犬神サアカス團~人生に意味があるなら<後編>
11月の晦日に開催された犬神サアカス團の単独興行『人生に意味があるなら』がハイライトに差し掛かる。「さぁ~みなさん、今日は新曲の「天誅」の先行発売です!
明兄さん、この『天誅』にはどんな思いがあるんですか?」「『天誅』はフトしたきっかけで知り合って、お互いリスペクトしている…イヤ、オレが一方的にリスペクトしている売野雅勇さんという作詞家に『犬神サアカス團が30周年を迎えるんですけど、ナンカ特別なことをや演りたいんですよ』って言ったら『あ、じゃあ、ボクが詩を書こうか?』って。
で、『どんな感じがいい?』って話し合ったりメールのやりとりなんかをして詩を書いて頂いた。『マァ、犬神サアカス團だからサ、かわいそうな子がイジメられて復讐する話でいいんじゃないの?』って言うので『まさにその通りです!』ということになった。
で、本当にありがたい話でその通りの詩が届きました。
せっかく売野さんに書いてもらうんだから『少女K』がいいね…とは冗談でもチョット言えなかったね!」コレがその「天誅」。
いよいよ発表する時が来た!
オッとその前に…コレコレ、新しいペンライトの準備を忘れずに!
今回はまだこの専用のペンライトを使ったフリが決まっていないので…
「現状では好きな時に振ってもらう感じ…サビのところとか。
思いのままにやってください。どこがサビかはみんなの方がわかっていると思う。
なんかシリアスっぽく始まって『アレ?何かが始まるのかな?』って来たらソコがサビだから。
大丈夫!バッチリわかると思う。
一応その場面が来たら『ココよ!』ってやりますので、皆さんよろしくお願いします。!」 ONOCHINの弾くシャープなリフから始まり…
犬神サアカス團の鉄壁のリズム隊が…
轟然と突き進む正統派ドライビング・チューン!
得意分野の歌詞世界とあって凶子姉さんもすでに自家薬籠中に収めた感じ。
やっぱり犬神さんのロックはこうあるべし!そしてONOCHINのソロがまた素晴らしい。
やっぱりギター・ソロがないロックなんてあり得ないだろう!
そして、ロックのギター・ソロはMarshallで弾け!売野さんもご自身のXで「この歌、リズム隊もタイトで最高!ヴォーカルも絶好調!」と書いていらっしゃる。
「カンフートーキョー」、「代理懐胎生物」に続いて、また犬神サアカス團の重要なレパートリーが増えたね。そんな風に仕上がったこの曲は12月11日に無事リリースされ、ビデオも公開されている。
「どうもありがとうございます。
歌詞にも星がでてくるしね。みんながうまくペンライトを振ってくれてとてもうれしかったです」
発表前に凶子姉さんがSNSでこの曲のPRを仕込んだ話をして…
「で、カップリングの曲もいいんだよね、コレが。
私が歌詞を書いたんですが、『不可思議な世界』という曲」「いいですね。犬神凶子のいいところがバーンと出てる。
犬神凶子&我々の演奏でアレンジも素晴らしい内容になっています」「はい、そちらも楽しんで聴いて欲しいと思います。
『こんなにイイのってある~?』ぐらいの感じだから。
みんなもオーバーに書いてもいい。だって、好きでしょ?…我々のコト。
だったらちょっとぐらいオーバーにSNSに書いて欲しいと思います。
そうすれば読んだ人がビックリして『聴かなくちゃ!』と思うかもしんないじゃん?
『コレは事件性があるナァ』とか、『今、コノ時代に出していいのか!』とか、『48歳は無垢』…みたいな。
週刊誌の見出しみたいな感じで書いてもらったらいいよ。
そういうインチキな記事ってあるじゃん?アレを狙っていこう!
というワケで『天誅』よろしくお願いします!」今回の興行のハイライトである新曲のお披露目が終わったところで明兄さんのミディアム・テンポのロック・ビートが起動する。
『天誅』のビデオにも登場している明兄さんの愛器はNATAL(ナタール)。
「♪ロックンロール!」
「♪ロックンロール!」
「♪暗黒礼賛ロックンロール!」この曲もリリースしてから8年目に入った。
バンドスコアが懐かしいね。
生まれたての新曲の後に演っても一向に古びた感じがしないではないか!
「名曲」ってのはそういうもんだ。
そしてこの曲を聴くと「名曲」はいつでもシンプルに出来ていることを思い知らされる。ONOCHINがお立ち台に上がってビシっとソロをキメた!
ONOCHINのギターを鳴らしているのはMarshallの「JCM2000 DSL100」と「1960A」。
また明兄さんの「♪ドコチキドコチキ」から「栄光の日々」。
ONOCHINのリフが入って…
敦くんのベースが応える。
今日もサビではみんなで手を左右に振って大盛り上がり!
さらに「たからもの」を続けた。
もう第3コーナーの最終盤ですよ~!歌詞、メロディ、リズム、どれを取っても犬神テイストに満ち溢れた1曲だけに凶子姉さんのイキイキと歌う姿がとても魅力的だ。
この曲ではいつも同じようなことを書かせてもらって恐縮だけど…
凶子姉さんが歌うように「切手、SL、美術品、マンガ、レコード、熱帯魚、ブリキ細工、映画チラシ、雑誌、空き缶、ブロマイド」と、人の数だけ宝物はあることだろう。
でも死んだらおしまいよ…墓の中には持って行けない。
そうして考えてみると、本当の宝物とは「教養」や「気品」といった人の頭や心の中にあるモノではなかろうか?
なんてことを最近はよく考えるのだ。「どうもありがとう!
せっかくだから私の『冬の楽しみ』を語ってもいいでしょうか?
冬の楽しみ…それは入浴剤だね。
お風呂にジプロックに入れたiPadを持って行って、それを見ながらぬるいお湯にズッと入る。
1人暮らしのお家ってお風呂が狭いのよ。
なので今年の冬は広いお風呂に入りに行こうと思っています。
スーパー銭湯とかじゃなくて1人で入れるところのおススメがあったら是非教えて欲しいと思います」ココで明兄さんとしばし風呂談義。
お風呂はいいもんネェ。
電気風呂の話から「男は危険なことを好む」…という話。次も明兄さんのドラムスから。
セカンドライン・リズムのイントロは「天変地異」。軽快なリズムに乗って自分勝手なことを痛快に歌い上げる凶子姉さん。
それを一刀両断するかのようなONOCHINの鋭利なギター・ソロ!
でも「♪死にたくな~い!」
「ビバ!アメリカ」が続く。
いよいよまたトランプ政権が動き出したけど、アメリカはどうなっちゃうんだろうネェ。
イヤイヤ、問題はアメリカだけじゃなくて、世界はどうなっちゃうんだろう。
そんな不安な気持ちが敦くんが弾くベースからにじみ出ていた(ウソこけ!)。「♪ABC!CIA!LSD!USA!」
頭字語のコール&レスポンスはいつもの通りの盛り上がり。「みんな、どうもありがとう!
楽しい時間はアッという間で次で最後の曲です。
メンバーの皆さん、ナニか言い残したコトはありますか?
ない?…みんなもう伝えたいコトは伝えたそうです。
では最後に私から…すべてのボーイズ&ガールズに捧げます!」「♪ウォ~ウォ~ウォ~、ウォ~ウォ~ウォ~」
犬神サアカス團のキラー・チューンのひとつ「命みぢかし恋せよ人類」で本編を締めくくった。
例によってそのままアンコール。
まずは凶子姉さんの即興曲から。
「♪今日は~ 『天誅』の発売日~」と歌い出して…
「『天誅』よろしくお願いします!」「HEAVEN’S DOORは色々な事情により、いつもこういう感じでアンコールをしています。
今日初めての人はいますか?」
初めてのお客さんあり。
「スゴイよ…こんなに長いことこのバンドをやっているのに私たちを初めて見る人がいてくれるんだもん!本当にありがたいことですよね。
(最前列のお客さんに向かって)何回目ですか?
もう20年くらい来てますか?
コレもスゴイね…だって20年ぐらい来てる人と初めての人が一緒にいるんだもん。
こんな会場ないよ!なんて良いバンドなんだぁ!」
しかし、30年もの長い間やっていて、いまだに初めて観に来てくれる人がいるなんてのはどういうことなんだろう?
多くはないにしても毎回そういうお客さんがいらっしゃる。
凶子姉さんが言うように、コレは本当にスゴイことだと思いますよ。
どうやって今頃犬神サアカス團を知るのであろうか?寺山さんの流れ?
少しでもMarshall Blogが役立ってくれていればうれしいんだけどね。
実際、犬神さんのライブにお邪魔するようになって私は13年目になるけど、メンバーの交代があったせいもあってか最近はずいぶん客席の顔ぶれが変わったように思う。
やっぱり自分たちが確立したエンターテインメントのスタイルを貫き通すことの「強さ」や「尊さ」が表出しているんじゃないかしらん?「みんなお友達になってね!
多分、みんな陽気じゃないんだと思ってんだ。友達もいない。
だってそこ(最前列)は一緒に20年来てても友達じゃないでしょ?
いいの、上辺でスゴくうまくやっている集団だから!
初めての人も全然大丈夫。上辺さえうまくやればね!
皆さん、本当に応援ありがとうございます」
そして、物販の案内とライブの告知。「12月27日にココHEAVEN’S DOORで『明生誕祭』…私の誕生日。
毎年やってるんですがそのライブがあります。59になります。
来年還暦ということはYOSHIKIも還暦だよ。
人間椅子さんも還暦。
大槻さんも早生まれだから学年は1つ上で、橘高さんは誕生日まで一緒。
仲のいいガーゴイルのKIBAさんとトシさん、尾崎豊も生きてたら来年還暦です。
あと奥田民生くんとかね…多いんだよ、昭和40年男って。
『昭和40年男』って雑誌があるぐらいだからね」コレがその『昭和40年男」。
「カッコいい女たち」という特集に登場したこのSHOW-YAの寺田恵子さんの写真は芝のメルパルクホールのロビーで私が撮ったもの。 で、今回のレポート<前編>の冒頭に書いた通り、残念ながら明兄さんの「お誕生日ライブ」にはお邪魔できませんでした。
還暦の時には必ず行きますから!
ということで『人生に意味があるなら』の最後の曲は「運命のカルマ」。今回も犬神サアカス團ならではのステージをタップリと見せてくれた4人!
ところでこの4人は人生に意味を見出したのかッ!
「どうもありがとう!『天誅』よろしく!」
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒犬神サアカス團公式ウェブサイト
☆☆☆私の谷中墓地(その9)☆☆☆
ドンドンいきますよ~。
谷中墓地では顕彰碑がセットになっているお墓は全く珍しくなくて、コレも同様。
誰のお墓かというと…奥勝重という人。こんな立派な顕彰碑が立っている。
額の部分を見ると、アララ…アルファベット。
「Um notavel pioneiro do moderno Japao nas regacoes economicas con Portugal」とある。
コレはポルトガル語。
ウン、大体わかるけど、正確を期してインターネットの力を借りて翻訳すれば…「ポルトガルとの経済関係における近代日本の著名な先駆者」と書いてある。
この文句を捧げたのは時のポルトガル公使「ドクトル・トーマス・リベイロ」という人。
一体何を持ってして「奥勝重」をそう評しているのか? その答えはどうもコレらしい。
コレはナニかと言うと、コルクの現材料の「コルク樫」というモノ。
コルクはその樫の樹皮で、いくらひん剥いてもまた生えて来る大変に優秀な樹木なのだそうだ。ナンだって私がこんなことを知っているのかというと、ひとつはコレ。
明治時代に外交官として日本にやって来、徳島の女性と結婚して日本を愛し、そして日本の土となったヴェンセスラウ・デ・モラエスというポルトガル人を主人公に据えた新田次郎の『孤愁』という本。
執筆中に新田先生が急逝したため、その続きを息子でお茶水女子大学名誉教授の数学者である藤原正彦先生がその続きを書いた世界でも珍しい2代にわたる著者による一作。
私は新田先生も藤原先生も大好きなので楽しんで読ませてもらった。
お父さんの後を継いだ藤原先生は書き手が替わったことが読者に悟られないように文体を似せて書くのに苦労した…とおっしゃっていたが、お2人の本を少なからず読んでいる私は、その替わり目がどこからかの見当がすぐについちゃった!
そして、この本でポルトガルがコルク樫の名産地であることを知った。
当時のポルトガルから直接輸入することがほとんどなく、イギリスやスペインを介してコルク樫が日本に入って来ていることをモラエスが嘆くシーンが出て来る。もうひとつは田川ヒロアキ。
どういうことかと言うと、ヒロアキくんは車のMAZDAのイベントの音楽制作を長いこと務めていて、昨年10月に富士スピードウェイで開催された大イベントにヒロアキくんが出演。
その際のレポートを書く時にマツダの歴史を調べてみたのだ。 コレはかなりビックリしたんだけど、マツダは元々「東洋コルク工業株式会社」というコルクを製造する会社だったということを知ったのだ。
マツダの本拠地である広島にはコルク樫に似た樹木が自生していたので、ポルトガル産の原材料を使用することがなかったそうだ。
その後、同社はコルクの将来に見切りをつけ機械産業に転業し、車の生産に乗り出して現在に至っている。その時、コルクにもう少し調べていると「日本で最初にポルトガル産のコルクを手掛けたコルクメーカー」という会社に出くわした。
場所が向島だというので見に行ってきた。それは「永柳工業株式会社」といい、創業が明治29年だというのだから相当古い。
明治29年といえば1896年。
今年で創業129年を迎える伝統の企業なのだ。
ちなみに同じ年に始まった会社を調べてみると、日本製粉、川崎重工、井村屋、白十字等の名前が挙がっていた。前回チョット出て来た「浜田彦蔵」に英語を習い、外国の新聞を翻訳する『海外新聞』という新聞を始めた「岸田吟香」という人がいた。
この人は同時に「精綺水」という目薬を作って大儲けしたんだけど、この目薬のビンのフタに適した素材がなくて困っていた。
それを解決したのが奥勝重がポルトガルから輸入したコルクだったというワケ。
確か最初はコルクの原料がなかったので、輸入されるワインのフタを削って目薬のビンのフタに転用していたんじゃないかな?
そんな話をどこかで読んだ記憶がある。
勝重と永柳工業の関係は残念ながらわからなかった。
下の写真の墓石と板碑の間に植わっている木はコルクの木なのだそうだ。
岸田吟香のお墓も谷中なので、いつか出て来ます。コレは似た形の墓石をキレイに並べたナァ…と思って撮った1枚。
墓碑銘は全部「穴山篤太郎」さん。
要するに世襲名だね。
どちら様かと思って調べてみると、コレが「有隣堂」の創始者だっていうじゃない。
有隣堂は横浜なのにナゼお墓が谷中に?
と思ったら「有隣堂」という農業関係の技術書を発行する出版社がかつてあったのだそうだ。ココでチョット変な展開をしますが…
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒どぶに燈火うつる三階の騒ぎも手にとるごとく、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて『大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町』と住みたる人の申しき」
いいナァ…樋口一葉の「たけくらべ」の出だし。
勉強不足でこういう文語文に慣れていない私などは読み下すのに大変な苦労を伴うが、コレを音読するとすごく口が気持ちいい。
「貧乏」の上に「ウルトラ」が付くほどの貧乏だった一葉。
本名「奈津」、「なっちゃん」。
歴史的仮名遣いでは「一葉」を「いちえふ」という「1年F組」のように綴った。
大変な近眼で間近でないと人の顔も判別できず、カルタ取りなんかをすると、かがんで床に顔をくっつけるようにしていないと取り札の文字が見えなかったため、他の人は一葉の前に置かれた札を取ることできずいつもクレームが付いたという。
そんな話が戯曲『頭痛 肩こり 樋口一葉』という戯曲を書いた井上先生の『樋口一葉に聞く(ネスコ刊)』に記されていた。次のお墓もなかなか立派。
珍しく花が活けてある。
谷中のお墓はどんなに偉い人でもみんなカラッカラだからね。「佐々木東洋」という人のお墓。
東洋さんは…と言うと、私の場合頭の中がメチャクチャ「中村とうよう」さんになっちゃうんだけど、佐々木さんの方はお茶の水の「杏雲堂病院」の創始者。
私はかかったことはないが、何回かトイレを拝借したことはある。杏雲堂病院の向こうに見えるガラス張りの建物は我が母校。
私が通っていた時は古びたいかつい鉄筋コンクリート造りの建物だったけどね。
通っていた頃は向かいの杏雲堂病院が1882年に創業した歴史ある病院だなんて考えたことはただの一度もなかった。
ホントは今初めて考えた。
またトイレよろしくお願いします。玄関の脇に設置されている胸像は東洋先生。
ずいぶんとおっかねぇ顔をしていらっしゃる。
東洋先生は前回やった佐藤泰然の佐倉順天堂で学び、長崎に遊学してポンぺの薫陶も受けた人だ。
ココで話は樋口一葉に戻る。
一葉は極度の近眼であっただけでなく、井上先生の戯曲のタイトル通り、ヒドイ肩こりに悩まされていた。
「萩の舎」という私塾で和歌の勉強していた一葉は、そこの塾頭であり師匠でもある「中島歌子」にくっついて杏雲堂病院を訪れ、東洋先生に肩こりの診断を仰いだ。
「肩が凝るだけなら心配ないが、その凝りが他へ転移すると命にかかわることになるかも知れない」という診断結果だった。
ところが、東洋先生が心配した通り一葉のその肩の凝りは背中に回ってしまった。一葉は明治29年の春ごろから喉が異様に腫れはじめ、7月には高熱が続くようになり、妹の「くに」に連れられて神田の小川町にあった「山龍堂」という病院を訪れた。
その「山龍堂病院」を設立したのが「樫村清徳」という人。
コレがそのお墓。
またしても立派!樫村清徳は旧米沢藩士で、東大医学部の教授を務めた医学博士。
樫村先生は一葉を診察から送り出し、残った妹の「くに」さんだけに診断の結果を伝えた。
病名は「結核」、状態は「絶望的」。「たけくらべ」を激賞していた森鴎外は医師、青山胤道を往診に派遣する。
青山先生は明治天皇の侍医だったとてもエライお医者さまだ。
だからお墓もかなり立派! 写真ではわかりにくいんだけど、かなりビッグな墓石。
北里柴三郎と香港に赴き、当時現地で流行していた謎の伝染病がペストであることを突き止めたが、自身も感染して死線をさまよったという。 下は東京大学医学部のキャンパスに立っている青山先生の胸像。
青山先生と森鴎外とは大の仲良しだったそうだ。
下の胸像で葉巻を指に挟んでいるでしょう?
森鴎外の息子でやはり医者の「森於菟(おと)」さんによれば「葉巻を常にふかしているのは私の知る限り青山博士と父だけである」だそうだ。
この「於菟」さんは前回登場した順天堂の佐藤泰然の玄孫(やしゃご)です。
ジム・マーシャルも四六時中葉巻の煙をくゆらせていたけど、鴎外たちもよっぽどの愛煙家だったのね?
昔は喫煙が身体に悪いという意識が皆無だった。
その証拠に古い映画を観ていると、医者が平気で診察室でタバコを吸っているもんね。 数人の高名な医師も手の打ちようがなく、一葉は明治29年の11月に息を引き取った…まだ24歳だった。
写真は千束の「一葉記念館」に飾られているポートレイト。
お札のアレですな。 10ヶ月ほど一葉が近所に住んでいたこともあって書きたいことが結構あるんだけど、長くなってしまうので今回はひとつだけ…映画の話に止めておきましょう。
それは1953年の今井正監督の『にごりえ』。
この作品は「十三夜」、「大つごもり」、「にごりえ」の一葉の代表作を詰め込んだオムニバス作品。
「大つごもり」と「にごりえ」がヨカッタな。
前者では久我美子、後者では淡島千景、宮口精二、そして杉村春子がいいんだ~。
淡島さんもなかなかの美人だよナァ…下のポスターの人ね。手塚治虫は宝塚時代の淡島さんの大ファンで『リボンの騎士』の「サファイア王子」のモデルは淡島さんだったという。
コレが言いたかった。ココもなかなかに立派なお墓。
鹿島、大成、大林、清水、竹中…売上高1兆円を超す「スーパー・ゼネコン」。
そのウチのひとつである「清水建設」の清水家のお墓のひとつ。墓石の台の上の部分「上台」に「清水」とデカデカと彫ってある。
中央には「カネ」に「キ」で「カネキ」。清水建設の創設者は「清水喜助」という富山の人。
ココに清水家代々の墓が並んでいる。
昔の仕事柄、熊谷組、前田建設、飛島建設が同じ北陸の福井を発祥としているゼネコンであることは知っていたが、清水建設の創始者が富山の人だとは知らなんだ。
富山のゼネコンといえば、他に佐藤工業があるね。
コレが清水喜助のお墓。
と言っても、「喜助」は2代目まで世襲だったらしく、コレは2代目のお墓になるようだ。
初代喜助が富山から江戸に出て神田鍛冶町で大工業を始め、腕がヨカッタんでしょうナァ…彦根藩井伊家や佐賀藩鍋島家のご用達になった。そこに弟子入りして来たのが藤澤清七。
その清七が喜助の長女と一緒になり清水家に婿入りし、「二代目清水喜助」を名乗った。
この「清矩(きよのり)」というのが清七のこと。ココで移動。
これは墨田区向島にある「三囲神社」。
「三囲」と書いて「みめぐり」と読む。
三重の松阪出身の三井家は享保年間にこの神社を江戸における守護社に定めた。
理由は、日本橋の本拠地(三越前あたり)から見ると向島が鬼門にあたること。
そして「囲」と言う字の「国がまえ」が三井の「井」の字を囲っていて、まるで三井家を守っているように見えること…だって。
そのウチここにも出す予定にしているけど、やはり三井家も維新後には「井上馨」を使ってかなりムチャなことをしているんですよ。
何しろ井上馨は「三井の番頭さん」という異名を取ったぐらいなのだ。そんな関係からこの神社には三井のエキスが散見される。
例えばこの三越ロゴが付いている水槽。
三井の起源は何と言っても「三井越後屋呉服店」だからね。そして三越のシンボルマークのライオンが境内に据えられている。
このライオン像は三越の池袋店にあったモノだそう。
そして、ライオンのアイデア自体はパクリ。コチラはロンドンの「トラファルガー広場」。
塔のテッペンに鎮座ましましたるはホレイショ・ネルソン提督。
1805年、「トラファルガーの海戦」でフランス・スペイン連合艦隊を駆逐したイギリス軍人の歴史の中で最も偉大とされる英雄だ。
そんな英雄には「百獣の王」が似合う…ということかどうかは知らんが、塔の下には4頭のライオンがガードを固めている。 こんな感じ。
奥に見えるのは「ナショナル・ギャラリー」。
ゴッホやらフェルメールやら世界の名画が展示してあって、入場無料で写真撮り放題。三越のライオン像はこのトラファルガー広場にあるこのライオンのコピーだそうです。
しかし…人間の記憶なんてホントにアテにならないもので、この像は三囲神社のライオンと同じくグレーかと思っていたら黒かったんだネェ。さて、三囲神社と2代目の清水喜助に話を戻す。
この三囲神社の拝殿を造ったのが喜助だった。
丁寧な仕事と喜助の働きぶりに三井の大番頭「三野村利左衛門(みのむらりざえもん)」が惚れこみ、三井関係の重要な建築物を任すようになる。
いつの時代も見ている人は見ているんだネェ。
そして三野村が公私にわたって懇意にしていた渋沢栄一を喜助に紹介する。
他にも大きな仕事をこなした清水さんのところはトントン拍子。2代目喜助が1881年に死去すると3代目の満之助(みつのすけ)が跡目を継ぐ。
この満之助もお婿さん。ハイ、場所を変えます。
ココも立派なお墓だ。コチラも清水。
こっちを「宗家の墓」としているんだね。その横にある墓石に「清水氏窀穸」とある。
ハイ、ココでクイズ。
この「窀穸」をナント読むでしょう?
……thinking time!……
私は読めませんでした。
「ちゅんせき」と読みます。
意味は「埋葬する」とか「墓穴」だそうです。
向かって左にある墓碑銘が「清水釘吉(ていきち)」。
清水建設の4代目だ。
元は「小野」という名字だったが上に出て来た満之助に婿入りして清水姓となった。
この清水家はズッとお婿さんなんだよ。
男の子が生まれなかったのか、優秀な後継ぎが出て来なかったのか…。
釘吉の場合は名前がウケたのかも?…だって「釘」だぜ!生まれた時から建築関係!墓石の傍らにある釘吉を称賛する顕彰碑。
読むとメチャクチャ褒めまくり。
書き手は第16代日銀総裁を務めた渋沢栄一の孫の「澁澤敬三」。
三野村利左衛門がつないだ渋沢家との関係が続いていたんだね。
ついでに書いておくと、敬三の奥さんの登喜子さんのお母さんは岩崎弥太郎の次女だって!
どうなってんだ?今度は三菱だ!
庶民の入り込むスキマ全くなし!
「お見それしました!」ってんでソロソロこの項も終わりにしようかな?と思った矢先に腰を抜かすほど驚くことを発見してしまった!この釘吉の長女の「文」さんは横浜の「守安瀧三郎」という人の子供の「守安瀧三」と結婚しているんだけど、この瀧三の義理の弟の子供、すなわち瀧三の甥っ子がジャズ・ピアニストの「守安祥太郎」だっていうんだよ!
釘吉とは全く血がつながっておらず、遠縁もいいところなんだけど、いきなり「守安祥太郎」という名前が出て来たのにはビックリ仰天!
「天才ピアニスト」の呼び声が高かった守安祥太郎は1950年代、ビバップを自家薬籠中のモノにした日本のモダン・ジャズの先駆者で秋吉敏子や渡辺貞夫の先輩に当たる人。 守安は音楽や生活の悩みからメンタルをヤラれてしまい、31歳の時に目黒駅で山手線に飛び込んで自らの命を絶った。
残念ながら残されているのは横浜の伊勢佐木町にあった「モカンボ」というクラブで1954年に開催されたセッションのライブ音源だけ。
私が学生の時にはこのアルバムを聴くことが出来なくて、守安祥太郎は「謎の天才ピアニスト」だった。
今聴くと、言ってしまえば「バド・パウエル・スタイルのバップ・ピアノ」ということになろうが、メチャクチャかっこいい。
このライブ、発起人のひとりがハナ肇で、植木等は受け付けを担当してチケットのモギリをやっていたとか…。 清水家も恐るべし!
イヤ、谷中墓地恐るべし!次に…岩田さんという家のお墓。
これは作家の「獅子文六」のお墓。
本名を「岩田豊雄」といった。
…と言っても私はよく知らないんだけどね。獅子文六といえば、『自由学校』っていうのが有名なのは知っているけど、ブックオフで見当たらなかったので、腰巻の惹句に惹かれて1962年の『コーヒーと恋愛』という作品を代りに読んでみた。
結果…少なくとも私にとっては「今年1番面白い小説」ではなかったナ。
自分にとってはとても不思議な味わいだった。獅子文六の小説を1955年に映画化した『青春怪談』という作品はオモシロかった。
コレ、日活と新東宝で同時に映画化して同じ日に封切ったという。
獅子文六はそれだけ人気のある作家だったのか…。
私が観たのは、市川崑監督、奥さんの和田夏十脚色の日活版。
準主役の轟夕起子のファンだから。下は黒澤明の初監督作『姿三四郎』で三四郎が見染めてしまう「小夜さん」を演じる轟さん。
轟さんは宝塚の娘役の出身で安室ちゃんが所属していた「沖縄アクターズスクール」の創設者である「マキノ正幸」のお母さん。
お気の毒に1967年に49歳の若さでお亡くなりになった。
後年、かなり太ってしまったが、コミカルな役回りがピッタリで、セリフ回しがモノスゴク上手な女優さんだった。
この人も宝塚時代に先輩からかなり悪辣なイジメを受けたことを告白している。演劇がらみで…
「澤田正二郎」は明治25年生まれの人気役者。
「新国劇」を創設した人。
出たよ…私は舞台を観ないので「新国劇」とか「新派」とか、ゼンゼンわからない。
テレビに古い俳優が出て来るとよく両親がその俳優を指して「この人は新劇か?」なんてよくやっていた。いい機会なので勉強してみた。
日本の芝居、つまり「国劇」というのは元来「歌舞伎」を指す。
歌舞伎は古来の芸能なので、「旧派」とか「旧劇」とされた。
明治時代に新しく発生した歌舞伎と一線を画した現代劇のことを、「旧派」に対して「新派」と呼び、その「新派」を含んだ「新しい劇」のことを「旧劇」に対して「新劇」と称した。
で、澤田正二郎が立ち上げた「新国劇」はそういったモノを越える「新しい日本の劇」として新派と新劇の中間を目指した…ということらしいんだけど、やっぱりよくわからんな。下が澤田正二郎。
ちなみに正二郎の劇団に「新国劇」と名付けたのは坪内逍遥だそうだ。
「新国劇」は今はもう存在しないが、過去の団員を見るとなかなか濃いですよ。
大河内傅次郎、石山健二郎(『天国と地獄』で「ボースン」を演じた人。演技がマズくて黒澤明に怒られっぱなしでメンタルをやられそうになったらしい)、石橋正次、大友柳太朗、緒形拳、五大路子、辰巳柳太郎、三好栄子、若林豪などなど。歌舞伎つながりで…コレは「七代目市川圓蔵」のお墓。
谷中墓地にはこうして歌舞伎役者の墓も少なくない。
と言っても、私は歌舞伎はゼンゼンわからないのでパスしがちです。さて、さくら通りを大分奥まで進んた左側。
バカでかい顕彰碑がそびえ立っている。
もしかしたらコレが谷中墓地で一番デカイかも…コレか近い将来ココで取り上げるであろう「井上達也」というお医者さんの顕彰碑だな。篆額(てんがく)には「大審院長玉乃君碑」とある。
「玉乃君」とは「玉乃征履(たまのよふみ/せいり)」のこと。コレを書いたのは「山田顕義(あきよし)伯爵」という長州出身の政治家。
このお方。
萩の明倫館を経て松下村塾に入門し吉田松陰の薫陶を受けた。
平たく言うと「日大」の創設者のひとり。碑にはガ~っと漢文で玉乃君の偉業が刻まれている。
この文章を書いたのは「三島毅」という人。
碑には「三島毅」とあるが、「三島中州(ちゅうしゅう)」というのが一般的な名前らしい。下が三島中州。
「昌平黌(幕府の学問所。今の湯島聖堂)」で学んだ漢学者。
平たく言えば「二松学舎」の創設者だ。そうしたお二方が顕彰碑に篆額や撰文を供した「玉野世履」とはこの人。
明治11年に上にもチラっと出て来た「大審院」の初代院長に就任した。
「大審院」というのは「最高裁判所」のこと。
今で言えば「最高裁判所長官」ということになる。
この人、裁判官として最高に清廉潔白で「明治の大岡越前」と呼ばれて称賛されたらしい。
ところが、この人も大審院長在任中にメンタルをやられて62歳の時に刃物を用いて自殺してしまった。コレが世履のお墓。
墓石も高さ5メートルは優に超すであろうもはやモニュメント状態。
明治5年、世履が大審院長になる前、出勤途上に「服部嘉平治」という男に襲われ、右肩を切りつけられたことがあった。
世履は「ポリス!ポリス!」と助けを求めた。
「ポリス」?…西洋かぶれなのか?
イヤ、世履は格好をつけて叫んだワケでもナンでもなかった。
フト思ったのだが、我々が不幸にしてナニか事件や事故に巻き込まれて警官を呼ぼうとした時、一体何て叫ぶだろう?
まさか「ケイカ~ン!ケイカ~ン!」とはやるまい。
きっと老若男女問わず「おまわりさ~ん!」って叫んじゃうよね。
世履が「ポリス」と叫んで助けを求めたのは、その時はまだ「おまわりさん」という言葉がなかったようなのだ。
明治7年、つまり世履の襲撃事件の2年後に日本で初めて「巡査制度」というものが導入され、そこから警察官のことを「おまわりさん」と呼ぶようになったのだそうだ。
だから、明治5年に発生したこの事件の時は世履が「ポリス!」と言語通りに呼んだのは至極当然のことだったのだ。
下は谷中墓地内にある派出所。 さて、服部嘉平治はかなりあくどい商売で複数回にわたり訴えられていて、2度ほど世履から有罪の判決を受けていた。
3度目の訴訟は「児島惟兼(これかた)」という人が審理を担当したが、その時もギルティ。
児島は滋賀の大津で「津田三蔵」という警官がロシアの皇太子「ニコライ二世」を襲った「大津事件」を裁いた辣腕だからして、どんなに服部が抗弁しても敵う相手ではなかった。
ところが服部は児島の裁定が世履の指図に寄るものと勝手に思い込み、世履に逆恨みして犯行に及んだのだ。
もちろんすぐに捕まって死刑。この期に及んで脱線つかまつる。
小伝馬町の囚獄で服部の死刑を執行したのは有名な最後の首切り浅右衛門「九代目山田浅右衛門吉亮(よしふさ)」。
服部は最後の最後まで怒りに満ち溢れ、「出て来い玉乃!貴様を殺すまではオレは死なんぞ!」と叫んで大騒ぎ。
浅右衛門に向かっては「貴様が山田浅右衛門か?オレを切るんじゃないぞ!オレを切ったらオマエのところに化けて出てやるからな!」と脅かして大暴れした。
吉亮はどうしたかと言うと、取り押さえていた係員に服部を放すように命じた。
それをいいことに逃げ出した服部の肩を峰打ち。
そして、悲鳴を上げて向かって来た服部の首を目がけて刀を水平に振ると、服部の首が胴体から離れ、勢いのついたその首が吉亮の頭をスレスレに飛び越して行ったという。
ホントかよ~?
これは綱淵謙錠の『斬(河出書房新社刊)』で読んだんだけど、コレが大変にオモシロかった。
話がドンドン脱線して行ってMarshall Blogみたいなの。下の写真がそれ。
井上先生の『手鎖心中』と並べたのは、この2作は1972年に同時に直木賞を受賞した作品だから。
選考委員の評価は『斬』の方が上だったらしい。
「手鎖心中」もとてもいいですよ。
若い時に読んで併載の「江戸の夕立ち」という中編の方がオモシロイと思ったが、読み直したら「手鎖心中」の方がヨカッタ。コレが九代目「山田浅右衛門」の吉亮。
もう何度もMarshall Blogに登場しているので今日はチョット違うことを書いてみよう。死刑執行人の「山田浅右衛門」は世襲ゆえ代々に渡って吉田松陰をはじめたくさんの歴史上の人物を切り落として来た。
このシリーズの最初の方でやった明治の毒婦と言われた「高橋お伝」の首は吉亮が落とした。上はお伝の辞世の歌碑。
以前にも紹介したことがあったけど、お伝のお墓は谷中ではなく、南千住の「回向院」にある。 さて、斬首について。
首を落とすところを「土壇場」と呼ぶのはご存知の通り。
だから「土壇場になってジタバタするな!」と言うんだネェ。
実際、上の服部みたいなことも多々あろうが、男の死刑囚は一旦覚悟を決めてしまうと比較的おとなしく首を差し出したらしい。
ところが女性はコワがって、怒ったり泣いたりして大変なことが多かったそうだ。「首を斬る」といっても闇雲に刀を振り下ろしても刃が骨に当たってしまえばキレイに斬れないことが少なくなかった。
そうしたトラブルを避けるために執行人は下のイラストにある第3頸椎と第4頸椎の間を目がけて刀を振り下したのだそうだ。
すごいテクニックである。
目標のポイントにうまく刃が立てばやられる方も楽にあの世に行けるというワケ。
ところが下手人がヘタに暴れたりすると、振り下ろした刀が頭蓋骨や肩に当たって大変な苦痛を与えてしまい、尚執行が難しくなったそうだ。
また、振り下ろした刀の角度が悪いと顎まで切り落としてしまうこともあったらしい。
ちなみに上で紹介した『斬』に三島由紀夫の介錯のことが記されているが、スゴイよ。 で、お伝は「毒婦」よろしく他の男の死刑囚が暴れたりすると「フン、男のクセにダラしのない!」と鼻で笑っていたが、イザ自分の番になると「愛人に会わせろ!」と泣いたり怒ったりで大騒ぎだったらしい。
また、女性は男性に比べて身体に脂肪分が多いので事後の刀の手入れに手がかかったそうだ。さて、話は世履に戻って…。
当時の日本はその斬首刑に代表されるように、欧米に比べると色々と残酷なことを公にしていたワケだが、拷問もそのひとつ。
当時の日本は証拠の有無を問わず、容疑者が「やりました」と自白して始めて刑が決まるシステムを基本的に採っていたので、ありとあらゆる拷問を使って被疑者に強引に自白させ、犯人に仕立て上げるのが普通のやり方だった。
その拷問のウチのひとつが下の「石抱き」。
よく時代劇に出て来るヤツ。
ギザギザの木板の上で正座させて石をガンガン載せていく。
コレは痛いぜ~。
私なんかタタミの上でも正座できませんからね。
しかもこの「抱き石」と呼ばれる石、タイプは色々あるんだろうけど、1枚50キロぐらいあるらしいよ。
足の骨なんか砕けちゃうでしょうに。
吉村先生の『長英逃亡』という小説の中に、逃亡を続ける高野長英を匿って逃がした友人が石抱きの拷問を受ける壮絶なシーンが出て来る。
あまりの苦痛に意識は失い、後には足が曲がってしまったそうだ。下は「ギュスターヴ・エミール・ボアソナード」というフランス人。
明治初期、海外との不平等条約を改善しようとする政府が採用した「お抱え外国人」のひとり。
ボアソナードは明治大学他で法律の教鞭を執っていて、学校に向かう途中にものすごい悲鳴を耳にした。
それは近くでこの石抱きの刑を執行しているところで、それを目にしたボアソナードはその野蛮さと残酷さに大きなショックを受ける。
そして、知り合いの玉野世履に「近代化を目指そうとしている国がそうした前時代的な残酷な振る舞いをしてはいけません!」と訴え、世履はその意見を受け入れ、以降「石抱きの刑」は廃止されたという。
そこでも「明治の大岡」である世履の正義感が働いたのだろう。以上にて「甲側奇数番地」、すなわち下の写真の道路の左側終了。
次回は右側の「甲側偶数番地」に移動します。<つづく>
(一部敬称略 2024年11月30日 三軒茶屋HEAVEN'S DOORにて撮影)