犬神サアカス團:生きてる奴は手を上げろ!<後編>~私の谷中墓地(その17)
明兄さんの生誕を祝う犬神サアカス團の単独公演『生きてる奴は手を上げろ!』のレポートの後編。
「カンフー」でガツンと盛り上がった後は「アメリカ」。
犬神サアカス團による米中代理戦争だ!
さぁ、どっちが盛り上がるかな?
曲はもちろん「ビバ!アメリカ」。
ABC!LSD!CIA!USA!
最近だとICE、MAGA、TACOあたりになろうか?
日本には人様の国のことを心配している余裕など全くないけれど、アメリカってホントどうなっていっちゃうんだろうね。
潔いワン・ピックアップのファイヤバードでスカッするソロを聴かせてくれたONOCHIN。
今日のMarshallは「JCM2000 DSL100」と「1960A」。
それに加えてエフェクト音用として「ORIGIN50C」を使用した。
さぁ中国とアメリカ、どっちが盛り上がったかな?
両方だ!
「みんな、次はMCだよ。
犬神のライブによく来ている子は『座り』に慣れたでしょ?
足腰の問題でもう他のライブには行かれないんじゃない?」
お客さんがイスに座ってライブを観ていたのは、今お越し頂いているお客さんが高校生の頃だった…という凶子姉さんの回想。
まだ「子犬っこさん」の頃だ。
ズッと忙しくて気がつかないでいたが、そうしたお客さんにはもうイスを用意した方が良いのではないか?上演時間は短い方が良いのではないか?…と考えるようになり、それでイスをいくつか用意するようになったという話。
イスねぇ…。
私が初めてライブハウスに行ったのは高校1年生の時…すなわち1978年のことだった。
場所は渋谷の「屋根裏」。よ~く覚えている。
あの頃は屋根裏もロフトも着席してショウを観るのが当たり前だった。
ホール・コンサートでは立ち上がる事すら厳しく禁止されていた良い時代だったよ。
だってエンターテインメントというのは種類の別を問わずユックリ着席して楽しむモノだから。
手を上げてグルグル回りたければ盆踊りへ行けばいい。
あの時代はロックもまだそういう「エンターテインメント」の範疇の中にあった。
だから「オマエら最後までイケるのかッ?」なんてことは絶対にやらなかった。
訊かなくたって最後までイクにキマってんだよ…高い入場料払ってんだから。
そして、どんなショウでも上演時間はアンコールを入れてだいたい2時間だった。
今みたいに3つも4つもバンドが出て来て1時間ずつ演奏するとか、2バンドが90分ずつ演奏するなんてことは絶対になかったよ。
長すぎッ!
「ツーマン」だの「スリーマン」なんてバカ丸出しの言葉もなかった。
インターネットなんてなかった時代、そして、ロック・ミュージシャンがテレビに出なかった時代、コピーバンドはライブハウスには出られず、みんな自分たちの音楽を創り出そうとしてしのぎを削っていた時代…例外もあるにはあったが、日本のライブハウスはレコードになっていないそこでしか聴くことのできない魅力的なロックをイスに座ってジックリと楽しむことができる有意義な空間だったのだ。
ココで凶子姉さんからひと言。
「兄さん、お誕生日おめでとうございます。
いつだったかね?…AKB48とかが流行ってた頃、48歳になったら同じ年のミュージシャンを集めて『ナントカ48やろうぜ!』とか言ってたんだよね。
44歳で44マグナムとか。
その頃は40代なんてすっごい大人だと思っていたけど、瞬きしていたらなっちゃたのね。
今思うと44って若かったね。
結局44マグナムもAKB48も忙しくてできなかったけど…そうしたらこうなっちゃたね」
「そうねぇ~。アッという間でしたよ」
凶子姉さんは、舗装された道よりも砂利道を好んで歩くような明兄さんの元気っぷりについて語り…
「もう私、兄さんのお母さんになるよ。
こっちとしてはホントに出来る限り長くドラムスを叩いて、たくさん曲を作ってもらって、犬神サアカス團を続けていきたい思っていますので…。
私に出来ることは全部やるから任せて!
これからもよろしくね!」
と締めくくった。
お2人さんは30年以上のお付き合いだから長いネェ。
大学を出て、就職して、家を出るような場合、お母さんと一緒にいられる時間は順当であれば22年。
この2人はその「お母さんと一緒にいる時間」より長い付き合いなんだから。
ココのMCのパートは文字お越しをする際に大分カットさせてもらったけど、そんな長い付き合いの2人だけが作り出せる感動的な空間が広がっていた。
「みんなそろそろ踊りたい?
今日はディスコの曲があるんだよ。
私たちっていったらディスコ・バンドだからさ!
ヨシ、みんな!今日はディスコに来たと思いな!」
と前置きして「愛の亡霊」。
ディスコ・ミュージックといえばベースの「♪ンペッ、ンペッ」。
敦くんがリードするグルーヴで…
Heaven's Doorがデスコに早変わりした!
明兄さんがNATALドラムスで叩き出す「♪ドコチチ、ドコチチ」のパターンがそのノリを継続させる。
明兄さん愛用のドラム・キットはNATAL(ナタール)。
素材はアッシュ。
「♪ホコリだらけの栄光の日々」…いつ聴いてもノリノリでカッコいい曲だ。
そんな曲にベスト・マッチするギター・ソロをお立ち台の上で奏でるONOCHIN。
ココで閑話休題的に…凶子姉さんが歌詞をガン見して歌っているのは1971年の欧陽菲菲のデビュー曲「雨の御堂筋」。
レッド・ツェッペリンが初めて日本にやって来た年のヒット曲。
今では「欧陽菲菲(オーヤンフイフイ)」なんて読める人も少ないのではなかろうか?
若い人はまず歯が立つまい。
この曲がヒットした時、私は小学校3年生で歌い出しの「こぬか雨」がどういうモノなのかわからなかったことを覚えている。
ね、やっぱり昔の歌謡曲ってスゴイね。
だってそうして同じ曲で大人から小学生までを楽しませていたんだよ。
昔の仕事で大阪に赴任していた時、梅田から本町までよく御堂筋を歩いて往ったり来たりしたけど、アレはスゴイ通りだよね。
アソコが南へ向かう一方通行になったのは1970年、昭和45年の万博の時だって。
上品に歌う凶子姉さんの欧陽菲菲もまたよき哉。
「まさかお誕生日のリクエスト曲が『雨の御堂筋』とはね!
なんでコノ曲を選んだんですか?」
「そうだね…色々迷ったんですけどやっぱ昭和歌謡がいいと思って。
自分のルーツもコノ時代の歌謡曲だと思います。
で、ゼヒ皆さんにも聴いてもらいたいと思って…。
これ作曲がベンチャーズなんですよね。
当時、渚ゆう子さんの『京都慕情』とか、『京都の恋』とか、『長崎慕情』もベンチャーズの作曲だった。
どの曲も土地にカラんでいて大阪では御堂筋を取り上げたんですね。
『二人の銀座』もベンチャーズですね」
「長崎慕情」なんて曲は知らなかった。
なるほど歌詞を見てみると「浦上」とか「オランダ坂」なんて地名が出て来ますな。
下が現在も残るオランダ坂。
1862年、この上に「英国聖公会会堂」という日本で最初の「教会」が建てられて多くの駐留外国人がこの坂を上り下りした。
その時代は中国人を除いて外国人のことを国の別を問わず全員「オランダさん」と呼んでいたため、そのような坂はすべて「オランダ坂」と呼ばれていたらしい。
つまりオランダ坂はココだけではなかったようだ。
有名な「浦上天主堂」。
大正3年に落成したオリジナルの天主堂はその31年後、すぐ近くに落とされた原爆で木っ端微塵になってしまった。
現在は遺構として爆心地他にオリジナルの天主堂の一部が保存されている。
浦上地区は江戸の昔、「隠れキリシタン」が多く住んでいたところで、江戸の末期「浦上四番崩れ」と称される大規模なキリスト教徒の摘発が行われた。
信者は全国各地に送られ、改宗をせまられて凄絶な拷問を受けた。
下はその拷問具のひとつ「三尺牢」。
この中に信者を何週間も押し込んで改宗を迫った。
幕府サイドは何日にもわたって小さい部屋に何十人も信者を押し込んでみたり、その他ココにはとても書けないような残酷なことして改宗を迫った。
遠藤周作は『女の一生』という連作を残しているが、その第一部『キクの場合』は純真な主人公キクとこの浦上四番崩れで津和野送りとなった恋人の「清吉」を題材にしている。
一方、第二部は太平洋戦争が舞台。
双方長崎を舞台にした悲しい純愛を描いた作品だ。
識字能力がある普通の感覚の人がコレを読めば、マァ泣くでしょうね。
私は恥ずかしながらこの歳にして読後に嗚咽を漏らしてしまった。
それぐらい感動します。
下は浦上天主堂の近くの「平和町商店街」の中にある「浦上キリシタン資料館」。
一見すると処方箋薬局みたいな佇まいだが、ココに昔の浦上地区のキリシタンに関するアイテムが展示されている。
ビックリしたのがこの写真。
浦上四番崩れで津和野へ送られ、生還した人たちの写真なのだ。
女性が圧倒的に多い。
『女の一生』はフィクションなので「清吉」の名前は見当たらなかったが、モデルになったような人がこの写真の中にいるのかも知れない。
それにしてもナンだってベンチャーズが「京都慕情」みたいなメロディを書くことができたんだろうナァ。
名前だけなんじゃね~の?
そこへ行くと、明兄さんが付け加えた「二人の銀座」ならわかる気はする。
1966年、100万枚売れたって。
「♪待ち合わせて歩く銀座…」
歌詞を付けたのは永六輔…下の写真にある元浅草の「最尊寺」の息子さんだ。
近代的な建物だがなかなか立派なお寺です。
翌1967年には同名の『二人の銀座』という映画が作られた。
倍賞千恵子のレコード大賞受賞曲の『下町の太陽』みたいに昔は「歌謡映画」といって、ヒット曲から映画を作ったものだった。
主演の「和泉雅子」が日比谷公園の電話ボックスにお姉さんから借りた楽譜を忘れて行ってしまう。
電話が空くのを待っていた学生がその楽譜を預かっておく。
その学生はバンドをやっていて、ダンスホールのハコバンをやりたいんだけどなかなか採用に漕ぎつけない。
しからば…と、イチかバチか電話ボックスで拾った楽譜の曲をブッツケで演奏してみる。
初見で完璧!メロディしか記載されていない楽譜なのにナゼかアレンジも完成しちゃってる。
するとこの曲が大人気になってしまうんだな。
もちろんその曲こそベンチャーズが作った「二人の銀座」というワケ。
時間のムダになることがわかっているのでこの先はとても観る気にはならなかったが、何しろ主演の和泉雅子がカワイイのナンのって!そこがポイントとの映画。ま、アイドル映画時代の「日活」だから。
しかもこの人は銀座の生まれだからね。
後年の山女の姿しか知らない人は、コレとか『おゆきさん』なんて映画を観てみるといい。
カワイイことこの上ないから!
イカン、イカン!
ココで脱線するつもりは全くなかったんだけど、明兄さんが「長崎」だの「二人の銀座」だのって言うからついつられてしまった!
さぁて、ショウも終盤。
ココはいつもの「ロンクンロール!」×「ロックンロール!」。
犬神サアカス團の大スタンダード・ナンバー「暗黒礼賛ロンクンロール」。
敦くんの地獄の底からの低音。
お立ち台の上で悪魔になりすましたかのようなギター・ソロ。
今日も完璧な暗黒礼賛ぶりだった!
矢継ぎ早にONOCHINのソリッドなギター・リフから…
「天誅」いってみよう!
そして、この日の本編を締めくくったのは「たからもの」。
ゴキゲン極まりないドライビング・チューン。
私はこの曲は歌詞も大好きでしてね。
シャッターを切りながらつい一緒に歌っちゃう。
こうして充実の明兄さんの生誕記念ライブの本編の幕を下ろした。
次回の犬神サアカス團の単独公演は2月22日の『堕天使のブルース』。
会場は今日と同じ…
2並びの2月22日。
『キャッチ22』ですな?
「丸の内東宝」か…昔、日劇の下にあった中規模の映画館だ。
何度行ったかわからない、好きな映画館のひとつだった。
『キャッチ22』というのは「CATCH-22」というアメリカの軍規のひとつで「狂った兵士は除隊することができる。しかし、自分で頭がおかしいと言う人間は頭がおかしくない証拠なので除隊することはできない」みたいな「堂々めぐり」を意味する時に使われる比喩表現。
アンコールはまずいつもの「かわいい音頭」から。
「かわいい団扇」を片手におマヌケな「Black Night」で「♪かわいい、あ、かわいい」と凶子姉さんがやる姿はいつ見ても愉快である。
「アンコールどうもありがとう!
さぁ~兄さん、アンコールがきました。
疲れたね…みんなも座って。疲れたでしょ?
今、ひと踊りしたからね」
「さぁ明兄さん!
セットリストはいつも兄さんが作るんですけど、ドラムスってやっぱり一番シンドイじゃないですか。
だから『コレはもうできないよオレは!』という曲があるんです。
でも結構な頻度でそういう曲がセットリストに入ってるよね。
今日のアンコールで演る2曲もそう。
『オレ、次はもう出来ない!一生この曲は出来ない!』っていつも言って帰るんだよ。
でも、次の時にはまた絶対選んで来る」
「もう脳内ホルモンが止まらないからね。
演っちゃうよ!演りたいね~!
連続でいこうよ!」
そうして「運命のカルマ」と…
「最後のアイドル」を2曲続けて演奏した!
ま、余裕、余裕!
「どうもありがとうございました。
明兄さん、おめでとう!
Heaven's Door 35周年おめでとう!」
明兄さん、これ以前のライブのMCで「今年還暦になるけど、誕生日のライブを還暦祝いのイベントにはしたくない」って言っていたの。
そしたらこの日のライブ中で一度も「還暦」という言葉を口にしなかった。
ロック・ミュージシャンとして見事な矜持をそこに感じましたよ。
犬神サアカス團にはいつまでも自分たちの音楽創り続け、それを記録し、公の場で演奏してくれることを願っている。
明兄さんはまず辛いモノには気をつけて欲しい。
おいしいのはわかるが、スリランカの人が作る「家系カレー」には要注意だ。
犬神サアカス團の詳しい情報はコチラ⇒犬神サアカス團公式ウェブサイト
☆☆☆私の谷中墓地(その16)☆☆☆
前回から引き続いて愛媛からスタート。
場所は替わって西予市の「卯之町」というところに来た。
寅さんぐらいしか知らないような古くて小さい町なんだけど、ココがエラく素敵なところだった。
古い町並みは見応えタップリだし、地元の子全員が観光客に向かってハキハキと挨拶をしてくれる。
住民もフレンドリーでとても気持ちが良い。
タマタマ通りがかった古民家のオバさんに「立派なお住まいですネェ」と話しかけると持ち前のフレンドリーさでこんな話を聞かせてくれた。
歴史的な町並みを保存するためにこの辺りの古民家は役所の許可なくしては建て直すことができない。
その代り建物を維持するための修繕工事に関しては役所から助成金のようなモノが出されるそうだ。
ところが、その助成金は家の裏を除いた正面と両脇の3面分の補修費用しか交付されず、決して満足のいくようなモノではないらしい。
通りがかりの私たちに向かって「役所のケチめッ!」と憤りをあらわにしていた。
こういう人はキマっていい人だよ。
同じ愛媛の八幡浜出身の「二宮敬作」はこの卯之町で町医者となり、おイネさんを呼び寄せた。
町の中ほどにある「松屋」という旅館。
もちろん牛丼もカレーも出て来ない。
それどころか表にこの宿に来た人たちの名前がズラリと掲示されていて、それに目をやると「マジかいな?」となっちゃう。
前島密、新渡戸稲造らが宿泊した他、後藤新平、犬養毅、浜口雄幸、若槻礼次郎等々…歴史の教科書状態。
一体ナンの用向きがあってこんな田舎町へ来ていたのであろうか?
卯之町にある敬作の墓。
ココには遺髪だけが葬られている。
卯之町には「宇和先哲記念館」というこんな立派な資料館がある。
この町が輩出した偉人を称える博物館だ。
当然敬作やおイネさんもフィーチュアされている。
この時、私が愛媛を訪れた一番の目的は敬作やおイネさん関してではなかったんだけどね。
それだけにこんな展示を目にすることができて大満足。
更に場所を替えて今度は宇和島。
おイネさんは下の「三角屋敷」と呼ばれていた場所に住んでいたこともあった。
写真の右の道路をしばらく行くと、そこには「大村益次郎」の住居跡がある。
それがコレ。
おイネさんは益次郎にオランダ語の手ほどきを受けていた。
そのせいで「益次郎とおイネさんがいい仲だった」とかいう話があるようだがそんなことは全くなかった。
だってこのアタマだぜ。
でも実際はこんなデカ頭ではなかったらしい…当たり前か。
コレは西郷隆盛の肖像画を描いた人の作品だったけか?
「脳ミソがたくさん入っているように見せるためにアタマを大きく描いてくれ」と益次郎自身がリクエストしたという話をどこかで読んだことがある。
結果、「頭がよさそう」どころか前人未踏のオモシロ肖像画になってしまった。
ま、彰義隊の敵の親分だからそれもよかろう。
益次郎は大変優秀な人でオランダ語のレベルもかなり高かったらしいが、それは読み書きに限っての話で、イザ発音となるとそのキテレツなサウンドに弟子も吹き出してしまったという。
ところが益次郎は一向に介さず。
なぜなら実際にオランダ人に会って直に話す機会などまずない…と思っていたから。
まだTeamsとかZoomとかなかったからね。
読み書きできればすべてよし…とキメ込んでいたのだ。
世代は移って…右の女性はおイネさんのお嬢さんの「高子」さん。
男性はご主人の「三瀬諸淵」。
お高さんの顔はテレビで目にしたことがある人が多いのでは?
そう、よく「『銀河鉄道999』の「メーテル」のモデルになった女性のひとり」として紹介されているから。
私は『男おいどん』とか松本零士のマンガがニガテなのでピンとこないのだが、どうなんだろう?
お高さんはシーボルトの孫娘だからドイツ人とのクォーターだ。
ホンモノはさぞかし可愛かったことでしょう。
それではお高さのお父さんは誰かいな?…やはりシーボルトの弟子だった岡山出身の「石井宗謙」という医者だった。
気の毒に、お高さんは望まれずして生まれて来た子で始めは「タダ」という名前だった。
この辺りをやり出すと本当にキリがなくなってしまうので今日は避けて通ることにする。
今度は同じ愛媛の大洲(おおず)に移動。
真野響子がマドンナに扮し、嵐寛寿郎が準主役で出演した1977年の『男はつらいよ/寅次郎と殿様』ではこの大洲が重要な舞台となった。
私はこの映画を観るまで「大洲」なんて場所があるなんて知らなかった。
木久ちゃんがよくモノマネをする、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川歌右衛門、大河内傅次郎、そして嵐寛寿郎…昭和の昔に大活躍した「時代劇五大スター」ね。
日本人なら名前だけでも覚えておいた方がいい。
私も知っているのは名前だけで、映画となるとさすがに古すぎてシンドい。
「アラカン」なんて気安く呼んでいるけど、嵐寛寿郎はそれほどの大スターだった。
映画の中で「藤堂高虎」の末裔かなんかに扮したアラカンが住んでいたお屋敷が下の写真。
もう映画そのままだったよ。
ココで働いている執事役の「三木のり平」が最高にオモシロかったね。
あんな雰囲気を創り出せるのはのり平以外にいないだろう。
その大洲のある「曹渓禅院」。
ココで本当に偶然に見つけたのが…
お高さんのご主人の「三瀬諸淵」の墓だった。
この人は日本で最初に電信の実験をした人で、シーボルトがらみで国禁を犯し、その廉で前回出て来た「赤井景韶」が入れられた「石川島監獄」に投獄されて大変な苦労した。
出獄した時には獄内の悲惨な生活で風貌がスッカリ変わっていまい、その元受刑者が自分の主人であることが高子さんにもにわかにはわからなかったらしい。
諸淵はシーボルトが再来日した際、同行した息子のアレクサンダーの家庭教師をしたという。
四国は以上。
谷中に戻ります。
あ~、「私の谷中墓地」史上最大の脱線だったね。
では谷中から「寅さん」つながりで「久松」さんのお墓を見てみよう。
「久松」というのは武家、華族の名字だからね。
ココに眠っているのは女優の「河内桃子(こうちももこ)」。
「入江たかこ」や「久我美子」と並んで日本映画界でもっとも家柄の良い女優のひとりだった。
河内さんは谷中が地元だったのだそうだ。
河内さんは1954年の『ゴジラ』でヒロイン役に抜擢されてたくさんの映画に出演した。
と言っても私は河内桃子が出ている映画には当たらないんだよナァ。
ようやくガツンと当たったのがコレ。
1987年、『男はつらいよ』の第38作目の『寅次郎物語』。
秋吉久美子」がマドンナだった。
タイトルはもちろん「下村湖人」の『次郎物語』のパロディでしょう。
ゲストで出演した河内さんは賢島の真珠の土産物屋の女将さんを演じていた。
河内さんのお父さんは画家、おジイちゃんは「大河内信敏」という元子爵で「理研グループ」の総帥だった。
「スタップ細胞はあります!」でスッタモンダした「小保方」さんが属していた「理化学研究所」の「理研」ね。
「わかめスープ」を販売している「理研ビタミン」も母体はその名が示す通り「理研」だ。
河内さんは昭和7年の生まれで身長が170cmもあった。
昭和20年代の日本の女性の平均身長は150cm前後だったというからかなりの「大女」だ。
ホラ、ゴジラと大して身長が変わらない。
現在の日本の女性の平均身長が158cmだというから、今なら河内さんの身長は179cmということになろうか。
で、その河内さんのおジイさんは桃子さんを「自分の恋人」として大いに見せびらかしたらしい。
明治11年生まれのおジイちゃんも180cmの大男だった。
今回は脱線が長くなっちゃって5基しか紹介しなかったので、乙3号エリアからもう1基ご登場頂くことにする。
「外山正一」さんという方の墓。
明治時代の社会学者であり教育者にして日本で最初の文学博士のひとり。
「羅馬字会」という団体を作って漢字や仮名の廃止を唱え、日本語のローマ字化を推進した。
ヤメとけよ。
ところが「日本の教育の向上」を訴え、そういう方面では幅広い活動をした人。
昔の東大の学長をしていた時、ある新入生に「キミはナンのために勉強するのかね?」と問うとその学生が「我、太平洋の架け橋とならん」と答えた。
今なら病院に連れて行かれて強い頭のクスリを処方されそうだが、この新入生こそ「新渡戸稲造」だったという。
ところでナゼでココにご登場願ったのかと言うと、この外山さん、日本で初めて天皇陛下に向かって「バンザイ!」を唱えた人なのだそうだ…もちろん連続3回でね。
明治22年(1889年)の「大日本帝国憲法」発布の記念式典での出来事だった。
外山さんは明治33年に亡くなられたので知るよしもないが、この「天皇陛下万歳!」が50年後にどういう局面で唱えられようとしていたか…この時は夢にも思わなかったであろう。
実際には「天皇陛下万歳!」ではなく「お母さん!」だったらしいが…。
また長崎に戻って…。
ココは長崎県の官庁が軒を連ねる「フロイス通り」。
フロイスというのは1563年に来日し、織田信長や豊臣秀吉に謁見したポルトガルのイエズス会の宣教師「ルイス・フロイス」のこと。
こないだやったばっかりなんだけど…このフロイス通りにある「長崎地方法務局」の入り口には坂本龍馬の奥さんの「お龍さん」が月琴を弾いている銅像が立っている。
ウチは坂本龍馬をやっていないので詳しくは書かないが、かつてココには海援隊等を支援した「小曽根」という豪商の邸宅があって、晩年のお龍さんが寄宿して月琴の弾き方を習っていたそうだ。
そして、このフロイス通りがあるエリアの町名を「万才町(まんざいまち)」という。
読み方は「バンザイ」ではないが、明治天皇が行幸された時にみんなで「バンザ~イ!」とやったのが町名の由来なのだそうだ。
外山の「万歳」がこんな西の果てまで伝播していたのだからスゴイ。
テレビはおろかラジオもない時代にどうやって「バンザ~イ!」を広めたんだろう?
そんなコッテコテの長崎の情報源は、郷土史研究家で家業の「青柳」という丸山の老舗料亭を営む「山口広助(=ヒロスケ)」さんの地元のテレビ番組から。
YouTubeに上がっているモノを片っ端から見て参考にさせてもらった。
ヒロスケさんは「長崎文献社」という地元の出版社から複数の書籍を上梓されていて、最近こんな可愛いヒロスケさん監修の本を手に入れた。
こうして何冊もの関連図書に目を通して徹底的に下調べをして長崎に赴く。
これが滅法楽しい。
「歩いて見て回ることができる」ということにかけては長崎はロンドンやマンハッタンに比肩する最高の観光地であり、食べ物のクォリティを考慮すればその2つを凌駕することができよう。
パリはわかんないな、行ったことがないから。
そうして昨年10月、3度目に訪れた長崎。
この時は最大で1日で35,000歩も歩いてしまった!ジイジのヒザはガクガクだった。
そんな折、街の中心にある「中通り商店街」という所を歩いていてビックリ。
山口広助さんに出くわしたのだ。
「東京から来た」ことに加え、ヒロスケさんのテレビをYouTubeで見て長崎の勉強をしている旨を伝えると、うれしそうに応対してくださった。
長崎のよき思い出のひとつになった。
<つづく>
(一部敬称略 2025年12月27日 三軒茶屋 Heaven's Doorにて撮影)