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2018年2月26日 (月)

THE ELECT HORROR PICTURE SHOWの犬神サアカス團~私のディープ浅草<その5>

    
久しぶりにキネマ倶楽部から…。

10なかなかに濃い~バンドがたくさん出演した11月初旬に開催された『THE ELECT HORROR PICTURE SHOW』というイベントに出演したのは…

20犬神サアカス團だ!

40犬神凶子

50v犬神情次2号

60v犬神ジン

70v犬神明

80vオープニングはもうスッカリおなじみの「暗黒礼賛ロックンロール」。

90飾り気のないソリッドな70年代ハードロックの和風テイスト。
やっぱいいね~。

100そういうロックには必ずMarshall。
こないだからやたらと「イメージ・チェンジ」なんて騒いでいるけど、Marshallは伝統のロックを切り捨てるようなことは一切しないからね。
だって、それらはMarshallがなければできなかった音楽だから。

110ジョニちゃんは愛用のJCM800 2203。
ロックの歴史を作ったMarshallの名器のうちのひとつだ。

115vキョンちゃんのMC。
「キネマ倶楽部で演るのは初めてです」
アレ?そうだっけ?
「楽屋のケータリングのカルパス…初めて食べました。すっごく美味しくて3個食べました!
おいしい!みんなも食べた方がいいよ!
それと、いいこと教えてあげようか?
10月25日に新しいアルバムを発表しました!」
130v_m_2「10月25日」というのは、このイベントの10日ほど前のことだったのですわ。
ということで『新宿ゴーゴー』の中から…

120cd_2タイトルチューンの「新宿ゴーゴー」。
コレがまたいい。

140_sggタイトなエイト・ビート。

150ストレートなこのバンドのリズム隊の独壇場だ!

160v続いてもニュー・アルバムから「昔みたいに」。
曲の形式はマイナー・ブルース。
そのサウンドは「ハード・ゴーゴー」とでも例えようか?

170v_mm炸裂するギター・ソロ!
180ジン兄さんのベースのピックアップに続いて…

R_0r4a4579_2 「アンタのロックはプライドとともに地に落ちた…」
凶子姉さんのモノローグが乗って来る。
ジョニちゃんのE7+9のアルペジオが実に効果的だ。
すなわち犬神度満点!

R_0r4a4502凶子さんが部長を務めるという「露出クラブ」の話があってあと2曲。
まずは「花嫁」。

190_hyこの曲はよくかかるね~。
実際いい曲だもんね。
中間の凶子さんのセリフのパートに展開するくだりはいつ聴いてもカッコいい!
一番最初にこの曲を聴いた時「骨壺」っていうタイトルかと勝手に思っていた。

200出番の最後を飾ったのは「命みぢかし恋せよ人類!」。
突っ走る4人!

210

220v

230v

240v誰か絶対にコレをやると思っていた。
「誰か」って絶対ジンちゃんだと思ってた。

250v明兄さんのスティック・ベロンチョもカッチリとキマって出番は終了。
ドッシリと安定したパフォーマンスはサスガ!
やっぱりもうチョット観たいよね…ということで、次回は『新宿ゴーゴー』のレコ発ワンマンになるよ。
お楽しみに!
その前に…次のコーナーよろしく!
  
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒公式家頁

260v 
(一部敬称略 2017年11月日 東京キネマ倶楽部にて撮影)

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犬神さんには申し訳なかったのだが、こっちのパートの筆が進まず、レポートのアップが大分遅くなってしまった。
というのは、この吉原関係のことを書くにあたって、何冊もの関連する書籍に目を通したのだが、どうもそれぞれ言っていることがホンの少しずつ違っていて、それを体よくまとめるのがチト面倒くさくなっちゃったのね。
ようやくメインのパートに差し掛かって来たというのにね…。
でも、そもそも今の吉原の前身である「元吉原」があった人形町の場所もおぼつかないぐらいなのだから。
ナンだってそんなことになってしまっているのかというと、度重なる火事や地震、そして空襲などで資料のほとんどを焼失してしまったことが大きな原因のようだ。
  
いきなり脱線するが、ウチは初代まで家系をさかのぼることができたのね。
ひとつは家柄がいいということ…ま、コレはもちろん冗談だけど、それでもウチは「源ー新田ー里見」の血脈で、その里見家の分家として当家初代の「牛澤次郎重基」という人物が新田次郎の『新田義貞』に登場している。
このヘンテコな名前も調べをつけやすい大きな理由で、佐藤、鈴木、田中だったらどうにもならなかったハズ。
さらに副脱線。
今でも「家系図作ります」なんて商売があるでしょ?
古くは江戸時代、番傘の紙を貼る内職と同じように食うに困った貧乏武士が、町人からお金を取ってその家の家系図を作成していたそうだ。
しかし、名字もないような町人の血筋など調べる術がないため、どこかの両家の家系図を引っ張って来て、適当にその依頼人の家にちなんだ名前に書き換えて作成していた。
ようするに根も葉もないインチキ家系図だよね。
ところが、そこは腐っても武士。
そうした歴史を改ざんするようなイカサマをするのはさすがに心が痛んだ。
そこで、後でコレが贋作であることがひと目でわかるように、作るニセの家系図の中にある印を忍び込ませたのだそうだ。
私はそれがどんなモノかは知らないが、その印は今でも効力を発揮していて、骨董品鑑定士の仕事を確かなモノにしているんだって。
  
話を戻して、家系がたどりやすかった今ひとつの理由…。
当家の元々の出身が群馬や長野の田舎だったということ。
どういうことかと言うと、地震や戦争による火災から免れたため、過去帳が残っていたのだ。
家系を調べているウチに耳にしたところでは、東京に累々と戸籍を残しているような家は、やはり関東大震災と東京大空襲ですべての記録が灰燼と化してしまったそうだ。
ちなみに家系をオリジナルまで調べることができたのは、私ではなく、家内の偉業なんだけどね。
こんな一市井でも、昔のことを知らべると、自分の家のことだけでなく、当時の文化のようなモノが生々しく伝わってきて実に面白い。
家内に大感謝なのだ。
コレだもん、オノヨーコさんのような財閥や政治家を何人も輩出している家系なんかは調べていて相当スリリングだと思うね。
  
それで、吉原に関しては、特に関東大震災の時のダメージが相当ヒドかったらしい。
実際にこの震災では多くの遊女が亡くなる大悲劇が起こっている。
このことは大分後に出すつもり。
結果、残された文物が少なく、確固たるよりどころがないため、本によって記述されている内容に微妙な差異が生じてくるのではないか…と思った次第。
もうひとつ苦しんことがあった。
それは、あまりにも色々な情報を一度に蓄えたため、どこからどうやって書き進めようかと途方に暮れてしまっていたのだ。
でも、このままでは終われないし、私は学者でもないので、ナントいうか…吉原を通じてこの「江戸文化のイキ」みたいなものが伝わればいいな…と考え直し、思いつくことをランダムに書き連ねて筆を進めることにした。
それと、本だけでなく落語からも多くの情報をシェアしてもらった。落語に出て来る話はいい加減な部分もあろうが、江戸の文化を伝える口伝えの貴重な資料なのだ。
コレを機に落語に興味を持つ人が増えてくれるとうれしく思う。
それではイザ『私のディープ浅草』の第5回目のはじまり~。
  
さて、徒歩やら、舟やらでいよいよ吉原に近づいて来た。
今、歩いているのは日本堤。
背中は馬道、前方は南千住だ。
江戸時代、この道の部分は堤防で高くなっていた。

1_0r4a4811こんな感じ。
当時は大川(現隅田川)がこの辺りでやたらと氾濫したため、堤防を2本作った。
つまり「2本の堤」ということ。
そのうち片方なくなり、残った方をいつの間にやら「日本堤」と呼ぶようになったそう。
何でも日本中から人夫を集めて猛烈な突貫工事でアッと作り上げたことから「日本堤」と呼ばれるという説もあるようだが、「2本堤」の方がおもしろいね。
しかし、夜だてぇのににぎやかですナァ。
元吉原の頃は昼間だけの営業だったが、幕府から移転の命令が出された時、カウンターオファーとして新吉原では夜間営業の許可を取り付けた。
コレによって、昼間に時間を持て余している侍やエライ人たちだけでなく、一般の町民も吉原に行けるようになり、ますますにぎやかになった。

1_nd3もう何度も出て来ている「吉原大門」の交差点。
「おおもん」と読む。
コレは勝手にこの交差点にそういう名前を付けているだけで、実際の「大門」はもっと中にあった。
以前にも書いたが、このエリアの正式な住所は「台東区千束」で、現在「吉原」の名前が正式に採用されている公的な施設は「吉原神社」、「浅草警察署吉原新吉原交番」、「吉原公園」、この「吉原大門交差点」等、ほんのわずかになってしまったそうだ。20_2日本堤から吉原方面を眺める。
このガソリン・スタンド、私が知る限り、この辺りでは一番安い。
右の「武蔵」は手打ちラーメンがウリの店。
一度食べたことがあって、おいしかったけど今は営業してるのかな?
ガソリンスタンドの「セルフ」の看板に向かって左に柳の木が見えるでしょう?30_2コレが有名な「見返り柳」。
もちろんオリジナルではなくて6代目とか言ってたかな?
吉原で遊んで、「あ~楽しかった~。また来たいな~」と登楼したお客さんたちがココで振り返って名残を惜しんだ。
「また来るぞ、仕事ガンバルぞ!」と生活に張りが出るなら吉原も有益だが、反対に遊女とねんごろとなってしまい、吉原に通う金欲しさに辻斬りで130人も殺した「平井権八」というヒデエ野郎もいた。
「お若えの、お待ちなせえやし」なんて芝居のセリフ聞いたことあるでしょ?
コレは『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)』という歌舞伎の中に出て来るセリフで、有名な侠客(きょうかく)、幡随院長兵衛が権八に話しかけるシーン。
その後、権八が長兵衛の居候になることから、昔は「居候」のことを「権八さん」などと呼んだそうだ。私は聞いたことがない。
それほど人気のある歌舞伎の演目だったということだ。
幡随院長兵衛の墓所は何回か前に紹介した
しかし、「見返り柳」なんてシャレたこと言うよな~。
 
もう少し「見返り柳」の話。
実は、ココに柳が植わっているのにはとてつもない長い歴史が絡んでいるのだそうだ。
コレはね、私が読んだ吉原の専門書にはどこにも書いていなかった。
「じゃ、どこで知ったんだ?」という話になるけど、それは秘密。
その話とは…そもそも、吉原というのは中国の長安の「平康里(ぴんかんりー)」という遊郭をマネして作られたモノで、唐や宋の時代の遊郭は柳の木に囲まれていたらしい。
あ~、だからココにも柳が植わってるのね?…と思い込むのはチト早い。
それで、柳の木に囲まれていたので中国では遊郭のことを別名で「柳巷(りゅうこう)」と呼んだ。
そして、そこには花が植わっていたことから「花柳巷(かりゅうこう)」と言われるようになった(中国で花といえば「牡丹」を指すらしい)。
ココから日本の「花街」とか「花柳界」という言葉が生まれたんだって。
一方、日本で最初の遊郭は京都の柳馬場(やなぎのばんば)で、作られた時には周辺が応仁の乱の時に焼けただれたままのノッパラだったので、平康里のマネをして遊郭を柳の木で囲むことができた。
ところがそのわずか13年後の慶長7年(1602年)、柳馬場の遊郭も移転を命じられ、六条三筋町へ場所を移す。
ところが移転先にはもう住居が立ち並んでいて遊郭を柳の木で囲うことができなかった。
そこで仕方がないので、柳馬場に生えていた柳の木を1本だけ新しい遊郭の出入り口に植えて昔を偲ぶためのアイコンとした。
それを「出口の柳」と呼び、別名「見返り柳」とされたんだな。
さらにその柳の木を植える風習は島原から元吉原へ伝えられ、ココ新吉原にも柳が植えられたというワケ。
だから、いくら6代目とはいえ、この柳は430年にわたる伝統を持っているのだ。
そうは見えんな~。
この季節、すべての葉が落ちてスッカスカになってるよ。

40vこの見返り柳、江戸の当時は日本堤から降りて来る坂の途中にあった。
この坂を「衣紋坂(えもんざか)」といって、吉原に入る前、坂を下っている時に身なりを整えたことよりその名前が付いたのだそうだ。
吉原で楽しむ前にエリをただしたというワケね。
まるで道場に入るみたいだ。
下の絵を見ると確かにカゴがたくさん行き来いるね。
歩いている人はみんな「ほっかむり」をしている。

1_2emz上の写真のガソリン・スタンドのすぐ裏には最近こんなものができた。

50「くわまんカレー」というラッツ&スターの桑野信義のカレー屋さん。

60甘いんだか、辛いんだかわからない系の味で、とてもおいしい。

70ココから先が新吉原。
大門はまだもう少し中に入ったところにあった。
下の写真のあたりを「五十間道(ごじっけんみち)」と言って、「編笠茶屋」が並んでいた。
「編笠茶屋」というのはその名の通り、編笠を売る店。
身分の高い人たち、あるいは吉原に来ていることがバレてはマズイような人たちがココで編笠を買ってかぶり、顔を隠して吉原に入って行った。
編笠をかぶるのは、どうも顔を隠すためだけの理由ではないようだ。
コレは古今亭志ん朝の『付き馬』の枕に出て来るのだが、昔の人はとても奥ゆかしくて、編笠でワザと顔を隠して張見世の遊女を冷やかしたのだそうだ。
「張見世(はりみせ)」とは遊女が自分の姿を格子の中から見せて客を待つこと。
つまり、編笠をかぶらず、顔丸出しで直接冷やかすのは遊女に失礼だというワケ。
イキだ~!
ワザワザ編笠を買うのがモッタイナイと思う町人などは、持っている扇子の中骨を口に当てがって、その隙間から遊女に声をかけたとか…マァ、コレは冗談でしょう。
  
「冷やかし」の語源は前回説明したが、この行為は吉原通いをする連中にはタマらない楽しみだったようで、登楼しなくても冷やかしだけで吉原に通う客も多かったらしい。
登楼しないのだから本当は「客」ではないんだけど…。
そして、吉原があんまり好きなもんだから、自分の家の2階に吉原を作ってしまう『二階ぞめき』なんていう爆笑噺もある。
「ぞめき」は「冷やかし」という意味。
他に文字通り「素見(すけん)」なんていう言い方もある。
  
現在はこの道は通り抜けることができて、ズッと進んで行くと国際通りに当たる。
基本的に吉原への入り口はココ1か所だけで、この道を通過して大門をくぐった。
周囲は塀と堀に囲まれて、この正面以外からは進入できなかったのだ。
 
道がギュインと曲がっていて先が見通せなくなくなっているでしょう?
コレはワザと道を湾曲させているのね。
つまり江戸時代からこのまま。
理由は、ひとつは幕府や藩のお偉いさんたちがココを通りかかった時に中が見えないようにした…という説。
でも、吉原は幕府公認の遊郭なので、中を隠したところで意味がないような気もする。
それよりも、日本堤から吉原の中が見通すせてしまうとお客さんが興ざめしてしまうので、「お楽しみは取っておけ」的な発想でワザと道を曲げて目隠しをした…という説。
こっちかね?
もしそうだとしたら、何というお客さんへの心配り!
やっぱりイキだね~!

75もうチョット進むと道沿いに大きなマンションが立っている。

80コレね。
1階は交番。
一度このすぐ近くで宅急便の業者とお客さんが取っ組み合いのケンカをしていたので、お巡りさんに知らせに飛び込んだことがある。
165このマンションのロケーション、以前この場所には「松葉屋」という「引手茶屋」があった。
「引手茶屋」というのは、遊女屋とお客さんの間を取り持つお店のこと。
吉原ではお店の格が明確に分かれていて、高級な方から大見世、中見世、小見世とあって、表通りに居を構える一方、裏通りにはその下の切見世という最下級の見世があった。
そして、大見世にはお客さんは直接入ることができず、登楼するには引手茶屋を介さねばならなかった。
お客さんはまず引手茶屋に寄って、自分が来たことを馴染み(もちろん一見は受け付けてもらえない)の見世に伝えてもらう。
もちろん「茶屋」と言っても、引手茶屋では一席設けるのが当たり前で、コレだけでも費用がかさんだ。
引手茶屋から遊女屋に連絡が行くと、その馴染みの見世から花魁が見習いの「新造(しんぞ)」と「禿(かむろ。ハゲではない)」という若いお嬢さんたちと、見世のアンちゃんを引き連れて、目抜き通りを練り歩いて引手茶屋にやってくる。
これが「花魁道中」。
志ん生の落語なんかを聞くと、有名な花魁が出てくると「おお!高尾が出て来た!」とか「薄雲が歩いているぞ!」と言ってみんな夢中になってその美しい姿に目をやったそうだ。
今なら写メでインスタ映え間違いなし。
ちなみに当時の花魁のルックスはファッションの最先端で、一般の町の娘たちがこぞってそのエキスを吸収しようとしていたそうだ。

100v志ん生の有名な『お直し』という噺には、最下級の「切見世」のさらに下の階層に位置する「ケコロ」という見世が出て来る。
「ケコロ」とは「蹴転」という意味で、「蹴って、転がしてでも引っ張り込んじゃう」という性質の悪い見世のこと。
この名前が面白いと思って調べて見ると「ケコロ」は吉原にはなく、上野にあった私娼を指すようだ。
  
「お直し」は吉原を舞台にしたチョットした人情噺で、古今亭志ん生はこの噺を演じて昭和31年の文部省芸術祭賞を獲得した。
私が持っている下のCDは受賞後の同年の録音だが、志ん生は元よりこうした表彰ごとがキライで、枕で「(相手が文部省だから)女郎買いの話をすればいくらなんでも賞はもらえないと思っていたら、くれちゃった…世の中おかしくなったもんだ」と言っている。
ココでひとつ不思議なのは「女郎」という言葉。
もちろん「女郎」は「じょろう」と読む。
ところが、噺家の皆さんは「じょうろう」って言うんだよね。
「女郎屋(じょうろうや)」、「女郎買い(じょうろうかい)」のように、志ん生も、文楽も、志ん朝も、廓噺をするときは必ず「じょうろう」って読む。
コレ、ずっと不思議に思っていた。
「女郎」を「じょうろ」と読むということもあるが、中世には遊女のことを「上臈(じょうろう)」とも呼んでいたらしい。
「上臈」とはとても身分の高い女性のこと。
吉原では昔、「八朔の雪(はっさくのゆき)」として、8月1日に白無垢を着る慣習があった。
これは上臈、すなわち身分の高い人たちのならわしをカバーしたモノだったそうだ。
「八朔」の「朔」は「朔日」の「朔」。「1日」のことね。「四月朔日(わたぬき)さん」や「八月朔日(ほづみ)さん」のアレ。
で、その「上臈」がナマッて「女郎」になったらしい。
ところで、この志ん生の「お直し」、吉原の仕組みをわかりやすく説明してくれる枕が実にいい。
古今亭志ん生(本名:美濃部孝蔵)は明治23年(1890年)の生まれで、10代の時から吉原に通っていたと言う。
つまり、明治の吉原を本当に体験しているだけに、昔を懐かしむような口調がタマらなくいいんだよね。
ところが、志ん生さん、モノスゴく大きな間違いをココでやっちゃってる。
私はすぐに気がついた。
最初「熊さん」だった主人公が噺の途中でいつの間にか「八っつぁん」に変わってしまうなんてことなどザラな豪放磊落な志ん生の落語だが、ココで「吉原は平賀源内の発案だった」とあまりにもバシっとやってしまっているのだ。
コレは間違い。
そうではなくて、吉原は「庄司甚内」という人の発案だった。
つい言っちゃったんだろうね。でも平賀源内は関係ない。
しかし、吉原を作った目的の説明などはシッカリしていて、モノの本と寸分たがわぬ完璧な解説をしている。
やっぱり経験者の話は違うね。
志ん生自身は、後年「正成楼(まさしげろう)」という見世を馴染みにしていたという。
どこにあったのか行ってみようとしたが、記録に残っておらずどうしても場所がわからなかった。
1_img_4838ちなみにあの女郎蜘蛛っているでしょう?
黄色と黒の足のヤツ。
コレ、見るからに「妖しい」ということで「女郎蜘蛛」って言うのかと思ったら正反対。
あのルックスがとてもゴージャスということで、元々は「上臈蜘蛛」だったらしいよ。
ところで、「朝に出てくる蜘蛛は縁起が良いから、殺してはいけない」って言うでしょ?
反対に「夜の蜘蛛は親の顔でも殺せ」って言うらしいんだけど、コレは知らないナァ。そもそも蜘蛛の顔が親の顔しているなんて気色悪いわ。
しからば、朝の蜘蛛を殺してはいけない理由ってなんだろう?
「朝の蜘蛛」は福を持って来たり、お客さんがやって来る前触れなんだって。
反対に「夜の蜘蛛」は盗人や泥棒が来る前触れって言われているのだそうだ。くわばら、くわばら。
まだある。
蜘蛛っていうのは、晴天の日にしか巣を作らないんだって。
つまり、朝のうちに蜘蛛が巣を作っている時は、その日一日良い天気である可能性が高いのだそうだ。トッド・ラングレンの『Ra』じゃないけど、昔はお日様と一緒に生活をしていたので、晴れの日は大変ありがたいとされていた。
まだ理由があって、陰陽道に元づいて、朝は「陽」、蜘蛛は「陰」なのでバランスがいい。
さらに、蜘蛛はダニや蚊やゴキブリを食べるそうで、タランチュラみたいのは別にして、蜘蛛は概して益虫なのだそうだ。
昔の人は本当にスゴイね。
コンピューターなんかを学ぶより、みんなで昔のことをドンドン勉強してそれを子孫に伝えましょうよ。

Sp_2
これが在りし日の松葉屋。
上のマンションが建つ前はこうなっていた。
ちなみに明治に入るとかつての女郎屋、あるいは遊女屋は「貸座敷」と呼ばれるようになった。
松葉屋はお客さんと貸座敷の間を取り持つことを生業としていたが、昭和33年に売春防止法が施行されてからは「花魁ショウ」を考案し、はとバスの観光ルートにも食い込み、また吉原芸者を抱え(遊女と芸者は全く別物)、「国際観光料亭」の触れ込みで大層繁盛したが、1998年に看板を下ろして現在のマンションになってしまった。

1_2mbyこの本は、この松葉屋の養女で、後年女将となった福田利子さんという方の本。
最高におもしろくて、ほとんどノンストップで最後まで読んでしまった。
オビ(腰巻)に「"吉原の女たち"の昭和史」なんてツマらないキャッチコピーがついているが、そんなもんじゃない。
時代は大正に下るものの、以前に紹介した喜熨斗古登子さんの『吉原夜話』のように、実際に吉原でビジネスをしていた人の筆記だけに説得力が生半可ではない。
また、関東大震災、東京大空襲、売春防止法施行後という吉原が被った大災難の数々を乗り越えて来た波乱の物語としても大いに楽しめる。

120古本で購入したのだが、初版でもないのに私が持っているのは「よし原仲之町 松葉屋 福田利子」とサインが入っているのがうれしい。
奥付を見ると、昭和61年(1986年)3月の上梓で、3年後の昭和64年で22刷というからかなりの人気書籍だったようだ。
福田さんは平成17年に85歳で亡くなっている。

130さて、ナゼにこの本を紹介したのかと言うと、面白いからなんだけど、もうひとつ大きな理由がある。
それはフランク・ザッパに関すること。
「吉原とザッパ」?
昔からザッパを聴き込んでいる人はもうこの時点ですべてわかってしまうかな?
 
フランク・ザッパは生前一度だけ来日した。
1976年のことだ。
2月1日が浅草の国際劇場、その後、大阪の厚生年金会館、京都の西部講堂、日本青年館の追加公演をこなして離日した。
国際劇場の公演は内田裕也さんが企画した「浅草最大のROCK SHOW」というタイトルの今で言うフェスティバル・タイプのイベントで、フランク・ザッパとともに四人囃子やコスモス・ファクトリーなどが出演したことはよく知られている。
Marshall Blogの岡井大二さんのインタビューでもこのことについて触れて頂いている。
他の出演者に「SKD」が入っているのもスゴイな。
それと「浅草最大の」というのが気になる。
裕也さんで国際劇場といえば「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」。
既にこのザッパの公演より以前に「NEW YEAR」が開催されていて、「それよりスゴイから『浅草最大』だよ!」と言う意味かと想像した。
そこで記録を見てみると、裕也さんが国際劇場で初めて『ASAKUSA NEW YEAR ROCK FESTIVAL』の名義でコンサートを開いたのは1978年の年末のこと。
その前、1976年に『浅草ROCK 'N' ROLL VOLUNTEER』と称して年越しコンサートを開催している。
となると、ザッパの公演は同年の2月なのでつじつまが合わない。
不思議だ。
でも実際「最大」か。

150vそして、裕也さんはザッパの記者会見をこの松葉屋で開催したのだ。
つまり、あの上の写真のマンションの場所にザッパとバンド・メンバーが来たということ。
1976年4月号のニュー・ミュージック・マガジンに来日時のインタビューが掲載されていて、読み直してみた。
「好きなクラシックの作曲家」としてヴァレーズ、ストラヴィンスキーの他にクシシュトフ・ペンデレツキの名前が挙がっていた。趣味が合うナァ。
ストラヴィンスキーもペンデレツキも大スキ!
他にも武満や黛の名を口にしている。
さらに怪獣映画への興味やシンセサイザーやベイシティローラーズを引き合いに出したポップ・ミュージックについて語っている。
最後に「ココ(松葉屋)がかつてはどんな場所だったか知っていますか?」というとうようさんの質問にザッパは「No」と答え、裕也さんが「歌で説明します」と言って、アニマルズの「The House of Rising Sun(朝日のあたる家)」を歌う。
するとそれを聞いたザッパが「女郎屋!」と答える。
「The House of Rising Sun」は19世紀にアメリカに実在した娼館のことを歌った曲だから正解。
しかし、松葉屋は元は妓楼だったが、後に弾き手茶屋となった。
引手茶屋は客と大見世の間に入る代理店のようなモノで、芸者はいても女郎はいなかった。
 
この時のようすが下の写真。
1日が国際、3日が大阪、4日が京都、東京に戻って、5日が青年館というスケジュールだったので、この吉原でのひとコマは1976年2月2日のことだったのかしら?
ザッパに酌をしているのは芸者さん。
ザッパのアグラがスゴイな…コレじゃ座禅だよl
半跏趺坐(はんかふざ)っていうヤツね。

160こっちは花魁。
ザッパが実に興味深そうに見てるね。
着用している法被の柄に注目してくだされ。

161下はさっき紹介した福田さんの本の現在の装丁。
ね、柄が同じでしょ?
この鎖のようなデザインは「吉原つなぎ」または「廓つなぎ(くるわつなぎ)」と呼ばれているモノ。
カッコいいよね。
江戸の文化を代表するデザインで正式な名称を「子持吉原」というそうだ。
このデザインの意味は吉原の世界に入ってしまうと鎖でつながれたようにそこから抜け出せないことを表しているとか…。
この場合、抜け出られないのは登楼する客ではなくて遊女の方を指している。
反対に、四角い模様が結びついているサマは、人と人を結ぶ良縁を意味していて、人間関係を豊かにするという想いも込められているらしい。
元は引手茶屋の暖簾にあしらわれた文様で、だからザッパはこの法被を着ているワケ。
松葉屋は女郎屋ではなかったという意味では大変正しいチョイス。
それにしてもこの時代のこうしたグラフィック・デザインのカッコのよさは一体なんだ?
家紋にしても、こうしたパターンにしても、シンプルなのに奥が深くて、とてもソフィスティケイトされている。
スコットランドのタータンのように世界に誇れる意匠だと思うよ。

140v花魁の姿は映画なんかで皆さんもとてもおなじみでしょう。
上のザッパの給仕をしている花魁役のいでたちはなかなかうまくできているように見える。
黒澤明の『用心棒』や『赤ひげ』に出て来る遊女なんかはゾッとしないけど、実際には「100人にひとりいるかいないか」ぐらいの器量よしが揃っていたらしい。
また後で出て来るが、遊女はみんな自分から進んでなるのではなくて、ご存知の通り、貧しい農家の娘が売られて来てなるモノだった。
「女衒(ぜげん)」と呼ばれる蛇蝎のような遊女のスカウトが全国の貧しい農村を回って少女を買って歩いた。
当然ヒドイ話がいっぱいあった。
誘拐さながらのこともしたらしい…この辺りの話はまだ別に機会に譲ることにする。
すなわち吉原に集まって来た女の子たちは出身地が別々で、言葉の訛りがすさまじかった。
今と違ってテレビもインターネットもない時代だから「標準語」なんてものは存在せず、全員お国言葉丸出し。
垢抜けした場所であるハズの吉原の遊女がズーズー弁じゃお客さんが興ざめしてイカン!…ということで編み出されたのが「あちき」とか「ありんす」とかいう廓言葉(くるわことば)だったんだね。
ところが、一晩に100万円も200万円もの大金をはたいて大見世の有名な花魁を相手にするような超大金持ちは別にして、いくら言葉がきれいでも、見た目が美しくても、結局一番人気があったのは気立てが良くて、本当にお客さんの気持ちを察して相手をしてくれる優しい遊女だったそうだ。
  

そういえば、『赤ひげ』で、「赤ひげ」こと三船敏郎扮する新出去定(きょじょう)先生が、保本という加山雄三が演ずる若き医師にこう尋ねる場面がある、
シーンは赤ひげ先生が時折パトロールに訪れている町の遊郭。
「保本はこういった岡場所に足を踏み入れたことがあるか?」
保本はエリートの医家の出身だし、「長崎に留学していたのでありません」と答える。
映画はこの後、「遣り手(やりて)」に扮する杉村春子が登場し、赤ひげと遊郭の用心棒との間の痛快極まる乱闘シーンになるのだが、この「岡場所」という言葉。
コレは幕府が公認していない遊郭すべてを指す言葉だった。
つまり、吉原以外のそうした場所は深川だろうが品川だろうが、千住だろうが、すべて「岡場所」と呼ばれた。
コレがですね~、調べて見ると、江戸の昔はアキれるぐらいそこら中に岡場所があったことがわかる。
実際、知らなかったのだが、ウチの近所にもあった。
言って見れば布団1枚あれば参入できる産業だし、昔は他に楽しみがないしで、人が集まるところには必ず岡場所ができたのだ。
しかし、面白いことに岡場所というのはある一定の数以上には増えなかったらしい。
今のライブハウスとはワケが違う。
理由は簡単。
岡場所が増えすぎたり、繁盛しすぎたりすると、吉原の連中が幕府に泣きを入れて強引にそれらをブッ潰させたのだそうだ。
すると、岡場所で働いていた遊女たちはどうなるか?
コレがまたなかなかにヒドイ話で、彼女たちは吉原に売られて行った。
さらに厳しいのは、その値段が年齢によって定められていて、20歳の遊女と最高齢の遊女とでは10倍以上の根差がついたのだそうだ。
ちなみに「遣り手」というのは遊女の監視をする立場の役職で、一般的には遊女のOGがその職務に就いた。
年季が明けても故郷に帰ることができなかったり、他に行く場所がない遊女は吉原に残って、今度は遊女を監督する側に回ったのだ。
よく商売を切り回すのが上手なベテランの女性を指して「やりてババア」なんて言うけど、コレがその語源。
この遣り手は「おばさん」とも呼ばれた。
今、我々が平気で「おばさん」と使っているこの言葉も遊郭から出て来た言葉らしい。
遊女を監視する仕事なので、押しなべてイジワルな立場だったが、そこは自分も経験者ゆえ、親身になって遊女の面倒を看たおばさんもいたらしい。
反対に吉原の男の職員は年を取っていても「若い衆(わけえし、わかいし)」と呼ばれた。
また、見世で客引き担当している若い衆は「牛太郎」といい、略して「牛(ぎゅう)」と呼ばれた。
 
「夕べ格子で勧めた牛(ぎゅう)が 今日はノコノコ馬になる」

 
面白いね。
落語を聴かない人には何のことかわからないかな?
チョット長くなるけど、説明させてチョ。
遊郭でひと晩遊んだ客が翌朝になって支払いできない…なんてことになると、昔はそのお客さんを馬で家まで帰らせる方々、見世の集金をその馬子に頼んでいた。
大門でお客さんを馬に乗せて、家まで付いて行って、足りない料金をその場で取りたてて来るワケね。
コレを「馬を引っ張って来る」と言った。
その時、まさか馬をお客さんの家の中に入れるワケにはいかないので、外に馬をつないでおく。
すると、それを見た近所の人からは「お、アイツまた馬を引っ張て来やがった!」と言われて恥ずかしい思いをすることになる。
ところが、その取り立ての額が大きくなったりすると、変な気を起こして、客から取り立てた金を持ち逃げしてしまう馬子も少なくなかったことより、見世の牛太郎がその馬子の役をやることになっていった。
だから、上の川柳は、昨晩は見世の格子のところで「遊んで行ってくださいよ!」としきりに登楼を勧めた「牛太郎」が、翌朝には借金取りの「馬」に早変わりしたと詠んでいるワケ。
ね、面白いでしょ?
「牛太郎」の元の意味は「妓夫太郎」だ。
 
しかしね、衣装といえば、紺だの茶色だの灰色だの渋々で地味だった時代、この色とりどりの衣装を身にまとった花魁というのは信じられないぐらいキレイだったんだと思うよ。
身に付けているモノはすべの最高のモノだったんだから。
いつかもやったけど、下の絵で花魁の頭に刺さっているのは櫛、簪(かんざし)、そして横にズドンと貫いているヤツを笄(こうがい)といった。
コレ全部ホンモノのべっ甲だからね。それはそれは豪華だったことだろう。
こうした自分が身に付ける装飾品は花魁が自腹で買っていた。
このヘアスタイルもスゴイね!

164v下は花魁道中のようす。
上に書いたように、子供は禿(かむろ)といって、もうすでにこの歳で吉原に売られて来てしまっている。
しかし、まだ幼くて客を取ることができないので、こうして見習いをしているのね。
一番右の若い女性も「新造(しんぞ)」という見習い。禿が13~16歳になると新造になる。
普通、遊女は10年で年季が明ける(契約終了)が、この禿や新造の時代はその契約期間にカウントされない。
客を取れるようになって初めてそこから10年の計算がスタートするワケ。
そのツライ10年を「苦界十年(くがいじゅうねん)」といった。
幼い頃に吉原に売られてきた娘などは、吉原から一歩も外へ出ることがないので、大人になるまでお金を一度も見たことがない…なんてのがザラだったらしい。
実際には10年経って年季が明けても「お礼奉公」といって、お世話になった見世に感謝の気持ちを示すために無料で2年ほど働くエキストラ期間があった。なんでやねん?!
 
花魁の帯に注目。
後ろではなく前で締めているでしょう?
コレが吉原スタイル。
一般の町娘もこぞってマネをしたらしい。
今、「締めている」と書いたが、実は締めてはいても、ギュッと結んではいなかった。
理由は護身。
…というのは、中には花魁や遊女に狂ってしまって、無理心中を迫る客が結構いたらしい。
身請けをしてやりたいけど、そんな経済力はない…しかし、一緒になりたい…でもなれない。
すると「オレと死んで一緒になってくれい!」となる。
こんなのが現れた日にゃ遊女もタマったもんじゃないよ。
帯でもガッツリと掴まれて逃げられないようにしておいて、首を絞められたりでもしたら取り返しのつかないことになる。
それで、帯は結ばないで、巻いた部分に橋をはさんでおくだけにしていた。
訊くと凶子さんもそうしているとのこと。
ファンに捕まらないようにしているのだろう。
しかし、そんな状態にしていると、中には道中の時に腰巻を落としてしまう花魁もいたそうだ。「腰巻高尾」なんてのが有名だったらしい。
それと、花魁は冬でも足袋を履くことは許されず、どんなに寒くても素足だった。
コレも一種の安全対策で、舐めても平気なぐらいピッカピカに磨き上げられた見世の床を歩く時に、足袋をはいていると滑って転ぶ危険があったからだ。
花魁はそれほど大事な商品だったのだ。
ちなみに、「身請け」というのは、遊女の年季の残額に将来稼ぐであろう売り上げを上乗せした金額を身請け人が肩代わりして見世に支払い、その遊女を自由の身にすることを意味するが、莫大な費用がかかった。
そもそもみなしの稼ぎなどは楼主の言い値だったし、上の他にもご祝儀やらお祝いやらで、人気の花魁の身請けともなると、その費用は今の金額で「億」を軽く越えたらしい。

1_march話はチョット戻って…下は在りし日の浅草国際劇場。
コレは相当古い絵ハガキ。
新しめの写真が見つからないんだよね。
私の国際劇場の最大思い出は、1981年にキング・クリムゾンの初来日公演を観たことかな?
以前にも書いているけど、当時、大学生でお金がなかったので、自転車で国際劇場まで行って、中から漏れ聞こえて来る音だけでも聴いておこうと思い立った。
で、開場の時刻に入り口の外で立っていると、私と同じ年頃の男性がニュッと近寄って来て、「あの~、チケットが余っているんですけど、もし、お入用でしたら買っていただけませんか?」と言う。
そうしたいのはヤマヤマだけど、お金がないので外で盗み聞きしようと思っている…ということを伝えると、「2,000円でいいんです」と言うではないか。
幸い2,000円程度はポケットに入っていたので、そのチケットを買わせてもらうことにした。
2階席の一番前だった。
商談が成立すると、その彼は「ヨカッタ!あの人たちには売りたくなかったので…」と言いながら、小さくある方向を指さした。
その先にはその筋の方々が立っていた。
『Discipline』のナンバーをふんだんに演奏し、「Red」ではエイドリアン・ブリューが「アカ」と曲紹介をするなど、2,000円で最高に幸せなひと時を過ごしたのであった。
アレから30年近く経ってエイドリアン・ブリューやトニー・レヴィンのステージの写真を仕事で撮るだなんてあの時には夢にも思わなかったナァ。
人生ナニが起こるかわかりません。

1_2kg国際劇場の写真をインターネットで探していたらこんなモノが目についた。
昔の浅草六区の映画館。
私が子供の頃…イヤイヤ、大学の時に黒澤明の映画を観に来たので、ホンの40年弱前はこうした古い映画館が立ち並んでいた。
チョット待て…アレはもう40年も前だったのかッ?!

1_2tkね~、こうして見ると、チョットしたシャフツベリー・アベニューじゃんね。
シャフツベリーはロンドンのウエスト・エンドの中心で、劇場が今でもたくさん並んでいて夜ごとに劇やミュージカルが上演されている観劇街ね。

1_se確かに私が大学生の頃でもクタクタに古くなっていたけど、モッタイないよな~。
みんなコワしてつまらない商業ビルになっちゃった。
地震の有無はとても大きな差だけど、日本人のやっぱりこういう歴史や文化の保存になんかに対する認識はイギリス人の足元にも及ばないナァ。

1_roxy下は最近リリースされた、1973年のROXYの全公演を収録したFrank Zappaの7枚組CDボックスセット。
ザッパとROXY…今回は何たる符合!

Indexチョット今回は文章が長くなってしまったのでコレで終わり。

<つづく>

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