト音を出すために「ORIGIN20C」を併用。
足元のようす。
ステージ中央には明兄さんのNATAL。
愛用のアッシュのキットだ。凶子姉さんの影アナにより録音録画禁止等の公演中の注意事項が読み上げられ、ストラヴィンスキーの「火の鳥」が会場に流れる中メンバーが登場。
まずは「カンフートーキョー」。犬神凶子
犬神明
ONOCHIN
犬神敦
今日もみんなで凶子姉さんにフリを合わせて大盛り上がり!
作戦大成功…この曲はとっても良いレパートリーになりましたナァ。
相談を受けたワケじゃないけど、やってヨカッタ!「改めましてこんばんは、犬神サアカス團です!
明兄さん、今日は何のワンマンですか?」「今日は新曲披露のワンマンですよ。
でも新曲を演るのはだいぶ後なんで身体をあっためておきましょう。
寒くてケガするからさ。いきなり動くとケガしちゃうよ!
まぁ、パッといきましょう!」ココでいつもの啖呵。
「今宵お目に掛けますは犬神一座の大サアカス。
どうかひとつ…最後まで、最後まで、最後まで盛り上がっていくぜ~!」無事に仁義を切ったところで矢継ぎ早に「スケ番ロック」で大暴走!
アクセル全開のドライブぶりは相変わらず。
ホント、カッコいい曲だ。そしてONOCHINが極上のMarshallサウンドでソロ暴走をキメた!
続いては「光と影のトッカータ」。
濃い~人気ドライビング・チューンの連続で…
犬神リズム團が大活躍!
シンプルにしてストレート…気持ちの良いロック・ビートのお手本だ。「もう11月もおしまいです。寒いですね…冬ですね。
今日はみんなに冬の楽しみ方について訊いてみたいと思います。
まずはONOCHINさんからお願いします」「こんばんは、ONOCHINです。よろしくお願いします。
冬の楽しみといえばもう皆さんおわかりでしょう…『有馬記念』がありますネェ。
もし取ったら次回の興行で皆さんにドリンクをご馳走します。
他では当たって夕飯をおごったりするんですけど、犬神さんの時にはなかなか当たらないんだよね。
取ったら必ずご馳走しますんで!」今年の「有馬記念」は12月22日だった。
結果はどうなったのだろう?
ところで、私は競馬についてナニも知らないので「有馬記念」の「有馬」とは何のことか考えたこともなかった。
いい機会なので調べてみた。
「有馬記念」は「府中の『日本ダービー』に匹敵するような大レースを暮れの中山競馬場でやったらメッチャ盛り上がるんじゃん?」ということで始めたレースで、元々は「中山グランプリ」という名称だった。
1956年にその提案をしたのが「有馬頼寧(ありま よりやす)」という時の中央競馬会の理事長で、翌年その頼寧が急逝し、その後に「有馬記念」と改称された。
ちなみにイギリスに「ダービー(Derby)」という地名があるけれど、競馬のダービーは「ダービー伯爵(Earl of Derbyという位の名前)」にちなんで名づけられたんだよ。
しからば、この「有馬頼寧」というのはどういう人なのよ?
ビックリだよ。
まず名字からして「馬」だからね。
この有馬さん、久留米藩主有馬家の第15代の当主で岩倉具視のお孫さんだっていうんだよ。
世が世なら完全にお殿様だ。
しかも、久留米藩というのは石高が21万石もあったというのだからかなりの大殿様だ。
で、奥さんが北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)の次女の貞子さん。
この能久(よしひさ)親王というのは、上野寛永寺の最後の門主「輪王寺宮(りんのうじのみや)」のこと。
言い換えると、1868年の上野戦争の時の幕府軍の親分だ。(このあたり、もっと詳しく書きたいがガマン)
一方、岩倉具視といえばニセの「錦の御旗」を担ぎ出し、薩長をアジって維新をまんまと成し遂げた官軍の頭目じゃん?
ナンだって岩倉の孫と輪王寺宮の娘が一緒になったんだろう?知りたいナァ。
とにかく有馬さんはそういうお血脈の方で、東大の農学部を卒業して政治家になった。
かなりの篤志家で様々な社会活動を推進していたそうだ。
下がその有馬さん。
ウ~ム、確かに殿様ヅラだ。
こういう家柄の良い人ってのは「品」のカタマリでね、オーラがスゴイんだよ。
どういう風にスゴイかって言うと…とにかく「殿様」なんだよ。それ以外のナニモノでもない。
私も会津の出の徳川宗家の血筋の人にお会いしたことがあったが、周囲の空気が普通の人とはもうゼンゼン違うから!
私の品格にピッタリなのよ。 しかし、お近づきになるならこっちの方がうれしいけどね。
有馬稲子…もしかして関係があるのかと思ったけど、ネコちゃんの本名は「中西さん」だった。
昔の映画女優は入江たか子とか久我美子とか河内桃子とか、スゴイ血筋の人がいたので、一瞬その仲間かと思った。
それどころかネコちゃんも高峰秀子や乙羽信子同様、なかなか複雑な家庭に育ったようだ。 さて、三茶競馬場の第1コーナーを曲がったところで「東京2060」。
凶子さんとONOCHINのイキのあったところを見せて… 凶子さんが東京の近未来を歌い上げる。
コワいね、近未来。
まったくナニが起こるかわからない。どんなに世の中がおかしくなっても変わることがない永遠の真理は「ロック」という音楽におけるこのMarshallが出すギター・サウンドよ!
ONOCHINが今日もバリバリそれを聴かせてくれている!つづけて「カンフートーキョー」のカップリング曲「代理懐胎生物」。
ココは近未来で固めてきた。ハードにグイグイとバンドを引っ張っていく敦くんの低音。
「♪サーカスの幕があがる 東京2060」
いいネェ、前の曲のアンサー・ソングになっているのだ。冬の楽しみ方を紹介する2人目は敦くん。
「皆さん、こんばんは、犬神敦です。
冬のボクの楽しみ…1つだけ教えたいと思います。
まず楽天かヤフーショッピングで冷凍の牡蠣を1kg購入します。
そしてそれを水で解凍して、オイスターソースで炒めます。
炒めた後、ビンに詰めて葉っぱと唐辛子とニンニクを入れて、そこにオリーブオイルを注いで完成です。
牡蠣のオリーブオイル漬けみたいなモノですね。
それを冬場に1つずつ大切に食べるんです。
たまにパスタと合わせて牡蠣のペペロンチーノみたいにして食べるとす~ごく美味くてフリュ~ってなります。
チョット面倒くさいですよね?」敦くん、牡蠣好きだナァ。
下は去年の1月6日に上野恩賜公園で開催されていた「牡蠣フェス」。
敦くんが来るというので様子を見に行ったんだけど会えなかった。
この後、ココで牡蠣を食べた35人が食中毒でブッ倒れて大ニュースになっちゃったんだよ。
さすがに今年は開催されていないようだった。 さて、第2コーナーを回って「カナリヤ」。
ここのところおなじみの展開で、お客さんたちは凶子さんのシットリとした歌声を楽しんだ。
ストラトキャスター・モデルに持ち替えたONOCHINもまるで歌を歌っているようなメロディアスなソロを聴かせてくれた。
今日のこのコーナーの2曲目は「空の色は何色ですか?」。
明兄さんのクリアな三連のグルーヴに乗って…凶子さんが自作の物語を説くように歌ってくれる。
イヤな物語だけど、犬神サアカス團しか作り出せない世界であることだけは間違いない。
そういうことをジャンジャンやってもらいたい。「次は明兄さんに冬の楽しみを訊いてみたいと思います」
「はーい!冬の楽しみね…やっぱり読書の冬かな?
冬はコタツの中でミカンを食べながらマンガをココまでは絶対読もうって用意して、首までスッポリ入って一切動かない」
最近ハマっているという新しいマンガの話。
私は手塚治虫と『浦安鉄筋家族』以外のマンガは一切読まないのでわからないから少々ワープ。「もうさんざん読み返している怪奇マンガがあります。
こないだお亡くなりになった楳図先生の作品を読み返すのも楽しみです。
でもね新しいマンガにも挑戦しようと思って…ナニせ本屋さんが減っているんで。
マンガも今やスマホで読む時代かもしれないけど、コタツで読む時はやっぱり紙がいいよね。
開いた時の印刷の匂いが愛おしいね…というワケで今年の冬も長編のマンガに挑戦したいと思います!」「昭和だね、やっぱ…カッコいいね、貫いてるね。
たぶん子供の頃にそれをやっていたんでしょう。
でも昭和は新しいよ。最先端だね。
昭和30年代だよね。憧れるね」「ナポリタンを食べる時に『昭和のナポリタン』とか『懐かしのナポリタン』とか『昔懐かしい』とか書いていないと食べる気になんないでしょ?みんな。
やっぱり昭和に憧れがあるんだよね。
歌謡曲で言ったらピンクレディ以降はもう昭和歌謡とは言わないとか…オレん中ではあるんだけどね。
昭和歌謡っていうのは天地真理とかあべ静江とか山口百恵ちゃん。
ピンクレディー以前のモノが昭和歌謡だよね。
そこにリスペクトを持って私たちはやっていますね…だから新しいですよ」明兄さんがハイハットで繰り出すジャズ・ビートは「マッチポンプ」。
フロント・ピックアップのネバっこいトーンで弾くイントロのメロディ。
いいね~。この曲でも凶子姉さんの歌が最高のストーリー・テラーぶりを発揮する。
こういうシアトリカルな曲がニガテな日本のロックバンドにあって異彩を放つナンバーと言ってよかろう。
そのまま続けて「大地に死す」。
最近よく取り上げられる1曲。
メンバー4人の連帯感が…
いかんなく発揮されるのは…
終盤のこのフォーメーション。
曲も歌詞もフリもカッコいいではあるまいか!
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒犬神サアカス團公式ウェブサイト<後編>につづく
☆☆☆私の谷中墓地(その8)☆☆☆
以前にも書いた通りこの谷中墓地の探索は、やればやるほど、知れば知るほど新しい発見があって興味が尽きることを知らない。
実際、ココに眠っている偉人や文化人に接することは、日本の歴史や文化の勉強をするのにとても良い切り口だと思うのだ。
もちろん青山、雑司ヶ谷、多摩等、谷中以外の大霊園を見て歩かないのは大きな片手落ちであることは承知しているが、谷中墓地は私の散歩コースのひとつであり、趣味と実益を兼ねた絶好の勉強場所でもあるのだ。
ということで、大分ヌケがあることに気づいた前回から何度も赴いて探索の網の目を細かくして素材を集め直した。
自分の親の墓よりよっぽど足繁く通っているからね。
それもゼンゼン駄目だね。
まだまだ見落としている重要な人物のお墓がたくさんあることだろう。
そういうのはおいおい追加していくこととしましょう。
それと、夕方になるとおっかないので、早い時間に来てテクテクと数時間見て歩くとすぐに1万歩ぐらい歩いちゃうのよ。
まさか弁当を持って来て広げるワケにはいかないけど、周囲に車が走っていないので空気はいいし、静かだし、運動にはなるしで、本当にスゴイところだと思うのです。
さて、前回に引き続き、今回も上野側から日暮里駅方面へ走る「さくら通り」という目抜き通りを進み、その左側の「甲」地区の「奇数」の番地が割り当てられたエリアを散策することにする。最初からいきなり場所が替わって…ココはお茶の水。
なかなかこんな景色を見ることはできませんよ。
この写真はズッと後の回に登場するであろう有名なお医者さんの一族が保有するビルの高層階から撮ったモノ。
流れているのは神田川。
大正時代、黒澤明さんは白山の京華学園に通っていて、『蝦蟇の油 自伝のようなもの(岩波書店刊)』を読むと、この土手を降りて行って河川敷を歩いて学校へ行ったことがあったそうだ。
急勾配で危険なので、土手を降りることはもちろん禁止されていたが、若かったのでそういう「ムチャ」をして楽しんだそうだ。現在、鹿島建設による大規模な工事が進行しているお茶の水駅を上から見たところ。
ホームに上に2階建ての駅舎を作っているんだって。神田川をはさんだお茶の水駅の対岸にあるのは「東京医科歯科大学」。
ウチは特に縁もゆかりもないんだけど、ナゼか私と上の子が入院してお世話になった。
スッカリ立派になってしまって、私が47年前に入院した頃とは雲泥の差だ。 今、ココでの主役はそのお隣の「順天堂大学病院」。
正式名称は「順天堂大学付属順天堂医院」という。
小学生の時、コチラの皮膚科にもお世話になったことがあった。
箱根駅伝でもおなじみの「順天堂大学」。
今日はその「順天堂」から始めることにする。
谷中墓地へ戻って…。
「さくら通り」をしばらく進み、「ぎんなん通り」に交わったところを左に曲がってチョット行った右側にあるのがこのお墓。
ナント美しいデザイン!
名前は知らないけど、墓石の背後の大きな木が故人を見守っているかのようだ。この墓の主は「佐藤尚中(たかなか)」。
位階は「従五位(じゅごい)」…この「位階」ってのがどうもよくわからん。ただ今研究中。佐藤尚中の顕彰碑。
尚中は千葉の香取出身の幕末から明治初期にかけての蘭方医、つまりオランダ医学のお医者さんで、「東京順天堂」の第2代堂主にして順天堂医院の初代の院長だった…この辺りはチトややこしい。この人が佐藤尚中。
元々は佐藤家の人ではないが、「佐藤泰然」という人の養子となり、泰然には男の子がいたにもかかわらず尚中に佐藤家の家督を継がせた。
いわゆる「養嗣子(ようしし)」というヤツ。相当優秀だったんだろうネェ。
万延元年には長崎に留学し、シーボルトの後任のポンぺにオランダ医学を学んだ。さて、谷中墓地内の一番ハジッコに移動する。
下の写真の手前の道を左へ降りて行けば日暮里駅、右へ行けば「夕やけだんだん」を経て人気の「谷中商店街」。
墓地のすぐとなりはいきなりセブンイレブンだ。そのハジッコにあるのが上に出て来た「佐藤泰然」のお墓。
ホラ、すぐ後ろはセブンイレブン、いい気分…開いててヨカッタ。
キューブリックの『シャイニング』のホテルじゃないけど、こういうのはナンカちょっと興ざめしちゃうね。でも、それはそれは立派なお墓なんですよ。
上にもチラっと書いた通り、佐藤泰然は尚中の養父で、ナント、「高野長英」のお弟子さん。
長英のことを書き出すと記事3回分ぐらいのネタがあってキリがなくなってしまうのでココでは素通りします。この人が佐藤泰然。
なんかカッコいいな。
この人のお父さんがスゴイ。ナニがすごいってその名前!
「佐藤藤佐」さんとおっしゃる。「三遊亭遊三」か!
「藤佐」と書いて「とうすけ」と読む。
加えて尚中の三女のお婿さんの名前は「佐(たすく)」さんといった…つまり「佐藤佐」だ。
絶対にフザけてんな、この家の人たちは。
泰然が長崎留学から江戸へ戻って来て、やげん堀に開いたオランダ医学の塾が母の旧姓の「和田」を冠した「和田塾」。
コレが順天堂の期限で、上に出て来た養子の尚中はこの塾の生徒だった。
そして、佐倉藩藩主の堀田正睦(まさよし)の侍医に迎えられた泰然は千葉の佐倉に移住し、「佐倉順天堂」を開設した。
長英の教え子だった泰然には「蛮社の獄」という背景もあったようだ。
この佐倉順天堂はすでに乳癌や種痘等、当時アグレッシブとされていた治療法をガンガン取り入れて、有名な大阪の緒方洪庵の「適塾」のライバルとされていた。
ん?そんな外科手術をする時、麻酔はどうしていたのか?とフト疑問に思った。
ナゼなら和歌山の華岡青洲が頭に浮かんだからだのし(「のし」は和歌山の方言)。しからば…と、時代的な背景を調べてみてビックリ!
華岡青洲がトリカブト等の薬草を利用して患者を眠らせ全身麻酔手術を成功させたのは1804年、泰然が生まれた年だった!
スゲエのし、華岡青洲。 泰全に戻って…早速「やげん堀」に行って来た。
「やげん堀」は今の東日本橋。
この辺りにあった堀の形が「薬研(やげん)」に似ていたことよりそう呼ばれるようになった。「薬研」ってわかる?
こういうヤツ。
船みたいな形をした凹みに生薬や薬草を入れる。
そして、筋トレの道具みたいなヤツを凹みの中でゴリゴリと前後させて生薬や薬草を挽く。
要するに「ミル」だよね。 ナニかとMarshall Blogによく出て来る1965年の黒澤作品『赤ひげ』。
コレは山本周五郎の『赤ひげ診療譚(新潮社刊)』をベースに、翻案したドストエフスキーの『貧しき人々(新潮社刊)』等の挿話を組み入れて作られていて、病院を舞台にしているため医者の仕事ぶりが随所に出て来る。加山雄三が演じる長崎帰りの若き医師・保本登が、土屋嘉男扮する先輩医師の半太夫に身の上を話すシーン。
この時、ゴリッゴリッと保本は薬研を使って薬草を挽いている。
黒澤さんはこのシーンをロングでワンカットで撮るんだけど、見ていると保本はこの後、薬研で挽いた薬草を画面の左端に映っている石臼に入れて更に細かくしていた。
なるほど、薬研は大まかに挽くためのモノなのか…。
その後石臼で挽いて粉薬にするんだね、きっと。保本が挽いていた薬草はこの辺りから採取して来たモノに違いない。
写真は「小石川植物園」内にある「小石川療養所」の跡地で、この井戸が実際に使われていた。
『赤ひげ』の中で、ネコイラズを飲んで一家心中の犠牲となった頭師佳孝(ずしよしたか)が扮する子供の命を救おうと療養所の下働きのオバさんたちがその名前を叫ぶのがこの井戸…と思いたい。
ちなみに山本周五郎の原作にはそんなシーンがないどころか、子供すら出て来ません。
コレは黒澤明や小国英雄らの脚色。
映画を観た周五郎がひと言…「ナンでぇ、オレの原作よりいいじゃね~か」と言ったとか。今でも小石川植物園では薬草のサンプルを育てている。
さて、そのやげん堀。
ナント言っても有名なのは「薬研堀不動院」。ココは川崎大師の「東京別院」ということになっている。
唐辛子とカゴメの野菜ジュースが奉納されている。
唐辛子はわかるんだけど、カゴメはなんでだろう?
「カゴメ株式会社」は名古屋の会社で東京本社がココからほど近い日本橋の浜町(明治座があるところ)にあるからか?…知らんけど。さて、唐辛子の方。
「やげん堀のとうがらし」はウチはもう親子4代でお世話になっていて、食卓で切らすことはまずあり得ない。
外国人へのお土産もいつもコレ。お店は浅草の「新仲見世通り」。
7つの素材の割合を変えてビスポークしてくれる。
ウチは上の写真の右側の「大辛」で「陳皮(ミカンの皮)」多めでいつも調合してもらっている。
まぁ、ココのオジさんが私を上回るほどのおしゃべりな方で、「やげん堀の唐辛子は今年で400年になります」と最近はしきりに言うんですよ。これはウソでもなんでもなくて、寛永2年(1625年)、中島徳右衛門という人が薬研堀で薬屋を始めたのがその起源。
そして、漢方の知識を活かして「七味唐辛子」を発案し、それがウマい具合に德川家光に気に入られたのだそうだ。
昔は砂糖もそうだけど、珍しいモノはみんな薬扱いだから。
一番効能が強いとされていた薬は何だったか知ってる?
それは「人胆」と呼ばれた人間の胆嚢だった。
ナンにでも効いちゃうんだって。
ハイ、看板の一番左を見てください。七味唐辛子を大いに気に入った家光は「德」という字を徳右衛門に下賜し、徳右衛門は屋号を「山德」とした。
これは(その6)でもやったんだけど、どういうことかわかりますか?
実は「とくがわ」というのは「徳川」ではなくて「德川」と書く。
看板の「德」を見ればわかるように、つくりの「心」の上に線が1本入っているでしょ?
コレに大きな意味がある。
この線は徳川の人たちが勝手に加えたワケではなくて、家康、秀忠、家光のグルで家光の時に東叡山寛永寺を建立した天海大僧正が「アータ、徳川はエラいんだから普通の『徳』じゃダメよ、ダメダメ。線を1本増やして『德』にしなさいよ~」とアドバイスしてこの字が使われるようになったという。
その「德」の字を使ってもいいよ…と将軍様に認められたワケですよ。
そんな字が屋号に使われているなんて、トンデモなく徳をしたワケよ。
コレで納得した?それともとっくに知ってた?もう大分前の話だけど、テレビの取材がこのお店に来ていて、その様子をチョットのぞき込んだことがあった。
店内をレポートしていた小柄な女の子に目をやると、その子が信じられないぐらいカワイイのよ。
よく見たら、それは「すずちゃん」だった。
別にヒイキにしているワケではなくて、公正な目で見てケタ違いにカワイかったわ!
そして隣の「コマチヘア」。
浅草では知らない人がいない髪飾りやカツラ等、髪の毛関連のアクセサリーを扱う大老舗。
昔でいうと「かもじや」って言うのかな?
で、コマチヘアの今の社長の岩崎さんは4代目で、かつてMarshall Blogにも出て頂いたことがあるKrushgrooveというバンドのメンバーだった。
NAKED MACHINEの源ちゃんが岩崎さんと仲良しで、数年前に紹介してもらった。
「浅草の老舗店の親方」と知り合うチャンスなんて滅多にないのでお近づきになれてとてもうれしかった。ゴメンね…今回は我ながら脱線がスゴイと思うわ。
ところで、薬研堀不動院にはいくつかの記念碑が建ててあって、ココは「講談発祥の地」なんだって。「歳の市」というのは、江戸の昔、門松や羽子板や〆縄等の正月グッズを売る時に立つ市で、深川八幡宮、浅草観音、神田明神…とアチコチを回って最後はこの薬研堀不動院で締めくくったのだそうだ。
だから「納めの歳の市」なんだって。「遍路大師御尊像」とは弘法大師のこと。
その向こうの黒い石碑に注目。「順天堂発祥之地」の石碑なのだ。
もはや「順天堂」をやっていたことを忘れていたでしょう?泰然はココに「和田塾」を開設し、それが順天堂の礎になった。
そして尚中はココに通っていたワケ。もうチョット佐藤さんをやります。
だって、何しろ家柄がゴージャス!
家系図を見てビックリ。コレに触れずにはいられない。
佐倉へ行くと「順天堂記念館」というのがあるそうなので、ガソリンが安くなったら行ってみようかと思っている。
下はそこにあるという佐藤泰然の胸像。 その泰然さんファミリーね…まず、姉の「ふく」さんの娘の旦那が「日本の博物館の父」と言われる「田中芳男」。
この人も谷中なのでそのウチ出てきます。スゲエお墓ですよ。
一方、妹の「せき」さんの娘さんがこのシリーズの第1回目に登場した花岡真節の後妻。長女の「つる」さんは「林洞海(どうかい)」の奥さん。
洞海は泰然が佐倉に引っ込んだ後の「和田塾」を切り回した人。
この洞海がまたスゴイと来てる。
オランダ帰りで、「伊藤玄朴」らと神田のお玉が池に種痘所を設立した人。
コレが後の東大医学部になった。
で、洞海の長女の「多津」さんは「榎本武揚」の奥さん。
次女の「貞」さんは「森鴎外」の最初の奥さん。
六男の「紳六郎」さんは「西周(にしあまね)」の養子になった。
西周はフリーメイソンで「独協」の初代校長。
コレが林洞海。 佐藤泰然に戻って…
長男は「山村惣三郎」といって維新後は順天堂の会計を担当した…と控えめなプロフィールなので案内図にすら登場することはないが、墓は泰然とも尚中と別の谷中墓地内の場所にある。当然私も知らなかったが、「山村惣三郎」なんていかにも立派な名前の墓石がタマタマ目に入って写真を撮っておいた。
泰然の次男坊はスゴイよ。
ナント松本良順!良順のことは吉村昭先生の『暁の旅人』に詳しい。
とてもオモシロイ本です。
良順もポンぺの教え子で長崎養生所の頭取だった。コレはその「長崎養生所(小島養生所)」の跡に建てられている資料館。
長崎は坂が多くて色々と見て回るには本当に体力を要するんだけど、坂の上にあるこの施設を訪れたのはこの日の夕方だったので着いた時にはヘロヘロになったわ。入場無料。館内では長崎においてのポンぺの偉業を説明したり…
長崎養生所に学んだそのお弟子さんたちの活躍が紹介している、
ホラ、松本良順や佐藤尚中、楠本いね等、もうおなじみでしょ?
ココを訪れた時には「Marshall Blogを見て来ました」と受付のおジイさんに言ってくださいね。
不思議に思われます。 もう少し良順を…。
コレは長崎大学医学部のキャンパス。
スゲエ広い。入ってすぐの右側にある建物。
「良順会館」と名付けられた講堂が立っている。
良順は上で紹介した「長崎養生所」の頭取を務め、ポンぺとともに長崎大学医学部を創立した。東大の医学部の構内にもたくさんの先人の偉業を顕彰する碑が立てられていて、見て歩くと大変オモシロイのだが、ココも同じ。
「医学は長崎から」というぐらいなので、ネタに事欠かないのだ。
もちろんシーボルトの碑も立てられている。これはポンぺ先生の顕彰碑。
これは近年建てられたモノであろうか?
まとめてこんなのも…。ツェンベリー、シーボルト、モーニッケ、ポンぺ、ボードイン、吉雄耕牛、楢林宗健、楠本イネ(ご本人やシーボルトの細君であった母君はもちろん、愛媛の大洲にあるお孫さんのダンナさんのお墓参りもしてきました)、松本良順、相良知安、長与専斎といった吉村先生の著書を読んでいる人なら誰でも知っている名前がズラリと並んでいる。
もう一方には…知らない人ばっかりだナァ。
最上川逆白波のたつまでどにふぶく夕べとなりにけるかも
これはココに名前が出ている斎藤茂吉の歌。「どくとるマンボウ」の北杜夫のお父さんね。
井上先生によるとこの歌には日本語の母音のマジックが含まれている…ということに興味があって覚えた。
思ったより記憶力が減退しているらしく、コレだけなのに覚えるのに10日以上かかったわ!
昔なら一発で覚えたんだけどナァ。
もうお一方。
永井先生のお名前が挙がっている。
永井隆は長崎大医学部の先生で奥さんを原爆で亡くし、自分も白血病と闘いながら「如己堂」と呼んだタタミ2畳の庵で2人の子供を育て、反戦運動を展開した人。
映画や歌になった『長崎の鐘』をご存知の人もいるであろう。同作や木下恵介が映画化した『この子を残して』の作者。 話が原爆となったところで…コレは長崎大学医学部の正門。
立派な門柱が立っている。
その傍らには「原爆の爆風の物凄さを今尚ここに見る」と書かれた石柱が立っている。
この門柱を横から見るとこんなに傾いているのだ。
爆心地からの距離は500m。
こんなに重く背の低いモノが「ファットマン」が引き起こした爆風で片側が16cmも浮かび上がってしまった。
実際にこの門柱は原爆の威力を測定するサンプルに使用された。 話は長崎から江戸に戻って…
第14代将軍家茂の侍医でもあった良順は戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の軍医となった。
維新後は陸軍軍医総監を務めたので森鴎外の先輩に当たるね。
考えてみると、しかも鴎外は良順の遠縁なんだね。
移動して来たのはディープ浅草にある縁結びで知られる今戸神社。拝殿に招き猫が2体見えるでしょ?
コレは今戸焼の招き猫。
今戸神社は「今戸焼」発祥の地で招き猫がたくさん飾ってある。
ちなみに「今戸の狐」というこの付近を舞台にした落語は大変にオモシロイ噺です。
是非聴いてもらいたい。ココには「沖田総司終焉の地」という碑が建てられている。
沖田総司の主治医が今戸神社に間借りしていた松本良順だったことからそうなっているらしい。
実は「沖田終焉の地」は四谷にもあって、どうもそっちが本当とされているようだけどね。晩年の良順…ヒゲがスゴイ。
明治の人の写真を見ていていつも思うんだけど、みんなヒゲが立派でしょ?
よくこんなに生えるよナァ。昔の人の方がヒゲが濃かったのかナァ?ま、チャンピオンは断然この明治/大正の軍人/政治家の長岡外史だろうね。
「プロペラヒゲ」というそうだ。昔の正露丸のパッケージ。
綴りが「征露丸」になっているのは「ロシアをやっつける」という意味、
後に「コレじゃヤバいんじゃん?」ということで「征」から行人編を取り払って「正露丸」にした。
「征露丸」のパッケージに登場しているヒゲのおジイちゃんが松本良順。「正露丸」といえば、テレビCMのラッパのメロディが有名。
ま、偶然でしょうけど、マイルス・デイヴィスは『Sketches of Spain』というアルバムの「Saeta」という曲であの正露丸のCMのラッパのメロディを使用している。
全く同じではないけど、97%ぐらい同じなの。
実はこのメロディは日本帝国陸軍の「通信ラッパ」といわれているモノで「食事」の時の合図なのだそうだ。
大幸薬品としては、やっぱり腹ぐすりだから「食事のテーマ」にしたのかね?佐藤泰然ファミリーからもうひとり。
五男坊は西園寺内閣の外務大臣でニコライ二世が襲撃された「大津事件」の処理をした林董(はやしただす)。
この人は浜田彦蔵から英語を教わったが、更に本格的に勉強をすることになって有名なヘップバーン先生の薫陶を受けた。
浜田彦蔵は「アメリカ彦蔵=ジョセフ・ヒコ」、ヘップバーンは「ヘボン式ローマ字」のヘボンのこと。浜田彦蔵は嘉永3年に江戸へ向かう船が漂流し、2ヶ月の間太平洋をさまよった挙句、アメリカの船に救助されてサンフランシスコへ渡り、その後に日本に新聞を持ち帰って来た人。
それまで日本には今で言うような新聞がなかった。
この話も吉村先生が『アメリカ彦蔵(新潮社刊)』という本で著している。
これも大変にオモシロイ小説です。 今度は大きく移動してイギリスのコッツウォルズ。
ココは「コッツウォルズ・ストーン」というベージュ色の石を積み上げた建築が有名。
そんな建物の入り口…ホラ、フリーメイソンのロゴ・サイン。
ココがロッジかどうかは知らないが、ま、こういうのが普通にある。その後、イギリスに渡った林さんは「エンパイア・ロッジ・ナンバー2018」というところでフリーメイソンになり、翌年には同ロッジの総責任者に就任し、日本人で初のロッジ・マスターとなった。
コレはロンドンのコヴェント・ガーデンにあるフリーメイソンの本拠地。
林さんはココへ顔を出していたのであろうか?
そんなことを想像すると感動するナァ。 今度は長崎。
コレはグラバー園の中にある門柱。門柱にはフリーメイソンのロゴ・サインが入っている。
コレはこの外国人居住地にあったロッジの門柱だった。
長崎のフリーメイソンは三菱長崎造船所に勤めるイギリス人が会員の大半を占めていて、初代グランドマスターはスコットランド人のジョン・コルダーという人だった。
コルダーの邸宅もこのグラバー園にあったが、岐阜県犬山市の「明治村」に移設されたそうだ。
7年前に明治村に行ったのでよもや写真を撮っていないか?と思い、目を皿のようにして探したが見当たらなかった…残念!自分ではうまくつなげたつもりではいるが、今回は唐辛子からフリーメイソンまで脱線の限りを尽くしたような内容になってしまった!
それぞれの話題に通底しているのは作家の吉村昭さん。
吉村さんの作品は22歳の頃だから…43年前から読み出したのだが、もう好きで、好きで…。
今回触れた小説以外にも、「プロペラヒゲ(『紅の翼』)」も「大津事件(『ニコライ遭難』)」も全部吉村先生の作品で知った。
私のウンチクのほとんどは吉村先生と井上ひさし先生で構築されているのです。
吉村先生についてはほぼすべての作品を読破してしまっているので下のような伝記や評伝にも手を伸ばしている。 それらの伝記にも記されている通り、吉村先生のかかりつけも順天堂医院だった。
先生は舌や膵臓のガンでお亡くなりになられたが、初期の診断では歯に異状が認められため、隣の東京医科歯科大学附属病院でも診察をお受けになったそうだ。
先生が順天堂医院のお世話になっていらっしゃったのは松本良順との関係だったかどうは寡聞にして存じ上げない。 コレにて佐藤ファミリーはおしまい。
写真を60枚以上も使っておいてお墓は3基しか紹介しなかった!
もうチョットやろうかと思ったけど今回はコレでおしまい。 <つづく>